1942(昭和17)年にタム200形274二硫化炭素専用車より改造されて、誕生した10トン積みアルコール専用車。最後まで残った「タ」として注目された。平成8年に除籍になったが、その後個人によって保管されている。 '94.4.21 川崎貨物 P:菅谷和之
1942(昭和17)年にタム200形274二硫化炭素専用車より改造されて、誕生した10トン積みアルコール専用車。最後まで残った「タ」として注目された。平成8年に除籍になったが、その後個人によって保管されている。 '94.4.21 川崎貨物 P:菅谷和之
在来線用試験電車MUE-Train (ミュートレイン)の4号車として、209系サハ209-8からの改造により誕生。「台車の性能向上試験」を主な用途として試験運用された。試験終了後、同車は除籍された、現在は6輌で運用されている。 '09.10.14 幕張車両センター P:菅谷和之
鉄鋼製品の「冷延コイル」輸送を目的に、昭和44〜46年にトキ15000形を改造して31輌製作された。改造は床板より上部を撤去し、床板上にコイル受台と引き違い式のカバー等が新設された。JR貨物には3輌(21510〜2)が承継されたが、2008年3月にすべて廃車され形式消滅した。 '96.10.11 黒井 P:長岡行夫
1939(昭和14)年、川崎重工兵庫工場製。戦中は陸軍供出のため改造が行なわれたが、結局、輸送出来ず復元された。戦後は王子、奈良を経て、晩年は亀山機関区に所属、朝、後補機で亀山から柘植に行き、柘植から貴生川までは単機回送、信楽線で貨物列車1往復を牽引、単機で柘植へ、後補機で亀山に戻るという運用についていた。1974(昭和49)年3月廃車。現在、大阪城公園に保存されている。 '72.8 亀山機関区 P:安東大介
中央線の201系の中で最後まで残っていた1編成。2010年10月17日廃車となった。これによりオレンジバーミリオン・大型前面表示機つきの「中央線の201系」は消滅。中央線の顔として長年活躍してきた201系だが、すでに過去のものとなった。 '10.8.14 青梅線 西立川-東中神 P:髙杉直彰
851、861、881と続く阪神電気鉄道の小型車は、斜めに握り棒の付いた両開きの貫通扉デザインから「喫茶店」の異名で呼ばれた。小型車ながら高速性能も優れており、急行輸送に活躍した。戦前の関西私鉄を代表する車輌のひとつ。高松琴平電鉄には881形16輌が譲渡され、志度線、長尾線で活躍したが、600V→1500V昇圧にともない1976年12月廃車となった。 '66.1.15 高松築港 P:柿浦和敏
485系「せせらぎ」は12系客車「やすらぎ」の置き換え用として、「日本の四季を巡る空間」をコンセプトのもと、485系から2001年3月に大宮工場で改造された。4輌編成でジョイフルトレインとして活躍したが、2010年7月に東急車輛へ回送され、新型ジョイフルトレイン「リゾートやまどり」へ再改造され、やまなみ中間車2輌を組み込み6輌編成として再出発した。これにより「せせらぎ」は過去のものとなった。 '09.10.11 中央本線 豊田-八王子 P:藤村巌雄
京津線各駅停車用電車で1961〜70年にかけて近畿車輛で計16輌製造された。低床車体の路面電車ばがら高速性能も優れており、急行運用に投入可能な高性能車輌であった。
。 '64.10.16 京阪電鉄京津線 東山三条付近 P:柿浦和敏
モハ102は1954年ナニワ工機製、クハ23(最後尾でほとんど見えていないが...)は帝国車輌製でともに13m級で準張殻構造車体を持つ。2輌めのサハ3は1955年栗原鉄道から譲渡された日本鉄道自動車工業製2403を電装解除したもの。手動の扉は開いたまま走っているものもあり、おおらかな時代だった。 '63.8.2 P:柿浦和敏
元富士身延鉄道のクロスシートカーで、モハ100(半鋼製片運転台式制御電動車)とクハユニ300(半鋼製片運転台式制御車)。国鉄に買収されたのち、1958年に高松琴平電鉄に売却された。クハ二の荷物室部分に簡単な喫茶コーナーを設けて急行「りつりん」として活躍した。1965年ロングシート化され、1981年に廃車となった。 瓦町 1959.12.25 P:柿浦和敏
新京阪電気鉄道のP-5形。1957年に能勢電が8輌購入。28+29はMc+Tcで能勢電入線にさいして1500V→600Vの降圧、パンタグラフ→トロリーポールなどの改造を受けている。1967年10月、500形の導入により廃車となった。 '65.10.31 鶯の森 P:柿浦和敏
'81年5月に登場した12系客車改造の和式6輌編成で、旧東京北鉄道管理局(後に東京支社尾久客車区)に所属していた。当初は愛称名がなく「オク座」とも呼ばれ、外観は一般の12系と同じであったが、後に白と赤の斜めストライプが加えられ愛称名も付いた。'92年には外観のデザインが大幅に変更されたが、'97年に485系改造和式電車に置換えられ廃車となった。 '88.3.6 東北線 与野-大宮 P:長岡行夫
「姫路市営モノレール」は1966年に姫路市郊外の手柄山で開催された姫路大博覧に合わせ開業、姫路駅から手柄山までの1.6㎞を結んだ。途中に大将軍駅がある。博覧会終了後は営業が振るわず、わずか8年後の1974年に休止となってしまった(正式廃止は1979年)。博覧会期間中は3輌編成で運行されたが、その後は2輌編成が基本。写真は両運転台の201を挟んで片運転台の102、101をつなげた3輌編成の姿。 '66.8.28 P:柿浦和敏
大正10年製の元阪神急行電鉄の木造車71〜73を半鋼製車体を新製し近代化51〜52とした。一回り大きくなったので定員も65人から95人に増加、ブルーとクリームの塗装となってイメージを一新した。しかしながら構造上揺れが大きく、評判はあまりよくなかったようだ。電動機の不調になどよる改造を受けたりしながら使用されたが、50・52は1966年12月に廃車、その後も51は62(60形)と2輌で川西能勢口-川西国鉄前で運用についていたが、1987年、同区間の廃止によって廃車となった。 '65.10.31 川西能勢口駅側線 P:柿浦和敏
もと高野山電鉄デニ502で、1928年製の全鋼車。路線が50‰片勾配という線形のため、僚車デ101形とともに日本初の回生ブレーキを装備した車輌である。南海に合併後、事故で車体を焼損、復旧時に車体を更新してリベットはなくなり、荷物ドアと一部の窓を埋められてデワ2001となった。オリジナル台車は路面電車用に近い形態で山岳用に電磁レールブレーキも装備したものだったが、難波乗入れに際しての高速運転に適さず、早期に交換されている。デワに改造後も難波側非貫通、高野山側貫通の形態はデニ502時代と変わらなかった。郵便・荷物輸送終了により1972年廃車。 '64.8 住吉東 P:小西和之
輸入電機を置換えるためEF53製造の経験を活かして開発された貨物用電気機関車。製造初年は1934年。EF10 17は1938年製で、車体が汽車製造大阪、電装が東芝鶴見工場である。水上、国府津などを経て、関門トンネル開通後は一時門司に所属した。戦後は国府津、八王子、甲府に所属、1976年3月に廃車となっている。EF10は製造時期などによって形態が大きく異なり、16号機かではリベット組立てのヒサシつきボディ、17〜24号機が丸みを帯び溶接構造、25〜41号機が角型の溶接構造の車体となっている。17・20〜24号機がHT57鋳鋼台枠、30〜33がHT58鋳鋼台枠、。24・27・35・37・41がステンレス車体に換装されている。 '64.4.5 東海道本線 辻堂-茅ヶ崎 P:青木一郎