鉄道ホビダス

2009年6月アーカイブ

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'88年に西武571系のクモハ577とクハ1578を2輌編成で譲渡。当時在籍していた旧451系譲渡車の601系の続番、クモハ607とクハ1608に改番の上、就役。従来の601系と異なるのは前面に行先表示器が埋め込まれているか否かの差異であり、その他はほぼ同様。性能は等は西武時代と替らず(CS-5系制御器、AMAE制動等の吊掛駆動)。台車は三岐入線後、たびたび振替が行われ、最終的にはMc車が旧京帝1900形のKBD107、Tc車が西武のFS-342となっていた。その他、使用環境のに応じて変化(側引扉SUS化、ワンマン機器搭載等)が生じたが、総じて非冷房のまま使用。西武から新101系の譲渡車輌と代替、'09年02月引退。 '08.9.14 三岐線 北勢中央公園─保々 P:梶村昭仁

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井笠線の主力車として1955(昭和30)年に新造された全金属気動車ホジ1〜3は、日野DS22形エンジン(60PS)を搭載していたが、1961(昭和36)年に日本車輌製で増備された2輌は日野DS40形エンジン(120PS)搭載の高性能車で、これを連番とせずホジ100形(101、102)とした。全長11.7m、自重12.3t、定員70人。井笠鉄道廃止まで活躍した。写真で牽引されているのはホハ2で、1913(大正2年)年開業時に用意された6輌(ホハ1〜6)のうちの1輌、廃止後ホハ2は西武山口線に譲渡されている。 ’70.8 笠岡 P:中浦秀和

キハユ15 4

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1954(昭和29)年、1956(昭和31)年に製造されたキロハ18、8輌のうち6輌を1961(昭和36)年多度津工場で2等郵便合造車に改造、キハユ15とした。前面は切妻型の非貫通スタイル。亀山所属のキハユ15 4を除いて1963(昭和38)年度までにキユニ15に再改造された。キハユ15 4は旧キロハ18 6で1961(昭和36)年2月23日に改造、1978(昭和53)年10月20日に廃車となっている。 ’72.3 関西本線中在家(信)─加太 P:坂本宜聖

小湊鉄道 キハ41003

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元を辿れば、1933年製造の国鉄41048である。1949年の廃車後に同形式の他3輌とともに小湊鉄道に払い下げられ、1950年5月より使用開始された。キハ200形の増備により廃車、1973年7月に解体された。腰板部2灯の前照灯は1961年(キハ200形導入と同年)に追加取付けされた。 ’73.6.23 小湊鉄道 五井機関区 P:長谷川武利

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西武鉄道371系2輌を西武廃車後の'76年に譲渡。車号はモハ311(=元クモハ374)、クハ511(=元クモハ371で大井川入線後に電装解除)のMT2輌編成。車体は3扉17m級半鋼製車体、元を質せば旧国鉄11形400番代。台車や性能はTR10系、CS5主制御器など旧国鉄時代の装備品そのまま。ワンマン化などが行われるも塗色以外の車内外は西武時代そのままの雰囲気であったが、'88年に中間扉を撤去し2扉化、同時に中古の転換座席を装備しかつての14形の雰囲気を髣髴とさせるスタイルで活躍するも車体・主要機器の老朽化に加え、冷房付の譲渡車輛の投入により'98年引退、廃車。 '89.9.1 大井川本線 新金谷─金谷 P:梶村昭仁

下津井電鉄モハ51

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1949(昭和24)年の電化に際して、それまで使用していた加藤製の気動車6輌の内燃機関と関連装備を撤去、吊り掛けモーター4基を搭載し電車化、モハ50〜55とした。4軸駆動で比較的出力が大きかったことから、台枠を補強の上、バッファー付きのネジ式連結器を追加、客貨車の牽引にも使用できるようにした。簡易式連結器と併用したため連結器が上下に並んでいる。鮮魚台付きの電車はきわめて珍しい。夏なので扉はこのまま開け放して走っていった。 '63.8.2 下津井 P:柿浦和敏

南海電鉄モハ2051形

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1959(昭和34)年、南海では国鉄63形であるモハ1501形8輌をクハに格下げの上、それらの電機品を用いてモハ1521形を新造、空気ばね台車を装備した4扉車で中間にサハ3801形を挟んだMc-T-Mc通勤形が4編成出来あがった。続いて1961(昭和36)年から翌年にかけてモハ2001形4輌をクハに格下げて、モハ2051形4扉車のMc-t-t-Mc4連が2編成が登場した。両者は外見上同じ様に見えるが、モハ1521形は150馬力で速度は余り出ないので普通用を目的としたが、モハ2051形は200馬力の大出力なので、当初から急行にも用いるようにシートなど当初モハ1521系にはなかった暖房装置も装備、座り心地のよいシートなど急行用にふさわしい内装であった。大出力モーターを装備するため、モハ2051形の台車の方がホイルベースが長くなっている。昇圧に際してモハ1521形同様、ローカル用に残存することになったがそのうち3輌は200馬力のモーターは不要なので1521形と同じMT40を流用してモハ1529〜1531となり残り1輌は他のサハともどもクハ3901形に改造された。写真にある最後部のモハ2052は昇圧後はモハ1530となり、1995年の廃車後は弘南電鉄に譲渡されたが、旅客列車に用いられることなかった。平賀の車庫で入替え用として残っていたが、かなり荒れ果てた状態で相当以前から放置同然だった。現状は不明である。 '65.8 南海本線 萩ノ茶屋 P:永野晴樹

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1936(昭和11)年から兵庫電軌旧型車の更新名義で一部部品を流用し製作された200形は、流線形車体の2扉車で、1941(昭和16)年までに電動車12輌(201〜212)、制御車3輌(111〜113)の計15輌が就役。1943(昭和18)年には3扉車グループ114〜123が帝国車輌で製造された。こちらは旧型車からの部品流用はなく、山陽電鉄初の純然たる新製車である。1944(昭和19)年124〜126を川崎車輌で製造、1945(昭和20)年127〜132を田中車輌で製造、さらに同年、兵庫電気1形種車として133〜135が川崎車輌で製造したものが加わった。それぞれ製造所、時期により端面の形状などに違いがある。戦災で消失した3輌を除く19輌が1950(昭和25)年215〜233に改番された。ちなみに2扉車15輌は200〜214となっている。写真は電鉄兵庫駅を発車した219+218が、最徐行で併用軌道に進入する下り列車。200形は貨車に改造された2輌を除き1969年までに全車廃車となっている。貨車となった2輌も1981(昭和56)年廃車となった。写真の219・218ともに1967(昭和42)年8月の廃車である。 ’63.2.23 山陽電鉄 兵庫 P:柿浦和敏

別府鉄道ハフ5

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1930年日本車輌製、元神中鉄道のガゾリンカーキハ10(キハ10形)。エンジンを外しハ10となり、その後三岐鉄道を経て、1959年別府鉄道へ。現在兵庫県播磨町の郷土資料館に保存されている。 ’84.1 土山線 別府港駅 P:松本卓彦

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中学生のとき父親に連れられて屋島に行ったときのスナップ。志度行き電車の開け放たれた前面窓に「かぶりつき」で交換する電車に夢中でシャッターを切った。扉は「手動」で暑い夏はすべて開けたまま…まさに古きよき時代。
3000形は1925(大正15)年、高松琴平電気鉄道開業時に導入された1000形とともに導入された車輌で、半室運転台の3扉車。日本車輌において5輌が製造された。1967(昭和42)年から更新改造を施され乗務員扉、貫通扉、戸袋窓などが更新された。写真の345号は335号とともに1983(昭和58)年に主電動機のパワーアップが行なわれた。現在300号がイベント用として保存されている。  ‘693.8.2 高松琴平電鉄 志度線  P:柿浦和敏

小田急デハ1900形

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変遷が極めて複雑なのでこの欄では詳述できないが、 昭和24年、運輸省の規格形電車として登場、当初は2Mc+1Tの3輌編成で登場。自動加速、弱め界磁付きのABF制御の当時としては戦前製のデハ1600形に続く高速性能に優れた電車であった。この電車を基本として、特急用の2000形や1700形等の優れた電車の基本となった。昭和35年頃にはデハ1900形は更新改造を受けて4輌固定編成となり、正面のHゴム化や、側面の窓のアルミサッシへの改造、車内のシートの座り心地の改善なども行なわれた。写真は新宿行き快速準急の始発列車であるが、この列車以外は高性能車による運転であった。それに伍して活躍するデハ1901以下の編成。 '68.12 喜多見─狛江 P:永野晴樹

阪急 100形

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もと新京阪のデイ100と呼ばれた歴史的名車。昭和2年に誕生、大阪の天神橋と京都四条大宮間を超特急は最高速度120km/h、34分で走破! 大山崎付近の並走区間では戦前の特急「燕」を追い抜くなど、京都-大阪間のインター・アーバンの代表的存在であった。初期の車輌は全鋼製で、後には半鋼製車も登場した。バッファー付きの大形幌が特色であったが昭和36年頃から阪急式の一枚幌に改造されて、魅力を失った。とはいえ、駅間の長い京都線では普通であっても110km/hで疾走した。(ATS設置後は105km/h)昭和49年に惜しまれつつも引退。現在116が阪急の技術遺産として、かつての大型幌に復元の上、動態保存されている。 1972.5.2 阪急京都線 正雀-南茨木 P:永野晴樹

EF81 1

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EF81は、交流50Hz/60Hzの周波数に対応し、直流電化区間とあわせ3方式の電化区間を直通運転できる交直両用の電機機関車。直流標準電気機関車のEF65形をベースに、交流から直流に変換する機器を付加した構造で、1968年から製造開始された。制御方式は、当時直流機で一般的な抵抗制御方式で、交流区間では交流20kVを直流1,500Vへ変換し、抵抗器で制御する。1979年までに156輌が製造(1〜152、301〜304)され、日本海縦貫線、常磐線、関門トンネル区間で使用された。JR化後、増大する輸送量に対応させるため再製造(451〜455、501〜503)され、総製造数は164輌となった。汎用性の高さと後継機開発の遅延もあって1992年まで全機が使用されていたが、機関車牽引の旅客列車の減少と、後継機の製造開始により初期車を中心に淘汰が開始されているが、現在でも長距離寝台特急や貨物列車に重用されている。
1号機は、1968年12月21日立製作所水戸工場で製造され、直ちに富山第二機関区へ配属された。民営化後はJR貨物に継承されたが、2004年3月31日廃車された。写真は、座席車が12系化された急行「きたぐに」を牽引する姿。 ’80.9 信越本線 荻川-亀田 P:佐々木裕治

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'54年1月に池袋-御茶ノ水間で開業した丸ノ内線で'56年以降の東京・西銀座(=銀座)までの延伸と共に旅客増による輸送力増強から従来に比較して片側乗務員室化、客室面積を増強するという設計思想から'57〜'63年に500形が234輌が登場。また'62年の全通後中間電動車として900形が'65年8輌、'68年12輌の計18輌が登場。性能は300・400形に、車体は両運の400形からの踏襲で肩部に換気用スリットを切った一段屋根構造でこの片運転台ないしは運転台無のスタイル。500形については〜644までが方向幕左右に種別灯具が配置された前期型、これが廃止された645('60年製)〜の後期型に区分。この種別灯、開業時行先を示す補助灯として、御茶ノ水=御茶=黄(緑)色、池袋=池=水色が点灯したが、路線延伸で意味が為さなくなり早々に点灯を廃止。
余談だが車体のスカーレットメヂアム+白線内正弦波ステンレス模様のベースカラーは、英国煙草ベンソンアンドヘッジェスが起因。後の東西線のラインカラーも起因は煙草のハイライト・ブルーで、当時の営団は煙草に因縁が深く時代性が垣間見られた。
主力として活躍するも後継車輌に冷房化の時代となって、'91〜'96年に掛け引退。
なお、同形の大半がアルゼンチン地下鉄にお輿入れして活躍中。写真は先頭が500形後期型、2輌目が900形。 ’88.5.17 丸ノ内線 御茶ノ水-淡路町 P:梶村昭仁

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本輪西構内から伸びていた中卯埠頭線を行くDD1341[鷲]。1959(昭和34)年5月29日汽車会社で落成。最期は苗穂工の入替機で一生を終えています。この辺りは本線を挟むように引込線が延びていましたが,現在は大きく様変わりしています。 '77.3.8 室蘭本線 本輪西 P:中川富士明

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