鉄道ホビダス

国鉄・蒸気機関車の最近の記事

D51 158

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1939(昭和14)年、日本車輌で製造され北海道に配置されるも短期間で青森に転属。1968(昭和43)年、紀伊田辺に転属し、一時は亀山にも在籍した。紀勢本線無煙化後は山陰に移り、1974(昭和49)年秋に浜田で廃車となった。現在は大阪府茨木市内で保存されている。 '74.3 山陰本線 出雲市 P:清原正明

C58 146

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1939(昭和15)年に汽車会社で製造され、小郡に新製配置。戦時中に正明市(後の長門)に転属、戦後間もなく備後十日市(後の三次)に転属し、以来芸備線などで活躍。1971(昭和46)年3月の芸備線無煙化に伴い休車、同年5月に廃車となった。 '70.4 芸備線 三次(芸備線管理所) P:清原正明

C58 345

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1943(昭和18)年に汽車会社で製造され、釜石に新製配備された。戦後、盛岡区を経て1949(昭和24)年に備後十日市(後の三次)に転属し、以来、芸備線などで長く活躍する。1971(昭和46)年3月に小郡へ転属、1972(昭和47)年6月に廃車となった。 '70.10 芸備線 備後落合 P:清原正明

D51 524 

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1940(昭和15)年に浜松工場で新製され、金沢に配置された。戦時中に広島、1960(昭和35)年に新見と移動し、伯備線の無煙化後は浜田へ転属して1975(昭和50)年1月に廃車となった。 '73.6 新見機関区 P:清原正明

EF58 144

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1958年3月、日立製造、宮原機関区配置。1977年宇都宮転属し1984年廃車。写真の頃の144号機はブルトレ塗り、20系客車電源車制御装置取付けられ、EF60 500代と変わるまでは、東海道、山陽筋の花形だった。運転台部分が栃木県那須町のレストランにある。 '61.2.4 東海道本線 東京 P:高澤一昭


D51 518

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1940(昭和15)年に国鉄浜松工場で製造。戦後間もなく広島に配属され、山陽本線や呉線などで活躍、晩年は入換用のステップを取り付けている。広島地区の無煙化後は厚狭に転じ、1973年に廃車となった。 '70.8 広島運転所 蟹屋派出 P:清原正明

C11 292

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新橋SL広場に置かれている C11 292。昭和20年日本車両製、姫路機関区に配属され播但線、姫新線、山陽本線など中国地方で活躍していたが、日本初の鉄道が開通した明治3年10月14日新橋〜横浜間してからちょうど100年にあたる昭和47年10月14日港区に無償貸与された。写真は新橋SL広場に静態保存される前に品川機関区にやってきたどう同機で、ナンバープレートハお手製?であった。機関区の方に許可をもらい撮影した。 '72.9.1 品川機関区 P:田中健吉

78675

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1925(大正14)年に川崎で製造、記録では神戸に新製配置とある。1930(昭和5)年には新見に配属(その後糸崎に移動)されていたようだ。1938(昭和13)年夏に糸崎から三次に転属の記録があり、三次区の8620形では最古参のグループになる。芸備線や福塩線で活躍し、最後は三次〜福山間の貨物列車牽引、三次駅構内の入換えなどに用いられた。1970(昭和45)年秋、和歌山に転属したが、1972(昭和47)年春に廃車となり、現在は和歌山県五條市で静態保存されている。 '70.4 芸備線 三次 P:清原正明
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69657 

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1922年川崎重工製造。長く九州にいて1963年9月新潟に移り新津区、大宮区を経て新鶴見区転属。1967年9月平へ転出し1970年6月に廃車。正面形式入りプレートはこの頃の新鶴見のキューロクでは唯一だった。 1966.8.1 新鶴見機関区 P:髙澤一昭

C58 297

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昭和16年川崎車両で竣工、昭和30年には一ノ関機関区に配属されていてた。その後昭和40年には佐倉機関区に配属されていて、昭和42年には第2休止となり電化と共に廃車解体された。写真は、佐倉-物井間の旧線で「亀崎橋梁」を渡るところで、中央の石垣は現在も旧線の遺構として残る。下を流れる川(案内看板のは「物井川」とあるが地図では「鹿島川」となっている)は河川改修のため、現在とは流れを変え橋梁自体も現存はしない。 総武本線 佐倉-物井(旧線) P:田中健吉

C58 61

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1939(昭和14)年に川崎車輌で製造 長崎に新製配置され、戦時中に正明市(長門)へ転属した。戦後間もなく備後十日(三次)転属し、以降、芸備線で活躍する。1970(昭和45)年の広島〜三次間DL化で余剰となり、同年12月に廃車となった。 三次 '70.10 P:清原正明

78657 

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1924(大正13)日立製造、関西ですごし1945年関東へ高崎、品川、横浜で運用された。『Rail Magazine』2015年12月号96ページのボックス動輪に交換された4輌のうちの1輌で貨物や米軍の荷物車1輌を牽いていたのを思い出す。1966(昭和41)年廃車。 '61.1.22 東海道本線 品川 P:髙澤一昭

C58 323

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1942(昭和17)年に汽車会社で製造され、富山に配属。戦後、備後十日市(現在の三次)に転属して芸備線で長く活躍、三次〜新見間が無煙 化される際、お別れ列車(定期客レ)を牽引した。その後は厚狭に転じて、同区で廃車となった。 '71.3 芸備線管理所 P:清原正明


C58 175

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1939(昭和14)年汽車会社で製造され、兄貴分の174号機と共に新製時から新見機関区に配属。後藤デフが装着されており、僚機とは違う印象を受ける。伯備線・芸備線・姫新線などで活躍したが、1971(昭和46)年3月の芸備線無煙化で余剰となり、同月末で廃車となった。174号機も他区所には転属せず、少し後に廃車された。 '70.10 芸備線 備後落合 P:清原正明

EF61 4

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EF61 4は、昭和36年から製造開始されたEF61基本番代のうち、川崎車輌・川崎電機で製造されたグループに属する。EF61は基本番代・200番代ともに全車が廃車され、保存機は1輌もないが、この4号機は唯一、車体前頭部のカットボディが広島車両所に現存する。写真は、小荷物列車の先頭に立ち、雨のセノハチを登るEF614〔広〕。積載物の重量にもよったのだろうが、現車11輌だとEF58なら当時はEF61-200番代の補機を要したところ、EF61は補機なし単独牽引で登っていた。 '79.10.28 山陽本線 瀬野-八本松 P:中司純一

D51 937

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1943年川崎重工兵庫工場製。新製配置は梅小路機関区。戦後は吹田一区、福知山区と山陰本線を中心に活躍し、1961年新見区に転属。終焉装置を付け伯備線で使用された。布原三重連の最終日には美しく整備されヘッドマークを付けての前々補機を務めた。1973年3月廃車。 '72.3.12 布原信号場-新見 P:山下修司


D51 349

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1940年、日立製作所笠戸工場製。新製配置は敦賀区。1944年米原区に移動、1954年に集煙装置を取り付けられている。1957年上諏訪区、1958年木曽福島区と長野管内の山岳線で使用され、1963年に長野工場にてギースルエゼクタに改造。同機はギースル改造の第1号。中央東線で試験を実施し、1964年6月に小樽築港に転属、耐寒装備が施工された。1966年より追分区に移動、1976年3月廃車となるまで室蘭本線・夕張線で活躍した。 '75.3.19 夕張線 滝ノ上-十三里 P:山下修司


C11 315

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1946年1月日本車輌名古屋工場製。新製配置は米子区。戦後製ながら、デフ、ドームの構造などを簡略化した戦時仕様である。その後、今市(→出雲市)支区から福知山区→新宮区→伊勢区と移り、1960年に新見区に配置、1962年津山区に転属している。写真は津山線の637レを牽引し備前原を発車したところ。1971年3月、津山線・吉備線の無煙化により奈良運転所に転出、1972年に会津若松区に移動し1973年に廃車となっている。 1970.9.15 P:山下修司

D51 1067

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1944年、日本車輌名古屋工場製。戦時仕様の四次型(1000番代)。中津川区より高知区に転属、四国のD51、11輌のうちの一輌である。松本区・長野区と配置され山岳線で活躍後、富山区・酒田区・長岡区と移り日本海縦貫線で使用された。その後、新庄区を経て、1971年新見区に転属し伯備線で運用につく。1973年4月の伯備線無煙化を機に浜田区に転出し、最晩年は山陰本線で活躍、1973年11月廃車。 1971.11 岡山機関区 P:山下修司

C11 80

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C11は一次型(1〜23)、二次型(24〜140)、三次型(141〜246)、四次型(247〜381)の4タイプに分かれる。307号機以降は戦後製。1935(昭和10)年3月、日立製作所笠戸工場製の80号機は二次型に属し、このタイプ以降は一次型と砂箱・蒸気溜めの位置が入れ替わり砂箱が第一缶胴、蒸気溜めが第二缶胴となった。水槽容量は一次型と同じく6.8㎥で水槽下面とキャブ下端のラインが一致している。同機は竣功後津山機関区に所属し、津山線・吉備線を中心に貨客牽引に活躍、1962年10月の岡山国体に際して運転されたお召列車の牽引機も務めている。1971年3月24日には津山線・吉備線無煙化のさよなら列車を牽引、1972年の交通博覧会に展示されたりして、しばらく岡山機関区に保管された後、1973年、会津若松運転所に転属、会津地方で使用され、1975年10月に廃車となった。日中線のさよなら列車も牽引。現在は岡山県津山市に保存されている。 '70.3.24 岡山機関区 P:山下修司

D51 944

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1944年川崎重工兵庫工場製。新製配置は下関区。糸崎区で終戦を迎え、鳥取区、浜田区(借入)、福知山区と山陰本線を中心に使用され、1972年3月、奈良運転所に転属。デフにC62 2のようなツバメのシルエットのマークを付られた。1973年4月に廃車。ツバメマークはD51 831に移設。'73.2.11 伊賀上野 P:山下修司

D51 614

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1940年日本車輌名古屋工場製。新製配置は米原。浜松区を経て敦賀区へ。戦後は北陸本線で活躍後、東北に転じ長町区、一ノ関管理所、青森区と、東北本線を中心に使用される。1968年10月の東北本線全線電化を機に奈良運転所に転属、関西本線で運用についた。奈良機関区のD51運用は竜華(操)〜亀山がメインだったが、臨時列車を牽引し大阪中心部の湊町や奈良線経由で京都にも顔を見せていた。写真は団体臨時旅客列車の12系を牽引し島ヶ原を発車する場面。1973年10月の関西本線無煙化で長門機関区に転属、晩年は山陰本線で使用され、1974年12月に廃車となっている。 1973.2.11 関西本線 島ヶ原 P:山下修司

D51 855

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昭和18年国鉄鷹取工場で製造され、関西地区で活躍した後、常磐線での使用を経て、昭和40年北海道に渡り、池田、新得、長万部などで使用された後、蒸機終焉まで岩見沢で活躍していた。煙室扉上部が切り取られている変形機で、同時期に製造された852、858、861、862等が同様な形態をしている。 '73.8.3 苫小牧機関区 P:佐々木裕治

D51744

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1943年8月、日本車輌名古屋工場製。新製配置は不明。戦後は吹田区、平区、水戸区、郡山区などを経て、1965年6月に岩見沢区に配置。函館本線、室蘭本線を中心に使用された。1968年に小樽築港区に転属、再び1974年岩見沢一区の配置となる。国鉄蒸機終焉間際まで活躍したD51の一輌。1975年12月3日、廃車。 '75.4.2 室蘭本線 栗丘-栗山 P:山下修司

D51 794

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1942年12月、三菱重工神戸造船所製。戦後は吹田区、浜田区を経て1973年4月に奈良運転所に配置、最晩年は関西本線で使用され、同年11月に廃車となっている。後藤工場施工の鷹取式集煙装置、重油併燃装置装備。写真は限界測定車オヤ31 11を牽引し月ケ瀬口を通過する場面。関西本線電化に関連した限界測定に向かうものと思われる。 '73.7.27 P:山下修司

D51 86

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D51標準型の1号機。昭和12年国鉄浜松工場で製造され名鉄局へ配置された。上諏訪、金沢、富山を経て、昭和40年旭鉄局へ。晩年は、旭川区から深川区へ転じ、つらら切りを装備して留萌線の貨物列車を牽引していた。昭和48年8月廃車後、ゆかりの地浜松市に保存されている。 '73.8.11 深川機関区 P:佐々木裕治

88651

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88651は国内向けに製造された8620形蒸気機関車の最終号機。初号機(8620)が登場してから、実に15年後の製造である。車歴によると、新製後は九州に配属、戦後の長い時期を中国地方で過ごした。福塩線の貨物列車廃止に伴ない、弘前に転属し、五能線を最後に廃車となった。 '70.4  芸備線管理所 P:清原正明

クハネ581-28

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1968年8月南福岡電車区に新製配備、山陽新幹線が全通した1975年3月向日町運転所に転属する。この間、関西〜九州の寝台特急や間合いの昼行特急で活躍した。1985年3月からは夜行急行「きたぐに」と北陸特急臨時便で運用された。JR西日本に引き継がれた583系は10輌編成6本の陣容でありクハネ581-28はB02編成の大阪寄に連結された。写真は「きたぐに」10号車自由席で新津駅に停車中の姿である。2012年3月の「きたぐに」定期運転終了により583系は7輌編成3本にまで縮小された。幸いにもクハネ581-28はB05編成の大阪寄りに連結され臨時「きたぐに」で最後の活躍をする。しかし2013年1月で臨時「きたぐに」も運行を終了、B05編成は廃車となりクハネ581-28も姿を消した。 '08.9.7 信越本線 新津 P:楢井勝行

C55 50

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1937(昭和12)年汽車製造大阪工場製。使用開始は仙台局管内で、会津若松機関区を経て1955(昭和30)年に旭川機関区へ転属。宗谷本線、函館本線を中心に活躍。密閉キャブに改造されたほか、各部に標準的な耐寒装備がほどこされている。1974(昭和49)年11月、廃車。最後まで生き延びたC55だった。現在は「小樽市総合博物館」で保存されている。 '73.3 旭川 P:吉葉富雄

C12 208

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1939(昭和14)年、日本車輌名古屋工場製。門司港区、吉塚区、香椎区など門司局管内で活躍後、鹿児島区を経て1972年熊本区へ。晩年は高森線で活躍し、1975年3月に廃車となった。岐阜県の「養老ランド」に保存後、1994年大井川鐵道新金谷に移動し保管されている。 '74.8 熊本 P:中川 稔

49600

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1920(大正9)年3月川崎重工兵庫工場製。名古屋地区で使用後、1947年岩見沢機関区に転属、以後、深川機関区→遠軽機関区と道内で活躍し1975年7月遠軽区で廃車となる。常紋越えの前補機として活躍した華々しい写真も多い。現在、北海道上川郡美瑛町「中町公園」で保存されている。 '73.8 石北本線 網走 P:中川 稔

C55 47

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1937(昭和12)年川崎重工兵庫工場製。戦前から戦後にかけて仙台機関区に配置され、1949(昭和24)年会津若松機関区に転属、1955(昭和30)年旭川機関区へ。宗谷本線、函館本線を中心に活躍、末期まで生き残った。宗谷本線旭川-稚内間のロングラン運用は有名。1973(昭和48)年11月廃車。 '73.8 宗谷本線 稚内 P:中川 稔

D60 52

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直方駅のプラットホームからは隣接する直方機関区に出入りする蒸機を間近に見ることが出来た。停車するD60 52は、化粧煙突とパイプ煙突を足して2で割ったような特徴的な形状の煙突と共に小型の前照灯が付けられて、他のD60と違った一種独特の雰囲気を感じさせた。その煙突は磐越東線を走っていた時代に集煙装置を付けていた名残りなのだろうか。1927年6月D50 192、日立製作所笠戸工場製。1954年7月24日、浜松工場で改造D60 52となる。横手、郡山を経て1968年9月、直方に移動。以後、筑豊本線で客貨に活躍。1972年4月17日休車、同年5月1日廃車、同年6月解体。 '71.4.19 筑豊本線 直方 P:永井修二

D52 202

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1944(昭和19)年12月、川崎重工兵庫工場製。東海道・山陽本線で活躍していたが、姫路電化を機に北海道に渡る。五稜郭機関区に配置され函館本線・室蘭本線の貨物列車を中心に使用された。最後まで残ったD52である。運用離脱後、展示のために門司に移動し、1975(昭和50)年10月、そのまま門司で廃車となり、小倉工場で解体された。 '73.3 五稜郭機関区 P:吉葉富雄

C11 206

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1941(昭和16)年12月、日立製作所笠戸工場製。戦中の配置は不明。終戦直後から静内機関区に配置され、晩年は苫小牧に転属し1974(昭和49)年3月廃車となっている。主に日高本線を富内線で活躍し、二ツ目、複線用スノープラウという苫小牧機関区所属機の標準的仕様となっている。 '73.3 静内 P:吉葉富雄

C58 410

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C58は1938(昭和13)年から1947(昭和22)年まで製造され、383号機以降が戦後製造となる。410号機は1947(昭和22)年汽車製造大阪工場製。新製配置は苗穂で1955(昭和30)年に釧路に転属し、それ以後は一貫して同区に所属、根室本線、釧網本線の貨客列車を中心に活躍。1974(昭和49)年9月に廃車となった。 '73.8.12 釧網本線 網走 P:中川 稔

C11 91

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1936(昭和11)年、日立製作所笠戸工場製。戦前から戦後にかけての配置は不明。1955(昭和30)年、荒尾機関区→1964(昭和39)年、熊本機関区。1971年10月14日鉄道記念日に品川駅からキャンペーン号として客車5輌とともにが「ディスカバー・ジャパン号」として216日間の旅に出発しました。いつの間に「ディスカバー・ジャパン号」の車体表示は「ポンパ号」に変わり、日立製作所のカラーテレビの広告列車として、それぞれの地方の機関車に牽引され全国を行脚しました。国鉄初の広告列車だった。 '70.10.14 P:大野 亨

C58 33

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1938(昭和13)年川崎重工兵庫工場製。大阪局管内を振り出しに九州・四国を経て1967(昭和42)年北海道に渡る。釧路機関区時代、C58 385に装備されていた後藤工場式切取り除煙板を1971(昭和46)年譲り受けJNR マークが付けられた。晩年は北見機関区に所属、道東のスター的存在となった。現在は清里町「羽衣児童公園」に保存されている。 '73.3 北見機関区 P:吉葉富雄

D51 163

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1939(昭和14)年、日本車輌名古屋工場製。福島→小郡→福井→柳井と転属、1948(昭和23)年、北海道に渡り追分を振り出しに小樽築港→新得→旭川→岩見沢→長万部と移った。晩年は函館本線山線を中心に活躍、通風補助を目的として煙室扉に11個の孔が開けられているのが特徴。1973年9月廃車。 '73.3 五稜郭機関区 P:吉葉富雄

39696

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1920(大正9)年、 川崎重工兵庫工場製。東京局管内に配置された後、1933(昭和8)年、旭川に転属、以後、一貫して道内で運用につき1976年3月、岩見沢で廃車となっている。最晩年は幌内線で石炭輸送に従事した。前面のナンバープレートが向って左に寄っている。 '74.11.14 幌内線 三笠-幌内炭礦 P:中川 稔

79667

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1926年汽車会社製、昭和生まれのキューロクの一輌。戦前は上諏訪機関区に所属、戦後すぐに野付牛(北見)機関区に転属、以後一貫して同区に所属1974年12月に廃車となる。正面のナンバーは形式入りでローマン体の数字の格調高いもの、テンダーはキャブ側に覆いが付いて、炭庫がやや小さく、手すりの付いた変型である。 '73.3 北見 P:吉葉富雄

C57 199

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1947年、三菱重工製。四次型。熊本、長崎、早岐、鹿児島、大分と九州内で活躍し、1967年より宮崎機関区に配置、日豊本線延岡〜西鹿児島間で貨客の運用についた。四次型では196号機とともに最後まで生きて、1974年6月20日に廃車となっている。 '73.12 宮崎機関区 P:吉葉富雄

C57 187

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1946年三菱重工三原工場製のC57三次型。新潟局管内での配置が長く、ドーム前手すりも長野工場施工のタイプとなっている。1965年、新津区の僚機4号機とともに大分に転属、1967年宮崎区へ。4号機は1971年廃車となったが、187号機は日豊本線蒸機最末期まで活躍、1974年4月26日に廃車となっている。 '73.8 日豊本線 田野 P:吉葉富雄

49681

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1921年9月、川崎重工兵庫工場製。当初は名古屋局管内に配置されていた。1933年現在、糸魚川に配置。その後豊後森を経て1951年5月31日より鹿児島に配置。1957年7月9日坂町に転属、以後1972年7月に廃車となるまで米坂線を中心に活躍した。正面のナンバープレートは形式入りだが、煙突はパイプ型に変更となっている。 '72.3 P:平林寛信

C58 66

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1939(昭和14)年、川崎重工兵庫工場製。戦中は陸軍供出のため改造が行なわれたが、結局、輸送出来ず復元された。戦後は王子、奈良を経て、晩年は亀山機関区に所属、朝、後補機で亀山から柘植に行き、柘植から貴生川までは単機回送、信楽線で貨物列車1往復を牽引、単機で柘植へ、後補機で亀山に戻るという運用についていた。1974(昭和49)年3月廃車。現在、大阪城公園に保存されている。 '72.8 亀山機関区 P:安東大介

48622

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1921年6月川崎重工兵庫工場製。田端、尾久支区、品川、茅ヶ崎と一貫して首都圏に配置され、入換えや小運転を中心に活躍。1966(昭和41)年8月に茅ヶ崎で廃車となっている。 '62.1.13 鶴見 P:青木一郎

D51 60

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追分からの石炭列車牽引を終え,暫し休息のD51 60号機。昭和12年8月20日川崎車両製造株式会社で落成,新製配置は追分区,その後旭川区,名寄区,最終配置は岩見沢一区で北海道一筋のカマでした。昭和51年3月1日廃車となり,その後解体されましたが,解体により発生した部品の一部,第3動輪が小樽総合博物館、ロッドの一部があのCC57 135に使われています。現役時代,ナメクジドームの砂撒管基部のカバーがなかったのがわずかな特徴と言えるでしょうか。キャブは密閉タイプでした。 '75.2.9 室蘭機関区 P:中川富士明

D61 6

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D61形は線路規格の低い丙線へ投入、9600形を置き換えるため、D51の従台車を2軸に改造、軸重を軽減した形式。種車のD51に余剰がなくわずか6輌しか改造されなかった。晩年は留萌支区に配属され留萌本線・羽幌線で活躍。'70年の羽幌炭礦が閉山し貨物の仕業を失い、余剰車が発生していた。はじめた撮ったD61ラストナンバーはD51 519からの改造である。すでに火を落としており、このまま復活することなく廃車された。4号機は最後まで生き残り深川機関区で'75年に廃車となっている。 '71.2 深川機関区 P:佐々木裕治

C55 1

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溶接工法の大幅採用、砂箱と蒸気ドームの一体化、補強された美しいスポーク式動輪等国産近代化蒸気の第一号と称されるC55型。1号機は昭和10年新製と同時に小樽築港機関区に配置され、その後下富良野・旭川・室蘭と配属したが終始北海道を離れることはなく、晩年は宗谷本線で活躍した。昭和46年秋鉄道100年の映画撮影のため梅小路に回送されたが、利尻の仕業を失ったC55には余剰があり、動態保存が予定されていたためか旭川に戻ることはなかった。小学校6年の時、機関庫の中でC55のトップナンバーを発見して興奮し、2回目の機関区訪問で撮ったのがこの写真。 '71.1
旭川機関区 P:佐々木裕治

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D51 91

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吹田操車場の重量貨物のハンプ押し上げなどの入替え用にはデフレクターをはずしたD51が用いられて、ファンの話題となっていた。しかも城東貨物線に用いられてきたD52の減少により、D52の運用にしばしばデフなしのD51が登場、中でもD51 91は特に出没する機会が多く、その奇怪な姿はD52以上に注目したものである。他にデフなしになったD51には25、51、73、77、115、133、585などがいた。D51 91は1938(昭和13)年、汽車製造大阪工場で製造、上諏訪、甲府、大宮、田端、尾久、八王子と関東一円で活躍したのち1965(昭和40)年に吹田に配置された。デフを撤去されて活躍したが、後に再びデフが装備されている。 '66.12 城東貨物線蛇草信号場─竜華操車場 P:永野晴樹

C56 159

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1939(昭和14)年、川崎車輌製。中込機関区で144、149、150とともに小海線の無煙化まで活躍した。小海線無煙化後は七尾区転属し、1974(昭和49)年6月に廃車、石川県羽咋市に保存された。しかし老朽化が著しく解体されてしまった。部品の一部は動態保存機C56 160に転用されている。 '71.8.24 小海線 野辺山 P:中西裕一

79668

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1926(昭和2)年、汽車会社製。鉄道省向けに製造された9600の最終ロット。晩年は行橋機関区に所属。「門デフ」を装備しC50 58が付けていた「波と千鳥」のステンレス製切り抜き装飾を譲り受けている。1974(昭和49)年8月26日廃車。 '72.12.28 行橋機関区 P:中西裕一

C57 66

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1972(昭和47)年当時、日豊本線の宮崎〜西鹿児島間は、一部の急行や特急富士のDF50形牽引をのぞき、C57やC55などが貨物列車を含めて活躍していた。九州ではいわゆる「門デフ」と言われた切り取り式デフレクターの機関車が多かったなか、標準形デフレクターのC57 66も美しく磨き上げられて印象に残ったカマの一輌。1938(昭和13)年川崎車輌製。新製配置梅小路。その後宮原に転じ1946(昭和21)年門司へ。以後、大分、宮崎に配属、日豊本線で活躍する。新井西児童交通公園に保存されている。動輪はエアーによって可動状態となっている。 '72.8 日豊本線 青井岳 P:永野晴樹

D51924

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1943(昭和18)年、川崎製。「門デフ」に改造され晩年は門司区に配属、日田彦山線で石灰石輸送に活躍。同機の「門デフ」は元デフを「種デフ」として使用したような前端上が斜めに切り欠かれた仕様で、九州配置のD51によく見られたタイプ。C59 124、C57 196なども同様式。D51 924は’73.11.30廃車となっている。 ’73.8.14 志井 P:田中一弘

D51 2

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1936(昭和11)年、川崎製。戦後は稲沢区(稲沢一区)に配属。写真は1971年4月25日に稲沢〜四日市間で運転された関西本線(名古屋口貨物列車)のさよなら列車を牽引の模様。1971(昭和46)年7月24日〜8月22日、長野機関区に貸し出され長野〜黒姫間の臨時列車「ファミリーD51」を牽引した。1971年12月廃車。現在、大阪交通科学博物館に保存されている。 '71.4.25 枇杷島 P:朝倉淳一

C61 11

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1954(昭和24)年、三菱重工製でD51 1139(1944年製)から改造。写真は仙台区所属時代。当時、仙台には19輌のC61が配置され東北本線、常磐線で活躍していた。特に青森までの優等列車牽引に大活躍していた。1968.10.1青森区で廃車。 ’64.7.4 仙台 P:大山 正

C56 124

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1938(昭和13)年神戸三菱造船製。新製配置は麻里布機関区(岩国)。その後七尾機関区へ。七尾線時代は長く、形式入りナンバーで「SLブーム」の頃は人気を博した。七尾線DL化後は、木曽福島機関区へ。1975(昭和50)年3月廃車。現在、長野県明科町公民館前に保存されている。ナンバープレートは形式なしの物になっている。 ’74.2.10 七尾線 輪島 P:田中一弘

C11 245

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1943年日本車両製。新津機関区にに新製配置、赤谷線など新潟地区で運用され、1973年より小牛田機関区に配置、石巻線で活躍する。デフ前縁に警戒色が塗られていた。現在、神奈川県藤沢市に静態保存されている。 '74.3.24 石巻 P:田中一弘

D51 134

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門司機関区のD51はほとんどが門鉄デフに改装されていましたが、134号機はオリジナルデフの端正な姿と共に、煙室扉の形式入りナンバープレートが印象的なD51でした。日田彦山線の香春や石原町からのセメント列車を牽いて活躍しましたが、その前は盛岡機関区所属で、東北本線で活躍していました。 ’70.11.23 日田彦山線 香春 P:永井修二

C57 89

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炎天下の中、一日中、国鉄嵯峨駅のホームで列車の撮影をしていた。梅小路機関区に最後に残ったC57はC57 5、C57 15、C57 39、C57 89、C57 127、C57 190の6輌。89号機は北陸本線から5号機とともに転属してきた。デフから煙突にかけて帯材を渡し、ツララ切りにしている。山陰本線京都口の無煙化後、宮崎に転属日豊本線で活躍した。’74年6月に廃車となっている。山陰本線 嵯峨(現・嵯峨嵐山) ’69.8.24 P:朝倉淳一

C62 25

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1948(昭和23)年、D52 226を改造して誕生。川崎車輌製。名古屋機関区から東海道本線米原電化を機に宮原に転属、その後は梅小路、下関と移りながら、東海道・山陽本線の優等列車牽引機として君臨。山陽本線前線電化後は広島に転属。以後、呉線で活躍する。1956(昭和31)年、東海道本線全線電化直前、お召列車の先導列車となった「つばめ」を牽引するにあたり、お召機同様に整備された。 ’65.12 広島 P:永野晴樹

C50 154

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1933(昭和8)年、三菱製。C50のラストナンバー。新製配置は田端。以後、尾久、成田、大宮、桐生と移動し、’50年小山へ。両毛線での活躍はファンに馴染み。同線無煙化後、’70年に糸崎に転属し、わずか3ヶ月で亀山に移動する。その際にデフは撤去されている。1973年4月廃車。 ’72.8 亀山機関区 P:安東大介

C57 198

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蒸機晩年、大半のC57四次型は北海道と九州の配属で、本州ではC57 190とC57 198の2輌のみが活躍していた。190号機は集煙装置が装備されていたことがある関係で煙突がカットされていたのに対して、198号機は重油タンクは搭載しているものの比較的美しいプロポーションを保ち人気があった。最晩年は亀山区でC57 110とともの紀勢本線・参宮線の旅客列車1往復を牽引していた。’73年9月に廃車となり、縁もゆかりもない千葉県君津市に保存されたが、荒廃が著しく、’03年7月、惜しくも解体されてしまった。 ’72.8 亀山機関区 P:安東大介

D51 906

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奈良運転所配属のD51である。デフに煙草のピースマークに似た装飾がなされていた。「SL伊賀号」などイベント列車、臨時列車などもしばしば牽引した。同区の機関車には他に882の「月と鹿」、944の「ツバメ」などがあった。 関西本線 加茂 ’73.3.15 山手 修

C12 244

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1940(昭和15)年日立製作所製。白山機関区に配置され、越後線を中心に運用され、1969年(昭和44)年まで新潟、直江津と30年近くに亘って新潟県内に配置されていた。’69年9月に中津川機関区に転属してより、稲沢第一、西舞鶴、厚狭と転々とし、1973年3月、再び中津川機関区へ。明知線の貨物列車、中津川での入換で晩年を送る。転属の約半年後、1973年11月廃車。現在、明智町立明智小学校に保存されている。 ’73.5.5 中津川 P:山手 修

D51 549

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昭和15(1940)長野工場製。長野機関区、新津機関区、広島第一機関区、吹田機関区で戦中・戦後の混乱期、物資輸送に活躍し、1950(昭和25)年、中津川機関区へ。長野式集煙装置を取り付けた山伏スタイルで中央西線・篠ノ井線に活躍。1970(昭和45)年篠ノ井線無煙化に際、お別れ列車となった急行「ちくま2号」を牽引。1973(昭和48)年7月の中央西線の無煙化時に運転されたお別れ列車も牽引している。’73年11月廃車。 ’73.4.14 木曽福島 P:宮村昭男

C57 11

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1937(昭和12)年9月、汽車会社にて新製、小郡機関区に配置。1946(昭和21)年、門司機関区に転属。門司配属時代は特急「かもめ」の専用機となるなど華々しく活躍。門デフにステンレス製の波頭にかもめの装飾をほどこされていた。1956(昭和31)年、米子機関区に転属、翌’57年、豊岡機関区へ。播但線、山陰本線、福知山線で活躍。晩年は鷹取式集煙装置が取り付けられ、美観を大きく損なった。写真は、まだ集煙装置を装備する以前の美しい姿。大阪発18:30頃の福知山線篠山口行きの普通列車。1972(昭和47)年11月、福知山機関区で廃車後、豊岡市立野町中央公園に保存された。 ’66.6 大阪 P:永野晴樹

C62 17

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1948(昭和23)年12月30日、日立製作所で落成。ボイラーはD52 269のものを使用。落成後岡山機関区に配属、’50年に名古屋機関区へ。東海道本線で「つばめ」「はと」を始めとする優等列車を牽引。1954(昭和29)年12月15日、木曽川橋梁の強度試験時129㎞/hを出し、狭軌における蒸気機関車の世界最高速度を樹立。下関、広島と移り、晩年は糸崎機関区に配属。呉線での活躍は多くのファンを魅了した。1970年(昭和45)年8月、岡山〜糸崎間でC59 164と重連で臨時列車「さようならC62」号を牽引。同年10月の呉線電化後、運用を離脱、翌’71年3月廃車。名古屋市の東山動物園に静態保存されている。 ’66.12 広島 P:永野晴樹

D51 62

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1937(昭和12)年川崎製。D51一次型の切り取りデフは同機と95号機だけで、いずれも長工デフ。すっきりと長く伸びた長工デフを道内の他の蒸機と同様に前部を切り詰めてしまったので、いささか不恰好である。晩年は深川機関区に所属し、留萌本線・羽幌線で活躍した。’74年7月廃車。 ’74.3.30 深川機関区 P:田中一弘

D51 837

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’71年4月、伯備線でお召列車を牽いた838号機と一番違いの兄弟機。どちらも昭和18年3月10日生まれの鷹取工場製である。一見普通の標準形だが、写真の側のデフだけがアングルの枠で補強した厚みのあるものになっている。公式側は普通のデフである。 ’74.4.3 山陰本線 長門機関区 P:宮村昭男

48679

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1922(大正12)年汽車会社製。パイプ煙突で、入換の際の後方視界を確保するためC56のような凸型テンダーを付けていた。鹿児島区より転属、湯ノ前線の貨物列車を牽引し余生を送る。動態保存機となった58654とともに日本最後の8620となった。九州内で最も活躍期間の長い機関車。1975(昭和50)年5月に廃車。実際には2輌の8620は同年の3月9日に運用を離脱している。 ’73.3.27 人吉機関区 P:山手 修

D51 603

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1941(昭和16)年2月23日、日立製作所、製番No1434。この写真を撮った3か月後、現役蒸気最後の検査入場機として苗穂工場を出場。本線蒸気最終日の1975(昭和50)年12月24日は、変A6仕業5797レ〜5794レで夕張1往復。追分18:35着でその生涯を終えた。 ’75.7.29 滝川機関区 P:宮村昭男

C57 38

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昭和13年、日立製作所製。水戸や平区所属で常磐線を長く走り、常磐線電化進展で北海道へ。早くから北海道入りしたカマと違い、重油併燃装置取付けや密閉キャブ化はされなかった。最後まで走ったC57五人娘の1輌である。 ’75.7.28 室蘭本線 苫小牧 P:宮村昭男

D51 953

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昭和16年、汽車会社製造。もと胆振縦貫鉄道D5104である。5輌居た胆振縦貫鉄道出身機のうち、一番長生きをして蒸気廃止の最終期まで活躍した。胆振鉄道出身の同僚952,954号機と3輌揃って旭川区配置時代が長く、その時代は遠軽まで急行大雪等も牽引した。ギースルエジェクターの取り付けは昭和41年、苗穂工場改造である。 ’75.7.29 岩見沢 P:宮村昭男

D50 231

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D50 231は昭和3年に日立で製造され、戦前は広島地区に在籍して、戦後九州に転属してきた。永く出水機関区で活躍して最終配置区は若松機関区。昭和44年に廃車になった。同機は、形式入りの大型プレート、シールドビーム、パイプ煙突と他のD50と比べて異彩をはなっていた。 '69.10 若松機関区 P:松崎昌一

D62 20

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D62形式は1959年、20輌全機が一ノ関庫に集中配属され、東北本線の長町〜盛岡間の貨物仕業に就いていた。1966年9月30日最後まで残っていた、10、15、20号機がそれぞれ惜別列車を牽引して引退。20号機は長町〜一ノ関間の第153列車牽引の乙組19仕業が最終であった。 '66.3.21 一ノ関機関区 P:大山 正

C57 135

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1975年12月14日に国鉄最後の旅客列車を牽引した135号機は、1940年に三菱重工業で製造された1次型で、高崎に新製配置後、1952年に北海道へ渡り、廃車となる1976年3月31日まで北の大地で活躍した。切り詰めデフ、フロント右側の入れ替え作業用四角い手すり、密閉キャブ、旋回窓等改造が施されている。廃車の一ヶ月半後から、交通博物館のメインホールに展示されている。 '75.3.26 室蘭本線 苫小牧 P:矢野登志樹

C55 19

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C5519は、昭和10年12月日立製。東北地方を転々とした後、九州に転属して来て人吉区から昭和43年10月に若松区に転属、以後3年余りを筑豊線で活躍した。昭和46年4月一休になり、鳥栖区に据付ボイラーとして転属。再び走る事はなかった。九州のC55では数少ない標準デフ装備。また、この機関車はあまり調子がよくなく冷水峠越えのある飯塚以南の運用にはあまり使用されなかった。 '70.5.20 筑前埴生 P:松崎昌一

C60 33

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当時の仙台庫にはC58、C59、C60、C61、C62が合計30輌以上配属されており、仙台庫のC60は主に常磐線で運用された。C62廃車の置換えで盛岡や青森のC60が補充された時期があり、盛工式補助デフのC60も在籍していた。 '68,1.9 仙台運転所 P:大山 正

C57 65

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C57 65は、昭和13年8月に川崎車両で製造され、梅小路区に新製配置された。以後九州に転属して最終配置区は宮崎区。昭和49年4月の宮崎電化で廃車となった。同機は門司港区時代にC57 11と共に特急「かもめ」の専用機として活躍した。なお、熊本県の高森町に静態保存されているC12 241に付いている切取デフは同機のデフをカットして取り付けた物である。 '68.3.27 日豊本線 海崎 P:松崎昌一

C55 57

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C55は2シリンダー国産パシフィック機の改良型として誕生し、1935(昭和10)〜1937(昭和12)年にかけて62輌が製造された。57号機は1937年3月6日の川崎車輌製で、キャブが小型化された3次型である。デフ上部中央に穴が一つ開いた小倉工場式門デフを装備、20年以上の間大分機関区所属し日豊本線を中心に活躍し、若松に転属。煙突、給水温メ器のバンドなどに磨きだしの装飾があり、門デフ装備のC55の中でも特に美しくファンに人気があった。'72年3月、僚機52号機とともに吉松へ。日豊本線宮崎〜西鹿児島、吉都線、肥薩線吉松〜隼人が最後の活躍の場となる。'75年3月31日に鹿児島で廃車。その1週間前には、C57 175と重連で西鹿児島〜宮崎間で、九州最後の「SLさよなら列車」を牽引した。 ’73.8.11 宮崎機関区 P:矢野登志樹

C62 48

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1949(昭和24)年にD52 380のボイラーを使用して汽車会社で誕生した。竣工後、尾久機関区に配置され東北・常磐線で使用されたが、電化の延伸で平機関区に転属となり、平〜仙台間の優等列車を中心に活躍した。蒸機牽引特急「ゆうづる」の仕業にも就いたりして最後の花道を飾った。'67年の常磐線電化後は廃車をまぬがれて、状態の良かった4輌の仲間たちと糸崎機関区に転属した。そこで呉線の急行「安芸」をはじめとする旅客列車を牽いて急客機の面目を保ったものの、'69年の同線電化後は新たな転属もなく、廃車解体されてしまった。 '69.3.27 糸崎機関区 P:青柳 明

D50 365

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昭和40年代初頭は、D50はまだ石炭輸送の上で大きな比重を占めていた。昭和40年の配置表によれば滝川6輌、岩見沢10輌、追分8輌、鷲別5輌と、29輌が健在で、この4機関区のD51の配置総数が55輌だから、主力機の34%はD50だったことになる。359号機は1931(昭和6)年川崎車輌製。'67年8月、廃車となっている。'67年頃 岩見沢 P:笹本健次

C57 9

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201輌中たった5輌しか製造されなかった汽車会社製。南九州のC57では4号機とともに一桁の若番で人気があった。ちなみに4号機は長工デフ、この9号機は門デフだ。1937(昭和12)年製。戦後は一貫して九州に配属。門司港、長崎、早岐を経て1968(昭和43)年人吉区へ。肥薩線「川線」で活躍。1973(昭和48)年、宮崎に転属。活躍の場を日豊本線に移し、蒸機牽引最後の急行、1121レ「日南3号」も牽引、有終の美を飾った。やや甲高い独特の音色をした気笛だった。1974(昭和49)年6月、廃車。 ’73.8.11 日豊本線 宮崎 P:矢野登志樹

C60 107

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C60107はC59165を種車として昭和36年2月13日に浜松工場で改造、落成した。生涯のほとんどを鹿児島区ですごし、鹿児島本線の急行牽引に活躍して、昭和45年10月の鹿児島電化で引退。翌46年1月29日付で廃車になった。余談になるが九州のC60の100番台は鳥栖区の配置はなく、特急「さくら」「あかつき」を牽くことはなかった。 '69.11.3 熊本機関区 P:松崎昌一

C55 46

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C55 46は昭和12年2月に川崎車両で製造され、梅小路区に新製配置。その後九州に転属。昭和37年に大分区から若松区に転出して以後筑豊本線で活躍した。昭和46年9月にD51と交替して廃車となった。この機関車の特色は、k7タイプと称される門デフを装備しているが、デフが大きめである。大分に静態保存されているC55 53はこの46にプレートを差し替えて展示しているものである。 '70.5.7 筑豊本線 筑前埴生 P:松崎昌一

C61 33

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C6133は、昭和24年3月に日本車両で製造された。種車はD511148。生涯のほとんどを鹿児島区で過ごし、特急「はやぶさ」「さくら」等を牽いて活躍した。C61のラストナンバーでもある。昭和45年10月の鹿児島電化前日の「お別れ列車」を出水まで牽いた。同46年1月29日付で廃車。 '70.7.26 鹿児島本線 上田ノ浦 P:松崎昌一

C55 53

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C5553は昭和12年3月に三菱で製造された。九州管内を移動して、昭和43年10月に宮崎区から、若松区に転属。ここが最後の配置区になり、同46年8月に廃車になった。この機関車のテンダーはD51の物に振り替えられている。また、大分に静態保存されているC5553は、別物で本体はC5546である。 '70.6.3 筑豊本線 筑前埴生 P:松崎昌一

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C57 53

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C57 53は昭和13年三菱で製造され、小郡機関区を振り出しに、戦後に九州に渡ってきた。それ以後九州内を移動して最後の配置区は若松機関区。昭和46年8月に、C57 52と交替した。若松区での活躍は2か月余りだった。九州に配置されたC57の中では門デフに改造される事もなく、どちらかと言えば地味な機関車だった。この機関車の動輪は天賞堂の銀座店に飾られている。 '7012.26 日豊本線 佐伯 P:松崎昌一

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C61 32

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1949(昭和24)年、日本車輌製。D51 1050を改造。鹿児島機関区のC61は〈はやぶさ〉をはじめとする優等列車を牽引するなど、南国・九州で華々しい運用についていた。一時期〈さくら〉を牽引し長崎まで足を伸ばすこともあった。DLの進出、鹿児島本線の電化の進展により、徐々に活躍の場が狭められ、'70年10月の電化直前には、運用のほとんどが普通列車牽引となってしまっていた。'70年8月、台風の直撃によるダイヤの乱れで急行、臨時急行に運用の関係でC60、C61が割り当てられ、数日間ではあるが久々に優等列車牽引に返り咲いた。それが文字通り最後の一花で、'71年1月廃車となった。 '70.1.3 熊本機関区 P:笹本健次


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D51 1022

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1944(昭和19)年三菱重工製。鳥栖機関区に所属、長崎本線、鹿児島本線で活躍していたが、厚狭機関区に転属、美祢線の石灰石輸送に従事することとなった。同機の門デフは、デフの下半分ほどを切り取ったもので、前部のステーが垂直になっている。九州時代は美しく磨きこまれていたが、厚狭ではススまみれで錆が薄く浮いたうらぶれた姿となってしまった。 '72.12廃車。 '72.4.29 厚狭 P:山下修司

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C57 151

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1941(昭和16)年、三菱重工製造。撮影時は熊本機関区所属、後に吉松機関区配属となる。南九州では数少ない2次型。門デフの前のステーがフロントエプロンの傾斜面から立ち上がるタイプ。このタイプにはC55 34、C57 116などがある。'73.11廃車。鹿児島市平川動物公園に静態保存。 '70.1.3 熊本機関区 P:笹本健次

C12 55

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1933(昭和8)年、汽車会社製。新製後すぐに南延岡機関区に配属され、日ノ影線の列車を中心に運用された。'74年に廃車となるまで生涯を南延岡機関区で送った。正面のナンバープレートが形式入り。同機の活躍した日ノ影線は'74年7月、日ノ影〜高千穂間(12.5㎞)を延長し、高千穂線と改称。'89年に第三セクター高千穂鉄道となったが、昨年、台風による橋梁流出で甚大な被害を受け廃止が決まった。 '70年頃 日ノ影 P:笹本健次

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D51 1160

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1944(昭和19)年、川崎車輌製。ご存じのようにD51は国鉄最多輌数を誇る形式だが、955から1000までが欠番のため、総数は1115輌だが、ラストナンバーは1161番となる。1161号機は'67年に廃車となっているので、それ以降は1160号機が「ラス前」として番号ファンの注目を集めた。 '73..3.29 苫小牧 P:山下修司

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C62 16

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1948(昭和23)年、日立製作所製。D52 127のボイラーを使用。名古屋機関区配属時代には〈つばめ〉〈はと〉を、梅小路機関区配属時代には〈かもめ〉を牽引、華々しい活躍をした。'58年下関機関区に転じ、山陽本線をブルートレインをはじめとする優等列車を牽引し山陽路を疾駆。'64年、山陽本線電化を機に広島機関区に転属、翌'65年糸崎に転じる。あらたな活躍の場、呉線でも〈安芸〉〈音戸〉などを牽引、常磐線からやってきた軸重軽減されたC62に比べ空転が少ないと、東海道・山陽生え抜きの15、16、17、41は乗務員からも信頼された。'70年9月の呉線電化開業でもはや命運は尽きたかと思われたが、軸重軽減ののち僚機15とともに津軽海峡を渡ってはるばる小樽築港機関区に転属。今度は風雪の峠に重連で挑むことになる。山陽型のC62は砂撒き管がボイラーケーシングの外に出ているのが特徴で、そのスタイルのまま耐寒装備が施された。小樽築港機関区配属に際し、同機入れ替わりに廃車となる32号機のテンダーを譲りうけている。急行〈ニセコ〉のDL化により、'71年11月、廃車、その花の生涯を閉じた。 '70.1.2 広島 P:笹本健次

C12 287

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1947(昭和22)年日本車輌製。後藤寺機関区、鹿児島機関区を経て1970年(昭和45年)南延岡機関区配属。日ノ影線の貨物列車を中心に活躍。撮影時は鹿児島機関区に貸し出しされていたらしく、指宿枕崎線の貨物列車を牽引していた。現在は千葉県君津市に静態保存されている。 '72.1.1 鹿児島機関区 P:山下修司

D50 90

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門デフ装備のD50として人気があった。撮影時は柳ヶ浦機関区に所属、日豊本線で活躍していたが、後に若松区に転属、140号機、205号機とともに筑豊本線で余生を送り、D50の中では最長寿。1925(大正15)年川崎製。9989から改番。'71年3月廃車。 '67頃 柳ヶ浦 P:笹本健次

D61 1

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D51形の従台車を2軸に改造した形式で、規格の低い丙線にも対応させるため。1959(昭和34)年から1961(昭和36)年に国鉄浜松工場、郡山工場で6輌が生まれた。わが国最後の蒸気機関車の形式。2〜6号機は製造当初より密閉式キャブ。この1号機のみ開放型だった。留萌本線、羽幌線で活躍したが、D51との共通運用で、存在意義は希薄だった。 '67
年頃 留萌 P:笹本健次

76916

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倶知安機関区所属の9600は胆振線内での落石による前照灯破損を考慮し、左右のデフのステーに前照灯を載せた二つ目スタイル。79616は僚機79613、79615、79618とともにそんな特異な姿で、ファンの注目を浴びた。岩内線の運用は函館本線の倶知安峠を越えるため、C62重連急行〈ニセコ〉を撮影するファンにも馴染みだった。後に追分機関区に転属、入換に従事する。1923(大正13)年、川崎造船製。正式な廃車年月日は1976(昭和51)年3月1日で、'76年まで生き延びた数少ない蒸機の一台。現在は日高町に静態保存されている。 '72.5 胆振線 P:笹本健次

C57 196

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1947(昭和22)年三菱重工製。C57四次型唯一の門デフ装備機。同機のデフは改造に際してもとのデフを利用したタイプのもので、前方の斜めの欠きとりも元のデフのまま。宮崎配属時には前照灯がLP42となっており、その点でも人気があった。他の九州配属のC57四次型同様、キャブの扉は撤去されている。コンプレッサー、給水ポンプを避けるためのランボードの凸型部も後に撤去された。 1974年6月廃車。 '67年頃 柳ヶ浦 P:笹本健次

C55 38

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北海道に配属された流線形改造機の中では最後まで残った30号機が有名だが、他には25号機、31号機、32号機、36号機、そしてこの38号機も。'65年の配置表によると室蘭機関区配置のC55は5輌で1号機を除く4輌(30、31、32、38)が流改。25号機、36号機は苗穂機関区の配置だったが後に室蘭区に転属となる。末期の室蘭本線の旅客は岩見沢区の受け持ちだったが、'69年ごろまでは室蘭区の受け持ちで、C55が活躍していた。38号機は'68年3月に廃車となっている。 '67年頃 岩見沢 P:笹本健次

D51 1025

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1972(昭和47)年当時、山口線管理所には8輌のD51が配置されており、4往復半の貨物列車と1往復の旅客列車を牽引していた。旅客列車は益田発5:44の522レと小郡発15:32の521レで、この写真は小郡で発車を待つ522レである。1025機は山口線管理所では唯一の戦時型だが、ドームは標準型のものに置き換えられている。同管理所では鷹取式集煙装置が主流の当時の中国地方にあって、唯一長野式で統一されていた。 '72.4.29 小郡 P:山下修司

C55 52

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1937(昭和12)年、汽車会社製。1939(昭和14)年より九州に。鳥栖区を経て大分区に配属。大分時代に門デフに改造、ロングラン運用のためD51のテンダーと振り替えられた。このタイプの門デフは同機独特のもの。その後、宮崎区を経て若松区に移動し筑豊線で活躍し、1972(昭和47)年3月、僚機号機と共に吉松区に移った。転属後まもなくデフの一部が切り取られた。1974(昭和49)年、宮崎電化後は鹿児島区に転属、1975(昭和50)年まで生き延びた。 '73.1.1 鹿児島機関区 P:山下修司

C56 108

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1937(昭和12)年三菱重工製。撮影時は木次線管理所所属。1番違いの僚機107とともに木次線で活躍していた。木次線は中国山地越えの急勾配が続き、出雲坂根の三段スイッチバックは有名だ。運用は備後落合までの1往復で短編成の貨物列車を牽いて30‰を超える急勾配に挑んでいた。1971年10月、貨物列車が廃止となり浜田機関区に転属、三江北線の貨物列車や入換に従事した。’72年8月に山陰本線で運転された4重連の3番めの機を務めている。’74年7月廃車。 ’71.5.23 備後落合 P:山下修司

D51 758

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1971年昭和46)年、島根県植樹祭に際して米子〜岡山間で運転されたお召列車の予備機。本務機838号機とともにデフに大きな鳳凰のレリーフを取り付けられた。838号機には鳳凰の立ち姿、この758機には大きく羽を広げた姿のもの。運転に先立って一般公開され、新見機関区に集まったファンたちは妍を競う2輌の晴れ姿に見とれた。1972(昭和47)年10月に運転された鉄道100年記念列車は、838号機は廃車、静態保存されてしまったため、この758機が重連の先頭に立った。次位は774号機。運転は岡山〜新見間往復で758号機は往路のみで、帰路は774号機の単機牽引。この写真は新見機関区で行なわれた撮影会の際のもの。 '72.10.12 P:山下修司

C58 312

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紀勢本線で活躍後、亀山機関区に転じ、信楽線の貨物列車を中心に活躍。同機が運用についていた1973(昭和48)年ごろは、草津線は無煙化されており、亀山から柘植までは回送をかねて草津線に直通するDD51の貨物列車の後部補機を務め、柘植で一休みし貴生川に単機で回送、信楽線を一往復したのち、貴生川からDD51の貨物列車の後補機となって亀山に帰るといういたってのんびりとした運用だった。信楽線は貴生川〜信楽間わずか14.8キロだが、途中33‰の急勾配があり、編成は短いながらもブラスト音も高らかに挑んでいた。312号機に装備された重油タンクは近畿地方によく見られる嵩の高いタイプ。なお同機は現在は愛媛県五十崎町に静態保存されている。'73.5.16 関西本線 柘植 P:山下修司

C57 156

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1942(昭和17)年川崎車輌製。鳥栖、酒田などを経て豊岡機関区所属となる。播但線で活躍。豊岡配属機は鷹取式集煙装置装備の機が半数をしめていた。同機は5、46、113、95、127とともに集煙装置非装備であった。スキー臨の牽引機回送のため三重連がしばしば運転されたが、3輌とも非装備機が揃うことは稀だった。同線無煙化後は浜田に転じ、山陰本線で余生を送った。現在は益田市に静態保存されている。'71.4.23 播但線福崎 P:山下修司

39670

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帯広機関区の9600と言えば、やはり9633が保存機となった後の、最若番機9654が筆頭に挙げれれる。他はさしたる特徴を持った機はいなかった。1975(昭和50)年当時は士幌線、広尾線を中心に運用されていたが、その両線とも現在は廃止となっている。撮影当時は「愛国〜幸福」の切符がブームで、愛国駅、幸福駅には観光客の姿もあった。39670のテンダーは樺太庁向けの9600と同様の機炭間に巨大な風防が付いたもので、キャブは密閉化されていた。正面のナンバープレートは396を形式とみなして製作してしまったため、6と7の間が間延びしてしまったエラーのプレートだった。 '75.3.31 広尾 P:山下修司

C12 230

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1939(昭和14)年日本車輌製。宮原機関区、西舞鶴機関区、米子機関区、加古川機関区を経て1972(昭和47)年3月に中津川機関区に配属。明知線を中心に運用された。明知線のC12の運用は中津川を早朝4時54分単機で出て恵那から463レで明智に14時19分着、終点の明智で1泊し、翌日8時46分発の462レで恵那へ戻り、単機回送で中津川に18時18分帰区するという、2日間にまたがるまことに悠長な仕業だった。1973(昭和48)年11月木曽福島機関区に転属、翌1974(昭和49)年6月廃車。現在は愛知県西尾市に静態保存されている。'72.12.28 中津川機関区 P:山下修司

C56 150

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1938年(昭和13年)三菱重工製。蒸気機関車ブームの1970年当時の小海線には144、149、150、159の4輌のC56が配置されており、3往復あった貨物列車を牽引していたが、高原野菜出荷のための臨貨や〈八ヶ岳高原号〉の走る夏季には4輌では間に合わず糸魚川区などの他区から応援を頼まなければならなかった。他区からやってきた機関車に比しても150の手入れのよさは際立っており、中込の代表機のような存在。同駅の「DISCOVER JAPAN」のスタンプにも描かれている。150号機は福井、糸魚川を経て中込機関区に配属1972(昭和47)年10月の小海線無煙化後は浜田機関区に転じ、三江北線の貨物列車や入換に活躍。1975(昭和50)年2月に廃車となっている。'67.4.30 中込 P:笹本健次

C58 122

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C58 122は小郡機関区に所属、宇部線、小野田線で貨物列車を牽引、見所もない線区でカメラを向ける者すらまれな地味な運用に付いていたが、1972(昭和47)年10月に小牛田機関区に転属、翌年3月に行なわれた特急「あけぼの」、急行「津軽」の陸羽東線迂回運転での立役者となり、有終の美を飾った。'72.4.23 小郡機関区 P:山下修司

C50 88

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C62、C59の急行用大型蒸機は糸崎のスター。その影に隠れつい忘れてしまいがちだが、入換用のC50がいた。66、88、142、154などが糸崎駅構内の入換に従事していたのだが、やはりカメラを向ける者は少なかった。煙突に丸い網を載せたような簡易な構造の火の粉止めをつけ、ゼブラ塗装、テンダーにはミドリ十字、典型的な当時の入換機のスタイル。糸崎のラウンドハウスは鉄骨造りで風格には欠けるが、柱が細く格納された機関車を撮るのには好都合だった。'70.8.20 糸崎機関区 P:山下修司

C57 113

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1939(昭和14)年三菱重工製。戦後は北陸本線で活躍していたが、昭和40年代前半に豊岡機関区に転属、山陰本線、播但線で活躍した。三重連の先頭に立っている写真も見られ、関西・中国の蒸機ファンにはお馴染みの存在。1972(昭和47)年宮崎機関区に転属、翌年10月改正から急行〈日南3号〉は下り宮崎〜都城間をC57が受け持つことになり、この113号機もしばしば牽引。姿のいい急行編成を牽いて夕方の日向路を駆けた。'72.1.15 姫路 P:山下修司

D51 42

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1937(昭和12)年汽車会社製。坂町機関区や長町機関区を経て、30年代後半、北日本から直方機関区ににはるばる転属。蒸気機関車末期、門司機関区の45号機、鳥栖機関区の10号機とともに九州に残ったナメクジとして人気があった。のちに45号機とともに南延岡機関区に所属。昭和49年(1974年)6月12日、僚機となった45号機と同日に廃車となった。この両機が九州最後のナメクジである。 '72.8.1 新飯塚 P:山下修司

C57 80

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1939(昭和14)年三菱重工製。名古屋機関区から浜田機関区に転属、晩年は山陰本線で活躍した。新幹線岡山開業を記念して1972(昭和47)年3月から岡山で交通博覧会が開催されたが、そのイベントの一環で浜田からこのC57 80を借り受け岡山〜糸崎間に〈交通博号〉が運転された。写真はその際のもの。運転開始日前日に機関区構内で慣らし運転をしていた。デフには交通博のシンボルマークを取り付けてあるが、ヘッドマークはまだ枠だけである。煙室前端が直角になったタイプ。スノープラウは先端が開閉する浜田機関区独自のものを装備。同年7月に廃車となった。'72.3.19 岡山機関区 P:山下修司

D51 944

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関西地区最後の蒸機の牙城・奈良機関区所属のD51は鷹取式集煙装置、重油併燃装置装備の山伏姿の機がほとんどだった。そのなかに、デフに装飾を施した機が数輌いた。882が月と鹿、906がタバコのピースの月桂樹の枝をくわえた鳩、この944号機にはC62 2と似たツバメがついていた。C62のものに比べるとやや太り気味のツバメだったが…。'73.6.10 関西本線 柘植 P:山下修司

D51 838

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1972(昭和47)年4月26日に島根県植樹祭に際して運転されたお召列車の牽引機。上部が折れ曲がらず、周囲を帯材で補強した一種の変型デフを装備。正面から見るとデフは分厚い板に見える。お召列車は当時D51三重連で有名な布原信号場を昼過ぎに通過する。この機関車の晴れ姿に2000人近いカメラマンたちがカメラを向けた。「SLブーム」のまさにピークだった。'71.11.13 伯備線清音 P:山下修司

C57 72

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形式入りナンバープレートに門デフの組み合わせ、鹿児島機関区のスターだった。九州の蒸気機関車はいずれも手入れがよく磨きこまれていたが、形式入りプレートの貫禄は絶大で、ひときわ美しい印象を受けた。21号機のデフを譲り受け、最後の門デフ改造機といわれる。1974(昭和49)年6月廃車。 '73.1.1 鹿児島機関区 P:山下修司

C11 80

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1962(昭和37)年10月、岡山国体の際の津山線内でのお召列車牽引機。1971(昭和46)年3月24日に運転された津山線の蒸気機関車さよなら運転の牽引機でもある。さよなら運転に際しては、デフに鶴が舞う姿の装飾がつけられた。その後、会津若松運転区に転属、只見線、会津線、日中線で活躍した。日中線のさよなら列車も牽引。生涯で2度、さよなら列車を牽引した例は珍しい。現在は古巣の岡山県津山市に静態保存されている。'71.2.10 岡山機関区 P:山下修司

C55 30

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流線形で登場した20輌のC55のうちの1輌。戦後改造されて標準型となったが、標準型として製作されたものとはキャブやドームの形状などが違う。旭川機関区に所属し流線形改造のC55の中で最後まで活躍した。保存される予定だったが、C55 50と間違えられ、解体。保存された50号機には当初「C55 30」のナンバープレートが取り付けられていた。'74.8.9 旭川 P:山下修司

D51 70

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1937(昭和12)年日立製作所で落成後、岡山機関区に配属。戦後は北海道に渡り、岩見沢、小樽築港などを経て追分機関区に。同区が最終配属区となった。室蘭本線、夕張線で活躍。キャブは密閉式に改造されていない。'74.8.6 室蘭本線 白老 P:山下修司

D51 651

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新見機関区所属機で伯備線で活躍していたD51 651は、実はいわくつきの機関車で、水戸機関区に所属していた1949(昭和24)年7月6日、常磐線の貨物列車を牽引中、下山定則国鉄総裁を轢断した機関車といわれている。事件は謎に包まれており現在でも経緯については諸説ある。1972(昭和47)年9月に廃車。'70.4.25 伯備線井倉 P:笹本健次

C59 162

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最後のC59、3輌のうちの1輌。3輌とも戦後型で糸崎機関区に配置、1970年9月30日の電化開業まで活躍していた。平から転属の軸重軽減されたC62に比べ、C59は空転しにくく〈音戸〉〈ななうら〉などの重量列車では頼りにされていた。僚機C59 161は広島に保存され、C59 164は梅小路入り、C59 162のみ解体された。キャブ側面窓追加、清罐剤送入装置の載る部分のランボードを一段下げた山陽筋に見られるタイプ。'68.3.6 広島 P:笹本健次

C11 41

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1933(昭和8)年川崎車輌製。関西地区から米子機関区に転入。倉吉線を中心に活躍した。倉吉線のお別れ列車牽引に際して、デフに巨大なツバメのイラストをペンキ書きされ、ファンの度肝を抜いた。この写真はお別れ運転当日の朝、米子機関区で撮影したものだが、さすがに写欲が大いに削がれたのを覚えている。その後、九州・志布志機関区に転属。「おばけツバメ」は日南の海を背景に走った。 '74.4.28 米子機関区 P:山下修司

C57 200

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C57形4次型は190〜201の12輌で、193、194、197、200、201が北海道に配属された。200号機は僚機201とともに小樽築港機関区に所属、函館本線小樽〜旭川間と根室本線を中心に活躍。根室本線では難所・狩勝峠を越え釧路まで片道400㎞を超すロングラン運用をこなした。重油併燃装置はそのときに装備されたもの。その後苗穂区に転属、1969年10月28日付けで廃車となった。 '68 茶志内 P:笹本健次

C57 11

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九州時代は「波にかもめ」の装飾をデフに付け、特急〈かもめ〉の専用機として颯爽と鹿児島本線を走ったこの機関車も、晩年は豊岡に転じ、集煙装置を装備。貨物列車を牽き、すっかりうらぶれてしまった。 '71.4.23 播但線 溝口〜福崎 P:山下修司

C61 24

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C61は D51のボイラを利用して製造されたハドソン機で、33輌が三菱重工業と日本車輌に分けて製造された。本機は日本車輌の担当で、ボイラはD51 1135のものを利用、1948(昭和23)年9月の竣功。奥羽本線電化まで青森区で活躍したが、電化とともに宮崎区に転じて日豊本線で使用された。1972(昭和47)年11月7日付けで廃車。'69.8.1 川部 P:笹本健次

C62 48

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49輌誕生したC62のうち、汽車会社製のラスト5輌(45〜49号機)は新製時から“軽軸重”で生まれ、いずれも尾久区に投入、長らく常磐線で活躍した。この48号機も尾久から平区に転じたものの、電化まで常磐線で活躍を続け、特急「ゆうづる」の先頭に立つ機会も多かった。1967(昭和42)年に糸崎区に転じ、僚機46・47号とともに呉線で働いたが、同線の電化を前に、1969(昭和44)年9月付で廃車された。広島工場施工機が砂撒管をケーシング上に露出させる改造を施しているのに対して、本機は郡山工場施工のまま原形を保っていた。'69.3.1 広島 P:笹本健次

C58 131

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新見機関区の入換専用機。鷹取式の集煙装置を装備する同区のC58の中にあって、集煙装置なし、トラ塗、緑十字の入換機は異色だった。控え車とコンビで一日中入換に精を出していた。 '71.8.8 新見機関区 P:山下修司

C57 155

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九州は門デフの本場だけに装備機はキューロク、ハチロクからC61、D52まで多岐にわたっていた。装備第1号がこのC57155。前のステーが垂直にデッキに下りている長工デフのような仕様である。 '72.12.31 日豊本線宮崎 P:山下修司

C57 5

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梅小路機関区のエースC575は'71年3月山陰本線京都口無煙化後、豊岡に転属、播但線に活躍の場を移した。正面のナンバープレートは形式入りから形式なしに代わり、ファンをがっかりさせた。播但線無煙化後は浜田に転出。 '72.1.15 姫路機関区 P:山下修司

C12167

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奈良機関区のD51は全機集煙装置装備で718号機以外は重油タンクをドームの後ろに搭載した重装備。そんないかつい姿の山男に囲まれてC12167は同区のマスコット的存在。機関区は奈良駅のホームからよく見え、隣接しているヤードでの入換の様子も手に取るように眺められた。 '72.12.26 奈良機関区 P:山下修司

C5036

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鹿児島機関区に所属するC5036は僚機48679とともに、入換時の視界を確保するためテンダーの両側がC56のように凸型に切り欠いてあった。この日は鉄道100年記念企画の一環で鹿児島機関区に九州にいる現役機がD50を除いて全形式集合。C5036はつめかけたファンの前で黙々と入換作業をしていた。 '72.7.30 鹿児島機関区 P:山下修司

C57117

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宮崎県植樹祭の際、お召列車を牽いて一躍有名になった117号機だが、それまではとりたてて目立ったカマではなかった。貨物列車を牽いて田野で長時間停車。'72.12.31 P:山下修司

D51 18

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中国地方は集煙装置装備が機が多くナメクジは少なかった。厚狭機関区所属機は全機集煙装置非装備で吉松から転属してきた8号機、18号機も標準機に混じって美祢線を中心に活躍していた。煤けたカマが多い中、18号機は比較的きれいに磨かれていた。なお、本機は現在でも宇部市常盤公園に静態保存されている。'72.4.15 厚狭機関区 P:山下修司

D5155

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’72年10月時点で、道内にいた「ナメクジ」タイプのD51は20輌あまり。総数の約4分の1弱が配置されていたことになる。D5155は鷲別機関区所属。同区のD51は室蘭本線から千歳線に入る貨物列車の仕業を受け持っていた。’73.3.30 苫小牧機関区 P:山下修司

29694

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相生線は石北本線美幌から北見相生にいたる36.3㎞のローカル線。1往復設定されていた貨物列車は昭和50年5月までは北見機関区の9600の運用だった。北見機関区の蒸気機関車は道内では比較的手入れがよく、この29694も煙室扉が黒光りしている。この時代道内の9600は大半がトラ塗りの警戒色だったが、中には同機のように前面の警戒色が前端梁だけにとどめられているものもあった。この日、同機は相生線で一仕事した後、C58418の次位に連結され北見へと帰っていった。相生線は昭和60年3月31日廃止。美幌 '75.3.29 P:山下修司

D51795

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後藤式切り取りデフ装備機。C58175やD51499も後藤式で新規に製作したデフだが、この
D51795のタイプは種車のデフを使用したもの。同様のタイプにD51187、D51833がある。
岡山機関区 '70.4.29 P:山下修司

D50 300

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1928(昭和3)年日立製のD50で、晩年は米原区に所属し北陸本線で活躍した。プレートタイプの先輪と、蓋付きバイパス弁点検窓と欠き取りのあるデフが特徴。1968(昭和43)年12月5日付で廃車。'68.3.7 米原 P:笹本健次

C57 182

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動態復活して「SLばんえつ物語号」の牽引機として活躍しているC57 180の僚機で、1961(昭和36)年に新潟機関区から新津機関区に転入し、以後1971(昭和46)年まで10年間を羽越本線・磐越西線の主力として過ごした。新津からは米子に転じ、最終的には1973年6月16日付で南九州・吉松機関区で廃車となっている。独特の五角形のドーム前手摺などに長野工場施工機の特徴が見られる。'61.8.10 会津若松 P:笹本健次

D51230

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浜田機関区のD51は昭和45年当時、長躯、岡山まで足を伸ばす運用があった。A10運用で、伯備線内は米子発7:15の922レで岡山着12:43。岡山発17:48の925レで米子着が22:57であった。先端が開閉する浜田機関区特有のスノープラウが岡山でも見られた。岡山機関区 '70.3.21 P:山下修司

C60 14

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盛岡機関区で十三本木峠越えに活躍したC60。母体は広島地区で活躍したC59 69で、浜松工場の改造。盛岡区のC60には、煙突を取巻くように郡山工場施工の小型除煙板が付けられている。東北本線電化とともに'69年10月1日付で廃車。'67年 盛岡機関区 P:笹本健次

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