鉄道ホビダス

2010年7月アーカイブ

夕張鉄道 DD1002

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1969年に日立製作所で製作され、D1001・02の2輌が在籍し形式はDD1000形。この機関車は国鉄DD13形を基本に、夕張鉄道の使用条件(最大勾配22.7‰、960t牽引)にあわせ、出力を600PSにアップしている。1975年の廃止後01号機は北炭化成工業所専用鉄道へ、02号機は北炭真谷地専用鉄道へ譲渡された。 '75.2.14 平和-鹿ノ谷 P:長岡行夫

のと鉄道 NT100形

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NT100形気動車は、国鉄七尾線や能登線からの第3セクターとして設立運行を始めた「のと鉄道」が最初に導入した気動車。富士重工製でワンマン運転も可能な両運転台タイプの車輌です。主に普通列車として活躍した。また一部車輌の室内を改装したお座敷車両も登場し団体イベント用に活躍した。しかし「のと鉄道能登線」の廃止など路線縮小で数が減り、また車体老朽化による置き換えのためNT200形気動車が順次導入されたため、2006年をもって全て廃車となった。 '04.7.31 のと鉄道能登線 珠洲 P:宮島昌之

南海電鉄阪堺線 モ101

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1924年(大正13年)製の大型木造電車で、当時関西私鉄の本線用木造車輌で主流だった「タマゴ」と呼ばれる半流線型の流れを汲む前面をもつが、路面電車で車体断面が小さいためか前面は5枚窓とはせずに3枚窓となった。しかし窓上部にRをもたせるなど、「タマゴ」の流儀は継承されている。台車は本家Brill製の77E1だが、同系台車の国産コピー品がバネ釣に単純な帯鋼を使用しているのに比べ、上下に関節を入れて揺れ枕構造にするなど、凝った構造をもつ。モ101形はモ501形の就役にともない1960年に廃車が始まり、その後電装品をモ351形に流用するため、さらに電装品に加え台車等の走行機器を大阪市電1600形車体に組み合わせてモ121形とするために1967年までに全廃されたが、木造ながら最後まで車体の衰えを見せず美しい姿のまま活躍した。とんがり屋根の引掛け式テールランプなどは本線車輌と共通する。この101号は1966年末に廃車。 '64.7 帝塚山4丁目 P:小西和之

阪急210形

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戦後、元新京阪線は阪急の傘下となったが、戦後まもない時代に元荷物電車などの電装品を用いて千里山線や嵐山線用の高速運転を必要としない支線用に作った電車である。撮影当時は千里山線はニュータウンによる編成の長大化により、当時の1500V区間唯一の支線である嵐山線で活躍した。廃車後は広島電鉄鉄道線で、窓配置を改造のうえ活躍した。もちろん今はない。 '65.7 桂 P:永野晴樹

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ヤード構内での入換えを主に開発された機関車である。外観はセンターキャブ形状で左右に1基のエンジンを搭載し、1958年から1967年までに基本番代264輌、300番代83輌、500番代18輌、600番代51輌の計416輌が製造された。この600番代は最終グループで主な特徴は重連総括制御方式が採用されている。 '87.5.2 東新潟機関区 P:長岡行夫

12系800番代

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'86年に登場した12系客車改造の6輌編成で盛岡支社(旧鉄道管理局)が保有していた。室内は和風仕様で東北地方を中心に団臨に活躍していたが、老朽化により2002年に廃車となりJR東日本所属の12系改造客車は消滅した。夕闇迫る会津の地を三つ目のDD51 745がライトを点けながらやって来た。 '00.10.30 上野尻-野沢 P:長岡行夫

長崎電気軌道 131

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939年に長崎にやって来る前は阪急・北野線151形で、さらにその前は大阪市電と流転の歴史を刻んだ4輪単車。もともとはオープンデッキ・モニタールーフ・裾すぼまりの明治然とした車体だったが、1951年に自社工場製の車体に載せ替えた。木造車といえば側面腰板が木製の立羽目になっていて、前面や幕板は鋼板張りになっているのが多いが、本車は自社製のせいか戦後製の新製車体ながら車体は全面にわたってすべて木製で古めかしい。台車はBrill 21E。1968年廃車。 '62.7 長崎駅前 P:小西和之

キユニ28 27

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老朽化したキハ10系改造郵便荷物車の置換用として、キハ58系気動車(キロ28形)を改造した車輌で、1978〜1983年に国鉄工場にて28輌が製作された。1〜6号機までは朱色とクリーム色の2色であったが、7号機以降は朱色の首都圏色であった。運用は北海道を除く全国のローカル線で使用されたが、JR移行直前の1987年までに全車廃車となった。 '83.8.4 磐越東線 三春 P:長岡行夫

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3軸ボギーTR71を履く木造ダブルルーフ救援車で、国鉄(当時は鉄道省)が1925年に製造したスハ29300形がその前身である。スハ29300形はまだ列車愛称がなかった時代の特急3レ、4レ専用として20輌製造された大型ボギー車、それまでの17m車に代わって20mの車体をもち、列車全体で方向転換することを前提に3等ながら1方向を向いた固定クロスシートを装備した優等客車で、等間隔で並ぶ600mm幅の窓にその名残をとどめる。しかし就役直後に事故時の安全性の問題から鋼製車体を標準とするように方針変更されたため優等列車での活躍はごく短期間で終わり、その後はローカル列車で細々と働いていた。戦後まで生き残った車輌もこのような救援車などに改造されてほとんど動くことはなく、このスエ29 902もまもなく姿を消した。 '59.9.24 奈良機関区 P:小西和之

ヨ6000

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ヨ5000の軽量化をはかり小型化した車掌車。全長7200mm。北海道用の6900番代7900番台を含め905輌が製造された。JRに引き継がれることもなく1987年に形式消滅している。 '81.6.17 尼崎港線 尼崎港 P:上田隆浩

新幹線400系

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400系は1992年の山形新幹線開業と同時に登場した新幹線。在来線直通に対応するために日本初のミニ新幹線として開発され、登場当時の銀色塗装は当時とても斬新なデザインとして話題を呼んだ。1995年には1輌付随車を増結し7輌編成となり、1999年の新庄延伸に伴い、E3系1000番代と同様の塗装に変更された。その後もしばらくの間山形新幹線の主力車輌として活躍を続けてきたが、2008年からE3系2000番代の導入により廃車が始まり、最後まで残ったL3編成も2010年4月18日の「つばさ18号」を以って営業運転から引退した。 '10.4.18 東北新幹線 大宮 P:福田智志

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1981年に登場した12系客車改造の和式列車の6輌編成で、愛称はなくファンなどは「カヌ座」と呼んでいた。1985年に内装が洋風仕様のサロンカー「サロン佐渡」を新たに追加して7輌編成となり、1996年には車輌外観色を深緑色に金帯に変更し活躍いたが、老朽化に伴い2002年廃止された。 '01.6.11 磐越西線 日出谷-豊美 P:長岡行夫

タキ18300

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当車は、昭和45年4月に日本車両東京支店で落成した我国唯一の液体ポリ塩化アルミニウム専用車のトップナンバーである。計8輌製作されたうち、北海道曹達KK所有及び日車支店製造は当形式唯一である。当初は幌別駅常備だったが、後に港北駅常備になった。長い間新苫小牧に留置されていたが、平成10年2月に廃車になった。 '97年頃 新苫小牧 P:佐藤章大

西武鉄道 サハ1336

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昭和35年に譲受した国鉄クモハ11446が前身。入線時はモハ371形378となったが、クハ代用で使用され、昭和36年に電装解除、クハ1331形に編入、クハ1336となった。昭和47年、多摩湖線国分寺口専用となった351系355Fの中間に組み込まれた。昭和49年、運転台撤去、MG・CP取り付けによりサハ1311形1336となった。昭和54年、補助電源の交流化や内装の更新による体質改善が図られた。多摩湖線国分寺口の改良工事が完成するまで西武鉄道最後の旧型車のうちの1両して活躍、平成2年6月に除籍された。 '90.6.16 西武鉄道南入曽車両管理所 P:北村 拓

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1000形は昭和12年に誕生した流線型のセミクロスシート車で、急行等に活躍した。戦後も一部は特急にも用いられた。昭和43年頃から3扉両開きの新製車体に置き換え700形(2代目)となって姿を消した。1900形新は昭和37年の淀屋橋延長開業に際して特急車のレベルアップを図るべく誕生した。3000系の登場後は3扉車に格下げられながらも1500V昇圧や冷房化も行われ、2008年に引退するまで活躍を続けた事は記憶に新しい。かつての京阪を代表する両形式が複々線区間でうまく並んだ情景である。 '65.8 京阪本線 関目 P:永野晴樹

キハ56 213

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当車は1968年9月10日富士重工製で、パノラミックウインドゥ・冷房準備工事などのモデルチェンジ車200番代である。もちろん国鉄急行色だったが、写真のように一時期アルファコンチネンタルエクスプレス増結用に塗装変更され、助手席下部にジャンパ栓が取り付けられてスカートの一部が欠けていた。しかし、ボックスシート・非冷房のままだったたため不評で、後に普通・急行運用に入り異彩を放っていたが元の国鉄急行色に戻されて釧路に移動。2000年12月11日付けで廃車解体された。写真は、ダイヤ乱れにより突如現れた臨時急行苫小牧行き(列車名なし)。 '87.1.31 札幌 P:佐藤章大

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'72〜'91年まで製造された初の20m車である6000系のうち、'73年以降増備の複巻界磁チョッパ制御・回生制動搭載車からの改造車と'79年からの増備(新車)で構成されるグループであり、'80年3月から始まった都営地下鉄10号線(=新宿線)乗入に伴う諸設備(ATC搭載等)に対応した番代。編成は、地上用編成と異なり、地下線区間における勾配に対応した6M2T編成。形式はクハ6700形(クハ6730、クハ6780)とデハ6000形(デハ6030、デハ6130、デハ6230)の2種。ワンハンドルマスコン、一段下降式窓、前面非対称貫通型高運転台などは基本番代と変らないが、助士側の字幕スペースに運行標識窓が設置されたのが識別点。その後も地上向け編成からの改造を含めて最大8輌16編成が活躍。新形式の登場で徐々に運用から離脱し、地下鉄乗入運用編成は'09年6月までに引退、全廃となった。 '06.4.22 京王本線 京王下高井戸-明大前 P:梶村昭仁

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