鉄道ホビダス

2006年1月アーカイブ

D51 1160

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1944(昭和19)年、川崎車輌製。ご存じのようにD51は国鉄最多輌数を誇る形式だが、955から1000までが欠番のため、総数は1115輌だが、ラストナンバーは1161番となる。1161号機は'67年に廃車となっているので、それ以降は1160号機が「ラス前」として番号ファンの注目を集めた。 '73..3.29 苫小牧 P:山下修司

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ED76 505

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北海道の小樽-旭川間の電化用に作られたのが500番代だが、九州のED 76 がED75と同じ磁気増幅器を用いた位相制御方式であるのに対して、こちらはサイリスタ位相制御としたものでS形と呼ばれる。重連仕様のため貫通扉を備え、寒冷地のための大型SGを搭載して全長が長くなり、パンタグラフも空気上昇式のPS102Aとなるなど、九州型とは形態・構造共に大きく異なる。旅客列車の電車化、貨物列車の削減で活躍の場を失い、三菱で'68年に誕生した505号も '87年に廃車された。 '76.2,16 小樽 P:青柳 明

C62 16

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1948(昭和23)年、日立製作所製。D52 127のボイラーを使用。名古屋機関区配属時代には〈つばめ〉〈はと〉を、梅小路機関区配属時代には〈かもめ〉を牽引、華々しい活躍をした。'58年下関機関区に転じ、山陽本線をブルートレインをはじめとする優等列車を牽引し山陽路を疾駆。'64年、山陽本線電化を機に広島機関区に転属、翌'65年糸崎に転じる。あらたな活躍の場、呉線でも〈安芸〉〈音戸〉などを牽引、常磐線からやってきた軸重軽減されたC62に比べ空転が少ないと、東海道・山陽生え抜きの15、16、17、41は乗務員からも信頼された。'70年9月の呉線電化開業でもはや命運は尽きたかと思われたが、軸重軽減ののち僚機15とともに津軽海峡を渡ってはるばる小樽築港機関区に転属。今度は風雪の峠に重連で挑むことになる。山陽型のC62は砂撒き管がボイラーケーシングの外に出ているのが特徴で、そのスタイルのまま耐寒装備が施された。小樽築港機関区配属に際し、同機入れ替わりに廃車となる32号機のテンダーを譲りうけている。急行〈ニセコ〉のDL化により、'71年11月、廃車、その花の生涯を閉じた。 '70.1.2 広島 P:笹本健次

小田急 デハ2304

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1955(昭和30)年に特急用として4輌固定1編成が登場した。走行装置は前年に登場した2200系と同じ1C8M制御の全電動車方式、カルダン駆動、HSCブレーキなどの新技術を踏襲し、湘南型の前面で転換クロスシートを備えていた。SE車の増備に伴い’59年には両開き2扉化、セミクロスシート化などの改造を受けて、特急運用からは離脱した。’63年には3扉化、ロングシート化のうえ、中間車に運転台を設けて2連化、さらに貫通型の前面にされるなど完全な通勤車となった。晩年は多摩線中心に使われたが、82年に廃車となった。 ‘77.10.16 経堂検車区 P:青柳 明

C12 287

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1947(昭和22)年日本車輌製。後藤寺機関区、鹿児島機関区を経て1970年(昭和45年)南延岡機関区配属。日ノ影線の貨物列車を中心に活躍。撮影時は鹿児島機関区に貸し出しされていたらしく、指宿枕崎線の貨物列車を牽引していた。現在は千葉県君津市に静態保存されている。 '72.1.1 鹿児島機関区 P:山下修司

D50 90

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門デフ装備のD50として人気があった。撮影時は柳ヶ浦機関区に所属、日豊本線で活躍していたが、後に若松区に転属、140号機、205号機とともに筑豊本線で余生を送り、D50の中では最長寿。1925(大正15)年川崎製。9989から改番。'71年3月廃車。 '67頃 柳ヶ浦 P:笹本健次

羽後交通 DC2

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1959年に登場した協三工業製のL型3軸ディーゼル機関車で、ボンネットは下り方を向き、僚機のDC1とは逆向きである。エンジンはDMH17S、定格出力は250psで変速機は液体式である。冬季には運転台側妻面に写真のように、窓から下をすべて覆う大型のフランジャーを取り付けて、スノープラウ以上の排雪効果をあげ、定時運行に効果を発揮していた。横荘線廃止後は雄勝線に移り、その廃止後はさらに南部縦貫鉄道に流れてDC25 1と改番され、南縦廃止後も解体されずに車庫で保管されている。 ‘68.1.3 横手機関区 P:青柳 明

D61 1

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D51形の従台車を2軸に改造した形式で、規格の低い丙線にも対応させるため。1959(昭和34)年から1961(昭和36)年に国鉄浜松工場、郡山工場で6輌が生まれた。わが国最後の蒸気機関車の形式。2〜6号機は製造当初より密閉式キャブ。この1号機のみ開放型だった。留萌本線、羽幌線で活躍したが、D51との共通運用で、存在意義は希薄だった。 '67
年頃 留萌 P:笹本健次

DD14 1

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DD13を元に新製されたロータリー式除雪機関車で、1961〜1965(昭和36〜40)年に汽車会社で8輌が作られた。前端に運転のある特異な姿となっており、冬季はロータリー式除雪ヘッドが取り付けられる。冬季以外は除雪ヘッドを外し入換に活躍した。エンジンはDMF31SB-Rを2基搭載しており、積雪量が少ないときはエンジン1基を除雪用に、もう1基を走行用に使用。積雪量が多いときは2基とも除雪用に使用し、後押しの補機を連結する。1987年2月廃車。 '67年頃 旭川 P:笹本健次

76916

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倶知安機関区所属の9600は胆振線内での落石による前照灯破損を考慮し、左右のデフのステーに前照灯を載せた二つ目スタイル。79616は僚機79613、79615、79618とともにそんな特異な姿で、ファンの注目を浴びた。岩内線の運用は函館本線の倶知安峠を越えるため、C62重連急行〈ニセコ〉を撮影するファンにも馴染みだった。後に追分機関区に転属、入換に従事する。1923(大正13)年、川崎造船製。正式な廃車年月日は1976(昭和51)年3月1日で、'76年まで生き延びた数少ない蒸機の一台。現在は日高町に静態保存されている。 '72.5 胆振線 P:笹本健次

C57 196

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1947(昭和22)年三菱重工製。C57四次型唯一の門デフ装備機。同機のデフは改造に際してもとのデフを利用したタイプのもので、前方の斜めの欠きとりも元のデフのまま。宮崎配属時には前照灯がLP42となっており、その点でも人気があった。他の九州配属のC57四次型同様、キャブの扉は撤去されている。コンプレッサー、給水ポンプを避けるためのランボードの凸型部も後に撤去された。 1974年6月廃車。 '67年頃 柳ヶ浦 P:笹本健次

DD11 7

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動力伝達装置に液体式を初めて使用し、エンジンは気動車と同じDMH17を採用したディーゼル機関車であるDD11の2次車だが、こちらは入れ替え専用の設計に改められたもの。冷却関係も1次車とは違うため、全長や台車間距離が長くなり、それと共にボンネット前部やフロントビーム廻りのデザインも変更されている。7号機は九州の竹下気動車区に配置され、火気を嫌うガソリンタンクなどの入れ替えに従事した。その後、早岐区に転じ’74年に廃車されている。 ’69.3.30 竹下気動車区 P:青柳 明

C55 38

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北海道に配属された流線形改造機の中では最後まで残った30号機が有名だが、他には25号機、31号機、32号機、36号機、そしてこの38号機も。'65年の配置表によると室蘭機関区配置のC55は5輌で1号機を除く4輌(30、31、32、38)が流改。25号機、36号機は苗穂機関区の配置だったが後に室蘭区に転属となる。末期の室蘭本線の旅客は岩見沢区の受け持ちだったが、'69年ごろまでは室蘭区の受け持ちで、C55が活躍していた。38号機は'68年3月に廃車となっている。 '67年頃 岩見沢 P:笹本健次

D51 1025

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1972(昭和47)年当時、山口線管理所には8輌のD51が配置されており、4往復半の貨物列車と1往復の旅客列車を牽引していた。旅客列車は益田発5:44の522レと小郡発15:32の521レで、この写真は小郡で発車を待つ522レである。1025機は山口線管理所では唯一の戦時型だが、ドームは標準型のものに置き換えられている。同管理所では鷹取式集煙装置が主流の当時の中国地方にあって、唯一長野式で統一されていた。 '72.4.29 小郡 P:山下修司

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1889(明治22)年、ドイツ、クラウス社製。1889年、九州鉄道が開業時に輸入。1907(明治30)年、同鉄道の国有化に際し、10形15号となる。1925(大正15)年、除籍後、東横電鉄を経て1931(昭和6)年、北海道に渡り明治鉱業昭和鉱業所で1967(昭和42)まで活躍。昭和鉱業所が閉山となり沼田町に寄贈された。現在は沼田町農業記念館に静態保存されている。 '67年頃 昭和 P:笹本健次

C55 52

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1937(昭和12)年、汽車会社製。1939(昭和14)年より九州に。鳥栖区を経て大分区に配属。大分時代に門デフに改造、ロングラン運用のためD51のテンダーと振り替えられた。このタイプの門デフは同機独特のもの。その後、宮崎区を経て若松区に移動し筑豊線で活躍し、1972(昭和47)年3月、僚機号機と共に吉松区に移った。転属後まもなくデフの一部が切り取られた。1974(昭和49)年、宮崎電化後は鹿児島区に転属、1975(昭和50)年まで生き延びた。 '73.1.1 鹿児島機関区 P:山下修司

C56 108

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1937(昭和12)年三菱重工製。撮影時は木次線管理所所属。1番違いの僚機107とともに木次線で活躍していた。木次線は中国山地越えの急勾配が続き、出雲坂根の三段スイッチバックは有名だ。運用は備後落合までの1往復で短編成の貨物列車を牽いて30‰を超える急勾配に挑んでいた。1971年10月、貨物列車が廃止となり浜田機関区に転属、三江北線の貨物列車や入換に従事した。’72年8月に山陰本線で運転された4重連の3番めの機を務めている。’74年7月廃車。 ’71.5.23 備後落合 P:山下修司

D51 758

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1971年昭和46)年、島根県植樹祭に際して米子〜岡山間で運転されたお召列車の予備機。本務機838号機とともにデフに大きな鳳凰のレリーフを取り付けられた。838号機には鳳凰の立ち姿、この758機には大きく羽を広げた姿のもの。運転に先立って一般公開され、新見機関区に集まったファンたちは妍を競う2輌の晴れ姿に見とれた。1972(昭和47)年10月に運転された鉄道100年記念列車は、838号機は廃車、静態保存されてしまったため、この758機が重連の先頭に立った。次位は774号機。運転は岡山〜新見間往復で758号機は往路のみで、帰路は774号機の単機牽引。この写真は新見機関区で行なわれた撮影会の際のもの。 '72.10.12 P:山下修司

EF18 34

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箱型のボディに細くて長いデッキというスタイルで登場したEF58のうち、32〜34に相当する機関車を貨物用に振り向けたためにできた形式だ。そのため3輌しか登場せず、番号もEF58の続きとなる32〜34となっているのが特徴。歯車比がEF15と同じなので性能的にも変わらない。箱型ボディのEF58が流線型に換装されたので、旧EF58の面影を残す貴重な存在だった。浜松機関区に所属し、静岡地区で働いたが'79年に廃車された。'77.1.23 島田 P:青柳 明

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