ク54として1928年製造された車長15mの木造車。1952年には100形に組込まれモ110+モ112+ク54となり大牟田線系統最後の営業用木造車として運用された。1960年、100形と同一の15.6m車体が新製されク155(2代目)に改番された。100形は1975年から廃車が始まり1984年に全廃となった。尚、初代ク155は1952年に中間電動車化されたモ112である。 '81.11.13 西鉄大宰府線 大宰府 P:楢井勝行
ク54として1928年製造された車長15mの木造車。1952年には100形に組込まれモ110+モ112+ク54となり大牟田線系統最後の営業用木造車として運用された。1960年、100形と同一の15.6m車体が新製されク155(2代目)に改番された。100形は1975年から廃車が始まり1984年に全廃となった。尚、初代ク155は1952年に中間電動車化されたモ112である。 '81.11.13 西鉄大宰府線 大宰府 P:楢井勝行
181系「あさま」置換用として1975年5月長野運転所に新製配備、EF63と連結され碓氷峠を越えた。N204編成に組成されていた1990年12月、グレードアップ(床嵩上げ・側窓拡大・シートピッチ拡大910mm→970mm)改造を受け濃緑のあさま色になり前面特急マークが撤去された。1997年10月長野新幹線開通によりN202編成に改番、「あずさ」「かいじ」夜行急行「アルプス」に活躍の場を移す、そして青いあずさ色に塗装変更された。E257系によりN202編成は置換、2002年3月に国鉄色へ復元、2002年5月に転属、クハ189-504は田町電車区所属の波動輸送用H61編成6号車となった。写真は「ホリデー快速河口湖3号」、EF63連結用ジャンパ栓が塞がれたスカートが確認出来る。2013年3月大宮総合車両センターに転属、最後は185系に置換られ2013年10月廃車解体された。 '08.10.11 中央本線 大月 P:楢井勝行
両運転台・便所なし車で、1963年〜1966年に106輌が製造された。0番代車は温暖地向けの一般車で1〜100の100輌が製作され、基本仕様はキハ35の0番代に準じている。国鉄分割民営化後もJR旅客会社に承続されたが、老朽化や電化に伴い2013年にはJRグループ゚より全廃された。 '94.2 八高線 毛呂-高麗川 P:長岡行夫
新潟向き クハ481-347 モハ485-1042+モハ484-1042 モハ485-1021+モハ484-1021 クロハ481-1030 上野向き から成る、新潟車両センター所属車である。普通車の座席は485系3000番代に準じた座面スライド式リクライニングシート、そして夜行列車使用時に備え減光照明を有する。僚友のK1編成と共に2003年3月末より老朽化した165系に替わり夜行快速「ムーンライトえちご」で運用された。2009年3月以降は臨時化された「ムーンライトえちご」、2010年3月〜2012年2月は臨時夜行急行「能登」、2012年3月〜2014年4月は再度臨時「ムーンライトえちご」、そしてATS-P装備を活かし首都圏方面への波動輸送に活躍した。2014年夏の臨時「ムーンライトえちご」運転取り止めとなり去就が心配されたが2014年6月上旬長野総合車両センターに廃車回送された。 '08.11.22 東北本線 大宮 P:楢井勝行
東神奈川寄り クハ204-76 サハ204-116 モハ204-212+モハ205-212 サハ205-136 モハ204-211+モハ205-211 クハ205-76 八王子寄り から成る鎌倉車両センター所属の205系H16編成、1988年末より横浜線で活躍する。2014年5月中旬にE233系6000番台により置換られ長野総合車両センターに回送され5本目の廃車となった。尚、この後2014年5月下旬から新潟港に回送されるH06編成以降の横浜線用205系はインドネシアに譲渡されることになった。 '14.1.29 横浜線 東神奈川 P:楢井勝行
昭和6年100形の増備車として5 輌が作られたが、105号車のみ他車と形態が異なり全長は他車より若干短く、ドアは一枚引き戸で客室側に戸袋があった。またステップも他車とは異なり車体の外側にあったが、その後ステップは他車と同様に付け替えられた。ホームの嵩上げに伴い撤去され元の形態になった。昭和45年東急から600形が入線し、その後藤沢駅高架に伴い同車の出力増強のため、モーターを譲り休車になり昭和54年頃廃車された。 '48.5.5 江ノ島電鉄極楽寺車庫 P:田中健吉
1983年8月に東京南鉄道管理局に欧風客車「サロンエクスプレス東京」がデビュー。品川客車区に配置されジョイフルトレインの草分け的存在となった。団体列車の他繁忙期には「サロンエクスプレス踊り子」などにも起用され、民営化後はJR東日本に継承、品川運転所配置となり後に尾久客車区へ転属した。1997年1月に「サロンエクスプレス東京」としての営業運転を終え、和式客車ゆとりへ生まれ変わった。塗装はそのままで活躍したが、2008年3月に車輌の老朽化が著しく引退、JR東日本の客車ジョイフルトレインは消滅した。中間車は解体され、展望車のスロフ14 701・702の2輌はいまも尾久車両センターに保留車として留置されている。鉄道友の会が授与するブルーリボン賞(27回/1984年)を受賞。 '07.3.25 東北本線 片岡-蒲須坂 P:安田好一
西武鉄道3000系3003Fは、クハ3003+モハ3103+モハ3104+モハ3203+モハ3204+モハ3303+モハ3304+クハ3304からなる列車で1983年11月に東急車輛製作所で製造された。しかし3ドア8輌のため、通勤時間帯にはむいてなかった。30000系の置き替えのため、2013年10月6日、横瀬車両基地でのイベントへの臨時列車での運転を最後に引退した。 '13.10.6 西武池袋線 秋津-所沢 P:須永一暉
2000形はもと営団地下鉄・銀座線2000形の車体に日比谷線3000形の台車・電装品を組み合わせた車輌で、1991年から導入された。原型の片運転台2000形の他、他車の運転台を接合して両運転台とした3000形も導入されて雑多な旧型車をすべて置き換えた。2005年の路線廃止にともない全車廃車、譲渡車はない。写真は2003(Mc)+2214(Tc)。 '03.12.30 常北太田 P:小西和之
EF65 1000番代6次車として1977年5月新製、新鶴見機関区に配備された。そして首都圏に残るEF13やEF15などの旧型電機を置換え貨物列車を牽引した。国鉄分割民営化後はJR貨物の新鶴見機関区所属となった。その後、常用減圧促進改造を受け赤いナンバープレートとなったが、原色原型を保つ車輌として高い人気を誇った。2012年5月、100km/hを超えて運転する車輌に運転状況記録装置を搭載する省令が発布され、最高速度95km/hに制限されたJR貨物所属のEF65 1000番代は2000番代に改番された。しかしEF65 1072はその対象から外れ、2012年6月休車、2014年2月廃車解体された。 '08.3.30 東北本線 黒磯 P:楢井勝行
キハ35系気動車の老朽化に伴い、'86年〜'87年にかけてキハ35系を種車として国鉄工場にて製造され、主要部品の流用とバス用部品の多用を図り軽量化と製造コスト抑制を図っている。製造車輌数はトイレなしの1000番代が3輌、トイレ付きの0番代が4輌の7輌で全車輌が八高線に投入された。その後八高線から久留里線へ転属となり活躍していたが、キハE130形に置き換えられ廃止形式となった。 '86.9 八高線 金子-東飯能 P:長岡行夫
北海道内の特急列車には80系気動車が使用されてきたが、昭和50年(1975年)頃になると車輌故障の多発や接客設備の陳腐化が進んだため後継車輌の開発が進められ、1979年9月183系試作車(900番代)12両が函館運転所に配置された。各種試験の後、翌年2月から函館〜釧路間の特急「おおぞら5・4号」に10輌1編成を隔日で使用する形態で運用を開始した。試験結果を反映し1981年に量産車が登場し、10月のダイヤ改正から使用された。試作車は量産化改造が施され、さらに1985年以降基本番台と共に新製時100km/hだった最高速度を機関出力の増強とブレーキの強化によって110km/h運転対応に改造された。試作車は量産車とともに使用されていたが、老朽化や余剰を理由に2001年9月までに廃車された。 '80.3 函館本線 奈井江付近 P:佐々木裕治
18200系あおぞらⅡの後継として12200系より改造された15200系あおぞらⅡ。モ15202(元モ12230)-サ15152(元サ12132) + モ15252(元モ12032)-ク15102(元ク12330) からなる15202F(PN02)は2005年末改造され明星検車区に配備された。あおぞらⅡ化された際、前面・側面行先表示器撤去と塗装を変更している。先頭車は1970年2月製造の元12230F2連で化粧版白色化や座席モケット薄紫化張替は行っているが荷物棚も網棚のままである。これに対し中間車は12232F4連化のため1975年12月新製、1996年月21000系に準じた内装に更新され12256Fに組み込まれ6連化されていた。モ15252の下枠交差型パンタグラフが特徴である。2014年3月、12248Fを改番した同じあおぞらⅡの15206F(PN06)に置換、廃車となった。 '10.4.28 近畿日本鉄道 山田線 松阪 P: 楢井勝行