1953年登場の吊り掛け車。京王初の湘南顔で高坑張力鋼を用いたことでも有名。当初Mc-T-Mcの3連だったが、2次車からはMc-Tcとなり、車体も側窓の上段がHゴム支持のバス窓となった。その後5070系の製作に電装品を供出してTcあるいはT化され、T車は元からのサハ2750共々2500系に編入された。昇圧後は2010系と6連を組んでいた。そのうちの何本かは優等列車用にアイボリー塗装になっていた時期もあったが、1981年には形式消滅した。'68.5 桜上水 P:青柳 明
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2005年8月アーカイブ
九州は門デフの本場だけに装備機はキューロク、ハチロクからC61、D52まで多岐にわたっていた。装備第1号がこのC57155。前のステーが垂直にデッキに下りている長工デフのような仕様である。 '72.12.31 日豊本線宮崎 P:山下修司
東武鉄道は大手私鉄最後の蒸機王国で、伊勢崎線・佐野線系統では昭和40年代まで蒸気機関車の姿が見られた。しかも明治・大正生まれのオールドタイマーばかりで、最終日のこの日の記念列車牽引に抜擢されたのも1914(大正3)年生まれのピーコック製34号機と1898(明治31)年シャープ・スチュワート製40号であった。この34号機は現在でも東京・大田区の萩中中央公園に静態保存されている。'66.6.26 館林 P:笹本健次
建設省北陸地方建設局立山砂防工事事務所の砂防工事用軌道(軌間2フィート=609㎜、千寿ケ原〜水谷間18km)の機関車。加藤製作所製ガソリン機関車が主流だった中で、酒井工作所から最初に導入したディーゼル機関車の1輌。メーカー形式C19形で、自重は5t。国土交通省の管轄となった現在では、北陸重機製DLにとって変わられた。'78.9.2 水谷出張所 P:名取紀之
1906(明治39)年、鉄道作業局新橋工場製の客車の台枠に、1951(昭和26)年に道内メーカー製作の車体を載せたもの。トラス棒やTR10台車が古さを醸し出しており、炭鉱鉄道に生きた来歴不詳の客車というキャラクターが車体の隅々から醸し出されている。'84.7.29 南大夕張 P:滝澤信久
梅小路機関区のエースC575は'71年3月山陰本線京都口無煙化後、豊岡に転属、播但線に活躍の場を移した。正面のナンバープレートは形式入りから形式なしに代わり、ファンをがっかりさせた。播但線無煙化後は浜田に転出。 '72.1.15 姫路機関区 P:山下修司
1934年に1〜16が作られたEF10形は、1937年に17〜19が、1938年に20〜24が、1939年には25が、1940年には26〜33が、そして1941年には34〜41が作られるという大所帯の形式となった。写真の31号機は、関門トンネル用として重連装置付きのグループとして誕生した26〜33の1輌で、さらに30〜33は鋳鋼製台車HT58形を履く。’68.10.27 八王子 P:笹本健次
1954年東急車輌製の大型電動貨車で、当初は2911・2912であったが1957年に改番された。昇圧には井の頭線からの電装品を使用して対処。主に工事用列車に使用され、中間にレール運搬用のチキ270を2輌挟んだ4連で使われることが多かった。チキ270は元玉南の1形(京王2000形)の台枠と台車を使用して1956年に誕生した。チキ270は1986年に廃車、デト210は80年代半ばにグレーに塗色変更され、1995年にデワ5100に役目を譲って廃車された。’68.3.24. 桜上水 P:青柳 明
西の箱根・瀬野八越えでは24輌のEF59が補機として活躍していた。EF56改造のものは写真の22号機をはじめ6輌。SGを撤去し死重を載せていた。貨物列車は基本的に後補機は2輛で、サミットの八本松から役目を負えたEF59は重連、4重連、時には6重連で瀬野に回送された。 '78.3.14 山陽本線瀬野 P:山下修司
戦前製の14m、HL制御の600V車の生き残りで、Mc‐Tcが2編成あった。1500V昇圧に際しては主電動機や主製御器などの電装品を井の頭線から流用しており、MGとコンプはTc車に装備している。主に動物園線で使用されるためアイボリー塗装であった。1969年のATS化のときに全車廃車されるが、デハ222が2410に復元の上保存されている。 '67.11.23. 高幡不動 P:青柳 明
奈良機関区のD51は全機集煙装置装備で718号機以外は重油タンクをドームの後ろに搭載した重装備。そんないかつい姿の山男に囲まれてC12167は同区のマスコット的存在。機関区は奈良駅のホームからよく見え、隣接しているヤードでの入換の様子も手に取るように眺められた。 '72.12.26 奈良機関区 P:山下修司
ワム49000、49100、49200という3形式は1形式1輌の先進的試作車(昭和35年、汽車会社製造)。3形式共に異なる方法で屋根の開閉を可能としており、ワムとトムの両方の機能を持たせた意欲的な貨車となった。写真の49200は屋根スライド式で、ドイツで実用化されていた技術の応用であった。残念ながら3形式は新製コストが嵩み、また複雑な構造も災いして試作に留まり、ワム49000が昭和47年度、その他の2形式が昭和51年度に廃車となった。'68年 国府津 P:笹本健次
キハ5000形は1955(昭和30)年、小田急電鉄が当時非電化だった国鉄御殿場線乗り入れのため2輌を新造した気動車。まだ国鉄では例がなかった2基エンジンを採用、片側1扉仕様の伸びやかな車体は全長20,560mmで、小田急電鉄では最大であった。後に増備されたキハ5100形2輌とともに新宿〜御殿場間の特別準急<銀嶺><芙蓉><長尾><朝霧>で活躍したが、御殿場線電化に伴い1968(昭和43)年7月に3000形SSE車にバトンタッチした。小田急での引退後は関東鉄道に譲渡され、3扉化のうえキハ751形として1988(昭和63)年まで常総線で活躍した。'67.7.22 松田 P;笹本健次
150形は1925(大正14)年に10輌が製造された広島電鉄初の半鋼製車。その大半が昭和20年8月6日の原子爆弾で被爆したが、全車復旧し、広島の戦後復興に活躍した。1952(昭和27)年にはこの151を含む一部の車輌が車体新造による更新を実施。1971(昭和46)年までに他都市からの転入車に置き替えられ、全車廃車となったが、江波車庫に保管されていた同形の156号が1987(昭和62)年に記念運行のため車籍復帰。現在も「被爆電車」として在籍している。また、復元車101号の台車は157号のものが利用されている。'68.3.5 広島駅前 P:笹本健次
鹿児島機関区に所属するC5036は僚機48679とともに、入換時の視界を確保するためテンダーの両側がC56のように凸型に切り欠いてあった。この日は鉄道100年記念企画の一環で鹿児島機関区に九州にいる現役機がD50を除いて全形式集合。C5036はつめかけたファンの前で黙々と入換作業をしていた。 '72.7.30 鹿児島機関区 P:山下修司
昭和2年に、電気部分を芝浦製作所、機械・車体部分を汽車会社が担当して2輌が製造された蓄電池式電気機関車10形が前身。昭和6年に一般の電気機関車として改造され、東北本線の王子駅から分岐する須賀貨物線で昭和46年まで貨物列車牽引機として活躍した。廃車後は、EB10 1が東京府中市の交通公園に保存されている。’69.12.6 王子 P:笹本健次
宮崎県植樹祭の際、お召列車を牽いて一躍有名になった117号機だが、それまではとりたてて目立ったカマではなかった。貨物列車を牽いて田野で長時間停車。'72.12.31 P:山下修司
1950(昭和25)年に新潟鐵工所で2輌が新製された機械式気動車。国鉄キハ41000系の払い下げと誤認されがちだが、歴とした自社発注車で、扉間の側窓が13枚と少ないのも外観上の見極め点となっている。機関は日野のDA55、当初は代用燃料装置付きであった。'69.8.1 五所川原 P:笹本健次
72年3月改正からEF58が再びブルートレインを牽引することになった。関西〜九州間の〈彗星〉〈あかつき〉で、最盛期には上下合せて22本の列車があった。急行列車もEF61が牽く〈阿蘇〉を除いてすべてEF58牽引、深夜の駅に行くとそれこそひっきりなしにゴハチがやって来た。 '75.2.1 山陽本線岡山 P:山下修司
ホキ34249 昭和34年〜42年に128輌が製造された石灰石専用のホッパ車ホキ4200形に粉塵飛散防止用の蓋を設けて誕生したのがホキ34200形。国鉄セキ3000形の車体上半分をカットしたようなスタイルで、奥多摩工業?所有のグループは青梅、南武線ではお馴染みだった。’79 立川 P:滝澤隆久
張り上げ屋根に荷台付きというミスマッチなこの気動車は、意外と車齢が若く1957(昭和32)年日本車輌製。もともとは北陸鉄道能登線用の客車コハフ5301として竣功したもので、1963(昭和38)年に気動車化、能登線廃止後に筑波入りした。わが国で最後まで残された現役荷台付き気動車であった。'79.5.5 真鍋 P:名取紀之
中国地方は集煙装置装備が機が多くナメクジは少なかった。厚狭機関区所属機は全機集煙装置非装備で吉松から転属してきた8号機、18号機も標準機に混じって美祢線を中心に活躍していた。煤けたカマが多い中、18号機は比較的きれいに磨かれていた。なお、本機は現在でも宇部市常盤公園に静態保存されている。'72.4.15 厚狭機関区 P:山下修司
非常に複雑な経歴を持つ車輌で、本来は鹿本鉄道(のちの山鹿温泉鉄道)が山鹿延長に際して用意したホロハ2が出自とされる。同車は1936(昭和11)年に南薩鉄道(のちの鹿児島交通)に譲渡され、南冊ではホハユテフ67となり、次いで1955(昭和30)年には客室を撤去してホユニ67に改番された。ところがその後事故大破。どういうわけか、車体長がほぼ同じ自社生え抜きのホハニ62(昭和4年日車製)をホユニ67としてすりかえてしまった。つまり、この写真のホユニ67は実はホハニ62の晩年の姿ということになる。'69.4.3 伊集院 P:笹本健次