旧玉電の生残り車輌であるデハ80形は新製・更新車含め、'49〜'54年に掛けて28両が登場。路面用車両ながら高床2段ステップ車のため、低いホームでの乗降は苦労した。写真は原型を保っていた頃の姿。後に標識灯横のシールドビーム2灯化、カルダン化等、改造されるも車内の木目ニス塗り車内、非冷房のままで、冷房付新型車と交替、最後に残った6輌が'01年に引退、消滅した。 '87.3.3 宮の坂 P:梶村昭仁
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2007年1月アーカイブ
キハ45系近郊型気動車のうちエンジンを2基搭載しているタイプ、0番代9輌、100番代2輌、計11輌が、1967(昭和42)年から1969(昭和44)年にかけて製造された。外観は、キハ23形とほぼ同じ。2003年に全廃された。 ’84.1 紀勢本線津 P:大島誠之
'86年12月に750V→1,500V昇圧化で在来車一掃により2両×4本8両を投入。元東急5000系車両。興入れした車両は目蒲線で最後まで活躍していたグループ。写真のモハ5005(元デハ5055:'58年製)クハ5006(元デハ5048:'59年製)。ワンマン化、一部両運化(モハ5007、モハ5009)。車体色は当時のバスカラーをモチーフ。軽量車体が仇となり老朽、冷改出来ない為、'99年〜'00年に掛けて旧京帝3000系譲受車と交替、引退した。 '99.11.26 上高地線 三溝〜新村 P:梶村 昭仁
戦前、京都・西明石間に活躍したモハ43系は、戦後大挙して横須賀線用に上京しスカ形と呼ばれる70系と共に活躍、貫通扉に幌を構えた関西風の好ましいスタイルで活躍した。後にモーターを出力アップしたものはモハ53となり、2扉ではラッシュ時に支障をきたすため、昭和38年頃から3扉改造がなされ、クモハ50となったものの、横須賀線電車の先頭に立ち、幌を膨らませて快走する姿は往年の関西省電の魅力を残していた。横須賀線の113系化により、晩年は飯田線などで余生を送った。 ’64.8 東海道本線 品川-大井町 P:永野晴樹
昭和8年、日本車輌製。 “モニ”ではなく“モワ”として、開業当初より貨物用。燕駅から国鉄からの貨車を牽引して活躍した。貨物列車廃止後はキ100を連結して冬季、除雪に出動。平成11年の鉄道線廃止後、月潟駅に保存された。 ’78.8 東関屋 P:深山剛志
昭和15(1940)長野工場製。長野機関区、新津機関区、広島第一機関区、吹田機関区で戦中・戦後の混乱期、物資輸送に活躍し、1950(昭和25)年、中津川機関区へ。長野式集煙装置を取り付けた山伏スタイルで中央西線・篠ノ井線に活躍。1970(昭和45)年篠ノ井線無煙化に際、お別れ列車となった急行「ちくま2号」を牽引。1973(昭和48)年7月の中央西線の無煙化時に運転されたお別れ列車も牽引している。’73年11月廃車。 ’73.4.14 木曽福島 P:宮村昭男
'71〜'73年に掛け旧5400系(モハ5400形、クハ450・500・550形等)からの主要機器流用の更新形式。東武型電車のうち、昭和初期('27〜'29年製)の鋼製車から戦災復旧、運輸省規格型車等'51年製までの車輌68輌のグループ。3000系同様18m(三扉)車体を新製(津覇車両製)。4輌(3050形)、2輌(3550形)がある。制御装置MCH型、主電動機HS型がDK系主体の3000系と異るが両形式の併結運転は可能だった。登場後本線(伊勢崎・日光)系、野田線で活躍するも非冷房、機器老朽化で'96年までに全車引退、形式消滅した。 ’88.5.29 野田線 大宮 P:梶村 昭仁
モハ31形は昭和27年に譲渡された台車に車体を新造した。モハ12は後から追加された細い乗務員扉が特徴で同型車が2形在籍しモハ31とともに加茂〜村松間の単行運転に使用された。 '79.8 蒲原鉄道 七谷 P:深山剛志
制限軸重12tの簡易線の無煙化のために1971(昭和46)年から1975(昭和50)年にかけて65輌が国鉄長野工場、日本車輌、川崎重工で製造された。運転整備重量は48t。DD51に搭載していたDML61Zを本来の1000psから800psに出力を下げて使用。飯山線・大糸線用に2、4、5、13号機を除雪式ラッセルヘッドを取りつけ可能に改造、300番代とした。 ’81.11.22 飯山線 十日町 P:宮村昭男
1933(昭和8)年の開業時に日本車輌で新製されたモハ10形14号の下回りに、1966(昭和41)年、更新車体を乗せ11号となった。車体はいわゆる「日車標準車体」と呼ばれる規格型。’99年、路線が廃止となり廃車。現在は東月潟駅に保存されている。 ’90.1.1 白山 P:田中一弘
1930(昭和5)年横須賀線用に登場した17mの、もとモハ32形は、戦後関西から転属してきたモハ43系やいわゆるスカ形70系などの登場により都落ちし、その中でも身延線に投入した車輌はトンネル限界の関係で低屋根に改造、切妻となり、同じ切妻でもモハ63形とは異なる一種独特のローカル的な雰囲気を醸し出していた。戦後昭和28年の改番によりモハ32はモハ14となったが、一時期低屋根改造車は未改造車と番代による区別はなかった。昭和34年の改番の際に低屋根車改造車はクモハ14800となった。晩年はいわゆるスカ色となったが、後に首都圏や関西圏を追われた20mのクモハ41800やクモハ51800などの登場により、1970年ごろには引退した。 '64.8 身延線 芝川 P:永野晴樹
デラックスロマンスカー、略してDRCと通称される私鉄界を代表する車輌であった。'60年9月以来'73年までに7編成42輌を新製。6輌全電動車MMユニット方式採用。最大の特徴は旧151系車輌をモダナイズした独特のボンネットスタイル。当時の日産セドリック(30型)似と云れる立派なもので、車内も旧国鉄一等車クラスのフルリクライニングシート、ペアグラス固定窓、完全空調設備、和洋便所、女性接客員乗務、ブッフェ設備に加えサロンルームにジュークボックスまで、と'60年代の車輌としては破格の豪華設備だった。長年に亘り東武特急の顔として君臨するも老朽化と日光観光のイメージアップを兼ねた新型車100系登場('90年)で花道を譲り、'91年9月まで全廃、走行機器等は200系「りょうもう」車輌の新製の際、活用された。 '89.7.28 伊勢崎線 東武動物公園〜姫宮 P:梶村昭仁
元は長野電鉄1100系(モハ1100形クハ1150形)で'60年日本車輌製。元を辿れば旧信濃鉄道(現大糸線)の戦時買収車輌デハ1形に端を発する。'55年長野モハ1、クハ51として活躍、木造車故、全鋼製へ更新。長電では地下線化により'79年廃車後、豊橋鉄道へ。前照灯2灯化以外大した改造もなく活躍。'97年同線1,500V昇圧により名鉄譲渡車と交替し'97年9月までに廃車、消滅した。 '87.8.20 豊橋鉄道 渥美線 新豊橋〜花田(信) P:梶村 昭仁
近鉄大阪線通勤用旧型車の中で1両のみ、軽量車体、台車は旧型のKS33-Lを履いた珍しい存在。次位のク1561形は当時の新型台車を装備し多数が登場し、また高性能試作車のモ1451形も塗装は異なるが同一形態であった。モ1321は電気ブレーキがないため、大阪上本町-青山町で活躍した。3輌目は終戦直後に製造したモ2000形で、造作が悪く保守に手を焼いたという。 '66.11 近鉄大阪線 恩智-法善寺 P:永野晴樹
神奈川臨海鉄道で1967(昭和42)年に富士重工にて国鉄DD13タイプのディーゼル機関車として製作されたDD554は、1993(平成5)年に「SLもおか」号の運転に伴い車庫のある真岡〜下館までの列車回送を行うため譲渡された。その際客車にあわせて茶色に白帯となり回送列車の際には蒸気機関車と反対側に連結された、その後老朽化のために2004(平成16)年に引退し、JRより譲渡されたDE10 15355に後を譲った。 '03.10 真岡鐵道 下館 P:深山剛志
113系用付随車。一見オリジナルのようだが実は元115系サハ115-300代で'84〜'85に掛けて大井工改造で4輌登場。写真の-301は元サハ115-308('75年日車製)で113系化後も種車の番代を流用、内外観も変化なく制御・補助回路の変更程度でドアエンジン(TK8A)、半自動用取手等そのまま。東海道東京口で活用していたが'95〜99年掛けて廃車、番代消滅となった。 '88.1.4 東海道本線 東京駅 P:梶村昭仁
名古屋線の標準軌化により新ビスタカー10100形が名阪特急にデビューしたが、大阪線の伊勢方面の特急は依然吊掛式の2250系が冷房改造されつつも活躍していた。これらを置き換えるために1961(昭和36)年に10400系が製造された。後に出力アップしたエースカー11400系に比べ、正面左側の窓は新ビスタカーと同じ大窓で、屋根上にユニットクーラーのないスッキリした好ましい車輌であったが、後にエースカー並に改造された。 '66.8 近鉄大阪線 関谷─二上 P:永野晴樹
1954(昭和29)線井川線全通に際し製造された35t機。三菱重工製B-Bロッド式で丸みを帯びたスタイルの凸型DL。3輌のうち最後まで生き残ったDD102はDD20新造と時を同じくして昭和57年5月に廃車された。 '82.2.10 川根両国車両区 P:奥清博