三重交通・神都線からやってきた700形ですが、まったく違和感を感じさせないスタイルで和歌山の町を第二の職場に活躍していました。 '65.1.24 南海和歌山市駅前 P:柿浦和敏
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2008年5月アーカイブ
22年に戦後国鉄で最初に製造された貨物用電気機関車。最後のデッキ付き電気機関車で、全国の直流電化区間で総数202輌が活躍した。この日は、アルバイトで糸魚川に行った帰り、越後線に乗り越えようと柏崎で下車した時、偶然にも貨物の先頭に立つトップナンバーを撮ることができた。翌年廃車された。2460レ。 '77.7.3 信越本線 柏崎 P:佐々木裕治
'64年に初の交直両用特急用形式の481系制御付随車として'71年までに40輌が登場。クハ151形以来のボンネット・高運転台スタイルを継承。車体関係の装備品も同様であるが、交流区間の低いホーム対応用を兼ね側引扉はステップ付になり下端が裾部から下がった格好に。また台車はTR69系に、運転台内も交直関係スイッチ追加、マスコンが抑速機能、ノッチ戻し機能付MC37A、ブレーキ弁も抑速機能付ME38AGに変更。なお、ボンネット内にMG・CP等補機類搭載。九州から本州北端まで広域に活躍も'07年までに運用離脱、番代消滅。写真のクハ481-5は'64年川車製第1次投入車。向日町区新製配置後、'75年鹿児島区、'85年勝田区と変遷。'90年2月廃車。 '86.3.20 上野 P:梶村 昭仁
郊外鉄道との相互乗り入れを初めて実現させた地下鉄、都営1号線・現在の浅草線開業用として1960年11月に竣工。乗り入れ三者(都・京成・京急)間の「直通車輌統一規格」に基づき設計・製造されているが、車体等に当時の花形、営団500系との類似・共通点が見られる。若干の仕様変更をしながら、1968年の全通時までに152輌が製造され、その後長らくオリジナルに近い姿で活躍し続けたが、1981年の車体更新からイメージチェンジとコスト削減のため外部色がクリーム色に太赤帯を配したものに変更されている。老朽化により1995年7月2日のさよなら運転をもって引退、他社への譲渡はない。 '84.8 京成本線 青砥 P:田中 友
銀座線用として1959年に登場。試作的要素の濃い1900系の片運構造・量産化した車両で、1900系同様WN駆動ではあるものの、吊掛車も含めた銀座線の在来車全形式と混結可能であった。また、1968年以降は一部が小改造の上、丸ノ内分岐線にも進出している。1993年までに廃車となったが、第3軌条集電式の車両にもかかわらず、同時期に廃車となった日比谷線3000系の機器等と組合せ、一部が日立電鉄・銚子電鉄に譲渡されている。 '82.8 銀座線 渋谷 P:田中 友
チサ100形。旧番号チ30500〜30999。大正13年〜昭和2年に500輌製作。炭鉱の坑木に使う2間材の輸送に適し、一貫して北海道で使用された。43,10では道外禁止のロ車に指定され、黄帯が巻かれた。道東や道北でキューロクの後ろにずらりと繋がっていたのが思い出される。昭和50年に形式消滅。そのキューロク達と一緒に過去帳入りした。 '74.8.22 宗谷本線 豊清水 P:宮村昭男
新幹線開業以前は新ビスタカーによる名阪ノンストップ特急の方が151系による国鉄特急電車よりも数分早く、サービスも優れていたので近鉄特急が優位だったが、新幹線の登場により、名阪ノンストップ特急は閑古鳥が鳴く有様となった。この状況を新しいサービスで打開しようと試みて昭和42年12月より登場したのが、スナックカー12000系である。2輌編成の一隅には都コーナーというスナックカウンターを設け、乗客の注文に応じ飛行機のように客席まで軽食等(ただし有料)を提供するというユニークなものであった。当初は在来の新ビスタカー10100系にまでスナックコーナーを設置すると言う意気込みで、大阪万博を控えて、12200系新スナックカーなども登場した。のちに人件費との兼ね合いもあり、スナックコーナーは一般座席に改造されてしまい、12000系は2000年に廃車となった。12000系で特筆すべきは前年に登場した18200系と同じく180kWのモーターを用いて上り33‰での均衡速度をMc-Tc編成で100km/h運転を実現したこと、内装では、従来の回転クロスシートのシートピッチでは不可能と言われたリクライニングシートを画期的なスライド式とすることで実現し、以後の近鉄特急車に引き続き採用された。ちなみにそれから6〜7年後に国鉄は183形電車に簡易リクライニングシートなるものを装備したが、12000系に比べてかなり見劣りのするものであった。 '67.12 近鉄冨吉車庫(試乗会での撮影) P:永野晴樹
1963年に登場した601系のモデルチェンジ車。大型方向幕やステンレスの飾り帯を配した斬新な車体は、その後101系(写真後方)に至るまでほぼ同一設計で採用されるなど、デザイン的に完成度の高いものとなった。当初は在来旧型車との混結のため、安全性より汎用性が重視された性能となっていたが、1975年から始まった冷房・HSC化改造で、高性能車と呼べる水準まで安全性が高められた。改造は1982年までに完了、同年までに全車が新宿線系(一部多摩川線)に集められ、同線の主力として活躍してきたが、1997年までに全車廃車となる。 '86.12 小手指車両管理所 P:田中 友
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東急初20m四扉大型車体を採用して'69年東横線に3M2Tでデビュー。Tc車8000形、M1車8100形(主制御・パンタ搭載)、M2車8200形(補機類)で構成。オールステンレス車体に側窓バランサ付1段下降式。前面は灯具類が車体直付により切妻がより強調され、無塗装と相俟って「のっぺり」感が強調されたスタイル。機構面では直流複巻電動機に他励界磁チョッパ制御採用、回生制動を常用。また日本初のワンハンドルマスコン採用も。当初非冷房で登場も'71年の四次車の8019Fから冷房搭載(分散型4台/輌)、以前の車輌も改造で全車搭載。'73年五次車から田園都市線向けに2M2T投入、その際、M1車パンタ1基の場合、離線時のチョッパ及SIVのサイリスタ転流エラー防止に2パンタとされるも後1パンタ化(デハ8143〜8147)。後に1M制御デハ8400、サハ8300形も登場。8000形用としては、'87年3月までに187輌が製造。東横・大井町線で8〜5輌編成で活躍。新型車投入により'02年から淘汰が開始、'08年度末に大井町線に残った編成が運用離脱、東急線から引退。 '88.3.28 大井町線 尾山台─等々力 P:梶村昭仁
'72年登場の14系寝台客車において、低迷していた寝台需要の底上げを狙い、国鉄が小グループ向けをターゲットに'84〜'85年にオハネ14形0代から6輌を改造。改造は大宮工。従来の寝台区画と通路部に仕切壁・仕切扉(引扉)を設け、2段式寝台4人用コンパートメント方式とした(8区画/輌)愛称名カルテット。基本的な車体構造には変化がなく、わずかに通路側窓から仕切壁が覗かれる程度。当初は側折扉上に愛称名が表記。料金区分上、B寝台2段式4人用に規定されるため、定員以下であっても4人用区分料金が必要であった。JR化後も運用されるも寝台需要低迷化と統廃合により、'97年11月以降編成から外され、'98年までに全廃、番代消滅となった。 '87.12.21 東京 P:梶村昭仁
1963年から1996年まで活躍した「新エースカー」11400系のMc車が、モ11400形。11400系はMcMc2連(奇数車+偶数車)を基本とし、乗客数に応じてMc奇数車側に適宜Tcを増結するという編成になっていたが、実際にはTcMcMcの3連で運用されることが多く、特に1969年に11520形Tcが加わり「3連×15本」(この場合パンタグラフは中間のMc奇数車に2基)という陣容になって以降、その傾向が強まった。それでも1980年からの更新によりMc奇数車が中間車化されて3連完全固定編成になるまでは、時折モ11400形(奇数車)が先頭に立ち、
前頭部ギリギリに突き出たパンタグラフで風を切る勇ましい姿が見られた。 '80.5 伊勢中原─松ヶ崎 P:清水祥史
1953年に井の頭線用として登場。前面形状・車体構造は先に登場した京王線用2700系に準じているが、側面窓・扉配置は1400系〜1800系の流れを汲む井の頭線タイプとなっている。Mc車のみが製造され、後に中間車化改造によりMo車・M車が登場したが、編成は終始1800系以前の在来車との混成となっていた。1984年さよなら運転を行い廃車、譲渡・保存された車輌はない。 '82.8 井の頭線 浜田山-高井戸 P:田中 友
'72年に寝台列車さくら・みずほ等の14系化に伴い登場した寝台特別(A寝台)車輌用客車。全14輌が日車で製造。14系は行先分割列車用途として分散電源方式を採用。車内は20系オロネ21形同様に通路を中央に左右に寝台(上下二段式:7区画/輌)を配した開放(プルマン)式。1.2位側便洗面所、3.4位側に車掌・喫煙・更衣室等にデッキという配置。20系より近代化され上段寝台のセット・解体がワンタッチスイッチにより自動化、作業の効率化が図られた。当初は品川・向日町区に配置、九州夜行を中心に運用されるも、'82年以降車種間改造等により、最終的にオリジナルで残ったのは5輌のみ。熊クマに配置の老舗、さくら・みずほ等に運用されるも夜行列車統廃合の波を受け、'99年12月までに運用離脱、後廃車となり番代消滅。 '87.12.21 東京 P:梶村 昭仁
戦後阪急は宝塚線の車両大形化と木造車を淘汰する為、610形15m車を製造した。車体幅は大形車並とし、台車や電装品は先ず木造車のものを戦前製の小型車320,380,500形などに転用し、それらのものを610形に更に転用すると言う複雑な、いわゆる「たらい回し」の結果誕生した。当初は宝塚線に用いられたが、高性能車の増備と共に今津線やその他の支線で活躍、最終的には能勢電に転属したが、阪急からカルダン車が転属するに及び、引退した。 '66.9 阪急今津線阪神国道 P:永野晴樹