鉄道ホビダス

2008年2月アーカイブ

都電6000形

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昭和47年11月11日下町5系統が廃止されたあと車庫内で車輌の解体が行われた、写真の時点では用途不明でしたが、このあとJRガード下の「寿司店」へ運ばれました。 '72年 錦糸町車庫 P:田中健吉

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都電3000形3235

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今では電車も背景の東急百貨店もなくなり、日本橋に路面電車が走っていたことを知る人も少なくなってきた。 電車は昭和28年度東急車輛製で初めて方向幕が大型化されドアエンジン付きグループで、車体だけを見れば3240-3242の最終グループとほぼ同じだが台車はD-10だった、車体は9個窓で多少近代化されている。下町5系統廃止後は3185.3215.3240-3242は長崎電軌へ譲渡されたが他の車両は解体された。 '72.11.11 日本橋 P:田中健吉

西武鉄道 501系

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'81年、701系冷房改造と同時にラスト(791F〜795F)3編成の電動車を、785F〜789Fに組込み6輌化の際、余剰Tc車6r輌を冷改、Mc化して登場した形式。性能は当時増備中の101系2輌編成の機器を新製し搭載、ただし抑速機能をカットして使用。外観はMc1(新宿寄)車にパンタ2機搭載で401系とは逆となっていた。改造後は新宿線系にて701系列と混用されるも性能面の違いで運転面から扱い辛いと不評(電制の有無、ギヤ比の違い等から加減速の歩調が合ない)となり更に、車体老朽化と2000系増備で余剰となり、'90年までに運用離脱、形式消滅となった。 '88.9.8 新宿(西武園)線 東村山 P:梶村昭仁

クハ111-571

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'88年2〜6月、房総各線列車増発に伴う短編成化用の先頭車として、クハ115-0番代から改造(写真の種車は元クハ115-66)。一見オリジナルに見えるが側扉に半自動用の取手が残り、戸閉機械もTK8のままのため、開扉時に引残り(1,100mm幅分)はそのまま。車内も余り変わらず、運転台機器(MC37→MC22またはMC54化、ブレーキのAG38A化等)の変更、偶数向車輌故にCP搭載。また編成相手のTc車も同様の改造で登場。特段の番代というわけではなく、改造当時の0番代のラストナンバー以降に付番。偶数向-570〜-574、奇数向-271〜-275の各5輌として全10輌が登場。冷改されることなく'93年1月〜7月にかけて全廃。 '88.5.22 総武本線 千葉 P:梶村昭仁

JR301系

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旧国鉄初の通勤型アルミ車で7輌×8編成56輌が在籍した、初期型5編成と後期型3編成からなり、識別帯の造作で区別(添付写真は後期型)できた。乗り入れ先の東西線10輌編成化に伴い編成替えが行われ、1号編成と3号編成先頭車が中間車化(運転席は残されたが機器は撤去)、2号編成の2・3号車がサハ化された、6号編成は5輌化され他編成入場時(301系並びに103-1200入場は5輌単位で入場した)に代番用として差し替えたが、103-1203編成が5輌化された後不要となり早くに姿を消した、この301-6編成と103-1203編成は両端「幌付き」で異彩を放っていた。写真の黄色識別帯は総武緩行線205系導入に伴い誤乗防止の為、以後青色に変更された、写真以降の大きな改造として快速幕の撤去と冷房化があり、冷房化後では車内の扇風機の数がM1とM2車と異なっていた。231-800導入に伴い平成15年で全車引退した。 '87年頃 阿佐ヶ谷 P:田中健吉

東急デハ3800形

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東急が戦後最後に製造した吊掛式電車。車体の軽量化や当時の新型台車などを一応装備してはいるが、翌年に登場した画期的高性能車、デハ5000系に比べて、極めて見劣りする存在となったものの吊掛車の中ではピカイチの存在で、特に製造当初からノーシル・ノーヘッダー、張り上げ屋根は東急の吊掛車では唯一の存在で、特に側面の上部窓はHゴム(いわゆるバス窓)という際立った存在で、5000系に伍して東横線に活躍した。ステンレスカーの増備に伴い目蒲線に転属、撮影当時は側面ドアをいわゆる監獄窓に改造されてはいたが、比較的原型を保っていた。この後ヘッドライトを下部二灯化やバス窓もアルミサッシの通常型に改造されたが、十和田観光電鉄に譲渡、数年前まで活躍した。 '74.7 目蒲線 奥沢 P:永野晴樹

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スエ71 4

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1960年(昭和35年)から1967年(昭和42年)にかけて鋼製20m戦災復旧車70系を救援車に改造した。スエ71 4は1948(昭和23)年オハ71 112として作られ、マニ74 3を経て1962(昭和37)年スエ71 4となった。1987年(昭和62年)に形式消滅。 '86.11.24 竜華信号場 P:小森克禎

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伊予鉄道201形

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伊予鉄道モハ200形は昭和6年の高浜線電化時にモハ100形とともにモハニ200形として6輌が増備された。その後昭和38年頃までに荷物室が撤去されたが、扉はそのままの姿で使用されたため、扉の配置が変則的であった。(但し203は戦災復旧の際に車体を変更された)その後同型車で3輌編成を組み昭和60年まで活躍した。予備車として最後まで残った204の編成が昭和62年に引退した。
 '82.8 大手町 P:深山剛志

南海電鉄阪堺線 モ101形

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梅鉢鉄工所と日本車両1924(大正14)年に製造された14m級ダブルルーフの木造車。昭和初期から中期の阪堺線を代表する車輌。1930年(昭和5)年、モ101という形式名に改められ、戦争で3輌が被災した3輌を除いて、戦後は101〜117という車番が当てられた。1967(昭和42)年4月23日、117号によってさよなら運転が行なわれた。同日我孫子車庫では仲間の解体作業が進んでいた。 '67.4.23 阪堺線我孫子道車庫 P:柿浦和敏

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1952〜1953年に川崎車輛と東急横浜製作所(=東急車輛)で17輌が製造。クハ3850〜クハ3854が川崎製で残り(クハ3855〜)が東急製であった。製造メーカにより台車も異なり川崎製がOK-6、東急製がYS-715と別形式だった。車体は3750形に準じたスタイル。主に3450・3600形などと併結し東横線を含め全線で活躍。'73〜'76に掛けて車体更新の際に、窓の天地寸法拡大(900→1000mm化)張上げ屋根、シールドビーム二灯化等従前のイメージからガラリと変わったスタイルに。なおこの時5輌がサハ3370形へ改造。3000形と共に活躍も'89年までに運用離脱、最後まで休車で残っていたクハ3856が'94年に車籍末梢で消滅となった。 '87.12.6 目蒲線 田園調布─多摩川園 P:梶村 昭仁

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