南武線の17m国電は、浜川崎支線を除き1968年頃までにはすべて20m車に置き換えられた。ただし、20m車が故障などの際は、浜川崎専用の17m 車がピンチヒッターで「本線」に登場した。17m車が代用で入るときは、客扱い要注意列車なので前日に各駅に運用がファックスで通達された。この時は、基本編成の川崎側にクモハ11497がつながれるという当時でも珍しい編成である。後に浜川崎支線用17m車は旧モハ31系(クモハ11200)置き換えられたが、旧型車がすべて廃止となった1978年7月末まで、本線に17m車が出没した。 ’72.4 南武線 矢野口-稲城長沼 P:永野晴樹
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2007年3月アーカイブ
'61〜'62年に451系の増備形式として4輌6本24輌が西武所沢工場で製造。501系に続く湘南スタイルながら窓柱のない2枚連続窓の西武スタイルを確立。性能は吊掛駆動、国電おさがりの電気機器、台車はMT共イコライザ式流用等「省エネ」設計であったが、西武初の電連、側扉軽量アルミハニカム構造採用等、旅客サービス部は新登場する度に目新しいものが採用。後にMc車のみエアサス化されたり、旧501系組込用のサハ1571形の半数をM(モハ571形)化して6輌化するも後に4輌に戻った。晩年はクハ1651形と組成して2輌にもなり各線で活躍。多摩川線運用を最後に'88年引退、形式消滅。 ’83.10 新宿(西武園)線 東村山 P:梶村 昭仁
製造初年1936(昭和11)年。109輌が’42年までに製造された。木造車旧1000形の下回りを利用し、当時流行した流線型の鋼製ボディを乗せた。 ‘63.3.31 渋谷駅前ターミナル P:柿浦和敏
急行「アルプス」など中央東線の急行用として1966(昭和41)年に作られた売店付きの普通座席車で、2輌のみの製造にとどまった。売店側は車端に物資積卸口を設け、乗降口は中央となっている。写真はグリーン車も含めた急行フル編成で運転されていた快速「かもめビーチ」に組み込まれていた際のもの。’83年に2輌とも廃車となっている。 ’82.7 信越本線 二本木─新井 P:濁川克宏
製造初年1950(昭和25)年。荷重15トンの通風車。通気をよくするため、全体が鎧戸状になっており、屋根にはベンチレーターを設置。昭和61年11月のダイヤ改正で廃止となった武蔵野操車場で撮影したもの。当時、勤務の合間にカマや、当時すでに珍しくなっていた貨車を撮影していました。 ’85.10 武蔵野操車場 P:照井孝司
美濃電から引き継いだダブルルーフの単車。写真のモ14は1918(大正7)年名古屋電車製作所製。この14号を始めモ10形は10輌のうち7輌が単車最終運転日まで生き残った。おなじく最後まで生き残った仲間に39号があるが、こちらはモ35形で、1921(大正10)年、名古屋電車製作所製。両形式とも昭和初期に改造を受け、外観的・諸元ともほぼ同一。 ’63.8.27 岐阜市内線(撮影場所不詳) P:柿浦和敏
戦前昭和14年、東横線の新型電車として登場、当時今の京急と直通計画があり、標準軌用台車を装備したのが特徴。昭和35〜36年頃まで片隅運転台で、正面左側の車内は最前部までロングシートがあり、展望満点だった。写真の昭和39年には全室式運転台に改造されているが、それまでは中間に全室式運転台のクハ3850等を連結し、車掌はクハの運転台からドア扱いをしていた。写真の二子橋の併用軌道はもと玉電の線路を戦時中に改軌したものである。永らく大井町線で活躍したが、田園都市線と改称され、高性能車が入線するに従い、目蒲線に転属した。晩年1975年頃より更新改造、アルミサッシや車内の改装はまだしも、張り上げ屋根、ヘッドライトも下部に2灯化改造された姿に、私は撮影意欲をなくした。 ’64.9 大井町線(当時)二子玉川─二子新地 P:永野晴樹
'85年川越線電化開業時に、主に川越〜高麗川間の末端区間運転用に投入。元72系970番代(アコモ改造車)の103系化改造車。3両5編成(後4両化)が登場。元々72系台枠を流用した車両の為、床下機器配置が異なっていた。編成はクモハ102(M'c)モハ103(M)クハ103(Tc)の構成が特徴。大井、大宮、新津各工場で改造、終始川越線で活躍、老朽化で新形式車にバトンタッチ、'03〜'05年で全廃。番代消滅。写真は開業時のもの。 '85.10.3 川越線 西川越─的場 P:梶村昭仁
名古屋鉄道の3400系は昭和12年製造、2編成が登場し、戦後4連化され。、パノラマカーの登場後も高速性能を発揮した。昭和42年頃から更新改造により、イメージが大幅に変わってしまった。写真は昭和37年3月、大阪への旅中、特急「ひびき」号(157系)の車窓からたまたま並走した時の改造前のスナップである。 '62.3 栄生付近 P:永野晴樹
'63〜'67年に4輌48本192輌が西武所沢工で新製。外観は20m3扉で前灯を腰部2灯式、額部に大型巻取式字幕採用。その後の101系に続く西武湘南形スタイルを確立したエポックメイキングとなる。性能はカルダン駆動(1C8M制御MMユニット方式)とは云え、相変らずのAM系自動ブレーキで高性能とは云い難かった。Tc台車がTR-10等イコライザ式を流用したが、後FS-072でエアサス化。'75〜'82年に冷改、HSC化(電制・抑速無し)で真の高性能化。新宿線系統を中心に活躍。晩年は101系との併結(写真は1739F+1251F)も行れる等、汎用に活躍。'97年2月のさよなら運転後に引退、消滅。 '88.5.4 新宿線 南大塚〜新狭山 P:梶村昭仁
165系電車の普通座席室・ビュッフェ合造の付随車。1963(昭和38)に12輌が製造された。客室の定員は36名。1976年にビュッフェの営業は廃止されたが、1983年まで連結されていた。写真は中央本線の急行「アルプス」。営業していないビュッフェは登山客たちの格好の寝床になっていた。 ’80.6 中央本線 新宿 P:鈴木敏行
元尾西鉄道デボ100。1924(大正14)年、同鉄道は旧名古屋鉄道に合併。1941年、モ100形に改称、1949年にモ160形(161〜165)となる。製造初年は1921(大正11)年。瀬戸線や揖斐線などで1965年ごろまで活躍。瀬戸線に入線していた時代はY型ビューゲルを装備していた。 ’63.8.27 黒野車庫 P:柿浦和敏
紛れもなく、もと碓氷峠で活躍したアプト式EC40のなれの果てである。 すでに廃車となっていたが、現在軽井沢で保存展示中のEC40は同系機を京福から国鉄の社形凸電と引き換えに戻したものである。京福では反対側のボンネット(?)を撤去しデッキに改造されていた。撮影当時は車庫の裏に留置されていたが、いつの間にか姿を消した。 ’73.8 福井口車庫 P:永野晴樹
奈良運転所配属のD51である。デフに煙草のピースマークに似た装飾がなされていた。「SL伊賀号」などイベント列車、臨時列車などもしばしば牽引した。同区の機関車には他に882の「月と鹿」、944の「ツバメ」などがあった。 関西本線 加茂 ’73.3.15 山手 修