800系は1962年に開業時の1系や101系などを、310形と同じ車体に車体更新して生まれた車輌で、17輌が登場した。その後3連化の際に2輌が1100系のサハに改造され15輌になった。外観で見分けるポイントは、パンタグラフを撤去した片扉の車輌か、大型の旧型パンタを搭載しているかの2点でした。写真の807は最後まで活躍し平成5年に引退した。 '82.8 長田 P:深山剛志
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2007年9月アーカイブ
北大阪急行電鉄2000形
1970年の大阪万博に合わせて開業した北大阪急行の車輌で、当時の関西では珍しいステンレス車体を使用していた。大阪市営地下鉄御堂筋線との相互乗り入れのため、市営30系と同じ仕様であったが、窓が大きく内装が親会社である阪急に近い使用になっていた。1986年に後継車8000系が登場してから御堂筋線と伴に冷房化が進み平成5年に引退した。 '80.1 桃山台 P:深山剛志
総武流山電鉄 クモハ1203+サハ62+クモハ1205
'79〜'82年に西武鉄道からやって来た元501系を種車の3両編成。この編成は'79年8月に入線した編成(クモハ509,サハ1509,クモハ510が種車)で、空色+白帯で登場。愛称も「流馬」。西武時代とは後部標識灯が埋込式になった以外ほぼ、原型で使用。又サハの種車が17m501系のサハの為、側窓、車体高さ等が前後で異なっていた。この「流馬」号、'97年冷房、カルダン車の西武の後輩(801系改造)に譲って引退した。 ’88.11.3 流山 P:梶村 昭仁
近鉄モ6301形は戦前昭和13年、関西急行電鉄により、大阪〜名古屋間直通運転用の狭軌区間用(ほぼ現在の近鉄名古屋線区間)に製造された1形である。戦後は近鉄6301形となり、初代名阪特急の狭軌線であった現在の名古屋線区間に活躍した。その後新型特急車の増備によりいち早く特急の座からは退いたが、伊勢湾台風をきっかけとした近鉄名古屋線の標準軌への改軌後も名古屋線の急行電車に活躍した。17m車であるが、大きなパンタグラフを振りかざし、正面の幌を膨らませて快走する姿は、いかにも関西の私鉄電車であると言う風格を見せていた。ほとんどが平坦線である名古屋線では、大阪線の2200系のような豪快な走り振りではなかったが、ノッチを入れっぱなしにして突っ走ると100km/h位の速度で軽快に走った。写真は当時新製された京都・伊勢特急、18200形(左)の試乗会でのスナップ。 ’66.12 宇治山田 P:永野晴樹
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東急5200形(5201)
5200形は5000形の電機品・台車を使用して1958(昭和33)年に製作された国産ステンレス車第1号。外版は独特の帯状プレスを施したステンレス張りで台枠や柱は鋼製。全長は17.5mで5000系より50cm短い。 大井町線 等々力 P:田中健吉
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名古屋市交通局 1900形(1910)
1800形に引き続いて、1954(昭和29)〜1955(昭和30)年製造された名古屋市交通局における「和製PCCカー」の第2弾。前面から側面にかけて足回りが裾を絞ったスカートですっぽりと覆われているのが特徴。一貫して沢上車庫に配置され、1974年、同車庫の廃止に伴い全車廃車となっている。 '63.8.27 P:柿浦和敏
弘南鉄道キハ2100
弘南鉄道黒石線は1984(昭和59)年、国鉄黒石線から転換された。当初はキハ22で運行されていたが、旅客営業の廃止された同和鉱業小坂精錬小坂線でからキハ2100形を2輌譲り受けてキハ22を置き換えた。キハ2100形は小坂線改軌の際に導入された気動車で出力は180PS、自重31tの日車標準車体の気動車。 '98.2.26 弘南黒石─前田屋敷 P:田中健吉
京都〜伊勢直通用に18200系は誕生した。当時京都〜八木間の近鉄京都線ならびに橿原線は車輌限界の狭隘な、しかも電圧は600Vであった。八木から先の宇治山田までの区間は名にし負う近鉄大阪線の1500V、しかも連続33‰の連続勾配。いわば水と油のような区間を直通して特急列車を走らせることに成功したのが18200系である。170kWという大出力のモーターを装備し、大阪線での連続33‰の上り勾配で、当時の新ビスタカー並みの100km/h運転をMcTc編成で可能とする、後の12000系スナックカー以降の近鉄特急につながる高性能な特急車であった。後に京都〜八木間は大阪線並に車輌限界が改善され、もちろん電圧も1970 年の大阪万博を機会に昇圧されていたから、18200系は限界狭小であることが災いし、修学旅行用のあおぞらⅡ生として生き延びたが、20m級大型車の12200系大型車に席を譲って、廃車となった。写真は登場時の試乗会でのスナップである。18200系は後の近鉄特急の基本的性能を示したということにおいて、末永くその功績を称えられるべきである。 '66.12 大和西大寺車庫(試乗会で) P:永野晴樹
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