鉄道ホビダス

2012年2月アーカイブ

京福電鉄入換機

RF103#0003.jpg

京福電鉄貨物側線で撮影した協三工業製と思われる入換用ディーゼル機関車です。このディーゼル機関車についての資料は見つけることができませんでした。車体のデザインから協三工業製と推定していますが、さて? 写真で見られるように機械室の扉が開けっ放しで、既に使われなくなってから久しいと思います。  京福電鉄 福井口 '73.6.3 P:坂内定比古

キ600形613

120228_kie.jpg

大型のロータリー除雪車。アルコから輸入された601、602をもとに国産化、計14輌製造された。車体の中にあるのはほとんど蒸気機関車で、枕木方向の回転を巨大なかさ歯車でレール方向の回転に変え、ロータリーを駆動する構造。炭水車を含めると重量は80t近く、運転もロータリー操作要員の他に蒸気機関車の機関士と助士を要し、さらに推進機関車も必要で、蒸気機関車が営業線から消えるより一足早く全廃された。 '70.7.23 宗谷本線 稚内 P:小西和之

キハユニ26-19

kihayuni26_770504.jpg

それまでは旅客車からの改造車でまかなってきた荷物・郵便気動車だったが、1958年にキハユニ25形式と共に登場した「新造の郵便荷物合造車」である。運転室・荷物室(荷重3t)・郵便室(荷重2t)・客室(座席数40)の構成で、客室設備・側窓・走り装置は、この時期に製造されていたキハ20-201〜と同様であるが便所はなかった。前期型41輌と後期型28輌に大別され、後期形では客室設備・走り装置がキハ20-501〜に歩調を合わせて改善されたが外観上の差異は少ない。大多数が九州地区と東北地区に配属され、写真撮影の年には全数在籍していたが郵便・小荷物扱いの縮小・廃止により漸次減少し、-19号車は1986年3月に廃車された。残存車輌も1987年の郵便扱い廃止により廃車、消滅した。 '77.5.4 会津線 会津滝の原 P:長谷川武利

サハ111-1015

111_04_tokio.jpg

1000番代の付随車で昭和45年に製造された。撮影当時、国府津区K59編成に組み込まれていた。東海道線東京口で最後まで残った非ユニット窓車、かつロングシート改造車として注目された。E231系の投入に伴い、2005年7月に廃車された。 '04.11.14 東京 P: 菅谷和之

キロ28 188

kiro28_188.jpg

キハ58系のグリーン車。100番代は長大編成編成仕様となっており、長編成を組んだときの電圧・空気圧の低下を防ぎレスポンスを高めるよう改良されている。この車輌を編成に組み込むことにより、最大15輌、23エンジンが制御可能となった。 '80.7 土山-東加古川 P:芝地寛之

都電7500形

120222_7500.jpg.jpg

荒川線を除く都電最後の新車として、昭和37年に20輌登場した。当初は全車が青山営業所に配属されたが、同営業所が廃止となると荒川営業所と柳島営業所に10輌ずつに転属した。柳島営業所に配属となった10輌は大事に使用されたが、昭和47年11月11日下町5系統が廃止となると状態の悪い7517・7519は廃車(一説には同車両同士が車庫内で軽微な接触をし、普通だったら復旧するのだが、廃止を直前となっては代替えの車両と差し替えた)となり、製造後僅か10年で廃車となった(写真は同車)。 '71年頃 柳島車庫 P:田中健吉

ED76 87

120221_ed76 .jpg

東芝府中工場1976(昭和51)年製。新製配置は鹿児島機関区。鹿児島本線を中心に使用され、1986(昭和61)年大分運転所に転属、JR九州に引き継がれ一貫して大分に所属。2006年、廃車となる。  '05.9.13 日豊本線 川南-高鍋 P:橋本正利

東武鉄道 6000系

Tob6000_750311.jpg

1964年から製造を開始した2扉デッキ無しのセミクロスシート仕様車で、扉間はクロスシート、扉より車端部はロングシートとなっていた。Mc(モハ6100)+Tc(クハ6200;トイレ付き)の2両ユニット構成で、写真は浅草方先頭車のモハ6100である。22ユニット44輌が製造され、主として日光線系統の快速列車用として使用された。非冷房のまま終焉を迎え1985年〜1986年にかけて主要機器・台車を再利用して地下乗入規格準拠・冷房付の6050系に更新されて発展的に消滅した。 '75.3.11 東武鉄道 東武日光 P:長谷川武利

クモユニ74001

kie_kimohayu.JPG

1962(昭和37)年頃からモハ72系の台枠、主要機器を流用し製造された郵便荷物車で、線区別、併結相手別に番代分けされていた。写真は東海道線の111系・153系などに併結用の0番代で14輌あり、改造年により多少の差異があった。1986(昭和61)年頃廃車された。 '75年頃 東京 P:田中健吉

別府鉄道6号

1965_08_16_RM.jpg

1921(大正10)年に飯山鉄道2号機として誕生した日本車輌製0-6-0タンク機。1944(昭和19)年に飯山鉄道が国有化された際、西武鉄道に移って2号(2代目)を名乗っていたが、1956(昭和31)年別府鉄道にやってきた。1965(昭和40)年11月にDB201が入線するまでは5号機とともに本線貨物の主力として活躍。1966(昭和41年)6月に倉敷市交通局からDC302が入線し、本線用DLが2輌体制になったのにともない引退、その年の暮に解体された。 '65.8.16 土山 P:小西和之

hiha2_tuchiyama.jpg

1931(昭和6)年、日本車輌製。1964(昭和39)年事故で廃車となったキハ2の二代目として三岐鉄道から購入。1984年の廃止時まで使用された。 '83.10 土山線 土山-中野 P:芝地寛之

水間鉄道 モハ11

kie_120214_mizuma.jpg

水間鉄道モハ11は複雑な経歴をもつ電車。もとは南海電鉄の「タマゴ」と呼ばれる前面半円形の木造車(明治42年製)を昭和24年に譲り受け、モハ111として使っていたが、車体の老朽化が進んだため、昭和31年、阪急63形67の木造車体を譲り受けて載せ替え、モハ11に改番したもの。写真は車体載せ替えから10年も経っていないが水間駅の側線で休車になっていたころで、塗装は阪急時代のマルーンより薄めの赤茶色がさらに色褪せてかなり薄くなっていた。オリジナルの台車はBrill 27 GE 1のはずだが、写真では外吊りモーターは変わらないもののBrill 27 E1と同様の構造のものとなっている。写真ではわからないが車輪はすべて松葉スポークだったので、明治42年のものがずっと使われていたのだろう。 '65.12.25 水間 P:小西和之

EF66 1

kie_120213_ef66.jpg

1968(昭和43)年7月、汽車製造/東洋電機製。東海道・山陽本線の高速貨物列車用に開発された形式。定格出力3900kW。1966年に製造された試作機EF90 1(→EF66 901)に基づいた量産機第1号。下関運転所から広島運転所を経て1984年から吹田機関区に配置。下関(転)時代には、豊橋、沼津、静岡、浜松、岡山などに貸し出された経歴もある。JR貨後も一貫して吹田機関区に所属し、2008年3月廃車となった。現在、JR貨物広島車両所に保存されている。 '87.6.28 東海道本線 東淀川 P:小林秀章

都電3000形

PICT0025 - Ⅱ .JPG

都電の下町5系統が廃止された1972(昭和47)年11月、錦糸町車庫所属の車両の殆どは解体されたが、3000形3185・3215・3240〜3242は長崎電軌へ譲渡された。3185と3215は801・802として使用されたようだが、3240〜3242は改造されることもなく廃車された。写真は錦糸町車庫から浦安まで陸送される途中で、浦安から船便で長崎へ運ばれた。 '72.11.21 江東区北砂一丁目 P:田中健吉

IMH_1027.jpg

1922(大正11)年、高畠鉄道(後の山形交通高畠線)開業時に日本車輌東京支店で製造された、デッキ付き8mのロングシート木造車。1967(昭和42)年「明治百年祭」のために西武鉄道に譲渡され、その後も保谷管理所に保存されていたが、そのうちハフ2のみ大井川鐵道に移り新金谷駅構内に留置されていたが、荒れ果ててしまった。 '71.5.9 西武鉄道 小手指電車区 P:大野 亨

別府鉄道DB201

kie_120208_behu.jpg

1965(昭和40)年、別府鉄道が初めて自社発注したディーゼル機関車。三菱重工三原製作所製でトルクコンバーターを装備していた。自重28t。土山線で1984(昭和59)年の鉄道廃止まで活躍した。牽引されている客車はダブルルーフ・二軸のハフ7(←三岐ハフ16←神中鉄道ハフ24)。 '75.8 別府鉄道 土山線 土山-中野 P:芝地寛之

京成電鉄 3200

kie_111117_.jpg

京成電鉄3200形は、京成初の両開き扉をもつ通勤電車として1964年に登場した。80輌近く製造され、途中の3221以降は京成特有の6M車としされた。これは都営地下鉄の乗り入れ規格が全電動車であるが、メンテナンスでモーターを減らしたい苦肉の策として先頭車の先頭台車を付随台車とし、ユニットで6Mとしたものである、このため先頭台車が電動台車でなくてはいけない京急には入線できなかったが、後の更新の際に直された。赤電の最大勢力として京成の顔として活躍したが2007年に新3000系に後を譲り引退した。 '81.1.3 京成本線 谷津 P:深山剛志

C11 91

C1191.jpg

1936(昭和11)年、日立製作所笠戸工場製。戦前から戦後にかけての配置は不明。1955(昭和30)年、荒尾機関区→1964(昭和39)年、熊本機関区。1971年10月14日鉄道記念日に品川駅からキャンペーン号として客車5輌とともにが「ディスカバー・ジャパン号」として216日間の旅に出発しました。いつの間に「ディスカバー・ジャパン号」の車体表示は「ポンパ号」に変わり、日立製作所のカラーテレビの広告列車として、それぞれの地方の機関車に牽引され全国を行脚しました。国鉄初の広告列車だった。 '70.10.14 P:大野 亨

都電7000形1次車

1202037010.JPG

1953(昭和28)年、後ろ扉を中央に、窓は大きく台車はD18で乗り心地のよい新しいスタイルで登場した。7000形は総勢93輌あり、写真は7001〜7030の1次車で、7020は特殊車、7021〜7030までは改造車であった。7001〜7019までは新造車グループで、正面2枚窓、直接制御式で登場したが、KR8形直接制御器が大きく正面2枚窓では中央柱が支障することから、昭和40年代に入ってから3枚窓に改造された。このグループは最終的に錦糸町車庫(境川車庫は錦糸町車庫の出張所扱い)と柳島車庫に転属され、1972(昭和47)年の下町5系統と共に廃車された。なお、境川車庫は数ある都電の車庫の中、唯一トラバーサーのない車庫で、すべてポイントで車輌を入換えた。 '71年頃 境川車庫 P:田中健吉

名古屋鉄道 モ600

kie_111117_meitetu.jpg

名鉄が軌道線車輌工場を各務原線沿いの市ノ坪に移転したことにともない、美濃町線から出入庫線(田神線となった)を経由して新岐阜に直通することができるようになり、この乗り入れのために1970年に6輌製造された複電圧車。台車は旧車から流用したイコライザ式のものだが、新造の狭幅車体には2 + 1列の転換クロスシートを装備していた。各務原線乗り入れ距離はわずかなため、1500V区間では抵抗を直列に挿入して600Vに落とすという単純な制御方式を採用したのが大きな特徴だったが、このための大容量抵抗は屋根上に搭載するしかなかったことから冷房化できず、2000年にモ800型が投入されたことにより予備車の606を除き廃車、その606も2005年の600V線全廃時に廃車された。601は旧美濃駅で保存されている。 '92.6.19 新岐阜 P:小西和之

C58 33

img150.jpg

1938(昭和13)年川崎重工兵庫工場製。大阪局管内を振り出しに九州・四国を経て1967(昭和42)年北海道に渡る。釧路機関区時代、C58 385に装備されていた後藤工場式切取り除煙板を1971(昭和46)年譲り受けJNR マークが付けられた。晩年は北見機関区に所属、道東のスター的存在となった。現在は清里町「羽衣児童公園」に保存されている。 '73.3 北見機関区 P:吉葉富雄

2012年2月   

      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29      

月別 アーカイブ