鉄道ホビダス

2009年10月アーカイブ

EF70 11

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1962(昭和37)年、北陸本線の電化の際に投入された交流電気機関車。11.5‰の連続する北陸トンネル内で1000t牽引を実施するためにF級とした。福井以南をこのEF70が受け持ち、平坦区間の多い福井以北をED74が受け持つ計画だったが、結局は全区間EF70に統一され、EF74の製造は6輌にとどまった。EF70は1961(昭和36)年〜1965(昭和40)年までに81輌が製造され1次型(1〜21)、2次型(22〜81)に分かれ、外観・性能ともに異なる。写真の11号機は1962(昭和37)年3月、日立製、1986(昭和61)年3月に廃車となっている。 '65.3.29 田村 P:柿浦和敏

秩父鉄道500形

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1962(昭和37)年、従来からあったセミクロスシートの300系に比べ、ローカル用として新性能車ながら2扉ロングシートの500系が誕生した。平成の時代に入り、元国鉄の101系中古車(秩父鉄道1000系)や元東急のオールステンレスカーの7000系(秩父鉄道2000系)などの入線に伴い1991年頃に引退した。現在では秩父鉄道も東急の中古車、8500系を導入しているが昭和30年代の地方私鉄は秩父鉄道のみならず、自前の新車を登場させたものであった。 '87.4 長瀞 P:永野晴樹

小田急電鉄 キハ5000形

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小田急の優等列車用気動車。国鉄御殿場線への乗り入れのため、1955(昭和30)年に東急車輛で2輌製造された。写真は新宿発御殿場行き2703D 準急「朝霧」。懐かしい腕木式信号機は「本線場内進行」及び「通過」を現示。 '64.11.8 御殿場線 山北 P:青木一郎

キハ04 100番代

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キハ04のグループは、エンジンがDMF13のキハ04、DA55のキハ05、DA58のキハ06の3形式があった。キハ04 100番代はキハ06のエンジンをDMF13に換装したもので、1957(昭和32)年から10輌が改造された。写真のキハ04 104は宇品線で使用され、キハ04 100番代の最後の車輌として1967(昭和42)年に廃車となった。 '64.7.29 広島 P:青木一郎

クモハ103-116

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国鉄通勤車の代名詞的存在の同車。この制御電動車。前照灯のシールドビーム二灯化や側開扉が国鉄時代の特別保全工事施工の絡みからSUSガラス押えに替っていたもののこの当時、ほぼ原型を保っていた。同車は、'67年東急製、京浜東北線用として蒲田区へ新製配置。国鉄時代は浦和、中原と異動後に、'88年2月、松戸区へ転出。常磐快速線の基本編成へ組まれていた。しかし長続きせずに、再度、中原区へ出戻り、晩年まで鶴見線用として活躍。冷改(AU712)や車体更新、前面補強工事等により晩年は原型から替ったスタイルとなった。'05年5月廃車。 '88.3.4 上野 P:梶村昭仁

ヨ2000(ヨ2032)

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初鋼製の車掌車で、改造ではなく当初より車掌車として製造されたのもこの車輌が初めて。1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて計100輌が製造されている。のちに発電機、蓄電池、ストーブを設置、2段リンク化されて生き延び1985(昭和60)年まで活躍した。 '80.10.1 立川 P:佐伯裕二

別府鉄道 5号

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1925(大正14)年、日立製造所製のCタンク当初は成田鉄道2号。その後、北丹鉄道に移り3号となる。1950(昭和25)年、輸送力増強のため別府鉄道が北丹鉄道より購入、5号となる。土山線で活躍し、1967(昭和42)年に廃車された。写真は逆向きでミキストを牽引し、のんびりと土山に向かう姿。2軸・ダブルルーフのハフがしんがりを務めている。  '65.10.5 土山 P:柿浦和敏

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阪神西大阪線の延伸計画により安治川口付近の勾配のため、勾配抑速ブレーキを装備し、1974年〜1977年に製造された3801・3901形を1986年に改造した車輌。改造後は当時の最新形式である8000系と同様に3輌固定編成2本を組み合わせた6輌固定編成1本とされた。晩年は直通特急運用対応改造がなされず、阪神線区内で完結する運用に用いられていた。2009年2月に阪神なんば線の開業を待たず、廃車され、尼崎工場で解体された。 '04.8.16 尼崎 P:角中武大

クハ111-1329

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113系電車の制御付随車。また総武線増設線計画に東京駅付近の地下線化計画があったことから、旧運輸省令に基づくA-A基準適合車として、-1000代と番代区分された車両。当時は単純に地下区間走行に対応する設備車両という考え方から、外観は前年度まで新製の一般型(-0代)と同様。冷房装置も無く(JR化後にAU712で冷改)、押込み式通風器が屋上に並び、内嵌め式の二段上昇ユニットサッシ、前照灯が白熱式250Wタイプ等そのまま。-1329は、'70年2月に'69年度第二次本予算により、汽車会社で新製、大船区に配置され、横須賀線等で活躍。'76年以降幕張、津田沼区と変遷し、'05年に幕張区配属で廃車になるまで房総各線ローカルで活躍。 ’88.5.20 総武本線 千葉 P:梶村昭仁

江若鉄道1118

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1900(明治33)年英国ダブス社製の2Cテンダー機で、旧番は6275。1928(昭和3)年に鷹取工場でタンク機に改造、1118となる。鳥取に配置されていたが1937(昭和12)年廃車、江若鉄道に譲渡され、1962年まで活躍した。  '63.4 三井寺下 P:柿浦和敏

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1928(昭和3)年に開業した奈良電気鉄道(現・近鉄京都線)は主力車輌として17m級のデハボ1000形を24輌所有していたが、1940(昭和15)年、その増結用として登場したのが、奈良電気鉄道初の制御車クハボ600形である。パンタグラフを装備しており、一見、電動車の趣。後ろはデハボ1200形(1201)である。写真は京都行き急行。1963(昭和38)年10月に奈良電鉄は合併により近鉄京都線となり車輌も引き継がれた。 '68.9 近鉄奈良線 西大寺 P:柿浦和敏

遠州鉄道 モハ29+クハ79

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遠州鉄道の主力形式であった30系。このうち、'68年製造のこの編成は、前年製造のモハ30+クハ80同様、側引扉に1,400mm幅両開扉を採用。性能は吊掛式で他車と共通ながら、同車は旧モハ15形と旧クハ61形からの走行機器流用車のセミ新車。当初はモハがKS33形、クハはTR11と、新製車体に不釣り合いな足回りであったが、'79年に日車製のND306A(前年新製のモハ25、クハ85と同形)エアサス台車と交換。外観や乗心地の面での見た目は向上した。また、'87年冷房改造が行われた。性能は基本的に他30系と同様ながら、機器流用車故、電気制動未装備車であった。1000系車輌の増備により'99年5月廃車。 '87.8.20 西鹿島線 遠州上島─遠州曳馬 P:梶村昭仁

大阪市電 散水車25号

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1925(大正14)年製で、散水車としては最後期のもの。道路が未舗装の時代に水を撒いて砂埃を抑えた。1938(昭和13)年頃まで使用され、戦時中客車に改造する計画だったが、資材不足で沙汰止みになった。大阪市電博物館に保存されている。 '68.2.18 港車庫 P:柿浦和敏

近畿日本鉄道ク6511形

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現在の近鉄吉野線である吉野鉄道のクハ301形がルーツで、1929(昭和4)年に川崎車輌で製造された。吉野鉄道初の鋼製車輌で、一段下降窓を備えた片側2扉ロングシートの車輌だった。1938(昭和13)年に現在の名古屋線に移動したが、戦後再び南大阪線に戻り、1970年代まで活躍した。'66.5.2 南大阪線 矢田-河内天美 P:柿浦和敏

近畿日本鉄道1000形

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1929(昭和4)年、当時の大阪電気軌道(大軌)が製造した19m3扉車デボ1000形は、33‰の山越えがあるため200馬力級の電動機を搭載した高性能電車である。計8輌が製造された。同形式は電動機がウェスチングハウスだったのに対してほぼ同時に製造された同系列のデボ1100(2輌)は国産の電動機だった。 '63.9.22 大阪線 高安 P:柿浦和敏

キハ35形500番代

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'62〜'66年にかけ、新潟地区の非電化区間における通期輸送改善を目的に、増備中の一般型に加え、耐寒耐雪設備(床下スノープラウ・前面窓に熱線式デフロスタ等)を装備して31輌が登場。車内・外観上で一般型との差異はないが、屋上通風器形状が、煙突型(グローブ型)から箱型の押込み式に変更となった点。主に、越後・弥彦線系統で使用されるも、'84年に各線が電化の上、115系電車と置換わり、一部が余剰・老朽廃車となったほかは、首都圏の一般型が活躍する各線区へ転配となり、これらとの混運用となった。JR化後も継続使用されるも、その後の各線の事情(電化等)に加え、車輌の老朽化も相まって置換えが始まり、'97年までに全廃、番代消滅となった。写真の-522は'66年の富士重製。'84年に木更津区へ転配、'88年に高崎区へ。'96年の八高南線電化及キハ110系列車輌への置換えまで活躍。 '89.8.1 高麗川 P:梶村昭仁

近鉄400系(モ409+ク309)

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奈良電時代はデハボ1300形(302+301)。近鉄に編入後、奈良・京都線の1500V昇圧前はモ455+ク355を名乗っていたが、1969年昇圧時に他の小形車とともに400系に編入、モ409+ク309に改番された。生駒・田原本線で最後まで活躍し1987年に引退した。 '74年頃 近鉄奈良線 富雄 P:安東大介

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'69年から登場の101系電車。このうち、'72年から登場の四次車に相当する編成9本のうち、171F〜181Fの6編成(24輌)について、同社初の通勤冷房車輌として新製。基本的には今後の新製及び改造にあたっての試作的要素が大きく、集電装置(屋根上2基)搭載車両にはCU72形(42,000kcal)1基、その他に集約分散方式CU16形(8,500kcal)を5基搭載した。車室内は試作ということもあり後の量産車と異なり、天井風導の張出、扇風機を併用するなどの特徴があった。'87〜'88年に掛けて2編成が量産冷房車と同じ全車CU72形改造(175・177F)、残る4編成は未改造のまま、4000系車輛の種車となり、この試作冷房車は消滅した。  '88.11.8 西武池袋線 東久留米-清瀬 P:梶村昭仁

能勢電気軌道 20形

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1925(大正14)年、新京阪電鉄開業に合わせ最初の電車として製造された10系は、「P-4」「P-5」として親しまれたが、正式には1929(昭和4)年より、鉄道省からの指示で電動車10形はデロ10、制御車50形はフロ50という形式となっている。新京阪の1500V昇圧の際にポールからパンタグラフに換装。10形20輌、50形6輌の計26輌のうち、1957(昭和32)年と1961(昭和36)年に計14輌が能勢電気軌道に譲渡または貸与され、20形となり再びポールの姿に戻った。のちにパンタに再換装、1967年まで活躍した。 1962.11.11 能勢電気鉄道 多田 P:柿浦和敏

クハ 76 311

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70系の制御車で1951〜58年にかけて合計106輌が製造。1957〜58年製の16輌は全金属製となり300番代(300〜315)が付番された。阪和線特有の「直行」の看板をつけたまま1輌ぽつんと留め置かれていた。車体下部の塗色はグリーン系の「阪和線色」だった。 '65.4.11 和泉府中 P:柿浦和敏

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