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私鉄・機関車の最近の記事

小田急電鉄 ED1041

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1951(昭和26)年中日本重工製造。形式はデキ1040ですがナンバープレートはED1041の水色です。デキ、EDの関係は?です。窓枠デッキ手すりは金色で、塗装に合って力強く感じた。故障で長く海老名検車区に留め置かれたが、1996(平成8)年廃車。 '65.9.30 小田急電鉄 小田原線 相武台前 P:髙澤一昭

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1937年8月日立製作所で製造された9600形式(製造番号876)で自社発注機。炭水車はC56のようにバック運転時視界を容易に確保できるよう両側を大きく切り欠いた5-10形を装備していた。僚機9600形No.4(1941年1月日立製作所:製造番号1300))も同様な形態をしていた。1973年大夕張炭山の閉山に伴い南大夕張〜大夕張炭山間が廃止され、さらにDL3輌が導入されたため、9600形No.2〜No.8の7輌全機が翌年までに廃車された。No.3号機は野幌にある個人宅に保存された。 '74.5.3 野幌 P:佐々木裕治

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1941年(昭和16年)7月川崎車輛(製造番号2530)で製造された自社発注機。軸配置1D、重量55.75t、全長16,563 mm、動輪径1,260mm、炭水車15.24t、幅2,616mm、高さ3,885mm、国鉄9600形式と同形で、9600形式としては最後に製作された機関車。1975年3月夕張鉄道が廃止されまで在籍し、晩年はもっぱら平和坑での入換えや平和駅から栗山方面に向かう石炭列車の後部補機に使用されていた。補機仕業では、平和駅を発車しサミットの第三隧道手前の46.5㎞地点で走行解放しバック運転で平和駅に戻るため、連結器解除用のテコを装備している。現在、栗山町の栗山公園に保存されている。 '73.8.14 平和-錦沢 P:佐々木裕治

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元国鉄2649号(B6形)で、1905年にアメリカ・ボールドウィンで製造(Baldwin26541)された。国鉄時代に手宮・岩見沢・札幌・旭川などで活躍し1935年に廃車。1940年明治製糖(後の日本甜菜製糖士別工場)へ譲渡された後、1967年6月三美運輸に入線。国鉄南美唄支線(3.0km)の終点、南美唄から1.2kmの位置に三美運輸専用線があり、その終端の石炭積込場でB6形が入換に活躍していた。1973年3月三美鉱業の閉山にともない同線が廃止、1号も廃車された。 '73.1.9 三井美唄 P:佐々木裕治

鹿島鉄道 DD90 1

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昭和30年に日本車両が製造した試作機でしたが、昭和32年6月に国鉄が借入した際にDD42 1を名乗ることになりました。しかし翌年3月には除籍ののちに返却され、常総筑波鉄道に譲渡されてDD90 1になったという経歴を持つ機関車でした。その後、関東鉄道・鹿島鉄道と継承され、晩年は常陸小川駅の貨物荷捌線に留置されていました。この写真を撮影した1週間後、鹿島鉄道の廃線を待たずして現地で解体されてしまいました。 '07.2.20 鹿島鉄道 常陸小川 P:前 直也

別府鉄道6号

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1921(大正10)年に飯山鉄道2号機として誕生した日本車輌製0-6-0タンク機。1944(昭和19)年に飯山鉄道が国有化された際、西武鉄道に移って2号(2代目)を名乗っていたが、1956(昭和31)年別府鉄道にやってきた。1965(昭和40)年11月にDB201が入線するまでは5号機とともに本線貨物の主力として活躍。1966(昭和41年)6月に倉敷市交通局からDC302が入線し、本線用DLが2輌体制になったのにともない引退、その年の暮に解体された。 '65.8.16 土山 P:小西和之

別府鉄道DB201

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1965(昭和40)年、別府鉄道が初めて自社発注したディーゼル機関車。三菱重工三原製作所製でトルクコンバーターを装備していた。自重28t。土山線で1984(昭和59)年の鉄道廃止まで活躍した。牽引されている客車はダブルルーフ・二軸のハフ7(←三岐ハフ16←神中鉄道ハフ24)。 '75.8 別府鉄道 土山線 土山-中野 P:芝地寛之

雄別鉄道205

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1922(大正11)年〜1925(大正14)年にかけてドイツのオーレンシュタイン・ウント・コッペルが製造したC型機で、計14輌が輸入された。横荘鉄道、伊賀鉄道、江若鉄道など12事業者に供給され、写真の雄別鉄道(←雄別炭礦鉄道←北海炭礦鉄道)205号は製造番号10475で、本線用として活躍後、入換え機となって、1970(昭和45)年、釧路開発埠頭に譲渡され間もなく廃車となった。その後、入札にかけられ埼玉県の幼稚園で保存されていたが1985年、解体されてしまった。 '70.7.15 池袋西武鉄道本社前 P:大野 亨

近畿日本鉄道 デ37

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吉野鉄道1〜3号機で、1924〜1925年
に輸入されたブラウン・ボベリー製の電気機関車。1500V、直接制御。吉野鉄道が近鉄となった際にデ3〜5に改番、南大阪線、吉野線で貨物列車を牽引していただ、名古屋線改軌を機に標準軌、間接制御に改造デ81〜83に改番、その後デ35〜37に改番され、主に工事用列車を牽引していたが、1976年に全車が廃車された。 '73.8.10 名張 P:浅野 治

西武鉄道E41

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元をただせば1925年デッカー社製の青梅電鉄1号(1010)である。同形式は1926年に2号(1012)、1930年に3号(1013)・4号(1014)のが増備され、総数4輌となった。国鉄に買収されたさい、3・4号はED36 1・2と形式変更されたが、1011は1012とともに改番されずに使用され、1948年廃車後西武鉄道に譲渡1011はE41となった。'69.10.15 
西武鉄道 石神井公園 P:大野 亨

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協三工業製28tCタンク機。日本鋼管鶴見製鉄所の発注で、1951(昭和26)年に製造された。協三工業製では最大の機関車である。18号機とともに日本鋼管の専用線で活躍した。 鶴見線浅野駅付近 '69.7.30 P:大野 亨

京葉臨海鉄道 KD50 1

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昭和61年に新潟鉄工にて製造された56t機。元三井芦別鉄道DD503号機で、同鉄道には平成2年に入線した。その後、塗色変更等は行われたが特徴的な前照灯は最後までそのままで活躍した。 '97.4.12 蘇我 P:菅谷和之

秩父鉄道 デキ1

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秩父鉄道が電化時に輸入した日本最初の本線用電気機関車である。ウェスチングハウス・ボールドウィン1922年製で、同じメーカーがほぼ同時に製作していた輸入サンプル電機ED10より日本への到着が早く、技術習得用に鉄道省・大井工場で組み立てられたという経緯をもつ。この後、同じメーカーから同形機が私鉄に供給され、さらに国産のコピー機も多数製造されたが、すべてひとまわり小型・小出力であり、私鉄凸電としては大型だった。石灰石輸送のベルトコンベア化により貨物輸送が減少したため、このデキ4は1984年に廃車。 '81.11.14 秩父 P:小西和之

小坂精錬DD130形 DD131

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通称小坂鉄道とも呼ばれる小坂線には、鉱山閉山後も主に濃硫酸を鉄道輸送していた。貨物輸送は1日2往復運行で機関車は単機運転が基本だが、急勾配もある小坂から茂内間を走行する上り列車は3重連で運行されていた。しかし2008年3月で列車による濃硫酸の出荷が終了し、翌年4月には全線廃止となった。 '97.4.29 長岡 行夫 DD130形DD131 P:長岡 行夫

西武E851形

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'69年に西武秩父線が開通し、秩父方面からのセメント輸送が運行されることになった。この重量列車牽引が可能な大型機関車を製作することとなり、E851〜E854の4輌が製作された。セメントの貨物輸送量も順調に推移し一次は重連運転も実施されたが、道路整備に伴う輸送量の減少や機関車の老朽化により'96年3月に貨物輸送が廃止された。 '81.5 西武鉄道 秩父線 P:長岡行夫

京福電鉄 テキ512

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福井口構内で入換中のテキ512を北陸本線列車内からのスナップしたもの。ロッド式電機と石油タキとの組み合わせはいかにもミスマッチだった。大きく開いた動輪間に本来設置されていたラック機器が撤去され、向こう側が見通せる。 '68.8.6 京福電鉄 福井口 P:小西和之

西武鉄道B11形

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山口線用に製造されたバッテリー機関車で同社の所沢工場で製作された。出力は11kW×2機。制動機は手用(ハンドブレーキ)のみであった。なお1987年5月14日の山口線の新交通システム化とともに廃車された。 '82.11 西武鉄道山口線 P:鈴木岳人

ED5010形 ED5013〜15

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ED5010形はED50000を基本に日立製作所で1957年より製造され、12〜15号が東上線用として坂戸機関区へ配置された。機関車運用は主にセメント工場への原料及び製品の輸送であったが、貨物輸送の削減により84〜86年にすべて廃止となった。尚杉戸機関区(東武線)配置機関車も87年に廃止となり形式消滅した。 '82.5 坂戸機関区 P:長岡行夫

別府鉄道 5号

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1925(大正14)年、日立製造所製のCタンク当初は成田鉄道2号。その後、北丹鉄道に移り3号となる。1950(昭和25)年、輸送力増強のため別府鉄道が北丹鉄道より購入、5号となる。土山線で活躍し、1967(昭和42)年に廃車された。写真は逆向きでミキストを牽引し、のんびりと土山に向かう姿。2軸・ダブルルーフのハフがしんがりを務めている。  '65.10.5 土山 P:柿浦和敏

江若鉄道1118

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1900(明治33)年英国ダブス社製の2Cテンダー機で、旧番は6275。1928(昭和3)年に鷹取工場でタンク機に改造、1118となる。鳥取に配置されていたが1937(昭和12)年廃車、江若鉄道に譲渡され、1962年まで活躍した。  '63.4 三井寺下 P:柿浦和敏

秩父鉄道 デキ7

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秩父鉄道にデキ6・7は、ともに1925(大正14)年、英国イングリッシュ・エレクトリック製(車体・台車などはノース・ロコモチブ、主電動機はデッカー)。1952(昭和27)年の1200vから1500vへの昇圧に伴い、電動機出力が149.2kW(600v)×4から186kW(750v)×4となった。パンタグラフは当初2基だったが、戦時中に1基に変更されている。1976(昭和51)年さよなら運転が行なわれ1977(昭和52)年に廃車されている。 '70.2.11 寄居 P:柿浦和敏

秩父鉄道ED38

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昭和5年、阪和電鉄の天王寺・東和歌山(当時)間の全通に当たり、製造された高速型貨物用機関車ロコ1000形である。戦前は日本一の高速を誇った超特急などの優等列車の合間を縫って当時の貨物列車としては高速で走行した。国鉄に買収後ED38となり、一部は大井川鉄道を経ながらも最終的には3号機までが秩父鉄道に譲渡され、1980年代初期まで活躍した。現在ED38 1は三峰口で保存されている。 '75.12 秩父鉄道 秩父 P:永野晴樹

近畿日本鉄道 デ8

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伊賀電鉄が、大正15年の電化に際し、川崎造船所で製造した全長8436mmの凸型電気機関車。登場以来伊賀線で使用されていたが、昭和50年に廃車。 '74.6 近鉄伊賀線 上野市 P:三津安永

別府鉄道DD502

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別府鉄道DD502は、1962年日立製のトルクコンバーターを装備した産業用機関車45t機である。元新日鉄D4502で、1978年に別府鉄道に入線した。別府港から山陽本線土山までの多木化学の製品輸送に活躍した。当時の編成は混合列車で、ワムの最後尾に客車ハフ7が連結されていた。別府鉄道は1984年1月31日をもって廃止された。 '83.8.11 土山 P:佐野 徹

鹿島鉄道DD901

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1955年日本車輌で450PSX2エンジン試作車として製造。1957年から1年間DD421として国鉄が借り入れ、1958年常総筑波鉄道が購入し、1972年500PSX2エンジンに換装された。1974年鉾田線に転属し、日本アルコール販売専用線や自衛隊燃料輸送に活躍した。1988年廃車され、2007年2月26日解体された。運転整備重量51.6t。 '84.7 浜 P:佐野 徹

鹿島鉄道DD13

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鹿島鉄道は1985(昭和60)年と1987(昭和62)年に国鉄よりDD13形ディーゼル機関車2輌を購入した、塗装以外は大きな変更も無く百里基地への燃料輸送等に活躍したが、燃料輸送がトラックへ切り替わったために役目を失い、平成15年4月に2輌とも中国に譲渡された。 '03.4 石岡 P:深山剛志

相模鉄道 ED10形

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沿線の川砂利、セメント類を始め、後に米軍基地燃料輸送等で活躍。'52年に2輌(ED11・12)が登場。同社貨物線は'49年に電化後は電車が牽引していたが輸送量の増大もあり専用車輌として製造。'54、'64年に各1輌ずつ増備し計4輌が登場。東洋電機製の特徴あるスタイルで基本形状は同一ながら、製造年次により側窓、通風口形状が異る。短い車長ながら2パンタ(PS13)、台車はDT13の電車用を履く。晩年は重連総括制御化により重連使用が基本となた。更新により標識灯の角型LED化等行われるも原形を保ちながら活躍。'98年貨物輸送廃止後は搬出入牽引や工事列車等地味な活躍をしていたが、車体・機器老朽化も目立つため、'06年3月のイベントを最後に引退。ED11がかしわ台基地にて保存。写真はED11+ED12の1次車。 ’83.1.8 相模鉄道 かしわ台工機所 P:梶村昭仁

東武鉄道 ED5060形

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'61〜'66年の5年間に3次にわたり東芝で13輌が製造。箱形+両端デッキ付スタイルで出力は142kw×4個、単位スイッチ制御式の吊掛式駆動。制動は自動貫通式。'71年に61〜65号機が重連総括制御化改造、兄弟車ED5080形との重連運転も。標準型機として東上線を含む全線で活躍。後の貨物縮小で余剰廃車が相次ぎ、'97年の会沢線貨物運用廃止までに63号機を除いた12輌が廃車。'03年9月末の貨物全廃でついに運用離脱、10月中に形式消滅。 '87.10.14 伊勢崎線 和戸─東武動物公園 P:梶村昭仁

西武鉄道E851

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西武秩父線開業に際し、25‰の正丸越えにおける石灰石輸送用に製造した、私鉄としては前代未聞の、国鉄EF81の技術を導入したと言われる大型電気機関車。国鉄形とは異なり、側面に丸窓を配置するなど、従来の西武のイメージを一新する姿は、多くのファンの人気を集めた。石灰石貨物輸送の廃止に伴い、お別れ運転として、JRから12系客車を牽引するというイベントが実現した。最終日の上り列車は重連で、4つのパンタグラフを上げて横瀬から正丸峠に挑んだ。現在も一両が保管されている。 ’96.5.26 西武鉄道 秩父線 P:永野晴樹

西武鉄道山口線532号

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527号とともに1977年台湾の台糖公司から譲り受けたもので、入れ替わりに、それまで活躍していた1号(井笠鉄道)、2号(頸城鉄道)はそれぞれの故郷に帰った。’84年、同鉄道は「新交通システム」に移行、同時に廃車となった。現在・北海道丸瀬布森林公園いこいの森に保存されている。 ’84.4 西武鉄道 山口線 P:田中一弘

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紛れもなく、もと碓氷峠で活躍したアプト式EC40のなれの果てである。 すでに廃車となっていたが、現在軽井沢で保存展示中のEC40は同系機を京福から国鉄の社形凸電と引き換えに戻したものである。京福では反対側のボンネット(?)を撤去しデッキに改造されていた。撮影当時は車庫の裏に留置されていたが、いつの間にか姿を消した。 ’73.8 福井口車庫 P:永野晴樹

越後交通 ED5100形

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越後交通ED5100形電気機関車は昭和32年に定山渓鉄道が既存の蒸気機関車を置き換えるために三菱電機に2輌発注したもの、当時流行した湘南マスクを持つモダンな形。1969年に定山渓鉄道が廃止後、長野電鉄に譲渡、1979年に長電の貨物廃止後、越後交通に譲渡された。1995年の越後交通廃止まで2輌とも活躍した。 '80.6 越後交通 来迎寺 P:深山剛志

真岡鐵道 DD1355

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神奈川臨海鉄道で1967(昭和42)年に富士重工にて国鉄DD13タイプのディーゼル機関車として製作されたDD554は、1993(平成5)年に「SLもおか」号の運転に伴い車庫のある真岡〜下館までの列車回送を行うため譲渡された。その際客車にあわせて茶色に白帯となり回送列車の際には蒸気機関車と反対側に連結された、その後老朽化のために2004(平成16)年に引退し、JRより譲渡されたDE10 15355に後を譲った。 '03.10 真岡鐵道 下館 P:深山剛志

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1954(昭和29)線井川線全通に際し製造された35t機。三菱重工製B-Bロッド式で丸みを帯びたスタイルの凸型DL。3輌のうち最後まで生き残ったDD102はDD20新造と時を同じくして昭和57年5月に廃車された。 '82.2.10 川根両国車両区 P:奥清博

南海電鉄 ED5201形

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1963(昭和38)年貨物輸送の近代化のため4輌製造した。南海の伝統的な凸形電気機関車の近代版である。主に南海本線の長大貨物列車重連で活躍、当初はグリーンの濃淡によるツートンカラーであった。昇圧後生き残り、晩年は和歌山市付近の貨物輸送に用いられたが、貨物輸送の廃止により廃車。1輌は三岐鉄道に身売りして現在も入替用に活躍している。なお高架以前の南海本線は住吉公園(現・住吉大社)までの複々線区間で、本線直通を西線(さいせん)、住吉公園までの区間電車と岸里手前から分かれる東連絡線を介して走行する高野線電車は東線(とうせん)を走行した。南海本線の貨物列車は天下茶屋から天王寺支線の天王寺に直通し、国鉄に連絡するため、住吉公園から東線を走行した。 南海本線東線 玉出-粉浜 '65.8 P:永野晴樹

東洋活性白土 2号機

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東洋活性白土専用線は糸魚川駅に隣接した積替えホームと工場を結ぶ延長約800mの専用線で、 軌間は2フィート(610mm)。2号機は協三工業製で重量6tで、もともと762㎜で設計されたため、軌間の割には車体幅が大きい。写真は、まるで庭園のような工場社屋の前に佇む2号機。今思うと、とても実用で使っていたとは思えないような、夢のような専用線であった。1982年(昭和57年) 10月、国道の拡幅工事のために同専用線は廃線となった。2号機は現在、糸魚川小学校に保存されている。 ’77.4.4 東洋活性白土工場 P:宮村昭男

近鉄 デ11

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近鉄養老線で活躍したデ11形(11〜12)は、デ21形とともに、元伊勢電機鉄道の所属。1928(昭和3)年製。当時の形式はデキ511。このデ11形は西武鉄道のE41同様イギリスのイングリッシュ・エレクトリック社製の正統派デッカーで、左右非対称の顔が異色。名古屋線で活躍したが、同線が改軌となり養老線に活躍の場を移した。1983(昭和58)年に廃車。 ’82.1.2 桑名 P:深山剛志

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いわゆる南海タイプの凸電として有名な電気機関車。このタイプのルーツは大阪高野鉄道が国産の電気機関車としては日本で最初に製造したことに始まる。詳細は省くが、戦後の南海タイプの凸電はED5105形とED5120形が戦前の面影を残す電気機関車であった。これらの電気機関車は電車用のモーターを流用するなど貨物用としては見かけによらず、高速性能(当時の国鉄貨物列車の最高速度は65km/h)に合わせ、南海本線や高野線の優等列車の合間をぬって、かなりの速度で走っていた。写真は南海本線経由天王寺行きの貨物であるが、南海独特の緩急車「ワブ」1輌のみの列車である。1500Vの昇圧を控え、大阪口の貨物輸送の末期の姿である。戦前型の電気機関車のうち、同系のED5120形tの1輌は三重県の国見鉱山専用線に払い下げて、1992年まで活躍した。ED5105形とED5120形の違いは側面の窓の数が異なる。なお南海のパンタグラフは一見PS13のように見えるが、三菱の大型パンタグラフのタスキを横方向に戦後改造したもので、模型化には注意を要する。 南海本線 岸里─玉出 '71.3 P:永野晴樹

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1973(昭和48)年に三菱重工で製作された55トンクラスのディーゼル機関車で、動力性能は国鉄DD13 111以降と同じである。ただ、台車がDD13のものとは異なり、三菱重工オリジナルである。このディーゼル機関車3輌の投入で9600形蒸機を駆逐し、無煙化を成し遂げたものの、石炭産業そのものが立ち行かなくなり‘87年には鉄道廃止。それとともに廃車、譲渡先も見つからないままに解体されてしまった。 '74.9.14 清水沢 P:青柳 明

三菱大夕張鉄道 No.2

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元は‘40年に美唄鉄道が自社発注した5号機で、鉄道省9600形と同型機である。製造は川崎車輌で鉄道省の製造が終わって15年後のことであった。これを大夕張鉄道では南大夕張鉱の出炭用に‘69年に購入し、No.2に改番した。入選に際してはデフの取り付けなどの改造が施されている。大夕張炭鉱の閉山に伴い‘73年秋には火を落とした。 ‘73.3.20 清水沢 P:青柳 明

栗原電鉄 ED20 1

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1950(昭和25)年、電化の際に導入された電気機関車。登場時の形式はED18.その後、1955(昭和30)年、栗原電鉄は762㎜から1067㎜に改軌、ED18は台車を改造、自重が重くなりED20と形式を変えた。ED20 1は工事用として1995(平成7)年4月の内燃化直前まで使用された。現在、若柳駅構内に保存されている。 '76.8 栗原電鉄 若柳車庫 P:近藤和磨

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砂利輸送が盛んだった小田急には5形式6輌の本線用ED級デキが在籍し、ED1031は日本車輌で1930(昭和5)年に製造された50t機。最後はもっぱらJT足柄工場との連絡貨物線で使われ、1984年1月末の最終出荷時には、本機の前でお別れ式典が行われた。ただし廃車はのちの1997(平成9年)で、本線用デキは終焉を迎えた。 '63.2.16 小田急東北沢 P:内藤健作

夕張鉄道 DD1002

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日立製作所で1969(昭和44)年に2輌作られたディーゼル機関車で、形式はDD1000。ベースは国鉄DD13 111以降の500PS車だが、出力が600PSにアップされているほか、ボンネットの形状もDD13とは異なる。写真のようにボンネット上に設置されたツララ切りが特徴的だ。9600に混じって石炭列車を牽引したが、'75年の夕鉄廃止後は真谷地専用鉄道に移る。しかし、ここも'87年には廃線となり、1002号機も運命を共にした。 ‘75.3.10 鹿ノ谷機関区 P:青柳 明

東武鉄道 ED4022

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1948年製、自重45tの東芝戦時型電機で、全国に仲間が居たお馴染の凸型電機だ。東武では1984年に廃車になってしまったが、名鉄や伊豆箱根、三井三池等には今も同族の電機が残っている。 
'77.8.30 東武鉄道佐野線 葛生 P:宮村昭男

■お知らせ ブログ「消えた車輌写真館」をご覧いただきありがとうございます。本ブログも投稿可能な設定にいたしました。珍しい車輌でなくても結構です。消えた車輌たちの面影をブログに保存していきませんか。画面右上のバナーをクリックすれば投稿フォームが開きます。車輌についての詳細が判然としない場合はコメント欄を空欄にして送信していただければ、編集部でできる限り調査の上アップしていきます。

羽後交通 DC2

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1959年に登場した協三工業製のL型3軸ディーゼル機関車で、ボンネットは下り方を向き、僚機のDC1とは逆向きである。エンジンはDMH17S、定格出力は250psで変速機は液体式である。冬季には運転台側妻面に写真のように、窓から下をすべて覆う大型のフランジャーを取り付けて、スノープラウ以上の排雪効果をあげ、定時運行に効果を発揮していた。横荘線廃止後は雄勝線に移り、その廃止後はさらに南部縦貫鉄道に流れてDC25 1と改番され、南縦廃止後も解体されずに車庫で保管されている。 ‘68.1.3 横手機関区 P:青柳 明

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1889(明治22)年、ドイツ、クラウス社製。1889年、九州鉄道が開業時に輸入。1907(明治30)年、同鉄道の国有化に際し、10形15号となる。1925(大正15)年、除籍後、東横電鉄を経て1931(昭和6)年、北海道に渡り明治鉱業昭和鉱業所で1967(昭和42)まで活躍。昭和鉱業所が閉山となり沼田町に寄贈された。現在は沼田町農業記念館に静態保存されている。 '67年頃 昭和 P:笹本健次

三菱大夕張鉄道 No.7

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1914(大正3)年に川崎造船で、鉄道省の9613として誕生。その後、1955(昭和30)年に廃車となるも、三菱芦別炭鉱専用鉄道に国鉄ナンバーの9613のまま譲渡された。1963(昭和38)年には同じ系列の三菱大夕張に移籍され、番号はNo.7となった。機関士側の前面に旋回窓の取り付けなどの近代化改造が施されたが、テンダーやSキャブに初期の9600の特徴を残していた。大夕張炭鉱の閉山に伴い1973(昭和48)年秋に廃車となった。'73.3.20 清水沢 P:青柳 明

西武E52

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西武鉄道E51形52。東海道本線の電化に際して、当時の鉄道省は、欧米諸外国から様々な電気機関車を輸入して試用→使用した。スイスのブラウンボベリィから2輌が輸入された1020形(1928年にED12形に形式変更)もそのひとつで、欧州型を髣髴とさせる特徴的なスタイルと複雑な構造とを特徴とする機関車であった。主に東海道本線、横須賀線の貨物列車牽引に使用されたが、複雑な構造が災いして戦後1948年1949年に2輌が相次いで廃車。幸いにも1950年に西武鉄道がこれを引き取ることとなり、大宮工場で軸重軽減工事、外観の小改造を含む工事が実施されて入線。西武ではE51形51、52となって池袋線および新宿線の貨物列車牽引機として活躍した。E51は1976年に動輪のスポークに亀裂が入って休車、そして廃車。残ったE52のみが孤軍奮闘を見せたが、これも1986年に廃車。ただし幸いにも、西武に余生を送った旧国鉄のED電機と共に横瀬の車輌基地に保存されているのは喜ばしい。1969.4.26 所沢 P:笹本健次

夕張鉄道 12

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11形は夕張鉄道の自社発注機で、日立製作所で4輌製作された。8620の上回りと9600の下回りを組み合わせたようなプロポーション。晩年はもっぱら若菜、鹿ノ谷の入換えに従事していた。11、13、14は円形のナンバープレートが取り付けられており、異色を放っていた。14が夕張石炭の歴史村に保存されている。'74.8.15 鹿ノ谷 P:山下修司

秋田中央交通 EB‐111

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1952(昭和27)年、日本鉄道自動車製の電気機関車。B‐Bの軸配置だが片軸駆動のためEBを名乗る。越後交通長岡線から1967年に転入したものの、1969(昭和44)年の鉄道廃止とともに廃車となった。その後、五城目町の小学校に客車とともに保存されていたが、惜しくも2002(平成14)年に解体されてしまった。 八郎潟 '68.1.3 P:青柳 明

美唄鉄道 4

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国鉄4110形の設計を流用して美唄鉄道が自社発注した同形機3輌のうちの1輌。国鉄4110が全機川崎造船所製だったのに対し、美唄の自社発注機は三菱鉱業だけに三菱造船所で製造されている。大煙管本数も国鉄4110より1本多く、全伝熱面積もわずかに広い。美唄は戦後国鉄の4110形4輌の払い下げも受け、この自重65tもあるEタンク7輌が主力機として活躍した。1972(昭和47)年5月の廃線時まで在籍、生涯を美唄で通した機関車であった。'68年 美唄 P:笹本健次

西武鉄道 E21

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西武鉄道E21形は1927(昭和2)年に武蔵野鉄道が川崎造船所で2輌製造した凸型機。当初はデキカ20形の21、22を名乗っていたが、西武鉄道となってから21形→E21形に形式変更されている。同形機には小田急のデキ1010形、上田温泉電軌→名鉄→岳南鉄道のED50形があるが、西武の2輌は右側運転台であり、細部も他社機とは若干異なる。写真のE21は、1978(昭和53)年に廃車されたE22に先んじること5年前の1973(昭和48)年に廃車となった。’73 石神井公園 P:滝澤隆久

筑波鉄道DD501

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1954(昭和29)年新三菱重工製の35tBB型ディーゼル機関車。三菱製DE21形機関(225ps/1400rpm)を2基備える当時としては画期的高出力機。当初は常総線(常総筑波鉄道)所属で、筑波線(のちの筑波鉄道)に転じてからは写真のように国鉄からの乗り入れ列車「筑波号」の牽引などにも活躍した。半年遅れで製造された同形機に日本軽金属蒲原工場のDD102(のち西濃鉄道に譲渡)がある。'79.5.5 筑波 P:名取紀之

東武鉄道 34

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東武鉄道は大手私鉄最後の蒸機王国で、伊勢崎線・佐野線系統では昭和40年代まで蒸気機関車の姿が見られた。しかも明治・大正生まれのオールドタイマーばかりで、最終日のこの日の記念列車牽引に抜擢されたのも1914(大正3)年生まれのピーコック製34号機と1898(明治31)年シャープ・スチュワート製40号であった。この34号機は現在でも東京・大田区の萩中中央公園に静態保存されている。'66.6.26 館林 P:笹本健次

釧路臨港鉄道D501

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1966(昭和41)年日本車輌製の25tB型機で、機関はDMH17SBを搭載。連接式セキの扉自動開閉装置を備える。形式は自重等とは関係なく、1958(昭和33)年年末に導入した最初のディーゼル機関車D101より百の位を導入順に付番している。1979(昭和54)年に北海道製糖勇足工場専用線に転じ、1985(昭和60)年11月に廃車された。'67年 春採 P:笹本健次

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1949(昭和24)年日立製の762㎜軌間用電機で、正式な形式名は「デキB」。車長に比較して広い前後のデッキが目を引く。貨物営業廃止後も通勤列車牽引用として残されていたが、この写真の一箇月後に運用離脱し、以後は除雪用等に使用されるだけとなった。'69.5.19 悠久山 P:笹本健次

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1958(昭和33)年に新潟鐵工所が国鉄向けに試作したとされる50t機。結局国鉄に採用されることはなく、終生を小名浜で過ごした。ロッド式でエンジンはDMF31Sを2基搭載する。’79.5.11 小名浜 P:名取紀之

2017年6月

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