鉄道ホビダス

2007年11月アーカイブ

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'75年に入線した元東京急行電鉄の3550形でモ1731は元デハ3553、ク2731は元デハ3554で、ク2731は入線時方転(豊橋向)電装解除。車体は全金属製片開三扉、前灯も二灯化。貫通式だった前面は非貫通化。後に貫通扉部に電照式方向幕設置。車体は両車共通でノーシルノヘッダのツルっとした車体だが、各々経歴は全く異なる車両で、モ1731は元デハ1401で旧帝都車、ク2731は元デハ1366で旧小田急であり、更新前の両車は似ても似つかない同士であった。豊鉄では非冷房のまま、'97年の昇圧まで活躍。 '89.8.20 渥美線 新豊橋─柳生橋 P:梶村昭仁

相模鉄道 新6000系

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'70〜'71年に6000系の増備車。全車日立製。従来の1M方式に替え、MMユニット採用。出力アップ(110→130kw)と車輪径大型化、ギヤ比等変更があったものの、従来の6000系との混用は可能。車体は大幅なモデルチェンジとなり高運化、行先・種別等を額部に前照灯を窓下2灯シールドビーム化。側面窓扉配置は左右対称化。当時の狭軌車輌最大幅2,930mmを持ち、スーパジャンボと称される。非冷房であったが、増備で搭載後、改造で全車が搭載。登場時車体色は5000系以来のインダストリアルカラーだったが、後現色に。最大10輌編成で活躍。新製車登場で最後の4編成が'04年12月まで活躍。引退した。 ’88.6.29 相模鉄道本線 鶴が峰〜二俣川 P:梶村昭仁


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ED92 1

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常磐線取手以北の交流電化に際して開発された日本初の交直両用電気機関車で、1959(昭和34)年、日立製作所で1輌のみ製作された。登場時はED42 1 。整流器は水銀整流器、1時間定格出力は交直とも1400kW。試験運転を重ね、EF80形量産の礎となった。1961(昭和36)年、形式番号を変更、ED92 1となる。教習車となり長らく田端機関区に留置されていたが1975(昭和50)年、解体された。 ’74.7.14 田端機関区 P:中西裕一

近鉄2250系(3扉化後)

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近鉄2250系は戦前の2200系を受け継ぐ特急車で1953(昭和28)年から増備された、車体はノーシル・ノーヘッダーの軽量車体を採用し、32年から冷房などを取り付けたが、ビスタカーの登場や釣掛駆動の為に、35年から3扉化され、一般型に改造して昭和58年まで活躍した。釣掛駆動であったが元特急車らしく、なかなかの俊足であった。 ’80.1 名古屋線 桑名 P:深山剛志

相模鉄道 トム260

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相鉄トム260の、簡易スノウプロウ付きの姿、手前がトム289、奥がトム290です。
平板ガラスの正面窓には、空気式ワイパーが取り付けられています。 ’74 星川 P:長谷川武利

東武鉄道 ED5060形

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'61〜'66年の5年間に3次にわたり東芝で13輌が製造。箱形+両端デッキ付スタイルで出力は142kw×4個、単位スイッチ制御式の吊掛式駆動。制動は自動貫通式。'71年に61〜65号機が重連総括制御化改造、兄弟車ED5080形との重連運転も。標準型機として東上線を含む全線で活躍。後の貨物縮小で余剰廃車が相次ぎ、'97年の会沢線貨物運用廃止までに63号機を除いた12輌が廃車。'03年9月末の貨物全廃でついに運用離脱、10月中に形式消滅。 '87.10.14 伊勢崎線 和戸─東武動物公園 P:梶村昭仁

横浜市交通局2000形

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1号線(上永谷─舞岡)、3号線(横浜─新横浜)の開業を機に'84年に導入された。6輌編成9本、計54輌が製造された。3000系とドアの幅が異なりワンマン運転の際のホームドアに対応できないため'04年度より8編成が3000S形に機器を流用、1編成はそのまま廃車となり、'06年形式消滅した。 '04.4.16 1号線 上永谷 P:清野祐一

阪神電気鉄道 3001系

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'63年登場の7801形と'66年登場の3521形を前身とする3輌12本を'83〜'89年に性能向上、保守軽減化でGTOサイリスタチョッパ制御(回生制動・抑速制動付)化した。形式。車体はオリジナルと変らず、前面切妻、三扉片開扉車。梅田方からMc1(3101形)+M'(3001形)+Tc(3201形)として2ユニット6輌で使用。'95年阪神大震災で6輌被災廃車。'98年以降運用変更で余剰、車体機器老朽化も相って、新製車輌と引換に'03年03月までに全廃。 '02.3.17 山陽電気鉄道 本線 山陽須磨 P:梶村昭仁

79668

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1926(昭和2)年、汽車会社製。鉄道省向けに製造された9600の最終ロット。晩年は行橋機関区に所属。「門デフ」を装備しC50 58が付けていた「波と千鳥」のステンレス製切り抜き装飾を譲り受けている。1974(昭和49)年8月26日廃車。 '72.12.28 行橋機関区 P:中西裕一

富士急7000系

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富士急7000系は、1972(昭和49)年に国鉄のクモハ(旧32系)とクハ(旧50系)が各2輌転入した。1981(昭和56)年まで働き小田急2200系の転入車と交代した。国電の17m車は数多く払い下げられたが、旧32系のクモハ14をはこの2輌だけだった。国鉄では前面の雨樋を更新していたため、数少ない原型の直線雨樋であったが、窓枠はアルミサッシになっていた。 '79.4 大月 P:深山剛志

能勢電鉄50形51

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能勢電鉄51形は、阪急電鉄37形3輌を1948(昭和23)年に譲り受け70形として活躍した、1953(昭和28)年にオリジナルの車体で鋼体化を受けてクリームとブルーに塗られて50形を名乗り能勢電の主力として昭和41年まで働いた、その後51号車だけ生き残り、61号車と伴に「国鉄連絡線」が廃止になる1981(昭和56)年12月まで活躍した。 '80.8 P:深山剛志

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C57 66

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1972(昭和47)年当時、日豊本線の宮崎〜西鹿児島間は、一部の急行や特急富士のDF50形牽引をのぞき、C57やC55などが貨物列車を含めて活躍していた。九州ではいわゆる「門デフ」と言われた切り取り式デフレクターの機関車が多かったなか、標準形デフレクターのC57 66も美しく磨き上げられて印象に残ったカマの一輌。1938(昭和13)年川崎車輌製。新製配置梅小路。その後宮原に転じ1946(昭和21)年門司へ。以後、大分、宮崎に配属、日豊本線で活躍する。新井西児童交通公園に保存されている。動輪はエアーによって可動状態となっている。 '72.8 日豊本線 青井岳 P:永野晴樹

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1953(昭和28)年から1958(昭和33)年にかけて16編成32輌が製造された、正面2枚窓3扉のロングシート車600系が、1965(昭和40)年非常に複雑な改造・改番が行なわれ400系となった。写真のデハ441は元のデハ608。デハ444(元クハ659)と編成を組む。400系は1981(昭和56)年から廃車が始まり、1986(昭和61)年全廃となった。 鮫洲  P:田中健吉

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山陽電鉄の 255は1952(昭和27)年に101号の火災復旧車として登場した、その際に254号とともにに、山陽初の全鋼製車体と蛍光灯を採用し「ビニール電車」と呼ばれた。普通列車を中心に活躍し'77年に引退したが、255は構内入替車として広幅貫通路を塞ぎおへそヘッドライトの姿で2000年まで働いた。250系は250〜255までが15m車・256・257が17m車と大きく形態が異なるグループだった。  '80.8 東二見車庫(許可を得て撮影) P:深山剛志

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