相模鉄道トム260形285。相模川で採取された川砂利輸送に力を注いでいた相模鉄道。その開業時から昭和30年代、そして40年代直前の川砂利採取禁止の時点まで、多くの無蓋貨車を保有し貨物列車を運転してきた。このトム260形は神中鉄道の開業に合わせた1925(大正15)年に、汽車会社で33輌が製造された観音開き式の15トン積無蓋車。当初はト260形という形式であった。川砂利輸送が終了してもなお、同社の厚木貨物駅構内に多くの無蓋車が留置されていたが、徐々に廃車が進み、最終的にはトム275、288、289、290の4輌が、簡易スノープラウを装着した姿で残った。首都圏で見られる観音開き式無蓋車として貴重な存在であったが、近年廃車となり惜しくも解体された。'70年頃 厚木貨物駅 P:滝澤隆久
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2005年12月アーカイブ
奥羽本線の福米間の板谷峠用にEF15に電力回生ブレーキを搭載して誕生した形式で、12号機はEF15 23を改造したもの。奥羽本線のEF16は、EF64の投入による上越線への転属時に、ほとんどの車輌が回生ブレーキを撤去してEF15へ戻されたが、12号機は転属後もEF16のままだった。窓のひさしや汽笛の覆いに福米時代の面影を残しているものの、屋上水タンクや電気笛は撤去されている。上越線では水上機関区に配置されていたが1980(昭和55)年に廃車された。'76.4.18 水上機関区 P:青柳 明
紀勢本線で活躍後、亀山機関区に転じ、信楽線の貨物列車を中心に活躍。同機が運用についていた1973(昭和48)年ごろは、草津線は無煙化されており、亀山から柘植までは回送をかねて草津線に直通するDD51の貨物列車の後部補機を務め、柘植で一休みし貴生川に単機で回送、信楽線を一往復したのち、貴生川からDD51の貨物列車の後補機となって亀山に帰るといういたってのんびりとした運用だった。信楽線は貴生川〜信楽間わずか14.8キロだが、途中33‰の急勾配があり、編成は短いながらもブラスト音も高らかに挑んでいた。312号機に装備された重油タンクは近畿地方によく見られる嵩の高いタイプ。なお同機は現在は愛媛県五十崎町に静態保存されている。'73.5.16 関西本線 柘植 P:山下修司
1942(昭和17)年川崎車輌製。鳥栖、酒田などを経て豊岡機関区所属となる。播但線で活躍。豊岡配属機は鷹取式集煙装置装備の機が半数をしめていた。同機は5、46、113、95、127とともに集煙装置非装備であった。スキー臨の牽引機回送のため三重連がしばしば運転されたが、3輌とも非装備機が揃うことは稀だった。同線無煙化後は浜田に転じ、山陰本線で余生を送った。現在は益田市に静態保存されている。'71.4.23 播但線福崎 P:山下修司
小田急電鉄トフ100形106。創業の時点から1984(昭和59)年までの長きにわたって運転されてきた小田急の営業貨物列車。その貨車編成のシンガリを務めてきたのは、トフ100形とトフ120形無蓋緩急車である(前者は101〜114、後者は121〜126が在籍)。どちらの形式も“小田急のトフ”として古くからファンに知られた存在。形態的な差はほとんどない。トフ100形は自社線内での運用だが、トフ120形は国鉄線乗り入れ承認車。おそらくは国鉄南武線や相模線沿線に存在した川砂利採取施設まで運転されていたものと思われるが、ヨンサントウ直前の1967年(昭和42)年に廃車となっている。なおトフは貨物営業終了後もなお、少数が事業用として残されていたが、最後まで残ったトフ104が1996(平成8)年に廃車となり、小田急の貨車は全滅した。'73年頃 相武台前 P:滝澤隆久
帯広機関区の9600と言えば、やはり9633が保存機となった後の、最若番機9654が筆頭に挙げれれる。他はさしたる特徴を持った機はいなかった。1975(昭和50)年当時は士幌線、広尾線を中心に運用されていたが、その両線とも現在は廃止となっている。撮影当時は「愛国〜幸福」の切符がブームで、愛国駅、幸福駅には観光客の姿もあった。39670のテンダーは樺太庁向けの9600と同様の機炭間に巨大な風防が付いたもので、キャブは密閉化されていた。正面のナンバープレートは396を形式とみなして製作してしまったため、6と7の間が間延びしてしまったエラーのプレートだった。 '75.3.31 広尾 P:山下修司
西武鉄道ト31形239。小田急や相模鉄道と共に、西武鉄道もまた、砂利輸送のための無蓋車(10トン積のト、15トン積のトム )保有率が高かった。大正初年製造のト31形(写真)はトとしては最大勢力を誇った形式で、池袋線、新宿線は勿論、最盛期は砂利輸送のドル箱路線であった多摩川線など、全ての貨物列車運転線区で姿を見ることが出来た無蓋車である。しかし古い時代の生まれゆえに老朽化も著しく、廃車は積極的に進められた。一方この形式は、戦後の一時期実施された糞尿輸送の木製タンク車に改造されたり、自社所沢工場製の有蓋緩急車ワフ1形の種車となったりと、話題も多い。現役として最後まで残ったのは多摩川線の是政駅にワフと共に待機していた保線用の4輌であるが、これもいつしか姿を消した。余談ながらかつて保谷の職員養成所構内には、電気機関車E11形、蒸気機関車5号と共に、2輌のト31形が保存? されていた時期があるが、これも知らぬ間に姿を消してしまった。'73年頃 是政 P:滝澤隆久
1939(昭和14)年日本車輌製。宮原機関区、西舞鶴機関区、米子機関区、加古川機関区を経て1972(昭和47)年3月に中津川機関区に配属。明知線を中心に運用された。明知線のC12の運用は中津川を早朝4時54分単機で出て恵那から463レで明智に14時19分着、終点の明智で1泊し、翌日8時46分発の462レで恵那へ戻り、単機回送で中津川に18時18分帰区するという、2日間にまたがるまことに悠長な仕業だった。1973(昭和48)年11月木曽福島機関区に転属、翌1974(昭和49)年6月廃車。現在は愛知県西尾市に静態保存されている。'72.12.28 中津川機関区 P:山下修司
小田急電鉄ホキフ300形301。保線作業の省力化を目的として、1962年(昭和37年)に東急車輌で6輌が製造されたホキ300形。その6輌のうちホキ301、303、304、306が’65年(昭和40年)に車掌室付きホッパ車に改造され、種車の旧番号のまま使用開始となった。編成はホキフ+ホキ+ホキフの3輌を基本とし、主に終電後の時間帯に電機に牽引されて活躍した。車体の塗色はロマンスカーのそれに準じたグレーである。現在でこそ、旧国鉄のホキ800形の払い下げを受けて保線用に使用する私鉄が多い中、小田急のホキとホキフはホキ800形に匹敵する形式を新製し、かつ早い時期から使い始めた例として特筆に価しよう。こうしたホッパ貨車も、モーターカーや保線機械などに押されて出番がなくなり、廃車となって久しい。'70頃 相武台前 P:滝澤隆久
1938年(昭和13年)三菱重工製。蒸気機関車ブームの1970年当時の小海線には144、149、150、159の4輌のC56が配置されており、3往復あった貨物列車を牽引していたが、高原野菜出荷のための臨貨や〈八ヶ岳高原号〉の走る夏季には4輌では間に合わず糸魚川区などの他区から応援を頼まなければならなかった。他区からやってきた機関車に比しても150の手入れのよさは際立っており、中込の代表機のような存在。同駅の「DISCOVER JAPAN」のスタンプにも描かれている。150号機は福井、糸魚川を経て中込機関区に配属1972(昭和47)年10月の小海線無煙化後は浜田機関区に転じ、三江北線の貨物列車や入換に活躍。1975(昭和50)年2月に廃車となっている。'67.4.30 中込 P:笹本健次
1914(大正3)年に川崎造船で、鉄道省の9613として誕生。その後、1955(昭和30)年に廃車となるも、三菱芦別炭鉱専用鉄道に国鉄ナンバーの9613のまま譲渡された。1963(昭和38)年には同じ系列の三菱大夕張に移籍され、番号はNo.7となった。機関士側の前面に旋回窓の取り付けなどの近代化改造が施されたが、テンダーやSキャブに初期の9600の特徴を残していた。大夕張炭鉱の閉山に伴い1973(昭和48)年秋に廃車となった。'73.3.20 清水沢 P:青柳 明
C58 122は小郡機関区に所属、宇部線、小野田線で貨物列車を牽引、見所もない線区でカメラを向ける者すらまれな地味な運用に付いていたが、1972(昭和47)年10月に小牛田機関区に転属、翌年3月に行なわれた特急「あけぼの」、急行「津軽」の陸羽東線迂回運転での立役者となり、有終の美を飾った。'72.4.23 小郡機関区 P:山下修司
C62、C59の急行用大型蒸機は糸崎のスター。その影に隠れつい忘れてしまいがちだが、入換用のC50がいた。66、88、142、154などが糸崎駅構内の入換に従事していたのだが、やはりカメラを向ける者は少なかった。煙突に丸い網を載せたような簡易な構造の火の粉止めをつけ、ゼブラ塗装、テンダーにはミドリ十字、典型的な当時の入換機のスタイル。糸崎のラウンドハウスは鉄骨造りで風格には欠けるが、柱が細く格納された機関車を撮るのには好都合だった。'70.8.20 糸崎機関区 P:山下修司
1939(昭和14)年三菱重工製。戦後は北陸本線で活躍していたが、昭和40年代前半に豊岡機関区に転属、山陰本線、播但線で活躍した。三重連の先頭に立っている写真も見られ、関西・中国の蒸機ファンにはお馴染みの存在。1972(昭和47)年宮崎機関区に転属、翌年10月改正から急行〈日南3号〉は下り宮崎〜都城間をC57が受け持つことになり、この113号機もしばしば牽引。姿のいい急行編成を牽いて夕方の日向路を駆けた。'72.1.15 姫路 P:山下修司
横須賀線用2扉クロスシート車モハ32系の付随車として1930(昭和5)年から製造されたサハ48001〜028は、戦後、70系電車の登場によって地方線区に転出、その多くが短編成化のためクハ47に改造された。このクハ47063は元サハ48016。身延線で活躍したが、ワインレッドの115系と置き換えられ、1982(昭和57)年廃車。
写真は低屋根化改造されたクモハ14(元モハ32)と組んで活躍中の姿だが、クモハ14は一足早く1971(昭和46)年までに全車廃車となった。'67.4.30 甲府 P:笹本健次
※クハ47について詳しくは『ガイドブック最盛期の国鉄車輌1』をご覧ください。
中央線の電化に際して、諸外国から輸入された電気機関車が東海道筋から集められて使用されることとなった。主に集められたのはED17形であったが、さらにED56形やED57形などの少数派も仲間入りした。それでも不足する機関車は新製して充当することとなり、誕生したのが国産機ED16形であった。1931(昭和6)年に、三菱、日立、芝浦/汽車、川車/川船で全18輌が作られたED16形は中央線を皮切りに、上越線、阪和線などに散って客貨列車牽引に活躍。最終的には立川機関区に全機が集結して南武線、青梅・五日市線の貨物列車を牽引した。登場時から最終時期に至るまで外観的に大きな変化が生じなかった機関車だが、最終時期の特徴を強いて挙げれば、前照灯の大型化、標識灯埋め込み…といったところだろうか。ただし妻板に埋め込まれた標識灯は、その位置が内側寄り、下側寄りなど機関車によりまちまちで、それが逆にED16形各号機の表情を微妙に変えているのが面白い。写真の3号機は1931(昭和6)年5月に三菱製。'69.6.1 立川 P:笹本健次
1937(昭和12)年汽車会社製。坂町機関区や長町機関区を経て、30年代後半、北日本から直方機関区ににはるばる転属。蒸気機関車末期、門司機関区の45号機、鳥栖機関区の10号機とともに九州に残ったナメクジとして人気があった。のちに45号機とともに南延岡機関区に所属。昭和49年(1974年)6月12日、僚機となった45号機と同日に廃車となった。この両機が九州最後のナメクジである。 '72.8.1 新飯塚 P:山下修司
車籍上は木造省電サハ19015を1941(昭和16)年に譲受したもので、当初はハニ254を名乗った。戦後、鋼体化によりクハニ805に改番、さらにモハ3630形に合わせて行われた更新および荷物室撤去によりクハ3662に改番された。1977(昭和52)年から投入された5200系(もと小田急1900形)に置き換えられ廃車。'69.6.15 P:笹本健次
1939(昭和14)年三菱重工製。名古屋機関区から浜田機関区に転属、晩年は山陰本線で活躍した。新幹線岡山開業を記念して1972(昭和47)年3月から岡山で交通博覧会が開催されたが、そのイベントの一環で浜田からこのC57 80を借り受け岡山〜糸崎間に〈交通博号〉が運転された。写真はその際のもの。運転開始日前日に機関区構内で慣らし運転をしていた。デフには交通博のシンボルマークを取り付けてあるが、ヘッドマークはまだ枠だけである。煙室前端が直角になったタイプ。スノープラウは先端が開閉する浜田機関区独自のものを装備。同年7月に廃車となった。'72.3.19 岡山機関区 P:山下修司
西武鉄道E51形52。東海道本線の電化に際して、当時の鉄道省は、欧米諸外国から様々な電気機関車を輸入して試用→使用した。スイスのブラウンボベリィから2輌が輸入された1020形(1928年にED12形に形式変更)もそのひとつで、欧州型を髣髴とさせる特徴的なスタイルと複雑な構造とを特徴とする機関車であった。主に東海道本線、横須賀線の貨物列車牽引に使用されたが、複雑な構造が災いして戦後1948年1949年に2輌が相次いで廃車。幸いにも1950年に西武鉄道がこれを引き取ることとなり、大宮工場で軸重軽減工事、外観の小改造を含む工事が実施されて入線。西武ではE51形51、52となって池袋線および新宿線の貨物列車牽引機として活躍した。E51は1976年に動輪のスポークに亀裂が入って休車、そして廃車。残ったE52のみが孤軍奮闘を見せたが、これも1986年に廃車。ただし幸いにも、西武に余生を送った旧国鉄のED電機と共に横瀬の車輌基地に保存されているのは喜ばしい。1969.4.26 所沢 P:笹本健次