大阪から横浜を訪問したとき大桟橋通りを走る多くの市電が単車であるのにを見て驚きました。しかも420は羽目板を黄色に塗った木造なのには二度驚きました。4系統の花園橋付近での撮影です。1926年横浜船渠で400型の増備車としてBrill79E2台車、空気ブレーキ付で製造された400型の増備車です。その後も鋼製化されることなくボギー車に伍して1966年3月まで働きました。両端の腰板のスカート部が他の400型と異なりテーパーがなく角形に切り落とされています。魚雷型ベンチレーターも取り外され、戦時中に窓の保護棒が供出され、戦後付けられた広告板も用済みとなり引退まぎわの老兵でした。 '65.4.5 花園橋 P:飯田 勝
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荒川線を除く都電最後の新車として、昭和37年に20輌登場した。当初は全車が青山営業所に配属されたが、同営業所が廃止となると荒川営業所と柳島営業所に10輌ずつに転属した。柳島営業所に配属となった10輌は大事に使用されたが、昭和47年11月11日下町5系統が廃止となると状態の悪い7517・7519は廃車(一説には同車両同士が車庫内で軽微な接触をし、普通だったら復旧するのだが、廃止を直前となっては代替えの車両と差し替えた)となり、製造後僅か10年で廃車となった(写真は同車)。 '71年頃 柳島車庫 P:田中健吉
都電の下町5系統が廃止された1972(昭和47)年11月、錦糸町車庫所属の車両の殆どは解体されたが、3000形3185・3215・3240〜3242は長崎電軌へ譲渡された。3185と3215は801・802として使用されたようだが、3240〜3242は改造されることもなく廃車された。写真は錦糸町車庫から浦安まで陸送される途中で、浦安から船便で長崎へ運ばれた。 '72.11.21 江東区北砂一丁目 P:田中健吉
1953(昭和28)年、後ろ扉を中央に、窓は大きく台車はD18で乗り心地のよい新しいスタイルで登場した。7000形は総勢93輌あり、写真は7001〜7030の1次車で、7020は特殊車、7021〜7030までは改造車であった。7001〜7019までは新造車グループで、正面2枚窓、直接制御式で登場したが、KR8形直接制御器が大きく正面2枚窓では中央柱が支障することから、昭和40年代に入ってから3枚窓に改造された。このグループは最終的に錦糸町車庫(境川車庫は錦糸町車庫の出張所扱い)と柳島車庫に転属され、1972(昭和47)年の下町5系統と共に廃車された。なお、境川車庫は数ある都電の車庫の中、唯一トラバーサーのない車庫で、すべてポイントで車輌を入換えた。 '71年頃 境川車庫 P:田中健吉
函館市交通局600形は1959年に5輌が新潟鐵工所(4輌)、汽車会社(1輌)で製造された。当初は前後対称の3枚扉だったが、1969年にワンマン化のため右側扉を埋める改造を受け、写真でもドア跡の窓や撤去されなかったステップなどに改造跡が見える。同時に前面運転席窓下部も開閉可能に改造され、あまり例のない顔つきになった。これらの改良にもかかわらず短命で、製造から14年、改造からわずか4年後の1973年に全車廃車となった。 '70.7.21 函館駅前 P:小西和之
関東大震災の復興に際し物資や資材を輸送するために製造された無蓋貨物電車。総数は45輌で、震災復興後も3輌が保線や資材輸送用に残り1971(昭和46)年まで活躍した。ちなみに都電では有蓋貨物電車に「甲」、無蓋貨物電車に「乙」の記号が付けられている。 大久保車庫 '70.3.17 P:大野 亨
'62年に日本車輛と新潟鉄工所で各10輌、計20両が製造。この内、'77年の荒川線近代化(ワンマン運転化)時に引継がれた16輌のうち、車体老朽化と冷房搭載による旅客サービス向上を図るべく、'84〜'87年に掛け13輌が車体更新された。走り装置は旧車体時代から引継がれ、吊掛式ながら間接非自動制御、電制常用、60kw主電動機2基搭載。車体色も当時の都バス冷房車輌と同様にグリーンとアイボリー系カラーとし、7000形更新車のイメージと旧車体の7500形の前面イメージを併せ持ったスタイル。冷房化に際し、空調用・制御電源用にはVVVF及びCVCFインバーターを搭載。更新後、集電装置の変更(ビューゲル→菱型パンタ、Zパンタ化等)など細かな部分以外は更新当時のスタイルで活躍していたが、走行機器や車体の老朽化も目立ち、荒川線向けの新型車輌の投入により、唯一、7510号が事業用車(花電車用)に改造されて残存する以外、'11年3月までに旅客用車輌としては引退となった。 '88.12.11 荒川線 王子駅前-飛鳥山 P:梶村昭仁
形式1輌の試作車で、品川駅前の折り返し線に停車中の撮影です。品川ー上野の一系統に使用されていました。 '64.8.13 品川駅前 P:長谷川興政
939年に長崎にやって来る前は阪急・北野線151形で、さらにその前は大阪市電と流転の歴史を刻んだ4輪単車。もともとはオープンデッキ・モニタールーフ・裾すぼまりの明治然とした車体だったが、1951年に自社工場製の車体に載せ替えた。木造車といえば側面腰板が木製の立羽目になっていて、前面や幕板は鋼板張りになっているのが多いが、本車は自社製のせいか戦後製の新製車体ながら車体は全面にわたってすべて木製で古めかしい。台車はBrill 21E。1968年廃車。 '62.7 長崎駅前 P:小西和之
東京都電の大型車で、大きさの制約から主に新宿-月島間で使われていました。塗り分け最後の頃の記録です。 '60.2.7 四谷三光町 P:長谷川興政
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1925(大正14)年製で、散水車としては最後期のもの。道路が未舗装の時代に水を撒いて砂埃を抑えた。1938(昭和13)年頃まで使用され、戦時中客車に改造する計画だったが、資材不足で沙汰止みになった。大阪市電博物館に保存されている。 '68.2.18 港車庫 P:柿浦和敏
加越能鉄道時代の昭和40年に鉄道線の射水線に乗り入れるため、日本車両にてデ7060形2輌密着連結器を装備して製造された、しかし翌年の昭和41年に射水線が富山新港開港のために路線を分断され、残りの路線は軌道法に準じた運行に代り、密着連結器は撤去された。それから30年後、乗客減から万葉線の存廃問題が起こり、2002年から経営が三セク万葉線に代わった。加越能時代から老朽化した車輌と施設を多く抱えていたため、近代化整備の一環として翌年の2003年から超低床式MLRV1000形が導入が始まり、デ7061は2004年8月、デ7062は2007年3月に廃車となり形式消滅した。高岡駅前行きデ7061が江尻交差点国道8号線ガード下を潜り抜ける。 '00.8.15 万葉線高岡軌道線 市民病院前-江尻 P:遠矢栄三
木造車モ101形の置換えのため、1967(昭和42)年に、元大阪市電1601形を譲り受け導入した半鋼車で、総数は10輌。阪堺線の主力となったが、'00年に最後に残った130号が廃車となり、形式消滅。125号は大阪市電の1614号。 '87.7.23 住吉大社前 P:田中一弘
止後何輌かの保存予定車があったようだ、写真の8000形もその1台で錦糸町車庫裏の公園に台車と共に置かれていたが、心無い者によりガラスと言うガラスは全て割られて、ついに正式に保存されることもなく解体された。8000形は総数131輌あり幾つかのバリエーションがあった、初期型は系統版が鉄製の物を使用するタイプで、後期形は行灯(アンドン)式に変更された、この行灯式の車輌は正面番号が中心よりやや左に寄っていた、また製造所によりワイパー付近の造作やユニット窓(日車製)、方向幕の左右上部に変化があった、またほとんどど見えないが台車は通常D21であるが約10輌はD25を使用されたようである。8000形は軽量車体コストダウンされた車両であるが殆どの線区で見られた、耐用年数10〜12年と設定されていたため、一部を除き車庫の廃止と運命を共にした。 '72年 東京都墨田区 P:田中健吉
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昭和47年11月11日下町5系統が廃止されたあと車庫内で車輌の解体が行われた、写真の時点では用途不明でしたが、このあとJRガード下の「寿司店」へ運ばれました。 '72年 錦糸町車庫 P:田中健吉
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今では電車も背景の東急百貨店もなくなり、日本橋に路面電車が走っていたことを知る人も少なくなってきた。 電車は昭和28年度東急車輛製で初めて方向幕が大型化されドアエンジン付きグループで、車体だけを見れば3240-3242の最終グループとほぼ同じだが台車はD-10だった、車体は9個窓で多少近代化されている。下町5系統廃止後は3185.3215.3240-3242は長崎電軌へ譲渡されたが他の車両は解体された。 '72.11.11 日本橋 P:田中健吉
1800形に引き続いて、1954(昭和29)〜1955(昭和30)年製造された名古屋市交通局における「和製PCCカー」の第2弾。前面から側面にかけて足回りが裾を絞ったスカートですっぽりと覆われているのが特徴。一貫して沢上車庫に配置され、1974年、同車庫の廃止に伴い全車廃車となっている。 '63.8.27 P:柿浦和敏
1953年に登場したPCC車の大阪版。カルダンドライブ、電気ブレーキの高性能車3000号が試作された。その量産タイプ3001号。当時としては画期的な全面広告を車体に施した姿である。後ろに見えるのは通天閣の先端。しばしの休憩のあと、坂道を下って霞町に向かう。 ’68.2.18 あべの電停 P:柿浦和敏
1961年(昭和36)日本車輌で2輌製造された元北陸鉄道金沢市内線用最後の新車、モ2300形。'67年廃止後、豊橋鉄道にお輿入。当初モ300形だったが'68年現行形式へ再改番。全金車体、二段式サッシ窓の明朗スタイル、吊掛駆動ながら間接非自動制御、金属式エリゴバネ+弾性車輪装備等、路面電車としては高性能の部類。移籍後大した改造もなく活躍も、中形(11.5m)車体故、冷改危機スペース確保と車体強度から出来ず、'00年3月末の運用最後に引退。廃車後'02年東京・国立の鉄道総合技術研究所の試験車輌として2輌共余生を送っている。 ’84.3 東田本線 駅前 P:梶村昭仁
1924(大正13)年から1928(昭和3)年にかけて40輌製造された半鋼製低床ボギー車。京都市電初の空気ブレーキ装備車。空気ブレーキの装備は京都市電初。514〜517は1935〜36年にかけて中扉を取り去って小型化、514形と称した。残る500形は1958年座席数を増やすため中扉を廃止、ポールもビューゲル化され、写真のような姿となった。1970年、伏見・稲荷線の廃止を機に全廃。 ’66.10.27 四条烏丸付近と思われる。 P:柿浦和敏
1950(昭和25)年に製造された、北陸鉄道金沢市内軌道線用路面電車。金沢での形式はモハ2000形で、総数10輌。1967(昭和42)年、金沢市内軌道線が廃止となり名鉄に売却された。名鉄ではモ550として岐阜市内線で活躍。’97年までに全車廃車となった。写真は名鉄市内線徹明町〜長良北町間( 3.9km)最後の日。 ’88.5.29 名鉄岐阜市内線 徹明町 P:田中一弘
東横線の旧5000系と共に路面電車だった旧玉川線(玉電)用に開発した低床式連接車。車輪直径を極めて小型とし、同時にモーターも超小型のものを開発した。その愛らしい顔つきから、”ペコちゃん”の愛称で親しまれた。今となっては、この思想を発展させれば現代の低床式電車につながるものとも思えるが、渋谷〜二子玉川間は地下の新玉川線建設のため、1969年初頭に廃止。現在の世田谷線が残されたが、ペコちゃん電車は特殊な構造のため、世田谷線には用いられず、廃車となった。現在1編成が、東急の電車とバスの博物館に保存されている。 ’69.2 用賀─玉電瀬田 P:永野晴樹
1928(昭和3)年に製造された半鋼の単車で、総数は60輌。単車が多かった横浜市電の中でも多数派だった。屋根はすっきりとしたシングルルーフ。運転席後部のHポール上部の仕切りは曲線を描き、ダブルルーフを想わせる客室天井とともに優美な内装だった。全長91.44m。定員75人。台車形式ブリル79E。製造は東京瓦斯、蒲田車輌、雨宮製作所。横浜市電博物館の523号が保存されている。 ’63.3.30 横浜駅前 P:柿浦和敏
1947(昭和22)年から製造された大型3扉車。車体は800形と同一で、中央の4枚折戸が特徴。2扉改造車もある。総数47輌。阪神国道線の「金魚鉢」とまではいかないが、エレガントなスタイル。 ’63.4 湊川交差点 P:柿浦和敏
中学時代、通学に利用していた上町系統の電車。近鉄の大ターミナル上本町6丁目、大阪府庁舎と大阪城のお濠の間を抜けて天満橋までは上町台地を南北に貫いて走ります。霞町車庫のPCCカー3000形に混じって都島車庫のコイルばね付き2100形なども見られました。この坂を登ると右手に四天王寺の五重塔が見えます。2600形は大阪車輌工業で114輌が1955年より製造され、PCCカーと同様の車体を木造車の下回りに載せたもの。廃止後は広島電鉄、鹿児島市電に譲渡。 ’68.12.17 あべの-天王寺西門前 P:柿浦和敏
製造初年1936(昭和11)年。109輌が’42年までに製造された。木造車旧1000形の下回りを利用し、当時流行した流線型の鋼製ボディを乗せた。 ‘63.3.31 渋谷駅前ターミナル P:柿浦和敏
美濃電から引き継いだダブルルーフの単車。写真のモ14は1918(大正7)年名古屋電車製作所製。この14号を始めモ10形は10輌のうち7輌が単車最終運転日まで生き残った。おなじく最後まで生き残った仲間に39号があるが、こちらはモ35形で、1921(大正10)年、名古屋電車製作所製。両形式とも昭和初期に改造を受け、外観的・諸元ともほぼ同一。 ’63.8.27 岐阜市内線(撮影場所不詳) P:柿浦和敏
1928(昭和3)年に12輌が日本車輌で製造された。単車の木造車だが鋼製の外版を張ってある。台車は日立製。定員42人。昭和26年頃より、「石津式」と呼ばれるヤグラを組んでオモリを下げた岡電独自のものに交換された。番町線は1921(大正10)年開業の支線で城下から分岐、一部単線区間があった。1968(昭和43)年に廃線になっている。写真は番町線の単線区間である東警察署前のSカーブを下ってきた姿。道路沿いに駐車中の軽三輪のダイハツ「ミゼット」や、マツダ「キャロル」などが時代を感じさせる。 ’68.8 岡山電気軌道 番町線 P:柿浦和敏
大阪市電の誇る高加速、高減速の高性能車試作の3000を基にして1956年から50輌が製造された。非常制動には軌道圧着ブレーキも備え、3001〜3030までが霞町、3031から3050までが都島車庫にに配属、性能のみならず当時日本では最も優れた乗り心地を誇った。大阪市電の最重要系統に活躍し、大阪市電の最後まで用いられた。高性能を誇る3000系も道路渋滞には勝てず、市電廃止後も特殊な車輌だけに一部が連節改造され鹿児島市電に身売りしたほかは、保守の都合で他には身売りできず廃車となった。大阪では50輌というまとまった数があったのでそれなりに保守が出来たのである。なお同形態で、旧型機器を用いた2600形は今なお一部が広島電鉄に残存しているはずである。現在LRTなどが話題となっているが、市電を廃止せずに残して置けばよかったのに…と思うファンは多数いるはず。 '67.3 堺筋 日本橋三丁目 P:永野晴樹
岐阜市内線用として1957年(昭和32)年5輌が製造。その後、全車美濃町線へ。’83年に2輌が廃車となるが、残る3輌は’05年の美濃町線廃止までまで活躍。593号は最後まで冷房化改造はされず、最晩年、緑とクリームの往年の塗装に戻された。’05年、美濃町線が廃止となり、591、592は土佐電気鉄道に譲渡、593は廃車となった。 ’05.3.31 名鉄美濃町線 野一色付近 P:田中一弘
331系連接車は昭和32〜39年にかけて川崎、日立、九州車両で13組製造された。台車はメーカー別に異なっている。北方線廃止後は一輌も保存されることもなく解体されてしまった。 ’80.8 北方線 北方 P:松崎昌一
西鉄北方線。昭和31年に2輌製造。当時のバスを参考にして作られたという。おでこの両サイドにマーカーライトを配置して愛嬌のある顔立ちをしていた。 '80.9 北方車庫 P:松崎昌一
601系ボギー車は1950(昭和25)年から1953(昭和28)年まで日車、日立、近畿車輛で計50輌製造され、北九州線の顔として1001系連接車と共に全線廃止の日まで活躍した。 '85.9.30 北九州市内線・中央町 P:松崎昌一
日本車輌で製造された半鋼製低床車ボギー車。製造初年は1948年(昭和23年)で、51年までに30輌が製造された。長きにわたって、函館市電の主流だったが、路線の縮小とともに廃車が進み。 現在は、529、530を残すのみ。521は1993(平成5)年4月、ガス会社線の廃止に伴って廃車になった。 '91.5.1 函館市交通局本線 五稜郭付近 P:田中一弘
かつての都電の代表形式である6000形。1947〜1953年の間に290輌余が製造されたが写真の車輌は1949年製造。1978年全線ワンマンカー化後は事業用車輌として荒川車庫に留置、1986年以降貸切用として旅客扱い開始、その後1988年9月以降毎月第1・3日曜日の限定で定期運用となりそれを機に窓下濃いグリーン窓周りがアイボリーに再塗装した登場当初の姿。2001年廃車。後に沿線の「あらかわ遊園」内で静態保存された。 ’88.10.1 荒川線 王子駅前─飛鳥山 P:梶村昭仁
金魚鉢と言われた阪神国道路面電車。渋滞の根源ということでご多分に漏れず やがて同鉄道会社の路線バスにとって変わられることになるが、国道を行き交う車の数は今と比べものにならないくらい少ない。 '74.3 阪神電鉄 国道線 武庫川附近 P:高橋 明
国道2号線の真ん中に「安全地帯」と称する立派なホームがこれを撮影する少し前までは存在したのだか、路面電車の末期には交通渋滞の原因になるということでホームは撤去され、老若男女を問わず乗降客は停留所で電車から直接車の行き交う国道に飛び降りていた。 '74.3 東難波付近 P:高橋 明
京都には市電が良く似合っていた。観光にも一番利用しやすい乗り物であったのに、末期には外郭線は30分近い運転間隔にもなり、利用客も激減していた。雨の九条車庫で出発を待つ1903と1856。1976.7 烏丸車庫前 P:神谷武志
おもにバラスト輸送に使う自重5tの電動無蓋貨車で、古い乙10の台車を流用して1941(昭和16)年に製造されたが、台車はのちにブリル21Eに換わっている。荒川車庫に配置されていたが1971年に廃車になり、神明都電車庫跡公園に保存されている。 '67.12.3 荒川車庫 P:内藤健作
仙台も、本来ならば市電が一番活性化できやすい市街規模であったと思うのだが、我が国は欧米で功している「プレメトロ」化の道を選ばず、廃止→バス・地下鉄化を選択した。今もなおその方向が惰性のように続いている気がして、残念でならない。都電8000に似たデザインの405が、仙台駅前を行く。'76.3 仙台駅前 P:神谷武志
150形は1925(大正14)年に10輌が製造された広島電鉄初の半鋼製車。その大半が昭和20年8月6日の原子爆弾で被爆したが、全車復旧し、広島の戦後復興に活躍した。1952(昭和27)年にはこの151を含む一部の車輌が車体新造による更新を実施。1971(昭和46)年までに他都市からの転入車に置き替えられ、全車廃車となったが、江波車庫に保管されていた同形の156号が1987(昭和62)年に記念運行のため車籍復帰。現在も「被爆電車」として在籍している。また、復元車101号の台車は157号のものが利用されている。'68.3.5 広島駅前 P:笹本健次
京都市電1900形電車は、900形のワンマン化改造により1970(昭和45)年に誕生した形式で、1957(昭和32)年増備の916〜931を種車として、番号はそのまま+1000としている。全長12880mm、定員100(内座席38)名で、直接制御車。京都市電が終焉を迎えた1978(昭和53)年9月末日まで活躍を続けた。京都時代に廃車となった1922を除く15輌が広島電鉄に譲渡され、現在も活躍中。この1925は現在の広島電鉄1909号である。'78.3.28 烏丸車庫 P:名取紀之
戦前に木造車を鋼体化改造して登場した1200形を、戦後の輸送量増加に対応するために、車体を側窓2個分ストレッチして生まれたのが1500形。1961(昭和36)年から3年間で総計46輌が誕生した。錦糸堀車庫所属で、日比谷、須田町以東で使用された。'68.5.5 茅場町 P:笹本健次
長府駅から下関駅を経て彦島口までと幡生までの延長17.6kmの路線を持っていた本州最西端の路面電車。1972年廃止。1969年4月4日 下関駅 P:笹本健次