1973年1月厚狭機関区に新製配備、2002年愛知機関区に転属する。2003年3月A更新を受ける。2011年7月〜2013年7月運用離脱した後復活、しかし2015年に廃車された。写真は雨降る栃原駅を通過する紀勢貨物2088レである。 '10.6.26 紀勢本線 栃原 P:楢井勝行
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国鉄・ディーゼル機関車の最近の記事
DD51・500番代の極寒地向け仕様は耐雪ブレーキ・スノープラウ・旋回窓・ホース類の凍結防止用加熱装置・つらら切り兼前面窓プロテクターなどを装備し、特に北海道で使用された本区分には前照灯をボンネット最先端上に増設したいわゆる「三つ目」と呼ばれた車輌が存在する。冬季降雪時の視界確保のためで、うち5輌に施工された。本機はなぜか増設した前照灯の片側のアングルが低く取り付けられているのが特徴で、1970年8月に五稜郭機関区に新製配置され、1986年3月いっぱいで退役した。 '82.10.17 函館本線 桂川ー森 P:熊谷孝志
1972(昭和47)年に日立製作所で製造され岡山に配属。伯備線電化後は米子に転属し、JR移行直前に廃車となった。 '75.5 新見機関区 P:清原 正明
1945年GE製。米陸軍の8593電気式ディゼル機関車で国鉄に貸与され米軍基地周辺の駅の入換に使用された。1956年国鉄への車籍変更によりDD12 5となり東京周辺の入換に使用され、1972年久里浜支区で廃車となった。 '65.5.11 東海道本線 藤沢 P:高澤一昭
1978年3月佐倉機関区に新製配備、当初は成田空港ジェット燃料輸送などで活躍した。1987年稲沢機関区に転属、1994年5月に発足した愛知機関区所属となった。2015年7月故障により運用離脱し廃車、2016年4月22日解体された。写真は2089レ紀勢貨物を牽引し撮影名所を下るDD51 899号機である
1954年汽車大阪で気動車用のDMH17と液体変速機を使用し新製。田端区配置、東京区、国府津区(久里浜支区)で,十余年をすごし早岐区、小郡区と移動し1978年11月に除籍された。田浦には米軍を含め複雑な専用線があり、入換えに使用された。 '65.8.11 横須賀線 田浦 P:髙澤一昭
1954年汽車大阪製。田端区配置、東京、国府津(久里浜支区)で十余年をすごし早岐、小郡移り1976年廃車された。のちベトナムへ行ったらしい。スカ線では逗子、田浦、横須賀での入換えに使用された。 '68.1.3 横須賀線 横須賀 P:高澤 一昭
1966(昭和41)年4月、汽車大阪製造。大宮機関区収容線で、配置区郡山への回送待中の写真。台車に延びる白いパイプは、制輪子の融雪装置なのだろうか。 1986(昭和61)3月廃車。 '66.4.11 大宮機関区 P:髙澤一昭
1972年12月新製、熊本機関区に配備される。1980年11月東新潟機関区に転属、ツララ切・旋回窓が装備された。国鉄分割民営化時、JR貨物東新潟機関区所属となる。2010年9月吹田機関区に転属、城東貨物線で運用されるが2011年3月のダイヤ改正で城東貨物線電機化により余剰となる。2011年3月下旬〜4月中旬、古巣東新潟機関区に貸し出され、東日本大震災で寸断された東北本線に換わり磐越西線経由で運転された石油輸送貨物を牽引する。2011年9月、吹田機関区より門司機関区に転属するも殆ど稼働せず長期に渡り留置された。そして2014年4月の岡見貨物正式廃止をもって廃車となった。 '11.4.9 磐越西線 喜多方−山都 P:楢井勝行
飯山線及び大糸線用として、0番代の機関車を改造し両端に脱着式単線用ラッセルヘッドを新たに製作し脱着可能なタイブとして、1979年から1983年に4両(301号機から304号機)が誕生した。除雪作業の際はDE15形同様に、ラッセルヘッドから機関車本体を遠隔操作で可能な改造も行われた。なお最後まで活躍していた304号機も2015年に廃車となった。 '88.5 小海線 中込 P:長岡行夫
1954年汽車大阪で気動車用のDMH17と液体変速機を使用し新製。田端区配置、東京区、国府津区(久里浜支区)で,十余年をすごし早岐区、小郡区と移動し '78.11 除籍された。田浦には米軍を含め複雑な専用線があり、入換に使用されていた。 1965.8.11 横須賀線 田浦 P:髙澤一昭
1973(昭和48)年、岡山機関区に新製配置された。以来岡山を離れず、1987年、JR移行前に廃車となった。 '74.1 新見機関区 P:清原正明
1973(昭和48)年、岡山機関区に新製配置された。以来岡山を離れず、1987年、JR移行前に廃車となった。 '74.1 新見機関区 P:清原正明
1964年に製造された非重連の初期型車。新製後は鳥栖に配属、晩年を吹田で過ごし、1985年春に廃車となった。 '79.1 吹田第一機関区 P:清原正明
1974年日立製。米子、福知山、豊岡の各区を渡り歩いた山陰地方生え抜きの機で、2002年11月に廃車となった。写真は、阪神淡路大震災で東海道・山陽本線が不通の期間、姫路以東を播但・山陰・福知山線経由で迂回運転された「あかつき82号」を牽引している場面。 '95.3 福知山線 三田-道場 P:中司純一
1971(昭和46)年日立製作所水戸工場製。新製配置は吹田機関区で、40年の長きにわたり城東貨物線の中心に活躍。2011年3月、城東貨物線電化を機に美祢↔岡見(中国電力三隅火力発電所)間で運行されていた炭酸カルシウム・フライアッシュ輸送(通称:岡見貨物)に従事するため門司機関区に転属。しかし、直後、東日本大震災が発生、被災地への石油輸送のため東新潟機関区に貸出、磐越西線で約1か月使用されることになった。使命を果たし、門司機関区に帰還、岡見貨物を牽引していたが、2013年の山口県内での集中豪雨による災害により山口線が不通になり、そのまま岡見貨物も廃止となってしまった。同機は活躍の場を失い、2014年廃車となり解体されている。 '11.4.3 磐越西線 磐梯町-更科信号場 P:山下修司
DE10 2500番代は1977年から全部で54輌が製作されています。単線両頭式ラッセルヘッドを持つラッセル車ですが、写真の車両は甲種輸送時と思いますが片側しか連結されていません。2501号機は日本車輛製でJRに引き継ぎ後の1990年に廃車となっています。 '77.8.21 新鶴見操車場 P:中静政信
300番代は1966年から1967年に83両製造された。基本番代との相違は、減速機の歯車の不調(歯の欠損や食い込み)を改善するために歯車のモジュールを、DD51系と同様に11から14へ変更を図った。歯車などの変更に伴い台車が新たに設定され、従来の台車とは互換性がなくなり既存機と区分するため300番代が設定された。 '83.3.27 茅ヶ崎機関区 P:長岡行夫
DE15形ディーゼル機関車は、DE10形をベースに開発されたラッセル式除雪機関車で、'67年〜'81年の間に58輌が製造された。除雪時には機関車の前後にラッセルヘッドを連結し、除雪期以外には入替や本線の客貨列車牽引使用も考慮し、ラッセルヘッドの連結解結作業は簡略化・省力化できるよう設計された。基本番代は6輌で最後まで活躍していた6号機も'13年11月に廃車となった。 '89.8.15 富山運転所 P:長岡行夫
DD14 300番代は、1966年以降に製造されたグループで、0番代の実績を基に減速機の歯車強度のアップや台車の改良等が行われ、1979年までに35輌が製造された。DD14 324は、1976年7月川崎重工業兵庫工場で製造され、小樽築港機関区へ新製配置された。同年12月には岩見沢第二機関区へ異動し、道央地区の排雪作業に活躍した。後年は2輌1組でボンネット側を連結した背合重連により運用されていた。JR北海道には分割民営化時に17輌のDD14が継承されたが、長大ローカル線の廃止や降雪量の減少、機動力の優れたモーターカーの普及等により、同形式が最後まで活躍した深名線の廃止により1996年3月までにDD14全機が全廃された。DD14324は最後まで岩見沢第二機関区(後の空知運転所)に籍を置き、1994年7月廃車され、小樽市交通記念館に保存されている。なお、空知運転所も同年10月末をもって閉鎖された。 '91.3 苗穂 P:佐々木裕治
JRが発足して間もないころ、JR貨物が門司区のDE10 1582を改造し、北九州地区で入換機の無線操縦試験をした。結局無線操縦は実用化されなかったが、無人で動く機関車への注意喚起のためキャブ屋根近辺に多数の回転灯、スピーカーを設置した異端の風貌で注目を集めた。これら装備は撤去されないまま首都圏に転属し、最後は主に川崎地区を活躍の場として2008年に廃車。写真は安善駅で米タンの入換をしていたころ。 '04.2.13 鶴見線 安善 P:小西和之
民営化後JR貨物ではイメージアップを図る目的で機関車に試験塗装を行った。北海道支社ではDD51機関車の試験塗装機が'88年に登場し、五稜郭及び鷲別機関区に8輌配属された。しかしその後本採用に至らず、更新時期には一般塗装仕様に全て戻され、この1053号機も'02年に廃車となった。 '91.8.13 函館本線 大沼 P:長岡行夫
DE15はDE10形をベースに、除雪時に機関車本体の前後にラッセルヘッドを連結する除雪用機関車で、昭和42年から56年までに85輌が製造された。DE15 2563は、昭和50年11月単線形単頭式のDE15 1513として日本車両で製造され、旭川機関区に配置された。その後、昭和52年長野工場で単線型両頭式に改造され、DE152563に改番され道北地区で活躍し平成11年3月廃車された。 '87.2.14 留萌本線 峠下 P:佐々木裕治
側面に白いラインのない異色機。1972年10月、日立製作所水戸工場で落成新製配置は岡山機関区。1980年に亀山区に転属、87年2月に廃車となった。 '76.3 新見機関区 P:清原正明
重連用のDD51 500番代は全国非電化の幹線・亜幹線で優等列車を重連で牽引するため、SG搭載の総括制御可能型として設計され、1965年以降製造が開始されて全国的に配置が始まり、無煙化を一気に加速、非電化区間の主役としてブルートレインから長大化までを牽引し活躍を続けた。増備の途中で中間台車や屋根上の形状などで設計変更も行われた他、投入線区の環境に応じた改造も施されたことから、そのバリエーションも多い。本系列は気候が極めて寒冷な地域に配置されたA寒地仕様で、おもな追加装備は耐雪ブレーキ・スノープラウ・旋回窓・ホース類の凍結防止用加熱装置・つらら切り兼前面窓プロテクターなどである。全重連型の本機は1969年4月に五稜郭機関区に新製配備され、函館を拠点に長らく活躍し、1986年3月に引退した。 '82.10.3 函館本線 桂川-森 P:熊谷孝志
北海道地区に配置された500番代は半重連型と全重連型とを区別するため、区名札の隣に「半」「重」の識別札を挿入していた。1001以降は、500番代が799まで達したため貨物用800番代との重複を避け1001へ飛び番となったグループである。JRに継承されたものはこのグループが多く、釣り合い引き通し管を装備し、重連運転時に次位の補機まで単弁が作動するように改良された区分である。一部の半重連型で釣り合い引き通し管を新設し、全重連型に改造されたものも存在した。本機は1972年11月21日に五稜郭機関区に新製配置され、長らく道内各地で活躍し、JR移行後は北斗星色にリニューアルされ、2008年4月1日現在は函館運輸所にて廃車後、ミャンマーに譲渡された。 '82.10.17 函館本線 森-桂川 P: 熊谷孝志
1971年5月に落成、旭川に新製配置され、後に五稜郭に転属主に急行ニセコの先頭に立つなど活躍した、民営化前の1986年11月に長岡運転所に転属、晩年は磐越西線の人気者となり、レイルファンの熱い視線を浴びる。2002年2月に惜しくも引退し、廃車解体されている。最後まで補助灯を付けていた唯一の1輌である。 '98.5.8 徳沢-上野尻 P:安田好一
スルザー8LDA25A(1,060馬力)により発電し100kWモーター6個を駆動する電気式ディーゼル機関車である。1958年11月新三菱重工にて製造、大分機関区に配属される。1959年6月亀山機関区に転属、その後長きにわたり紀勢本線で客貨双方を牽引し活躍する。しかし1978年10月紀勢西線電化や紀勢東線多気〜新宮間へのDD51投入により1980年4月廃車となった。 当時紀勢東線多気以南で見られる機関車はこのDF50のみ、沿線住民からは親しみを込めて「赤釜」と呼ばれていた。DF50が牽引する下り旧型客車の最前部デッキから見える赤い機関車。ディーゼル音と共に微かに聞こえるモーター音を聞いて、電化路線への憧れを抱いていた少年期を思い出す。 '78.3 紀勢本線 栃原 P:楢井勝行
1974年6月小樽築港機関区に新製配備される。その後岩見沢第二機関区、鷲別機関区と移る。1987年4月国鉄分割民営化時にはJR貨物の所属となった。一時期五稜郭機関区に移るも短期間で鷲別機関区に戻った。2012年10月、運用から退き保留車となる。この後廃車となり2013年7月27日に開催された「JR貨物 輪西工場公開イベント in 室蘭」にて廃用部品が販売された。 '0808.23 根室本線 富良野 P:楢井勝行
釧網本線の活性化と、釧路湿原への観光列車として、旧型客車スハフ422245、貨車トラ71422、ヨ4350を改造して「くしろ湿原ノロッコ号」として1989年6月24日から運転を開始した。機関車はDE15 2508を客車と同じクリームをベースにJR北海道の黄緑、ブルーの帯を巻き、釧路湿原に生息しているタンチョウの頭と同じ赤を屋根に配していた。
1998年に新型客車に置き換えられ機関車、客車は廃車された。 '90.7.17 釧網本線 塘路 P:藤村巌雄
1971年1月吹田第一機関区に新製配備される。1988年3月稲沢機関区に転属、1994年5月発足した愛知機関区所属となり、関西本線・紀勢本線などで活躍した。東日本大震災の翌月、被災地に石油を輸送する臨時石油輸送列車の牽引に各地からDD51が集められた。急勾配と曲線が続く磐越西線を走るDD51 832、紀勢貨物でお馴染みの機体が遠い東北の地で頑張っていた。震災当日より生活することが精一杯で鉄道写真どころではなかったあの頃、撮影を再開するきっかけなったのがこの磐越石油臨貨であった。2011年4月中旬、東北本線の復旧に伴いその任を終了し愛知機関区に帰区した。しかしATF-PFを装備していなかったため2011年末には休車となり翌2012年2月に廃車解体された。 '11.4.9 磐梯町―東長原 P:楢井勝行
1974年5月小樽築港機関区に新製配備される。1986年11月鷲別機関区に転属、1987年4月国鉄分割民営化時にはJR貨物の所属となった。1997年3月B更新工事を受けエンジンがコマツ製SA12V170-1に換装され、同時に五稜郭機関区に転属となった。1999年4月には鷲別機関区に復帰した。後継のDF200の増備により老朽化したDD51 1082は2011年9月廃車となった。 '08.8.23 函館本線 岩見沢 P:楢井勝行
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1977年7月福知山機関区に新製配備される。1990年3月米子運転所に転属、1997年3月発足した後藤総合運転所の所属となり、山陰地区の客車列車牽引に活躍する。2006年3月寝台特急「出雲」の廃止により花形運用を失う。そして2007年10月JR貨物に移籍し愛知機関区所属となり、2009年4月には吹田機関区に転属する。2011年4月には東日本大震災の被災地に石油を輸送する臨時石油輸送列車を牽引した。2012年3月に廃車となり姿を消した。 '11.4.9 磐越西線 山都―荻野 P:楢井勝行
重連総括制御装置搭載・SG未搭載の貨物列車牽引用 DD51 800番台 の一輌である。1975年8月新製、稲沢第一に配備、1994年5月発足した愛知機関区所属となる。原色機であるため紀勢貨物でも人気を集めた。2011年12月運用外れ保留車となり2013年3月に解体された。 '10.12.19 紀勢本線 大内山―梅ケ谷 P:楢井勝行
簡易線に残る蒸気機関車の置換え用としてDD51初期車から降ろされたDML61Sを800PSにデチューンして搭載したDD16が1971年から1975年に製造された。1972年3月、DD16 2が国鉄長野工場で製造、1979年4月単線用ラッセル式除雪ヘッドを取付可能とすべく改造されDD16 301となり、冬季は飯山線や大糸線の除雪に使用された。国鉄分割民営化後はJR東日本に引き継がれ、冬季以外は小海線等で運行されるイベント列車の牽引等でも活躍した。この写真は僚機DD16 11とともD51 498が牽引し黒姫に向かう「SL信越120周年号」の後部補機として長野駅7番線に入線する様子を撮ったものである。折り返しの「DL信越120周年号」はDD16重連が牽引し晴れ舞台を飾った。除雪用モーターカーの普及により余剰となり2010年8月廃車となった。 '08.11.22 長野 P::楢井勝行
DD14機関車は、'60から'79年にかけて43輌製造された除雪用ディーゼル機関車(ロータリー式)である。基本型の0番代は8輌製造され、後に登場した300番代との外観上での主な特徴は、作業灯(シールドビーム)位置が屋根の上部に設置され、また、1〜3号機の汽笛はタイフォンであった。基本型の0番代は'98年に8号機の廃車にて、廃区分番号となった。 '96.5.1 羽越本線 坂町 P:長岡行夫
DE15は低規格線用の除雪用機関車で、機関車本体の基本構造はDE10形をベースに、ラッセルヘッド連結の装備が設けられ、除雪時には機関車本体の前後に2軸台車のラッセルヘッドを連結する。昭和42年から56年までに58輌が製造された。製造開始時は単頭式ラッセルヘッドで、折り返し時にラッセルヘッドの車体を180度方向転換させ機関車本体を反対側に連結していたが、方向転換不能のトラブル等の問題が発生したため、昭和51年から順次両側ラッセルヘッド車を連結する方式に改造された。製造時期や単線型、複線型の違いにより、0・1000・1500・2500番代に区分されており、改造による改番が発生している。DE15 1は、昭和42年12月日本車輌で製造され、旭鉄局に配置、昭和62年3月末五稜郭区で廃車後、鷲別区に留置されていた。
DE10 1500番代はSG非装備、DML61ZB形エンジンを搭載した番代で、1970(昭和45)から1978(昭和53)年までに265輌が製造された。ED10 1627は1974(昭和49)年3月、日本車輌豊川工場製鷲別機関区に配置され、そのまま転属することもなく1987(昭和62)年2月、JRに引き継がれることなく廃車となって13年の短い生涯を終えた。 '77.3.8 室蘭本線 本輪西 P:中川富士明
DD51 500番代から仕向地用に一般・寒地・寒地(北海道)仕様区分が行われ、又重連総括制御が可能となった。ただし501〜592を半重連・593〜799を全重連と呼ばれブレーキ制御が異なり、北海道の機関区などでは機関車の仕業札差入れに区分の札を表示している所も見られた。 '86.5.2 日出谷 P:長岡行夫
DD51 812号機は1970年7月2日に日立製作所水戸工場で製造されました。1970年7月4日に高崎第一機関区に配属となり、以降、八高線の貨物列車の牽引等に活躍。1987年4月1日にJR東日本に引継がれましたが、2001年1月10日に廃車となりました。最終走行距離は、1,094,404kmでした。 '81.9.27 拝島 P:鈴木岳人
昭和30年、日立製作所が試作した機関車。昭和32年に国鉄に借り入れられ、DF901として水戸機関区に配置、当初はぶどう色で使用されたが、昭和33年5月、大井工場にて開催されたA.R.C(アジア鉄道首脳者懇談会)鉄道展に展示の折、借り入れ前の塗り分けに戻された。終了後もそのままの塗装(赤とクリーム)で使用され、主に急行「北上」の牽引に当てられていた。昭和36年、国鉄に購入された。昭和39年、秋田機関区に移動したがあまり使われず、昭和46年廃車された。 '58.8.6 常磐線 柏 P:長谷川興政
ヤード構内での入換えを主に開発された機関車である。外観はセンターキャブ形状で左右に1基のエンジンを搭載し、1958年から1967年までに基本番代264輌、300番代83輌、500番代18輌、600番代51輌の計416輌が製造された。この600番代は最終グループで主な特徴は重連総括制御方式が採用されている。 '87.5.2 東新潟機関区 P:長岡行夫
DD51機関車は国鉄幹線からの蒸気機関車廃止(無煙化)を推進するために、1962年より649輌が製造された。この1号機は第1次試作型で日立製作所が製造し、後の2号機以降と比べると全体的に丸味を帯びた車体形状で、登場時にはぶどう色2号をベースに白帯塗装されていた。その後、朱色2号ベースの新標準色となったが碓氷峠鉄道文化むらに保存されることになり、現在は、登場当初の塗装色に戻された。 '87.4 高崎機関区 P:長岡行夫
この機関車は番号が示すとおり低騒音対応の試作車で1974年に製造され、排気音の低減のために運転席床下に排気消音器を設置し、また運転室に冷風装置がDLでは初めて搭載された。製造はこの1輌のみにとどまり、西湘貨物駅の入換えに使用された。2000年に廃車となっ後は、高碕運輸に売却された。 '02.8.12 高崎貨物(タ) '02.8.12 P:長岡行夫
このDE11は本線運用と入換に開発されたDE10に対して、入換用に特化したものがDE11形である。DE11には基本番台65輌の他に1000・1900・2000番代が誕生し製造車両数は116両輌で、現在も(1000・2000番台)11輌が首都圏で活躍してる。 '86.3 P:長岡行夫
DE10 500番代SGなしの量産タイプで74輌(501〜574番)製造された。この写真は大宮機関区所属機で川越線及び八高線寄居〜拝島間のセメント材料となる石灰岩運搬を、96時代からの業務を引き継いだ。 DE10 538 '78.1 八高線 毛呂-高麗川 P:長岡行夫
幹線・亜幹線の標準機ともいうべきDD51は649輌製作された。この16号機はDD51の基礎を固めたとされる3次型の1輌で、車体塗装やラジエターカバーの取付穴形状等が大きく異なっている。製造メーカが現在の「三菱重工業」の前身である「新三菱重工業」製で、このメーカーズプレートを装着していたのは649輌中でたった6輌であった。 '80.5 磐越西線 日出谷 P:長岡行夫
本線用ディーゼル機関車のDD51に対して支線の小運転及び入換えを目的に製作されたDE10は、世界的にも珍しい5動軸駆動が採用され十数年間で708輌製造され国内では最も多く製作された形式である。現在では0・500番代は消滅し1000番代が活躍中で、この若番5号機は新製配属地は一関で米子・遠軽・深川と移り、郡山で一生を終えた。 '86.5.2 会津若松 P:長岡行夫
DD17 1ロータリ除雪車はDD51 507をベースに1983年登場し会津地方で活躍。後に山形新幹線対応のために1991年、標準軌化改造を行い、新形式DD19 1となった。 '90.3 会津若松 P:長岡行夫
本輪西構内から伸びていた中卯埠頭線を行くDD1341[鷲]。1959(昭和34)年5月29日汽車会社で落成。最期は苗穂工の入替機で一生を終えています。この辺りは本線を挟むように引込線が延びていましたが,現在は大きく様変わりしています。 '77.3.8 室蘭本線 本輪西 P:中川富士明
1968年〜1970年にかけてに74輌 (501 〜574) が製作されたSG非搭載の貨物列車・入換えを主とした用途の番代区分。基本番代でSGが搭載されている部分と水タンクが設けられている部分には死重を積んで粘着力を確保している。520〜は放熱器散水のため水タンクを装備した。写真は急行「十和田」の編成を牽引して青森駅に進入する508号機。 '81.7.27 青森 P:大河原 健
649輌製造されたDD51形の初期53輌は重連総括制御装置を備えていなかったが、その後は装備されることとなり番号も500番台へと変更された。よって本機は重連総括制御可能となったDD51形のトップナンバーである。その中で501〜592号機はブレーキの引き通し管を持たない半重連タイプと呼ばれたもので、JRに引き継がれたDD51形はすべて593号機以降の完全重連タイプのみなので半重連タイプのDD51形は現存しない。DD51 501号機は狩勝新線の開業を間近に控えた1966年に連番の502、503号機とともに釧路機関区に新製配置され、最盛期には40輌以上配置された同区のDD51形の長兄として1986年の廃車まで釧路機関区を離れることなく活躍した。写真は小樽発釧路行のハネ付き夜行普通列車「からまつ」を牽引する姿で、この写真撮影3日後のダイヤ改正でこの列車も廃止されてしまった。 '80.9.28 根室本線常豊(信)-上厚内 P:大沢敏文
1964(昭和39)年汽車会社で製造。1台のエンジンで入換用のDD13形と同等の性能を発揮し、主要部品をDD51形と統一して製造費・重量・保守費の低減を図るべく試作された。本機はDD51形の量産車をもとに製造されており、外形は運転室が中央よりずれているセミ・センターキャブ形で、1号機のL字形と異なる。この形状は、後のDE10形等に引き継がれた。降雪期間はDD53とコンビを組み、DD53形が両エンジンを除雪用として使用した場合、総括制御により推進運転を行う。降雪期間外は入換用として使用できる設計としたが、軸重が重く空転しやすいという問題点があり、量産には至らなかった。1977(昭和52)年にはすで休車状態で、1986(昭和61)年に廃車された。 '78.1 新津 P:佐々木裕治
DD13形をベースに開発された除雪用ディーゼル機関車で、昭和37年から41年にかけて50両が製造された。機関車本体の前後にラッセル装置を装備し、折り返し地点の方向転換が不要となった。夏季はラッセル装置を外して入替機としても使用されていた。軸重が重く線路規格の低いローカル線で使用できなかったこと、ラッセル装置の着脱に手間がかかったことから、除雪用ディーゼル機関車はDE15形へ移行していった。 トップナンバーは、新潟地区で活躍した。 '78.1 新津機関区 P:佐々木裕治
標準軌に改造され鳥飼基地に配属されていたDD13型。高圧線下ながら、見学の許可を受けて基地内を自由に見学させていただきました。DD13を改軌改造して新幹線の建設工事及び補修車輌牽引用としたディーゼル機関車。登場時の形式は2000形(2001〜2007)で塗色は在来線用と同じ。後に912形と改称し、ブルーに黄帯という独特な塗装となった。高圧線下ながら、見学の許可を受けて基地内を見学させてもらった。 '64.10.16 新幹線鳥飼基地(大阪車輌基地) P:柿浦和敏
米国ジェネレルエレクトリック社製の、190psのエンジン2基、135kWの発電機2基を搭載し、70kWの電動機4台を駆動する電気式の入換え用機関車である。第二次世界大戦後に占領軍が持ち込んだ8輌の8500形の内の、5輌が1951年に国鉄に払い下げられてDD12形となった。主として東京近郊で使用され、1972年用途停止1974年に廃車された。 '67.3.26 東海道本線 保土ヶ谷 P:長谷川武利
制限軸重12tの簡易線の無煙化のために1971(昭和46)年から1975(昭和50)年にかけて65輌が国鉄長野工場、日本車輌、川崎重工で製造された。運転整備重量は48t。DD51に搭載していたDML61Zを本来の1000psから800psに出力を下げて使用。飯山線・大糸線用に2、4、5、13号機を除雪式ラッセルヘッドを取りつけ可能に改造、300番代とした。 ’81.11.22 飯山線 十日町 P:宮村昭男
ヤード構内入換や小運転を目的として生まれた凸型ディーゼル機関車。2基のDMF31S形エンジンの間に運転室を設け変速機は液体式である。それまで入替え機として適切な出力を備えたディーゼル機関車がなく、その出力強化を目的として1958年から1967年までの間に398輌製造された。110号機までは前照灯が1灯で連続定格出力370PS/1300rpmのDMF31Sエンジンを搭載、111号機からは前照投をシールドビーム2灯としエンジンも連続定格出力500PS/1300rpmのDMF31SBに変更された。ローカル線には軸重が重すぎる上に、列車暖房装置を持っていなかったのでDE10が登場してからは入替と貨物支線専用となった。ヤードや貨物支線が廃止された為に余剰となりJRに継承されることなく1987年に全機廃車されてしまったがDD51形のベースになった事など鉄道車輌開発史上重要な機関車である。 ’71.11 福知山線 尼崎-塚口 P:高橋 明
1963(昭和38)年に汽車会社で製造された。DD51形と同じDML61S形エンジン1基と液体式変速機1基を搭載。田端に配置されハンプの押し上げなどに使用されたが、後に、新潟地区に移り、ロータリー式除雪車DD53の補機として用いられた。試作的要素が色濃く2号機とは大きく形態が違う。’86年3月廃車。 ’84.11.29 新津機関区 P:宮村昭男
DD91の量産機として1966(昭和41)年6月に従来のDLにはない独特なスタイルで登場した。形式番号が54になったのはDD53の次に造られた形式であるため。’68年山陰本線湖山駅で下り急行[「おき」を牽引中2号機が推進軸折損のため脱線転覆事故を起こし、続いて翌年の’69年11月に11号機、14号機が続けざまに同様の重大事故を起こした。その後推進軸の強化などの対策がとられ、’74年の山陰本線完全無煙化により活気を取り戻すかのように思われたが、この頃から液体変速機故障が多発し’78年6月、全機運用から離脱した。写真はは’71年12月24日に落成し‘77年11月14日付けで廃車された同形式中もっとも短命だったラストナンバー機。 ’72.11 山陽本線 尼崎─大阪 P:高橋 明
1966年6月24日落成したDD54形式のトップナンバー機。1号機から3号機が先行試作機として登場し福知山機関区に配属され 山陰本線京都〜福知山間および福知山線の運用に就いた。その成績が良好であったため2次車として4号機〜8号機が量産体制のもと落成し同じく福知山機関区に配属された。1号機は3号機とともに1968年10月に重連でお召列車を牽くという栄誉にも浴している。1次型最大の外見上の特徴はヘッドライトの位置が前窓上部にあったこと。2次車以降はテールライトと一体化され窓下に移されている。同形式は推進軸の折損事故が相次ぎ、同部の強化工事が行われたが、今度はその強化工事のため走行中の振動が強まり液体変速機にトラブルが頻発し、全機短命に終わった。それ故 この赤い箱型機関車は薄幸の機関車として世に知られている。この日も機関車乗務員が停車中、しきりに下回り附近を気にかけて点検していた。 ’72.8.25 播但線 生野 P:高橋 明
DD53は高出力のロータリー式除雪機関車で、汽車会社において1965(昭和40)年〜1966(昭和41)年にかけて3輌が製造された。DD51が基本となっているが、車体は箱型で外観は大きく異なっている。DD51同様1100PSの機関を2基搭載しており、降雪量が少ない時は一方を除雪用、一方を走行用に使用、降雪量の多い時は両方の機関を除雪用に回し、DD20またはDE10が補機となり、後押しをする。降雪期以外はロータリーヘッドを外し、通常の本線運用に就くことが可能。写真のDD53 1は旭川配属時のもので、その後、新庄に転属、1987(昭和62)年、廃車となっている。現在、碓氷鉄道文化むら(群馬県)で、ロータリーヘッドを連結した状態で保存されている。 ’73.3.31 宗谷本線 和寒 P:田中一弘
DD51はまだ消えた車輌ではないと思われるかもしれないが、この写真の20号機のような初期形はとっくの昔に過去帳入りしている。20号機は1964年日立で製造された第4次車で、この年次からエンジンが100PSアップのDML61Zになった。当然SG付きだが非重連タイプである。廃車は1986年、もう20年も前だ。 '80.1.28 会津若松 P:宮村昭男
DF50は1957(昭和32)年に登場した電機式ディーゼル機関車。国産ディーゼル機関車としては初めて量産ベースに乗った形式。1〜65までが三菱重工がライセンス生産で製作したスイスのズルツァー社のエンジンを搭載、川崎車輌と日立製作所のものは500〜で、ドイツのマン社のエンジンをライセンス生産し搭載している。DF50 5正面窓が大きなのが特徴の初期型で、亀山機関区で’78年12月に廃車となっている。'78年10月の宮電化直前。すでに架線がはられている。 '78.8 紀勢本線 新宮 P:松尾彦孝
DD20 2のセミセンターキャブを踏襲して1000PS機関を搭載、除雪装置着脱の手間を省き、両端に固定式ラッセル装置を付けた除雪機として1963(昭和38)年に1両だけ製造されて新潟地区に配備された。除雪装置の裏に収納される連結器を出すと入換機となるが、運転席からの視界が悪いなどの不便があり、1986(昭和61)年に廃車された。 '64.3.30 新潟運転所 P:内藤健作
1950年代後半から始まった車両会社からの提案(借入)機のなかでも最後の部類で、M.A.N.の1100PSを搭載した液体変速のCC機。1962(昭和37)年から千葉鉄管内で使われたが、正式採用されずに終わる。車体はクリームと濃緑で、HITACHIと大きく描いてあった。 '62.11.17 千葉気動車区P:内藤健作
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1959年に日本車輌で製造された入れ替え用ディーゼル機関車。1〜110までが1次形とされ、エンジンはDMF31(370PS)を2台搭載する。動力は車体中央の液体変速機からプロペラシャフトを介して各車軸の減速機へとつながる。1次形のうち84までは弓型イコライザーの付いたDT105台車を履くが、写真の37はダンパーが撤去されている。’75.1.18 隅田川 P:青柳 明
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DD13を元に新製されたロータリー式除雪機関車で、1961〜1965(昭和36〜40)年に汽車会社で8輌が作られた。前端に運転のある特異な姿となっており、冬季はロータリー式除雪ヘッドが取り付けられる。冬季以外は除雪ヘッドを外し入換に活躍した。エンジンはDMF31SB-Rを2基搭載しており、積雪量が少ないときはエンジン1基を除雪用に、もう1基を走行用に使用。積雪量が多いときは2基とも除雪用に使用し、後押しの補機を連結する。1987年2月廃車。 '67年頃 旭川 P:笹本健次
動力伝達装置に液体式を初めて使用し、エンジンは気動車と同じDMH17を採用したディーゼル機関車であるDD11の2次車だが、こちらは入れ替え専用の設計に改められたもの。冷却関係も1次車とは違うため、全長や台車間距離が長くなり、それと共にボンネット前部やフロントビーム廻りのデザインも変更されている。7号機は九州の竹下気動車区に配置され、火気を嫌うガソリンタンクなどの入れ替えに従事した。その後、早岐区に転じ’74年に廃車されている。 ’69.3.30 竹下気動車区 P:青柳 明
1970(昭和45)年に日立製作所で試作された貨物用ディーゼル機関車。2000PSクラスの大型エンジン1基で5軸全軸を駆動させる方式をとり、DD51の後継機となるべく企画・設計された。竣功後は中央本線、伯備線で試験的に使用されたが、故障が多発、電化の進展もあって、結局、量産には至らなかった。休車となって長い間岡山機関区の片隅に放置されていたが、'86年廃車となってしまった。現在、岡山電車区気動車センターで保存されている。 '77.4.7 岡山機関区 P:山下修司
東芝が米国GEと技術提携して1954(昭和29)年に試作したディーゼル・エレクトリック機で、エンドキャブ側には米国流にデッキが備えられている。エンジンはクーパーベッセマーFWL6T(600ps/1000rpm)1基で、運転整備重量も60t近くあった。試験的に借り入れ後、1958(昭和33)年に国鉄籍となり、大宮の入換えに使用された。当初は赤と黄色の斬新な塗り分けが目をひいた。'66.3.19 大宮 P:笹本健次
1953(昭和28)年の誕生以後、長らく北陸線で活躍してきたDD50形は、その最後の働き場所を米原〜田村間の交直接続区間とした。ちなみにこの区間は、E10、ED30など、一風変わったカマが働いたことでも知られている。写真は、お役御免となって米原区の転車台脇に放置されていた頃の姿。画面手前がDD50 5とDD50 6の二次型ペア、奥がDD50 2とDD50 3の一次型ペア。別の場所にDD50 1とDD50 4の一次型+二次型のペアも留置されていた。DD50形は単独での運転も可能だが、背面合わせの重連状態で使用するのが基本。’76.8.20 米原 P:滝澤隆久
昭和41年誕生以来、トラブルに泣いたDD54の晩年の姿。C57が走っていた頃、播但線の長谷〜新井間では貨物列車の前補機にこのDD54が付きファンには嫌われたが、昭和52年頃ともなれば全機廃車も噂され、撮影する者の数も増えてきた。山陰本線、福知山線、播但線で運用についていたが、ほんの一時期伯備線にも入っていた。特急〈出雲〉の牽引以外、さして目立った活躍もしないまま、昭和54年全機廃車となった。写真の22号機は4次車。姫路機関区 '77.2.12 P:山下修司