鉄道ホビダス

2012年3月アーカイブ

作業用長尺台車802

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帝國車輛工業の分岐器工場で使われていた作業用長尺台車802。この頃の帝國車輛工業は電車やディーゼルカーと並んで分岐器も主力商品でした。レールを加工する工場で使われていたチキと同じ構造のとても長いフラットカーです。流石にレールをたくさん積み込むためでしょうか、頑丈そうな魚腹形台枠が見えます。 '66.5.7 帝國車輛工業分岐器工場 P:坂内定比古

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EF65 1056

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昭和50年度第3次債務として製造された。この1056よりPS22B下枠交差型パンタグラフの採用やナンバープレートの取り付けをブロック式に変えたのが大きな変更点である。 '08.12.8 蘇我 P:菅谷和之

MR-100形 MR-200形

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1988年4月に第三セクターの松浦鉄道 西九州線が開業する際に、新潟鉄工所(現・新潟トランシス)により前面貫通形のMR-100形が11両、前面非貫通形のMR-200形は5輌が製造された。両形式とも16m級のセミクロスシート車で基本構造は同一である。開業以来、有田-佐世保間の全線で運用されてきたが、製造から長期間が経過し老朽化が進んだことから新形式のMR-600形に順次置き換えられ、MR-200形は2007年中に運用が終了。MR-100形についても111、125、126の3両が2012年3月25日にラストラン・イベントを行い運用が終了した。 '89年 松浦鉄道西九州線 たびら平戸口 P:田井 直

LO-201

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モデル線区の鴨宮車輌基地で砂利散布用ホッパー貨車等の入換に使用されていた標準軌の国鉄浜松工場製貨車移動機LO-201です。当時はまだ高校1年生だったので、製造銘板を見てメモを取らなかったのは残念です。 '63.4 モデル線鴨宮基地 P:坂内定比古

阪神電鉄国道線 12

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開業に際し、1927年に1 - 30の一挙30輌が10ずつ3社で製造された路面電車で、この12は田中車輌製。路面電車ながら車体にはステップがなく、ドアに連動する折りたたみステップをもっていて、この方式は後の71形等の「金魚鉢」まで受け継がれた。ごく初期の鋼製車なので窓枠の上部にRがつけてある等、木造車のプラクティスを残している。30kW x 2と非力で高速・長時間運用の多い国道線では力不足だったため、晩年は北大阪線が主な活躍の場だった。軌道線の輸送減にともない徐々に廃車が進み、この12は1967年廃車、1形は1974年に形式消滅した。 '64.7 中津 P:小西和之

D52 202

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1944(昭和19)年12月、川崎重工兵庫工場製。東海道・山陽本線で活躍していたが、姫路電化を機に北海道に渡る。五稜郭機関区に配置され函館本線・室蘭本線の貨物列車を中心に使用された。最後まで残ったD52である。運用離脱後、展示のために門司に移動し、1975(昭和50)年10月、そのまま門司で廃車となり、小倉工場で解体された。 '73.3 五稜郭機関区 P:吉葉富雄

帝国車輛 DB1

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当時私が所属していた鉄道友の会関西支部が主催した帝国車輛見学会で撮影したものです。10tぐらいの大きさでしょうか、サイドロッド駆動と床下前端にぶら下がっているエアタンクがチャーム・ポイントです。さすがに車輛メーカー、既製品ではなくて自家製オリジナルデザイン、1956年に作られたものです。塗装は残念、錆止め塗料の(ような?)ベンガラ色に白帯(元白帯?)でした。  '66.5.7 帝国車輛工場構内 P:坂内定比古

秩父鉄道 800形

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戦後間もなく小田急に割り当てられた国鉄63形がルーツで、小田急では1800形となった車輌である。50年代末の大幅な更新工事により近代的な外観になった他、台車も枕バネを板バネからコイルバネに交換するなどの改造を受けた。1979年に秩父鉄道に譲渡され、秩父では1000位の数字を取って800形とした。2輌編成10本が活躍したが、国鉄でも63形を置き換えた101系の導入により廃車。秩父での活躍はほぼ10年と短かった。 '81.11.14 秩父 P:小西和之

C11 206

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1941(昭和16)年12月、日立製作所笠戸工場製。戦中の配置は不明。終戦直後から静内機関区に配置され、晩年は苫小牧に転属し1974(昭和49)年3月廃車となっている。主に日高本線を富内線で活躍し、二ツ目、複線用スノープラウという苫小牧機関区所属機の標準的仕様となっている。 '73.3 静内 P:吉葉富雄

オル32 1

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昭和6年製のスハ32系客車初期型(二重屋根)のスハニ31 71を改造(1963年)して誕生した配給車。合計6輌あったオル32形は5輌が便所を残した100番代で、便所撤去の0番代はこの1輌のみ。形式は配給車だが、貨物列車に連結して道内各地をまわる移動販売車として使われていたようで、荷物ドア部には客のために手すりとステップを設置、側面には大きな運用表を掲出していた。1981年廃車。 '70.7.22 室蘭本線 洞爺 P:小西和之

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'70年登場の電機子チョッパ制御車7000系と同年登場の抵抗制御車7800系のうち、7840番以降の共に阪神初の量産冷房車として製造された車輌を'90〜'92年の掛け、車輌更新を兼ね、6輌固定を一単位とした編成に組替、併せて制御装置を界磁添加励磁制御化(三菱製ABFM・制動機構HSC-R)し、抑速制動に加え、回生制動化した形式で6輌編成8本、48輌が改造された。急行系列車で使用されていたが、'95年の阪神淡路大震災で12輌が廃車後、他の急行系車輌と共に活躍も、近鉄との相互乗り入れに伴う新形式と順次交代、最後まで残った編成が'11年9月に運用離脱、引退となった。 '05.10.9 阪神本線 阪神甲子園-鳴尾 P:梶村昭仁

C58 410

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C58は1938(昭和13)年から1947(昭和22)年まで製造され、383号機以降が戦後製造となる。410号機は1947(昭和22)年汽車製造大阪工場製。新製配置は苗穂で1955(昭和30)年に釧路に転属し、それ以後は一貫して同区に所属、根室本線、釧網本線の貨客列車を中心に活躍。1974(昭和49)年9月に廃車となった。 '73.8.12 釧網本線 網走 P:中川 稔

オロネ25 6

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'76〜'78年に掛けて12輌が、24系25形寝台客車の特別寝台車輌(A寝台)用として製造された。このオロネ25形の基幹形式である0番代車輌で、A個室寝台(ルーメット)用としては、20系オロネ20形以来の登場であった。寝台は枕木方向に配置され定員は14名。車輌の1-3位側に通路部、2-4位側が寝台区画となっており、寝台側窓は774×865㎜の小窓がずらりと並ぶスタイルで通路側は一般車と同様の大窓(1180×890㎜)であった。当時、久方振りの個室寝台車でもあり内装のデコラ等には木目プリント模様を奢る等それらしい設備であったが、一部の人にして「独房」と仇名されたされたことも。写真の-6は「はやぶさ」「富士」等の使用により'76年9月に品川区へ新製配置。以後、東海道〜九州間のブルトレ列車に充当。民営化後はJR九州の熊本区へ転配となり引続き使用されるも、ブルトレ統廃合の中、'05年に「はやぶさ」と併合運転の関係から、14系15形化改造され、オロネ15形3000代(-3006)となり、形式変更となり、オロネ25 6としては、消滅した。 '88.2.4 東京 P:梶村昭仁

デキ451

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昭和4年日本車輌製40t機、元は田口鉄道デキ53で、前面中央窓と前照灯を除けばほぼ原形で、写真の時点では第2休止状態で、同じ田口鉄道から来たモ1713も同じ線路上に留置してあった。番号は鳳来寺鉄道、豊川鉄道からの続番になっていて、鳳来寺鉄道デキ50は山形交通ED28 1となりリナワールドで保存、デキ51は遠州鉄道ED28 2となり現存、デキ52は岳南鉄道ED29 1となっているが休車、デキ54は伊豆急ED301を経て東急車輌の入換機となった。 豊橋 P:田中健吉

東武鉄道 1800系

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'69年に伊勢崎線急行「りょうもう」号用として2M2Tの4輌編成6本でデビュー。ローズレッドに窓下太白帯と窓上細白帯の端正な車体色を採用。性能は増備途上の8000系と同様VMC制御、制動装置は発電制動なしのHSCも同様であった。一車に1扉(モハ1830形のみ2扉)、広窓を配置し整ったスタイルであった。前面は非貫通で窓下に横長愛称表示板、その両側に前部・後部丸型標識灯を横並びに配置、前面窓は当初、桟付のパノラマウインドウを採用していたが、後に増備の1819Fと同様、桟なしパノラマウインドウに改造された。'73年に2編成が増備、さらに79年からは旅客増から中間増結車(MT)が組込まれ、3M3Tの6輌編成となる。空調装置は当時の旧国鉄特急車が乗せて居た通称:キノコ形を小型化した様なスタイルのTAC11T2形(4500kcl/h)を6台、先頭車のみ小型(2250kcl/h)のものを載せていた。'87年に現在も残る1819Fが増備され好調裡に運用されるも、200系の新製、増備により急行「りょうもう」号運用から徐々に引退。'69、'73年製造の云わばオリジナルスタイルの8編成は、急行運用から'99年にまでに撤退、一部が'91〜'92年に、300・350系(24輌)化、残る編成が一般車格下げ(12輌)化され、それ以外の余剰車を含め、'07年までに廃車となった。 '89.3.9 東武鉄道 伊勢崎線 東武動物公園-姫宮 P:梶村昭仁

京阪電鉄 石坂線 30形

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1926年製の京津線用路面電車だったが、後にステップを切って高床車となり、京津線では路面区間に停車しない急行専用車として黄色とオレンジ色で活躍した。しかし車体が小型で収容力がないことから晩年は色も濃淡グリーンに変更され、2輌固定編成で石坂線専用となっていた。 '62.3.11 
近江神宮 P:小西和之

小田急5200形

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5200形は78年に5000形の一部設計を変更して登場。主な変更点は5000形は4輌編成で二段式窓なのに対し5200形は6輌編成(一部は後に4両編成化)で一段式窓となっている。全盛期には6両編成20本が在籍していたが、06年からは3000形や4000形への置き換えが始まり廃車が発生し、5255F、5256F、5258Fが4輌編成化された。6輌編成は10年1月30日に引退し、残された4輌編成についても11年1月8日で引退している。 '12.1.7 町田 P:崎山喜一朗

EF58 124

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1957年東芝府中工場製。浜松機関区に新製配置、1958年より一貫して東京機関区の所属(尾久、宇都宮、新鶴見などに貸し出しあり)し、東海道を中心に活躍。晩年は年間通してスーノープラウを装着していた。1984年2月、廃車。 '78年頃 東京 P:村松 裕

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1988年、日米友好親善活動の一環として1年間運転されたイベント用車輌。種車にはオハ50形10輌とオハフ50形2輌が選ばれた。形式はオハ50形がオニ50形、オハフ50形がオニフ50形と変更され、製造番号はそのままであった。  '88年 東海道本線 大阪-新大阪 P:泉谷 純

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