鉄道ホビダス

2008年11月アーカイブ

近鉄モ1000形

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昭和4年、現在の大阪線が桜井まで延長した時に大軌が始めて製造した19m級の大型車である。当初は600Vだったので1500Vとの複電圧車として登場した。33‰の急勾配に備えて200馬力の強力モーターを装備したが電制はなかったため、青山越えはできず、晩年まで名張や青山町までの区間列車に活躍した。翌年の増備車からはすべて20m車となったので、大軌19m車は同時に製造した1100形2輌(後に付随車となる)を含めて10輌のみの存在であった。 '67.10 高安車庫 P:永野晴樹

クハ79 605(72系970番代)

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72系の台枠,台車,制御装置,ブレーキ装置および電機部品を利用して1975年に103系並の車体に更新改造した車輌であり、一族合計はクハ,モハそれぞれ10輌の計20輌であった。一貫して仙石線で使用され、当初は快速中心に運用をしていた、写真はその頃のものである。1983年より本家103系の転入により順次運用を離脱し休車となっていたが、1985年の川越線電化に際し今度は台車,制御装置,ブレーキ装置を103系並に交換改造し103系3000番代として再起した。写真のクハ79-605の種車はクハ79-451(1956年製)であり、103系化改造後はクハ103-3003として20年間働き、2005年10月に廃車となった。隣のクモハ73-327(1953年製)は、前面窓がHゴム支持の多い仙石線の72系の中にあって、原型スタイルを保つ貴重な存在だった。1980年5月に廃車となっている。 '76.5.27 仙石線 石巻 P:長谷川武利

東京急行電鉄 3450形

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旧目蒲・旧東横両電鉄が’31〜’36年に併せて50両製造(モハ510〜565 但し末尾3は欠番)、関東私鉄名車の一つ。日本車輛(3450〜3452・3457〜3459)製と川崎車輛(3453〜3456・3460〜3499)製。この内、川崎製は丸妻スタイル採用、初期車は前面アンチクライマを設置して居たが、後期車は廃止されのっぺりした表情に。’42年以降、東京急行電鉄成立後、デハ3450形に改称。その後前面の貫通化改造も行われ、表情に変化が見られると共に、’64年以降、室内外更新改造で側窓天地を100mm切上げ(900→1,000mm)て、初期鋼製車両独特の深屋根の重苦しさが和らいだ感じに。東急各線で活躍するも、晩年は目蒲・池上線を中心に活躍。’89年までに全車引退。写真のデハ3493は’36年製造車の旧モハ558。’89年まで活躍。 '88.3.30 目蒲線 多摩川園 P:梶村昭仁

近畿日本鉄道 18400系

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京伊直通特急用18200系増備車として'69〜'72年に製造。車体長が20m級となるも京橿線系統規格向上前後の登場の為、車体幅が2,670mmと細面に、またパンタ取付部が低屋根構造が特徴。Mc+Tc2両固定で10本20両登場。登場時12200系に準じて'69年製の401〜408はスナックコーナー付で製造。'72年製の409・410はスナックコーナー無しとなるなど次車で変化も。'84年以降他特急車と同様に全面部の更新改造が始まるも、409・410は施工せず、'97年409は形式そのままで「あおぞらⅡ」増結用に改装、410は同年中に廃車。残った編成も老朽等により2000年度中に全廃、消滅した。 ’88.8.24 大阪線 長谷寺─榛原 P:梶村 昭仁

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近鉄8000系は昭和39年の新生駒トンネルの使用開始に合わせて登場した。奈良線を代表する形式で、900系を基本に206輌も製造され、長編成で使用される姿は、特急車と伴に近鉄の顔でした。現在は廃車が始まり、50番代以前のラインデリヤ装着以前の車輌は引退した。 '82.4 近鉄大阪線 鶴橋 P:深山剛志

DD15 1

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DD13形をベースに開発された除雪用ディーゼル機関車で、昭和37年から41年にかけて50両が製造された。機関車本体の前後にラッセル装置を装備し、折り返し地点の方向転換が不要となった。夏季はラッセル装置を外して入替機としても使用されていた。軸重が重く線路規格の低いローカル線で使用できなかったこと、ラッセル装置の着脱に手間がかかったことから、除雪用ディーゼル機関車はDE15形へ移行していった。  トップナンバーは、新潟地区で活躍した。 '78.1 新津機関区 P:佐々木裕治

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今やすべて消え去ってしまった小田急の電車たち。左はHB車と言われた昭和2年製、当時の小田原直通用の長距離電車の最後の姿。中間はいわずと知れた、小田急が誇った連接式ロマンスカー、SE車の改造前の姿。右は小田急が2M2Tにおける高加速・高減速用に開発したHE車、2400系である。戦後小田急では、ロマンスカーによる高速運転や、激増する通勤輸送の為様々なユニークな電車を開発し話題となったが、現在では世代交代した電車が活躍している。撮影場所の東北沢も地下線工事の為、状況は一変している。 '64.8 東北沢 P:永野晴樹

東京急行電鉄 3650形

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東京急行電鉄成立後の'42年川崎車輛で6両登場。旧東横1000形(=3500形)の流れを汲むスタイルながら片運転台の制御車として登場。非運転台側が切妻式、1,100mm幅広幅貫通路を備えたスタイルで当初、これと相手を組む電動車が計画されるも第二次大戦のどさくさで実現せず。暫く窓付き仕切板で閉鎖されていた。'52年に全車電動車(クハ→デハ)に。また'53年以降サハ3360形を挟んだ固定3両とし、晴れて広幅貫通路の使用開始。その後は'72〜'73年に車体更新、偶数車の前面貫通化等、変化をみせながらも晩年まで終始、池上線を中心に活躍。デハ3655が十和田観光電鉄に譲渡された以外は'88〜'89年に引退、消滅した。 '89.3.15 目蒲線 田園調布〜多摩川園 P:梶村昭仁

D61 6

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D61形は線路規格の低い丙線へ投入、9600形を置き換えるため、D51の従台車を2軸に改造、軸重を軽減した形式。種車のD51に余剰がなくわずか6輌しか改造されなかった。晩年は留萌支区に配属され留萌本線・羽幌線で活躍。'70年の羽幌炭礦が閉山し貨物の仕業を失い、余剰車が発生していた。はじめた撮ったD61ラストナンバーはD51 519からの改造である。すでに火を落としており、このまま復活することなく廃車された。4号機は最後まで生き残り深川機関区で'75年に廃車となっている。 '71.2 深川機関区 P:佐々木裕治

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