昭和54年12月20日開業の千代田線綾瀬─北綾瀬間開業に先立ち(写真は開業前の習熟運転)3輌編成3本が用意された。1本は6000系試作車を営業車化(性能を5000系と合わせた)した車輌と5000系1本が用意され、もう1本は予備車は本線5000系5輌+5輌を編成替えし3輌+7輌としたものを充当した。その他、千代田線に所属した5000系47輌は、6000系の増備と東西線の輸送力増強で昭和56に東西線に転属した。千代田線にはこの区間で使用する6輌のみが残ったが、東西線から5000系アルミ車が転属すると、平成12年に廃車となった。東西線所属の5000系ステンレス車も、東葉高速へ譲渡されたものを含めて平成19年までに消滅した。現在、5000系アルミ車6輌が残っている。'79年 綾瀬 P:田中健吉
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2008年8月アーカイブ
103系1000番代は'71年から営団(現:東京)地下鉄千代田線との相互乗入用として'70〜'71年に登場。この内モハ103形は主制御器・主抵抗器を搭載。-1000代の特徴として主制御器が地下鉄線内の加減速性能向上により、制御器を力行55段、制動51段と多段制御化したCS40形を搭載。写真の2-4位側の山側に制御器が搭載され、この反対側(1-3位)に主抵抗器が搭載される。0代の一般型は強制通風式が採用されるが、地下線内の騒音防止と温度上昇を嫌って、自然通風式のものが海側床下台車間にズラリと並ぶ。また103系はモハ・クモハ103形に集電装置を搭載。写真の-1041は緩行線203系化で早くに快速線に転用された車輌。当初は灰白色+青緑1号帯の原色で活躍も'85年中には青緑1号一色に。'71年3月日車製。JR化後の'88年9月にAU712形分散式で冷房化。終始、松戸区を離れず、'02年7月廃車。 '86.4.8 常磐線 上野 P:梶村昭仁
いわゆる高性能車の導入が本格化した昭和30年代に、高加速・高減速・回生制動常用などの特徴をもって京阪線に登場した通勤車が2000系。「スーパーカー」として親しまれた。1959年〜1966年に合計100輌が量産され、1982年まで活躍。昇圧対応・冷房化のために1978年〜1982年に全車(2200系からの編入車3両を含め103両)が2600系に生まれ変わった。写真の2004号車(1959年製造)も、その車体・台車などが2600系2826号車に引き継がれて今なお現役である。この時代、関西大手私鉄5社に登場した通勤車には、他にもラビットカー(近鉄)・オートカー(阪急)・ジェットカー(阪神)・ズームカー(南海) といった愛称が付けられた。いずれも、今から見ると素朴な外来語を使ったネーミングであり、古き佳き時代を感じさせるものである。 '80.11 御殿山─牧野 P:清水祥史
昭和3年に開業したもと奈良電気鉄道のデハボ1000形は昭和38年に近鉄となり、形式もモ430形となった。京都・奈良間を結ぶ高速電車であるが、当初より大和西大寺と奈良間は当時の大軌、現在の近鉄奈良線に乗り入れるという形態であった。戦後丹波橋で京阪とも乗り入れることになり、路線を変更したが、京都行き列車は京阪本線を平面で横断したため、列車増発の為昭和43年に現在のような旧線を復活した立体交差の姿となった。旧奈良電デハボ1000形の急行電車は平坦区間でノッチを入れっぱなしにして走ると90km/h程度は軽く出て、軽快に飛ばした記憶がある。大阪万博を控えて、近鉄奈良線を始めとした600v区間は1500Vに昇圧したため、大半は廃車となったが、その内2両は大阪線用の木造荷物電車、モワ2831形と車体を取替えて昭和52年まで活躍した。 '67.12 京阪丹波橋(近鉄京都線が乗り入れ時代) P:永野晴樹
国鉄長崎本線乗入れ用として1960年に6輌新造されたキハ26形,キハ55形(1次車)の1輌である。仕様は当時の国鉄キハ55系に準じたものであるがいずれも両運転台となり、空気ばね台車を履いていた。またキハ55形にはトイレ設備はなかった。後継のキハ2500形の投入により1994年から一部廃車が始まり、写真のキハ5505は1997年10月に廃車となった。最後まで残った5502は2000年12月に廃車となり形式消滅した。 '67.11 諫早 P:長谷川武利
上信電鉄200形は1964年に東洋機工で製造され、モハ200が3輌クハ300が2輌製造された、正面はモハは増結のため貫通扉を設け、クハは非貫通でした。側面は一段上昇窓で、南海の丸ズームのような窓を持ち、最後まで非冷房でした。クハ301・302とも2005年までに引退し、1次車はモハ203が予備車で残るだけになりました。 '04.1.30 高崎 P:深山剛志
東急8000系は1969年に登場した車輌。界磁チョッパ制御やワンハンドルマスコンなど当時最新の技術を使用した画期的な車輌である。東横線や田園都市線や大井町線で活躍をして、1992年に車体更新の際通称歌舞伎色の塗装になった。しかし新型車輌5000系の導入により廃車が進み、2008年に全車廃車になった。1月13日には東横線でさよなら運転が行なわれ、多くのファンに見守られた。なお一部はインドネシアや伊豆急行で第2の人生を歩んでいる。 '08.1.13 東急東横線 渋谷 P:福田智志
'81年身延線新性能化で115系投入の際、隧道等断面狭隘区間入線可能とする為、同形2000代の集電装置取付屋根部を更に低くした番代。PS23Aを搭載もなお折畳高さを低く抑えざる得ない、元々私鉄線であった戦時買収区間故の同線専用番代。車内・外観は2000代と同様ながら冷房準備工事(MGは160kVA搭載)で扇風機のみ。塗色は地域色の先駆けとも云える赤2号に灰白色ラインテープ貼付。ワインカラーとも。-2601〜-2613の13両登場。全車沼津機関区へ。のち民営化前に静岡運転所へ転属。JR化以降、湘南色化、冷改(C-AU711形)、汚物処理装置取付等小改良が。運用区間も身延線以外の東海道・御殿場・飯田線へも。'99年以降、-2608が霜取り対応を目的に廃車の381系から流用パンタを搭載し2パンタ化。'07年以降313系と順次交替。'08年05月に番代消滅。 '89.9.2 身延線 富士宮 P:梶村昭仁
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京浜急行の木造制御車(1914年頃製造)のクハ5220は戦時中相鉄線に転属しクハ3140となり、戦後の63系の割り当てを受けた際に(1948年)見返り供出として高松琴平電鉄に7輌が譲渡された、その内の志度線・長尾線に配属された72号は1960年に日車標準に似た車体を新造し電動車化され60形65号となる、1966年に昇圧改造をうけ、1994年以降は志度線で使用され、850形とのデコボコ編成で使用された。その後2006年に長尾線に転属になったが車体の老朽化が予想以上に進んでいたため、2007年11月に引退した。 '82.8 志度線 瓦町 P:深山剛志
EF62信越本線の碓氷峠越え区間に直通する列車の牽引用に、1962年から合計54輌が製造された。新性能電気機関車としては異例のC-C軸配置。軸重16トン、総重量96トンとい幹線F級電機の枠の中で、急勾配、協調運転に対応するさまざまな機器を搭載するため、各部が軽量化が図られている。登場以来信越本線の主として活躍してきたが、1984年2月のダイヤ改正で首都圏〜長野間の貨物列車をすべて中央本線経由に統一したため余剰が生じ、老朽化したEF58置換え用として4、13〜34、36〜38の計26輌が下関運転所に転属、汐留〜下関間の荷物列車牽引に投入された。しかし、過酷な運用に故障車が続出、EF58、EF65などが代走する場面もしばしば見られた。1986年に荷物列車が廃止となり、東海道・山陽本線での活躍も終りを告げた。一方、信越本線に残りJR東日本に継承された6輌は、急行「能登」と黒井〜二本木の貨物列車、臨時列車などに用いられ細々と活躍していたが、1993年に「能登」が489系化され、1997年には信越本線横川〜軽井沢間が廃止となり、1998年に全機廃車となった。EF62 4は1963年川崎重工兵庫工場で製造され、信越本線で活躍後、1984年2月に下関に配置、87年3月に廃車となっている。 '86.10.8 東海道本線 大阪 P:小林秀章
阪急2800は1964年に2300系の2扉クロスシート版特急車として1974年まで56輌が登場した。1971年から冷房化などの改造を受けたが1976年から6300系の登場を受け3扉化された、その際5組の連窓の中央を扉とし連窓の扉側を戸袋窓にすることによって非常に丁寧に扉の増設が行われた。その後も時折2枚看板を付けて特急運用に入ることもあったが、徐々に普通中心の運用になり、末期は他形式に組み込まれる車輌あり、2001年平成13年に全車引退した。 '81.8 阪急電鉄 千里線 P:深山剛志
吹田操車場の重量貨物のハンプ押し上げなどの入替え用にはデフレクターをはずしたD51が用いられて、ファンの話題となっていた。しかも城東貨物線に用いられてきたD52の減少により、D52の運用にしばしばデフなしのD51が登場、中でもD51 91は特に出没する機会が多く、その奇怪な姿はD52以上に注目したものである。他にデフなしになったD51には25、51、73、77、115、133、585などがいた。D51 91は1938(昭和13)年、汽車製造大阪工場で製造、上諏訪、甲府、大宮、田端、尾久、八王子と関東一円で活躍したのち1965(昭和40)年に吹田に配置された。デフを撤去されて活躍したが、後に再びデフが装備されている。 '66.12 城東貨物線蛇草信号場─竜華操車場 P:永野晴樹