鉄道ホビダス

2008年6月アーカイブ

名古屋鉄道 7500系

880818_7517f.jpg
'63〜'70年に72輌が登場。7000系パノラマカーの性能面を更に高性能化。外観はほぼ同様ながら高速走行時の安定性を目指し、低床化・低重心化。側窓が展望席から連続性のあるデザインでスマートさが増した。ただし運転台・集電装置部が高さ確保で嵩上げしたようなスタイルに。性能強化に直流複巻電動機による他励界磁制御を採用、定速度制御機能(後、撤去)に加え、回生制動常用とした制動力強化を図り、高速時からのブレーキシリンダ圧力を高める速度制御機能を装備(このため他車と較べBC圧ゲージ最大値が6kgf/mm=590kPaと大きかった)。なおこれら機能は他車との併結運用を阻む要因ともなった。'88年以降車体更新が開始、先頭(逆富士型)行先及び側面に電動幕設置が目立つ改良点。ただし更新は1〜3次車までで中止となり、4次車以降は'92〜'93年に1030系列に走行機器を譲って廃車に。残る車輌も新設定のバリアフリー法設計寸法に馴染まない構造、二扉車によるラッシュ時運用に馴染まない等、老朽化も加わり、'05年08月までに全車運用離脱、消滅。写真は’67年登場の四次車7517F。 '88.8.18 名古屋本線 名電長沢〜名電赤坂 P:梶村昭仁

遠州鉄道 モハ30+クハ80

850811_80.jpg
'67年、遠鉄オリジナル30系の増備として登場。製造は日本車輛。この車両から車体のマイナーチェンジが行われ、側二扉片開式から1,400mm幅両開式扉に、側窓配置も変更に。湘南型スタイルながら、運転室窓上に小型手動表示幕('63年登場モハ38クハ88から)設置し、オリジナルスタイルを強調。車内はオールロングシートながら同系の特徴である2両一体に見える広幅貫通路は健在。性能的には吊掛式ながら制動に電気・空気併用式を採用。トーションバー式コイルサス台車ND507型を採用。非冷房で登場も'86年集中式冷房器搭載改造。又運転台が半室ボックス式(車掌側がパイプ仕切のみ)で前面展望性も良好であった。長らく活躍するも後継形式の登場と入換に'08年05月末で運用離脱、引退。  '85.8.11 西鹿島線 自動車学校前〜遠州上島 P:梶村 昭仁

名古屋鉄道 5500系

8808185500%20.jpg
1959〜60年に30輌が登場。戦後の国内初、特別料金を採らない一般運用列車に冷房装置を搭載、いわば通勤用冷房車輌の先駆的存在。全体的には'57年登場5200形に準じるが側窓が二段式に。2・4輌両編成があり、冷房器は旧国鉄AU12形似の東芝製分散式を7〜8台/車(4500kcal/h)搭載。床下に冷房用大型MG搭載から制御器は東芝製(MCM型)小型パッケージ式を採用、このシステムは以後の7000系パノラマカーにも引継れる。車内は全転換式クロス(後、戸袋部ロング化)、台車は金属バネ式ながらウイングバネ式FS326を採用。登場時はクリーム+マルーン、以後ライトパープル、ストロークリーム+赤帯、スカーレット+白帯を経てスカーレット一色に。以後本線の急行系運用中心に45年余活躍するも'00年東海豪雨による水没車を皮切りに廃車が始まり、'05年1月ダイヤ改正までに運用離脱、引退。 '88.8.18 名古屋本線 名電長沢─名電赤坂 P:梶村昭仁

東急玉川線80形

tamaden_08_06_17.jpg
東急玉川線、通称玉電に活躍した80形は1950年より製造され、終戦直後の当時としては斬新なスタイルの路面電車であった。新玉川線(現田園都市線)の建設に伴い1969年に廃止となった。80形の中で玉電当時から「連結二人乗り」に改造されたもの等は、引き続き世田谷線に残存し近年まで活躍を続けたが、未改造の電車は江ノ電に身売りしたほかは廃車となった。写真のデハ96は未改造のまま玉電廃止に伴う廃車まで活躍した姿である。中央のドアーは外側にステップがあり、しかも手動なので通常は混雑時の渋谷など駅員配置駅を除き、他のの停留所では用いられなかった。しかも現代のようなワンマンカーではなく、後部にも車掌が乗務し、運賃の収受に当たった。 '69.2 二子玉川園 P:永野晴樹

小田急電鉄 9000形

0510019302F%20.jpg
営団(現:東京)地下鉄千代田線と相互直通運転規格に基づき、'72〜74年に90輌が登場。従来の大人しい小田急スタイルから大幅なモデルチェンジ、灯具類が腰部に、中央額部に行先字幕を配し、前面窓が屋根部まで上り、その部分が一段窪んだ形状から「ガイコツ電車」なる愛称も。側窓二連式大型一段下降式採用。編成は4連(4M)、6連(4M2T)各9本で、最大10輌で千代田線乗入、線内急行から普通列車まで活躍。性能は直流複巻電動機による界磁チョッパ制御採用、回生制動常用(HSC-DR)とした。当初から集約分散式冷房搭載(5台/車)。'73年の鉄道友の会ローレル賞受賞も。'90年以降後継1000形に乗入運用に変更後は営団用ATC撤去、線内運用中心に。一部の4両編成が8両固定化される等変遷があったが、後継形式登場と経年により、'06年5月までに引退、消滅。 '05.10.1 小田原線 読売ランド前〜百合ヶ丘 P:梶村昭仁

nankai2002.jpg
戦災により南海は60輌あまりの電車が被災し、これは私鉄の中で最大の被害であっり、在籍車輌の約2割に及び、中規模の私鉄全車輌数に匹敵する損害であった。一般に戦災復旧車とは焼失した車体(いわゆる焼け電)を叩き直した車輌を指すが、南海では損害軽微な一部の車輌を除き戦時中に18m車に採用した一段下降式窓の戦時形デザインを踏襲して20m、18m、15mの車体を新製することで対応した。終戦直後、車輌の新製には厳しい制約があった中、被災車の復旧という名目で新造したので、復旧車は原則としてそれぞれ被災車の原番号を名乗った。この為在来車の番号のなかに形態の異なる戦災復旧車が存在することになり、ますます「難解」な番号形態となった。写真は20m級モハ2001形の戦災復旧車モハ2002(当時)を先頭に快送する上り南紀2号で、最後部にはオハフ33を連結する姿。現在も戦前の戦時形ではあるが水間鉄道水間駅構内に18m車のもと南海モハ1240のクハ553が保存されている。 '66.8 南海本線 羽衣付近 P:永野晴樹

小田急電鉄 2600形

2670%20zengyou%20st1.%20234kb.jpg

小田急2600形は1964年に就役、22編成132輌が製造された。NHE(ニューハイエコノミカル)車と呼ばれ、後に6輌編成化されたものは「N6」、8輌編成は「N8」の愛称で呼ばれて親しまれた。2003年10月には最後のN6、2670編成が旧塗装に戻され、懐かしの姿で沿線に最後の別れを告げた。2004年6月5日のさよなら運転後も2年以上、海老名検車区に留置され続けていたが、現在は新宿方制御車のクハ2670のみが喜多見検車区にて静態保存されている。また海老名検車区にて毎年行われているファミリー鉄道展などで展示の際は、深夜牽引回送されることがある。 '03.12.20 小田急江ノ島線 六会日大前-善行 P:冥賀秀親

能勢電気軌道320形

6-1977.jpg
もと阪急、戦前の宝塚線急行に活躍した全鋼製両運転台の小形車である。戦後宝塚線の車輌大型化に伴い、晩年は今津線や支線で活躍した。昭和41年から沿線開発に伴い旅客が急増した能勢電軌に転属し、当初は2連だったが編成の長大化が進み、4連を組むようになった。さらに輸送力増強を図るため、広幅の阪急610系の導入に伴い、ドアにステップを取り付けるなどの改造が行なわれた。後に多くの車輌は運転台やパンタグラフの撤去などの改造が行なわれ、更に路線改良の結果阪急の大形車の入線も可能となり、1985年頃に引退した。写真は現在の光風台付近の旧線を4連でパンタグラフも4個上げて走行する姿である。ちなみに旧線は半径40㍍という急カーブもあり、この写真の場所は70㍍のカーブとなっている。列車後部の彼方の渓谷対岸に建設中の光風台駅が見える。 '77.6 能勢電気軌道 笹部─ときわ台 P:永野晴樹

東武鉄道 5700系

kegon.jpg
1951年(昭和26年)に浅草から日光への新型特急電車として就役以来、40年近く経過してもなお、12輌全車が往年の姿を色濃く残して活躍していた事が特筆される。運用面では、多客臨として快速急行「だいや96号」(有料)等で活躍し、また林間学校や成田山参拝等の波動輸送用車輌として、野田線や伊勢崎線等へも時折足を伸ばしていた。平成2年7月には新型特急スペーシア100系就役に伴い「懐かしの5700系と新特急スペーシア体験ツアー」が東武トラベル主催で行われた。ツアー客は東武博物館見学の後、東向島から東武日光まで豪快な釣掛サウンドの山登りを堪能し、帰路は就役間もない100系スペーシアの乗り心地を楽しんだ。添付写真は返却回送(東武日光→北春日部)にレプリカヘッドマーク「けごん」をつけた(下今市まで)雄姿である。翌平成3年3月には鉄道友の会から、エバーグリーン賞を授与されたが、寄る年並みには勝てず、同年7月20日にさよなら運転を行い、その役目を1800系改造の300系や350系に譲り、営業運転を終了した。最末期は、貴重な釣掛特急電車の残党としてファンの間で非常に注目され、GWなどの多客期には沿線に多くのファンが乗車し、またカメラを構えてその姿を記録に残した。現在も5701F2輌が東武動物公園駅構内でカバーをかけられて現存するがそのコンディションの悪化が危惧されている。 '90.7.29 東武鉄道日光線 東武日光-上今市 P:冥賀秀親

横浜市営地下鉄1000形

CIMG8534%20001.jpg

横浜市営地下鉄の開業時から活躍した1000形。登場当時は3輌編成だったが、延伸開業や乗客の増加により、5輌編成を経て6輌編成になった。しかし、ワンマン運転を行なうことになり、3000形に置き換えられた。また2000形もワンマン運転に対応できないことから廃車になり、どちらも2006年12月16日のさようなら運転を最後に引退した。 '06.12.16 横浜市営地下鉄 新羽車両基地 P:福田智志

京王6000系クハ6789

08_06_04_keio.jpg
1978年に東急車輌で製造された京王6000系の先頭車。当初はクハ6769を名乗っていたが、1979年に都営新宿線乗り入れ改造を受け、30番代のクハ6789となった。2005年以降、6000系30番代の一部は8+2輌に半固定化されたが、クハ6789を含む6039Fは8連のままで残り、晩年は乗り入れ運用からも外れていた。きれいに数字が並ぶナンバーだったが、9000系の増備に伴い、2008年3月に運用離脱、廃車解体された。 '08.2.6 京王線 桜上水 P:高瀬龍朗

2008年6月   

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

月別 アーカイブ