日本初の5扉電車でおなじみの京阪5000系第7編成は1980年に製造された。平日ラッシュは5扉、日中は3扉に変身して使われない扉は座席となって使用。同編成は2008年に5000系としては初めて新塗装化、7輌編成のため主に普通や準急として運用された。ところが京阪でもホームドアの導入が発表され、同編成は5000最終編成でありながら2017年6月30日付で5000系の編成単位としては最初に廃車となった。他の5000系6編成も2020年のホームドア使用開始前にすべて廃車の予定である。 '09.1.11 京阪電鉄京阪本線 伏見稲荷 P:中村和幸
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私鉄・電車の最近の記事
1927年モハニ153として誕生。1948年デハ1303となり59年車体新造、のち台車交換し近代的装いとなる。1969年デニ1303に改番1984廃車。写真は海老名に保管されていた時で、軌条が台車の部分にしかなく、まるで電車が下駄を履いたように見える。後、経堂教習所のデハ1406が左隣に同じように保管されました。どんな目的で長く留置されたのだろうか。デニ1303は1991年解体された。 海老名機械保線区 '86.11 P:高澤一昭
北総鉄道9000形は1984年の小室〜千葉ニュータウン中央間の開業に伴って導入され、登場当時は2000形を名乗っていた。6輌編成2本が導入され、1991年の高砂延伸及び都営浅草線方面への直通運転開始に伴い中間車2両が増結され8輌編成となった。直通運転先の京浜急行電鉄と形式が重複することから1994年より9000形に改番された。9000形は、春恒例のイベント「ほくそう春まつり」に合わせて運転されている臨時列車「ほくそう春まつり号」にも頻繁に使用されていた。2013年に9008編成が廃車となり、最後まで残っていた9018編成も2017年3月20日で営業運転から引退し、9000形は全車引退した。 '17.3.20 北総鉄道 印旛車両基地 P:福田智志
東京メトロ01系は1983年に銀座線に導入され、1984年1月から営業運転を開始した。当時銀座線は戦前から使用している古い車両が多く、従来の銀座線からイメージを大きく変えるデザインを採用し、イメージアップを図った。車内案内表示器の設置や高周波分巻チョッパ制御の採用など当時画期的な技術を搭載し、1985年に鉄道友の会からローレル賞を受賞した。1997年までに計38編成が導入され、長らく銀座線の主力車両として活躍してきたが、2012年に後継の新型車輌1000系が導入され、2013年に第31編成が最初の廃車となった。その後も1000系による置き換えが進み、第30編成が2017年3月12日のラストランイベントを最後に引退し、01系は全車引退した。銀座線から引退後、第35編成と第36編成は熊本電鉄に譲渡され、第1編成のうち3輌が中野車両基地に保存、また第29編成のカットモデルが地下鉄博物館に保存されている。 '17.3.12 東京メトロ 中野車両基地 P:福田智志
京成電鉄3500形は1972年に登場、京成電鉄では初めてとなるステンレス車体を採用、また京成の通勤車で初の冷房車であった。1982年までに4輌編成24本の計96輌が導入された。1996年から車体更新が始まり、2001年までに56輌が更新されたが、更新コストが高額となり、直接新型車輌に置き換える方が得策であると判断され、残りの40輌は未更新のまま活躍を続けていた。3000形が導入された2003年から未更新車の廃車が始まり、最後まで残っていた3588編成が2017年2月に開催された「さよなら3500形未更新車記念ツアー」を最後に廃車となり、3500形未更新車は全車引退した。 '17.2.25 京成電鉄 宗吾車両基地 P:福田智志
1957年に、チキ2形10号(1927年製)の車体を鋼体化して誕生。箱根登山鉄道で唯一の東洋工機製車体であった。製造当初、足回りはブラウンボベリー製のシュリーレン台車を使用していたが、1985年に東急車輛製TS330-Aに交換、カルダン駆動化された。また、2001年には室内更新が実施されている。老朽化ならびに新型アレグラ号3100形の増備に伴い、2017年2月12日のさよなら運転を最後に引退した。引退に先立って2016年9月から昭和20年代後半の塗装に復刻され、最後の活躍を見せた。引退後の数か月間は入生田検車区に留置されておりその姿を見ることができたが、2017年5月7日に廃車回送が実施され(写真)、その後強羅からトレーラーによって搬出された。 '17.5.7 箱根登山鉄道 入生田−箱根湯本 P:大橋史明
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東京メトロ01系は1983年に銀座線に導入され、1984年1月から営業運転を開始した。当時銀座線は戦前から使用している古い車輌が多く、従来の銀座線からイメージを大きく変えるデザインを採用し、イメージアップを図った。車内案内表示器の設置や高周波分巻チョッパ制御の採用など当時画期的な技術を搭載し、1985年に鉄道友の会からローレル賞を受賞した。1997年までに計38編成が導入され、長らく銀座線の主力車両として活躍してきたが、2012年に後継の新型車両1000系が導入され、2013年に第31編成が最初の廃車となった。その後も1000系による置き換えが進み、第30編成が2017年3月12日のラストランイベントを最後に引退し、01系は全車引退した。銀座線から引退後、第35編成と第36編成は熊本電鉄に譲渡され、第1編成のうち3輌が中野車両基地に保存、また第29編成のカットモデルが地下鉄博物館に保存されている。 '17.3.12 P:福田智志
元南海21001系21011Fの先頭車で、1996年に8輌導入されたうちの2両。元京王5000系の2100形に続く冷房車である。ワンマン化改造を受けて全線で運用されたが、老朽化のため、元東急電鉄1000系改造車導入に伴い整理対象となった。この3007Fは1003F「しまねっこ号」の運行開始後も車輌不足のため引き続き運行されたが、ほどなくして故障を起こし運用離脱、そのまま廃車解体された。 '15.5.5 一畑口 P:中村和幸
都営10-300R形は2005年に登場した都営新宿線の車輌、10-300形が全車新製であるのに対して、10-300R形は先頭車のみ新製し、中間車は比較的経年の浅い10-000形を組み込むことで導入コストの低減を図った。10-300R形は10-310〜360の計6本が登場し、10-000形や10-300形とともに都営新宿線及び京王線で活躍をしていたが、2015年度より廃車が始まり、最後まで運転していた10-330編成が2017年2月14日で営業運転から引退し、10-300R形は全車引退した。特に先頭車はわずか十年余で廃車という短命の車となった。 '17.2.5 京王相模原線 京王よみうりランド P:福田智志
1956年東洋工機車体新製、足回り等は再利用品。今迄にない欧風の車体、両開きドア、かわいいセミクロスシートなどのほかテープによる沿線観光案内も行われ、まさに観光地の電車でした。後Zパン、パンタグラフ化、車体更新し片開きドア、正面5枚窓化、'89に台車の交換が行われた。20形に機器を譲り2002年惜しまれながら廃車となった。 '61.5.3 鎌倉高校前ー峰ヶ原(信) P:高澤 一昭
1985年7月より運転を開始した"リゾート21"の2次車としてR-2編成が1986年7月に新製された。1次車同様一部機器と電動機を廃車となった100系から流用している。後に増備された3次車〜5次車とともに伊豆急行の看板列車として活躍した。塩害による車体の老朽化によりステンレス車体の8000系(元東急電鉄)に置き換え、2006年3月に1次車が引退、2009年5月に2次車R-2編成も引退した。尚、当初は1次車R-1編成〜4次車R-4編成がこの写真の海側赤色/山側青色の塗装であった。しかしR-1編成は一代目"黒船電車"、R-3編成は"リゾートドルフィン号"(2017年2月4日よりキンメダイをイメージした地域プロモーション電車)、R-4編成は二代目"黒船電車"と塗装変更されている。これに対しR-2編成は新製時から引退時まで終始オリジナル塗装を貫いたことが特筆される。'08.3.29 東海道本線 熱海 P:楢井勝行
埼玉新都市交通1000系は1983年12月の開業と同時に導入されたニューシャトルの初代車輌である。最初は4両編成で登場したがのちに 6輌編成化された。車体カラーは登場当時赤と白のツートンカラーだったが2000年にリニューアルした際に黄色と緑のツートンカラーに変更され た。6輌編成9本が導入されたが、2007年から2000系及び2020系の導入により廃車が進み、2016年6月26日に1017編成が引退し たことにより全車引退した。 '16.6.25 東宮原 P:福田智志
1954(昭和29)年と1955(昭和30)年に旧信濃鉄道(現・大糸線)の木造車体の社形(買収)国電を買い受け、モハ5260形5262および5263として入線した。5262は1500V仕様で傍陽線に、5263は別所線用として750Vと1500Vの複電圧仕様として配属された。1960(昭和35)年に老朽化した木造車体を更新するため、東急碑文谷工場で小田急電鉄クハ1651形電車の車体を換装し、モハ5370形5371および5372となった。換装工事に際しては、小田急から流用した車体を両運転台化のうえ、両端の客用扉を窓一つ分中央に寄せると共に、木造車であったために厚みのある台枠を隠すため、車体裾部を延長し、裾の長いスタイルとなった。改造後の2輌は別所線に集結し、定員の多いことから朝夕の混雑時に使用され、総括制御が可能であったため混雑時には制御車のクハ290形を連結して運用されたが、別所線の1500V昇圧となる前日の1986(昭和61)年9月30日まで運用されたのち、昇圧当日の10月1日付で廃車となった。 '83.3.30 中塩田 P:前 直也
国鉄から事故焼失車、モハ63056の払い下げを受け、1952年修復。1965年3010形に機器を譲り廃車。右側の築堤は貨物線(厚木線)である。複線は小田急線、広い田んぼは今、小田急の一大車輛基地に変貌した。 '61.11.12 海老名 P:髙澤一昭
国鉄から戦災焼失車、モハ60003の払い下げを受け、60と同じ車体を新製。パンは前位に移した。1965年3010形に機器を譲り廃車。写真は下り列車で社員を駅間、途中下車させるため停車している。ノンビリした時代だった。 '61.11.12 相模大塚-海老名 P:髙澤一昭
1961.11.12
地方私鉄の近代化に貢献した東急5000系。熊本電鉄にも先頭車6輌(1981年2両・1985年4両)が譲渡され主力車両として活躍した。このうち5輌は両運転台に改造されている。1995年より冷房車の6000形(元都営三田線6000系)に置き換えられ、上熊本−北熊本の折り返し運転用として5101A・5102Aの2輌が残った。写真は上熊本側が切妻運転台の5102A、その姿はまさに「平面ガエル」の愛称がピッタリであった。2015年3月、後継の01形(元東京メトロ銀座線01系)に置き換えられ廃車解体された。残る北熊本側が切妻運転台の5101Aも2016年2月に引退、この車輌基地で動態保存されることになった。 '10.2.13 北熊本駅構内車輌基地 P:楢井勝行
京成AE100形は1990年に2代目「スカイライナー」として登場した。最初の2編成は初代「スカイライナー」AE形の8輌編成化に伴う車輌不足を解消するために導入され、その後初代AE形を置き換えるために1993年までに7編成が導入された。将来の都営浅草線への直通運転を考慮し前面に貫通扉が設置され、京成電鉄では初めてとなるVVVFインバータ制御装置を採用した。2010年の成田スカイアクセス開業まで長らく「スカイライナー」及び「モーニングライナー」、「イブニングライナー」で活躍をしてきたが、成田スカイアクセス開業後は「スカイライナー」は全列車2代目AE形に交代、その後は「シティライナー」として活躍を続けてきたが、「シティライナー」の利用客が減少してきたことから「シティライナー」は順次減便し、AE100形の廃車が始まった。2015年12月のダイヤ改正で「シティライナー」の定期運用が廃止され、AE100形の定期運用が消滅した。その後2016年1月の土休日に成田山初詣に伴う多客に対応するために臨時「シティライナー」が運転され、運転終了後の動向が注目されたが、2月21日と28日に開
催された「さよならAE100形引退記念ツアー」を最後に全車引退、26年間の活躍に幕を閉じた。なおAE100形は西馬込車輌基地で開催された「都営フェスタ」で2回都営浅草線に入線したが、いずれも深夜の回送列車であり、結局営業列車で都営浅草線を走ることは一度もないまま引退した。 '15.2.28 京成電鉄 京成関屋〜堀切菖蒲園 P:福田智志
1939(昭和14)年大阪電気軌道(大軌)が投入した日本車輌製の制御電動車デボ1400形(1400〜1415)、制御車クボ1500形(1500〜1504)は、大軌の系列会社である参宮急行の高性能急行用電車2200形(新)と共通設計の、20m3扉の半鋼製ロングシート通勤車である。1944(昭和19)年、近畿日本鉄道となってからはモ1400形・ク1500形と形式名が変更された。1960年代になり片運転台に改造、そのさいに前照灯2灯化が行われている。1976(昭和51)年までに全車引退。モ1400形・ク1500形合わせて11輌が荷物用電動貨車に改造されたが1983(昭和58)年までに廃車となっている。 '71〜72頃 近畿日本鉄道 上本町 P:瀬戸正教
銚子電鉄デハ1000形は、元営団地下鉄2000形を改造した車輌で1996年に2輌導入された。デハ1001は元2046、デハ1002は元2040で、両運転台化改造、パンタグラフの取り付け改造を行なった。導入当時は従来車と同じ銚子電鉄オリジナル塗装で運転していた。2007年 に2両とも塗装が変更され、デハ1001は2012年5月までゲーム「桃太郎電鉄」20周年記念ラッピング電車として運転、一方デハ1002は 2011年9月までマンガ「鉄子の旅」の原作者考案の特別塗装として運転されていた。その後デハ1002は2011年11月から丸ノ内線カラー、 デハ1001は2012年8月から銀座線カラーとなり、懐かしい営団地下鉄時代のカラーが久しぶりに復活した。2010年に導入された2000形 とともに活躍を続けていたが、老朽化には勝てず、2015年1月にデハ1002が引退、2016年2月にデハ1001が引退し、元営団地下鉄2000形は全車営業運転から引退した。 '16.2.27 仲ノ町車庫 P:福田智志
北総7260形は2006年に京成電鉄からリースを受けて導入され、元3300形の3308編成と3316編成を連結した8輌編成で運転してい た。リースの際に北総鉄道のカラーに変更され、京成3300形の中でも最後まで残っていた。北総鉄道のみならず都営浅草線や京浜急行でも直通し、 京浜急行線内では快特として運転することもあった。北総鉄道で唯一の抵抗制御車であったと同時に現役時代、関東では最古の地下鉄乗り入れ車輌と なっていた。2015年2月28日に京成3300形が引退し、北総7260形も3月22日のさよなら運転を最後に引退、北総7260形の引退に よって京成電鉄から赤電と呼ばれた車輌はすべて引退した。 '15.3.22 京成電鉄 堀切菖蒲園-京成関屋 P:福田智志
300形(三菱製)は、1970年(昭和45)3月のモノレール開業時から使用された。2編成は後、中間車を新製し3輌編成なった。空中散歩のとき高速で、カーブに入ると、体が持ってゆかれ、独特の味わいがあった。500形導入により、1992(平成4)年7月までに廃車された。 湘南深沢 '72.1212 P:髙澤一昭
1968年、1947年三井造船玉野製作所製の京浜急行初代400形の車体を、西武所沢工場で両運化、ノーシル・ノーヘッダ化、正面および戸袋窓のHゴム化をし、手持ち部品を組み合わせて作成した下回りに載せられて製造された。総武流山電鉄では一番近代的な車輌であった。両運であるが、クハ50形と組んで運用されており、単行運転はされなかった。1979年以降、総武流山電鉄の車輌老朽化対策として西武鉄道初代501系を購入して導入されたクモハ1200形の登場により旅客運用から離脱し、晩年は京王帝都電鉄デハ1900形の台車に換装のうえ、流山駅構内の入換え車として使用され、1994年に廃車解体された。 '80.2.20 総武流山電鉄 流山―平和台 P:前 直也
草軽電鉄といえば、独特のL字型の電気機関車が名物でした。部分廃線になる2か月前に、友人と撮影にゆき、電車があるのに驚きました。
1941(昭和16)年5月、日本鉄道自動車工業製造。1966(昭和41)年廃線後、栃尾電鉄へ移籍した。下駄をはき、深く曲がったすり板のパンタグラフが目新しく感じた。 '60.2.21 草軽電鉄 鶴溜 P:髙澤一昭
1993(平成5)年、有楽町線07系と同仕様の千代田線の増備車として1編成登場した。デザインは07系と同じで、車内座席配置は同時期に竣工した東西線05系6次7次車と等しかった。電気系統の故障により、保守部品確保が難しくなり、2015年8月上旬に新木場車両基地へ自力回送され、07系利用可能部品を外した後、解体された。 '14.6.25 常磐線 松戸 P:田中健吉
1953年新潟鉄工所製の湘南窓タイプの20m級の気動車で、旧夕張鉄道のキハ251である。夕張鉄道廃止後の1976年に当時の関東鉄道鉾田線に入線し、分社化により鹿島鉄道となった同線の廃止まで働くこととなった。旧夕張鉄道車最後の生き残りとなっていた鹿島鉄道での晩年は、同社で唯一ワンマン改造されていなかった車両のために、平日朝一往復の通学列車とイ ベント的運用に限定されて使われていた。しかし鹿島鉄道廃線の日が近付くと名残を惜しむ多くの乗客を輸送するために、皮肉にも収容力の大きい同車の出番が多くなり、2007年3月31日の最終営業日もフル稼働して有終の美を飾った。 '02.8.17 石岡機関区 P:大沢敏文
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1969年12月〜1972年3月に総勢54輌製造された京成3300形、晩年は支線区にて運用された。写真は 京成高砂寄り 3320-3319-3342-3341 京成金町寄り の4輌編成である。寅さんラッピングを施され地域の足として活躍していた。この僅か1ヶ月半後の2013年2月15日、老朽化のため廃車となった。 '12.12.29 京成電鉄 金町線 柴又 P:楢井勝行
3000形は日比谷線開業用として1960年に製造、1961年3月28日 部分開業(南千住ー仲御徒町間3.7km)のため2輌編成でのデビューとなった。地下区間のトロリー線は剛体架線と呼ばれ、初めて見るものだった。最後は8輌編成となり1994年引退。写真は南千住着の車輌が仲御徒町行となるため、転線入換中。後ろの煙突の煙が今では懐かしく思われる。 '61.9.28 南千住 P:髙澤一昭
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現存する7700系では7901Fと並び数少ないSRアンテナの配管が露出していた編成だった2015年6月15日に恩田へ廃車回送され東急の線路上から去った。 '15.2.12 東急電鉄池上線 雪谷大塚-石川台 P:田中翔貴
1957年103、104を種車にし、連接車として誕生。75年から近代化改造が始まり、容姿が一変した。2007年引退。写真は改造前のポール集電の頃で、折返しのため運転士がポールを上げているところです。白色の円板は続行運転が行われていたため、続行列車の前後に表示し、通票も携帯する。先行列車は無表示。単独運転でも白色板は表示します。 '61.3.3 江ノ電 藤沢 P:髙澤一昭
1994年に廃止された野上電気鉄道で、最後まで活躍した車輌の1つ。1951年製造の富山地方鉄道5010形を、1975年に譲受した12m級小型車で、デ10形と称した。
11〜13号が存在したが、晩年まで活躍したのは11号及び13号であった。 '93.11.16 日方 P:中司純一
阪急の表示幕未改造車で、最後まで営業運転に就いた編成。晩年は4連で伊丹線で活躍し、2014年2月24日に廃車回送された。梅田寄先頭車は3077号ながら、電動車は3100系で、編成順序は、3077-3611-2076-3100。3076Fと3150Fとの間の複雑な編成替を経て構成された編成であった。 '14.1.3 阪急電鉄 伊丹線 稲野-塚口 P:中司純一
先輩格2000系の京都線版で、1960年から1967年にかけて製造された。1961年、2000系とともに、第1回ローレル賞を受賞している。晩年は7輌編成で、京都本線の準急・普通、千里線の普通運用に就いていたが、2015年3月22日、写真の2313Fによる記念列車の運転を最後に、2300系の現役車輌は消滅した。最後まで、本線の優等列車(準急)として運用されたことは、特筆に値しよう。 '15.3.22 阪急電鉄 正雀車庫 P:中司純一
上田温泉電軌(→上田電鉄→上田丸子電鉄→上田交通)が1928(昭和3)年新造した15m級3扉車で日本車輌製。デナ200形(201〜203)。1950(昭和25)年の改番で5250形となった。生涯通して別所線で使用され、楕円形の戸袋窓が改造されず最後まで残っていたことから、"丸窓電車"として親しまれた。廃車は1986(昭和56)年、それまでの700Vから1500Vに昇圧されたことによるもので、5253は長い間下之郷に放置されたままだったが、2005(平成17)年、長野計器丸子工場前に移転、整備された。 1984.9.23 上田交通 別所線 別所温泉 P:山下修司
1924年(大正13年)10月、浅草〜西新井間の電化時に日本車輌で製造されたデハ1形5号が前身です。営業運転引退後、長らく旧西新井工場で入換用として原型に近い状態で使用されました。現在は東武博物館で保存展示されています。 '78.9 東武鉄道 西新井工場 P:稲毛信夫
1984年7月〜10月に製造された 西武球場前寄り クハ3007 モハ3107+モハ3108 モハ3207+モハ3208 モハ3307+モハ3308 クハ3008 池袋寄り から成る3扉の8輌編成であり池袋線系統で活躍していた。2010年11月にモハ3207+モハ3208が廃車、6輌編成となり新宿線系統に転籍、主に国分寺線に活躍の場を移した。2014年11月下旬に運用を離脱、翌2014年12月中旬に近江鉄道に譲渡された。写真は堂々とした8連でありながら細々とローカル運用に付いていた3007編成の在りし日の姿である。 '09.5.13 西武鉄道 狭山線 西武球場前 P:楢井勝行
1983年の大宮―羽貫間開業に合わせて1000系として導入された車輌で、当初は4連、のちに内宿延伸と前後して6連化された。1998〜2001年にリニューアルされたが、2000系導入や老朽化などにより第11編成、第13編成に続き2012年12月26日をもって運用離脱、その後廃車。 '10.1.10 埼玉新都市交通伊奈線 鉄道博物館―加茂宮 P:中村和幸
1972年、茶屋町〜児島間の廃止にともない、単行ワンマン運転が可能な電車を、ということでクハ23を電装改造して1973年誕生した。元になったクハ23は1954年帝国車輌で新製されたもの。1001は日中の閑散な時間帯に使用され、通勤時間帯はモハ103+クハ24が運用についていた。1983年から落書き電車「赤いクレパス号」として運行、外装・内装とも落書きまみれの姿で1990年12月31日の廃止まで活躍。旧下津井駅跡に保存されている。 '76.3.24 琴海〜鷲羽山 P:山下修司
京急最後の片開き扉と一灯式前照灯が特徴の800形。811編成は1979年11月に 品川方 811-1 811-2 811-3 浦賀方 の3輌編成で製造された。1986年8月に中間車 811-3(二代目) 811-4 811-5 を増備、浦賀方先頭車 811-3 を 811-6 に改番し6輌編成となった。新1000形の増備により2014年8月運用より退いた。 '09.5.13 京浜急行 本線 京急川崎 P:楢井勝行
相模鉄道初の20m 4扉車輌で、全120輌が日立製作所製。屋根上はガーランド形ベンチレータが並ぶ。1997年5月までに全車運用を離脱、その後モハ6001は「かしわ台車両センター」に保存され、1997年には会社創立90周年に際し旧塗装に復刻されている。 '79.6.16 相模鉄道 西横浜ー平沼橋 P:中静政信
1967年に日立製作所で製造されたアルミニウム車体の試作車輌で6000系唯一の異端児。屋根上は他車輛と異なりグローブ形ベンチレータが並ぶ。廃車後は、同社のかしわ台車両センターにモハ6001と共に保存されている。 '79.6.16 相模鉄道 西横浜-平沼橋 P:中静政信
1971年日車製の18m級自社発注車で窓が大きくスマートな外観が特徴。5318、5319の2輌(福島交通では形式にかかわらず末尾を通し番号とするので、それまでにあった17輌の後の18、19があてられた)製造され、両運転台車ながらいつも2輌連結で運用されていた。台車はDT21同等ながら釣り掛け駆動。1991年、1500Vへの昇圧にともない栗原電鉄へ譲渡されたが、同鉄道の気動車化のため1995年廃車。 '80.6.17 福島 P:小西和之
東京地下鉄01系は、1983年に量産先行車が登場した車輌で、これまでの地下鉄の車輌とは異なる斬新なデザインにより、古臭いという従来の銀座線のイメージを一新した。最終的には38編成まで製造され、新たな銀座線の顔として活躍していたが、2代目1000系の導入による置き換えが始まり現在も廃車が進んでいる。画像の第31編成は、01系で初めて廃車された編成である。 '12.3.12 東京メトロ銀座線 新橋 P:厚木貴匡
1987年12月より小田急の新たなロマンスカーとして走り出した10000形HiSE車。10041 X 11 は1989年6月に増備されたHiSE車第3編成である。展望席は前席より50mm段差を設け、一般席は高床構造とした。抜群の眺望を誇ったがバリアフリー対応が困難なため、2005年8月に第2編成と第4編成が廃車、4輌編成に短縮のうえ長野電鉄に譲渡された。第1編成と第3編成はその後も運用されたが、第3編成は2011年6月に廃車、第1編成も2012年3月のダイヤ改正で引退した。 '08.5.25 小田急電鉄 小田原線 '08.5.25 P:楢井勝行
1941年に17輌製造された九州鉄道100形、車長15.6mの2扉車である。数回の改造・他系列からの組込みと一部の宮地岳線への転出により、1968年以降は Mc+M+Tc 5本が西鉄大牟田線系統で運用された。これらは1975年から1984年に廃車された。写真は夕刻の大宰府駅に停車するモ110+モ112+ク155。貝塚線開業90周年記念として2014年5月23日〜2015年1月24日に旧塗装で運行されその後廃車される予定の313形、その大先輩を修学旅行で大宰府天満宮を訪れた際に撮影していた。尚、手ブレと劣化したネガから修復・補正したため不鮮明な写りはご容赦願いたい。 '81.11.13 西日本鉄道 太宰府 P:楢井勝行
ク54として1928年製造された車長15mの木造車。1952年には100形に組込まれモ110+モ112+ク54となり大牟田線系統最後の営業用木造車として運用された。1960年、100形と同一の15.6m車体が新製されク155(2代目)に改番された。100形は1975年から廃車が始まり1984年に全廃となった。尚、初代ク155は1952年に中間電動車化されたモ112である。 '81.11.13 西鉄大宰府線 大宰府 P:楢井勝行
昭和6年100形の増備車として5 輌が作られたが、105号車のみ他車と形態が異なり全長は他車より若干短く、ドアは一枚引き戸で客室側に戸袋があった。またステップも他車とは異なり車体の外側にあったが、その後ステップは他車と同様に付け替えられた。ホームの嵩上げに伴い撤去され元の形態になった。昭和45年東急から600形が入線し、その後藤沢駅高架に伴い同車の出力増強のため、モーターを譲り休車になり昭和54年頃廃車された。 '48.5.5 江ノ島電鉄極楽寺車庫 P:田中健吉
西武鉄道3000系3003Fは、クハ3003+モハ3103+モハ3104+モハ3203+モハ3204+モハ3303+モハ3304+クハ3304からなる列車で1983年11月に東急車輛製作所で製造された。しかし3ドア8輌のため、通勤時間帯にはむいてなかった。30000系の置き替えのため、2013年10月6日、横瀬車両基地でのイベントへの臨時列車での運転を最後に引退した。 '13.10.6 西武池袋線 秋津-所沢 P:須永一暉
2000形はもと営団地下鉄・銀座線2000形の車体に日比谷線3000形の台車・電装品を組み合わせた車輌で、1991年から導入された。原型の片運転台2000形の他、他車の運転台を接合して両運転台とした3000形も導入されて雑多な旧型車をすべて置き換えた。2005年の路線廃止にともない全車廃車、譲渡車はない。写真は2003(Mc)+2214(Tc)。 '03.12.30 常北太田 P:小西和之
18200系あおぞらⅡの後継として12200系より改造された15200系あおぞらⅡ。モ15202(元モ12230)-サ15152(元サ12132) + モ15252(元モ12032)-ク15102(元ク12330) からなる15202F(PN02)は2005年末改造され明星検車区に配備された。あおぞらⅡ化された際、前面・側面行先表示器撤去と塗装を変更している。先頭車は1970年2月製造の元12230F2連で化粧版白色化や座席モケット薄紫化張替は行っているが荷物棚も網棚のままである。これに対し中間車は12232F4連化のため1975年12月新製、1996年月21000系に準じた内装に更新され12256Fに組み込まれ6連化されていた。モ15252の下枠交差型パンタグラフが特徴である。2014年3月、12248Fを改番した同じあおぞらⅡの15206F(PN06)に置換、廃車となった。 '10.4.28 近畿日本鉄道 山田線 松阪 P: 楢井勝行
1991年3月「あさぎり」SSE3000形置換と特急化のため登場したRSE20000形7輌編成2本、この第1編成の2階建て車輌である。2階席は両車とも1人掛け/2人掛け11列のスーパーシート(グリーン席)である。1階席は、4号車サハ20151は4人用セミコンパートメントが3区画、3号車サハ20251は1人掛け/2人掛け6列のレギュラーシートである。両車のデッキ周辺にはサービスコーナー・電話室・荷物置き場が設置されている。バリアフリー対応が困難なRSE車は2012年3月に運用離脱、廃車となった。尚、2013年11月、第2編成より Mc20002+T20052+Mc20302 が富士急行に譲渡、日本車輌にて改造された。2014年夏よりフジサンキャラ50山を纏った「新・フジサン特急」として活躍予定である。 '08.6.7 御殿場線 沼津 P:楢井勝行
流鉄2000系(2代目)なの花は、元西武701系で1966年に製造され1997年に総武流山電鉄(現・流鉄)に譲渡されました。クモハ2005+2006からなる当列車は、13年間活躍したのち2010年より西武鉄道から譲渡された元西武101系の5000系に置き換えのため、2013年4月28日に引退した。引退当日には、前面窓上部に「惜別」、車輌前面には「哀別なの花」と西武時代の「急行 奥武蔵」に似たヘッドマークが掲出された。5000系(3代目)なの花は、同年9月より営業運転を開始している。 '14.4.28 流鉄流山線 鰭ヶ崎-小金城跡 P:須永一暉
元京王2010系。1984〜85年にかけて3連6本が導入された。当初非冷房車だったが、のちに冷房化。当初はモハ820-サハ850-モハ810の3輌固定編成だったが、サハの高浜寄りを先頭化(京王5000系風)して2輌でも運用できるようになった。モハ810は増結車となり、連結面の貫通路が狭くなった。その後時代の流れからか、車内案内装置が取り付けられるも、元京王3000系の導入に伴い2010年までにすべて廃車。このうち4輌が銚子電鉄で再々起を果たしたが、残りの14輌は解体処分された。 '08.11.1 P:中村和幸
国鉄165系電車を改造し1987年10月にデビューしたジョイフルトレインPER(パノラマエクスプレスアルプス)、富士急行に譲渡され大胆な塗装に変更、2002年2月からフジサン特急(2001号編成と2002号編成)として活躍する。大月寄りが展望車の2002号編成は クロ2002(元クロ165-4・改造前クハ165-148)+モロ2102(元モロ164-804・改造前モハ164-846)+クモロ2202(元クモロ165-4・改造クモハ165-123) から成る。2014年夏登場予定の元小田急20000形改造車に置き換えられることとなり2014年2月に引退した。尚、2013年11月末よりRER塗装に復元されファンを喜ばせてくれた。 '08.3.29 富士急行 大月 P:楢井勝行
1964年1月新製、モ1615+ク1715から成る名古屋線用一般車1600系2連最終編成(増結車を除く)である。1600系が装備する台車は多岐にわたり、1次車1601F〜1605Fは短リンク式KD36台車、2次車1606F〜1609Fは短リンク式KD30台車、3次車1610F〜1613FはMc/長リンク式KD51B・Tc/短リンク式KD30Bであったが1614F・1615FはTcも長リンク式KD51Cとなった。写真のク1715からも長リンク式KD51Cの特徴が見て取れる。1983年3月冷房化と更新改造を受けた。1994年8月狭軌用台車・主電動機に履き替え、600系モ605+ク505となり養老線に転属した。しかし養老線での活躍期間は短く2001年6月に廃車となった。 '81.7 名古屋線 伊勢若松-千代崎 P:楢井勝行
現在『国鉄時代』はvol.1、vol.9〜21、vol.23〜25が品切れとなりました。他の巻も早めのご購入をお勧めいたします。電話でのご注文はブックサービス(株)0120-29-9625(フリーダイヤル)まで。
京伊特急増発のため1969年3月〜1972年9月に McTc K01〜K10の計10編成20輌が製造された。スナックカー12200系に準じた車体・車内設備を持つが車幅は2,590mmしかない。ク18500連結面は低屋根でパンダグラフ1基を装備する。1984年10月〜1987年12月、K01〜K08は更新改造された。しかしK09とK10は更新されず、1996年3月にK10は廃車、1997年にK09は団体専用車あおぞらⅡPK09に改造された。1999年8月〜2000年8月にK01〜K08が廃車となり2008年8月20日に12000系と共にさよなら運転を行った。時は流れ老朽化した団体専用車あおぞらⅡPK09も引退することとなり2013年9月特急色に復元、イベント列車に充当された。そして2013年11月30日、同系2度目のさよなら運転を行った。 '77.7 近鉄山田線 松阪 P:楢井勝行
京伊特急増発のため1969年〜1972年に McTc 計10編成が製造されたミニスナックカー。車幅2,590mmのため標準特急車に対しアコモは劣る。モ18400の運転台上部の低屋根にパンダグラフ1基を装備、連結面のパンダグラフは相方のク18500に設置している。モ18401〜モ18408はスナックコーナー付きで登場した。モ18409・モ18410はスナックコーナーなし、連結面に車販準備室を有する。1976年12月〜1977年3月にモ18404〜モ18408のスナックコーナーが撤去され跡地に8人分の座席を設置した。写真のモ18405もこのタイプである。後にモ18401〜モ18403のスナックコーナーも撤去され跡地の車販準備室化・乗降扉移設を行い定員を4人分増やした。団体専用車あおぞらⅡになったモ18409を除き1996年〜2000年に廃車された。モ18409は2013年11月に引退した。 '78.2 近鉄山田線 東松阪-櫛田 P:楢井勝行
1964年〜1967年に宝塚線用昇圧準備車として3100系が新製された。Tc-M-T-Mc+Tc-Mc の6連と Tc-M-T-Mc+Tc-M-Mc の7連で新製されるが、M車の増備及び他系列からのT車編入により全車 Tc-M-T-Mc+Tc-M-T-Mc の8連となる。1975年より冷房改造・M車ユニット化改造され Tc-M-T-Mc'+Tc-M-T-Mc' となった。1988年より、分割し Tc-M-T-Mc' の4連、T車を楢井勝行減車し Tc-M-Mc'+Tc-M-Mc' の6連となり支線運用に転じた。4連になった3158Fは箕面線で活躍したが2012年2月廃車された。 '09.3.28 阪急箕面線 石橋 P:楢井勝行
京成が主に砂利散布工事用として製造した電動貨車(モニ20形)と貨車(トキ20形)。モニ20形は旧車の走り装置・電装品を利用して1974年に大栄車輌で2輌製造した(現車には「大栄車輌・昭和49年」の楕円銘板と「京成電鉄・昭和48年」のペンキ書きが並んでいた)両運転台の電動貨車で、モニ21は成田側、モニ22は上野側運転台を大きくして作業員用控え室を設置、仕切り板を立てて貨物側に通路を設け、作業員が出入りできるようになっていた。トキ20形は国鉄トキ25000形の主要寸法をそのまま使っているが、モニ20とともに重量の大きい砂利用に妻板・側面アオリ戸ともに低くされていたので印象は大きく異なる。成田側からモニ21 + トキ21 + トキ22 +モニ22の4輌編成を組んでいたが日中はほとんど写真のように高砂検車区奥の砂利基地で休んでおり、鉄格子戸の隙間から見ることができた。吊り掛駆動の下回りや電装品の老朽化により2007年3月の運用を最後に廃車。 '06.9.30 高砂検車区 P:小西和之
新スナックカー12200系12221F以降は当初よりスナックコーナーなしで登場した。モ12226+ク12326 は1969年12月に製造された。1988年最高速度120km/h化、1988年3月更新改造(室内化粧板変更:木目調→白色、座席モケット張替え:ワインレッド→オレンジ、自動幕式前面行先表示器取付、ク12326の便所小窓化など)、1991年12月デッキ仕切りが取付られた。2006年に再度座席モケット張替え(オレンジ→薄紫)が行われたが他の車内設備に手が加えられる事が無く、通称「網棚スナック」と呼ばれこのタイプに乗車するとガッカリしたものである。明星検車区に所属、主に阪伊特急で活躍した。後年は写真のように車体断面が大きく異なる22000系を従え運用されることも多かった。老朽化により2012年5月廃車となった。 '11.11.28 近畿日本鉄道 山田線 東松阪-櫛田 P:楢井勝行
1997年10月しなの鉄道開業に伴い移籍した169系3本。S53編成は1968年9月製造、長野方 クハ169-20 モハ168-23 クモハ169-23 から成る。のちに入線したS54編成共々赤と銀のしなの鉄道色を纏い続けた。よってイベント列車へは2011年7月31日運転の169系12連快速や2013年4月のさよなら運転に充当された程度であった。2013年3月定期運用から離脱、S51編成が湘南色に復元され坂城駅で保存、S52編成クモハ169-6が軽井沢駅に保存、それに対しS53編成は2013年7月中旬長野総合車両センターに送られ廃車となった。 '10.12.17 しなの鉄道 戸倉-千曲 P:楢井勝行
'64年〜'68年に132両が製造された小田急初の大型通勤型車輌。2400形までの17m車基準から本格的な20m4扉両開扉車体と当時の旧国鉄通勤形車両の車体幅を100m/m拡大した広幅2900m/m車体となり、台枠上から裾部を絞込んだ形状となりこの後暫く小田急通勤形車両の基本スタイルの礎となった。性能も直流直巻電動機使用ながら補局補償巻線付により制動時に回生制動が可能となり地味ながら省エネ車の先駆けとなった。
三菱製ABFM制御、主電動機は130kWで各駅停車用としてMT比1:1を考慮した設計となり、従来と異なる12個モーター制御(1C6M)としたため端子電圧が500Vと低くなっていた。走り装置は小田急御得意のアルストムリンク式のダイレクトマウント式エアサス台車でM台車がFS360(910m/n)、T台車がFS060(760m/m)であった。製造当初はホーム有効制限から3M2Tで使用も'67年以降T車を増備し本来の3MTの6両編成となった。その後'72〜'81年に掛けて冷房化、'02年以降編成の一部が8輌固定化及びVVVF制御車化されるなどがあったが、'91年に災害による被災廃車が発生以降、新形式車の登場で順次交代、'04年に引退、廃車となった。 '87.10.25 小田原線 和泉多摩川-登戸 P:梶村昭仁
'69〜'77年に掛けて60輌が製造された形式であり、'69年以降、優等系列車(急行・準急系)列車の大型車輌により8両編成運転対応用に製造。基本的には17m車基準の2400形を20m車体に大型化したもので、性能的には2600形とは別に中高速域における性能向上を目指し、かつ収容力向上を併せ持つ形式で車体構造は2600形と同様ながら、時節柄旧運輸省制定のA-A基準化構造に準拠し、不燃・難燃性を強化させていた。制御装置はバーニヤ抵抗制御を用いた超多段式三菱製ABFMで、主抵抗器には国電車輌と同様のブロワー式強制通装置付きで8個モーター制御(1C8M)で制動性能は電空併用HSC-D方式。
主電動機は130kWの直流直巻式でWNカルダン方式。
製造が長期間にわたるためマイナーチェンジも多く、'71年登場の三次車から冷房搭載となり(CU12形:8500kcal/h×4)、未搭載の1、2次車も改造搭載された。その後の輸送力増強から10輌編成の4輌口として重宝され常に新宿方に組成され、急行を中心に運用されていたが、新形式車と順次交代となり、'12年3月までに運用離脱、廃車となった。 '87.10.25 小田原線 豪徳寺〜梅ヶ丘 P:梶村昭仁
2800系に代わり1976年に製造された阪急京都本線用特急車6300系の第4編成で Tc6353-M6803-M'6903-T6853-T6863-M6813-M'6913-Tc6453 から成る。車端に寄せられた両開き扉、ずらりと並んだ2連下降窓に転換クロスシート、クリームの屋根に前面ステンレス飾り帯、端整な姿で十三〜大宮を無停車で疾走した。両先頭車には大宮駅ドアカットを注意喚起する大きなステッカーが貼られている。JR西日本発足以降、新快速の攻勢により京都本線特急は停車駅が増え2扉の6300系は乗降に手間取りダイヤの乱れを招いた。2003年には3扉の9300系(扉間のみ転換クロスシート)が登場、特急を追われた6300系は2008年より引退が始まった。6353Fは中間車4輌を廃車し、嵐山線用 Tc6353-M6803-M'6903-Tc6453 となり本線から姿を消した。 '78.3 阪急電鉄 京都本線 大山崎-長岡天神 P:楢井勝行
'87〜'89年に11車体連接(9M2T)を4本44両が製造された小田急伝統の前面展望室構造のロマンスカーとして登場。また開業60周年を迎えるにあたっての次世代車両の発想のもとに開発され、前面展望スペース以外をハイデッカー構造としたの最大のモデルチェンジ゙で、前面以外でも車輌からの眺望を良くしたものとした。このためこのコンセプトを意味する愛称として、Hi-SEとした。車体色もイメージチェンジを狙いパールホワイト地にワインレッド系濃淡二色とし、従来車両もこれらに準じて塗り替えられた。また'88年度第31回鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞した。
性能は7000形同様で、東芝製電動カム軸式直並列指定制御、1C4M制御方式。主電動機は直流直巻式で出力140kWを採用。制動システムは全電気指令式MBS-Dを踏襲した。車内は背ズリ高さが50m/m高上した座席だが、回転式ながらノンリクライニングとなった。展望室付近の傾斜角度を48→37°と階上の運転台部分も前方に迫出した構造で前頭部が一体感のあるスピード感あるものとなった。
登場以来ロマンスカーの主力として活躍するも、'00年に国土交通省による交通バリアフリー法対応が困難な車体構造故、次代の特急車輌へ道を譲ることとなり'05年に二編成が廃車、長野電鉄に編成短縮の上譲渡。 残る編成も後進に道を譲り'12年3月一杯で引退、消滅。 '10.1.8 小田急読売ランド前-百合ヶ丘 P:梶村昭仁
'86年登場の旧型AL更新車。同時に本線系で登場の3300系と同様に3900系及び3850系の走り装置、電装品等を流用して製造されたが、車体形状については当時の瀬戸線用6600系に準じており、側面左右非対称形状で二段式アルミサッシ(上段下降、下段上昇式)が採用されているが天地寸法がやや拡大されたサイズとなり、時節柄、冷房装置も各車2台が搭載されていた。この時に2両編成(Mc+Tc)2本、4輌が登場。冷房搭載もあり補助電源装置は新製のGTOインバーターを搭載。後に登場する二次車とは形態が異なる試作的なスタイルであった。
暫くは本線系とは孤立していることもあり、順当な活躍をしていたが、走行機器が吊掛式による老朽化と保守の手間が掛るとことと、瀬戸線の第二次近代化による、6600系以来の新形式車投入により、'11年3月に4輌とも廃車。 '09.6.1 瀬戸線 喜多山-小幡 P:梶村昭仁
'59年から長きに亘り製造されて来た1000形の後期型または最終形態とも云うべき車輌がこの五次車。基本性能は当初から変らないものの旅客サービス上のマイナーチェンジが大きな変更点で、まずは新製時から冷房装置を搭載して登場。メーカーにより形式に相違があるものの、屋根上集中式で出力36,000kcal/hを1台搭載。台車はこの次車からTH1000型ダイレクトマウント式エアサス台車を採用。主電動機は登場初年度('71)製造車18輌以外、72年度製造車から90kWにパワーアップした。
最終的に'78年までのこの次車136輌が1000形として打ち止めとなった。番号形態は編成輌数に準拠して付番されていたため複雑になっており、8輌固定は1251〜、4輌固定('74年登場)は1301〜、6輌固定が1351〜となっていたが、'78年最終増備の8輌固定は1243〜1250という四次車と間の空番を埋める形となった。
細かい改良は年次で採用されるも基本形態は変わらずに都営直通乗入れ運用から線内普通運用までこなすオールマイティーさを変らずに発揮して活躍。後年は次世代車輌が登場する中で新形式に主力の座を渡して普通運用中心に細々と活躍、最終的に残っていた車輌が、'10年6月一杯で引退、事業用車輌代用で残っていた車輌も'11年2月までに廃車となり、京急の一時期を代表した形式も消滅した。 '09.9.14 京急本線 京急鶴見-花月園前 P:梶村昭仁
'78年に瀬戸線近代化として1500V昇圧化と、栄町への地下新線での乗入れの際、Mc+Tc2輌編成が6本製造された。車体は鋼製で18m級両開扉3ドアー車体で基本性能は本線系6000系と同様で、三菱製ABFM抵抗制御方式で直流直巻主電動機出力150kW。ただし当初は非冷房車輌で屋根上に外気導入式ラインデリアー換気式、側窓も独特の二段式ユニット窓を採用(上段下降下段固定式)、車内も当初は中央扉を挟んだ集団離反式固定横型座席であったが、'88年以降、縦型座席化改造。また'85、'89年に分け3編成ずつ7000系廃車車輌から流用(TAC-15T2:AU12S類似)で冷房改造が行われた。また前面床下部に大型排障器が装着されたのが6000系との相違点である意味特徴となっていた。瀬戸線近代化の立役者として活躍するも、新形式による車種統一化による新たな近代化により、'13年3月に引退、消滅。 '88.8.25 尾張瀬戸-瀬戸市役所前 P:梶村昭仁
'55年まで遡る小田急による御殿場線乗入れ特別優等列車のうち、'68年の御殿場線電化後に3000形SE車による電車連絡急行が運行されていたが、'91年3月改正から特急に格上げ、JR東海との相互乗入協定により登場した形式。従来のロマンンスカーとは一線を画したスタイルとなり2300形以来の全ボギー車(20m車体)による7輌固定編成、編成中間に2輌のダブルデッカー(二階部はスーパーシート=グリーン車)、10000形譲りの客室内がハイデッカー構造を採用。運転台は通常の床上式となったが客室より低い位置となる為前面眺望は抜群であった。性能は10000形と同様、抵抗制御方式で制動システムも全電気指令式MBS-D方式。また対JRとの保安装置切換マスコンにあるキー操作により自動的に切り換えられるシステムとなっていた。車体が20m級のボギー式のためとハイデッカー床構造もあり、空調は床下搭載が基本となり9000kcal/hのCU45形を4台搭載、ダブルデッカー車はCU45形を2台のほか屋根上に18,000kcal/hのCU702を1台、また運転台用として3000kcal/hのCU25を床下に搭載。主電動機出力が140kWにより、4M3Tの7輌編成となっておりJRの車輌(371系)より、T車の比率が大きくなっている。台車はアルストムリンク式の軸箱式エアサス台車(FS546、FS046)。「あさぎり」を中心に一部「はこね」等にも使用される等活躍するも、特急施策の方針転換と車輌老朽化と共に10000形同様、ハイデッカー構造が交通バリアフリー法に抵触することが問題となり、置換えが計画され、まず'11年3月改正で車内販売が廃止、翌年の'12年3月改正で、20余年続いた相互乗入れが廃止、小田急は新形式車輌による、'91年以前のSE車時代同様の御殿場までの片乗入に変更の上、引退。2編成製造されたうち、1本が廃車、1本は保留車となっている。 '10.4.26 小田原線 小田急読売ランド前-百合ヶ丘 P:梶村昭仁
戦時中に激増した工員輸送のため、1943年に日立で2輌(9、10)新造した14m級電車。この時代の小型電車としてはやや腰高なもののまとまった形態をしている。両エンドとも非貫通だったが、後に2輌とも片側だけ貫通化(この2輌で貫通編成を組むためか、逆エンドずつを貫通化)された。地下鉄用台車を流用したらしくイコライザに集電シュー取付台座をもっている。営団地下鉄から2000系を導入後も旧型車では最後まで残り、1997年廃車になった。 '90.7.9 大甕 P:小西和之
'79年に計画されていた京都市交通局地下鉄線(現在の烏丸線)との相互乗入対応用の先行試作車としてTc+M+Mc+Tcの4輌一編成が登場した。車体は近鉄車両として唯一無二のオールステンレス車体を採用。外観は'68年にやはり試験車として登場していた8000系(六次車)のアルミ車体同様、角ばったスタイルが特徴的だった。性能は回生ブレーキ付電機子チョッパー制御を採用、主電動機出力も直流直巻式で165kWと従来車輌よりパワーアップが図られた。また制動も電気指令式を採用し運転台機器も将来の新様式の見本的な位置付けが採用されていたが、実際に相互乗入仕様はVVVVFインバーター制御、アルミ車体となり完全な試作的な異端車となった。'91年以降他車併合可能なように制動、機器が8600系と同等となり同時に中間のMc車の運転台が撤去され事実上の4輌固定編成となった。京都線の普通運用を中心に2輌を増結して優等列車にも運用されていたが、'10年以降制御機器の不具合により不稼働状態となり、使用している電機子などの部品の入手困難で修繕不能となり、一系式小輌数の試作車輌とあって、'12年6月にひっそり廃車となった。 '08.12.7 京都線 近鉄向島-近鉄小倉 P:梶村昭仁
1964年〜1973年に製造された阪急京都本線用元特急車(McTMTc+McTMTc 7本)である。新製当初は2扉セミクロスシート(車端部ロングシート・扉間転換クロスシート)で京阪1900系と競い、京阪3000系登場により1971年からは冷房取付改造が行われた。後継となる6300系の配備により1976年〜1979年格下げ改造(3扉化・オールロングシート化)を受けた。写真は2815を先頭に8連で急行に活躍する姿である。後にT車を抜いて7連化、余剰となったT車は神戸線宝塚線他系列に組み込まれた。なお、京都線2305FにはM車2輌T車1輌が組み込まれた。1988年より廃車が始まり1995年には編成としての2800系は消滅した。他系列に組み込まれていた中間車も2001年には全て廃車となり2800系は系列消滅となった。 '78.3 阪急京都本線 大山崎-長岡天神 P:楢井勝行
1963年12月新製に新製された名古屋線用一般車1600系の3次車1611Fはモ1611+ク1711から成る。平坦区間で使用されるため抑速制動無しのVMC制御125kwx4台1M1T編成である。1977年当時はスカート無しであったが後に装備された。1982年3月冷房化と更新改造を受け、前面行先表示器と側面種別表示器が取付られた。尚、1600系1次車2次車は冷房化されずに廃車となった。しかし冷房化された1611Fも1980年代後期から登場したVVVF車2連の台頭により1996年6月廃車となった。 '77.8 近畿日本鉄道 山田線 松阪 P: 楢井勝行
飯山鉄道(現・JR飯山線)が昭和12年に日本車輌で製造したキハ100形ガソリンカーとして誕生した車輌である。昭和23年に上田丸子電鉄に譲渡され、同社のサハ40形サハ41となった。 当初は現在の別所線に配属されていたが、昭和36年に丸子線に転属し、翌37年には前後妻面に貫通路・貫通扉が新設され、現在の姿となったが、丸子線の廃線される昭和44年に再び別所線に転属した。 '81.12.6 上田交通 上田 P:前 直也
1963年4月から1965年9月にかけて製造された11400系の増結用Tcで12輌が在籍していた。自車用のMGとCPを搭載、しして10100系ビスタカーとの連結用(相手方はモ10300)にジャンパ栓を装備している。1969年5月にはMc-Mc'15ユニットに対し不足していた3輌の増結用Tcク11520(車体は12200系に類似)が増備された。この写真は Tc+Tc+Mc-Mc'+Mc-Mc' の6輌編成となっている。1980年7月から1982年7月に3輌固定編成化・車体更新改造を受け前面行先表示器の取付と連結面側乗降扉の撤去・客室化が行われた。その後老朽化のため後継22000系にその任を譲り1997年3月に廃形式となった。 '77.8 近畿日本鉄道山田線 松阪 P:楢井勝行
新幹線に多くの乗客を奪われた名阪ノンストップ特急を立て直すため、シートピッチ980mmのリクライニングシートや軽食を販売するスナックコーナーを設けた12000系2連10本が1967年12月に登場した。本形式で採用された、180kw電動機、カバー付き貫通扉、埋込式前照灯、一体配置の標識灯尾灯、などが近鉄特急の標準となり1988年アーバンライナーが登場するまで長らく装備された。パンダグラフは連結面1基だったが運転台側にも1基増設された。事故廃車の2本を除いた8本が1983年10月〜1985年7月に車体更新され休止していたスナックコーナーは車販基地となった。晩年は名伊乙特急で運用され2000年8月のさよなら運転を最後に引退した。尚、スナックコーナーのコンセプトは時を経て観光特急「しまかぜ」で復活した。 '77.11 近鉄山田線 宇治山田 P:楢井勝行
昔は大手私鉄でも荷物電車が活躍していた。東急東横線にも荷物電車が走っており、先日廃止された渋谷地上駅の桜木町寄りに、荷物電車専用の短いホームと引き込み線があった。戦後、木造荷電モニ13012を改造。1964(昭和39)年、デワ1366の車体を譲り受け鋼体化、両運転台への改装、中扉の拡張などの改造が加えられた。デワ3043の登場により廃車となった。 '78.5.10 東急東横線 代官山 P: 住吉 誠
1966年製造の営団地下鉄3000系 3075-3076 が1993年長野電鉄に転入、O6編成 モハ3526-モハ3536 となった。木島線や屋代線でワンマン運転を担当した。2002年3月末に木島線廃線、そして2012年3月末には屋代線も廃線となりO6編成も用途を失い廃車となった。尚、屋代線廃止が目前に迫った2011年12月にO6編成の赤帯・NAGADENマークが撤去され営団地下鉄日比谷線時代を彷彿させる「マッコウクジラ」が復活した。廃車後もそのままの姿で須坂駅に留置されている。 '10.4.4 長野電鉄 屋代線 信濃川田 '10.4.4 P:楢井勝行
旧ビスタカー10000系の電装品を流用し1971年6月、近鉄初の通勤冷房車2680系(モ2680偶+モ2680奇+ク2780)2本(2682F・2684F)が登場。4扉ながら全席固定クロスシート、ク2780はトイレを装備する。大阪線に所属し大阪と伊勢を結ぶ長距離急行で運用された。写真は2680系6連(2682F+2684F)の上本町発宇治山田行き快速急行、大きな行先表示板が懐かしい。後に前面行先表示幕を取付、1991年にはロングシート化され名古屋線に転じた。2002年8月、2682Fは廃車となった。しかし相方の2684Fは鮮魚列車に改造され現在でも活躍中である。 '78.3 近畿日本鉄道 山田線 松阪 P:楢井勝行
1966年11月と1967年12月に京都伊勢志摩直通用特急車 モ18200+ク18300 2連5本が登場した。建築限界が狭く600Vの橿原線に乗り入れるため、長さ18,640mm幅2,670mmの600V/1500V複電圧車となっている。主電動機は大出力180kWを初採用、後に近鉄特急車の標準となった。密度の高い電装走行機器廻りに対し車内設備はやや貧弱で座席はシートピッチ930mmの転換クロスシートであった。橿原線の建築限界が解消された1973年9月からは京都伊勢志摩直通特急に通常の特急車が進出、アコモの劣る18200系は1989年9月、団体専用車「あおぞらⅡ」4連2本・2連1本に改造、20100系「あおぞら」を置き換えた。2005年12月、12200系を改造した15200系にその任を譲り老朽化した18200系は廃車となった。 '78.3 近畿日本鉄道 山田線 松阪 P:楢井勝行
豊橋方 7019-7070-7751-7752-7069-7020 岐阜方 から成るパノラマカー6連である。1967年3月3次車として 7019-7070-7069-7020 4連で新製、1968年10月1次車から中間車 7159-7060 を組込み6連となる。1970年4月6次車に中間車 7159-7060 を譲り4連に戻る。1973年1月連結化工事、1977年2月M式自動連結器を取付、1990年8月7701Fから中間車 7751-7752 を組込み再度6連となる。2008年5月「名古屋本線東西直通60周年記念号 」に充当され注目を集めるも2008年6月末で運用を失い、逆さ富士の行先種別表示器が撤去された痛々しい姿で布袋駅側線に留置されていた。その後2008年9月に廃車となった。尚、現在では布袋駅も高架化工事のためすっかり様相が変化している。 '08.7.27 名古屋鉄道 犬山線 布袋 P:楢井勝行
03系に置き換えられた営団地下鉄日比谷線3000系39輌が1993年長野電鉄に移籍、3輌組成のL編成3本、2輌組成のN編成8本、2輌組成ワンマン対応のO編成6本となった(2輌は部品取り)。01編成は モハ3521-モハ3531 から成る非冷房車である。元は1963年製造の 営団3031-3032 で50年近い車齢を有したが2012年3月末、屋代線最終列車運行終了後に須坂駅に留置されていた2000系A編成を牽引し信濃川田駅に移動、共にそのまま保管された。写真は信州中野〜湯田中の区間列車を代走するO1編成。ぶら下げ式の行先表示や板張りのホームが地方私鉄らしい味わいを出していた。 '09.11.14 長野電鉄 長野線 信濃竹原 P:楢井勝行
1957年2月日本車輌にて特急車2000系第1編成「A編成」が製造された。セミモノコックの軽量車体・WN駆動・HSC-D・回転クロスシートなど最新鋭の技術が投入されている。1989年に冷房化、1999年に台車・制御機器を営団3000系の廃車発生品に交換、2007年2月に登場時のマルーン色に塗装変更された。長らく長野電鉄の看板列車として活躍したが、元小田急HiSEの1000系「ゆけむり」・元JR東日本N'EXの2100系「スノーモンキー」により余剰となり2011年3月運用から外れた。須坂駅構内に留置の後、2012年3月限りで廃線となった屋代線信濃川田駅跡に移され保管されている。 '11.1.22 長野電鉄 長野線 信濃竹原-夜間瀬 P:楢井勝行
豊橋方 7011-7162-7061-7012 岐阜方 からなる最後まで生き残った7000系パノラマカーである。1962年6月6連で登場、1984年8月中間車2輌が廃車され4連となる。1987年2月特急専用車として整備され白帯が巻かれた。1999年一般車に格下げ、白帯が無くなった。2008年7月、写真の7011Fに乗車し前面展望やベージュ/茶色ツートンの転換クロスシートと戸袋部のソファーのようなロングシートを楽しんだ。後に2008年10月、7011Fは再度白帯が巻かれる。2008年末に7000系の定期運行が終了、しかし7011Fのみ2009年8月末までイベント列車として運行され花道を飾った。 '08.7.27 名古屋鉄道 名古屋本線 須ヶ口 P:楢井勝行
近鉄特急最大勢力を誇り数々の編成バリエーションを持つ新スナックカー12200系。1969年12月製造の モ12222+ク12322 はスナックコーナーなしの2輌編成である。1988年最高速度120km/h化、1990年12月更新改造(室内化粧板変更:木目調→白色、座席モケット張替え:ワインレッド→オレンジ、自動幕式前面行先表示器取付など)を受けた。2006年に再度座席モケット張替え(オレンジ→薄紫)が行われたが、老朽化により2011年7月廃車解体された。写真は下枠交差型パンダグラフに交換された12200系4連を従え名伊乙特急の先頭に立つ12222Fである。各M車2基ずつ上げたパンダグラフが壮観であった。 '10.4.28 近畿日本鉄道 山田線 松阪 P:楢井勝行
1979年3月から運行が開始された近鉄では最初で最後となるステンレスカーで電算機号はSC。京都地下鉄烏丸線への乗り入れに対応すべく低発熱のサイリスタチョッパ制御を導入。これも近鉄では最初で最後の採用例となった。運転操作はデスクトップタイプの前後操作式2ハンドルで行ない、ブレーキ指令は常用制動が電気指令式、非常制動が制動管減圧式による。しかしながらブレーキシステムの互換性がないため1991年に在来各形式と共通のHSC-R電磁直通ブレーキに改造され、運転台も8600系と同様の構成に変更された。サイリスタチョッパ制御のデメリットである沿線地上設備の誘導障害の対応から奈良線には乗り入れできず、専ら京都線と橿原線・奈良線の大和西大寺〜奈良間・天理線に運用が限定されていた。結局コストパフォーマンスに貢献できず4両だけの製作にとどまり、ダイヤが限定されるなど運用やメンテナンスなど多くの制約があるため2012年に廃車解体された。車齢33年と関西の電車としては短命であった。 '10.6.19 近鉄橿原線 橿原神宮前 P:竹内喜和
1964年8月日本車輌にて特急車2000系第4編成「D編成」が製造された。先に登場した3本はコイルバネ台車であったがこの編成は空気バネ台車を履いている。1989年に冷房化、2007年8月には二代目の塗装である「りんご色」に復元されており人気を博した。元小田急HiSEの1000系「ゆけむり」・元JR東日本N'EXの2100系「スノーモンキー」の登場により活躍の場が狭まったが、2000系4本の中では最も最後まで現役に留まり2012年3月の屋代線廃止最終営業列車をもって引退した。2012年6月からは小布施駅構内の「ながでん電車のひろば」にて展示保存されている。 '10.12.16 長野電鉄長野線 善光寺下-本郷 P:楢井勝行
営団地下鉄東西線の5000系を置き換えるため1988年「05系」が登場した。001編成〜013編成はチョッパ制御・通常ドアの初期量産車、014編成はVVVF制御・ワイドドアの試作車、015編成〜018編成はチョッパ制御・ワイドドアの量産車、019編成〜024編成はVVVF制御・通常ドアの量産車である。025編成〜043編成はデザインが大きく変更され通称「05N系」と呼ばれている。写真の「05系」-011編成は4次車として1991年5月新製された。2010年5月より東西線の混雑緩和するためワイドドアの「15000系」13編成が投入された。これに伴い「05系」001編成〜013編成の初期量産車が2009年〜2011年にかけて運用を外れた。多くの編成は海外に譲渡されたが、011編成は、両先頭車2輌と中間車1輌は近畿車輌に送られ、残り中間車7輌は解体された。 '09.10.25 東葉高速鉄道 八千代中央 P:楢井勝行
1979(昭和54)年7月24日落成、アルナ車両製造。1994(平成6)年9月8日に冷房化改造を行う。谷町線で最後まで残ったステンレス車であったが、30000系32610Fの登場により2013(平成25)年3月1日運用離脱、後に解体された。 '13.2.18 大阪市交通局 谷町線 南森町 P:中司朔良
二代目1079-1080 として1978年3月製造、新造時より集中型クーラーを装備する。1000形としては最終年度増備車である。 2003年1月、新1000形増備に伴い車番を譲るため 1079-1080 → 1381-1382 へと改番した。その後中間車を他の編成に差し出し2輌編成となった 1329-1332 と連結され全て先頭車の「ブツ4」編成で運用された。2008年8月、他の編成より捻出された中間車 1352-1353 を組み込み 1381-1352-1353-1382 の4輌貫通固定編成となり特殊な「ブツ4」編成は解消された。晩年は主に大師線で運用されたが、2009年6月引退。惜しまれながら2011年2月解体された。 '09.5.13 大師線 産業道路 P:楢井勝行
1329-1330-1331-1332 の4輌編成で1976年8月製造、新造時より集中型クーラーを装備する。1995年中間車 1330-1331 を他の編成に差し出し 1329-1332 の2輌編成となる。同じく2輌編成 1381-1382 と連結され全て先頭車の4輌編成で運用された。 2008年8月、他の編成より捻出された中間車を組み込み 1329-1354-1359-1332 と再度4輌編成となった。晩年は主に大師線で活躍したが老朽化に伴い2009年引退した。 '09.5.13 大師線 産業道路 P:楢井勝行
小田急新宿-御殿場を結ぶ連絡急行「あさぎり」SSE車3000形を置き換えるため、1991年3月にRSE車20000形2編成が登場、JR東海371系1編成と共に小田急新宿〜沼津を結ぶ特急「あさぎり」に投入された。ハイデッカー普通車5輌、2階1-2配列のスーパーシート(グリーン席)/1階セミコンパートメント普通席のダブルデッカー2輌、から成る7輌編成である。「あさぎり」以外にも「はこね」「あじがら」「ホームウェイ」、また371系の代走等八面六臂の活躍をした。バブル期の設計であるため車内設備や車窓からの眺望は優れていたが、ハイデッカーがゆえにバリアフリーに対応出来なかった。そのため「あさぎり」は2012年3月、運転区間を小田急新宿〜御殿場に短縮、小田急MSE車60000形6輌編成に置き換えられ、RSE車20000形は引退した。なお、371系はJR東海内の臨時列車などに転用されている。 '08.6.7 沼津 P:楢井勝行
1329-1330-1331-1332 の4輌編成で1976年8月製造、新造時より集中型クーラーを装備する。1995年中間車 1330-1331 を他の編成に差し出し 1329-1332 の2輌編成となる。同じく2輌編成 1381-1382 と連結され全て先頭車の4輌編成で運用された。 2008年8月、他の編成より捻出された中間車を組み込み 1329-1354-1359-1332 と再度4輌編成となった。晩年は主に大師線で活躍したが老朽化に伴い2009年引退した。 '09.5.13 京浜急行大師線 産業道路 P: 楢井勝行
1979(昭和54)年に従来型の100系電車の車体を新品に載せ換え登場。車体はスコールカーを改造したサハ191号車にならい、一段下降式の連窓や転換式のクロスシートを採用。当時は普通車かつ冷房車ということで夏場を中心に好評を得た。昭和58年に2輌が追加されたが、その後の新車はリゾート21へと移行したためこの系列はわずか4輌のレアな存在でもあった。塩害による車体の腐食が早く2002年に廃車。 '90.2 伊東 P:竹内喜和
阪急電鉄の運行標識板車。映画「阪急電車 片道15分の奇跡」で撮影に使われ作品で登場して目にした方も多いはず。今では絶滅寸前の貴重品なものの、この時代の今津線では運行標識板車使用車がまだウジャウジャいた。写真は阪神競馬場で競馬開催のために臨時運行された仁川ー西宮北口の運行標識板を掲げた区間運転車。しかしまさかこの車輌が後に映画の名脇役的な存在となり、今津線で最後の運行標識板車使用車になるとは思いもよらなかった。 '07.6.24 阪急電鉄今津線 西宮北口 P:中川健成
日本で初めて鉄道車輌でグッドデザイン賞を受賞。現在でも同車は現役であるが、現在は近鉄けいはんな線(旧:東大阪線)の延伸開業のため増備された7020系が登場したために仕様を7020系にあわせて行先表示幕のLDE化などが行われて外観が若干変わっているが、撮影当時は改造工事を行っている最中で写真の車輌は原形のままである。この時は不発弾処理の関係で中央線の一部区間が運休となり生駒ー森ノ宮での区間運転の列車が運転された。近鉄7000系では非常に珍しい「森ノ宮」の行先表示幕を掲示している姿である。 '05.5.3 大阪市営地下鉄中央線 緑橋 P:中川健成
高校のころ通学に乗っていた南海上町線のモ101形です。ツーというホイッスルと足踏みベルを併用してまだ煉瓦舗装の残っていた阿倍野筋をBrill77E1を軋ませて堂々と走っていました。下部の救命ネットは現在の地下鉄に着けれは人身事故の救命率があがるのでは? 車内の天井を走っている紐を引っ張ると運転手に降車を知らせてくれました。中央扉は発車時外からガチャンと鍵がかかったので未だ手動だったのでしょうか? 車体外板の羽目板や窓の鎧戸、車内天井の太い梁とモニターから漏れる外光は、夜間のシャンデリア風白熱灯とともに佳き時代の風情でした。 '61年夏頃 大阪市阿倍野区姫松 P: 飯田 勝
1963年4月から1965年9月にかけて製造された11400系は全て先頭車であり前面に大型電照式特急表示器が取り付けられていた。(1969年5月増備のク11520は除く)増結・開放作業を頻繁に行う近鉄特急においては作業に手間が掛かっていた。1977年より一部の車輌に作業の省力化を狙い貫通扉に直付けの小型電照式特急表示器に改造された。前面の塗り分けはそのままであったため紺色の部分が目立ち間の抜けた表情となりファンをがっかりさせた。この改造が全車輌に施工される前の1980年4月から車体更新が始まり幕式行先表示器に改造された。そのため非常に少数の車輌が短期間この表情であった。評判の良くない車輌を撮った写真だが今となっては貴重な一枚となった。車体更新後も11400系は活躍したが1997年3月に全廃された。尚、南大阪線特急車16000系に対しても同様の改造が行われた。前面の塗り分けが異なる(正面下部まで紺色が回り込まない)ため違和感もなく、現存する車輌でその姿を確認出来る。 '77.8 近鉄山田線 松阪 P:楢井勝行
1993年に在来車の置き換え用として営団地下鉄日比谷線の3000系「マッコウクジラ」を譲り受けた車両。このL3編成は営団時代に3067号、3527号、3068号を名乗っていた車輌で、こちらも東武直通対応編成であった。2001年に冷房化改造が施工されたが、老朽化や運用見直しなどの理由によって廃車となった。 '02.8.9 長野電鉄長野線 善光寺下 P:厚木貴匡
飯田線本長篠駅から分かれていた田口線の開業に用意された昭和4年日本車両製の車輌で、当初はモハ101・102と称していた。形態的は豊川鉄道の増備車モハ30形と同型で、その後田口鉄道のモハ101・102は豊川鉄道の続番としてモ36・37に改番された。ただ田口鉄道の車両同士を連結した際、非常時に行き来ができるように、分からない程度ではあるが、貫通扉が設けてあった。昭和43年田口線廃止後は渥美線へ転じ、同線のモ1711・1712となった、両運転台を生かし、増結用に重宝されたが、1712は昭和62年に、1711は昭和63年のお別れ運転最後に現役を引退、暫くは高師駅構内に留置されていたが、平成4年正式に廃車された。 '85年頃 豊橋鉄道高師駅構内 P:田中健吉
1963年4月から1965年9月にかけて Tcク11500+Mcモ11400(奇)-Mc'モ11400(偶) 計42輌が新製された。(ク11500は12輌のみ)10100系や10400系(改造前)は125kWモーターで出力不足気味であったため本形式は145kWモーターに増強された。先頭車前面窓が助手席側も運転席側と同じ大きさになり大型電照式特急表示器と相俟って精悍な顔つきで人気を博した。1969年5月には不足するTcを増備した。既に12200系が登場していたため車体造作をク12300に準じリクライニングシート装備のク11520が3輌新製された。標準軌各路線にてノンストップ特急・甲特急・乙特急などに幅広く活躍した。後続の特急車輌に対し接客設備の見劣りが目立ってきたため1980年4月〜1982年12月に車体更新された。後継のACE22000系の登場に伴い1993年5月〜1997年3月に廃車された。 '78.3 近鉄山田線 松阪 P:楢井勝行
吊掛駆動自動方式の820形850形といった特急車を置き換えるべく製造された、山陽電鉄初の19m級高性能電車である。主として特急に充当することを目的としていたが、それと同時に次世代車輌のモデル的な役割も担っており、その形態は製造時によって大きく異なる。2000系はタイプⅠから、タイプⅥまであり、この2009はタイプⅡになるのだが、前面はタイプIと同一だが、前面窓は最後まで原形を保っていた2008・2009を含め、寸法は殆ど変更されずに終わっている。機器類の構成も基本的にタイプIと同一だが、主電動機は川崎製と同等の性能を備える三菱電機MB-3037-Aへ、制御器も改良型のKMC-102へ変更されている。また、台車はOK-15の実績を基に小改良したOK-15Aとなった。後に、2000系の機器・部品は現在の3000系に流用されている。 '78年 山陽電鉄本線 須磨 P:松本卓彦
1954(昭和29)年、東横線に高抗張力鋼による軽量車体、カルダン駆動の採用、正面2枚窓の湘南スタイルで登場した新性能電車で、合計105輌が製造された。1970年代に入ると6000系や7000系のステンレスカーが導入されると、田園都市線、大井町線、目蒲線へと転属して行った。1977年になると長野電鉄への譲渡を始めとして他鉄道へ譲渡が進んだ。その中でも1983年に上田交通に譲渡された5358・5371は旧型車と連結を前提とした工法簡略化改造で、他の先頭車改造車と異なり、切妻のまま運転台を取付た。乗務員用ドアはなく、代わりに小窓が設けられ、全面窓はJR103系同様上部を内側に傾斜させた3枚窓になった。上田交通では主に5250形と連結されていたが、1986年の架線昇圧のため、わずか3年で同じ形式の5000系に置き換えられ廃車された。(写真は上田交通譲渡前の最後の点検をする同車) '83年 東急長津田車庫 P:田中健吉
1993年に在来車の置き換え用として営団地下鉄日比谷線の3000系「マッコウクジラ」を譲り受けた車両。このN5編成は営団時代に3061号と3062号を名乗っていた車輌で、東武線直通対応編成であった。2001年に冷房化が施工されたが、2012年の屋代線廃止に伴う運用見直しなどの関係により廃車となった。 '12.3.6 長野電鉄長野線小布施 P:厚木貴匡
写真の3058Fは今津線最後の非表示幕編成であり、貴重な存在であった。映画「阪急電車 片道15分の奇跡」でも活躍したが、9000系9004Fの登場により2011年9月10日に営業運転を終了し、同年9月23日に廃車となった。 '11.4.25 P:中司朔良
東京オリンピックを目前に控えた1964(昭和39)年7月、東急7000系の中間車(旧番号7142)として登場した。東急では6連+2連の8輌編成の6連側の中間車とし東横線で活躍後、平成元年11月弘南鉄道に譲渡され弘南線に配属された、不運にも8年後の平成9年8月に発生した館田駅での正面衝突で休車、平成11年6月正式に廃車された。 弘南鉄道 平賀車庫 P:田中健吉
1100系は、西武鉄道の701系を譲り受けた車両で89年、90年にわたって3編成が駿豆線に導入された。本系列が導入されたことにより、駿豆線の冷房車比率は66.7%に向上した。しかし、全編成が車齢40年を超え老朽化が目立ってきたことにより、09年から1300系に順次置き換えられ、予備車として最後まで残された第一編成も12年6月13日の運行を最後に引退した。 '12.5.4 伊豆箱根鉄道駿豆線 三島二日町 P:崎山喜一朗
阪急京都線の標準車2300系として1960年に登場、以来幾多の改造を経て7連は本線系、4連は嵐山線で活躍してきた。写真の2309Fは最後まで残った非表示幕編成であり、オリジナルの前面を保つ貴重な存在であった。2009年4月、4連化された6300系に置き換えられ廃車となった。 '09.3.28 阪急電鉄嵐山線 桂 P:楢井勝行
屋根が深い、いわゆる川造型タイプの昭和4年日本車輛で、豊川鉄道のモハ30形31として誕生した。その後国鉄に買収され、宇部線、福塩線を経て、国鉄形式1610となり、昭和31年頃廃車され、豊川分工場で更新の上、豊橋鉄道田口線へ払い下げられ、田口線の同型車モ36・モ37の続番としてモ38となった。田口線の経営が思わしくなく、昭和41年頃降圧の上、渥美線に転じ同線のモ1713となり、片運化されク2311と編成を組んだ。いつ頃からかは分からないが台車は川崎のK3を履いている。昭和61年頃編成ごと廃車された。 '62年 豊橋鉄道 高師 P:田中健吉
開業に際し、1927年に1 - 30の一挙30輌が10ずつ3社で製造された路面電車で、この12は田中車輌製。路面電車ながら車体にはステップがなく、ドアに連動する折りたたみステップをもっていて、この方式は後の71形等の「金魚鉢」まで受け継がれた。ごく初期の鋼製車なので窓枠の上部にRがつけてある等、木造車のプラクティスを残している。30kW x 2と非力で高速・長時間運用の多い国道線では力不足だったため、晩年は北大阪線が主な活躍の場だった。軌道線の輸送減にともない徐々に廃車が進み、この12は1967年廃車、1形は1974年に形式消滅した。 '64.7 中津 P:小西和之
戦後間もなく小田急に割り当てられた国鉄63形がルーツで、小田急では1800形となった車輌である。50年代末の大幅な更新工事により近代的な外観になった他、台車も枕バネを板バネからコイルバネに交換するなどの改造を受けた。1979年に秩父鉄道に譲渡され、秩父では1000位の数字を取って800形とした。2輌編成10本が活躍したが、国鉄でも63形を置き換えた101系の導入により廃車。秩父での活躍はほぼ10年と短かった。 '81.11.14 秩父 P:小西和之
'70年登場の電機子チョッパ制御車7000系と同年登場の抵抗制御車7800系のうち、7840番以降の共に阪神初の量産冷房車として製造された車輌を'90〜'92年の掛け、車輌更新を兼ね、6輌固定を一単位とした編成に組替、併せて制御装置を界磁添加励磁制御化(三菱製ABFM・制動機構HSC-R)し、抑速制動に加え、回生制動化した形式で6輌編成8本、48輌が改造された。急行系列車で使用されていたが、'95年の阪神淡路大震災で12輌が廃車後、他の急行系車輌と共に活躍も、近鉄との相互乗り入れに伴う新形式と順次交代、最後まで残った編成が'11年9月に運用離脱、引退となった。 '05.10.9 阪神本線 阪神甲子園-鳴尾 P:梶村昭仁
昭和4年日本車輌製40t機、元は田口鉄道デキ53で、前面中央窓と前照灯を除けばほぼ原形で、写真の時点では第2休止状態で、同じ田口鉄道から来たモ1713も同じ線路上に留置してあった。番号は鳳来寺鉄道、豊川鉄道からの続番になっていて、鳳来寺鉄道デキ50は山形交通ED28 1となりリナワールドで保存、デキ51は遠州鉄道ED28 2となり現存、デキ52は岳南鉄道ED29 1となっているが休車、デキ54は伊豆急ED301を経て東急車輌の入換機となった。 豊橋 P:田中健吉
'69年に伊勢崎線急行「りょうもう」号用として2M2Tの4輌編成6本でデビュー。ローズレッドに窓下太白帯と窓上細白帯の端正な車体色を採用。性能は増備途上の8000系と同様VMC制御、制動装置は発電制動なしのHSCも同様であった。一車に1扉(モハ1830形のみ2扉)、広窓を配置し整ったスタイルであった。前面は非貫通で窓下に横長愛称表示板、その両側に前部・後部丸型標識灯を横並びに配置、前面窓は当初、桟付のパノラマウインドウを採用していたが、後に増備の1819Fと同様、桟なしパノラマウインドウに改造された。'73年に2編成が増備、さらに79年からは旅客増から中間増結車(MT)が組込まれ、3M3Tの6輌編成となる。空調装置は当時の旧国鉄特急車が乗せて居た通称:キノコ形を小型化した様なスタイルのTAC11T2形(4500kcl/h)を6台、先頭車のみ小型(2250kcl/h)のものを載せていた。'87年に現在も残る1819Fが増備され好調裡に運用されるも、200系の新製、増備により急行「りょうもう」号運用から徐々に引退。'69、'73年製造の云わばオリジナルスタイルの8編成は、急行運用から'99年にまでに撤退、一部が'91〜'92年に、300・350系(24輌)化、残る編成が一般車格下げ(12輌)化され、それ以外の余剰車を含め、'07年までに廃車となった。 '89.3.9 東武鉄道 伊勢崎線 東武動物公園-姫宮 P:梶村昭仁
1926年製の京津線用路面電車だったが、後にステップを切って高床車となり、京津線では路面区間に停車しない急行専用車として黄色とオレンジ色で活躍した。しかし車体が小型で収容力がないことから晩年は色も濃淡グリーンに変更され、2輌固定編成で石坂線専用となっていた。 '62.3.11
近江神宮 P:小西和之
5200形は78年に5000形の一部設計を変更して登場。主な変更点は5000形は4輌編成で二段式窓なのに対し5200形は6輌編成(一部は後に4両編成化)で一段式窓となっている。全盛期には6両編成20本が在籍していたが、06年からは3000形や4000形への置き換えが始まり廃車が発生し、5255F、5256F、5258Fが4輌編成化された。6輌編成は10年1月30日に引退し、残された4輌編成についても11年1月8日で引退している。 '12.1.7 町田 P:崎山喜一朗
1964年から製造を開始した2扉デッキ無しのセミクロスシート仕様車で、扉間はクロスシート、扉より車端部はロングシートとなっていた。Mc(モハ6100)+Tc(クハ6200;トイレ付き)の2両ユニット構成で、写真は浅草方先頭車のモハ6100である。22ユニット44輌が製造され、主として日光線系統の快速列車用として使用された。非冷房のまま終焉を迎え1985年〜1986年にかけて主要機器・台車を再利用して地下乗入規格準拠・冷房付の6050系に更新されて発展的に消滅した。 '75.3.11 東武鉄道 東武日光 P:長谷川武利
1931(昭和6)年、日本車輌製。1964(昭和39)年事故で廃車となったキハ2の二代目として三岐鉄道から購入。1984年の廃止時まで使用された。 '83.10 土山線 土山-中野 P:芝地寛之
水間鉄道モハ11は複雑な経歴をもつ電車。もとは南海電鉄の「タマゴ」と呼ばれる前面半円形の木造車(明治42年製)を昭和24年に譲り受け、モハ111として使っていたが、車体の老朽化が進んだため、昭和31年、阪急63形67の木造車体を譲り受けて載せ替え、モハ11に改番したもの。写真は車体載せ替えから10年も経っていないが水間駅の側線で休車になっていたころで、塗装は阪急時代のマルーンより薄めの赤茶色がさらに色褪せてかなり薄くなっていた。オリジナルの台車はBrill 27 GE 1のはずだが、写真では外吊りモーターは変わらないもののBrill 27 E1と同様の構造のものとなっている。写真ではわからないが車輪はすべて松葉スポークだったので、明治42年のものがずっと使われていたのだろう。 '65.12.25 水間 P:小西和之
京成電鉄3200形は、京成初の両開き扉をもつ通勤電車として1964年に登場した。80輌近く製造され、途中の3221以降は京成特有の6M車としされた。これは都営地下鉄の乗り入れ規格が全電動車であるが、メンテナンスでモーターを減らしたい苦肉の策として先頭車の先頭台車を付随台車とし、ユニットで6Mとしたものである、このため先頭台車が電動台車でなくてはいけない京急には入線できなかったが、後の更新の際に直された。赤電の最大勢力として京成の顔として活躍したが2007年に新3000系に後を譲り引退した。 '81.1.3 京成本線 谷津 P:深山剛志
名鉄が軌道線車輌工場を各務原線沿いの市ノ坪に移転したことにともない、美濃町線から出入庫線(田神線となった)を経由して新岐阜に直通することができるようになり、この乗り入れのために1970年に6輌製造された複電圧車。台車は旧車から流用したイコライザ式のものだが、新造の狭幅車体には2 + 1列の転換クロスシートを装備していた。各務原線乗り入れ距離はわずかなため、1500V区間では抵抗を直列に挿入して600Vに落とすという単純な制御方式を採用したのが大きな特徴だったが、このための大容量抵抗は屋根上に搭載するしかなかったことから冷房化できず、2000年にモ800型が投入されたことにより予備車の606を除き廃車、その606も2005年の600V線全廃時に廃車された。601は旧美濃駅で保存されている。 '92.6.19 新岐阜 P:小西和之
現在も同形車が活躍するモ161形のうち173号(初代/1930年製)を制御器の交換により改番したもの。戦災復旧車であったが2000年まで70年にわたって活躍した。 '87.7 上町線住吉 P:田中一弘
3000系の車輌のうちで75年〜88年に登場した編成は他の編成が1000系に置き換えられていくなか、95年〜96年に更新工事を受けた。内装や正面二枚窓が拡大されたれして顔の印象がずいぶん変わった。08年にN1000系が登場したことにより、更新車も置き換えが始まり09年までに78F、79F以外すべて廃車された。しばらく予備車として残されていた78F、79Fも井の頭線ATC化によって引退することとなり、79Fは11年7月に廃車され残された78Fも11月23日が最終走行となり12月6日に除籍され形式消滅となった。 '11.11 京王電鉄井の頭線 富士見ヶ丘 P:崎山喜一朗
東武鉄道は輸送力強化のため8000系を登場させた。登場時はライト、窓が丸く特徴的だったが昭和61年に8000系を修繕工事をし6050系に準じた顔となった。初期型車は新型車輌に置き換えられ、最終的には東上線に1輌のみ残ったが2011年6月30日を最後に営業運転を終了した。写真はイベント時に撮影した8000系初期型車。 '11.12.4 東武鉄道南栗橋車両管区 P:植木雅斗
京津線50形は1932年に4両、翌年にさらに4輌が増備された。66.7‰勾配に備えて1次車4輌は発電制動、2次車は路面電車では初の回生制動を装備した記念すべき車両。しかし1949年の四宮車庫火災で全車被災、被害の軽かった52、54号だけが復旧されて56、55号と改番された。新鋭80形の増備で1968年廃車。戦後間もなく車体更新で生まれた70形も前面ヘッダーがない等のマイナーチェンジはあるもののほぼ同じ形態で、やはり四宮車庫火災を唯一まぬかれた72号が寝屋川工場の入換機械として現存する。 '64.7 蹴上 P:小西和之
大分交通・別大線500形は1956年から59年にかけて7輌が東洋工機で製造され、初期ロットの501、502は台車も東洋工機製で華奢な感じのTK202を履いていた。(503-507は近畿車輛製KD202)別大線の旧型車輌はオヘソライトが特徴だったが、300形以降はオデコにもライトが装備されている。1972年の別大線廃止にともない廃車。この502は別府市内に保存されていたが、解体されて現存しない。 '62.7 仏崎 P:小西和之
'68〜'69年に1500V昇圧後の専用車として4輌が登場。車体は同時期登場の5261形同様、切妻前面で裾Rのないサッパリスタイル、屋根上はグローブベンチレータ搭載だが前面雨樋が埋込タイプに。片運転台車ながら性能は単車使用可能な1C4M東芝MM19Cで電気制動付HSC-D方式。また阪神初のA-A基準採用車輌。'80〜'81年に冷房化と同時に電力回生・抑速制動付電機子チョッパ制御化。2輌ユニット化。この時制御器が三菱製に変更。'99年に5311、5312が、残った2輌も新形式登場で'10年10月廃車、形式消滅となった。 '08.6.7 阪神本線 青木-阪神魚崎 P:梶村昭仁
1959年に登場、A編成とペアを組み名阪特急で活躍した。B編成は5編成用意され、パンタなしのモ10300が流線型先頭車であったのでのっぺりとした印象が強かった。1978年当時、山田線では名伊特急に充当されていた。1977年から1979年に廃車された。 '78.2 近鉄山田線 東松阪-櫛田 P:楢井勝行
1973年5月から製造された西鉄特急用車両の二代目、かつ初の量産冷房車として翌年に掛け6編成24両が登場。従来の1000形で採用のブルーに黄帯に替りオキサイドイエロー地にボンレッド帯と明るいカラーにチェンジ。高運転台に曲面構造の前面は平面三枚窓、その下にSUS製装飾板を配し、その部分に前・後部標識灯を横並びに配置。側面も二連式上段下降下段上昇式の外付けユニットサッシ、両開側引扉採用と共に行き先表示を前・側面一括自動表示式を採用。車内では従来、向い合せ固定式だったクロスシートを扉端部を除いた転換式を採用。特急列車を中心に活躍するも1988年に後継車8000形登場後は側引扉の2⇒3扉化を行い、中距離急行系列車を中心に活躍するも2001年以降車体老朽化で順次、引退が始まり、最後の編成(写真の2021F)が前面に西鉄旧社紋をと登場時の前面帯形状へのリバイバル塗装化が行われ、2010年10月の記念列車を最後に運用離脱、引退となった。 '08.6.27 天神大牟田線 雑餉隈-西鉄春日原 P:梶村昭仁
焼損したモ2204の復旧車として1460系に準じた車体が載せられ1964年に登場した。車体の異なる2250系と混結され名古屋線急行等で活躍した。写真では抵抗器などの床下機器が隠れてしまっているのが残念である。1983年にモワ601に改番され鮮魚列車に用いられた。1989年後継の1481系に道を譲り廃車された。 '77.8 近鉄山田線 松阪-東松阪 P:楢井勝行
1962年から登場の3000系車輌のうち、1967年に登場の第10〜13編成から従来の抵抗制御・発電制動から、複巻界磁FR方式電力回生制動(後、界磁チョッパー化)に変更となり主電動機出力が増強(100→120kw)され、歯車比も大きくされた。車体形状は1963年製造の第3編成からの18.5m級1300mm幅両開側引扉(ST式)を踏襲。従来からのマイナーチェンジ箇所として、中間電動車の台車がパイオニア式からTS801Aに変更(後にTc車もTS821Aに履き替え)。3000系最後の非冷房車グループであったが1970、1972年に掛けて先頭車が8000kcal×4台の分散式、中間車が30000kcalの集中式で冷房改造(従来からの丸型ファンデリアー併用)。続けて1972〜1973年に渋谷寄に1Mのデハ3100を挿入して5輌編成化。1995年に1000系登場後、前面に大型排障器取付けが始まり印象が変わってきたが大きな変化もなく活躍したが、1000系列に統一のため、2000、2003〜2004年に廃車。なお前面のパステルカラーは、サーモンピンク(10F)、ライトグリーン(11F)、ライラック(12F)、ベージュ(13F)の4色であったが、1000系化後にこの13Fに採用のベージュ色が黄色味を増やしたオレンジベージュに変色したため、この前面カラーも思い出となった。 '02.4.6 井の頭線 富士見ヶ丘-高井戸 P:梶村昭仁
1959年に登場、当初は近鉄特急のシンボルとして名阪特急で活躍した。後年は後輩のエースカー、スナックカーに追われ阪伊名伊系統に就くことが多かった。A編成は5編成用意され、2丁パンダが装備されるモ10100が流線型先頭車という最もビスタカーらしい形態で人気があった。1977年当時、山田線では阪伊特急に充当されていた。1977年から1979年に廃車され惜しまれながらその姿を消した。 '77.8 近鉄山田線 松阪 P:楢井勝行
1969年に増備の3000系車輌のうち、前年に京王線で登場していた5000系冷房車の実績を踏まえて第14・15編成の2編成が井の頭線初の冷房車として登場。性能は'67年登場の第13編成までと同様回生車であるが、屋上に4500kcalの分散式を6台搭載、M2車床下に130kVA電動発電機を搭載、従来の7kVA(予備MG)はTc1に移設されるなど、床下配置に変化が生じた。この時期しばらくはこの2編成が唯一の冷房車であったが、1971年からのデハ3100形組込5連化で他編成も1973年まで冷房改造され3000系列は1975年の旧型車置換えで再増備されるまでに全編成が冷房車となった。1994年以降前面の排障器取付け等印象が変るところがあったものの2004年廃車まで活躍。なお、14Fはスカイブルー、15Fがブルーグリーンのと、偶然にも冷房付を意識しなかったと思うが、涼味ある前面色であった。 '04.1.14 井の頭公園〜三鷹台 P:梶村昭仁
1959年に登場、両側先頭車とも貫通型としたC編成は10編成用意された。その汎用性を活かしてA+C編成、B+C編成、C+C編成などに組まれ活躍した。左右非対称の全面窓を持つ貫通型運転台は美しく、現代にも通用するデザインである。1978年当時、山田線ではA編成と共通運用が組まれ阪名伊特急に充当されていた。A編成B編成同様惜しまれながら1979年に全廃された。 '78.2 近鉄山田線 東松阪-櫛田 P:楢井勝行
1958年最後の旧型特急車として6431系2編成4輌が名古屋線に登場した。1965年に格下げ改造され3扉ロングシート車となったが、旧型車とは思えない明るい2連窓、掛け心地の良い深いロングシートなど特徴のある車輌だった。名古屋線山田線ローカル列車で運用された後、1979年に養老線に転属。養老線の新性能化に伴い1993年に全廃された。 '78.2 近鉄山田線 東松阪-櫛田 P:楢井勝行
1953年に登場した2250系特急車サ3026より先頭車改造された。1963年頃格下げ改造され、名古屋線山田線ローカル列車で活躍した。中間車からの改造車だったため運転台貫通扉は引き戸であった。この後スカートも取り付けられたが1982年に廃車された。 '78.2 近畿日本鉄道山田線 東松阪-櫛田 P:楢井勝行
1961年に4輌2編成が登場。当初は左右非対称の前面窓、旧型集中式クーラーであったが、1974年に左右対称全面窓、通勤車同様の集約ビ分散式クーラーに大改造された。名伊乙特急に限定運用され、写真のように新ビスタカー10100系と混結されることも多かった。室内は920mmピッチ回転シートであったのでこの車輌に当たると同じ特急料金でも外れであった。カーテンの取り換え、シート表皮の張り替えなど行われたが、車内設備の見劣りが激しく1992年に全廃された。 '78.2 近鉄山田線 東松阪-櫛田 P:楢井勝行
宇治山田駅折り返しホームに停車中のあおぞら号。既に団体列車の主力は急行型2610系に移っておりカメラに収めたのはこの一枚のみである。1962年から5編成製造され登場当時は子供たちの憧れの的であった。しかし低い天井、2・3掛けの窮屈な座席、空調は冷風装置(冷房はない)等々客室設備は劣っていた。18200系あおぞらⅡと20000系楽に任を譲り1989年〜1993年に廃車された。 '77.11 近鉄山田線 宇治山田 P:楢井勝行
851、861、881と続く阪神電気鉄道の小型車は、斜めに握り棒の付いた両開きの貫通扉デザインから「喫茶店」の異名で呼ばれた。小型車ながら高速性能も優れており、急行輸送に活躍した。戦前の関西私鉄を代表する車輌のひとつ。高松琴平電鉄には881形16輌が譲渡され、志度線、長尾線で活躍したが、600V→1500V昇圧にともない1976年12月廃車となった。 '66.1.15 高松築港 P:柿浦和敏
京津線各駅停車用電車で1961〜70年にかけて近畿車輛で計16輌製造された。低床車体の路面電車ばがら高速性能も優れており、急行運用に投入可能な高性能車輌であった。
。 '64.10.16 京阪電鉄京津線 東山三条付近 P:柿浦和敏
モハ102は1954年ナニワ工機製、クハ23(最後尾でほとんど見えていないが...)は帝国車輌製でともに13m級で準張殻構造車体を持つ。2輌めのサハ3は1955年栗原鉄道から譲渡された日本鉄道自動車工業製2403を電装解除したもの。手動の扉は開いたまま走っているものもあり、おおらかな時代だった。 '63.8.2 P:柿浦和敏
元富士身延鉄道のクロスシートカーで、モハ100(半鋼製片運転台式制御電動車)とクハユニ300(半鋼製片運転台式制御車)。国鉄に買収されたのち、1958年に高松琴平電鉄に売却された。クハ二の荷物室部分に簡単な喫茶コーナーを設けて急行「りつりん」として活躍した。1965年ロングシート化され、1981年に廃車となった。 瓦町 1959.12.25 P:柿浦和敏
新京阪電気鉄道のP-5形。1957年に能勢電が8輌購入。28+29はMc+Tcで能勢電入線にさいして1500V→600Vの降圧、パンタグラフ→トロリーポールなどの改造を受けている。1967年10月、500形の導入により廃車となった。 '65.10.31 鶯の森 P:柿浦和敏
大正10年製の元阪神急行電鉄の木造車71〜73を半鋼製車体を新製し近代化51〜52とした。一回り大きくなったので定員も65人から95人に増加、ブルーとクリームの塗装となってイメージを一新した。しかしながら構造上揺れが大きく、評判はあまりよくなかったようだ。電動機の不調になどよる改造を受けたりしながら使用されたが、50・52は1966年12月に廃車、その後も51は62(60形)と2輌で川西能勢口-川西国鉄前で運用についていたが、1987年、同区間の廃止によって廃車となった。 '65.10.31 川西能勢口駅側線 P:柿浦和敏
もと高野山電鉄デニ502で、1928年製の全鋼車。路線が50‰片勾配という線形のため、僚車デ101形とともに日本初の回生ブレーキを装備した車輌である。南海に合併後、事故で車体を焼損、復旧時に車体を更新してリベットはなくなり、荷物ドアと一部の窓を埋められてデワ2001となった。オリジナル台車は路面電車用に近い形態で山岳用に電磁レールブレーキも装備したものだったが、難波乗入れに際しての高速運転に適さず、早期に交換されている。デワに改造後も難波側非貫通、高野山側貫通の形態はデニ502時代と変わらなかった。郵便・荷物輸送終了により1972年廃車。 '64.8 住吉東 P:小西和之
'91年に登場したラッシュ対策用多扉車輌の京王版とも云うべき車輌。6000系列の一員として5輌編成4本が登場した編成のうち、23Fと24Fを、'00年1〜3月に掛けて5→4扉化改造した。車体は5扉時代の縦長の一段下降窓に沿って正方形に近い側窓を増設。この為窓配置が不規則な変則なスタイルに。編成は登場当初の3M2Tのままで運用され、6400形と組んで7輌編成などで活躍するも、晩年は改造車同士で10輌編成を組んで、主に優等列車中心に活躍。6000系車輌淘汰の中でこれらの車輌も対象となっていたことからオリジナル車輌と共に'09年に10輌揃って廃車となった。 '05.8.17 明大前-京王下高井戸 P:梶村昭仁
'72年から製造されていた主力形式であったが、80年代以降の旺盛な沿線人口増大に伴うラッシュ対策の一環として登場した多扉車輌。従来、20m4扉車体車体両端部の側引扉を基準に5扉車体とした。車体は側窓一段下降式ながらやや幅の狭いユニット式を採用、普通鋼ながら強度向上のため戸袋窓が廃止された。走り装置、基本性能は従来通りであり、登場当初は他の編成と組み、新宿方に連結されて活躍。3M2Tの5両編成が4本、20両が登場。しかし5扉車5輌編成ゆえ、座席数減少を理由に使い勝手が悪く、'00年に2編成において編成の組替を実施し、5輌2本を4輌(22F)、6輌(21F)の各編成に組成替え。また残り5輌2本は同年中に、4扉改造された(23F・24F)。5扉車で残った編成のうち、21Fは相模原線用ローカル運用を中心に、22Fはワンマン化のうえ動物園線用として外板にラッピングを施され活躍。このうち、本来の5扉車で残っていた20番代車輌で、6輌編成の21Fは'07年に、4輌編成の22Fは'11年3月に運用離脱、廃車となった。 '94.12.23 京王本線 京王調布-布田 P:梶村昭仁
阪堺線モ301形はモ151、161形の制御器を間接多段式に変更して生まれた形式で、連結可能であったが制御器の異なるモ161形とは連結できなかった。のちに連結器を撤去したため、151、161、301形は区別ができなくなったが、写真の時点では連結器・ジャンパ受けを装備している。濃緑にニス色が夕陽に映えるこの301号は元モ161形173(初代・戦災復旧車)。モ301形は2000年までに全廃。 '65.8.12 姫松 P:小西和之
京王線初の20m4ドア車として1972年に登場し、京王線の発展に貢献した。1991年に混雑緩和を目的として製造された5ドア車は、全国唯一の20m5ドア車であり、またのちには5ドアから4ドアに改造された車両も存在し、異彩を放っていた。都営新宿線直通運転は本形式を利用して始められ、9000系10輌編成の登場するまでは唯一の都営新宿線直通車両として活躍した。しかし、5ドア車など一部車輌は製造後20年もたたなかったが2011年3月13日、引退した。最後まで残ったのはTama Zoo Trainのラッピングが施された動物園線専用の5ドア車だった。 '10.5.13 代田橋〜明大前 P:髙杉直彰
1969年の堺筋線開業時に製造された車両。当時は5両編成だったが,1979年に6両編成,途中,1989年には冷房改造が施され,1993年には8両編成に組み替えられた。しかし,66000系(66系)の増備により1992年から冷房改造を受けていない編成から順次廃車され,2003年に姿を消した。 '79.6.18 阪急電鉄 北千里線 山田 P:松本卓彦
西武の本格的な高性能車として'69年にデビュー。同年に開業の西武秩父線開業とも歩調を合わせた性能を有し、山岳区間から平坦線区間両用に使用可能な性能を持つ車輌ということから、「ASカー」と呼称された。このうち、'69〜'76年に製造された一次車から八次車278輌が写真のスタイルを持つ。性能は日立製MMC多段式電動カム軸制御の直並列抵抗制御で抑速発電制動付電磁直通制動(HSC-D)を採用。当時の狭軌線で最大級の150kw主電動機を採用。また、この形式から全車にダイレクトマウント方式のエアサス台車(FS372・FS072)を採用。車体色も従来の赤系からイエロー地に窓回りウオームベージュ色と一新。当初は非冷房だったが、'72年登場の四次車9本中6本が試作冷房車として登場。その成果を踏まえ、'74年登場の六次車(中間車のみ)以降、新製時から冷房車(CU72形集中式一台各車搭載)に。車体スタイルは701系に端を発するもので、長年の西武の顔的存在であった。晩年は更新改造、車体色のイエロー一色化、支線区運用にワンマン改造とバラエテイーに富んだものとなったが、'88年から他形式への機器転用から淘汰が始まり、新形式車輌の増備により'10年11月の多摩川線ワンマン改造車の運用が終了して、引退となった。 '82.7 池袋線 椎名町 P:梶村 昭仁
1970年代なかばから80年代なかばにかけて大雄山線の車両は17m国電型車両のモハ151型・クハ181型・サハ181型がすべてだった。これらには本来の17m国電から転入した車両と相模鉄道2000型を譲り受けた車両があり、モハ160番台を名乗る後者は相模鉄道時代に車体更新を受けて17m国電スタイルながら張り上げ屋根になっていた。首都圏に残った最後の17m国電で、形態の揃った美しい編成が吊り掛けサウンドを響かせていたが、事業用に残された165を除き、1996年に全廃。写真は163 + 164 + 185。 '90.11.1 飯田岡─相模沼田 P:小西和之
'78年から登場の5000形車輌の6輌固定編成で、従来からの4両編成の5000形とは車体スタイル(主に側窓形状)が異なることから、車号付番に沿って「5200形」と称される。編成は両端制御付随車に中間電動車で組成される4M2T。当時の旺盛な輸送需要から、準急・急行系10輌編成化の際に、地下鉄乗入運用を併用していた9000形では追いつかず、地上線用として'82年までに120輌(6輌20本)が登場。性能は4両編成の5000形に準じ、三菱製ABFMバーニヤ方式抵抗制御を採用。電磁直通式発電併用式(HSC-D)採用、応荷重を併用しており、台車はアルストムリンク軸箱支持方式のエアサス(FS375・FS075)採用。前面は2600形から始まる車体幅2900m/m、種別後部併用標識灯を肩部に前部標識灯を額部に2灯を持つお馴染みのスタイル。製造が長かったことからマイナーチェンジも散見(側窓支持のHゴム→金属押え金式など)。後年、前部標識灯のシールドビーム化、シングルアームパンタ化、編成短縮化など変化を見せたが、新形式と引替に'11年1月末のイベント運用を最後に離脱した。 '05.8.7 東北沢〜下北沢 P:梶村昭仁
この電車こそ南海初の半鋼製車である。昭和2年、高野線の勾配区間で事故廃車となった木造車の代車として登場したもの。当初は正面非貫通3枚窓だった。戦前は他の木造車と共に回生制動を装備して高野線の極楽橋までの50‰区間にも活躍したが、様々な経緯を経て、最終的には更新改造を受け、クハ1818形のクハ1820となり難波・住吉公園間の各停(いわゆる東線)に用いられ、昭和42年頃に廃車となった。南海の半鋼製新製車の中では昭和4年以降の標準型とは異なる異端車であり、南海初の半鋼製車として記憶に留める存在である。 '67.9 今宮戎 P:永野晴樹
上毛電鉄300系は東武鉄道3000系の譲渡車で、1990年代の主力車だった。元の東武3000系は昭和初期の旧型車の機器・足回りを利用して車体を新製した18m車で、上毛では斬新なカラースキームを採用し、新鮮な印象を与えた。しかし車体は新製後20年程度しか経っていないものの、製造から60年前後を経た台車や機器は老朽化が進み、大半が10年も経たずに引退、塗色も他系列に引き継がれなかった。 '90.10.18 富士山下─丸山下 P:小西和之
阪堺線モ205形は古い木造車の足回りを再利用し、車体を天下茶屋工場で新製した11m級の小型車で、種車が多岐にわたるため台車はマチマチ、低床車と高床車が入り混じっていた。写真のモ220はBrill 27GE-1を履いた高床車。モ101系が廃車された際、その台車を大阪市電1601形を購入したモ121形に譲り、玉突きで捻出したBrill 77E台車と、大阪市電1501形からの廃車発生品のKS45L台車を購入して交換し、全車低床化された。 '65.5 住吉交叉 P:小西和之
新京成800形は1971年に登場した車両。この当時の新京成電鉄は元京成の車輌が主力で、自社発注の車輌はモハ250形及びサハ550形のみだった。モハ250形及びサハ550形の足回りは京成の旧型車からの流用であるため、新京成で足回りを含めた完全新造車は800形が最初である。1975年までに合計36輌が製造され、1985年に更新工事が行なわれた。その後1995年に最高速度が時速85㎞に向上したことに伴い編成組み換えが行なわれ、余剰となった付随車が最初の廃車となった。そして8900形やN800形が導入されたことにより廃車が進み、2010年7月17日のダイヤ改正で定期運用から離脱、7月25日のさよなら運転で引退した。なおさよなら運転で使用された編成は806編成で、この編成は1991年〜92年まで北総鉄道に所属していた。 '10.7.25 新京成電鉄 くぬぎ山車両基地 P:福田智志
1966年に、東京急行電鉄からデハ3150形2輌とサハ3100形1輌を譲渡され、前者がモハ201・202、後者がサハ101となった。1970年に、西武所沢工場にて小田急電鉄で不要になった1600形(デハ1609・1603)の車体を流用して更新され、同形車体(クハ1607・デハ1602)を流用した制御車クハ1200形と編成される。1972年、サハ101を同じくデハ1610の車体に廃車発生品の電装品を流用して両運転台のモハ203として更新された。1973年に、モハ201・202の2輌は国鉄の廃車発生品の台車(DT12)と主電動機(MT15)に交換された。1980年に、三岐鉄道から同じく小田急1600形の車体を流用した両運転台のモハ140を購入し、モユニ10の車籍を引き継いでモハ205とした。後に両運転台のモハ203・205の2輌はワンマン化改造された。モハ201・202の2輌は1990年に廃車、モハ203・205の2輌はモハ220形に更新された。 '79.8.21 八日市 P:松本卓彦
凸型電気機関車デキ1形と木造無蓋電動貨車モニ5形を置き換えるため、1974年(昭和49年)に大栄車輌で製造された無蓋電動貨車。1968年(昭和43年)製造のモニ10形が片運転台であるのに対し、同車は両運転台となっていた。もっぱら、無蓋車トキ20形および長物車チ5形と編成を組んで夜間の工事臨時列車を中心に運用されていた。高砂検車区に常駐されていて、宗吾車両管理所での検査回送や乗務員訓練等で日中に走行する姿が見られ、引退直前の2007年2月には日中の"工事臨時列車"としてちはら台駅に入線した。京成最後の釣り掛け式駆動車として活躍していたが、現在の保線用作業機械に仕事を譲り、2007年3月28日にトキ20形、チ5形と共に宗吾車両管理所に廃車回送された。 '06.9.10 京成本線 国府台─市川真間 P:今井亮介
京福電鉄が開業に際して製造した木造電車。Rのついた窓、深い丸屋根など最近まで在籍したデナ21型と共通していて、2ドアの小型車ながら優美なデザインである。ドイツ・MAN製の台車はオール板バネという珍しいもの。車体のわりに台車が大きく、床下に収まりきらない抵抗器は屋上に追いやられている。小型のため晩年は貫通路を設けられて2連で運用されていた。1964年廃車。この写真は修学院車庫の裏で解体中のもの。 '65.6 修学院 P:小西和之
1974年に登場した、3801系は近鉄奈良線乗り入れを視野に入れた車輌として登場し、急勾配対策の為に抑速ブレーキを持つ車輌でしたが、乗り入れが延期されたため「幻の乗り入れ車」として、少数ながらファンに親しまれたが、乗り入れを目前にした2009年の3月引退した。 '82.1 阪神電鉄 阪神本線 P:深山剛志
戦後、元新京阪線は阪急の傘下となったが、戦後まもない時代に元荷物電車などの電装品を用いて千里山線や嵐山線用の高速運転を必要としない支線用に作った電車である。撮影当時は千里山線はニュータウンによる編成の長大化により、当時の1500V区間唯一の支線である嵐山線で活躍した。廃車後は広島電鉄鉄道線で、窓配置を改造のうえ活躍した。もちろん今はない。 '65.7 桂 P:永野晴樹
昭和35年に譲受した国鉄クモハ11446が前身。入線時はモハ371形378となったが、クハ代用で使用され、昭和36年に電装解除、クハ1331形に編入、クハ1336となった。昭和47年、多摩湖線国分寺口専用となった351系355Fの中間に組み込まれた。昭和49年、運転台撤去、MG・CP取り付けによりサハ1311形1336となった。昭和54年、補助電源の交流化や内装の更新による体質改善が図られた。多摩湖線国分寺口の改良工事が完成するまで西武鉄道最後の旧型車のうちの1両して活躍、平成2年6月に除籍された。 '90.6.16 西武鉄道南入曽車両管理所 P:北村 拓
1000形は昭和12年に誕生した流線型のセミクロスシート車で、急行等に活躍した。戦後も一部は特急にも用いられた。昭和43年頃から3扉両開きの新製車体に置き換え700形(2代目)となって姿を消した。1900形新は昭和37年の淀屋橋延長開業に際して特急車のレベルアップを図るべく誕生した。3000系の登場後は3扉車に格下げられながらも1500V昇圧や冷房化も行われ、2008年に引退するまで活躍を続けた事は記憶に新しい。かつての京阪を代表する両形式が複々線区間でうまく並んだ情景である。 '65.8 京阪本線 関目 P:永野晴樹
'72〜'91年まで製造された初の20m車である6000系のうち、'73年以降増備の複巻界磁チョッパ制御・回生制動搭載車からの改造車と'79年からの増備(新車)で構成されるグループであり、'80年3月から始まった都営地下鉄10号線(=新宿線)乗入に伴う諸設備(ATC搭載等)に対応した番代。編成は、地上用編成と異なり、地下線区間における勾配に対応した6M2T編成。形式はクハ6700形(クハ6730、クハ6780)とデハ6000形(デハ6030、デハ6130、デハ6230)の2種。ワンハンドルマスコン、一段下降式窓、前面非対称貫通型高運転台などは基本番代と変らないが、助士側の字幕スペースに運行標識窓が設置されたのが識別点。その後も地上向け編成からの改造を含めて最大8輌16編成が活躍。新形式の登場で徐々に運用から離脱し、地下鉄乗入運用編成は'09年6月までに引退、全廃となった。 '06.4.22 京王本線 京王下高井戸-明大前 P:梶村昭仁
'73年、本線特急運用範囲拡大から、支線区への直通列車の設定を行うにあたり7000系の設備に連結解放の自由度を考慮した車輌として24輌が登場。先述のとおり分割・併合を目的に二階式運転台から通常の運転台形状となった。側窓は7000系と同様ながら貫通型となった前面スタイルは、SR系車輌を発展近代化させた高運転台、国鉄153系同等の、パノラミックウインドウを採用。性能、設備は同時期増備の7000系(7次車)に準じており、台車はこの形式から初のS形ミンデン台車を採用。また保安基準改正で、保安ブレーキ、A-A基準適合となった。長らく、本線系の優等列車に使用されながらも二扉とあって、'01年以降ワンマン機器を搭載し三河線で運用となった。暫く活躍するも7000系引退の後を追う様な形で、'09年以降から離脱が始まり、さよなら記念運転を最後に'10年3月一杯で引退、廃車となった。 '88.3.15 名古屋本線 名電長沢-名電赤坂 P:梶村昭仁
この電車は'69年の西武秩父線開業に合わせて登場した初の特急車両である。車両は6両6編成で車体はクリームを基調に赤いラインを用いたツートンカラーで、特急の愛称は「レッドアロー」。'70年に鉄道友の会よりブルーリボン賞受賞、又93年にはお召し列車と数々の話題を提供した。'94年より10000系置換えも始まり'96年の臨時列車をもって全車廃車となった。 '88.3 西武鉄道 秩父線 吾野─東吾野 P:長岡行夫
叡山電鉄デオ600形はデナ500形の足回りを流用して1979年から1980年にかけてデビューした通勤形電車である。冷房装置やワンマン機器は搭載されなかった。2008年11月1日にさよなら運転が行われ、2010年3月に解体された。 '00.9.24 叡山電鉄 叡山本線 三宅八幡 P:佐野 徹
1500Vへの昇圧が迫った頃、不足することが予想された3輌運用の単車増結車輌として昇圧時に2輌ユニットとなる5231形をベースとして1964年に5151、5152の2輌が製造された。増結車両を主に使用されていたが、その後、3輌運用がなくなったこともあり、1形式で2輌の同形を利用し、省エネルギー化による回生ブレーキ付電機子チョッパ制御の試作車として制御改造および冷房改造が1981年に実施された。唯一ジェットカー初期世代の丸みを帯びた車体を残す存在として引き続き活躍をしていたが、1995年1月17日の阪神大震災により三宮駅3番線で被災、ホームに乗り上げて大破したことから、廃車された。阪神大震災で数少ない形式消滅車輌となった。 '94年 神戸高速鉄道 高速神戸 P:角中 武大
1000系車輌といっても伊豆箱根鉄道オリジナルでなく、西武鉄道の501系を'75〜'79年に掛け譲渡された編成で、オリジナル編成からの連番となりモハ1009〜の付番となっていた。3編成9輌の陣容で、編成はMc・T・Mcの2M1T。外観や車内はさほど西武時代と変らず運用。譲渡後、Mc車の台車が旧型国電の廃車発生品である、DT10・DT17・DT20型台車等を履いていた他、第3編成となる、モハ1013+サハ2008+モハ1014は、導入一時期に3000系車輌のブレーキ装置品の試験の一環から、電気指令式制動装置の試験運用を実施していたことがあった。吊掛式及び非冷房とあって、西武の701系の廃車が始まった事もあり、それらとの置換えられ、'87〜'90年に廃車、消滅。 '89.3.30 駿豆線 三島二日町─大場 P:梶村 昭仁
'68年に製造の西武鉄道801系を自出とする車輌。従来在籍していた501系譲渡車の1200系が、吊掛け、非冷房に加え、老朽化も進行して居たため、冷房付きの代替車として'97年廃車になったクハ1809+モハ809+モハ810+クハ1810のうち、モハ809にクハ1809の運転台を接合改造し3輌編成化。西武所沢車両工場で改造後の'97年10月に、二代目「流馬」として空色+白帯+Nストライプカラーで登場した。性能、車内は西武時代と変らず。801系で唯一制御車(クハ1801形)として譲渡されたクハ22の台車がオリジナルのFS067から、701系が履いていたFS072に交換されたことくらい。これは前後で譲渡を受けていた701系との仕様統一化の一環のための処置。'06年以降3輌編成の運用が減少する等により'07年11月の運用を以て引退、消滅した。 '03.10.16 幸谷─小金城趾 P:梶村昭仁
言わずと知れた、前面展望電車のはしりである7000系。'61〜'75年までの14年間、九次にわたり製造された、名鉄を代表する車輌。運転台を二階に上げ、その分客室を最前部にまで伸ばし、走る列車から前面を眺められるように、という夢と願いを具現化したスタイル。前面展望のみならず側窓も連続性を持たせたものを採用。これら功績が称えられ、鉄道と友の会ブルーリボン賞を受賞している。性能は'59年登場の5500系が規範となっており、屋上(冷房装置も)・床下機器等はほぼ同一。台車は5500系のコイルサスから車体直結式ベローズ方式エアサス台車採用。その後、増備の際に編成のみならず先頭車・中間車と細かく続き、最終(九次車)は、側引扉に1300mm開口幅の両開式を採用。優等列車から普通列車までオールマイテイに活躍。また、一部を除き、ほぼ全線で運用。主力として活躍するも旅客増から二扉クロスシート車が年々嫌われるようになり、更新は実施したものの、老朽化等も相まって廃車が始まり、最終的に'08年12月ダイヤ改正を以て定期運用を離脱。イベント等に残って居た編成が'09年09月で廃車となり、このエポックメイキングな同車は舞木検査場の静態保存車(モ7001とモ7002)を除いて消滅した。 '07.11.19 呼続─桜 P:梶村昭仁
この電車は明治末期から大正初期に目黒蒲田電鉄並びに池上電鉄が譲渡された木造車を昭和12年から15年にかけて、半鋼体化改造したものである。池上線で活躍したが昭和50年7月末で引退した。 '75.7 池上線 旗の台 P:永野晴樹
遠州鉄道の主力形式だった、30系のうち、電動車モハ35は'66年06月日車製。制御車クハ87は'62年02月日車製。元々、互いに異なる車輌と編成を組んでおり、モハ35の方は30系新車としては最後の片開扉車として製造。ND507トーションバー台車等、遠鉄の特徴が出ている車輌であったが、クハ87は元々モハ37と組んでいた機器流用の更新車。車体は同形態ながら、元クハ52から流用のTR11系台車を履いていたほか、車体装備も製造年月の違いから異なる部分(車体側字幕が巻取式か札差込式、前面字幕の有無、アンチクライマの大きさが異なるなど)があった。この編成は'72年から組んでおり、それまのモハ35は特定の連結相手がいない増結用途であった。'81年にクハ87の台車がND306エアサス式に換装され、片やコイル式、エアサス式と異なる仕様となり、ラッシュ時等の車体の沈み込み具合に差が出るなど特徴があった。他編成同様冷改などのサービス向上が図られたものの、新形式車と代替して'96年12月に引退、消滅。 '87.8 西鹿島線 自動車学校前─遠州上島 P:梶村昭仁
'68年の都市交通審議会答申第10号を受けて計画、建設された都営地下鉄10号線(=新宿線)用として製造された車輌。このうち、'78年12月東大島〜岩本町間に1次車(東急製50輌)、'80年3月岩本町〜新宿間開業時に2次車(日車製54両)としてこのグループ108両が製造。車体はスキンステンレス製20m四扉。制御付随車を先頭とした4M2Tで登場。また京王帝都との相互乗入の為、1372mm軌間の採用となった。路線識別カラーはリーフグリーン(萌黄色)を採用。性能は電機子チョッパ制御、回生制動付電気指令式、ワンハンドルマスコンは乗入相手の京王と仕様が合せられている。この次車は側窓二段式が特徴。新宿線内は車内信号機のATCだが、京王線内はATSの為、二方式の保安装置を搭載。台車は円筒案内式エアサス式。'86年と'88年にそれぞれ3次、5次車2輌を組込んで8輌化。増備車はオールステンレス車体の一段下降式窓となったため、編成のバランスが合わないものとなった。冷準で製造も後に冷房搭載。新宿線ATCの更新と車体の老朽化を理由にこの次車は廃車となり、'05〜'06年に消滅。 '05.8.1 明大前〜京王下高井戸 P:梶村昭仁
'74年と'77年に3編成が製造された旧3800系を起源とする車輌。'09年03月に開業した、阪神なんば線の前身である西大阪線難波延長計画線に基づいたマイナーチェンジが行われ、地下線急勾配区間対応用に抑速発電制動を装備。また初のエアサス台車装備で登場。車体は、7800系(40番台以降)、7000系と同様の側片側三扉両開き式採用。'86年に'74年製第一編成が事故廃車後、残った編成のうち、第二編成が大阪方、'77年製の第三編成の神戸方ユニット3両づつを組合わせ、一編成六両とした際、現形式に。写真の先頭車は'77年製の第三編成を種車とする側のTc車で、以前御紹介した大阪方の先頭車と較べ、こちらは前面の電動字幕が新製時から標準で、字幕の周囲に縁取りのついた段付形状が特徴。またこちら側のTc8902号は車体長が100mm長かった。'09年02月に廃車。 '04.7.3 阪神本線 福島─阪神野田 P:梶村昭仁
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もと阪和電鉄のモヨ104と106は国鉄買収後最終的にはクモハ20052と20054となり、戦前に登場した150kWのモーターを装備した関西私鉄の大形高速電車の中では1966年、いち早く廃車となった。この2輌は松尾鉱山に引き取られ、1967年には急勾配での客車や国鉄気動車の牽引用に威力を発揮したが、わずか数年後に松尾鉱業の廃止により、その後弘南鉄道に引き取られた。阪和電鉄以来の150kWの高速用モーターは弘南鉄道では余りにも過大だったので、100kWのモーター、台車もDT10に履き替えて登場した。後にクハやサハに格下げされながらも平成元年に解体されるまで、関西私鉄の大型高速電車の中では、いち早く廃車となったものの、地方私鉄に譲渡されたものは阪和形のみで、結果的には最後までこの2両の阪和型がしぶとく生き残ったのである。写真の先頭車はもと国鉄クモハ20052である弘南鉄道モハ2025であるが次位は東急の元モハ3400形である。ほぼ同時代に誕生した関西と関東の私鉄電車の違いが判然とする編成である。 '76.3 弘前 P:永野晴樹
1974年に大栄車輌にて製造された無蓋電動貨車。21・22の2輌。片運転台のモニ10(1968年製)が片運転台なのに対し、同車は両運転台となっている。京成電鉄最後の吊り掛け車となった。2007年3月廃車。 '07.2.17 京成電鉄本線市川真間 P:吉野泰宏
1961年〜1962年に800系(正面2枚窓、4連編成)の増備車として2連x8本が製造された中型車。当初は800系とともに奈良線特急に活躍したが、1970年代には大型車に押し出される形で生駒線などの支線区にも進出、更に1984年以降は伊賀線(現・伊賀鉄道)に860系として転出。以来、四半世紀にわたり活躍を続けてきたが、同線にも2009年末にもと東急1000系の200系(車内の一部には京阪9000系発生品のクロスシートを装備!)が導入され、今後の動向が気がかりな系列となってきた。 '80.6 P:清水祥史
いわずと知れた、前面展望電車の元祖、7000系の九次車である、中間車7050形の'75年増備車モ7101〜7112から'84年、モ7101とモ7104を先頭車化改造した車輌。中間車時代は7000系の6輌化用に組込まれていたが、それら編成が特急車整備(いわゆる白帯車)化で捻出された車輌を急行系(SR)車輌運用の増強も兼ね、モ7101+モ7102+モ7103+モ7104の4輌一編成として組成した。この次車の特徴としてラッシュ対策を目的に側引扉1300mm幅両開扉採用。運転台は6000系近似のスタイル。中間車からの改造のため、側配置が先頭、中間とも左右対称のスタイル。7000系の特徴である連続窓は種車から健在で、急行系とはいえ、優等系列車を中心に活躍するも、'87年以降中間車が再び7000系6輌化用に転用され、以降先頭車のみの2輌編成で活躍。'01年に7700系共に三河線ワンマン改造が行われ、ほぼ同線固定運用となった。7000系に組込まれたモ7102とモ7103が'08年に引退、残った先頭車2輌も'09年11月を以て運用離脱、廃車。 '87.3.16 名古屋本線 国府 P:梶村昭仁
茨木市・高槻市駅付近連続立体化工事に伴うダイヤで、特急車輌が不足したことにより1編成のみ1983年に製造、翌年1月1日から営業運転に入る。俗に「6330系」とも呼ばれる。言うまでもなく6300系従来車がベースだが、内装のマイナーチェンジ、界磁チョッパ制御など、従来の6300系とは一線を画すものとなっている。9300系の増備によって運用離脱に追い込まれ、先ごろ廃車→解体の道をたどった。最近の阪急の車輌としては短命。 '08.11.11 阪急電鉄京都線 茨木市 P:松岡宣彦
大正15(1926)年、初代伊賀鉄道が電化するにあたって製造した半鋼製電動車で、1970年代半ばに名古屋線からの転入車に置換えられるまで、半世紀にわたって伊賀線の「ヌシ」として主力の座にあり続けた車両。ヘッドライトこそシールドビーム2灯に代えられているが車体にはほとんど手が加えられず、腰高のサイドにトラス棒、深い屋根にお椀型ベンチレータなど、大正末期の電車の姿を最後までよく残していた。写真は置換えも間近い1974年のものだが、荷物室はちゃんと残してあり、「手小荷物室」と表記されている。 '74.8.15 上野市 P:小西和之
秩父鉄道3000系は自社発注の湘南型急行用車輌である300系を置き換えるために、1992年にJR東日本の165系を購入して誕生した。購入にあたっては、正面貫通路の廃止やヘッドライトの付け替えなど比較的大規模な改造が行なわれたが、全体的には原型車輌の雰囲気をとどめていた。
しかし老朽化が進行したことから2006年に西武鉄道から購入した6000系に置き換えらた。 '06.11.1 秩父鉄道 永田 P:鈴木岳人
西武鉄道の401系は、同社の701系の増結用車輌である411系として1964年に登場しました。制御電動車クモハ411形と制御付随車クハ1451形の2輌を1ユニットとし、3ドア車の吊掛け駆動車として1968年までに19編成38輌が西武所沢工場で製造されました。701・801系が1975年から冷房化改造・HSCブレーキ(電磁直通ブレーキ)化されたことに伴い、411系も水準を揃えるため、1987年からカルダン駆動化、冷房化改造・HSCブレーキ(電磁直通ブレーキ)化などの高性能化が行われました。しかし4ドア車の需要が高まった事情もあって、3ドア車の401系は1990年から廃車が始まり1997年2月のさよならイベントをもって全車が西武鉄道での営業運転を終了しました。その後38輌すべてが上信電鉄、三岐鉄道、近江鉄道に譲渡されました。 西武新宿線 小平 鈴木岳人
1969(昭和44)年以降に像日されたグループで、両開き扉を持ち、車体も丸味を帯びた形になりラインデリアも搭載され、1次よりスマートになった。冷房化などを受け、長く活躍したが1000系の増備により2008(平成20)年を持って運用離脱した。 '82.1 武庫川 P:深山 剛志
1962(昭和37)年、従来からあったセミクロスシートの300系に比べ、ローカル用として新性能車ながら2扉ロングシートの500系が誕生した。平成の時代に入り、元国鉄の101系中古車(秩父鉄道1000系)や元東急のオールステンレスカーの7000系(秩父鉄道2000系)などの入線に伴い1991年頃に引退した。現在では秩父鉄道も東急の中古車、8500系を導入しているが昭和30年代の地方私鉄は秩父鉄道のみならず、自前の新車を登場させたものであった。 '87.4 長瀞 P:永野晴樹
阪神西大阪線の延伸計画により安治川口付近の勾配のため、勾配抑速ブレーキを装備し、1974年〜1977年に製造された3801・3901形を1986年に改造した車輌。改造後は当時の最新形式である8000系と同様に3輌固定編成2本を組み合わせた6輌固定編成1本とされた。晩年は直通特急運用対応改造がなされず、阪神線区内で完結する運用に用いられていた。2009年2月に阪神なんば線の開業を待たず、廃車され、尼崎工場で解体された。 '04.8.16 尼崎 P:角中武大
1928(昭和3)年に開業した奈良電気鉄道(現・近鉄京都線)は主力車輌として17m級のデハボ1000形を24輌所有していたが、1940(昭和15)年、その増結用として登場したのが、奈良電気鉄道初の制御車クハボ600形である。パンタグラフを装備しており、一見、電動車の趣。後ろはデハボ1200形(1201)である。写真は京都行き急行。1963(昭和38)年10月に奈良電鉄は合併により近鉄京都線となり車輌も引き継がれた。 '68.9 近鉄奈良線 西大寺 P:柿浦和敏
遠州鉄道の主力形式であった30系。このうち、'68年製造のこの編成は、前年製造のモハ30+クハ80同様、側引扉に1,400mm幅両開扉を採用。性能は吊掛式で他車と共通ながら、同車は旧モハ15形と旧クハ61形からの走行機器流用車のセミ新車。当初はモハがKS33形、クハはTR11と、新製車体に不釣り合いな足回りであったが、'79年に日車製のND306A(前年新製のモハ25、クハ85と同形)エアサス台車と交換。外観や乗心地の面での見た目は向上した。また、'87年冷房改造が行われた。性能は基本的に他30系と同様ながら、機器流用車故、電気制動未装備車であった。1000系車輌の増備により'99年5月廃車。 '87.8.20 西鹿島線 遠州上島─遠州曳馬 P:梶村昭仁
現在の近鉄吉野線である吉野鉄道のクハ301形がルーツで、1929(昭和4)年に川崎車輌で製造された。吉野鉄道初の鋼製車輌で、一段下降窓を備えた片側2扉ロングシートの車輌だった。1938(昭和13)年に現在の名古屋線に移動したが、戦後再び南大阪線に戻り、1970年代まで活躍した。'66.5.2 南大阪線 矢田-河内天美 P:柿浦和敏
1929(昭和4)年、当時の大阪電気軌道(大軌)が製造した19m3扉車デボ1000形は、33‰の山越えがあるため200馬力級の電動機を搭載した高性能電車である。計8輌が製造された。同形式は電動機がウェスチングハウスだったのに対してほぼ同時に製造された同系列のデボ1100(2輌)は国産の電動機だった。 '63.9.22 大阪線 高安 P:柿浦和敏
奈良電時代はデハボ1300形(302+301)。近鉄に編入後、奈良・京都線の1500V昇圧前はモ455+ク355を名乗っていたが、1969年昇圧時に他の小形車とともに400系に編入、モ409+ク309に改番された。生駒・田原本線で最後まで活躍し1987年に引退した。 '74年頃 近鉄奈良線 富雄 P:安東大介
'69年から登場の101系電車。このうち、'72年から登場の四次車に相当する編成9本のうち、171F〜181Fの6編成(24輌)について、同社初の通勤冷房車輌として新製。基本的には今後の新製及び改造にあたっての試作的要素が大きく、集電装置(屋根上2基)搭載車両にはCU72形(42,000kcal)1基、その他に集約分散方式CU16形(8,500kcal)を5基搭載した。車室内は試作ということもあり後の量産車と異なり、天井風導の張出、扇風機を併用するなどの特徴があった。'87〜'88年に掛けて2編成が量産冷房車と同じ全車CU72形改造(175・177F)、残る4編成は未改造のまま、4000系車輛の種車となり、この試作冷房車は消滅した。 '88.11.8 西武池袋線 東久留米-清瀬 P:梶村昭仁
1925(大正14)年、新京阪電鉄開業に合わせ最初の電車として製造された10系は、「P-4」「P-5」として親しまれたが、正式には1929(昭和4)年より、鉄道省からの指示で電動車10形はデロ10、制御車50形はフロ50という形式となっている。新京阪の1500V昇圧の際にポールからパンタグラフに換装。10形20輌、50形6輌の計26輌のうち、1957(昭和32)年と1961(昭和36)年に計14輌が能勢電気軌道に譲渡または貸与され、20形となり再びポールの姿に戻った。のちにパンタに再換装、1967年まで活躍した。 1962.11.11 能勢電気鉄道 多田 P:柿浦和敏
国鉄モハ63形の割り当て車・火災復旧車、モハ60形の戦災復旧車、サハ48形の事故復旧車という20m級旧形国電9輌からなるグループが3000系であった。1964〜6年に主要機器・走り装置・一部の内装部品を再利用して、当時増備中であった旧6000系に近似した車体に更新し3010系となった。また、この時に付随車1輌(サハ3514)を新製して10輌の所帯となった。1986〜87年に主回路を換装し相鉄初のVVVF制御車となり、冷房装置も搭載して3050系となった。これにより、旅客車両の100%冷房化が完了した。1998年に脱線事故を起こして走り装置を損傷し、修復・現役復帰することなく翌1999年に廃車となった。写真は、3000系から3010系への更新が進行中の頃のもので、更新済の先頭2輌の車輌番号は不明であるが、3輌目は元サハ48025改造のモハ3005、4輌目は元モハ60003のモハ3004である。3010系への全車更新が終了するまでは、このような新旧混成編成が見られた。 '65.6 二俣川 P:長谷川武利
戦前、現在の信貴山口-高安山間のケーブルカーの上部に信貴山門に至る「信貴山急行電鉄」なる電車が走っていた。急勾配、急曲線が続く登山鉄道であったが、戦時中に不要不急路線として撤去。その電車は地平に降りて南大阪線を経て戦後長らく伊賀線で活躍した。もともと信貴山への観光登山鉄道の電車らしく14mという車体ながらRを描いた独特な大きな窓を持つなど、ユニークなデザインの車輌として伊賀線に転属後もファンには知られた存在だった。1977年に名古屋線で活躍した5000系(元6310、6330形)などの入線により引退した。なお、戦前には3輌あったが、うち1輌は戦前に転落事故のため廃車された。かつての信貴参急行電鉄の線路跡はバス道路となっている。 '75.11.23 上野市 P:永野晴樹
3501形は3011形に次ぐ急行用大型車として1958年に登場し、3扉ロングシートで今に続くレイアウトを持ち、2連窓で車体の裾に丸味を帯びたスマートな車体に赤い胴回りから「赤胴車」と呼ばれた。昇圧や冷房改造などが行われたが、基本的に大きな改造なく活躍し、平成元年に8000形が増備されると引退した。 P:深山剛志
小田急2600形は、昭和39年に登場した、小田急初の車体幅2900㎜で20m4扉を持つ大型車輌で回生ブレーキを装備し、2400形HE車に対しNHE車と言われた、当初は5輌編成で登場し、後にサハが組み込まれ6輌編成になった、昭和58年までは他形式と混結しない単独運用で各停が多かったが、混結で急行運転も使用され、また8輌編成に改編されたりした、平成12年に3000系が登場すると運用を離脱がはじまり、平成16年に引退した。 '79.7 柿生 P:深山剛志
'59年から製造されて居る1000形のうち、'63年から製造された三次車に相当する車輌から若干のマイナーチェンジが実施された。このため、番号が、1101〜(〜1242までの)付番となった。編成が当初から旅客増の対応用として6輌固定編成で登場。スタイルは61年登場二次車同様に前面貫通式スタイルを採用。また編成の組成方法を変更し、従来のMc+M'背中合わせユニット方式から、先頭車もパンタ付車としたM'+M2両ユニット方式とし、編成の組替を容易にした。当初は全車非冷房で登場、'76〜'83年の長期に渡り冷改。搭載冷房装置は、分散式となっており、8500kcai/hが4台搭載。1101〜1130が三次車、1131〜1242が四次車('64〜'68年製)にあたる。主力として活躍するも、新形式車の相次ぐ増備と老朽化により順次引退し、この次車は'05年までに引退。 '88.9.13 北品川〜新馬場 P:梶村昭仁
19歳の誕生日に夜行急行雲海に乗って博多に行った。この1300系は大牟田線の特急列車増発用として1961年に4輌編成2本が製造された。新たに製造された中間電動車2両と、600系から改造された制御車2両からなる。中間車1302.1303は車体・台車とも完全な新製で塗装の色の違いや、窓サッシの大きさの違いからも伺える、側扉は片開き2扉、側面窓は二段上昇窓。製造当初は特急用として使用されたが、2000系の製造により特急運用を離脱し、塗装をアイスグリーン地に赤帯(ボンレッド)の塗色に改められた上で一般車輌に格下げされた。しかし先頭車が半鋼製の狭窓車体であることから3扉化が困難なため2扉のままで、座席もロングシートを増設した以外はクロスシートのままであった。また先頭車の車体構造上、冷房化改造も実施されなかった。このため1985年大牟田線の営業用稼働車両の全面冷房化を実施した際に運用から外された。構造上、宮地岳線への転用改造もできず、1986年に廃車となった。 '79.11.26 福岡天神 P:松本卓彦
神戸電鉄 301+302
1960(昭和35)年に登場した2扉クロスシートで、軽量構造の17.5m車。301〜304の4輌が製造された。ごつごつした印象の15m級の車輌の多かった神鉄にあって、シルバーグレーにオレンジの窓回り当時流行の正面二枚窓の電車は一際スマートなイメージだった。1971(昭和46)年にロングシート化、1972(昭和47)年に3扉化され1994年まで通勤輸送に活躍した。 '63.2.3 神戸電鉄鈴蘭台 P:柿浦和敏
1964年から製造を開始した2扉デッキ無しのセミクロスシート仕様車で、扉間はクロスシート、扉より車端部はロングシートとなっていた。Mc(モハ6100)+Tc(クハ6200;トイレ付き)の2両ユニット構成で、写真は浅草方先頭車のモハ6100である。22ユニット44両が製造され、主として日光線系統の快速列車用として使用された。非冷房のまま終焉を迎え1985年〜1986年にかけて主要機器・台車を再利用して地下乗入規格準拠・冷房付の6050系に更新されて発展的に消滅した。 '75.3.11 東武日光 P:長谷川武利
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'88年に西武571系のクモハ577とクハ1578を2輌編成で譲渡。当時在籍していた旧451系譲渡車の601系の続番、クモハ607とクハ1608に改番の上、就役。従来の601系と異なるのは前面に行先表示器が埋め込まれているか否かの差異であり、その他はほぼ同様。性能は等は西武時代と替らず(CS-5系制御器、AMAE制動等の吊掛駆動)。台車は三岐入線後、たびたび振替が行われ、最終的にはMc車が旧京帝1900形のKBD107、Tc車が西武のFS-342となっていた。その他、使用環境のに応じて変化(側引扉SUS化、ワンマン機器搭載等)が生じたが、総じて非冷房のまま使用。西武から新101系の譲渡車輌と代替、'09年02月引退。 '08.9.14 三岐線 北勢中央公園─保々 P:梶村昭仁
西武鉄道371系2輌を西武廃車後の'76年に譲渡。車号はモハ311(=元クモハ374)、クハ511(=元クモハ371で大井川入線後に電装解除)のMT2輌編成。車体は3扉17m級半鋼製車体、元を質せば旧国鉄11形400番代。台車や性能はTR10系、CS5主制御器など旧国鉄時代の装備品そのまま。ワンマン化などが行われるも塗色以外の車内外は西武時代そのままの雰囲気であったが、'88年に中間扉を撤去し2扉化、同時に中古の転換座席を装備しかつての14形の雰囲気を髣髴とさせるスタイルで活躍するも車体・主要機器の老朽化に加え、冷房付の譲渡車輛の投入により'98年引退、廃車。 '89.9.1 大井川本線 新金谷─金谷 P:梶村昭仁
1949(昭和24)年の電化に際して、それまで使用していた加藤製の気動車6輌の内燃機関と関連装備を撤去、吊り掛けモーター4基を搭載し電車化、モハ50〜55とした。4軸駆動で比較的出力が大きかったことから、台枠を補強の上、バッファー付きのネジ式連結器を追加、客貨車の牽引にも使用できるようにした。簡易式連結器と併用したため連結器が上下に並んでいる。鮮魚台付きの電車はきわめて珍しい。夏なので扉はこのまま開け放して走っていった。 '63.8.2 下津井 P:柿浦和敏
1959(昭和34)年、南海では国鉄63形であるモハ1501形8輌をクハに格下げの上、それらの電機品を用いてモハ1521形を新造、空気ばね台車を装備した4扉車で中間にサハ3801形を挟んだMc-T-Mc通勤形が4編成出来あがった。続いて1961(昭和36)年から翌年にかけてモハ2001形4輌をクハに格下げて、モハ2051形4扉車のMc-t-t-Mc4連が2編成が登場した。両者は外見上同じ様に見えるが、モハ1521形は150馬力で速度は余り出ないので普通用を目的としたが、モハ2051形は200馬力の大出力なので、当初から急行にも用いるようにシートなど当初モハ1521系にはなかった暖房装置も装備、座り心地のよいシートなど急行用にふさわしい内装であった。大出力モーターを装備するため、モハ2051形の台車の方がホイルベースが長くなっている。昇圧に際してモハ1521形同様、ローカル用に残存することになったがそのうち3輌は200馬力のモーターは不要なので1521形と同じMT40を流用してモハ1529〜1531となり残り1輌は他のサハともどもクハ3901形に改造された。写真にある最後部のモハ2052は昇圧後はモハ1530となり、1995年の廃車後は弘南電鉄に譲渡されたが、旅客列車に用いられることなかった。平賀の車庫で入替え用として残っていたが、かなり荒れ果てた状態で相当以前から放置同然だった。現状は不明である。 '65.8 南海本線 萩ノ茶屋 P:永野晴樹
1936(昭和11)年から兵庫電軌旧型車の更新名義で一部部品を流用し製作された200形は、流線形車体の2扉車で、1941(昭和16)年までに電動車12輌(201〜212)、制御車3輌(111〜113)の計15輌が就役。1943(昭和18)年には3扉車グループ114〜123が帝国車輌で製造された。こちらは旧型車からの部品流用はなく、山陽電鉄初の純然たる新製車である。1944(昭和19)年124〜126を川崎車輌で製造、1945(昭和20)年127〜132を田中車輌で製造、さらに同年、兵庫電気1形種車として133〜135が川崎車輌で製造したものが加わった。それぞれ製造所、時期により端面の形状などに違いがある。戦災で消失した3輌を除く19輌が1950(昭和25)年215〜233に改番された。ちなみに2扉車15輌は200〜214となっている。写真は電鉄兵庫駅を発車した219+218が、最徐行で併用軌道に進入する下り列車。200形は貨車に改造された2輌を除き1969年までに全車廃車となっている。貨車となった2輌も1981(昭和56)年廃車となった。写真の219・218ともに1967(昭和42)年8月の廃車である。 ’63.2.23 山陽電鉄 兵庫 P:柿浦和敏
中学生のとき父親に連れられて屋島に行ったときのスナップ。志度行き電車の開け放たれた前面窓に「かぶりつき」で交換する電車に夢中でシャッターを切った。扉は「手動」で暑い夏はすべて開けたまま…まさに古きよき時代。
3000形は1925(大正15)年、高松琴平電気鉄道開業時に導入された1000形とともに導入された車輌で、半室運転台の3扉車。日本車輌において5輌が製造された。1967(昭和42)年から更新改造を施され乗務員扉、貫通扉、戸袋窓などが更新された。写真の345号は335号とともに1983(昭和58)年に主電動機のパワーアップが行なわれた。現在300号がイベント用として保存されている。 ‘693.8.2 高松琴平電鉄 志度線 P:柿浦和敏
変遷が極めて複雑なのでこの欄では詳述できないが、 昭和24年、運輸省の規格形電車として登場、当初は2Mc+1Tの3輌編成で登場。自動加速、弱め界磁付きのABF制御の当時としては戦前製のデハ1600形に続く高速性能に優れた電車であった。この電車を基本として、特急用の2000形や1700形等の優れた電車の基本となった。昭和35年頃にはデハ1900形は更新改造を受けて4輌固定編成となり、正面のHゴム化や、側面の窓のアルミサッシへの改造、車内のシートの座り心地の改善なども行なわれた。写真は新宿行き快速準急の始発列車であるが、この列車以外は高性能車による運転であった。それに伍して活躍するデハ1901以下の編成。 '68.12 喜多見─狛江 P:永野晴樹
もと新京阪のデイ100と呼ばれた歴史的名車。昭和2年に誕生、大阪の天神橋と京都四条大宮間を超特急は最高速度120km/h、34分で走破! 大山崎付近の並走区間では戦前の特急「燕」を追い抜くなど、京都-大阪間のインター・アーバンの代表的存在であった。初期の車輌は全鋼製で、後には半鋼製車も登場した。バッファー付きの大形幌が特色であったが昭和36年頃から阪急式の一枚幌に改造されて、魅力を失った。とはいえ、駅間の長い京都線では普通であっても110km/hで疾走した。(ATS設置後は105km/h)昭和49年に惜しまれつつも引退。現在116が阪急の技術遺産として、かつての大型幌に復元の上、動態保存されている。 1972.5.2 阪急京都線 正雀-南茨木 P:永野晴樹
'54年1月に池袋-御茶ノ水間で開業した丸ノ内線で'56年以降の東京・西銀座(=銀座)までの延伸と共に旅客増による輸送力増強から従来に比較して片側乗務員室化、客室面積を増強するという設計思想から'57〜'63年に500形が234輌が登場。また'62年の全通後中間電動車として900形が'65年8輌、'68年12輌の計18輌が登場。性能は300・400形に、車体は両運の400形からの踏襲で肩部に換気用スリットを切った一段屋根構造でこの片運転台ないしは運転台無のスタイル。500形については〜644までが方向幕左右に種別灯具が配置された前期型、これが廃止された645('60年製)〜の後期型に区分。この種別灯、開業時行先を示す補助灯として、御茶ノ水=御茶=黄(緑)色、池袋=池=水色が点灯したが、路線延伸で意味が為さなくなり早々に点灯を廃止。
余談だが車体のスカーレットメヂアム+白線内正弦波ステンレス模様のベースカラーは、英国煙草ベンソンアンドヘッジェスが起因。後の東西線のラインカラーも起因は煙草のハイライト・ブルーで、当時の営団は煙草に因縁が深く時代性が垣間見られた。
主力として活躍するも後継車輌に冷房化の時代となって、'91〜'96年に掛け引退。
なお、同形の大半がアルゼンチン地下鉄にお輿入れして活躍中。写真は先頭が500形後期型、2輌目が900形。 ’88.5.17 丸ノ内線 御茶ノ水-淡路町 P:梶村昭仁
'39年に旧東横電鉄時代に製造されたモハ1000形を前身とするデハ3500形。このうちデハ3508は、'47年4月に渋谷駅構内で発生した車輌火災による被災車輌で翌月に一旦、クハ3650形クハ3657号として復旧。しかし車体の老朽化が著しくなり、当時製造中だった、クハ3670・3770形用の全金属車体への載せ換え、同時にデハ3508号へ復帰を果たした。この時点で唯一の貫通スタイル。ノーシル・ノーヘッダーと他の仲間達とは姿形が全く異なる車輌となった。その後の車体更新で張上げ屋根、前灯シールドビーム化改造は仲間と共に施工。唯一の貫通スタイルはそのままとなり、'89年まで活躍。ちなみにこの大更新後、同線に所属のデハ3801号と似た者同士となったが、車輌の向きのほか、下回りが異なるため、容易に見分けがついた。 '87.12.22 目蒲線 多摩川園 P:梶村昭仁
相鉄5000系は1955年に登場した車輌。登場当時は18m3ドアの車体で、日本で初めてボディーマウント構造を採用した鉄道車輌として話題を呼んだ。5000系は合計20両製造された。その後1972年に現在のアルミ車体、20m車に車体更新され、5100系となり、1988年にVVVFインバータ制御装置に改造され再度5000系を名乗るようになった。5000系のVVVFインバータ制御は独特の走行音でありファンから絶大な人気を得た。しかし10000系の導入により2005年に5051Fが廃車、最後まで残った5053Fも11000系の導入により、2009年2月11日のさよなら運転を最後に引退した。さよなら運転では、引退記念ヘッドマークを取り付けたほか、前面の行先表示が横浜寄りは感謝、海老名寄りは希望が表示され最後の花道を飾った。さよなら運転終了後旧形車体の時代を含め54年に渡る長い活躍に幕を閉じた。 '09.2.11 相模鉄道 いずみ野 P:福田智志
1964年のデビュー後、22編成が製造され、小田急の主力通勤電車の一翼をにない、急行や各駅停車に活躍し続けた2600系も、2004年6月、小田急旧標準色に塗り替えられて最後を飾った。写真は「フラワー号」として活躍していた現役時代のワンシーンで、新松田駅に到着するところ。 '68.4.21 小田急電鉄 新松田 P:中浦秀和
もと阪神の831形で昭和3年より製造された急行用電車である。昭和39年までに廃車となり、そのうち10輌が叡山線に入線した。当初はポール集電で、さらに京阪京津線で不要となったスライダー・シューのポールに取り替え、晩年はパンタグラフに改造された。デオ600形に機器を譲る形で廃車が始まり、最終的には昭和57年夏の踏切事故によってすべての運用は終了した。 '74.12 修学院 P:永野晴樹
'86年旧3801・.3901形8輌のうち、'74年製Tc3903+M3803+M'3804(大阪方ユニット)と'77年製M3805+M'3806+Tc3906(神戸方ユニット)を6両編成として組成、Tc車8901形、M車8801形、M'車8701形に改番。性能は旧形式から踏襲、三菱製ABFM直並列抵抗制御、制動は西大阪線難波延長計画線規格に基づき連続こう配区間対応に発電・抑速制動併用HSC-D式。主電動機は直流直巻式平行カルダン駆動式。出力は130Kwにアップ。台車は初のエアサスS型ミンデン式FS090・FS390採用。種車の関係でTc8902は車体長が100mm長く、神戸方ユニットは新製時から側・正面字幕が標準であったが、大阪方は改造設置のため、印象が仔細に異る。阪神線急行系運用にて活躍も、難波延長線計画に近鉄線乗入が加わった為、新形式投入と1系列1編成の異端車故、'08年11月以降運用離脱、'09年02月中旬に廃車、解体。ひっそりと消滅。 '05.12.25 阪神本線 阪神甲子園─鳴尾 P:梶村昭仁
'71年登場同形4次車かつ最終製造車。西武所沢工製で当時の西武701・801系類似デザイン車輌。性能は吊掛駆動で台車・制御器等は旧国鉄払下げ品の流用車。車体色も西武色のウオームベージュ+ローズレッドのツートン。車内は固定式セミクロスシート、側窓配置もそれに準じた配置に。後年西武701系列のFS342台車を流用、カルダン化。ただし非冷房のまま終始し、後継冷房付新車と交替、'02年までに引退。 '90.4.9 駿豆線 三島二日町─大場 P:梶村昭仁
営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線の分岐線(中野坂上〜方南町間)開業から使用していた100形の置き換え用として昭和43年に銀座線から10輌(2031〜2040)転属してきた、転属に際し500形等より車体幅が200mm狭いのでステップを取り付け2輌編成5本に組成して使用された、写真の時点ではほぼ原型で前照灯1灯、行き先幕も銀座線のまま、この10輌は昭和34年銀座線に最初に配属させたグループで台車は金属バネのFS323、その後前照灯の2灯化、行き先幕の更新、さらに昭和56年に分岐線輸送力増強の為銀座線から8輌(台車は空気バネのFS331)が転属となり3輌編成6本に組成された、平成5年になり銀座線の同型車が廃車されるのと同時に廃車され本線500形(1輌は300形)を3輌編成6本とし使用されたが平成8年になると分岐線専用02系が登場するとこれら500形等も廃車された。写真の2040号車は片側に運転台を取り付け銚子電鉄の1002号車として健在である。 '73年頃 方南町 P:田中健吉
1983年に引退し、その後、伊予鉄道に譲渡された2000系。1963年に導入され、1996年営業運転を終了後、富士急行や一畑電鉄、高松琴平電鉄等の地方私鉄で活躍中の名車5000系など、京王電鉄のかつての主力電車が桜上水電車区に一堂に会した1970年4月のスト決行中の一コマ。 '70.4 京王線 桜上水 P:中浦秀和
昭和5年(1930)現在の阪急神戸線用に登場した特急用電車である。当時は600V電圧であったため、両運転台の900形は200馬力、2個モーター車として登場、詳述は省くが大阪・神戸間の特急25分運転の立役者となった。以後「阪急スタイル」として現在に至るデザインの基本となった事でも特筆すべき存在である。写真は900形が本来の姿で活躍していた末期のもので、後に昇圧対策により様々な改造が行なわれたが、現在もトップナンバーの900は阪急の技術遺産として保存されている。 '65.7 中津 P:永野晴樹
'59〜'78年の19年間にわたり製造された京浜急行を代表する車輌1000形。このうち、'59〜'60年に掛けて48輌が製造されたのが1次車。デハ1001〜1048まで、初の4輌固定編成、全電動車方式採用。都営地下鉄1号(現・浅草)線と相互直通規格に基づき製造されるもこのグループ従前スタイルを踏襲した為、前面2枚窓非貫通でデビュー。編成はMc+M'+M'+Mcと中間M車にパンタ搭載車が集中しているのが特徴、この後、'61年以降製造の2次車までの特徴。性能としては当時標準であった、直並列制御、発電制動付。主電動機出力は75kwと小型ながら、オールMにより加速3.5km/h/s、減速4.0km/h/sと勾配の多い地下線区から平坦区間の高速走行まで柔軟にこなせる性能。'69〜'72年に前面貫通化、'79〜'84年に冷房改造実施。1000形冷房装置は、集中式が新製から搭載、分散式が改造車で容易に見分けがついた。また、非貫通の改造の1次車と貫通で新製された2次車以降の前面下端のアンチクライマー形状が異なっていいた。新製後一時期、東急TS313及川崎OK-22エアサス台車の試験装着を行っていた編成でもあった。新形式投入以降、'88〜'91年に順次引退、1次車グループは消滅。 '88.9.13 京浜急行本線 北品川─新馬場 P:梶村昭仁
1955年〜60年の間に20輌製造されたモノコック車体構造、全電動車方式、17〜18m車体の旧5000系の機器、走り装置を使用(一部電動機出力増強)して、1972年〜1975年にかけてアルミ合金製20m車体に更新したもので、この時代は5100系と称された。旧5000系より車体長が伸び冷房装置も搭載したが、質量は同等となっていた。後年の9000系まで続いた油圧パワーウィンドウを装備したのは本形式からである。1988年〜89年にかけてVVVf制御化改造を行い、2M3T×4編成に仕立て直され(5輌+5輌の10輌編成で使用)再度5000系となった。2005年末で一旦運用を離脱し、1編成-10輌は廃車となったが、残った10輌は現役に復帰し、2009年2月11日の「さよなら運転」を最後に引退した。写真の5105を上り方先頭とする6連は、旧5000系から5100系への更新が進行中の、双方が営業に就いていた1973年のもので、期せずして「さよなら運転」と同日の2月11日の撮影である。 '73.2.11 天王町 P:長谷川武利
写真のクモハ202は元国鉄クモハ20054である。更に元を正せばかつては阪和間ノンストップ45分で走破した超特急にも活躍した阪和電鉄のモヨ106である。1966年に国鉄廃車後、200馬力の大出力モーターを買われてクモハ20052と共に松尾鉱業に引き取られ、勾配区間で国鉄乗り入れのキハ52や自社の客車牽引に活躍した。しかし1969年には旅客営業を廃止した為、弘南電鉄に引き取られ、モーターを低出力のものに取替え、さらにクハゃやサハにかく下げられながらも、末永く活躍、平成元年ごろに解体されたようである。 '67.8 大更 P:永野晴樹
1964年の開業時に登場し、1978年まで使用。された初期の車両である。現在の車両よりもかなり小型で車体長は先頭車でも10mそこそこで、走行装置はボギー台車ではなく2軸車であった。丸妻の先頭車が100形、流線型の先頭車が300形である。先頭車の運転室部分のないタイプの中間車が200形、運転室部分を客室としたタイプの中間車が350形である。これらを3両1ユニットとして1ユニットまたは2ユニットで運用されていた。 '66.4.29 大井競馬場前 P:長谷川武利
西鉄1形(2)は、西鉄宮地岳線の前身である博多湾鉄道汽船(湾鉄)が、1925年に導入した客車(ナハ1〜3、川崎造船所製)で、1929年の電化時に電車化され、デハ1〜3となった。西鉄となった後の1945年に「デハ」から「モ」に改められ(デハ1→モ1・デハ2→モ14・デハ3→モ2)、写真のモ2は、1961年に鋼体化。1979年3月廃車された。 '75.1.4 西鉄宮地岳線 宮地岳-福間 P:三津安永
1939年に製作された銚子電鉄初のボギー電車で全長は11mに満たない(台車は1926年製のナロー車両用を改軌したもの)。1953年に半鋼製(半木製?)の車体を鋼体化改造、1966年に集電装置をポールからビューゲルに交換して使用し続けられたが、小型車故に出番が少なく後継車両の入線によりほとんどど予備車化し1999年に廃車となった。 '74.6.15 銚子-仲ノ町 P:長谷川武利
姫路行き各停の2700系が東二見で先行する下り特急の到着をのんびりと待っていました。出発は特急が発車した後です。2700系は700系の台車と2000系の車体を組み合わせて作られ、2扉クロスシートと3扉ロングシートがありました。写真の2705は3扉ロングシートです。 ’76.3.14 東二見 P:永井修二
京津線の急行用に木造の100形機器を用いて1957(昭和32)年に製造した。当初はヘッドライトが一つで片開きであった。後にはヘッドライトは2灯、両開き扉になるなどモデルチェンジをしながらも旧形車の機器を流用しながら増備を続けた。1970年にはパンタグラフ化、更には片運化、2灯化されるなど改造されたが、晩年は石坂線で活躍した。1997年に京津線が京都市営地下鉄と相互乗り入れを開始に当たって引退した。 '66.7 浜大津付近 P:永野晴樹
'87年にAL系3850・3900形の走行機器を流用した更新吊掛車として3輌編成4本、12両がデビュー。台車にはFS107、FS13等が流用。車体は6000系五次車以降に準じながら側扉が左右対称配置に。側窓も一段下降式を採用。同時期デビューの瀬戸線用6650形とは異なる側面であった。性能は旧式でも補助電源にSIV採用、冷房搭載。車内はロングシート以外、概ね6500系と同様。豊橋方からモ3300形+モ3350形+ク2300形の2M1T。本・支線問わず活躍するも編成輌数が災いしてか晩年は小牧・築港線を中心に活躍。'03年3月末までに運用離脱、廃車。 '89.3.18 名古屋本線 名電長沢-名電赤坂 P:梶村昭仁
伊豆急200系は開業当時から活躍をしていた100系を置き換えるために2000年にJR東日本の113系と115系を改造して導入した。登場当時は4輌編成だったが、のちに3両編成に組み替えられた。しかし元東急8000系の導入により廃車が進み、2008年12月14日のさよなら運転を最後に引退した。200系は結局わずか8年という短い期間で営業運転から離脱した短命の車輌となった。 '08.12.14 伊豆急行 伊豆急下田 P:福田智志
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三国芦原電気鉄道引継の半鋼車で、全長14.6m、正面非貫通、楕円形の飾窓、オワン形ベンチレータをのせた日本車輌製。写真のホデハ12は、昭和3年12月竣工し、昭和49年11月に廃車となった。 '74.7.23 京福電気鉄道越前本線 勝山 P:三津安永
初代名古屋鉄道デセホ700形として1927(昭和2)年に10輌製造された。同社初の半鋼製車である。また、同年11月の昭和天皇犬山行幸の際、デセホ707と他1両が貴賓車SCⅢと共にお召列車の大役を果たしたことは特筆すべきであろう。瓜二つの弟分モ750形との見分け方は車体の裾部の形状で、凹凸が深い方がモ700形である。当初西部線の主力として活躍したが、同線昇圧後は600v各線を転々とし、各務原線昇圧時までに7輌が他社への売却や廃車となっている。残る3輌が瀬戸線での活躍を経たのち、モ704が1973(昭和48)年に、残る2輌も1978(昭和53)年に揖斐・谷汲線へ転属、主にク2320形を従え揖斐線内のローカル列車や谷汲線の多客時輸送に従事した。モ702がモ755の事故復旧用部品供出のため1992(平成4)年に廃車、残る2両も1998(平成10)年のモ780形増備時に引退した。写真は当時1本設定されていた夕方の急行運用に就くモ703。 名古屋鉄道揖斐線 黒野-相羽 '97.3.27 P:古川泰典
2008年12月20日、京阪1900系がついに引退した。旧1810系としてのデビューから52年、総勢45輌のうち最後まで活躍したのは5連x2編成の10輌であった。最終日のさよなら運転では、2編成とも「臨時特急」として京阪間を快走し、非常に多くのファンの見送りを受けた。中でも、特急色に復元されて引退を迎えた1929-1930編成(写真は同編成の約25年前の姿。編成は引退時と異なる4連)は、今回に限り前面に「原型」を思わせる装飾(幌枠・幌吊・ドアノブ・窓枠など)が行なわれてひときわ大きな注目を集めた。大きく括れば3度の改造を受けた同系(2扉特急車から3扉通勤車へ、そして昇圧準備工事、さらには冷房改造)であるが、今回の「原型ふう」装飾は、この写真の時代のものに近い(幌枠・幌吊・Hゴム等の色のイメージが近い)と個人的には感じた。1900系としてのデビュー直後、今は亡き祖父に背負われて「赤い特急」として疾走する姿に強烈な印象を受けて以来四十数年間、数え切れないほど乗車し、撮影した車輛の引退に、大きな拍手を送りたい。 '82年 八幡市 P:清水祥史
もと阪神の喫茶店電車と言われた800番代のグループは昭和40年夏に阪神本線の優等列車運用から引退、その中で製造年代が比較的新しい881形は16輌が高松琴平電鉄に転入、当時600Vだった志度線と長尾線に活躍した。後に両線が1500Vに昇圧した際に引退したが、昭和53年に引退した京急の230形が高松琴平電鉄の30形として登場の際には、もと阪神電車のモーターを譲るなど、複雑な台車やモーターのたらい回しが行なわれた。 '75.8 瓦町 P:永野晴樹
'72年、McTMTc4輌固定編成で名古屋線に登場。2800系冷房車と同時期ながら旧1300・2200形からの機器流用吊掛駆動(150kW)車。非冷房、ラインデリア装備で、車体のみ新製。'80年以降冷改、また'85年以降、高性能カルダン車化と同時に1C8M界磁位相制御・回生制動付の省エネ車に。編成がMcMTTcに。また搭載補助電源装置の都合で1810系ク1924と形式交換。4輌固定故優等運用に多用の関係から'86年、サ1151にWC設置。'98年に運用都合で大阪線2430系のク2546とサ1151・ク1101と車輌交換、以後他1000系3連車と同様に活躍。その後活躍するも大阪線系統への新製車投入の玉突き及び車体老朽化とも相まってモ1001・モ1051が'07年2月に、大阪線2430系(モ2446・モ2466)と編成を組んでいたサ1151・ク1101も翌3月に揃って廃車となり、編成で廃車、消滅。写真は3輌編成でモ1001+モ1051+ク2546の近鉄名古屋行普通で活躍中の晩年の姿。 '02.10.14 名古屋線 箕田-伊勢若松 P:梶村昭仁
1959〜1966年に名古屋線の主力通勤車として製造された1600系の「増結用Mc車」(クモハ)がモ1650形。1963〜1966年に合計9輌が製造され、長く名古屋線で活躍したのちも「増結用Mc車」の機動性が買われ、多彩な車歴を刻むこととなった。まず、総数9輌のうち4輌は、1982年の京都線急行5連運転開始にあたって同線に転属して1990年まで異彩を放ち、その後も全車が救援車・入換車といった事業用車に転用された。また、名古屋線に残った5輌については、1輌が1989年に廃車となったが4輌は冷房改造を受けて1992〜1994年まで活躍、さらには養老線(現・養老鉄道)に転属して今なお現役を続けている。写真は京都線で活躍した時代のもの。朝ラッシュ時に4連急行の先頭に途中駅(新田辺)で増結され5連となった急行の先頭に立ち京都駅にやって来たのち、同駅で解放・単車で留置され、別の到着列車(折り返しが車庫のある新田辺どまりとなる列車)の最後部に増結されて車庫に戻る、というユニークな運用も存在した。 '82.7 近鉄京都 P:清水祥史
京福電鉄福井支社 モハ252
1930年日本車輌製のホデハ11形17であったが、1957年の福井口車庫火災により焼失した。1958年日本車輌に於いて車体を新造し、ホデハ252形252として竣工。1973年にホデハ251形に統合され、後にモハ252となった。モハ251が2000年12月17日に正面衝突事故を起こし、同構造の252も廃車となった。 '00.5.21 東古市 P:佐野 徹
昭和4年、現在の大阪線が桜井まで延長した時に大軌が始めて製造した19m級の大型車である。当初は600Vだったので1500Vとの複電圧車として登場した。33‰の急勾配に備えて200馬力の強力モーターを装備したが電制はなかったため、青山越えはできず、晩年まで名張や青山町までの区間列車に活躍した。翌年の増備車からはすべて20m車となったので、大軌19m車は同時に製造した1100形2輌(後に付随車となる)を含めて10輌のみの存在であった。 '67.10 高安車庫 P:永野晴樹
旧目蒲・旧東横両電鉄が’31〜’36年に併せて50両製造(モハ510〜565 但し末尾3は欠番)、関東私鉄名車の一つ。日本車輛(3450〜3452・3457〜3459)製と川崎車輛(3453〜3456・3460〜3499)製。この内、川崎製は丸妻スタイル採用、初期車は前面アンチクライマを設置して居たが、後期車は廃止されのっぺりした表情に。’42年以降、東京急行電鉄成立後、デハ3450形に改称。その後前面の貫通化改造も行われ、表情に変化が見られると共に、’64年以降、室内外更新改造で側窓天地を100mm切上げ(900→1,000mm)て、初期鋼製車両独特の深屋根の重苦しさが和らいだ感じに。東急各線で活躍するも、晩年は目蒲・池上線を中心に活躍。’89年までに全車引退。写真のデハ3493は’36年製造車の旧モハ558。’89年まで活躍。 '88.3.30 目蒲線 多摩川園 P:梶村昭仁
京伊直通特急用18200系増備車として'69〜'72年に製造。車体長が20m級となるも京橿線系統規格向上前後の登場の為、車体幅が2,670mmと細面に、またパンタ取付部が低屋根構造が特徴。Mc+Tc2両固定で10本20両登場。登場時12200系に準じて'69年製の401〜408はスナックコーナー付で製造。'72年製の409・410はスナックコーナー無しとなるなど次車で変化も。'84年以降他特急車と同様に全面部の更新改造が始まるも、409・410は施工せず、'97年409は形式そのままで「あおぞらⅡ」増結用に改装、410は同年中に廃車。残った編成も老朽等により2000年度中に全廃、消滅した。 ’88.8.24 大阪線 長谷寺─榛原 P:梶村 昭仁
近鉄8000系は昭和39年の新生駒トンネルの使用開始に合わせて登場した。奈良線を代表する形式で、900系を基本に206輌も製造され、長編成で使用される姿は、特急車と伴に近鉄の顔でした。現在は廃車が始まり、50番代以前のラインデリヤ装着以前の車輌は引退した。 '82.4 近鉄大阪線 鶴橋 P:深山剛志
今やすべて消え去ってしまった小田急の電車たち。左はHB車と言われた昭和2年製、当時の小田原直通用の長距離電車の最後の姿。中間はいわずと知れた、小田急が誇った連接式ロマンスカー、SE車の改造前の姿。右は小田急が2M2Tにおける高加速・高減速用に開発したHE車、2400系である。戦後小田急では、ロマンスカーによる高速運転や、激増する通勤輸送の為様々なユニークな電車を開発し話題となったが、現在では世代交代した電車が活躍している。撮影場所の東北沢も地下線工事の為、状況は一変している。 '64.8 東北沢 P:永野晴樹
東京急行電鉄成立後の'42年川崎車輛で6両登場。旧東横1000形(=3500形)の流れを汲むスタイルながら片運転台の制御車として登場。非運転台側が切妻式、1,100mm幅広幅貫通路を備えたスタイルで当初、これと相手を組む電動車が計画されるも第二次大戦のどさくさで実現せず。暫く窓付き仕切板で閉鎖されていた。'52年に全車電動車(クハ→デハ)に。また'53年以降サハ3360形を挟んだ固定3両とし、晴れて広幅貫通路の使用開始。その後は'72〜'73年に車体更新、偶数車の前面貫通化等、変化をみせながらも晩年まで終始、池上線を中心に活躍。デハ3655が十和田観光電鉄に譲渡された以外は'88〜'89年に引退、消滅した。 '89.3.15 目蒲線 田園調布〜多摩川園 P:梶村昭仁
昭和38年淀屋橋延長に際して、京阪電鉄では特急車を転換クロスシート・空気バネ台車に統一するために、1900系は一挙に28輌増備された。旧来の特急車より前面が近代的なデザインとなり銀色のバンパーが付き、側面はウィンドシルがなくなった。昭和47年から一般に格下げのため3扉化されたが、走行性能が安定していたために、しばしば臨時や代走で特急運用についた。その後、昭和57年までに昇圧改造を行い、昭和60年に冷房化された、その際に前面が改造され編成も5輌編成になった。その後交野線・宇治線で主に使われたあと、本線の急行・普通運用に戻り、本年の中野島線開通前日をもって運用から離脱した。 ’82.4 中書島 P:深山剛志
京阪電鉄1900系の内旧1810系グループは昭和31年に1800系の増備として、車体を1m延長し後の標準車体となった。1900系が登場すると1900系に編入され台車も空気バネに履き替え・窓に保護棒を設置した。その後は1900系の一員として活躍したが、シールドビーム化の際に写真のような特徴あるライトケースに入れられた。その後昭和60年に冷房改造を行ったが、この時点で車齢30年近くの車輌を冷改するのはあまり見られなかった。その際1914以外は中間車になり、1914は1900のような前面に改造された。本年中之島線開通に伴い引退したが、車齢50年を超えた車輌もあり、長寿を誇った。 '82.4 京阪電鉄本線 P:深山剛志
南海鉄道が明治42年から製造を続けた正面5枚窓の流線型木造車は、タマゴ形木造車と呼ばれ、後に関西私鉄に大流行したが、南海でも増備を続け、この車輌は高野線の急勾配区間用に大正13年に製造した電8形である。後に50‰の高野山電鉄との直通に際して、回生制動も装備した。戦後はおもに加太線に活躍したが昭和37年に引退した。写真は解体直前北野田駅に留置された、南海最後のタマゴ形木造車の姿である。 '65.4 南海高野線 北野田 P:永野晴樹
高松琴平電鉄の1020形はもと名鉄の3700系で名鉄で木造車輌を昭和32年頃に車体を新造して更新したが木造車輌の電動機を再利用したため、出力が小さく出足が悪かったため、ダイヤが組みにくくなり1969年頃から高松琴平に譲渡されたが1973年にオイルショックが始まったために、一部が譲渡されたのみでした。1980年頃に他形式との連結のため台車等を変更、さらに1985年頃に一部の車輌がHL制御のままカルダン式の台車を履き2004年11月まで活躍した。 ’82.8 仏生山 P:深山剛志
この形式誕生前後の経緯は極めて複雑なので省略するが、写真の20m級クモハ501は西武鉄道所沢工場で昭和32年に製造された電動車である。当時他の大手私鉄では何らかの形で高性能車を登場させていたが、西武鉄道はその後も吊掛け式の電車を所沢工場で作り続けた。20m級の501系は昭和50年の伊豆箱根鉄道への譲渡を皮切りに淘汰が始まり、最後は1999年に総武流山電鉄への譲渡車が廃車になったのが最後であった。 ’75.12 東吾野─吾野 P:永野晴樹
昭和54年12月20日開業の千代田線綾瀬─北綾瀬間開業に先立ち(写真は開業前の習熟運転)3輌編成3本が用意された。1本は6000系試作車を営業車化(性能を5000系と合わせた)した車輌と5000系1本が用意され、もう1本は予備車は本線5000系5輌+5輌を編成替えし3輌+7輌としたものを充当した。その他、千代田線に所属した5000系47輌は、6000系の増備と東西線の輸送力増強で昭和56に東西線に転属した。千代田線にはこの区間で使用する6輌のみが残ったが、東西線から5000系アルミ車が転属すると、平成12年に廃車となった。東西線所属の5000系ステンレス車も、東葉高速へ譲渡されたものを含めて平成19年までに消滅した。現在、5000系アルミ車6輌が残っている。'79年 綾瀬 P:田中健吉
いわゆる高性能車の導入が本格化した昭和30年代に、高加速・高減速・回生制動常用などの特徴をもって京阪線に登場した通勤車が2000系。「スーパーカー」として親しまれた。1959年〜1966年に合計100輌が量産され、1982年まで活躍。昇圧対応・冷房化のために1978年〜1982年に全車(2200系からの編入車3両を含め103両)が2600系に生まれ変わった。写真の2004号車(1959年製造)も、その車体・台車などが2600系2826号車に引き継がれて今なお現役である。この時代、関西大手私鉄5社に登場した通勤車には、他にもラビットカー(近鉄)・オートカー(阪急)・ジェットカー(阪神)・ズームカー(南海) といった愛称が付けられた。いずれも、今から見ると素朴な外来語を使ったネーミングであり、古き佳き時代を感じさせるものである。 '80.11 御殿山─牧野 P:清水祥史
昭和3年に開業したもと奈良電気鉄道のデハボ1000形は昭和38年に近鉄となり、形式もモ430形となった。京都・奈良間を結ぶ高速電車であるが、当初より大和西大寺と奈良間は当時の大軌、現在の近鉄奈良線に乗り入れるという形態であった。戦後丹波橋で京阪とも乗り入れることになり、路線を変更したが、京都行き列車は京阪本線を平面で横断したため、列車増発の為昭和43年に現在のような旧線を復活した立体交差の姿となった。旧奈良電デハボ1000形の急行電車は平坦区間でノッチを入れっぱなしにして走ると90km/h程度は軽く出て、軽快に飛ばした記憶がある。大阪万博を控えて、近鉄奈良線を始めとした600v区間は1500Vに昇圧したため、大半は廃車となったが、その内2両は大阪線用の木造荷物電車、モワ2831形と車体を取替えて昭和52年まで活躍した。 '67.12 京阪丹波橋(近鉄京都線が乗り入れ時代) P:永野晴樹
上信電鉄200形は1964年に東洋機工で製造され、モハ200が3輌クハ300が2輌製造された、正面はモハは増結のため貫通扉を設け、クハは非貫通でした。側面は一段上昇窓で、南海の丸ズームのような窓を持ち、最後まで非冷房でした。クハ301・302とも2005年までに引退し、1次車はモハ203が予備車で残るだけになりました。 '04.1.30 高崎 P:深山剛志
東急8000系は1969年に登場した車輌。界磁チョッパ制御やワンハンドルマスコンなど当時最新の技術を使用した画期的な車輌である。東横線や田園都市線や大井町線で活躍をして、1992年に車体更新の際通称歌舞伎色の塗装になった。しかし新型車輌5000系の導入により廃車が進み、2008年に全車廃車になった。1月13日には東横線でさよなら運転が行なわれ、多くのファンに見守られた。なお一部はインドネシアや伊豆急行で第2の人生を歩んでいる。 '08.1.13 東急東横線 渋谷 P:福田智志
京浜急行の木造制御車(1914年頃製造)のクハ5220は戦時中相鉄線に転属しクハ3140となり、戦後の63系の割り当てを受けた際に(1948年)見返り供出として高松琴平電鉄に7輌が譲渡された、その内の志度線・長尾線に配属された72号は1960年に日車標準に似た車体を新造し電動車化され60形65号となる、1966年に昇圧改造をうけ、1994年以降は志度線で使用され、850形とのデコボコ編成で使用された。その後2006年に長尾線に転属になったが車体の老朽化が予想以上に進んでいたため、2007年11月に引退した。 '82.8 志度線 瓦町 P:深山剛志
阪急2800は1964年に2300系の2扉クロスシート版特急車として1974年まで56輌が登場した。1971年から冷房化などの改造を受けたが1976年から6300系の登場を受け3扉化された、その際5組の連窓の中央を扉とし連窓の扉側を戸袋窓にすることによって非常に丁寧に扉の増設が行われた。その後も時折2枚看板を付けて特急運用に入ることもあったが、徐々に普通中心の運用になり、末期は他形式に組み込まれる車輌あり、2001年平成13年に全車引退した。 '81.8 阪急電鉄 千里線 P:深山剛志
東葉高速1000系ですが元たどれば営団地下鉄(現東京メトロ)5000系(5810)で、譲渡車の中でも元ファンデリア付き車はこの1051編成の両端と中間の僅かで、外見的には客窓の淵にRが付いていること、車内では天井高さが低い(2〜3cm位)ので、吊り広告の高さが若干低く、リコ付き吊革の跡が残る車輌もあった、また台車は勝田台寄り先頭(写真)の一部にはオリジナルのFS358を履いているのもあったが、廃車発生品を流用し末期には総てFS502Aになっていた。 '00年 東西線 浦安─南行徳 P:田中健吉
北総7050形は、1995年に京成3150形をリースして登場した車両。元京急1000形の7150形を置き換えた。京成3150形は2001年に消滅し、最後の京成3150形グループが北総7050形だった。最後まで残った7081編成も2003年12月のさよなら運転を最後に消滅。京成3150形グループは完全に消滅した。 '03.12.23 北総開発鉄道 印西車両基地 P:福田智志
1961年12月、伊東・伊豆急下田間に伊豆急が華々しく開業した。このとき新製されたのが100系で両運、片運のクモハを始め、クハやサロハなどが「ハワイアン・ブルー」と銘打った斬新な明るい塗装でデビューし、国鉄伊東線とも相互乗り入れを開始した。観光路線にふさわしく、車内もセミクロスシートを装備し、従来から国鉄伊東線のローカル電車には旧形国電ながら一等車(現在のグリーン車)を連結していたため、伊豆急でも一等車を用意した。開業当初は新造の100系のみでは車輌が不足するので、親会社の東急から旧形のデハ3600系を借用して伊豆急色に塗り替えて走らせたリしたが、後にはサシやサロ、モハ等も増備し、国鉄伊東線内では最大10輌編成となった事もあったが、老朽化により2002年4月までに全車廃車となった。現在なおクモハ103が伊豆高原の車庫内の入替え用に活躍し、その美しい姿を見ることが出来る。写真は開業直後の2輌編成の伊東行きであるが、かなり混雑していた。晩年とはヘッドライト付近の塗装が異なっている。 '62.3 伊豆急下田 P:永野晴樹
今や’小田急の3000’といえば、2002年に初頭にデビューした「通勤車の3000形」を想起する向きも少なくないと思うが、一方で「3000といえばロマンスカーSE車・SSE車」という印象も強い。「ロマンスカーの3000形」は、1957年に'SE車'(Super Express)として8連x4本が登場、1968年には国鉄御殿場線乗り入れのための改造が施され'SSE車'(Short SE)5連x6本となり、1991年まで小田急線で活躍した。SSE車となって以降は主に連絡急行「あさぎり」として活躍したが、小田急線内の特急に運用されることも多かった。
低床・連接という特殊な構造を持ち、大型通勤車と並ぶと車体の低さ・小ささ、編成の短さが非常に目立っていた。写真は現役末期に線内特急「あしがら」に運用された時の姿。 '90.6 成城学園前─祖師ヶ谷大蔵 P:清水祥史
1964〜'81年に掛け、都市計画第5号(東西)線、中央線中野から江東区東陽町へ至る路線及び中央緩行線との相互直通運転を行う前提の路線として計画。'64年12月に高田馬場〜九段下間で開業以来、'69年3月までに中野〜西船橋間30.8km全線が開業。投入車輌が5000系。当初2M1Tで登場、車体は骨組・台枠等の主要部分が鋼製で車体外板のみステンレス鋼板採用。20m・2800mm幅と国鉄車輌規格となり、性能も100kw主電動機、制御制動装置は電空単位スイッチ式バーニヤ抵抗制御、電磁直通ブレーキ(発電併用)+自動空気ブレーキ方式。台車は車体直結式ダイヤフラム式エアサス式。設計思想は経済性を重視。三面折妻ながら切妻に近いさっぱりスタイル。路線識別帯を初採用。煙草のハイライトブルーとして設定。路線延伸と輸送力増強で最終的に8M2Tまで増強。当初は非冷房であったが、'89年以降一部編成に冷改、制御を界磁添加励磁化。'88年以降新形式車投入で順次撤退となり、最終的に'07年3月まで活躍。引退。 ’88.5.3 中央線 中野 P:梶村昭仁
1953(昭和28)年、近鉄大阪線用特急用電車として、昭和30年までにモ2250形10輌とサ3020形9輌が登場、在来の2200系を特別整備した特急車ともども特急車の増発ならびにグレードアップに貢献した。さらに吊掛け車ながら昭和32年すべてを冷房化改造、同時に車内電話やシートラジオのサービスも開始した。しかしいわゆる新旧ビスタカー、さらには11400系エースカーなどの高性能特急車の充実により2250系は徐々に一般車に格下げされ、3扉セミクロスシート車となった。冷房車は格下げ後も3扉セミクロス車ながら、主に急行電車に活躍し冷房機器の保守が困難となった昭和40年夏までは特別料金不要の一般列車に用いられた。なお冷房方式は、TcまたはTに冷房機器を搭載し、Mcにはヘッドライト部分から幌により冷気を送風する方式で、戦前、昭和12年に南海鉄道が2001系に用いた方式の流れを汲むものである。写真は上本町行き特急であるが、冷房の季節ではないので、ヘッドライト部分の冷房用ダクトの幌は装備してなかった。2250系は後にロングシート化され、さらには鮮魚列車などにも用いられ、一部は牽引車として1998年まで残存した。 '62.5 近鉄大阪線 高安 P:永野晴樹
大井川鐵道300系の一員として昭和52年に312・313編成は西武351系譲受した、2扉化され先代レッドアローの転換式クロスシートを設置し、312編成はサハ1426を2扉化した中間車を入れた、1M2Tのスマートな姿で運行されたが、蒸機人気のために後に中間車は引き抜かれナロ801に改造された。ヘッドライトの2灯化等が行われた外は大きな変更も無く、平成15年頃から休車になり使用されなくなった。 ’03.5.2 大井川鐵道本線 新金谷 P:深山剛志
元阪急の81形84号。両運転台で神戸線で活躍したが900形の登場で宝塚線に移る。後に運転台、電装品を撤去し付随車となる。1953(昭和28)年、車体は和歌山鉄道(後の南海貴志川線)に売却、同鉄道手持ちの台車、機器を載せ「モハ603」となって1969(昭和44)年まで生き延びた。1964(昭和39)年、トロリーポールからパンタグラフに載せ換えられている。 1965.1.24 伊太祁曽 P:柿浦和敏
1955(昭和30)年、大阪線用試作高性能車モ1451形に引き続き、近鉄奈良線特急用高性能車800系が2M1Tの3連でデビュー。当時の奈良線は旧生駒トンネルをはじめとする限界狭隘なトンネルが数か所あり、車幅2500mmに制限され、パンタグラフもシューの幅が短い独特のものを装備していた。在来車は15mの小形車だったが800系は18mとし、スイスの技術を導入したシュリーレン式台車や一枚ガラスによる下降式窓など、側面はあたかもスイスの電車そのものと言えるスタイルであった。特急は大阪の上本町〜近畿日本奈良間を鶴橋、大和西大寺の2駅停車で30分で走破。後にTを増備して2M2Tの4連となり活躍した。この時代でも35‰の生駒越えの急勾配を70㎞/h以上で軽快に駆け上った。1964(昭和39)年8月の新生駒トンネルの開通と、数か月後の奈良線の限界拡幅工事の完成と共に20m級の900系や新製の8000系が全線に亘って進出するに及び、800系は特急運用から引退。しかし8000系の増備がままならず、吊掛けの旧形車ともどもラッシュ時の天理線直通準急や昼間の急行に活躍した。写真は800系が旧奈良市内の古都の面影を残す併用区間を走行する姿。市電とは異なり軌道内クルマ進入禁止だったので、制限速度は40㎞/hで、万が一軌道内に乱入するクルマがあると、猛烈なタイフォンを鳴らし、蹴散らしながら走行して定時ダイヤを確保した。 ’65.8 油坂─近畿日本奈良 P:永野晴樹
1963年登場の特急用車両、俗にNSE(ニュー・スーパー・ロマンスカー)と呼称された関東私鉄車輌の雄。'57年登場のSE車(3000形)の軽量・低重心・高速車輌のイメージに加え、当時、伊国鉄特急用車輌セッテベロ号で採用の運転台を屋根上に、客室を編成端一杯まで延長した「展望室」とし、後々の小田急ロマンスカーのデラックスイメージを特徴付けた端緒となる。'64年鉄道友の会からブルーリボン賞をSE車に続き受賞。車体・編成構成は8車体から11車体連接構造となり定員で約3割増と大幅な輸送力アップに貢献。折しも'60年完成の箱根ゴールデンコース完成による箱根観光客増大に対応。2編成が登場後、'67年までに7編成まで増備。箱根特急のオールNSE化されるまでに。好評理に運用されるも'77〜'78年に冷房装置容量アップ化、'83〜'88年に日本車輛にて車体更新を実施。前面愛称表示が小型電動幕化。'96年新特急車両登場以降廃車が始まり、'99年までに一般特急運用から離脱、'97年に開業70年記念イベント車輌改造編成(3161F)が'00年に引退、消滅。 '89.7.24 小田急小田原線 和泉多摩川─登戸 P:梶村昭仁
'63〜'70年に72輌が登場。7000系パノラマカーの性能面を更に高性能化。外観はほぼ同様ながら高速走行時の安定性を目指し、低床化・低重心化。側窓が展望席から連続性のあるデザインでスマートさが増した。ただし運転台・集電装置部が高さ確保で嵩上げしたようなスタイルに。性能強化に直流複巻電動機による他励界磁制御を採用、定速度制御機能(後、撤去)に加え、回生制動常用とした制動力強化を図り、高速時からのブレーキシリンダ圧力を高める速度制御機能を装備(このため他車と較べBC圧ゲージ最大値が6kgf/mm=590kPaと大きかった)。なおこれら機能は他車との併結運用を阻む要因ともなった。'88年以降車体更新が開始、先頭(逆富士型)行先及び側面に電動幕設置が目立つ改良点。ただし更新は1〜3次車までで中止となり、4次車以降は'92〜'93年に1030系列に走行機器を譲って廃車に。残る車輌も新設定のバリアフリー法設計寸法に馴染まない構造、二扉車によるラッシュ時運用に馴染まない等、老朽化も加わり、'05年08月までに全車運用離脱、消滅。写真は’67年登場の四次車7517F。 '88.8.18 名古屋本線 名電長沢〜名電赤坂 P:梶村昭仁
'67年、遠鉄オリジナル30系の増備として登場。製造は日本車輛。この車両から車体のマイナーチェンジが行われ、側二扉片開式から1,400mm幅両開式扉に、側窓配置も変更に。湘南型スタイルながら、運転室窓上に小型手動表示幕('63年登場モハ38クハ88から)設置し、オリジナルスタイルを強調。車内はオールロングシートながら同系の特徴である2両一体に見える広幅貫通路は健在。性能的には吊掛式ながら制動に電気・空気併用式を採用。トーションバー式コイルサス台車ND507型を採用。非冷房で登場も'86年集中式冷房器搭載改造。又運転台が半室ボックス式(車掌側がパイプ仕切のみ)で前面展望性も良好であった。長らく活躍するも後継形式の登場と入換に'08年05月末で運用離脱、引退。 '85.8.11 西鹿島線 自動車学校前〜遠州上島 P:梶村 昭仁
1959〜60年に30輌が登場。戦後の国内初、特別料金を採らない一般運用列車に冷房装置を搭載、いわば通勤用冷房車輌の先駆的存在。全体的には'57年登場5200形に準じるが側窓が二段式に。2・4輌両編成があり、冷房器は旧国鉄AU12形似の東芝製分散式を7〜8台/車(4500kcal/h)搭載。床下に冷房用大型MG搭載から制御器は東芝製(MCM型)小型パッケージ式を採用、このシステムは以後の7000系パノラマカーにも引継れる。車内は全転換式クロス(後、戸袋部ロング化)、台車は金属バネ式ながらウイングバネ式FS326を採用。登場時はクリーム+マルーン、以後ライトパープル、ストロークリーム+赤帯、スカーレット+白帯を経てスカーレット一色に。以後本線の急行系運用中心に45年余活躍するも'00年東海豪雨による水没車を皮切りに廃車が始まり、'05年1月ダイヤ改正までに運用離脱、引退。 '88.8.18 名古屋本線 名電長沢─名電赤坂 P:梶村昭仁
東急玉川線、通称玉電に活躍した80形は1950年より製造され、終戦直後の当時としては斬新なスタイルの路面電車であった。新玉川線(現田園都市線)の建設に伴い1969年に廃止となった。80形の中で玉電当時から「連結二人乗り」に改造されたもの等は、引き続き世田谷線に残存し近年まで活躍を続けたが、未改造の電車は江ノ電に身売りしたほかは廃車となった。写真のデハ96は未改造のまま玉電廃止に伴う廃車まで活躍した姿である。中央のドアーは外側にステップがあり、しかも手動なので通常は混雑時の渋谷など駅員配置駅を除き、他のの停留所では用いられなかった。しかも現代のようなワンマンカーではなく、後部にも車掌が乗務し、運賃の収受に当たった。 '69.2 二子玉川園 P:永野晴樹
営団(現:東京)地下鉄千代田線と相互直通運転規格に基づき、'72〜74年に90輌が登場。従来の大人しい小田急スタイルから大幅なモデルチェンジ、灯具類が腰部に、中央額部に行先字幕を配し、前面窓が屋根部まで上り、その部分が一段窪んだ形状から「ガイコツ電車」なる愛称も。側窓二連式大型一段下降式採用。編成は4連(4M)、6連(4M2T)各9本で、最大10輌で千代田線乗入、線内急行から普通列車まで活躍。性能は直流複巻電動機による界磁チョッパ制御採用、回生制動常用(HSC-DR)とした。当初から集約分散式冷房搭載(5台/車)。'73年の鉄道友の会ローレル賞受賞も。'90年以降後継1000形に乗入運用に変更後は営団用ATC撤去、線内運用中心に。一部の4両編成が8両固定化される等変遷があったが、後継形式登場と経年により、'06年5月までに引退、消滅。 '05.10.1 小田原線 読売ランド前〜百合ヶ丘 P:梶村昭仁
小田急2600形は1964年に就役、22編成132輌が製造された。NHE(ニューハイエコノミカル)車と呼ばれ、後に6輌編成化されたものは「N6」、8輌編成は「N8」の愛称で呼ばれて親しまれた。2003年10月には最後のN6、2670編成が旧塗装に戻され、懐かしの姿で沿線に最後の別れを告げた。2004年6月5日のさよなら運転後も2年以上、海老名検車区に留置され続けていたが、現在は新宿方制御車のクハ2670のみが喜多見検車区にて静態保存されている。また海老名検車区にて毎年行われているファミリー鉄道展などで展示の際は、深夜牽引回送されることがある。 '03.12.20 小田急江ノ島線 六会日大前-善行 P:冥賀秀親
もと阪急、戦前の宝塚線急行に活躍した全鋼製両運転台の小形車である。戦後宝塚線の車輌大型化に伴い、晩年は今津線や支線で活躍した。昭和41年から沿線開発に伴い旅客が急増した能勢電軌に転属し、当初は2連だったが編成の長大化が進み、4連を組むようになった。さらに輸送力増強を図るため、広幅の阪急610系の導入に伴い、ドアにステップを取り付けるなどの改造が行なわれた。後に多くの車輌は運転台やパンタグラフの撤去などの改造が行なわれ、更に路線改良の結果阪急の大形車の入線も可能となり、1985年頃に引退した。写真は現在の光風台付近の旧線を4連でパンタグラフも4個上げて走行する姿である。ちなみに旧線は半径40㍍という急カーブもあり、この写真の場所は70㍍のカーブとなっている。列車後部の彼方の渓谷対岸に建設中の光風台駅が見える。 '77.6 能勢電気軌道 笹部─ときわ台 P:永野晴樹
1951年(昭和26年)に浅草から日光への新型特急電車として就役以来、40年近く経過してもなお、12輌全車が往年の姿を色濃く残して活躍していた事が特筆される。運用面では、多客臨として快速急行「だいや96号」(有料)等で活躍し、また林間学校や成田山参拝等の波動輸送用車輌として、野田線や伊勢崎線等へも時折足を伸ばしていた。平成2年7月には新型特急スペーシア100系就役に伴い「懐かしの5700系と新特急スペーシア体験ツアー」が東武トラベル主催で行われた。ツアー客は東武博物館見学の後、東向島から東武日光まで豪快な釣掛サウンドの山登りを堪能し、帰路は就役間もない100系スペーシアの乗り心地を楽しんだ。添付写真は返却回送(東武日光→北春日部)にレプリカヘッドマーク「けごん」をつけた(下今市まで)雄姿である。翌平成3年3月には鉄道友の会から、エバーグリーン賞を授与されたが、寄る年並みには勝てず、同年7月20日にさよなら運転を行い、その役目を1800系改造の300系や350系に譲り、営業運転を終了した。最末期は、貴重な釣掛特急電車の残党としてファンの間で非常に注目され、GWなどの多客期には沿線に多くのファンが乗車し、またカメラを構えてその姿を記録に残した。現在も5701F2輌が東武動物公園駅構内でカバーをかけられて現存するがそのコンディションの悪化が危惧されている。 '90.7.29 東武鉄道日光線 東武日光-上今市 P:冥賀秀親
横浜市営地下鉄の開業時から活躍した1000形。登場当時は3輌編成だったが、延伸開業や乗客の増加により、5輌編成を経て6輌編成になった。しかし、ワンマン運転を行なうことになり、3000形に置き換えられた。また2000形もワンマン運転に対応できないことから廃車になり、どちらも2006年12月16日のさようなら運転を最後に引退した。 '06.12.16 横浜市営地下鉄 新羽車両基地 P:福田智志
1978年に東急車輌で製造された京王6000系の先頭車。当初はクハ6769を名乗っていたが、1979年に都営新宿線乗り入れ改造を受け、30番代のクハ6789となった。2005年以降、6000系30番代の一部は8+2輌に半固定化されたが、クハ6789を含む6039Fは8連のままで残り、晩年は乗り入れ運用からも外れていた。きれいに数字が並ぶナンバーだったが、9000系の増備に伴い、2008年3月に運用離脱、廃車解体された。 '08.2.6 京王線 桜上水 P:高瀬龍朗
三重交通・神都線からやってきた700形ですが、まったく違和感を感じさせないスタイルで和歌山の町を第二の職場に活躍していました。 '65.1.24 南海和歌山市駅前 P:柿浦和敏
郊外鉄道との相互乗り入れを初めて実現させた地下鉄、都営1号線・現在の浅草線開業用として1960年11月に竣工。乗り入れ三者(都・京成・京急)間の「直通車輌統一規格」に基づき設計・製造されているが、車体等に当時の花形、営団500系との類似・共通点が見られる。若干の仕様変更をしながら、1968年の全通時までに152輌が製造され、その後長らくオリジナルに近い姿で活躍し続けたが、1981年の車体更新からイメージチェンジとコスト削減のため外部色がクリーム色に太赤帯を配したものに変更されている。老朽化により1995年7月2日のさよなら運転をもって引退、他社への譲渡はない。 '84.8 京成本線 青砥 P:田中 友
銀座線用として1959年に登場。試作的要素の濃い1900系の片運構造・量産化した車両で、1900系同様WN駆動ではあるものの、吊掛車も含めた銀座線の在来車全形式と混結可能であった。また、1968年以降は一部が小改造の上、丸ノ内分岐線にも進出している。1993年までに廃車となったが、第3軌条集電式の車両にもかかわらず、同時期に廃車となった日比谷線3000系の機器等と組合せ、一部が日立電鉄・銚子電鉄に譲渡されている。 '82.8 銀座線 渋谷 P:田中 友
新幹線開業以前は新ビスタカーによる名阪ノンストップ特急の方が151系による国鉄特急電車よりも数分早く、サービスも優れていたので近鉄特急が優位だったが、新幹線の登場により、名阪ノンストップ特急は閑古鳥が鳴く有様となった。この状況を新しいサービスで打開しようと試みて昭和42年12月より登場したのが、スナックカー12000系である。2輌編成の一隅には都コーナーというスナックカウンターを設け、乗客の注文に応じ飛行機のように客席まで軽食等(ただし有料)を提供するというユニークなものであった。当初は在来の新ビスタカー10100系にまでスナックコーナーを設置すると言う意気込みで、大阪万博を控えて、12200系新スナックカーなども登場した。のちに人件費との兼ね合いもあり、スナックコーナーは一般座席に改造されてしまい、12000系は2000年に廃車となった。12000系で特筆すべきは前年に登場した18200系と同じく180kWのモーターを用いて上り33‰での均衡速度をMc-Tc編成で100km/h運転を実現したこと、内装では、従来の回転クロスシートのシートピッチでは不可能と言われたリクライニングシートを画期的なスライド式とすることで実現し、以後の近鉄特急車に引き続き採用された。ちなみにそれから6〜7年後に国鉄は183形電車に簡易リクライニングシートなるものを装備したが、12000系に比べてかなり見劣りのするものであった。 '67.12 近鉄冨吉車庫(試乗会での撮影) P:永野晴樹
1963年に登場した601系のモデルチェンジ車。大型方向幕やステンレスの飾り帯を配した斬新な車体は、その後101系(写真後方)に至るまでほぼ同一設計で採用されるなど、デザイン的に完成度の高いものとなった。当初は在来旧型車との混結のため、安全性より汎用性が重視された性能となっていたが、1975年から始まった冷房・HSC化改造で、高性能車と呼べる水準まで安全性が高められた。改造は1982年までに完了、同年までに全車が新宿線系(一部多摩川線)に集められ、同線の主力として活躍してきたが、1997年までに全車廃車となる。 '86.12 小手指車両管理所 P:田中 友
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東急初20m四扉大型車体を採用して'69年東横線に3M2Tでデビュー。Tc車8000形、M1車8100形(主制御・パンタ搭載)、M2車8200形(補機類)で構成。オールステンレス車体に側窓バランサ付1段下降式。前面は灯具類が車体直付により切妻がより強調され、無塗装と相俟って「のっぺり」感が強調されたスタイル。機構面では直流複巻電動機に他励界磁チョッパ制御採用、回生制動を常用。また日本初のワンハンドルマスコン採用も。当初非冷房で登場も'71年の四次車の8019Fから冷房搭載(分散型4台/輌)、以前の車輌も改造で全車搭載。'73年五次車から田園都市線向けに2M2T投入、その際、M1車パンタ1基の場合、離線時のチョッパ及SIVのサイリスタ転流エラー防止に2パンタとされるも後1パンタ化(デハ8143〜8147)。後に1M制御デハ8400、サハ8300形も登場。8000形用としては、'87年3月までに187輌が製造。東横・大井町線で8〜5輌編成で活躍。新型車投入により'02年から淘汰が開始、'08年度末に大井町線に残った編成が運用離脱、東急線から引退。 '88.3.28 大井町線 尾山台─等々力 P:梶村昭仁
1963年から1996年まで活躍した「新エースカー」11400系のMc車が、モ11400形。11400系はMcMc2連(奇数車+偶数車)を基本とし、乗客数に応じてMc奇数車側に適宜Tcを増結するという編成になっていたが、実際にはTcMcMcの3連で運用されることが多く、特に1969年に11520形Tcが加わり「3連×15本」(この場合パンタグラフは中間のMc奇数車に2基)という陣容になって以降、その傾向が強まった。それでも1980年からの更新によりMc奇数車が中間車化されて3連完全固定編成になるまでは、時折モ11400形(奇数車)が先頭に立ち、
前頭部ギリギリに突き出たパンタグラフで風を切る勇ましい姿が見られた。 '80.5 伊勢中原─松ヶ崎 P:清水祥史
1953年に井の頭線用として登場。前面形状・車体構造は先に登場した京王線用2700系に準じているが、側面窓・扉配置は1400系〜1800系の流れを汲む井の頭線タイプとなっている。Mc車のみが製造され、後に中間車化改造によりMo車・M車が登場したが、編成は終始1800系以前の在来車との混成となっていた。1984年さよなら運転を行い廃車、譲渡・保存された車輌はない。 '82.8 井の頭線 浜田山-高井戸 P:田中 友
戦後阪急は宝塚線の車両大形化と木造車を淘汰する為、610形15m車を製造した。車体幅は大形車並とし、台車や電装品は先ず木造車のものを戦前製の小型車320,380,500形などに転用し、それらのものを610形に更に転用すると言う複雑な、いわゆる「たらい回し」の結果誕生した。当初は宝塚線に用いられたが、高性能車の増備と共に今津線やその他の支線で活躍、最終的には能勢電に転属したが、阪急からカルダン車が転属するに及び、引退した。 '66.9 阪急今津線阪神国道 P:永野晴樹
この電車こそ近鉄のルーツである。1914(大正3)年、大阪上本町〜奈良間に開業した大阪電気軌道(大軌)の元デボ1形である。生駒トンネルを含む33‰の連続急勾配にそなえて約180馬力のモーターを2台装備、戦後はおもに橿原線や奈良電鉄に乗り入れ、最高速度も90km/h近いスピードで活躍した。最後まで手動ドアだったため、客扱いの少ない急行電車にも活躍、また以前はローカル鉄道だった大和鉄道や信貴生駒電鉄(後の近鉄田原本線及び生駒線)に貸し出された車輌もあった。1964(昭和39)年の新生駒トンネルの開通により、近鉄奈良線に900系や8000系大型車が登場するにおよび、およそ50年にわたる活躍の幕を閉じた。最後まで美しい木造車の姿を留めていたのは、さすが近鉄の保守が行き届いていたからであると思われる。現在も1輌が開業当時に近い姿に復元されて五位堂工場内に保存されている。 '64.12.31 大和西大寺車庫 P:永野晴樹
1937(昭和12)年から1938(昭和13)年にかけて高野線の50‰急勾配急曲線区間(当時高野下─極楽橋間は高野山電気鉄道)直通用に製造した15m級小型車である。これ以前の詳細は省くが、木造車の車体更新という名目で誕生した。当初の車輌はドア間が転換クロスシート、日除けにはベネッシャン式を用いる等、極めて優れた内装を誇った。高野山電鉄で実用化した回生制動を装備し、性能的にも際立った存在であった。戦時中被災したものは、戦災復旧車と称して、一段下降式窓の車体を新製、さらに戦後は同系の新製車も多数増備した。戦後展望車クハ1900を用いた特急こうや号用にスタイルの良い戦前型のモハ1251、52、54をオール転換クロスに整備の上、1952(昭和27)年より運転した(こうや号の運転開始は26年でロングシートのモハを用いた)。さらにズームカーの登場により、モハ1251形も弱め界磁率を52%に向上して高速運転にも対応した。写真は1970(昭和45)年夏、昇圧が具体化して旧型車の廃車が進展する中、ダークグリーン・ニス塗りの旧塗装の窓枠、二段シルやヘッダーにリベットを残した、奇跡とも思える未更新の1257を最後尾に、高野山に向けて発車する急行電車である。この約半年後にモハ1251形は引退した。 '70.7.15 南海難波 P:永野晴樹
1966(昭和41)年、ラッシュ時の混雑緩和対策として、20m級4扉の高性能車が出現、強化プラスティックを用いた正面の斬新なデザインと共にローレル賞を受賞するなど大きな話題となった。都合2編成4輌が登場し、さらに3扉の10形も1編成登場した。長野オリンピックを機会に営団日比谷線車輌を大量に譲り受け、0系は廃車となった。地方の私鉄が首都圏の大型通勤電車を譲り受けて用いる姿はさほど珍しくはないが、4ドアの本格的な大型通勤電車を「新製」したのは唯一ではないかと思われる。 '77.8 長野電鉄 柳原─村山 P:永野晴樹
東海道線吉原から富士の裾野を180°回転し、東海道新幹線の高架下付近が終点となる9.2kmで沿線に製紙工場が多く貨物輸送主体の鉄道。'81年に東急旧5000系四編成を投入し在籍車輌をこれに統一。写真はデハ5002(元デハ5028)+クハ5102(元サハ5363)でクハは譲受の際はタネ車がすべて中間車からの改造車となった(クハ5103は元デハ5114)。特に大きな改造もなくオレンジ+白帯で東急時代に近いスタイルで活躍するも軽量車体の老朽化と冷房改造が出来ない構造のため、2004年までに旧京帝3000系改造車と代替、消滅した。 '89.9.2 神谷─岳南江尾 P:梶村昭仁
'42〜'46年にかけ川崎車輛で8輌が登場。軌道線用車輌としては全長14m級3扉の大型車輌。登場時はポール集電、両端2枚引扉(中央は1枚式)前面は中央が大きい3枚窓だった。後に集電装置がビューゲル→パンタと変遷、'67年以降全編成対象に2輌連結2人乗化改造。編成は基本的に71+72と云う番号順に組成。'78〜'82年に車体更新で前面が4枚窓化、両端扉が1枚引扉に。'89年以降シールドビーム2灯化、'94〜'96年にカルダン化等変遷するも非冷房故、後継の新車と交替。'99〜'00年までに全車引退。 '86.3.13 世田谷線 山下─宮の坂 P:梶村昭仁
1956(昭和31)年、当時の富士山麓電鉄が製造した高性能車である。観光鉄道にふさわしく、セミクロスシート車で当時としては極めて斬新なデザインで、40‰の急勾配にそなえて電気制動も装備した。都合2編成4輌が登場したが後に増備した編成は踏切事故によるブレーキ損傷で暴走し脱線転覆大破して廃車となったが、残る1編成は10年ほど前まで活躍した。なお形式の3100は昭和31年にデビューした事に由来する。 '77.2.11 三つ峠─暮地(現・寿) P:永野晴樹
1928年の鞍馬電気鉄道山端〜市原開業時に121〜124が、翌1929年の鞍馬延長時に125・126が日本車両で製造された。勾配区間に入線するため発電ブレーキが装備されている。1964年に事故のため121・123の2輌が廃車となり、4輌は1978年にパンタ化され1994年まで使用された。上部にRのついた優美で穏やかな窓が印象的。ポール時代はポイント通過時、車掌が片手でポールの紐を引っ張って通過、たまに架線から外れて火花を飛ばしているのがスリリングだった。 '74.4.13 鞍馬線 貴船口 P:柿浦和敏
2600形同様20m4扉車体を持ち、'66〜76年にHB・ABF系車輌の電機品(吊掛駆動)流用車を'85〜89年に廃車の2400形電機品を再流用し高性能・冷房化。吊掛当時3輌×9及5×13本92輌を4×8及6×10本に組替。冷房機は新製中の8000形のCU195形を4台搭載(冷房機カバーは個別形状)、車内送風装置は扇風機。補助電源装置はSIVへ換装。電動車の台車は特徴あるPⅢからTS-826へ変更。制動はHSCを流用(電制無)。高性能化以降他形式と併結の上、全線で運用されるも流用機器故、老朽化が進み新形式車の登場と相まって'03〜05年に運用離脱、形式消滅。 '99.1.17 小田原線 新百合ヶ丘─柿生 P:梶村昭仁
モ151と同形の14m車、外観上の違いは平野線の連結運用のため連結器を装備していることぐらいである。1928(昭和3)年に10輌が川崎車輌で、1931(昭和6)年、田中車輌と大阪鉄工所で10輌製造された。重連総括制御可能で連結運転に活躍したが、1961(昭和36)年に連結運転を止め連結器も撤去された。写真は救助網⇒排障器に変わっているが、連結器、集電装置など原形をとどめていた頃の165号の併用軌道区間でのスナップ。 南海上町線 姫松付近 '63.8 P:柿浦和敏
1927(昭和2)年、国道線開業時に導入されたボギー車で、総数は30輌。登場時より扉の開閉に連動するステップを備えていた。当初、全車2個モーターだったが、1943(昭和18)年、10輌を4個モーターに改造している。1950(昭和25)年には、全車トロリーポールからビューゲルに換装されている。1974年までに全車廃車となった。 '73.3.22 阪神北大阪線海老江 P:古村誠
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小田急2600形は1964年に登場した20m級4ドア車の元祖である。回生ブレーキを装備し、かつ車体幅を2,900mmまで拡げた経済性と輸送力を持たせた車両で、NHE(ニューハイエコノミカル)車という愛称で呼ばれた。登場当時は5輌編成だったが、後に6輌編成化されて、一部の編成は組み替えで8輌編成になった。なお8輌編成のうち1編成がVVVF制御の試験車となった。老朽化により、2004年6月のさよなら運転を最後に引退。2003年10月には登場当時の懐かしい旧塗装に戻され、ファンを喜ばせた。 '03.12 新百合ヶ丘 P:福田智志
北総7050形は、1995年に京成3150形をリースして登場した車輌。元京急1000形の7150形を置き換えた。京成3150形は2001年に消滅し、最後の京成3150形グループが北総7050形だった。最後まで残った7081編成も2003年12月のさよなら運転を最後に消滅。京成3150形グループは完全に消滅した。 '03.12.23 北総開発鉄道 印西車両基地 P:福田智志
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富士急行5200形は、運輸省規格型で昭24年製の小田急1900系を昭和52年に2連4本を購入した、小田急を出る際に、モーターや主要機器を4000系の5連化の際に譲り、富士急の3600形の機器を使用した。妻面は規格型では少ない広幅貫通路を持っていた。昭和59年に同じ小田急から来た2200形と入れ替わり引退した。 '79.4 富士急行 P:深山剛志
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東京メトロ5000系は1964年の東西線開業時に登場した車輌。登場当時は3輌編成でだったが路線の延長や乗客の増加に伴い、7輌、10輌と順次増えてきた。5000系は3000系に次ぐステンレス車体で登場し、1967年には東京メトロで初めてのアルミ車体が製造された。東西線のほか千代田線でも活躍をしてきたが、05系の導入と07系の転属により、2007年3月で東西線から引退、ステンレス車体は消滅した。東西線からの引退を記念して2007年1月に深川検車区にて引退記念イベントが行なわれた。現在5000系は千代田支線にアルミ車が3輌編成2本のみ残っている。 '07.1.27 東京メトロ東西線 深川検車区 P:福田智志
昭和5年、参宮急行開業に際し製造された2200(旧)は当時としては破格のわが国における歴史的長距離高速電車であるが、ラッシュ時の混雑緩和対策として昭和35年より3扉化改造されるものが出てきた。当初はセミクロスシートであったが、昭和40年頃の改造車はロングシートとなった。このような改造の嵐の中、往時の面影を残した2扉車の素晴らしい姿は標準軌に改軌した名古屋線に多く活躍し、大阪線では滅多にお目にかからない存在であった。写真の2203も撮影直後に改造され、2220や2205が大阪線にしばらく残ったが昭和44年までに全車が3扉に改造され、昭和49年に(旧)は引退した。 '65.5.3 近鉄大阪線 安堂─河内国分 P:永野晴樹
7000形は北総線開業当時から活躍した車輌で、前面の特徴からゲンコツ電車として親しまれた。登場当時は6輌編成だったが、第2期開業と都営浅草線直通開始により8輌編成化された。北総線のみならず京成や都営浅草線、さらに京急線にも乗りれ、幅広い活躍を見せていたが、新型車輌7500形に置き換えられて、2007年3月に引退した。 '07.3.4 品川 P:福田智志
昇圧前の南海本線を代表する特急・急行用電車。昭和29年に登場したカルダン車モハ11001形の増備車として昭和31年、正面二枚窓、張り上げ屋根にモデルチェンジのうえ、中間電動車モハ11100も新たに加え、登場した。当初は4連だったがまもなく5連化されてパンタグラフを5個振りかざし、勇ましい姿で疾走した。昭和48年の昇圧に際して6連4編成に組みなおし、1001系冷房車として活躍したが、特急サザンの登場により引退した。昇圧改造されなかった電車のうち、先頭車6両は京福福井に身売り、モハ3000形となり近年まで活躍した。写真の先頭車モハ11013は京福福井に転属している。 '66.12 南海本線浜寺公園 P:永野晴樹
昭和29年に小田急電鉄初の新性能車として登場した2200形は2連8本が増備された。その後の小田急電鉄の車輌の礎となった。5000形等大型車が進み、晩年は同じABFM車と3連6輌で各駅停車に従事していたが、ほとんどの場合中間に組み込まれこの特徴ある前面はなかなかお目に掛かれなかった。昭和59年に引退したが、1編成が富士急に譲渡され平成8年まで活躍した。 '81.4 小田急多摩線 新百合ヶ丘 P:深山剛志
デハ2220形は2200形の増備として、4輌固定のオールM編成で登場、高性能を発揮した。トイレもつけていた通勤用としては内装も優れたものであった。後にHE車2400系の大量増備に伴い、2220形はHE車と6連が組めるように中間車にも運転台を取り付け、2連化され、この時にトイレも撤去した。車両の大型化により富士急や新潟交通に身売りしたほか、台車の一部は伊予鉄道で見ることができる。 '68.5 向ヶ丘遊園〜生田 P:永野晴樹
'81年、701系冷房改造と同時にラスト(791F〜795F)3編成の電動車を、785F〜789Fに組込み6輌化の際、余剰Tc車6r輌を冷改、Mc化して登場した形式。性能は当時増備中の101系2輌編成の機器を新製し搭載、ただし抑速機能をカットして使用。外観はMc1(新宿寄)車にパンタ2機搭載で401系とは逆となっていた。改造後は新宿線系にて701系列と混用されるも性能面の違いで運転面から扱い辛いと不評(電制の有無、ギヤ比の違い等から加減速の歩調が合ない)となり更に、車体老朽化と2000系増備で余剰となり、'90年までに運用離脱、形式消滅となった。 '88.9.8 新宿(西武園)線 東村山 P:梶村昭仁
東急が戦後最後に製造した吊掛式電車。車体の軽量化や当時の新型台車などを一応装備してはいるが、翌年に登場した画期的高性能車、デハ5000系に比べて、極めて見劣りする存在となったものの吊掛車の中ではピカイチの存在で、特に製造当初からノーシル・ノーヘッダー、張り上げ屋根は東急の吊掛車では唯一の存在で、特に側面の上部窓はHゴム(いわゆるバス窓)という際立った存在で、5000系に伍して東横線に活躍した。ステンレスカーの増備に伴い目蒲線に転属、撮影当時は側面ドアをいわゆる監獄窓に改造されてはいたが、比較的原型を保っていた。この後ヘッドライトを下部二灯化やバス窓もアルミサッシの通常型に改造されたが、十和田観光電鉄に譲渡、数年前まで活躍した。 '74.7 目蒲線 奥沢 P:永野晴樹
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伊予鉄道モハ200形は昭和6年の高浜線電化時にモハ100形とともにモハニ200形として6輌が増備された。その後昭和38年頃までに荷物室が撤去されたが、扉はそのままの姿で使用されたため、扉の配置が変則的であった。(但し203は戦災復旧の際に車体を変更された)その後同型車で3輌編成を組み昭和60年まで活躍した。予備車として最後まで残った204の編成が昭和62年に引退した。
'82.8 大手町 P:深山剛志
梅鉢鉄工所と日本車両1924(大正14)年に製造された14m級ダブルルーフの木造車。昭和初期から中期の阪堺線を代表する車輌。1930年(昭和5)年、モ101という形式名に改められ、戦争で3輌が被災した3輌を除いて、戦後は101〜117という車番が当てられた。1967(昭和42)年4月23日、117号によってさよなら運転が行なわれた。同日我孫子車庫では仲間の解体作業が進んでいた。 '67.4.23 阪堺線我孫子道車庫 P:柿浦和敏
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1952〜1953年に川崎車輛と東急横浜製作所(=東急車輛)で17輌が製造。クハ3850〜クハ3854が川崎製で残り(クハ3855〜)が東急製であった。製造メーカにより台車も異なり川崎製がOK-6、東急製がYS-715と別形式だった。車体は3750形に準じたスタイル。主に3450・3600形などと併結し東横線を含め全線で活躍。'73〜'76に掛けて車体更新の際に、窓の天地寸法拡大(900→1000mm化)張上げ屋根、シールドビーム二灯化等従前のイメージからガラリと変わったスタイルに。なおこの時5輌がサハ3370形へ改造。3000形と共に活躍も'89年までに運用離脱、最後まで休車で残っていたクハ3856が'94年に車籍末梢で消滅となった。 '87.12.6 目蒲線 田園調布─多摩川園 P:梶村 昭仁
昔の近鉄大阪線と言えば、参宮急行電鉄の2200系が有名であるが、大阪近郊区間は大軌の路線だったのでモ1300形は近郊区間の通勤用として誕生した20m車である。33‰の急勾配にそなえて200馬力のモーターを装備した。2200系に比べスマートさには若干欠けるものの、豪快な姿には隠れた人気があった。 '66.11 近鉄大阪線二上─下田 P:永野晴樹
新潟交通クハ39は昭和2年製の西武鉄道クハ1214を昭和37年に購入した、塗装以外はほとんど変わらない姿で、新潟交通では数少ない3扉車として、朝のラッシュ時に威力を発揮した。しかし、他の車輌より老朽化が進んだため昭和60年に引退した。 '80.6 県庁前付近 P:深山剛志
1984(昭和59)年暮に南知多観光特急専用をコンセプトに2輌2本が登場。車体は伝統のパノラマスタイルながらハイデッカ構造を初採用。機器は7000系から流用。観光用豪華特急車から公募で「パノラマDX」と云う愛称に。団体使用を考慮した2・4人室セミコンパートメント座席とし、当初はデラックス特急座席指定料金を設定。'87年2本、'89年に中間サ8850形増備で3輌編成に。晩年は3本が一般特急化改造で座席もリクライニング座席へ。車体・機器の老朽化等で'05年1月末で全車引退、消滅した。 '95.3 西尾線 米津〜桜町前 P:梶村昭仁
伊予鉄道110形は西武鉄道の1929(昭和4)年製151形を横河原線電化用に所沢工場で1967(昭和42)年に車体更新の上、購入した。戦前の川崎造船所特有の深い屋根に厚い腰板とお椀型ベンチレータを乗せたいわゆる川造型の3扉車で8輌が伊予鉄道に入り平成6年まで活躍した。 '82.8 伊予鉄道 P:深山剛志
元、宮城電気鉄道のサハ302形を譲受し1965(昭和40)年に鋼体化したその際に電動車になり60形の67になった。元の木造車の骨組を生かして鋼体化したため、鋼体化後も木造車の雰囲気が残っていた。その後は大きな改造も無く2003(平成15)年まで活躍した。 '82.8 瓦町 P:深山剛志
1955年〜1960年にわたって20輌が製造された相模鉄道最初の新造車輌である。直角カルダン駆動の台車、床下機器まで覆った鋼製モノコック構造の車体とボディマウント方式のぎ装は、当時流行の湘南顔と複雑な塗りわけと相まって旧型、雑型の車両群に新風を吹き込んだ。1次車4輌は17m車体であったが2次車より18mに延長され、2輌固定であった編成も4次車で中間電動車4両を製作して4両編成も登場した。1972年〜1975年にかけてアルミ車体の5100系(当時)に更新されて姿を消した。 '73.2.4 相模鉄道 西谷-鶴ヶ峰 P:長谷川武利
平成4年にそれまで使用していた300系に代わる急行用車輌として国鉄165系を譲受し3000系として3連3本が登場した、内1編成はAU12型クーラーを装備した少数派でした。急行「秩父路」として活躍したが平成18年10月に西武新101系を2扉クロスシートに改装した6000系にバトンを譲った。 '05.10 秩父鉄道 熊谷 P:深山剛志
5050系製造の後を受けた'84年6月から'86年3月までに製造。旧78系の経年順に更新が行われていたが、'60〜'61年に製造の最終増備車7870形が主な種車。又6両固定編成とされた為、5070系と別けられた。特徴は中間に入る5400形がクハ→サハに、5500形が運転台の無いモハに形式変更。又種車の制御器を流用、MMC系→ES567系に。更新はアルナ・津覇・富士重で実施。当時の野田線に近代化(大型化と冷房化促進等)で全車投入。活躍するも吊掛け駆動等の走行機器の保守に手が掛ると同時に6両固定故、他線転用が難しく、8000系転入で代替が始まり、'04年に運用離脱、引退。 '88.11.27 野田線 岩槻─七里 P:梶村昭仁
1957年〜1958年に、1300形などの増結用Tc(クハ)として10両が製造された1650形がルーツ。数年後には旧型車の機器を流用してMc(クモハ)化のうえ600系の一員となり、1982-1983年まで活躍。写真はこの時代の末期の姿(2輌目・4輌目のオリジナル600系、3輌目の700系からの編入車とは、車体形態が大きく異なっていた)。さらにこのうち6輌は1983年の1500V昇圧に備えて「初代1800系の足回り+当車の車体」という組み合わせで二代目1800系のMc(クモハ)に生まれ変わるという変転を経て 1989年まで活躍した。地味な存在ではあったが、今なお京阪線の通勤車の基本形となっている「両開3扉、緑の濃淡塗装」が初採用されたのはこの形式である。 '82.3 御殿山─牧野 P:清水祥史
1974(昭和49)年、南海電鉄の昇圧により廃車となったモハ11001形を8輌購入し、モハ3001形として、越前本線及び三国芦原線に投入した。なにしろ直前まで南海本線の特急や急行などの看板列車に用いられ疾走した20m級セミクロスシート車だけに、一足先に入線した旧南海の1201形、京福福井モハ2001形の入線時にまさる驚きであった。入線当初、正面二枚窓のモハ3001〜3006と、正面貫通型のモハ3007、3008という内容であったが、後者も後に正面二枚窓に改造された。前者は2輌ワンマンに改造され、形態は著しく変化したが近年まで生き残ったが、えちぜん鉄道には引き継がれず、廃車となった。 ’83.7 越前本線 小舟渡─保田 P:永野晴樹
1967(昭和42)〜1968(昭和43)年に西武所沢工場で20輌新製。701系と変わらぬ性能ながら車体が張上げ屋根、付随台車のエアサス(FS-067形)化、サービス(低圧)関係補助電源の交流MG化による室内灯容量アップ等マイナーチェンジ。翌年登場の101系の試作要素が十分にあった。後、側引扉の無塗装SUS化。'78年以降冷改・HSC化、塗装のレモンイエロー化等を得て、新宿線系統を中心に'97年2月まで活躍。写真の809Fは引退後、総武流山電鉄にて3輌化されて再度のお努めする事となった幸運の車輌。 ’82.7 新宿線 所沢 P:梶村昭仁
1975(昭和50)年まで東急池上線で活躍していたデハ3300形の成れの果てである。京福福井支社では南海電車を大量に導入したが、手動扉の電車や小型車を置き換えるため、さらに東急からの4輌が登場した。ただし京福福井支社の電圧は600Vのためか、台車などは京福の在来車のものを流用した。写真のモハ284は東急時代中間につながれていたため、当初は貫通幌を装備していたが、後に撤去。正面窓も一部Hゴム化されている。同系車ではノーシル・ノーヘッダーに改造した電車も存在したが、まもなく阪神の中古車が大量に出現するに伴い、姿を消した。 '83.7 越前本線 福井口 P:永野晴樹
元東急デハ3601。元は省電のモハ31087。戦災を受け国鉄から払い下げられたのち東急が復旧。弘南鉄道への入線は1980(昭和55) 年。写真の場所はなかなかよい写真が撮れなくて、本当によく通ったものです。この頃朝夕のみの運用となっていた旧型車のモハ側が順光となるのはこの区間だけでした。車体はスッキリとした3000系の標準車体。クハ2輌を従えての豪快な走りっぷりには魅了されました。 '94.10 弘南線田舎館─津軽尾上 P:金上 努
元名古屋鉄道3300形(初代=旧愛電デハ3300形)の車体のみを譲受、旧国17m車の床下機器を流用した。18m超級半鋼製車体で導入時扉ステップを撤去、自重の関係から主電動機を2輌に分散搭載(2個MM/両)、McMcユニット化。パンタグラフは各車妻端に搭載。車内はロングシート採用。登場時2扉だったが'81〜'82年に3扉化、前面も非貫通化改造。その後は特段の変化なく、原型を保ちながら'97年渥美線1500V化まで活躍。 ’89.3.16
渥美線 新豊橋〜柳生橋 P:梶村昭仁
名岐電鉄(現在の名古屋鉄道のほぼ名古屋〜名鉄岐阜間)は優等列車用に貫通形の800系を製造し、軽快なスタイルと高速性能を誇ったが、昭和12年には当時流行した流線型の850形を製造した。正面の屋根を下にたらしたデザインは、他の私鉄や満鉄の気動車ジテにも見られるが、正面窓を二段にしたスタイルは余りにもグロテスクで、「なまず」の愛称で親しまれた。2編成が誕生し、戦後はAL車の一員として高速性能を遺憾なく発揮して活躍したが、1988年までに引退した。 '75.7 名古屋本線 伊那 P:永野晴樹
'64年に4輌が東急車輛で製造。14m級3扉の路面用車輌としては大型車。耐候性高抗張力鋼を使用、窓下側板にSUS車並みのコルゲーションを持ち、当時の鉄道線の思想を採用した意欲作。前面2枚窓に腰部前照と標識灯を組込んだケーシング2灯式、額部に字幕と標識灯、屋根上FRP通風口と当時の7000系類似に。側窓1段下降式。両運車だったが、「連結2人乗」改造後、連結部は使用されず、後の更新で撤去、客室化。性能は吊掛式HL制御(TDK540 60kW)、SME制動と平凡だった。登場時グリーン濃淡ツートンだったが、'69年以降現色に。'83〜'84年に更新工事で上部標識灯撤去、片運化等以外原型を保ち、近代化による新車投入で'01年引退。 '97.6.27 東急世田谷線 松原─山下 P:梶村昭仁
'75年に入線した元東京急行電鉄の3550形でモ1731は元デハ3553、ク2731は元デハ3554で、ク2731は入線時方転(豊橋向)電装解除。車体は全金属製片開三扉、前灯も二灯化。貫通式だった前面は非貫通化。後に貫通扉部に電照式方向幕設置。車体は両車共通でノーシルノヘッダのツルっとした車体だが、各々経歴は全く異なる車両で、モ1731は元デハ1401で旧帝都車、ク2731は元デハ1366で旧小田急であり、更新前の両車は似ても似つかない同士であった。豊鉄では非冷房のまま、'97年の昇圧まで活躍。 '89.8.20 渥美線 新豊橋─柳生橋 P:梶村昭仁
'70〜'71年に6000系の増備車。全車日立製。従来の1M方式に替え、MMユニット採用。出力アップ(110→130kw)と車輪径大型化、ギヤ比等変更があったものの、従来の6000系との混用は可能。車体は大幅なモデルチェンジとなり高運化、行先・種別等を額部に前照灯を窓下2灯シールドビーム化。側面窓扉配置は左右対称化。当時の狭軌車輌最大幅2,930mmを持ち、スーパジャンボと称される。非冷房であったが、増備で搭載後、改造で全車が搭載。登場時車体色は5000系以来のインダストリアルカラーだったが、後現色に。最大10輌編成で活躍。新製車登場で最後の4編成が'04年12月まで活躍。引退した。 ’88.6.29 相模鉄道本線 鶴が峰〜二俣川 P:梶村昭仁
近鉄2250系は戦前の2200系を受け継ぐ特急車で1953(昭和28)年から増備された、車体はノーシル・ノーヘッダーの軽量車体を採用し、32年から冷房などを取り付けたが、ビスタカーの登場や釣掛駆動の為に、35年から3扉化され、一般型に改造して昭和58年まで活躍した。釣掛駆動であったが元特急車らしく、なかなかの俊足であった。 ’80.1 名古屋線 桑名 P:深山剛志
1号線(上永谷─舞岡)、3号線(横浜─新横浜)の開業を機に'84年に導入された。6輌編成9本、計54輌が製造された。3000系とドアの幅が異なりワンマン運転の際のホームドアに対応できないため'04年度より8編成が3000S形に機器を流用、1編成はそのまま廃車となり、'06年形式消滅した。 '04.4.16 1号線 上永谷 P:清野祐一
'63年登場の7801形と'66年登場の3521形を前身とする3輌12本を'83〜'89年に性能向上、保守軽減化でGTOサイリスタチョッパ制御(回生制動・抑速制動付)化した。形式。車体はオリジナルと変らず、前面切妻、三扉片開扉車。梅田方からMc1(3101形)+M'(3001形)+Tc(3201形)として2ユニット6輌で使用。'95年阪神大震災で6輌被災廃車。'98年以降運用変更で余剰、車体機器老朽化も相って、新製車輌と引換に'03年03月までに全廃。 '02.3.17 山陽電気鉄道 本線 山陽須磨 P:梶村昭仁
富士急7000系は、1972(昭和49)年に国鉄のクモハ(旧32系)とクハ(旧50系)が各2輌転入した。1981(昭和56)年まで働き小田急2200系の転入車と交代した。国電の17m車は数多く払い下げられたが、旧32系のクモハ14をはこの2輌だけだった。国鉄では前面の雨樋を更新していたため、数少ない原型の直線雨樋であったが、窓枠はアルミサッシになっていた。 '79.4 大月 P:深山剛志
能勢電鉄51形は、阪急電鉄37形3輌を1948(昭和23)年に譲り受け70形として活躍した、1953(昭和28)年にオリジナルの車体で鋼体化を受けてクリームとブルーに塗られて50形を名乗り能勢電の主力として昭和41年まで働いた、その後51号車だけ生き残り、61号車と伴に「国鉄連絡線」が廃止になる1981(昭和56)年12月まで活躍した。 '80.8 P:深山剛志
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1953(昭和28)年から1958(昭和33)年にかけて16編成32輌が製造された、正面2枚窓3扉のロングシート車600系が、1965(昭和40)年非常に複雑な改造・改番が行なわれ400系となった。写真のデハ441は元のデハ608。デハ444(元クハ659)と編成を組む。400系は1981(昭和56)年から廃車が始まり、1986(昭和61)年全廃となった。 鮫洲 P:田中健吉
山陽電鉄の 255は1952(昭和27)年に101号の火災復旧車として登場した、その際に254号とともにに、山陽初の全鋼製車体と蛍光灯を採用し「ビニール電車」と呼ばれた。普通列車を中心に活躍し'77年に引退したが、255は構内入替車として広幅貫通路を塞ぎおへそヘッドライトの姿で2000年まで働いた。250系は250〜255までが15m車・256・257が17m車と大きく形態が異なるグループだった。 '80.8 東二見車庫(許可を得て撮影) P:深山剛志
1958(昭和33)年、300形・400形の増備車として400形を片運転台化したタイプで、奇数車が荻窪向き、偶数車が池袋向きになっていた、総数234輌の大世帯で方向幕横のルートサインがある初期型。ルートサインは昭和35年製の645号以降は廃止された。1988(昭和63)年、02系登場により順次置き換えが進み1995(平成7)年3月末日で本線上から姿を消し、'96年7月18日限りで分岐線の運用からも外れた。7日20日にさよならイベントが行われ丸ノ内線から赤い電車がなくなった。解体を免れた131輌は南米アルゼンチンのブエノスアイレスに渡った。 後楽園 P:田中健吉
井の頭線初の高性能カルダン車として1957(昭和32)年に登場した。デハ1001〜1006、デハ1051〜1056の12輌で、1002、1004、1006、1051、1053、1055は1970年3月にMcからM車化された。'84年3月までに全車引退した。 '74年頃 京王帝都電鉄 井の頭線 下北沢─池の上 P:田中健吉
高野線への直通運転に対応するため1958年(昭和33年)から1964年(昭和39年)にかけて、全電動車方式で4輌編成8本、計32輌が製造されました。南海高野線で初めてのカルダン駆動車です。なお南海本線初のカルダン車の11001系は弱め界磁率は50%ですが、ズームカーは、25%に向上し、登山区間の50‰の走行と平坦区間の99km/h(認可速度)と言う多様な運転が実現できたのです。写真は上町線の神ノ木駅から住吉東駅を見下ろして写したものと思います。発車直後の難波行き普通列車で、クーラーはなく、各車輌に1個ずつ4個のパンタを連ねて、各駅停車から急行までまさに『ズーム』な活躍をしていました。 '63.8 南海高野線・住吉東 P:柿浦和敏
1954(昭和29)年、南海本線の優等列車用に登場した。既に高性能車の幕開けの時代、カルダン駆動のオールMcのモハ11001形(貫通形4連2編成)と共に200馬力の吊掛け式モーターを用いたモハ12001 形とクハ12801形による2Mc2Tcの1編成、合計3編成によって南海本線の特急・急行列車に華々しくデビューした。12001系は吊掛け式とは言え、電気制動も装備、オール転換クロスシートのデラックスな車内、ライトグリーンにダークグリーンの帯を巻いた斬新な塗装など、さらにこれらの新車の登場により、特急列車は難波〜和歌山市間を60分にスピードアップも実現するなど、数々の話題を提供した。カルダン式の11001系は後に正面2枚窓、張り上げ屋根の11009系が増備され、5連化されるなど発展したが、吊掛け式の12001系は4連1編成のまま、いち早く表舞台から引退した。しかし戦前からの名車2001系4連とは共通運用が組めるので、南海本線の急行・準急・普通列車などに活躍を続けた。1500Vへの昇圧が具体化し、12001系は11001系のサハ11801形として昇圧までの間11001系の編成長大化に貢献し、最後のご奉公をした。いずれにしても近鉄の2250系と共に吊掛け電車時代の最後を飾る豪華電車のひとつであったことは紛れもない事実である。 南海本線西線 玉出─粉浜 P:永野晴樹
元岳南鉄道モハ1105で'81年入線。'60年汽車製造製。当時地方私鉄向け17m級車両として日本車輌が製造した標準車体を採用。岳南時代に木造、老朽半鋼製車更新の際に採用し汽車で同時製作した2両の内、1両をステンレス車体(スキンステンレス)で製造。2扉片開、側窓は上部がHゴム固定のバス窓採用。貫通扉付3枚窓。性能は吊掛式HL制御であったが、'71〜'74年にCS系制御器に換装。主に単車使用や他車増結用で活躍。後にワンマン化改造実施。'86年以降納涼展望電車クハ861牽引でも活躍。後冷房付譲渡車投入と機器老朽化等で休車状態に。'99年除籍となった。 '88.9.2 新金谷 P:梶村 昭仁
1963(昭和38)年登場。西武所沢工場で車体新製。機器は自社手持ち部品を活用。西武551・601系をベースに伊豆箱根オリジナルスタイル(腰部2灯前照灯、張上屋根車体等)とした。性能は吊掛駆動、台車はDT10,TR11等の旧式。屋根上はMc車パンタグラフ以外、グロベンがズラリ並ぶ。車内はセミクロスシート。この第1編成のみ両端Mc車編成。車体は西武カラーでウオームベージュ+ローズレッドで後、前面部が旧国鉄特急車の様なデザインに。非冷房故旧西武701系譲受車や新車投入で余剰となり'91年除籍、Mc(2輌)のみ大井川鉄道へ譲渡。 ’89.3.2 駿豆線 三島二日町─大場 P:梶村昭仁
元名鉄3800系譲受車で編成を組んで居たモハ310(元モ3805)+クハ510(元ク2805)のクハ510を種車に'86年自社工場で改造した意欲作。側窓シル上部から幕板屋根鋼帯境界線までの外板と側扉を撤去、納涼展望電車と銘打ったオープンカーとしてリデビュー。車号は登場年度(86)にあやっかたもの。同社在籍電車との併結以外にSL客車列車との併結も考慮。夏場の臨時列車を中心に活躍。晩年は休車状態となり、'99年を以て除籍となった。 '88.9.2 大井川鐵道 新金谷 P:梶村昭仁
800系は1962年に開業時の1系や101系などを、310形と同じ車体に車体更新して生まれた車輌で、17輌が登場した。その後3連化の際に2輌が1100系のサハに改造され15輌になった。外観で見分けるポイントは、パンタグラフを撤去した片扉の車輌か、大型の旧型パンタを搭載しているかの2点でした。写真の807は最後まで活躍し平成5年に引退した。 '82.8 長田 P:深山剛志
'79〜'82年に西武鉄道からやって来た元501系を種車の3両編成。この編成は'79年8月に入線した編成(クモハ509,サハ1509,クモハ510が種車)で、空色+白帯で登場。愛称も「流馬」。西武時代とは後部標識灯が埋込式になった以外ほぼ、原型で使用。又サハの種車が17m501系のサハの為、側窓、車体高さ等が前後で異なっていた。この「流馬」号、'97年冷房、カルダン車の西武の後輩(801系改造)に譲って引退した。 ’88.11.3 流山 P:梶村 昭仁
近鉄モ6301形は戦前昭和13年、関西急行電鉄により、大阪〜名古屋間直通運転用の狭軌区間用(ほぼ現在の近鉄名古屋線区間)に製造された1形である。戦後は近鉄6301形となり、初代名阪特急の狭軌線であった現在の名古屋線区間に活躍した。その後新型特急車の増備によりいち早く特急の座からは退いたが、伊勢湾台風をきっかけとした近鉄名古屋線の標準軌への改軌後も名古屋線の急行電車に活躍した。17m車であるが、大きなパンタグラフを振りかざし、正面の幌を膨らませて快走する姿は、いかにも関西の私鉄電車であると言う風格を見せていた。ほとんどが平坦線である名古屋線では、大阪線の2200系のような豪快な走り振りではなかったが、ノッチを入れっぱなしにして突っ走ると100km/h位の速度で軽快に走った。写真は当時新製された京都・伊勢特急、18200形(左)の試乗会でのスナップ。 ’66.12 宇治山田 P:永野晴樹
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5200形は5000形の電機品・台車を使用して1958(昭和33)年に製作された国産ステンレス車第1号。外版は独特の帯状プレスを施したステンレス張りで台枠や柱は鋼製。全長は17.5mで5000系より50cm短い。 大井町線 等々力 P:田中健吉
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京都〜伊勢直通用に18200系は誕生した。当時京都〜八木間の近鉄京都線ならびに橿原線は車輌限界の狭隘な、しかも電圧は600Vであった。八木から先の宇治山田までの区間は名にし負う近鉄大阪線の1500V、しかも連続33‰の連続勾配。いわば水と油のような区間を直通して特急列車を走らせることに成功したのが18200系である。170kWという大出力のモーターを装備し、大阪線での連続33‰の上り勾配で、当時の新ビスタカー並みの100km/h運転をMcTc編成で可能とする、後の12000系スナックカー以降の近鉄特急につながる高性能な特急車であった。後に京都〜八木間は大阪線並に車輌限界が改善され、もちろん電圧も1970 年の大阪万博を機会に昇圧されていたから、18200系は限界狭小であることが災いし、修学旅行用のあおぞらⅡ生として生き延びたが、20m級大型車の12200系大型車に席を譲って、廃車となった。写真は登場時の試乗会でのスナップである。18200系は後の近鉄特急の基本的性能を示したということにおいて、末永くその功績を称えられるべきである。 '66.12 大和西大寺車庫(試乗会で) P:永野晴樹
本年10月の近鉄からの分社(伊賀鉄道への移管)が迫っている近鉄伊賀線。この5000系は、1977年に実施された同線の第一次近代化の際に投入された車輌で、もと名古屋線急行用車輌6301系(モ6311形・モ6331形など)。同線創業以来の古豪を置き換えたが、その活躍も長くは続かず、1986年末までに全車がもと奈良線用車輌800/820系(伊賀線での系列名は880/860系。現在は860系に統一)に置き換えられて消え去った。 '83.3 丸山─上林 P:清水祥史
流山電鉄クハ51ですが、元は飯田線の前身豊川鉄道のサハ22(昭和2年川崎造船所製)として竣工し昭和12年TC化しクハ61となる、国鉄買収後宇部線、福塩線を経て昭和28年の改番でクハ5600となり昭和31年廃車、同年流山電鉄クハ51となった。 ’75.1.2 流山車庫 P:田中健吉
終戦直後、国鉄のいわゆる63形は東武や小田急など各地の私鉄にも登場した。南海も戦前から20m車を運転していたし、国鉄客車を用いての南紀直通列車を走らせていた実績(?)と私鉄では最大の戦災車を出したため20輌の63形がモハ1501形としてすべて電動車で登場した。ただし、南海は電圧が600Vだったので、そのまま走らせるわけにはゆかず、制御器も200馬力の大出力を誇る2001系並のものを装備し、1947年と他社にやや遅れての登場であった。当初はすべて電動車だったので、中間に17m級の木造車を挟んだりして活躍した。後に昭和34年、和歌山市寄りの電動車8輌をクハ1951形とした上で、電装品をモハ1521 形に譲りさらに昭和40年3月頃より4輌の電動車を貫通化改造、これによって63形による2M1Tが4編成出来るという寸法であった。写真はまだ改造過渡期の時代で、モハ1511は貫通改造されたものの中間に標準型18m車、クハ2851形を挟んだ和歌山市行きの普通電車である。折角の改造にもかかわらず、7001系の増備により63形ことモハ1501系は昭和43年には廃車となった。 765.5 南海本線 浜寺公園─羽衣 P:永野晴樹
1950(昭和25)年製の電動付随車デハ1761の電装品を撤去、クハ化したもの。クハ1258+デハ1804+クハ1259+デハ1805で渋谷寄りの先頭車だった。1980年廃車。 富士見が丘車庫 P:田中健吉
'63〜'68年に300番代形式である旧国17m車の代替目的で製造した旧411形(クモハ411形・クハ1451形)を種車に'78年から改造、と云うより新製同様で冷改の際、台車新製(FS372=101系)、主電動機(120kw=701系)等を使用。性能は701系に合わせたためHSC化されるも電制はない。車体は種車が流用されるも窓上行先字幕新設、SUS飾り板等他車並みに。19編成38輌が新宿線系統で活躍。'97年2月までに引退。なお、全車が他社へ譲渡された。 '88.9.2 多摩湖線 一橋学園─青梅街道 P:梶村昭仁
近鉄6441系は昭和33年に名古屋線用通勤電車として、大阪線の1460系に似た20m3扉を持ちクリームに青帯の塗装で登場した。但し、足回りはモニ6231系のモノが使用され釣り掛けのD-16を使用していた。一年後に名古屋線が改軌されシュリレーン型台車になった。1979年ごろから養老線に転属が始まり再度狭軌化されて形式も440系になったが、非冷房・マルーン一色のまま1994年に引退した。 ’80.1 近鉄名古屋線桑名付近 P:深山剛志
'72年にMcTMTc4輌ユニット1200系として、名古屋線に登場。大阪線に同時期登場の2800系一次車と同様の冷房車として新製。ただし下回り電気機器は旧1300・2200形(MMC型等)から流用の吊掛け車。'82年、名古屋線用界磁チョッパ車に系式を譲って1000系列へ編入、同系の1002編成となる。'84年、他1000系同様高性能(界磁位相制御回生制動)化(但し抑速無)。編成が組替り、McMTTc編成に。同時にTcをク1910形(ク1925)とMG容量の関係で振替、'86年サ1152にWCを取付。名古屋線急行運用を中心に活躍するも、老朽化、新製車投入による玉突き転用で余剰となり'05年廃車、消滅した。写真は1826F+1002F。 ’02.10.14 名古屋線 箕田─伊勢若松 P:梶村昭仁
1948(昭和23)年から20輌が製造された当時の運輸省規格型電車で、京阪線の車両限界を現在のサイズに広げるなど、京阪の戦後の輸送に大きく貢献した。1983年、架線電圧の1500Vへの昇圧に伴い廃車された。 '81.8 三条 P:松本テツヤ
東葉高速開業に際し東京メトロ(当時営団地下鉄)5000形を冷房改造し12編成購入したが、改造が間に合わない1091編成1101編成は5000形からJR機器の取り外しと東葉高速ライン、並びにマークの取替えを行っただけで平成8年7月頃までの4ヶ月間ご覧の姿で営業した。 写真は譲渡前のメトロ線内試運転です。 '96.4 営団地下鉄(現・東京メトロ)西葛西駅-南砂町 P:田中健吉
めでたく保存対象車となった300号ですが、この頃は琴電独特のパンタグラフをつけていました。電柱が邪魔していますが、このパンタグラフを見ていただきたく投稿しました。 ’63.8.2 瓦町付近・車窓より P:柿浦和敏
【編集部】このパンタグラフの詳細をご存じの方、編集部までご一報ください。
1961(昭和36)年、戦前のロマンスカー600形(初代)、700形(初代)などの機器を利用して車体を新造した車輌。1983(昭和58)年、1500V昇圧時に廃車となった。写真は京阪電鉄600V時代の末期に運転されていた吊り掛け車600系による急行。複々線を豪快に飛ばした。 ’82.11 京阪電鉄本線 千林─森小路 P:松本テツヤ
1968(昭和43)年特急用旧エースカーパワーアップ化(125→145kw新製)に伴い捻出された主電動機、台車(エアサス→コイルバネ化のKD-51G形)等の機器を流用して車体新製。2M1T・3輌編成で6輌が登場(モ2470形Mc車偶数、M車奇数。Tc車は1480系増備車のク2580形)中間車体は当時増備中の奈良線8000系に準じた左右非対称形態に。三菱製ABFM単位スイッチ式1C8M制御、抑即発電制動装備。当初1480系同様大阪線系で活躍。'80年代に冷改、扇風機装備車。晩年は名古屋線系統で普通列車中心に地味ながら'02年08月まで活躍。 '02.2.09 名古屋線 近鉄蟹江─冨吉間 P:梶村昭仁
京阪大津線の高床車(京津線路面区間の駅を通過する急行・準急用車輌、石山坂本線用車輌)の1960〜1970年代の主力であった260形(最終増備車)と300形が、ともにこの直後に廃止された三条-石山寺間の直通準急として、今はなき三条通の路面区間を行き交う姿。1960〜70年代のほとんどの期間、京津線急行・準急に運用される車輌は、すべて赤とオレンジの「京阪線特急色」をまとっていたが、1979年に登場した500形を皮切りに、緑の濃淡の「京阪線通勤車色」に変更されていった。写真はその過渡期の光景。 なお、写真左側の260形後期車はその後500形を経て現在も700形として、右側の300形は現在も600形として、ともに車体は現役を続けている(車体を流用したうえでの、代替新造扱)。 ’81.1 三条 P:清水祥史
三條から急行できて、旧・浜大津駅でスイッチバックして石山寺に向かうブリルを履いた262+263。260形は1957(昭和32)年から1968(昭和43)年にかけて26輌が製造された。1次車から4次車の4タイプに分かれ、写真の1次車は’57年のナニワ工機製で、両運転台、片開2扉。’70年にパンタ化され、’71〜’73年にかけて片運転台化された。’97年の大津線昇圧の際にこの1次車はすべて廃車されている。 ’63.4 浜大津 P:柿浦和敏
都営10系試作車は1971(昭和46)年に誕生し、新宿線の開通前だったために三田線に登場した、当初は黄色の帯を巻き、冷房付きでATOを搭載していた、一般の人にとっては車庫にある謎の車輌だったが、'78年に新宿線が開通し、量産化改造され、1次車を組み込み6輌編成で活躍を開始した。その後8連化や冷房化が行われたが、新宿線の信号装置リニューアルに伴い、2005年に10-300に後を譲り引退した。 '04.10 大島 P:深山剛志
1959(昭和34)〜1962(昭和37)年にかけて木造車置換えのために登場した南海が設計・した製作初の20m4扉車。2051系も1521系と同様の目的で登場した。主に南海線の普通列車に使用されたが、'73年、南海線の1500V昇圧が行なわれたさいに、1500V対応に改造したが、結局、高師浜線、天王寺支線などの支線で運用されることになった。高野線汐見橋-岸里玉出で最後に運用されていたが、'95年に運転終了、和歌山港線でお別れ運転が行なわれた。 '84.11.11 天王寺支線 天下茶屋 P:小森克禎
元阪神電鉄の831形。10輌が京福電鉄に譲渡されデナ500形として叡山線で運用された。集電装置はシングルポールに戻され、叡山本線・鞍馬線(二軒茶屋まで)で運用された。末期は再びパンタグラフに乗せ替えられている。八瀬遊園発出町柳ゆき。 ’74.6.15 元田中付近 P:柿浦和敏
1966(昭和41)年車体更新HL車2輌10本が登場。いわゆる間接非自動制御車で主に旧愛電3300形等の戦前の半鋼製車の機器流用車。車体は5500系を高運化したパノラミックウインドウ、シールドビーム2灯、側窓2連1組二段窓、車内1・2人掛交互配置の転換クロス、その上クーラ搭載とHL更新車としては豪華な内容。当初、新色ライトパープルと称する薄いすみれ色で登場、他車にも波及し掛けたが、体色が激しく、郊外で保護色になって視認性に問題があって暫してストロークリーム+赤帯の後スカーレット化。'77年以降瀬戸線1,500V地下線用としてA-A基準化。同時に転出した3770系等共に活躍。なお、特徴ある車内は'85年までにロング化。HL、吊掛け駆動の機器老朽化等により本線転用6000系等と順次交替、'96年6月までに全車引退、形式消滅。 '88.8.25 瀬戸線 尾張瀬戸─瀬戸市役所 P:梶村昭仁
阪神電鉄の車輌大型化により1958年に4輌が増備された。初の上半分クリーム下半分赤色の赤胴車カラーを採用し、本線急行系列車の増結にしようされた。その後1975年に冷房化されたが、武庫川線等の単行使用での際はMGの関係で冷房が使用できなかった(現在のように大容量SIVがなかった)。1986年に阪神電鉄から引退し、一部はえちぜん鉄道に譲渡された。
1970(昭和45)年登場の大阪線急行及び団体兼用の4扉オールクロスシート車。扉付近に収納式補助席設置、これを使用時側引扉開幅700mmにする機能を有した。当時急行系に旧参急の名車2200形等の旧型車の老朽・陳腐化による置換えの意味合いも。4・2輌各2本12輌登場。当初非冷房だが後、'84〜'85年までに冷改。三菱製1C4M抵抗制御、抑速発電制動でWCはク2700とサ2750に持つ。'89〜'90年に更新するも座席はしのまま、晩年は各編成2本ずつが大阪・名古屋に配置、細々と活躍、老朽化等により'00〜'03年までに全廃となった。 ’02.10.14 名古屋線 箕田─伊勢若松 P:梶村昭仁
近鉄モ二221形は北勢鉄道モハニ50形として昭和6年に登場した。その後三重交通になった際に、モニ211系に改番され昭和40年に近鉄に合併された。ほとんどが北勢線で使用されたが、北勢線近代化後は4輌が残り、1992年に廃車になったが、内部線に転属した車輌は大改造されて260系のサハになり、現在も活躍している。 ’80.1 近鉄北勢線 西桑名付近 P:深山剛志
1960年に浅草線(1号線)用として製造された5000系は、車体は営団500系・電装は国鉄101系に似た構成を持ち、浅草線の顔として152輌が製作された。1981年から車体意更新が始まり、塗装が2色塗りに変更された。しかし、冷化が困難なこと、高速域の性能が新型車輌にかなわないなどの 理由により1995年に引退した。 ’80.10 京成小岩 P:深山剛志
阪神電鉄青胴車のグループで、5201形の後を受け昭和36年から24輌が増備された。主な変更点は昇圧対応を本格的に盛り込んだり駆動方式が平行カルダンになった。その後、1980年代に冷房化が問題になり、台車等を2代目5001形に譲り1983年までに廃車になった。残った車体は2扉化されて、えちぜん鉄道や高松琴平電鉄に譲渡された。 ’80.1 阪神本線 今津 P:深山剛志
'80年暮以降、7800系更新増備車として登場。前年の5000系と異なり冷房搭載、HSC制動化等が変更点。性能、制御方式は変わらずの吊掛駆動車で機器的には充分使用可能で、首都圏大手最後の「吊掛駆動・車内床板張電車」の汚名払拭の目的も。編成は4輌(5050形)、2輌(5550形)の二形態。車体は8000系コピーだが、BL-MG、側扉に戸挟み検知装置等チョッピリ新車並みに。登場時は全線で活躍も一旦、野田線に集中配置。後3000系列全廃により本線の各支線系統を中心に活躍。吊掛駆動の機器老朽化が目立ち保守に難渋することから廃車が始まり、'06年暮れに定期運用離脱、後'07年2月までに全廃、形式消滅。 ’87.10.25 伊勢崎線 和戸〜東武動物公園 P:梶村昭仁
奈良電を吸収合併のあと、車輌限界が小さかった頃の京都線初代の特急車輌。旧奈良電の車輌を改造したもので、コイルバネ台車や車内設備など他線の特急に比べ見劣りするものでした。橿原神宮前発京都行き特急。 ’65.2.14 近鉄大和西大寺駅 南方 P:柿浦和敏
伊勢崎線快速用車輌の体質改善のために1964年に登場した2ドアセミクロスシート車。デッキなしの仕様ではあったが、ズラリと並ぶボックスシートは当時の国鉄急行型に相通ずる長距離用車輌の雰囲気があった。2連×22本=44輌が製造されたが、非冷房であったことなどが影響し1985年から1986年に掛けて全車が6050系に更新され、姿を消した。 写真は1980年、蒲生駅にて撮影。 左から、上り本線に快速浅草行6000系、中線に上りED5050型重連貨物列車、下り本線に78系準急と、懐かしい顔ぶれが並んでいる。今では、車輌はおろか駅の施設にも、その面影すら見当たらない。 ’80.8 伊勢崎線 蒲生 P:清水祥史
1970(昭和45)年に5000系の増備として阪急で初めて冷房を搭載した車輌としてデビューした5200系25輌が製造され神戸線で活躍した。その後、この冷房方式が標準となり、増備車輌や冷房改造の基本となったが、5200形自体は、ダクトを搭載する関係で屋根が少々深いのが特徴。パンタグラフがない車輌にクーラーが5基付いていたのも特徴で、大きな改造もなく、2000年に引退しましました。 '80.8 阪急電鉄神戸線 P:深山剛志
名鉄における第二次大戦後初の車輌。当時の旧運輸(=現・国交)省私鉄標準規格型車輌で'48〜'49・'54年71輌製造。小田急1910形、山陽820形等が兄弟車。登場時は旧名岐区間1,500V昇圧による東西直通運転開始のタイミングに当たりその象徴車輌に。2扉ロングシート。二段窓で性能はモ800形と変らず、間接自動加速式抵抗制御式。登場時ダークグリーンで後、ストロークリーム+赤帯を経てスカーレット化。'71年以降老朽、陳腐化の車体更新を兼ね7300系へ30輌更新。残った車輌は部分更新を経て扉間転換クロス化される等、優等からローカルまで汎用にこなす。更新後も戦後すぐの車輌で痛みが激しく、'90年までに全車引退、形式消滅した。 '87.8.20 名古屋本線 伊奈 P:梶村昭仁
1983(昭和58)年に昇圧を行った京阪電鉄では、昇圧対応出来ない旧型車は廃車になるため、車輌不足を解決するために、元特急車の1800形のカルダン駆動の足回りと通勤型の大きい車体で旧性能の足回りをもつ600形・630形の車体を利用し1800形の車体更新車を登場させた。ただし、冷房化は見送られたため、6000形の増備が進むと1989年には早くも引退した。 ’82.4 京阪電鉄本線 P:深山剛志
'60年11月都営1号(浅草)線、押上〜浅草橋間開業時に16輌(2輌×8本)が登場。都・京成・京急との三社「直通車両統一規格」とし、日本初地下鉄と郊外民鉄との直通運転の礎となる。後路線延伸時に増備、中間車も登場し'68年10月まで五次に渡り152輌製造。当初は窓下オレンジ+窓上ベージュに窓下ミステイーベージュ(グレー)帯の京成近似色。'81年7月以降の更新時にクリーム+赤帯に。性能は全M、MMユニット、直並列抵抗制御、HSC-D(電制付)制動の高性能車。三扉両開扉、全鋼製18m車で側肩部通風器埋込の二重屋根スタイル。晩年は8輌で活躍。老朽化と車体強度不足で冷改出来ず、後継車投入で'95年7月に引退、消滅。 '88.9.13 京浜急行電鉄 本線 北品川─新馬場 P:梶村昭仁
「レッドアロー」の愛称で親しまれた西武初の特急車。'69年10月秩父線開業で登場。アイボリー地に前から側面への赤帯。前面窓下にSUSエッチング板、中央に西武「社紋」、前・標識灯をまとめたライトケーシングを左右、中央に愛称表示板(後、電照式に)を配した押出し感のあるスタイル。大型固定式ペアグラス、空調完備、2枚内開折扉採用。性能、台車は101系と変らず。当初は2M2Tで、車内は回転クロスシートを号車毎に色分(青・茶・赤・緑)。'74〜'76年に増備され6輌6本36輌に。晩年、座席の簡易リクライニング化、公衆電話設置等改良も実施、秩父特急以外の通勤特急の役割にシフト。西武の顔として活躍するも、'93年登場の10000系に'94年から順次交替、'95年10月までに全廃。機器類は10000系製造に流用された。 ’82.12 池袋線 東飯能 P:梶村昭仁
近江鉄道モハ1系は神姫電気鉄道の木造電車を譲受し1963年に鋼体化のため湘南顔の2扉車体に生まれ変わった。この時期西武系の会社は必ず、湘南顔にベージュとローズピンク塗装をされた車輌が必ず在籍していた。末期は黄色に塗装されて活躍し2004年頃に引退した。 ’82.2 彦根 P:深山剛志
初代名古屋鉄道のデセホ750形として、1928(昭和3)年〜29(昭和4)年に10輌製造された。当初は西部線の主力として活躍、名古屋市電乗り入れ用にポールを併設していたことや、一部は半室畳敷き化の上、高山線下呂まで乗り入れたこと等、エピソードも多い。1948(昭和23)年の西部線昇圧後は、各務原線、小牧線、広見線、瀬戸線等の600v線区に転じたのち、その間に廃車された1輌を除いて1966(昭和41)年〜1978(昭和53)年の間に順次、揖斐・谷汲線に転属した。内6輌は平成に入るまで活躍を続けたが、3輌が1998(平成10)年のモ780形増備時に、残る3両も2001(平成13)年の揖斐線(黒野─本揖斐間)、谷汲線の廃線時に引退した。長年に亘り運用されたため、台車・電動機換装、ワンマン化、一部車両の片運化(のち再び両運化)等、仕様変更は多岐に渡るが、車体の基本的な形態は変わることなく、70年余の間、尾張や美濃の山野を駆け続けた。写真のモ758は1928(昭和3)年製。揖斐・谷汲線には1973(昭和48)年の入線で、1998(平成10)年まで使用された。両運転台と車体付けの尾灯を最後まで堅持した車輌で、尾灯下の車体裾にスノープロウ固定用の台座を装備していたことが晩年の特徴。 ’98.3.29名古屋鉄道谷汲線 谷汲 P:古川泰典
'51年に名古屋本線の特急用に2輌10本が登場。車内は転換クロスシートで、車体も従来の狭幅窓から扉間広幅窓5個が並ぶ開放感在るスタイルに。車体色も特急用として上半ライトピンク、下半チョコレートマルーンのツートン採用。性能はモ800系から変わらずの間接自動加速式(AL)。吊掛ながら発電制動付。高性能車登場後も優等系列車で活躍。後、車体更新の際、Mc車ノーシルノーヘッダに対し、Tc車ノーヘッダと編成でバランスに掛けたスタイル(事故復旧車体新製除)に。塗色も、ライトパープル化、ストロークリーム+赤帯を経て、晩年スカーレット化。本線ローカルや支線運用で活躍も冷房化促進により'90年まで引退、形式消滅。 ’88.3.14 西尾線 西尾口─西尾 P:梶村昭仁
'70年9月から4年間で5次に亘り17m級2000系を更新大型化して30輌登場。20m片側両開四扉ながら'67年試作のモハ6021号の実績からオールアルミ車体採用。全車東急製。当初は吊掛駆動の旧性能車だったが'76〜'79年に(直角カルダン・130kw主電動機・エアサス台車化等)高性能化。新6000系同様高運転台、無塗装故に側面樋下と裾部、貫通扉に赤色が入った。当初の1・2次は側2段窓'73年増備3次以降は登場時稀であったパワーウインド式1段下降窓採用。客室内の他運転台内ボタンで一斉に側窓を操作できる優れ物。クハ2609が3次車クハ2603が2次車で車体形状も若干、差異があった。新形式車と交替し'04年2月までに引退、形式消滅。 ’83.1.18 かしわ台工機所(検車区) P:梶村昭仁
1964年に運転が開始された京都-奈良・橿原神宮前間有料特急の増発対応として、1965年・1966年に合計4輌が製造された特急車。趣味的に最も注目されたのは、主電動機等が在来一般車から流用されたため、吊掛モーターを装備していた点。製造されて以降、1982年に12600系と入れ替わって廃車となるまでほぼ全生涯を「近鉄唯一の吊掛特急車」(めったに運用されなかった683系予備特急車を除く)として過ごした異色の存在。写真は最晩年に京都-奈良間の修学旅行生貸切列車に運用された時の姿。 ’82.6 近鉄京都線 伏見 P:清水祥史
昭和26年に特急専用車として2連9本が現在でも使用している赤とオレンジの特急色で初登場した。その後、カルダン駆動で後輩の1800形や1810形と伴に特急運転に活躍したが、昭和31年頃から徐々に特急運用を離脱、ロングシート化を行い、昭和41年頃から3扉化され塗装もこの頃に緑の濃淡である一般色に変更になった、晩年はカルダン車の11800形や釣り掛けの600形と7連を組んだりしたが、昇圧直前に1700形だけの編成に戻り、昭和58年12月の昇圧まで活躍した。 ’80.1 京阪本線 P:深山剛志
'61〜'69年に120輌が日立で製造。直角カルダンの高性能車。20m四扉、MT比1:1のエコノミーカーとしてMc(6000形)Tc(6500形)の2輌編成で登場。のっぺりとした平妻貫通三枚窓でいつでもどこでもどの様にも編成が組る機能性を重視。車体は関西に多い非対称扉配置(運転台背後に窓と座席有)で後に中間(M6100形、T6600形)車も製造。全鋼製だが'67年にモハ6021をアルミ車体で試作、後の試金石となった。晩年は冷改、シールドビーム2灯化程度で、原型を保ち万能を遺憾なく発揮。'96年までに新形式車と交替して消滅。引退後、モハ6001、6021が保存される。 '90.4.3 本線 鶴ヶ峰─二俣川 P:梶村昭仁
新生駒トンネル開通後、名車800形に代わり大阪(上本町)-奈良間の特急運用に進出して間もない頃900系。奈良線初の20m車である。鹿のマークも颯爽と平城宮跡の直線区間を快走する大阪行き特急。900系は2002年に全車廃車となっている。 ’65.2.14 奈良線 西大寺-油坂 P:柿浦和敏
'63〜'67年に4輌編成48本192輌が製造。前灯2灯を窓下、字幕を額に掲げ、斬新性を強調するも、カルダン駆動車ながら制御車はイコライザー式TR10A、在来(吊掛)車併結可能のAE式ブレーキ方式等、高性能とは御世辞にも云えなかった。'75年以降冷改、HSCブレーキ方式、制御車エアサス(FS072)台車、SUS扉、レモンイイエロー一色(登場時ローズピンクとウオームベージュ)化。新宿線系で活躍も老朽化等により、'97年2月のさよなら運転を最後に形式消滅。 '88.8.13 拝島線 萩山 P:梶村昭仁
1960(昭和35)年阪急は画期的な定速制御を装備した2000系シリーズを登場させた。デザインは今日に至る阪急スタイルを確立した極めて優れたもので、京都線には2300形が登場し、新型車ということで特急にも用いられた。しかし3扉ロングシートの通勤形車では並行する京阪特急のテレビカーに比べて明らかに見劣りがした。そこで2300形をベースとして2扉セミクロスシートの2800形が昭和39年に登場した。その後通勤車にも冷房車が登場するに当たり、2800形は真っ先に冷房化改造の対象となった。ところが対抗する京阪は冷房付、カラーテレビ付きの3000系を新造、国鉄も153系冷房車を用いての新快速の運行を始めるなどサービス合戦が繰り広げられ、阪急も6300系特急車を新造し巻き返した。このため、2800系は3扉ロングシートの通勤型に格下げされ、1995年までに主な車輌は引退した。写真は登場間もない5輌編成の特急電車で、先頭のいわゆる「クハ」(阪急は「モハ」とか「クハ」とは言わない)だがパンタグラフをつけている。その後、編成の長大化(最大は8連)により、後にパンタグラフは撤去、大阪寄りのいわゆる「クモハ」のみに装備するように改められた。 1965.7 中津 P:永野晴樹
'54〜'56年に初の自社オリジナル車輌としてMcTTMcの4輌10本を新製。片側3扉前面は二枚窓の湘南スタイル。性能は吊掛駆動でMc車のみ17m車(Tは20m)。'57年の増備車からMc(モハ521以降)車も20m化、当初の10編成のMc車も'58年に20mMc車と代替、クモハ411形へ、さらに'64年にクモハ351形と流転。他形式のTc・T車を組込等全線で活躍。晩年は1311・1331形改造T車を組込McTMcで多摩湖線(萩山〜国分寺間)で活躍。国分寺駅ホーム有効長が短く、'90年6月に改良工事完成まで西武最後の旧性能・非冷車として活躍、'90年引退、形式消滅。 ’88.9.4 多摩湖線 萩山〜青梅街道 P:梶村昭仁
旧3244号を種車にして作られた事故救援車。撮影当時はまだツートン塗色で晩年のクリーム一色とは違った東武らしさを感じさせてくれた。1986(昭和61)年3月廃車。 ’71.10.13 北春日部検車区 P:照井孝司
高松琴平電鉄クハ610は元木造省電で、1953年に高松琴平電鉄に入線し、1960年に鋼体化されれて写真の姿になった、1983年に廃車になった。TR11台車が予定どおり広軌化された数少ない車輌になった。 ’82.8 仏生山車庫 P:深山剛志
京成電鉄AE車は1972年に成田空港の開港予定に合わせて登場し’73年のブルーリボン賞を受賞したが、空港の完成が遅れたために、’73年暮れから上野〜成田間のノンストップ特急として使用を開始した。’83年に塗装を変更し、1991年のターミナル駅の変更などにより需要増加に答え8輌編成に編成替をおこなったが、後継のAE100形が登場したためにスカイライナーの運用を離脱し、通勤型の3400形に生まれ変わった。 ’81.1.1 京成成田 P:深山剛志
'67〜72年に53輌が製造。性能は7000系と同様ながら1M制御のMcTc編成を基本に支線区等で使易くした。特徴として側窓がバランサ付一段下降窓採用、前面がくの字状に張出した独特のスタイルとなり通称「ダイヤモンドカット」等と呼れた。電気機器搭載メーカ別に車号の下二桁00番代が日立製、50番代が東洋電機製と区分されていた。比較としてアルミ車体も試作(デハ7200+クハ7500)。登場時は田園都市(大井町)線を2〜6輌、目蒲・池上線を3〜4輌、東横線は8輌で急行にも運用。'86年以降に7600系改造車が登場。それ以外は'02年までに引退、他社譲渡されて東急線から姿を消した。 ’88.6.19 目蒲線 田園調布〜多摩川園 P:梶村昭仁
'61〜'62年に451系の増備形式として4輌6本24輌が西武所沢工場で製造。501系に続く湘南スタイルながら窓柱のない2枚連続窓の西武スタイルを確立。性能は吊掛駆動、国電おさがりの電気機器、台車はMT共イコライザ式流用等「省エネ」設計であったが、西武初の電連、側扉軽量アルミハニカム構造採用等、旅客サービス部は新登場する度に目新しいものが採用。後にMc車のみエアサス化されたり、旧501系組込用のサハ1571形の半数をM(モハ571形)化して6輌化するも後に4輌に戻った。晩年はクハ1651形と組成して2輌にもなり各線で活躍。多摩川線運用を最後に'88年引退、形式消滅。 ’83.10 新宿(西武園)線 東村山 P:梶村 昭仁
戦前昭和14年、東横線の新型電車として登場、当時今の京急と直通計画があり、標準軌用台車を装備したのが特徴。昭和35〜36年頃まで片隅運転台で、正面左側の車内は最前部までロングシートがあり、展望満点だった。写真の昭和39年には全室式運転台に改造されているが、それまでは中間に全室式運転台のクハ3850等を連結し、車掌はクハの運転台からドア扱いをしていた。写真の二子橋の併用軌道はもと玉電の線路を戦時中に改軌したものである。永らく大井町線で活躍したが、田園都市線と改称され、高性能車が入線するに従い、目蒲線に転属した。晩年1975年頃より更新改造、アルミサッシや車内の改装はまだしも、張り上げ屋根、ヘッドライトも下部に2灯化改造された姿に、私は撮影意欲をなくした。 ’64.9 大井町線(当時)二子玉川─二子新地 P:永野晴樹
名古屋鉄道の3400系は昭和12年製造、2編成が登場し、戦後4連化され。、パノラマカーの登場後も高速性能を発揮した。昭和42年頃から更新改造により、イメージが大幅に変わってしまった。写真は昭和37年3月、大阪への旅中、特急「ひびき」号(157系)の車窓からたまたま並走した時の改造前のスナップである。 '62.3 栄生付近 P:永野晴樹
'63〜'67年に4輌48本192輌が西武所沢工で新製。外観は20m3扉で前灯を腰部2灯式、額部に大型巻取式字幕採用。その後の101系に続く西武湘南形スタイルを確立したエポックメイキングとなる。性能はカルダン駆動(1C8M制御MMユニット方式)とは云え、相変らずのAM系自動ブレーキで高性能とは云い難かった。Tc台車がTR-10等イコライザ式を流用したが、後FS-072でエアサス化。'75〜'82年に冷改、HSC化(電制・抑速無し)で真の高性能化。新宿線系統を中心に活躍。晩年は101系との併結(写真は1739F+1251F)も行れる等、汎用に活躍。'97年2月のさよなら運転後に引退、消滅。 '88.5.4 新宿線 南大塚〜新狭山 P:梶村昭仁
元尾西鉄道デボ100。1924(大正14)年、同鉄道は旧名古屋鉄道に合併。1941年、モ100形に改称、1949年にモ160形(161〜165)となる。製造初年は1921(大正11)年。瀬戸線や揖斐線などで1965年ごろまで活躍。瀬戸線に入線していた時代はY型ビューゲルを装備していた。 ’63.8.27 黒野車庫 P:柿浦和敏
'62〜'66年に134輌が東急車輛で製造。謂わずと知れた日本初のオールステンレス車で米バッド社の技術ライセンスを取得し製造。18m3枚扉車体、MMユニット、オールMで複巻電動機を用いた回生制動機能を持っていた。登場時から東横・日比谷線乗入対応とし、最大8両編成で活躍。形式は運転台付が7000形、中間7100形と区分。同車の特徴の一つに車軸外側に付いたデイスクブレーキ、パイオニアⅢと称した独特のスタイル。'87年以降7700系化、'88年以降に乗入車に1000系と交替し各線に転線、こどもの国線使用を最後に'00年6月に東急線から引退。写真のデハ7036は'91年廃車後秩父鉄道デハ2301として活躍するも'00年2月には引退した。 '87.10.30 大井町線 尾山台─等々力 P:梶村昭仁
昭和10年以降、宝塚用急行用に全鋼車320形や、性能は異なるが380形などの両運車が登場、昭和14年よりMc+Mcの片運車500形が登場した。写真の4輌目の3扉車は大正13年製の阪急初の半鋼製車300形であるが、撮影当時は広幅間通路のTに改造され、500形の中間に挟まれていた。。戦後木造車を淘汰するため、610形を新製するに当あたり、380形や500形は台車や機器を譲り木造車の機器等を貰い受けるような、複雑なたらい回しが行われた。なお500形は写真のように2輌に1基しかパンタグラフを付けていないので、あたかもTCのように見えるが、れっきとしたMcである。500形は阪急の1500V昇圧により、能勢電や広島電鉄に身売りしたが、いずれもすでにない。300形は昇圧の際に廃車となった。 ’66.9 阪急今津線 宝塚南口-宝塚 P:永野晴樹
それまで走っていた旧性能特急車達を置き換ため、1963〜64年に製造された乙特急用増備車。先の10400系と同様、基本2輌編成にTc車を組み合わせて乗客数の増減に対応できる。当初は10100系同様の星型特急マークを掲げていたが、増解結の際の手間のため、後に小型のものに変更された。また1980年からは3輌固定、座席のリクライニング化、字幕式行先表示化等12400系に準じた設備に更新され、短距離特急から名阪特急まで幅広く活躍した。1996年廃車。 '78.3 大阪線 関屋-ニ上 P:岩井雄二
1959(昭和34)年改軌後登場した名古屋線初の高性能通勤車。大阪線向MMユニットに対し、短編成使用前提の1M永久直列制御、VMC(バーニア)方式抵抗制御を採用。編成もMc+Tcが基本となる他は車体は共通設計。'67年までに41輌新製。当初はMcが奇数、Tcが偶数の同一番号だったが'63年以降、Tc車がク1700形に改番、整理。写真の1609Fは1961年製の二次車で旧モ1617+旧ク1618。冷改等もなく登場時に近い姿のまま、1991年廃車となった。 '89.3.24 名古屋線 近鉄名古屋駅 P:梶村昭仁
昭和44年に伊勢崎線急行専用車として登場した1800系は、平成10年までに後継車の200系に道を譲り「りようもう」の運用からはずれた、その後、一部が300系に改造されたが保留になった車輌のうち3編成が小泉線・佐野線の5050系置き換えのため通勤型に改造された。通勤改造といっても、足回りは8000系とほぼ同じであり、デッキの撤去つり革の増設4輌化など最小限にとどめられた。小泉線・佐野線のワンマン運転化に伴い平成18年9月に運用離脱した。 '05.10 伊勢崎線 館林 P:深山剛志
'71年に7000系パノラマカーの側面と車内設備に'66年登場のHL車3780系の前面を組合せたスタイル。当時の営業施策により本線から支線区間に直通する特急運用を目的に登場。車体は新造したものの足回りは旧名岐800形や戦後の運輸省規格型3800形等のAL車から流用した吊掛駆動であった。ただし新造時から冷房を搭載し、初期の高性能車よりもサービス性は高かった。後年空気バネ台車へ換装する等近代化されるも旧性能車故、'97年までに全廃、中間2輌を除いて豊橋鉄道へ譲渡され消滅した。 '89.3.17 西尾線 北安城〜南安城 P:梶村昭仁
1200形の後を受けて不足する特急用として増備された1300形です。 1000形〜1200形はオールMの新造車でしたが、1300形は経費削減のため中間M車のみを新造し、制御車は昭和26年製の旧600系をベースに台車を1100/1200形タイプのものと履き替えて2編成登場しました。 ブレーキ方式は西鉄で初めて採用された非常弁付電磁直通エアレー キ(その後登場した2000系や5000系と同じ方式)でした。冷房機器の 搭載が難しかったために、結局1000形〜1200形より一足早く引退をしてしまいましたが、塗装が変更された以外は廃車までほとんどオリジナルの姿を残していました。 '81.4 二日市車庫 P:吉村元志
近鉄大阪線の通勤用電車。ただし、通勤型とはいえ昭和14〜16年にかけて製造された2200新(2227〜)と同一性能で電気ブレーキも装備して青山越えも可能な電車である。大阪線のクロスシートの2200系に対して脇役的存在であった。晩年2200(旧)が三扉、ロングシートに改造され2200系と区別がなくなり、宇治山田や鳥羽行き急行電車にも用いられて疾走、花を咲かせた。写真はオール1400形3連の榛原行き準急であるが中間の電動車はパンタグラフを降ろし、トレーラー扱いの珍しい姿。 ’66.11.3 近鉄大阪線 関谷-二上 P:永野晴樹
旧玉電の生残り車輌であるデハ80形は新製・更新車含め、'49〜'54年に掛けて28両が登場。路面用車両ながら高床2段ステップ車のため、低いホームでの乗降は苦労した。写真は原型を保っていた頃の姿。後に標識灯横のシールドビーム2灯化、カルダン化等、改造されるも車内の木目ニス塗り車内、非冷房のままで、冷房付新型車と交替、最後に残った6輌が'01年に引退、消滅した。 '87.3.3 宮の坂 P:梶村昭仁
'86年12月に750V→1,500V昇圧化で在来車一掃により2両×4本8両を投入。元東急5000系車両。興入れした車両は目蒲線で最後まで活躍していたグループ。写真のモハ5005(元デハ5055:'58年製)クハ5006(元デハ5048:'59年製)。ワンマン化、一部両運化(モハ5007、モハ5009)。車体色は当時のバスカラーをモチーフ。軽量車体が仇となり老朽、冷改出来ない為、'99年〜'00年に掛けて旧京帝3000系譲受車と交替、引退した。 '99.11.26 上高地線 三溝〜新村 P:梶村 昭仁
昭和8年、日本車輌製。 “モニ”ではなく“モワ”として、開業当初より貨物用。燕駅から国鉄からの貨車を牽引して活躍した。貨物列車廃止後はキ100を連結して冬季、除雪に出動。平成11年の鉄道線廃止後、月潟駅に保存された。 ’78.8 東関屋 P:深山剛志
'71〜'73年に掛け旧5400系(モハ5400形、クハ450・500・550形等)からの主要機器流用の更新形式。東武型電車のうち、昭和初期('27〜'29年製)の鋼製車から戦災復旧、運輸省規格型車等'51年製までの車輌68輌のグループ。3000系同様18m(三扉)車体を新製(津覇車両製)。4輌(3050形)、2輌(3550形)がある。制御装置MCH型、主電動機HS型がDK系主体の3000系と異るが両形式の併結運転は可能だった。登場後本線(伊勢崎・日光)系、野田線で活躍するも非冷房、機器老朽化で'96年までに全車引退、形式消滅した。 ’88.5.29 野田線 大宮 P:梶村 昭仁
モハ31形は昭和27年に譲渡された台車に車体を新造した。モハ12は後から追加された細い乗務員扉が特徴で同型車が2形在籍しモハ31とともに加茂〜村松間の単行運転に使用された。 '79.8 蒲原鉄道 七谷 P:深山剛志
1933(昭和8)年の開業時に日本車輌で新製されたモハ10形14号の下回りに、1966(昭和41)年、更新車体を乗せ11号となった。車体はいわゆる「日車標準車体」と呼ばれる規格型。’99年、路線が廃止となり廃車。現在は東月潟駅に保存されている。 ’90.1.1 白山 P:田中一弘
デラックスロマンスカー、略してDRCと通称される私鉄界を代表する車輌であった。'60年9月以来'73年までに7編成42輌を新製。6輌全電動車MMユニット方式採用。最大の特徴は旧151系車輌をモダナイズした独特のボンネットスタイル。当時の日産セドリック(30型)似と云れる立派なもので、車内も旧国鉄一等車クラスのフルリクライニングシート、ペアグラス固定窓、完全空調設備、和洋便所、女性接客員乗務、ブッフェ設備に加えサロンルームにジュークボックスまで、と'60年代の車輌としては破格の豪華設備だった。長年に亘り東武特急の顔として君臨するも老朽化と日光観光のイメージアップを兼ねた新型車100系登場('90年)で花道を譲り、'91年9月まで全廃、走行機器等は200系「りょうもう」車輌の新製の際、活用された。 '89.7.28 伊勢崎線 東武動物公園〜姫宮 P:梶村昭仁
元は長野電鉄1100系(モハ1100形クハ1150形)で'60年日本車輌製。元を辿れば旧信濃鉄道(現大糸線)の戦時買収車輌デハ1形に端を発する。'55年長野モハ1、クハ51として活躍、木造車故、全鋼製へ更新。長電では地下線化により'79年廃車後、豊橋鉄道へ。前照灯2灯化以外大した改造もなく活躍。'97年同線1,500V昇圧により名鉄譲渡車と交替し'97年9月までに廃車、消滅した。 '87.8.20 豊橋鉄道 渥美線 新豊橋〜花田(信) P:梶村 昭仁
近鉄大阪線通勤用旧型車の中で1両のみ、軽量車体、台車は旧型のKS33-Lを履いた珍しい存在。次位のク1561形は当時の新型台車を装備し多数が登場し、また高性能試作車のモ1451形も塗装は異なるが同一形態であった。モ1321は電気ブレーキがないため、大阪上本町-青山町で活躍した。3輌目は終戦直後に製造したモ2000形で、造作が悪く保守に手を焼いたという。 '66.11 近鉄大阪線 恩智-法善寺 P:永野晴樹
名古屋線の標準軌化により新ビスタカー10100形が名阪特急にデビューしたが、大阪線の伊勢方面の特急は依然吊掛式の2250系が冷房改造されつつも活躍していた。これらを置き換えるために1961(昭和36)年に10400系が製造された。後に出力アップしたエースカー11400系に比べ、正面左側の窓は新ビスタカーと同じ大窓で、屋根上にユニットクーラーのないスッキリした好ましい車輌であったが、後にエースカー並に改造された。 '66.8 近鉄大阪線 関谷─二上 P:永野晴樹
元・西武クモハ374と371が大井川鉄道に流れ着いた。1輌は電装解除されクハになりMc-Tc編成で活躍した。前身は旧国鉄クモハ11424と421。旧省電モハ50の面影を残す17m車。晩年は2扉クロスシートに改造された。 '82.2.10 新金谷 P:奥 清博
1954(昭和29)年、この電車の登場時のことが今でも鮮烈な記憶として残っている。最初の編成が営業に就いた時は、渋谷〜新丸子間の区間運転に用い、パンタグラフがあるのにモーターの「音がしない」(その当時の電車はすべて吊掛式)ので引率の父に、当時幼稚園児の私は「この電車はパンタグラフがあるのにクハなの?」と質問したところ、この電車は最新式のモーターをつけていて、父の会社(東芝)で造った! と自慢げに教えてもらった。数編成が増備されると、急行運転が復活した。当時の急行は、車内放送に当時珍しかったテープレコーダーによる女性アナウンスをするという力の入れようだった。この電車の設計最高速度は135㎞/hだそうだが、当時の東横線では急行でも80㎞/h程度のダイヤだったので、弱め界磁をカットしても急行運転に支障がなかった。写真は5000系が東横線の6連急行に活躍する、最も華やかな姿である。当時、初期の車輌は、ユニット窓やドアー窓の小型化が始められた時で、未改造で揃った急行は珍しかった。現在なお熊本電鉄に数輌が活躍。トップナンバーの5001は最近渋谷のハチ公前広場に登場したが、近年まで折角復元保管してあった歴史的車輌だけに、嘆かわしい限りである。 '71.3 東横線 代官山 P:永野晴樹
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元西武551系と1651形のMc+Tc2輌。クモハ1210(元クモハ561)クハ81(元クハ1658)で西武式湘南形ともいうべきスタイル。種車の違い(551系は'61年、1651形は'62年製造)で、前車は運転台ワイパの支点が上部に後車は下部配置の違いがあった。20m両開3扉車と地方向けスタイルのため他私鉄でも重宝がられた。'84年から活躍するも吊掛け、非冷房のため、同じ西武の後輩701系と交替し'97年2月に廃車、愛称名を後輩に譲って消滅した。 '88.11.3 小金城跡-幸谷 P:梶村昭仁
元をただせば阪急創業時の1形である。終戦直後、四ノ宮車庫の火災により多数の電車が焼失したが、当時京阪と阪急は同一の会社だったので、応援に駆けつけたものが、そのまま居座って活躍した。戦前、阪急時代にダブルルーフのまま半鋼車に改造されていたもの。阪急では当時すべて廃車されていたが、阪急では同系車の1輌が保存されている。 '66.7 錦織 P:永野晴樹
1988(昭和63)年、瀬戸大橋開業を機に下津井電鉄は観光鉄道として再生すべく27年ぶりに導入した新車がこの「メリーベル号」。大正ロマン調のデザインでモハ2001+サハ2201+クハ2101の3輌編成は、ダブルルーフでカウキャッチャー付。アルナ工機製。のちにサハ2201を外し、2輌編成で運用された。しかし、1990(平成2)年の路線廃止で実質運用期間3年という短命な生涯を終えた。 ’90.11.25 下津井電鉄 下津井 P:田中一弘
1961(昭和36)年から1971(昭和46)年に掛けて製造された車輌。当初は2輌だった編成は最終的に8輌まで増強。日比谷線とつながる東急・東武線にも乗り入れ。車体はセミステンレス製、パノラミックウインドウ採用等洒落たデザインであった。写真の3073Fは66年の7次車として6輌揃って登場、'71年の8輌化で中間増結を行った後、冷改されることなく'94年7月までに全廃となった。なお、写真の車輌は'71年中間2輌増結車以外、原型(側扉と窓、通風器等)を保つ貴重な存在であった。 '88.4.30 日比谷線 南千住 P:梶村昭仁
欧米では二階建て車輌は戦前から存在し、ドイツでは蒸気機関車による二階建て客車のプッシュプルトレインもあったほどであるが、いわゆる電車では世界最初の二階建てと言われる近鉄10000系は、歴史的電車と言えるだろう。両端に2輌の電動車、中間は2輌のビスタドームを含む3輌の連接式トレーラーで、中間車も両端に運転台を装備していた。合計7両編成であるが、後に名阪直通用の新ビスタカーの登場により主役の座を譲り、乙特急と呼ばれる途中駅停車の大阪上本町・宇治山田間の特急に用いられた。写真は宇治山田寄りの電動車をはずした編成である。この編成でよくも大阪線の急勾配区間を走ったものである。宇治山田寄りの先頭車モ10007は1966年11月5日河内国分駅での追突事故により大破、18200系のような貫通式の形態で復旧した。後にスナックカーの増備や、座席指定のコンピューター化により、特殊な車輌なので、いち早く廃車となった。 '66.8 近鉄大阪線 関屋-二上 P:永野晴樹
1960(昭和35)年5000系に代わる通勤型電車として製造された。5200系のセミステンレス構造を基本とし、電力回生ブレーキを装備。1台車1モーターという珍しい構造。東横線で運用されたが、その後は田園都市線に配置。晩年は大井町線で活躍した。1990(平成2)年までに、東急からは引退。弘南電鉄に譲渡されたものは大鰐線で運用されたが、2006(平成18)年10月31日の快速列車廃止のあおりで運用離脱してしまった。 ’72.1 田園都市線 長津田-つくし野 P:永野晴樹
10010形電車は先の10000形の後を受け、1955年に帝国車両で製造された、当初は2枚窓の私鉄版湘南顔で製作されたが、なぜか台車や電装品に手間取り5年後国鉄型のTR-14型台車を装備してようやく走り始めた。当初はクロスシートを装備し10000形と共に「こんぴら2号」として活躍。その後、沿線の通勤需要に合わせ、79年頃に在来車との併結運転のため正面の貫通化やHL制御装置への変更を受けた。さらに1983年に台車を交換しカルダン駆動になり、朝夕のラッシュ時に活躍したが2003年に引退。 '82.8 仏生山 P:深山剛志
極めて複雑なので、あえて昭和40年当時と記載したが、この電車こそ1923(大正13)年、わが国で初の食堂やトイレ、さらに以前からあった特等席付、なおかつ全編成を貫通幌で連結した豪華電車、電七系の成れの果てである。もとはダブルルーフだったが、戦前にドアの拡幅やシングルルーフに改造、戦前に木造車を含めて全部の電車に自動ドアをつけたのも南海が唯一であると思われる。戦後は一部が荷物電車に改造、車体の傷みが激しいので旅客用の廃車体と取り替えたりしながらも、昭和43年頃不要となった半鋼製車の車体に取り替えるまで往時の面影を残しつつ活躍していた。なお製造当初はウエスチングハウス製の高速型100馬力モーターであったが、この当時はジェネラルエレクトリック製の105馬力モーターを使用。台車はオリジナルのブリル27MCBである。 ’65.8 南海本線西線 玉出-粉浜 P:永野晴樹
ポール時代の京阪・京津線、行き止まり式の旧浜大津駅を発車した三條行き。かつて本線からの直通用にパンタとポールの両方を備え高速運転にも適応できる性能を併せ持っていました。京津線に転じてからは低床ホーム用のドア付きであることを買われ80型(当時は単行運転)とともに各駅停車にも運用されていました。このあと今も800系の巨大な4連が堂々と走る大津市内の併用軌道を進み、逢坂山越えに挑みます。 ’63.4 浜大津 P:柿浦和敏
元をただせば1926(昭和2)年に製造された旧帝都電鉄の200形で京王帝都電鉄の1400形となり井の頭線で使用された。1975(昭和50)年に西武所沢工場を経由し伊予鉄道に譲渡された。130形は4輌譲渡され、中間に同じく元京王の1800形2輌がサハ化されサハ510となりオール京王の3連2本が使用された。今でこそ、京王は全国に車輌を譲渡しているが、’82年当時は伊予鉄道の13形のみ。写真の133は後に台車変更しカルダン化され’90年頃引退した。 ’82.8 松山市 P:深山剛志
昭和31年、トンネル内での火災事故により焼失したモハ1251系3連の代車として、本線の急行用高性能車11001系並のセミクロスシート車が高性能車ズームカーに先駆けて昭和32年に登場した。下回りは1251系と同じ回生制動を装備した吊り掛け式で、弱め界磁率52%の高速性能であるが台車も旧型のいわばニセズームカーとも言うべき存在である。昭和42年に帝国車輌で空気ばね台車に改造、昇圧により使用中止となった。先頭の21201だけはクハに改造の上、貴志川線に転属して、モハ1201形と連結して活躍したが、貴志川線の旅客減少のため3連運転を中止したため、廃車となった。 ’65.4 高野線 北野田 P:永野晴樹
1959年に戦後の一般(通勤)用として初めての冷房を装備して登場した車輌として有名。1957年登場の5200系を範にまとまったスタイルで人気の高かった。システム的でもオールMで冷房用MGを装備し床下が一杯の為コンパクトな制御器を搭載する等技術的な苦心も。写真は←モ5506+モ5555+モ5556+モ5506で00年9月の東海豪雨で水没廃車第一号となった。老朽化等で2003年1月末セントレア開業に伴うダイヤ改正までに全廃となった。 ’90.8.16 西尾線 米津〜桜町前 P:梶村 昭仁
浜松駅至近の新浜松〜西鹿島間約18km余の中小民鉄。全線単線12分ヘッドのフリークエンシーサービスを実施し利用者から「あかでん」の愛称で親まれる。この30系(モハ30形クハ80形)車両が1958年から新製・機器流用含め1980年まで製造。写真は1962年新製で当初はミュージックホーンを搭載(後撤去)。吊掛駆動ロングシートとはいえ2輌で1輌に見える広幅全周ホロ等、この時期の中小民鉄の中では豪華車輌であった。この編成1989年まで活躍。冷改されず新車と代替消滅した。 ’85.8.14 西鹿島線 旧遠鉄浜松〜旧遠州浜松(信) P:梶村昭仁
「山陽電車」のかつての神戸の始発駅は国鉄兵庫駅のすぐ北側にありました。発車した電車は次の西代駅までの間、がらんとした道路の真ん中をしずしずと進みます。横を走る神戸市バスや背後の町並み、交通量の少なさがなんとものどかな雰囲気を醸し出しています。現在はこの区間、地下にもぐって神戸高速鉄道となっています。この2000系は鋼製車、アルミ車、ステンレス車…と同じ形式ながら違った素材の『異母兄弟』のような不思議な存在でした。 ’63.2.23 電鉄兵庫付近の併用軌道 P:柿浦和敏
戦前のわが国を代表する歴史的名車、2200系であるが、昭和16年当時の世相を反映して、紀元2600年の伊勢参り用に増備した張り上げ屋根、2扉ながらドアを内側に寄せドア間を転換クロスシートにした。当時、大阪線を狭軌にする案もあり、狭軌用の200馬力モーターを用いたため、車高が若干高くなっている。写真の2231は戦後いち早く特急に整備されヘッドライトも埋め込み式に改造されている。両運転台車のパンタグラフの反対側の窓のない所はトイレである。ただし、先頭に用いる場合はトイレは閉鎖されていた。公称最高速度110㎞/hだがスピードメーターがない時代、私の速度測定では130㎞/hくらいは出ていたようである。 ’66.8 近鉄大阪線 河内国分-関谷 P:永野晴樹
1963年にパノラマカー7000系をベースに低重心化と高性能化を進めた車輌として登場、複巻電動機を採用し高加速・高速度を高めた車両として登場した。外観はパノラマカー7000系にそっくりだが、低重心化したために2階の運転室がやや飛び出している。また、制御装置が在来車と異なるため名鉄では珍しく他系列との運用はなかった。低重心のため床面が在来車より低く、バリアフリー化のホーム嵩上げを行う際に指針から外れてしまい、機器が1030系当に転用され、廃車になった。 ’03.10 名古屋本線 金山 P:深山剛志
東山線用で東山公園-星ヶ丘間延伸時に登場。先頭300形中間800形と称す。67〜75年に19編成114輌が登場。先頭車は65年開業の名城線1000形の字幕部を省いたサッパリとしたスタイル。冷房化と後継車増備で92年から廃車が始まり、残存3編成が2000年4月に消滅した。写真は行先札が大型化された晩年で、この最終編成(337〜338)がさよなら黄電メモリアル号として有終の美を飾った。 東山線 本郷-上社 P:梶村昭仁
モハ・クハ2輌固定編成、特急用のロマンスカーとして、昭和26年と28年に各々3編成ずつ12輌が作られた。A・B・Cの3つのタイプの編成があり、A編成はモハ5700・クハ700形で非貫通型湘南顔の大きな二枚窓、B編成は5710・710形と呼ばれ、貫通式の半流線型、C編成は5270・720形と呼ばれB編成と同車体のものに東芝製の直角カルダンを搭載したもの。後にA編成は貫通式半流線型に改造、C編成もカルダンモーターが不調で吊掛式に改造、3タイプの特徴がなくなったため、形式はモハ5700・クハ700形に統一された。1991(平成3)年7月、運用を離脱。写真は模型のような急カーブの浅草駅を出発する1027レ、臨急「おじか1号」。 ’77.1.1 浅草 P:宮村昭男
元・京浜電気鉄の木造電動車デ37(1913年製)。戦後運輸省の63形を大手私鉄を中心に割当てた。東急も割当をうけその見返りとして、1948年に7輌高松琴平電鉄に供出、譲渡、4輌が電装され60形となった。その後62は1953年に車体を10000形の小型版のような新造し更新。ただしこの時は前面は2枚窓で、1981年に貫通路つきに改造された、写真は改造直後で改造したことを知らず初めて目撃してびっくりした記憶がある。 ’82.8 瓦町 P:深山剛志
1959(昭和34)年に日本車輌で製造された秩父鉄道の自社発注車。カルダン駆動、2扉、クロスシート。3輌編成2本が急行「秩父路」などに活躍したが、’92年165系改造の3000系導入を機に引退。 ’88.3.20 秩父鉄道 浦山口─武州中川 P:田中一弘
1964年に登場した鋼体化HL車。タネ車は旧愛電旧3200・旧3300系、旧知多910系等の半鋼製車輌からの機器流用を図り、まだまだ使える旧車体もTc化等で輸送力増強に貢献。17m級2扉車ながら1400mm幅の両開式を採用。当初ロングシートで製造されるも一部が転換クロス化されたり後に1500V化された瀬戸線転用時に再度ロング化されたりA-A基準化など目まぐるしい変遷の上、瀬戸線に集結した仲間が1996年まで活躍。本線系6000系などと交替し引退、形式消滅となった。 ’88.8.25 名古屋鉄道 瀬戸線 瀬戸市役所前-尾張瀬戸 P:梶村昭仁
300系は神戸電鉄初の高性能車で1960(昭和35)年に登場。当初は2扉転換クロスシートのデ300形2連2本が製造された。同鉄道は通勤路線として発展したため、基本性能は同じでロングシート貫通型のデ310形にモデルチェンジ、以降はデ310形が増備された。その後300形も3扉ロングシートに改造された。1994(平成6)年に引退。 ’82.8 長田 P:深山剛志
1952(昭和27)年に日立製作所笠戸工場で1編成2輌が製造された琴電の自社発注車で、当初は「こんぴら号」という愛称で運転された。当時の地方鉄道の車輌としては画期的な多段式制御器・発電ブレーキ、電磁直通ブレーキを搭載し、さらにワンハンドルマスコンを搭載していたが台車はなぜか営団の払い下げだった。(ただしモーターは新製)。一時はクロスシートになったが末期はロングシートに戻った。'86年に廃車。 ’82.8 高松琴平電鉄 仏生山 P:深山剛志
西鉄ライオンズ球団の全盛期、1957(昭和32)年急行用として登場、’59年大牟田線のスピードアップとともに設定された特急用として颯爽と筑紫平野を駆けた。この名車も2001年の3月25日をもって引退、直ちに解体されてしまった。 '01.3.14 大牟田 P:吉村元志
神戸線用の特急電車として1950(昭和25)年に登場。電圧の違う神戸線・京都線を直通で運転できるよう複電圧となっている。神戸線が600Vから1500Vに昇圧された際、全車宝塚線の運用となった。晩年は今津線などの支線で余生を送り、’85年に全車廃車された。写真は今はなき西宮北口の平面交差をゆく姿。 ’81.8 阪今津線 西宮北口 P:深山剛志
東急田園都市線(当時は大井町〜つきみ野間)の電車編成が1980年頃に4連から5連になりました。当時、田園都市線は、最新の8500系をはじめ、8000系、5000系などが主力でしたが、3450形も残っており、5連化の際、新性能車と共通のダイヤで走れるようにするためでしょうか、付随車なしのデハ3450形のみオールMの5連が組まれ、5つのパンタが上げて豪快は走りを見せていました。そのうちの1編成の大井町側先頭には、日車製のトップナンバーの3450が付いていました。 '80.11 田園都市線(現・大井町線) 緑が丘 P:松尾彦孝
名古屋鉄道が1937(昭和12)年に製造した特急用電車。当時流行していた流線型となっており、下回りはスカートで覆われて「いもむし」の愛称で親しまれた。性能は「いもむし」どころか、最大112.5kWの主電動機を搭載、最高速度は110㎞/hを誇った。1950(昭和25)年に中間電動車を増備し3輌固定編成に、1953(昭和28)年に中間付随車を増備し4輌固定編成となった。1988年(昭和63)年、事実上引退。保存車となってからはモ3400+ク2700の登場時と同じ2輌編成となり、'93年より塗色も登場時のカラーリングとなって2002年まで休日の臨時列車などに活躍した。 ’01.9.8 名古屋鉄道 広見線 明智─顔戸 P:田中一弘
6010系電車は1963(昭和38)年に北陸鉄道加南線に導入されたアルミカー。「しらさぎ」というニックネームで親しまれ、アルミボディーは保守の容易さから歓迎された。しかし1971(昭和46)年7月に加南線は全線廃止となり、同年10月大井川鐵道に譲渡された。加南線は600Vだが、大井川鉄道は1200V、当初はトレーラーとして使用されたが、電装品を交換し自走可能になった。大井川で20年近くにわたり活躍。2001年に廃車となった。現在は北陸の山中温泉に保存されている。 ’94.4.10 大井川鐵道 地名─笹間渡 P:田中一弘
1926(大正15)年に製造、80年近く名鉄で使用された。正面5枚窓の流線型のスタイルは、当時流行の米国流儀。ドアの袋窓も楕円系の優雅なもので、「丸窓電車」として親しまれた。1997年定期運用から退き、予備車となったが、団体専用列車、臨時列車などで元気な姿を見せていた。しかし、2005年名鉄600V線区の廃止に伴い廃車となった。 ’01.9.24 名鉄谷汲線 長瀬-谷汲 P:田中一弘
埼玉県北部の東武伊勢崎線羽生駅から高崎線熊谷駅を介し秩父山脈のどん詰りの三峰口間約72km余りの中小民鉄。写真の100形はオリジナル車両として1950年から新製及旧型車両更新も含めて13両が在籍。18.8m級2扉ながら車内はオールロング座席。当初は両運転台であったが、同時に製造されたクハ60形(車体は3扉)、クハニ20形、クハユ30形等も在籍していた。旧国鉄・JRから旧101系車両と順次代替が行われて1988年6月までに引退した。 ’83.1.6 羽生 P:梶村昭仁
旧営団丸ノ内線用モハ500形759号。昭和37年10月23日、汽車會社製。モハ500形シリーズの最終グループに属する。台車はレジン制輪子のFS349。昭和32年〜39年に234輌製造された主力車で、同400形を片運転台構造にしたもの。 ’94.6 旧営団地下鉄(現・東京メトロ)丸ノ内線四ツ谷 P:川崎雅道
いわゆる東武型電車と称する旧3200系列を種車に当時新鋭の8000系の前面、2000系18m車のスタイルを採入れ1964年以降に製造された更新改造車輌。登場当初は一部が東上線で活躍した車輌もあったが70年代以降は野田線に集結。当初は4輌と2輌の編成が存在したが、後に4輌編成の中間車2輌を別の4両に組込んだ6輌固定編成も登場。写真は現行塗色になる前のセイジクリーム一色時代。終始野田線を離れることなく活躍。1992年までに全車廃車となった。 ’83. 1.6 東武野田線 岩槻 P:梶村昭仁
もと阪神の861形。撮影時は廃車を前提とした休車となりさびしく留置されていた。両方の運転台では自動加速用と手動加速用のマスコンを装備していろいろな電車のお供ができるようになっていた。明かり窓をつけ、喫茶店電車と呼ばれ阪神本線を激走した名車の最後の姿である。 ’74.8.8 福井口車庫 P:永野晴樹
1987年までに廃車となった、元名鉄5200系の車体関係を譲受、旧国鉄101・111系の機器類を搭載の上、路面電車用軽量冷房機を搭載してデビュー。旧性能吊掛駆動車郡にあって転換座席を装備して、名鉄時代さながらに花形車両として活躍。しかしデビュー10年余で架線電圧昇圧(600V→1,500V)に伴い、1997年7月に元名鉄の7300系に道を譲って引退、消滅した。 ’89.8.22 渥美線 大清水 P:梶村昭仁
1950(昭和25)年に登場した京都線用の車輌で、初の阪急全線共通規格。神戸線用の810系と車体寸法は同じ。特急用として活躍したが、2800系の登場で特急運用からはずれ、その後、3ドア化。京都線から引退後、千里線・嵐山線で余生を送る。1983(昭和58)年までに全車廃車となった。 ’82.1.2 阪急京都線 桂 P:深山剛志
1972(昭和47)年に登場した小田急9000系は、斬新なデザインで一世を風靡した。翌年のローレル賞を受賞。4輌編成9本、6輌編成9本の計90輌が製造された。同時代に登場した東急8000系・京王6000系と共に、新時代の通勤電車として界磁チョッパ、一段下降窓を採用、国鉄の103系などに比べ近代的な趣だった。2006年(平成18)年3月、全車引退。 ’04.8 和泉多摩川 P:深山剛志
常磐線馬橋駅から発車していた総武流山鉄道は元西武の車輌で統一され編成ごとにカラフルなカラーとなって活躍していた。写真は最後の吊掛駆動の譲渡車で元クモハ551形(クモハ558)と元クハ1651形(クハ1659)で、1987年暮から活躍。愛称名「あかぎ」として閑散時のフリークエンシー向上用に同形態の別編成「なのはな」と共に2輌編成で活躍。しかし冷房が当り前の時代に勝てず元西武の後輩701・801系と順次交替しこの編成が吊掛車最後の編成として花道を飾ることとなり、2001年初夏に引退、形式消滅した。’88.11 3 鰭ヶ崎─平和台 P:梶村昭仁
西鉄北九州市内線用の1001系接続車。昭和28年から増備され合計64輌が製造された。メーカーは川崎、近畿、帝国、日立、日車、九州車両と多岐にわたる。この1001はそのトップナンバー。 ’71.3.1 黒崎 P:松崎昌一
西武に最後まで残った吊掛け車の一つ。晩年の多摩川線でのスナップ。1957(昭和32)年登場の旧501系(オール20m湘南スタイルタイプ車輌)の2M2T編成の中間増結T車として1962年からサハ1571形とした。後に半数をM車化し同形態の551系中間車として3M3Tで活躍するも、411系→401系高性能化による、2輌増結吊掛車不足により1977〜1978年にかけてMc+Tc2輌化され前面スタイルも401系と似通っていた。このローズピンクにウオームレッドカラーを纏う最後の車輌として551系とちもに1988(昭和63)年に引退、形式消滅した。 ’87.5.3 多摩川線 是政〜競艇場前 P:梶村昭仁
高野線の高野下から極楽橋にかけては最急勾配50‰、半径100mという登山区間であり、大阪難波近郊では通勤輸送と言う世界的にも珍しい鉄道である。戦前から高野山直通の電車は電力回生制動を常用し、わが国では稀なる技術水準と言われている。この写真のモハ1321は昭和初期に南海最初の電壱形を置き換えるために製造した15m車である。複雑な変遷を経て戦後回生制動付きのモハ1321(先代のモハ1321は戦災で廃車)となった経緯がある。高野線の登山電車では同じく15mのモハ1251形(昭和12年製)が有名であるが、製造年の違いからか形式が異なる。これらの登山用電車は堺東から千代田あたりまでの、連続10‰上り勾配では急行電車でも50km/hそこそこのスピードであった。しかし昭和32年高性能のズームカーの登場により、旧型電車も弱め界磁率52%という吊掛けモーターでは異例の高速化改造を実施、昭和40年ごろより上り10‰で 認可速度の85km/h運転が可能となり、下り10‰(難波行き )では99km/hという高速だった。しかし1500Vの昇圧を控え、22000系の増備に伴い昭和46年には廃車となった。なお写真の3輌目のクハ1861形及びクハ1891形はモハ1321形(当時は2輌のみ)の同系車であるが、高野山直通電車に多用された。 ’65.8 南海高野線 萩原天神-北野田 P:永野晴樹
昭和32年に登場した南大阪線初の高性能通勤車6800系。愛称を「ラビットカー」と名付けられモ6850形を含め40輌製造されました。養老線へ改造、改番され移籍したモ6850形の一部を除き、平成3年までに全廃されました。写真は6800系運転開始30周年記念イベント列車で、モ6851号の1輌のみデビュー当時のオレンジに白帯のラビットカラーに塗り替えられ、同車のシンボルでもあるラビットマークも見事に復元されました。編成は6800系で仕立てられた4輌編成で、先頭がラビットカラー、中間2両が現在の近鉄標準色のマルーン&ホワイト、最後尾がマルーン色というユニークなものでした。 ’87.10.18 近鉄南大阪線 矢田〜河内天美 P:山田 優
デハ3472+サハ3356+デハ3471。旧東横・旧目蒲電鉄の旧モハ510形として昭和6年から11年にかけて50輌が製造された昭和の名車。写真は最晩年の頃で、引退のはなむけにと1950〜60年代中期までの黄と紺のツートンカラー、旧社名標記の「T.K.K.」まで再現。昨今、流行のリバイバルカラー化の先掛けともいえた。この編成を含め、’89年8月までに全車引退となった。 ’89.3.15 目蒲線 田園調布〜多摩川園 P:梶村昭仁
大正時代関西私鉄で流行したタマゴ形木造電車。日本では明治42年製造の南海電弐形がルーツとされるが、この時代にアメリカのインター・アーバンにも同様な車輌が存在するから、もとをただせばアメリカの電車のデザインとも言える。近鉄デワ2831形は車輌限界の狭隘な奈良線用の木造車の成れの果てである。ただし、大阪線で用いるため1500V仕様となり、パンタグラフも日立製の大型を装備。荷物車ながら高速性能を発揮した。後にもと奈良電鉄のデハボ1000形のボディと振り替えたが、昭和43年頃まで木造荷物電車として大阪線や600Vの奈良線東花園までで活躍した。大阪線では見かけに寄らず、100km/h以上の高速だった。’65.5 近鉄大阪線 高安 P:永野晴樹
ロマンスカーの代表格になった小田急3100形は初代SE車3000形のあと、昭和昭和38年に登場し、7編成が生産されました、翌年ブルーリボン賞を受賞し前面展望席、11連接の車体で人気を集め、小田急の顔として1999年まで使用されました。停車駅では乗降の際には添乗員が付き添いドアの開閉を行っていました。 ’79.7 柿生 P:深山剛志
元南海電鉄モハ1201形。1500V昇圧で不要となった同車を、京福電鉄福井支社は16輌導入。形式も南海時代の親分たる2001形を襲名(?)した。の認可速度は65km/hなので性能的にも適し、ロングシートながら座り心地、内装ともに定評のある「南海電車」の導入で、京福福井は一挙にグレードアップした。朝夕には急行電車も走らせ、南海時代ではめったに見かけない姿も見られた。写真のモハ2008はもと南海1220で、大きな窓を低くした戦前の南海タイプの絶頂期の逸品である。後に阪神から購入の車体に取り替え、越前鉄道となった現在も下回りは健在なはずである。運転士に言わせると、馬力が強く多少雪が降っても運転可能な頼もしい電車であるそうだが、雪国で高く評価されるとは、南海時代夢想だにしなかったことだろう。 ’76.1 三国芦原線 長田 P:永野晴樹
阪神電鉄の急行用高性能車輌で、両運転台が3301形、方運転台が3501形。3501形は1958(昭和33)年〜1959(昭和34)年にかけて、汽車会社、川崎車輌、日本車輌で20輌が製造された。1965(昭和40)年に昇圧改造が行なわれ、その際に奇数車、偶数車をユニットとし、偶数車のパンタグラフを撤去、制御装置は奇数車に、コンプレッサーは偶数車に取り付けられている。そのため単独走行はできなくなった。本線の特急・急行や西大阪線で活躍したが、1988年までに全車廃車。 ’81.8 武庫川付近 P:深山剛志
東急の荷物電車。1969(昭和44)年、デハ3204から改造された。中央扉の拡幅のほか、車体をリベットレス化、シル・ヘッダーを平面の帯材に交換するなどの改造がなされている。濃いグリーンの荷電専用色から、一般車と同じライトグリーンに識別用の黄色帯という塗装に変わった直後に撮影。1981(昭和56)年、廃車となった。 ’79.8.12 田園都市線 二子玉川園 P:松尾彦孝
南海本線の特急・急行に活躍した名車。1929(昭和4)年の阪和電鉄の部分開業、さらに翌年の全線開業に対抗して製造した200馬力(150kW)、の20m級大型車。省電は横須賀線用に17mのモハ32(100kW)をやっと製造した時代。600Vの悪条件の中で開発した歴史的名車の一つである。写真は昭和5年に増備したタイプ。前年の昭和4年タイプとともに側窓が二段完全上昇式となっている。南海の2001形は当初301形と称した。改番歴が複雑なので詳細は省くが、1936(昭和11)年の改番でモーターの馬力を基準としたものとなり、200馬力なので、以後2001形として南海本線の優等列車に君臨した。写真は昭和41年、私にとって最も好ましい昭和5年形が揃った美しい編成で試運転中の姿。当時昭和5年形のクハは2輌しかいなかった。2001形の特徴としてヘッドライトを白塗りにしていて、他の車両と区別していたのも思い出の一つである。 ’65.8 南海本線 羽衣-高石町(当時) P:永野晴樹
試作車としての意味合いが強かった10000系「ビスタカーⅠ」の経験を踏まえて本格的名阪特急用電車として登場した10100系「ビスタカーⅡ」。3輌連接構造となっており、A編成(上本町寄りが流線型)、B編成(宇治山田寄りが流線型)、C編成(両端とも貫通型)があり、総計18編成54輌が製造された。1979(昭和54)年、「ビスタカーⅢ」に置き換えられることとなり、前年の1978(昭和53)年夏よりA+B+Cの堂々9輌編成でイベント走行を行なっていた。 ‘’79.6.4 名古屋線 川原町〜阿倉川 P:田中一弘
元木造国電モニ13012。1949年に戦災国電に混じって入線。修理してそのまま荷電として使用していた。しかし1964年、デハ1366をデハ3554に更新する際にあまった車体を貰い受け、半鋼製車に作り変えられた。今では想像も出来ないが、この頃は東急だけではなく、あちこちの大手私鉄でも荷電が走っていた。 ’79.1.14 東急東横線 田園調布 P:宮村昭男
もと木造の簡易鋼体化17m車モハ1301形+戦後の標準型15m車クハ1831形+戦前の標準型18m車モハ1201形×2と言う珍編成。南海電車は難解であると言われる最たる編成。先頭の簡易鋼体車はもと電4形と呼ばれた正面5枚窓の卵型木造車を戦前簡易鋼体化したものだが、同じ形態でもウェスチングハウス100馬力の電車は1031形、ジェネラルエレクトリック105馬力は1061形、そして後部のモハ1201形と同じ国産の100馬力モーターを装備しブリル27MCB 台車を履いていたがモハ1301形と称した。車長や形態は全く異なるが、制御回路を含めて性能は同一なのでこのような編成が高野線の三日市町までの近郊区間では日常的に用いられた。列車ごとに色々な編成が走るので、整列乗車などはとても考えられず、南海の乗客はマナーが悪いといわれても当然であった。2輌目の15m車も変遷は極めて複雑で、高野山直通用の回生制動の回路を装備したものはクハ1871 形などとなり、モハ1201型を除き昭和42年頃から昭和46年ごろまでに廃車となった。 ’65.8 南海高野線 萩原天神〜北野田 P:永野晴樹
東武初の高性能車、日比谷線相直対応車輌として登場。当初は4輌編成であったが晩年は中間車増備が行われ、最大8輌編成で活躍。90年代初頭に新形式(20000系)にバトンを渡したが、同線で活躍した相直各社の車輌で唯一、他社への譲渡も無く消滅した。 ’88.4.30 営団日比谷線 南千住 P:梶村昭仁
独特の二折式貫通ドアから喫茶店電車などと呼ばれた戦前の阪神を代表する名車。全長14m,車幅2360mmという小柄ながら阪急神戸線や国鉄に対抗し急カーブの連続する阪神本線を疾走した。851形は正面の水切りを下方にカーブを描いたいかめしくも精悍な顔つき、サイドには明かり窓も設ける独特のデザイン、車内隅々に乗客サービスに対する心配りが印象的であった。増備の861形は正面の水切りが直線状となり、さらに881形からは側面の明かり窓を廃止して、おとなしいスタイルとなった。撮影当時は朝のラッシュ時のみの運転で、高校時代の私は夏休みに入るや否や早起きをして撮影にはせ参じた。運転台は曲面ガラスで仕切られた片隅式で、編成の中間に入るときはその仕切りで運転機器を覆い、運転士席を客席にするという、一人でもお客に座席を提供しようとする涙ぐましい設計がなされていた。昭和40年夏には本線運用を離脱。881型の多くは高松琴平電鉄にほぼ原型のまま活躍。861型は野上電鉄と京福福井に一部が売却された。特に京福福井ではクハやサハとなったが昭和48年ごろまでもと京王の小型車と連結し、活躍した。’65.7 福島 P:永野晴樹
元東横電鉄のモハ1000形。1939(昭和14)年より川崎車輌で22輌が製造された。東急となりデハ3500形に改称。晩年は張り上げ屋根となり、ヘッドライト・テールライトがユニット化され前面窓下部に。原型とは大きく異なった外観となった。サハ3250、3360、3370を中間に挟んだ3輌編成で、目蒲線を中心に使用され、1989年引退した。 ’87. 9.23 目蒲線 田園調布〜多摩川園間(多摩川園駅) P:梶村昭仁
1923(大正13)年京阪線で初の連結運転用に製造されたシングルルーフの木造電車。この時代、南海ではすでに4〜5連の長大編成を走らせていて、京阪が関西の大手私鉄では最も遅い連結運転の開始であった。当初は二本ポール付きで1000形と称したが昭和4年の改番で、300形となった。昭和30年代後期には京都三条〜宇治間の普通電車などに活躍していたが、1963(昭和38)年に4輌が石坂線に転属、ポール付きの姿となった。電気ブレーキがないのと木造車のため京津線では用いられなかった。後に310形に改番されて昭和42年まで活躍。京阪最後の木造車であった。 ’66.7 石坂線錦織車庫 P:永野晴樹
昭和4年阪和電鉄の開業に対抗して製造した南海本線特急用電車。晩年まで、高性能車に伍して本線の優等列車に活躍した。日本で2番目の20m車。狭軌、600Vで200馬力の大型モーターを用いた唯一の例でもある。和歌山市発上り難波行き準急が猛スピードで駆け抜けた。 ’68.2 南海本線 石津川〜諏訪ノ森 P:永野晴樹
東武が戦後の混乱期に受け入れた国鉄の63系をモデルに、昭和27(1952)年から製造した車輌が7800系である。逐次改良されつつ昭和36(1961)年までに164輌が作られた。モハ7806は昭和28(1953)年、ナニワ工機製。この頃はオレンジとベージュの旧塗装から、クリーム一色の新塗装に塗り替えが進んでいる時期だった。列車は準急・東武宇都宮行き。 '75.9.14 東武伊勢崎線 鐘ヶ淵〜堀切 P:宮村昭男
モユニ1041形は私鉄では珍しい郵便電車。白帯の部分が郵便室でポストもあった本格的なもの。この車両は木造の17m車を戦前簡易鋼体化したもので窓配置にその面影を残している。背後のモニ1045形は直前まで木造車であったがクハ2851形の車体を流用したもの。方向版に〒マークが無いので荷扱いのみの運用と思われる。昇圧前に荷物営業を廃止したので、同時にこれらは廃車となった。 ’71.3 南海本線 羽衣-高石 P:永野晴樹
釣り掛けの260形を置き換えるために1979(昭和54)年に登場した500形だが、当時は大津線にも冷房化の要望は高まっており、非冷房であるために700形に車体を譲り、早々と形式消滅した。 ’80.8 京阪三条付近 P:深山剛志
南海のモハ1201形は100馬力と出力は低いが南海本線や高野線のローカル運用に適した電車で昇圧直前まで41輌が活躍した。この1234は貴志川線に転属して1995年まで活躍したことは記憶に新しいところ。2輌目はサハ1900で元特急こうや号の展望車のなれの果ての姿である。ドア間の柱が太いのはその名残である。この時代昇圧を控えて新型車を続々と増備。1201形も通称汐見橋線などの支線に細々と活躍を続けていた。ローカル線には適した性能なので大半の車輌は貴志川線のほか、水間鉄道と京福福井に引き取られ活躍した。 1971.3 高野線(通称・汐見橋線) 岸里 P:永野晴樹
世界中でお前の好きな電車を言え! と言われたら私は躊躇なくこの電車を挙げる。33‰の連続勾配もなんのその、平坦区間では110km/hで疾走。200馬力のモーターを装備、4M2Tの6連で大阪上本町から宇治山田、後には鳥羽まで足を伸ばしたわが国電車史上歴史的な名車である。先頭車はもとデトニと呼ばれた荷物室とコンパートメントの特別室、後ろ半分はクロスシートの一般席であるが、戦前の国鉄二等車並のデラックスさを誇った。そして何よりも大型パンタグラフを振りかざした豪快なスタイルがいっそう魅力的であった。昭和5年から16年にかけて製造された戦前型は1975(昭和50)年11月23日の新青山トンネル開通の前日に惜しまれつつも引退した。 '67.5.28 近鉄 大阪線 安堂-河内国分 P:永野晴樹
能勢電には元阪急の木造車デロ10系がポールをつけて活躍していたが、阪急の320形全鋼車の入線を機会に1966年にパンタグラフ化された。デロ10系もパンタグラフとなり、往年千里山線で活躍したような姿が復活した。能勢電では2個モーター車を10形と称しMc+Mcで使用。4個モーター車は20形でMc+tcで偶数番号がMc,奇数番号がTcであった。現在山下駅は高架となり長大編成が走り回る様は隔世の感に堪えない。木造車は1968年には廃車となった。 '67.5 能勢電気軌道 山下 P:永野晴樹
小田急2400系は4輌固定編成でHE車とよばれ先頭車が16.5m中間車が19.5mと変則的な長さを持つ車輌でした。1959(昭和34)年から1963(昭和38)年までの間に、1963年までに29編成116両が製造。1983年までは急行の箱根湯本行きに必ず使用されていました。本線では9000系の6輌編成との混成10輌編成も見られました。 '79.7 柿生 P:深山 剛志
小田急の63形改造車デハ1800形。当時準急以外ほとんどの優等列車が高性能車だった中、白昼堂々と快速準急に活躍する珍しい姿。90㎞/h以上の速度は出たが凄まじい乗り心地だった記憶がある。後に2灯化、列車種別表示幕を取り付け顔つきが変わった。台車も枕ばねをコイルばねに改造され、秩父鉄道に売却の後廃車となった。 '68.4 和泉多摩川〜登戸 P:永野晴樹
初めて京都に行ったときに三条駅付近で撮影。昨年おなじ場所に行ったが、地下化されていたために、まったく様変わりしていた。80形は1961(昭和36)〜1970(昭和45)年までの間に近畿車輛で16輌が製造された。京津線のローカル用電車で、三条〜四宮間が基本的な運用範囲だったが、準急や急行に使用されることもあった。81〜93号は登場当初はポール集電・両運転台で、単行運転していたが、'70年にパンタグラフ化される。これら両運転台車は'71年までに片運転台化され、撤去した運転台のあとに貫通路を付け2輌編成化された(94〜96号は登場時からパンタ装備で片運転台)。'97年京津線区間廃止を機に廃車。 '80.8 三条-東山三条 P:深山剛志
京成電鉄のクハ126形として1928(昭和3)年に雨宮製作所で作られた3扉の16m車だが、ほどなく電装されている。これは新京成に移籍してまもない頃で、前面5枚窓のクラシカルな風貌だったが、このあとすぐに大栄車輛で鋼体化改造を受けて印象が様変わりした。本来の台車は雨宮A-1だが、すでにD16に変わっている。他形式とも編成を組んで長らく活躍したが、1985年2月に廃車になった。 '63.03.26 新京成電鉄 藤崎台 P:内藤健作
1930年日車・東洋電機製造、元阪和電鉄ロコ1001である。国鉄機として過ごした後、秩父鉄道には1960年にやって来た。この頃は凸形のデキ1形等と小型機限定の運用で働いていた。現在も保存されているのは嬉しいことだ。 1978.7.22 秩父鉄道 上長瀞ー親鼻 P:宮村昭男
モ200は昭和12年登場の車長13m級軽量小型車。このタマゴ形の小型車が繋がって走る様子はなかなか楽しかった。乗ってみると車体が軽いせいか、走りは軽快。乗り心地もよかったように記憶している。 '80.9.9 甘木〜本郷 P:宮村昭男
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東急では、昭和50年代まで荷物電車を運転していた。デワ3041と3042が配置され、平日にはどちらか1輌が新玉川線を除く各線を巡回する運用に就いていた。写真のデワ3041は、小田急の車輌を種車としたもの。2輌の荷電は濃いグリーンに塗装されていたが、1970年代末頃には「ライトグリーン+前面腰に黄色帯」というカラーに塗り替えられた。その後、デハ3450形改造のデワ3043が登場し、3041と3042は姿を消した。 '78.11.26 池上線 五反田 P:松尾彦孝
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1955(昭和30)年に特急用として4輌固定1編成が登場した。走行装置は前年に登場した2200系と同じ1C8M制御の全電動車方式、カルダン駆動、HSCブレーキなどの新技術を踏襲し、湘南型の前面で転換クロスシートを備えていた。SE車の増備に伴い’59年には両開き2扉化、セミクロスシート化などの改造を受けて、特急運用からは離脱した。’63年には3扉化、ロングシート化のうえ、中間車に運転台を設けて2連化、さらに貫通型の前面にされるなど完全な通勤車となった。晩年は多摩線中心に使われたが、82年に廃車となった。 ‘77.10.16 経堂検車区 P:青柳 明
車籍上は木造省電サハ19015を1941(昭和16)年に譲受したもので、当初はハニ254を名乗った。戦後、鋼体化によりクハニ805に改番、さらにモハ3630形に合わせて行われた更新および荷物室撤去によりクハ3662に改番された。1977(昭和52)年から投入された5200系(もと小田急1900形)に置き換えられ廃車。'69.6.15 P:笹本健次
阪急700系は京都線用として1948(昭和23)年に登場。同時に誕生した宝塚線用の550形とともに戦後混乱期の資材割当てによる、いわゆる運輸省規格型電車の一員である。写真は最晩年、千里線普通列車として梅田駅に停車中の701号。廃車はこの約2ヶ月後であった。'76.3.26 梅田 P:山下修司
機関車のない富士急で貨車牽引にも活躍した荷物電車。もとは1931(昭和6)年製のモハ7・8で、モハ507・508への改番を経て1969(昭和44)年に荷物電車に改造。窓を埋めた扉間を広告スペースとしたこともあった。1982(昭和57)年廃車。 '69.6.15 P:笹本健次
1950(昭和25)年に登場した形式で、Mc-T-Mcの3連が5編成製作された。戦後初めての新造車である2600系は16m級の車体となり、自動進段式の制御器、MGが採用され、それまでの路面電車然とした京王帝都の体質改善の第一弾となった。弱め界磁が無い分足が遅く、優等列車などでの華々しい活躍は少なかった。晩年は支線区で使われ、1977(昭和52)年に全車廃車された。写真はデハ2610を先頭にする3連だが、新宿方の先頭には2701が増結された姿で長いこと使われた。'77.11.23 高幡不動 P :青柳 明
カハ5を電化に際して制御電車に改造したもの。カハ5は下津井鉄道初のボギー気動車で、昭和6年製。製造当初はボディ前後の「鮮魚台」が取り付けられていなかった。改造に際し茶屋町側の運転台は撤去されている。廃車後、長い間下津井駅構内に放置されていたが、現在は化粧直しされ木造有蓋貨車ホワ6とともに保存されている。'80.3.15 下津井 P:山下修司
5000系の附属編成として誕生し、当初は台車、電装品を2700系から流用した2輌編成で5070系を名乗っていた。5113Fからは完全に新車となり、1968年の9次車、5119Fからは冷房装備の3輌編成で登場し、5000系と7連の特急を組んだ。追ってカルダン車の5113F以降の編成にも中間M車が増備されて3連になった。5000系共々この9次車は冷房車の試作的要素が強く、分散クーラーを8基(パンタ車は7基)搭載した姿は壮観だった。1985年に廃車。'68.4.28 高幡不動検車区 P:青柳 明
1964(昭和39)年に車体裾を絞った大型車体を持って登場した。全長20mで、Tc+M+M+M+Tcの5輌編成だったが、1967(昭和42)から翌年にかけてサハを組み込んで6連にした。電動車が3輌のため、1台の制御器で6台のモーターをコントロールするという珍しい方式だ。5000形の登場で塗装もアイボリー化されたが、最後に2670Fが青と黄色の塗装に戻されて、'04年6月にさよなら運転を行ったのも記憶に新しい。 '68.9.8 経堂検車区 P:青柳 明
920系は1934(昭和9)年から製造された神戸線用の電車。900系とともに戦前を代表する鋼製車。170kWの大出力の主電動機を搭載し、梅田〜三宮間を25分で結んだ。総数は56輌で晩年は宝塚線で活躍した。'82年までに全車引退している。'77.3.19 中津 P:山下修司
湘南電鉄が開業用に製造したデ1形と、ほぼ同型の京浜電鉄のデ71形などが大東急合併時にデハ5230形となり、戦後の京浜急行分離のときにデハ230形となったもの。大きな側窓と浅い屋根が軽快な感じを出しており、京浜急行の特徴ともなっていた。'63年からの更新工事で全車の仕様統一がはかられた。'78年のさよなら運転を最後に、全車姿を消した。'76.6.27 新町検車区 P:青柳 明
2600形と同じ20mの大型車体に、HB車、AFB車といった旧型車のモーターを流用して新造した形式で、1966年に登場した。当初はMc+M+Tcの3連で、台車もパイオニアを履いていた。1974年からは中間にM車を2両組み込んで5連化された編成も登場した。1985年から冷房化・高性能化改造が施されたが、3000形の投入で2005年に全車廃車。写真は1967年11月の小田急デパート完成記念塗装が4001Fに施されたときのもの。 '67.11.29 成城学園前 P:青柳 明
1957年に登場した中空軸並行カルダン、MMユニット式の国鉄で言うところの新性能電車で、8編成16輌が誕生。1500V昇圧を見こんだ複電圧対応車。モハ90系と同じオールM車で設計されたが、昇圧前後の車輌不足に対処するためサハ化した14mのHL車を間に挟んだ3連を強いられた時もあった。1966年には2連に戻され、主に2010系の付属車として活躍。1981〜83にかけて廃車。’68.1.28. 高幡不動
P:青柳 明
1959年に登場した2000系の後継車。昇圧対策として中間に付随車を挟む設計のため、主電動機は110_にアップした。14mのHL車を改造したサハ(2500系)を2輌挟んだ4連で22Fまで落成したが、23〜26Fは2010系とそろった大型のサハを新製している。その後、5070系に電装品を供出したデハ2700を改造したサハなどに順次置き替えられ、最後まで14mのサハで残った11〜13FもHSC化を機に大型のサハとなった。1984年に廃車されるも、一部は伊予鉄道で現在も活躍中である。
'67.10.8. 高幡不動 P:青柳 明
花巻を起点に西鉛温泉までの軌道線と、花巻温泉までの鉄道線の2本を擁していた花巻電鉄では、それぞれの所属車輌を分けていたため、同じデハ1形が鉄道線、軌道線双方に存在する珍妙な事態となっていた。写真のデハ4は鉄道線用で、1926(大正15)年雨宮製作所製が母体。戦前に車庫火災で車体を消失し、鋼体化して再起、1969(昭和44)年の軌道線廃止後も、残された鉄道線の廃止(1972年)まで活躍を続けた。'69.7.3 花巻 P:笹本健次
5000系は1963年の京王線昇圧に備えて新造された1500V専用車で、1970まで製造された。18m3扉車で、Tc-M-M-Tcの4連だが、付属の5100系と6〜7連を組んで特急として活躍した。製造年次による形態差が大きく、1972年製の7次車、16・17Fからは車体帯のひげ無し、ATS装備で落成。その中の17Fだけはスカート付きでデビューした。17Fは1995年に廃車、先頭車のみ電装化の上、一畑電鉄に譲渡。5000系自体も1996年には全廃された。 ’67.9.24. 高幡不動 P:青柳 明
1953年登場の吊り掛け車。京王初の湘南顔で高坑張力鋼を用いたことでも有名。当初Mc-T-Mcの3連だったが、2次車からはMc-Tcとなり、車体も側窓の上段がHゴム支持のバス窓となった。その後5070系の製作に電装品を供出してTcあるいはT化され、T車は元からのサハ2750共々2500系に編入された。昇圧後は2010系と6連を組んでいた。そのうちの何本かは優等列車用にアイボリー塗装になっていた時期もあったが、1981年には形式消滅した。'68.5 桜上水 P:青柳 明
1954年東急車輌製の大型電動貨車で、当初は2911・2912であったが1957年に改番された。昇圧には井の頭線からの電装品を使用して対処。主に工事用列車に使用され、中間にレール運搬用のチキ270を2輌挟んだ4連で使われることが多かった。チキ270は元玉南の1形(京王2000形)の台枠と台車を使用して1956年に誕生した。チキ270は1986年に廃車、デト210は80年代半ばにグレーに塗色変更され、1995年にデワ5100に役目を譲って廃車された。’68.3.24. 桜上水 P:青柳 明
戦前製の14m、HL制御の600V車の生き残りで、Mc‐Tcが2編成あった。1500V昇圧に際しては主電動機や主製御器などの電装品を井の頭線から流用しており、MGとコンプはTc車に装備している。主に動物園線で使用されるためアイボリー塗装であった。1969年のATS化のときに全車廃車されるが、デハ222が2410に復元の上保存されている。 '67.11.23. 高幡不動 P:青柳 明
’56〜’61年にかけて製造されたモノコックボディを持つ阪急の高性能電車。神戸線用が1010系、宝塚線用がこの1100系で、総数は51輌。阪急では’89年までに姿を消したが、能勢電に譲渡されたもののうち、8輌が’01年まで活躍した。晩年は冷房化改造されている。’77.3.19 中津 P:山下修司
1926(大正15)年汽車会社製の15m両運車で、南武鉄道が開業時に新製したモハ106がルーツ。南武鉄道買収後はモハ106のまま買収国電として活躍していたが、流山鉄道が電化に際し同形4輌の払い下げを受け、モハ101形106号となった。西武鉄道より501系第2編成「流馬号」が就役し、入れ代わりに1979年廃車。'79.3.9 流山 P:名取紀之