鉄道ホビダス

2007年2月アーカイブ

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1971年から登場した常磐線と営団(現東京地下鉄)千代田線相互乗入対応形式として登場。10輌16本が登場。地下線内勾配等により8M2Tというパワフル編成。低運転台の正面に貫通路、シールドビーム2灯)のスタイル。性能は従来通り。'82年以降後継203系登場後は快速線や105系500代へ改造される等有為転変があったが、常磐線に残った仲間はその後冷改される等して活躍、1000代としては、'04年3月までに運用離脱、番代消滅した。 ’85.7.26 常磐線 上野 P:梶村昭仁

東京急行電鉄 7000系

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'62〜'66年に134輌が東急車輛で製造。謂わずと知れた日本初のオールステンレス車で米バッド社の技術ライセンスを取得し製造。18m3枚扉車体、MMユニット、オールMで複巻電動機を用いた回生制動機能を持っていた。登場時から東横・日比谷線乗入対応とし、最大8両編成で活躍。形式は運転台付が7000形、中間7100形と区分。同車の特徴の一つに車軸外側に付いたデイスクブレーキ、パイオニアⅢと称した独特のスタイル。'87年以降7700系化、'88年以降に乗入車に1000系と交替し各線に転線、こどもの国線使用を最後に'00年6月に東急線から引退。写真のデハ7036は'91年廃車後秩父鉄道デハ2301として活躍するも'00年2月には引退した。 '87.10.30 大井町線 尾山台─等々力 P:梶村昭仁

阪急500形+300形

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昭和10年以降、宝塚用急行用に全鋼車320形や、性能は異なるが380形などの両運車が登場、昭和14年よりMc+Mcの片運車500形が登場した。写真の4輌目の3扉車は大正13年製の阪急初の半鋼製車300形であるが、撮影当時は広幅間通路のTに改造され、500形の中間に挟まれていた。。戦後木造車を淘汰するため、610形を新製するに当あたり、380形や500形は台車や機器を譲り木造車の機器等を貰い受けるような、複雑なたらい回しが行われた。なお500形は写真のように2輌に1基しかパンタグラフを付けていないので、あたかもTCのように見えるが、れっきとしたMcである。500形は阪急の1500V昇圧により、能勢電や広島電鉄に身売りしたが、いずれもすでにない。300形は昇圧の際に廃車となった。 ’66.9 阪急今津線 宝塚南口-宝塚 P:永野晴樹

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それまで走っていた旧性能特急車達を置き換ため、1963〜64年に製造された乙特急用増備車。先の10400系と同様、基本2輌編成にTc車を組み合わせて乗客数の増減に対応できる。当初は10100系同様の星型特急マークを掲げていたが、増解結の際の手間のため、後に小型のものに変更された。また1980年からは3輌固定、座席のリクライニング化、字幕式行先表示化等12400系に準じた設備に更新され、短距離特急から名阪特急まで幅広く活躍した。1996年廃車。 '78.3 大阪線 関屋-ニ上 P:岩井雄二

加悦鉄道 ハブ3

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中学生のころに訪ねた加悦鉄道・加悦駅の側線に「明治の香り」いっぱいのかわいらしい客車たちが止まっていた。ハブ3(写真・手前)は1889年ドイツのハンデル・チーペン工場製の2軸客車で、荷物室・車掌室が付いており片側がオープンデッキとなっている。もともとは九州鉄道が購入したもの。1927年伊賀鉄道から加悦鉄道が購入した。1968年まで使用されていた。現在は「加悦SL広場」に保存されている。写真手前から順にハブ3+ハ10+ハ21+ハブ2。広い構内には古典機の2号機・4号機、片ボギーのキハ101など実に愛らしい車輌たちが休んでおり、タイムスリップしたような気分になったものである。丹後山田-加悦間は前に荷台の付いたキハ51に乗った。 ’63.11.10 加悦鉄道 加悦 P:柿浦和敏

C12 244

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1940(昭和15)年日立製作所製。白山機関区に配置され、越後線を中心に運用され、1969年(昭和44)年まで新潟、直江津と30年近くに亘って新潟県内に配置されていた。’69年9月に中津川機関区に転属してより、稲沢第一、西舞鶴、厚狭と転々とし、1973年3月、再び中津川機関区へ。明知線の貨物列車、中津川での入換で晩年を送る。転属の約半年後、1973年11月廃車。現在、明智町立明智小学校に保存されている。 ’73.5.5 中津川 P:山手 修

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1959(昭和34)年改軌後登場した名古屋線初の高性能通勤車。大阪線向MMユニットに対し、短編成使用前提の1M永久直列制御、VMC(バーニア)方式抵抗制御を採用。編成もMc+Tcが基本となる他は車体は共通設計。'67年までに41輌新製。当初はMcが奇数、Tcが偶数の同一番号だったが'63年以降、Tc車がク1700形に改番、整理。写真の1609Fは1961年製の二次車で旧モ1617+旧ク1618。冷改等もなく登場時に近い姿のまま、1991年廃車となった。 '89.3.24 名古屋線 近鉄名古屋駅 P:梶村昭仁

岡山電気軌道100形(101)

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1928(昭和3)年に12輌が日本車輌で製造された。単車の木造車だが鋼製の外版を張ってある。台車は日立製。定員42人。昭和26年頃より、「石津式」と呼ばれるヤグラを組んでオモリを下げた岡電独自のものに交換された。番町線は1921(大正10)年開業の支線で城下から分岐、一部単線区間があった。1968(昭和43)年に廃線になっている。写真は番町線の単線区間である東警察署前のSカーブを下ってきた姿。道路沿いに駐車中の軽三輪のダイハツ「ミゼット」や、マツダ「キャロル」などが時代を感じさせる。 ’68.8 岡山電気軌道 番町線 P:柿浦和敏

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昭和44年に伊勢崎線急行専用車として登場した1800系は、平成10年までに後継車の200系に道を譲り「りようもう」の運用からはずれた、その後、一部が300系に改造されたが保留になった車輌のうち3編成が小泉線・佐野線の5050系置き換えのため通勤型に改造された。通勤改造といっても、足回りは8000系とほぼ同じであり、デッキの撤去つり革の増設4輌化など最小限にとどめられた。小泉線・佐野線のワンマン運転化に伴い平成18年9月に運用離脱した。 '05.10 伊勢崎線 館林 P:深山剛志

名古屋鉄道 7300系

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'71年に7000系パノラマカーの側面と車内設備に'66年登場のHL車3780系の前面を組合せたスタイル。当時の営業施策により本線から支線区間に直通する特急運用を目的に登場。車体は新造したものの足回りは旧名岐800形や戦後の運輸省規格型3800形等のAL車から流用した吊掛駆動であった。ただし新造時から冷房を搭載し、初期の高性能車よりもサービス性は高かった。後年空気バネ台車へ換装する等近代化されるも旧性能車故、'97年までに全廃、中間2輌を除いて豊橋鉄道へ譲渡され消滅した。 '89.3.17 西尾線 北安城〜南安城 P:梶村昭仁

西鉄 1300形

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1200形の後を受けて不足する特急用として増備された1300形です。 1000形〜1200形はオールMの新造車でしたが、1300形は経費削減のため中間M車のみを新造し、制御車は昭和26年製の旧600系をベースに台車を1100/1200形タイプのものと履き替えて2編成登場しました。 ブレーキ方式は西鉄で初めて採用された非常弁付電磁直通エアレー キ(その後登場した2000系や5000系と同じ方式)でした。冷房機器の 搭載が難しかったために、結局1000形〜1200形より一足早く引退をしてしまいましたが、塗装が変更された以外は廃車までほとんどオリジナルの姿を残していました。 '81.4 二日市車庫 P:吉村元志

近鉄モ1400

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近鉄大阪線の通勤用電車。ただし、通勤型とはいえ昭和14〜16年にかけて製造された2200新(2227〜)と同一性能で電気ブレーキも装備して青山越えも可能な電車である。大阪線のクロスシートの2200系に対して脇役的存在であった。晩年2200(旧)が三扉、ロングシートに改造され2200系と区別がなくなり、宇治山田や鳥羽行き急行電車にも用いられて疾走、花を咲かせた。写真はオール1400形3連の榛原行き準急であるが中間の電動車はパンタグラフを降ろし、トレーラー扱いの珍しい姿。 ’66.11.3 近鉄大阪線 関谷-二上 P:永野晴樹

越後交通 ED5100形

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越後交通ED5100形電気機関車は昭和32年に定山渓鉄道が既存の蒸気機関車を置き換えるために三菱電機に2輌発注したもの、当時流行した湘南マスクを持つモダンな形。1969年に定山渓鉄道が廃止後、長野電鉄に譲渡、1979年に長電の貨物廃止後、越後交通に譲渡された。1995年の越後交通廃止まで2輌とも活躍した。 '80.6 越後交通 来迎寺 P:深山剛志

ホヌ30 7

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1925(大正15)年、東海道本線小田原電化の際に、小倉、苗穂の二工場で15輌製造された初の鋼製暖房車。当初はホヌ20200形。1927(昭和3)年の改番でホヌ6800形となり、1949(昭和24)年、ホヌ30形となった。ホヌ30 7は苗穂工場製で、ホヌ30 4、ホヌ30 5とともに、晩年は水郡線のDD13牽引の旅客列車に連結されていた。1972(昭和47)年、水戸で廃車となっている。 ’70.3.22 水戸機関区 P:志水 茂

大阪市電3001形

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大阪市電の誇る高加速、高減速の高性能車試作の3000を基にして1956年から50輌が製造された。非常制動には軌道圧着ブレーキも備え、3001〜3030までが霞町、3031から3050までが都島車庫にに配属、性能のみならず当時日本では最も優れた乗り心地を誇った。大阪市電の最重要系統に活躍し、大阪市電の最後まで用いられた。高性能を誇る3000系も道路渋滞には勝てず、市電廃止後も特殊な車輌だけに一部が連節改造され鹿児島市電に身売りしたほかは、保守の都合で他には身売りできず廃車となった。大阪では50輌というまとまった数があったのでそれなりに保守が出来たのである。なお同形態で、旧型機器を用いた2600形は今なお一部が広島電鉄に残存しているはずである。現在LRTなどが話題となっているが、市電を廃止せずに残して置けばよかったのに…と思うファンは多数いるはず。 '67.3 堺筋 日本橋三丁目 P:永野晴樹

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