鉄道ホビダス

2008年10月アーカイブ

ナハネフ22 25

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ブルートレインを全編成寝台化の一環で普通座席緩急車ナハフ20を置換えB寝台とするために新製されたB寝台緩急車。1964〜1970年にかけて26輌が作られた。ナハフ20から車体を乗せ換えてB寝台に改造されたものはナハネフ22 500番代となっている。ナハフ20の車体を利用してB寝台に改造されたものはナハネフ20である。写真は呉線電化開業の10日前に撮影したもので、この日は電蒸運転どころかEF58の単機牽引。最後部に新製されたピカピカのナハネフ22 25が連結されていた。同車は'70年8月26日車製で新製配置は広島である。 '70.9.19 広島 P:山本 栄

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昭和38年淀屋橋延長に際して、京阪電鉄では特急車を転換クロスシート・空気バネ台車に統一するために、1900系は一挙に28輌増備された。旧来の特急車より前面が近代的なデザインとなり銀色のバンパーが付き、側面はウィンドシルがなくなった。昭和47年から一般に格下げのため3扉化されたが、走行性能が安定していたために、しばしば臨時や代走で特急運用についた。その後、昭和57年までに昇圧改造を行い、昭和60年に冷房化された、その際に前面が改造され編成も5輌編成になった。その後交野線・宇治線で主に使われたあと、本線の急行・普通運用に戻り、本年の中野島線開通前日をもって運用から離脱した。 ’82.4 中書島 P:深山剛志

神奈川臨海鉄道DD551

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神奈川臨海鉄道のDD551は、1963年汽車会社製の55t機である。国鉄DD13タイプで、ボンネットの上に鐘を装備していた。ヘッドライト横の汽車会社のエンブレムが美しかった。 '84.6.23 塩浜操車場 P:佐野 徹

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京阪電鉄1900系の内旧1810系グループは昭和31年に1800系の増備として、車体を1m延長し後の標準車体となった。1900系が登場すると1900系に編入され台車も空気バネに履き替え・窓に保護棒を設置した。その後は1900系の一員として活躍したが、シールドビーム化の際に写真のような特徴あるライトケースに入れられた。その後昭和60年に冷房改造を行ったが、この時点で車齢30年近くの車輌を冷改するのはあまり見られなかった。その際1914以外は中間車になり、1914は1900のような前面に改造された。本年中之島線開通に伴い引退したが、車齢50年を超えた車輌もあり、長寿を誇った。 '82.4 京阪電鉄本線 P:深山剛志

南海電鉄モハ1026

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南海鉄道が明治42年から製造を続けた正面5枚窓の流線型木造車は、タマゴ形木造車と呼ばれ、後に関西私鉄に大流行したが、南海でも増備を続け、この車輌は高野線の急勾配区間用に大正13年に製造した電8形である。後に50‰の高野山電鉄との直通に際して、回生制動も装備した。戦後はおもに加太線に活躍したが昭和37年に引退した。写真は解体直前北野田駅に留置された、南海最後のタマゴ形木造車の姿である。 '65.4 南海高野線 北野田 P:永野晴樹

鹿島鉄道DD901

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1955年日本車輌で450PSX2エンジン試作車として製造。1957年から1年間DD421として国鉄が借り入れ、1958年常総筑波鉄道が購入し、1972年500PSX2エンジンに換装された。1974年鉾田線に転属し、日本アルコール販売専用線や自衛隊燃料輸送に活躍した。1988年廃車され、2007年2月26日解体された。運転整備重量51.6t。 '84.7 浜 P:佐野 徹

2003(DD13)

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標準軌に改造され鳥飼基地に配属されていたDD13型。高圧線下ながら、見学の許可を受けて基地内を自由に見学させていただきました。DD13を改軌改造して新幹線の建設工事及び補修車輌牽引用としたディーゼル機関車。登場時の形式は2000形(2001〜2007)で塗色は在来線用と同じ。後に912形と改称し、ブルーに黄帯という独特な塗装となった。高圧線下ながら、見学の許可を受けて基地内を見学させてもらった。 '64.10.16 新幹線鳥飼基地(大阪車輌基地) P:柿浦和敏

115系 モハ114形2600番代

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'81年身延線新性能化で115系投入の際、隧道等断面狭隘区間入線可能とするため、同形2000代の集電装置取付屋根部をさらに低くした番代。PS23Aを搭載もなお折畳高さを低く抑えざる得ない、もともと私鉄・富士身延鉄道を1941年に買収した線区ゆえの同線専用番代。車内・外観は2000代と同様ながら冷房準備工事(MGは160kVA搭載)で扇風機のみ。塗色は地域色の先駆けとも云える赤2号に灰白色ラインテープ貼付。ワインカラーとも。-2601〜-2613の13輌登場。全車沼津機関区へ。のち民営化前に静岡運転所へ転属。JR化以降、湘南色化、冷改(C-AU711形)、汚物処理装置取付等小改良が行なわれた。運用区間も身延線以外の東海道・御殿場・飯田線へも。'99年以降、-2608が霜取り対応を目的に廃車の381系から流用パンタを搭載し2パンタ化。'07年以降313系と順次交替。'08年05月に番代消滅。 ’89.9.2 富士宮 P:梶村昭仁

高松琴平電鉄 1020形

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高松琴平電鉄の1020形はもと名鉄の3700系で名鉄で木造車輌を昭和32年頃に車体を新造して更新したが木造車輌の電動機を再利用したため、出力が小さく出足が悪かったため、ダイヤが組みにくくなり1969年頃から高松琴平に譲渡されたが1973年にオイルショックが始まったために、一部が譲渡されたのみでした。1980年頃に他形式との連結のため台車等を変更、さらに1985年頃に一部の車輌がHL制御のままカルダン式の台車を履き2004年11月まで活躍した。 ’82.8 仏生山 P:深山剛志

キハ80系

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1961年から67年にかけて384輌が製造され、未電化区間の特急列車に活躍した。'60年に「はつかり」用として製造された一次車はボンネットタイプの先頭車(キハ81)が特徴だったが、'61年以降に増備されたものは先頭車が貫通型(キハ82)となった。九州内では「かもめ」「にちりん」「なは」「日向」「みどり」「おおよど」に使用された。1979年10月改正での「おおよど」が廃止、「にちりん」が電車化され、九州からは姿を消した。大分駅は現在高架化工事が行なわれている。  '79.6 日豊本線 大分 P:阿部郁夫

401系

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日本初、量産型交直両用電車として'60年8月先行車8輌がデビュー。試験運転後'61年6月勝田交流電化(商用周波数:50Hz区間)完成で量産車登場。都市間輸送用の新性能車初の近郊型。全鋼製3扉セミクロスシート、側引扉1300mm幅両開式。モハ(M)401形に主制御器・MG等の直流機器、モハ(M')400形にパンタ、主変圧・主整流器等の交流機器搭載。M'車パンタ周囲は低屋根構造で車内の天井張出部に丸型ファンデリヤー装備。台車はM車がDT21B、Tc車は当初101系同様の踏面両抱式TR64だったが、後デイスクブレーキ式TR62に。主電動機は定格100kwのMT46B形採用。'66年まで25ユニット100両登場。なお、'62年に鉄道友の会第二回ローレル賞を受賞している。運転台は当初、153形0代同様の低運だったが後、高運に。当初、赤13号(通称小豆色)に先頭車前頭部に真一文字及運転台窓上部に細帯(後撤去)がクリーム4号の警戒色として塗装。'83年以降現色へ(クリーw)€」燎・碓号+青帯20号)。'78年に先行車8輌が廃車、'81年以降415系冷房車と順次交代、電動車が'91年、(401系編成としての)制御車が'92年までに廃車。写真は、Tc-49+MM'-25+Tc'-50の新製ラストナンバーユニット編成で、'91年2月編成で廃車。 '88.7.24 安孫子 P:梶村昭仁

岡山臨港鉄道 キハ5002

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元江若鉄道のキニ13。1937年(S12)日本車輌製。所謂「びわこ」型と称される日車形流線型の18m級大型ガソリンカーである。戦後はDA54→DMH17Bとディーゼルエンジンに換装。江若鉄道廃止(1969.11.1)により譲渡されて来た。水島臨海鉄道からキハ7000形が導入されると使われなくなり、この写真を撮影した1980年に廃車解体されたという。同僚キハ5001(元江若キハ12)は同じ形式ながら江若時代の1960年に車体更新を受けて全く別の車体になっており、岡山臨港鉄道廃止まで残っていた。 ’80.4.13 岡山臨港鉄道 P:宮村昭男

西武鉄道501系(二代目)

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この形式誕生前後の経緯は極めて複雑なので省略するが、写真の20m級クモハ501は西武鉄道所沢工場で昭和32年に製造された電動車である。当時他の大手私鉄では何らかの形で高性能車を登場させていたが、西武鉄道はその後も吊掛け式の電車を所沢工場で作り続けた。20m級の501系は昭和50年の伊豆箱根鉄道への譲渡を皮切りに淘汰が始まり、最後は1999年に総武流山電鉄への譲渡車が廃車になったのが最後であった。 ’75.12 東吾野─吾野 P:永野晴樹

クハ103-93

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103系電車の制御付随車。新製は'66年7月で今はなき帝国車両製。新製後配置は池袋区で山手線で活躍後、同線のATC化による対応先頭車両への捻出で'78年2月に松戸区へ。この当時の常磐線車輌の外観上の特徴として列車無線アンテナが屋根中央寄にも搭載。またこの車輌、偶数向Tc'-636と共に'84年以降中間に103系1000番代のユニットを組込んだ編成として話題に。1000代は0代と制御器段数や制御回路が一部異なっていたため、この0代先頭車を対応用として小改造。このため区別として写真の様に、車号下に白線一本が引かれて居た(その後消去)。後、予備車となっていた所で'88年12月の東中野事故で急遽、三鷹区に103系代替編成の先頭車として転出。更に習志野区へ再転出。代替編成終了後は再び予備車となり、'91年9月廃車。最後まで非冷房車であった。 '85.7.20 常磐線 上野 P:梶村昭仁

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