1947年東急からデト3011を譲り受けて、電貨2となった。保線作業などに使われ、昼間、続行運転で白色円板を付けて、客電の後を追いかけていました。1970年3月廃車、江ノ電から貨車がなくなりました。 '65.10.2 長谷 P:高澤一昭
- TOP
- 随時アップ:消えた車輌写真館
- 私鉄・貨車
私鉄・貨車の最近の記事
古い鉱石車ヲキ1形の上部構造を撤去、片端に新造した車掌室を乗せた車掌車で、極端に短い車長ながらボギー車でL型のサイドビューをもつ珍車。時代物のダイヤモンドトラックは荷重減に合わせて枕バネが幅の狭いものに取り替えられている。60年代末に9輌誕生したが、緩急車の使用が廃止となったため、1987年から88年にかけて廃車。ヨ15が三峰口で保存展示されている。 '81.11.14 秩父 P:小西和之
ベイヤーピーコックの2Bテンダー蒸気機関車を追って館林機関区を訪問したのですが、庫内で小さなトロッコを発見しました。明治時代からずっと庫内で活躍していた古典貨車?ではないでしょうか。 '63.3.31 東武鉄道館林機関区 P:坂内定比古
大型のロータリー除雪車。アルコから輸入された601、602をもとに国産化、計14輌製造された。車体の中にあるのはほとんど蒸気機関車で、枕木方向の回転を巨大なかさ歯車でレール方向の回転に変え、ロータリーを駆動する構造。炭水車を含めると重量は80t近く、運転もロータリー操作要員の他に蒸気機関車の機関士と助士を要し、さらに推進機関車も必要で、蒸気機関車が営業線から消えるより一足早く全廃された。 '70.7.23 宗谷本線 稚内 P:小西和之
土山線の名物客車ハフ7と手とつないだワ127。リベット打ちの鋼製車体ながら足回りはかなり古めかしいが、番号下の2本線から国鉄直通可能とわかる。昭和40年ころにはまだこんな私有貨車があちこちの中小私鉄にも見られた。右に積まれたズダ袋は主要貨物の肥料を入れる袋だろうか。この時点では蒸気機関車が主力だったため、レールの間にアシュが落とされている。 '65.8.16 別府港 P:小西和之
モト150形は奈良線の前身である大軌が1921年から22年にかけて5輌製造した無蓋電動貨車で、番号は何度も変遷している。全長11m余の小型車、台車幅と車体幅がほとんど同じで、荷台に突き出た塔の上に載せたパンタが大きな特徴である。パンタ高さの比からわかるように運転台は極端に低くて狭く、もちろん座る広さはないが立って運転するにも狭かっただろう。砂利を積んで西大寺駅に停車中の姿で、当時は西大寺駅にもこのような枕木積みの貨物ホームがあった。50年以上にわたって地味な仕業を続け、1500Vへの昇圧にともない1974年に廃車された。 '62.3.7 西大寺 P:小西和之
江若鉄道ラストラン前日に三井寺下区を訪れたとき、片隅の赤錆びた留置線に数輌の貨車が「休車」とペンキ書きされて置かれていた。その中で唯一の木製有蓋車がワ7。この貨車は10t積みで、1931年鉄道省から譲渡されたもの。使われなくなって久しいと思われる留置線は、隣接する民家の物干し場となっていたが、洗濯物に隠れて見えないバネ受けはシュー式である。 '69.10.31 江若鉄道 三井寺下 P:小西和之
昭和10年に焼失したテキ8の部品を利用し翌11年3月に加藤車輌で製造された。撮影当時、福井口での入換えに使用されていた。 '74.8.22 越前本線 福井口 P:三津安永
丸岡鉄道から引継いだ全長8115mmの4軸電動貨車で、昭和5年加藤車輌で製造された。 '74.7.23 京福電気鉄道越前本線 勝山 P:三津安永
相鉄トム260の、簡易スノウプロウ付きの姿、手前がトム289、奥がトム290です。
平板ガラスの正面窓には、空気式ワイパーが取り付けられています。 ’74 星川 P:長谷川武利
相模鉄道トム260形285。相模川で採取された川砂利輸送に力を注いでいた相模鉄道。その開業時から昭和30年代、そして40年代直前の川砂利採取禁止の時点まで、多くの無蓋貨車を保有し貨物列車を運転してきた。このトム260形は神中鉄道の開業に合わせた1925(大正15)年に、汽車会社で33輌が製造された観音開き式の15トン積無蓋車。当初はト260形という形式であった。川砂利輸送が終了してもなお、同社の厚木貨物駅構内に多くの無蓋車が留置されていたが、徐々に廃車が進み、最終的にはトム275、288、289、290の4輌が、簡易スノープラウを装着した姿で残った。首都圏で見られる観音開き式無蓋車として貴重な存在であったが、近年廃車となり惜しくも解体された。'70年頃 厚木貨物駅 P:滝澤隆久
小田急電鉄トフ100形106。創業の時点から1984(昭和59)年までの長きにわたって運転されてきた小田急の営業貨物列車。その貨車編成のシンガリを務めてきたのは、トフ100形とトフ120形無蓋緩急車である(前者は101〜114、後者は121〜126が在籍)。どちらの形式も“小田急のトフ”として古くからファンに知られた存在。形態的な差はほとんどない。トフ100形は自社線内での運用だが、トフ120形は国鉄線乗り入れ承認車。おそらくは国鉄南武線や相模線沿線に存在した川砂利採取施設まで運転されていたものと思われるが、ヨンサントウ直前の1967年(昭和42)年に廃車となっている。なおトフは貨物営業終了後もなお、少数が事業用として残されていたが、最後まで残ったトフ104が1996(平成8)年に廃車となり、小田急の貨車は全滅した。'73年頃 相武台前 P:滝澤隆久
西武鉄道ト31形239。小田急や相模鉄道と共に、西武鉄道もまた、砂利輸送のための無蓋車(10トン積のト、15トン積のトム )保有率が高かった。大正初年製造のト31形(写真)はトとしては最大勢力を誇った形式で、池袋線、新宿線は勿論、最盛期は砂利輸送のドル箱路線であった多摩川線など、全ての貨物列車運転線区で姿を見ることが出来た無蓋車である。しかし古い時代の生まれゆえに老朽化も著しく、廃車は積極的に進められた。一方この形式は、戦後の一時期実施された糞尿輸送の木製タンク車に改造されたり、自社所沢工場製の有蓋緩急車ワフ1形の種車となったりと、話題も多い。現役として最後まで残ったのは多摩川線の是政駅にワフと共に待機していた保線用の4輌であるが、これもいつしか姿を消した。余談ながらかつて保谷の職員養成所構内には、電気機関車E11形、蒸気機関車5号と共に、2輌のト31形が保存? されていた時期があるが、これも知らぬ間に姿を消してしまった。'73年頃 是政 P:滝澤隆久
小田急電鉄ホキフ300形301。保線作業の省力化を目的として、1962年(昭和37年)に東急車輌で6輌が製造されたホキ300形。その6輌のうちホキ301、303、304、306が’65年(昭和40年)に車掌室付きホッパ車に改造され、種車の旧番号のまま使用開始となった。編成はホキフ+ホキ+ホキフの3輌を基本とし、主に終電後の時間帯に電機に牽引されて活躍した。車体の塗色はロマンスカーのそれに準じたグレーである。現在でこそ、旧国鉄のホキ800形の払い下げを受けて保線用に使用する私鉄が多い中、小田急のホキとホキフはホキ800形に匹敵する形式を新製し、かつ早い時期から使い始めた例として特筆に価しよう。こうしたホッパ貨車も、モーターカーや保線機械などに押されて出番がなくなり、廃車となって久しい。'70頃 相武台前 P:滝澤隆久
1949(昭和24)年に、木造無蓋電動貨車デト形の改造名目で製造された無蓋電動貨車。同時にデト31も作られている。1964年(昭和39)年にも2輌(デト33,34)が増備された。主電動機は93.3kWX4、ATSの設置時に前照灯がシールドビーム化された。1988年に1000系を改造して誕生したデト10形とデチ15形に役目を譲って引退した。'76.6.27 新町検車区 P:青柳 明
1913(大正2)年、日本車輌製の木造ボギー貨車。軽便らしく荷重は4t。撮影当時はもうすでに輸送の担い手はトラックに変わり、貨車の出番はあまりなくなっていた。ホジなどに1輌だけつながった姿が、ローカルムードをかもし出していた。 '68年 笠岡 P:笹本健次
東武鉄道ヨ201形201。秩父鉄道と並び、関東地区の民鉄では最大級の貨物輸送量を誇った東武。古い時代より数多くの緩急車を保有していたが、いずれも老朽化著しく、1960年代に入るとそれらの緩急車を種車とした新しい緩急車が自社の杉戸工場で作られた。本形式は、最後まで残ったヨ101形を若干簡素化した形態が特徴で、ヨ101形よりも早い時期に姿を消している。’86.2. 業平橋 P:滝澤隆久
小田急電鉄ワフ1形2。小田急の緩急車と言えばトフが有名だが、その影に隠れたワフも地味ながら忘れられない存在。1929(昭和4)年に日車で3輌が製造された木造車ワフ1200形を前身とし、大東急時代にワフ1形に形式変更。1958(昭和33)年に東急車輛で鋼体化改造が実施されて国鉄直通車となった経緯がある。廃車は1970(昭和45)年。'69 相武台前 P:滝澤隆久
旧番号ち18。大正6年天野工場製の10トン積無蓋車。1995年まで大場車庫に残されていた。’80.2.16 大場 P:名取紀之