DD20 2のセミセンターキャブを踏襲して1000PS機関を搭載、除雪装置着脱の手間を省き、両端に固定式ラッセル装置を付けた除雪機として1963(昭和38)年に1両だけ製造されて新潟地区に配備された。除雪装置の裏に収納される連結器を出すと入換機となるが、運転席からの視界が悪いなどの不便があり、1986(昭和61)年に廃車された。 '64.3.30 新潟運転所 P:内藤健作
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2006年2月アーカイブ
モ200は昭和12年登場の車長13m級軽量小型車。このタマゴ形の小型車が繋がって走る様子はなかなか楽しかった。乗ってみると車体が軽いせいか、走りは軽快。乗り心地もよかったように記憶している。 '80.9.9 甘木〜本郷 P:宮村昭男
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東急では、昭和50年代まで荷物電車を運転していた。デワ3041と3042が配置され、平日にはどちらか1輌が新玉川線を除く各線を巡回する運用に就いていた。写真のデワ3041は、小田急の車輌を種車としたもの。2輌の荷電は濃いグリーンに塗装されていたが、1970年代末頃には「ライトグリーン+前面腰に黄色帯」というカラーに塗り替えられた。その後、デハ3450形改造のデワ3043が登場し、3041と3042は姿を消した。 '78.11.26 池上線 五反田 P:松尾彦孝
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国鉄初の交流電化の試験区間・仙山線作並〜北仙台間に1955(昭和30)年にED45として投入されたイグナイトロン水銀整流器(のちにシリコン整流器に交換)式の試作1号機で三菱製。整流器の異なる11号機は東芝、21号機は日立製。2年後に営業運転を開始して1961年に形式称号を改められた。仙山線の全線電化で不要となり、3両とも1970(昭和45)年に廃車された。11・21号機は保存されている。 '64.8.11 作並機関区 P:内藤健作
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C5553は昭和12年3月に三菱で製造された。九州管内を移動して、昭和43年10月に宮崎区から、若松区に転属。ここが最後の配置区になり、同46年8月に廃車になった。この機関車のテンダーはD51の物に振り替えられている。また、大分に静態保存されているC5553は、別物で本体はC5546である。 '70.6.3 筑豊本線 筑前埴生 P:松崎昌一
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国鉄紀勢本線乗り入れのため新製された南海のキハ55である。片運転台がキハ5501形、両運転台が5551形である。キハ5553は1962年帝国車輌製。国鉄への乗り入れはこの3月で終了し、南海のキハ55達も5月には廃車になった。 '85.2.26 南海電鉄 難波駅 P:宮村昭男
1950年代後半から始まった車両会社からの提案(借入)機のなかでも最後の部類で、M.A.N.の1100PSを搭載した液体変速のCC機。1962(昭和37)年から千葉鉄管内で使われたが、正式採用されずに終わる。車体はクリームと濃緑で、HITACHIと大きく描いてあった。 '62.11.17 千葉気動車区P:内藤健作
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青梅線のクモハ40達は、最後まで原型を大きく崩すような醜い改造をされず、よく手入れされた綺麗な姿で使われていた。73系から外され、1輌で佇むクモハ40071。 '77.10.10 青梅 P:宮村昭男
EF10の改良型であったEF12は、姉妹機EF57に比べ、ファンに注目されることも少なかった。そんなEF12の稼動最後の1輌となった5号機の検査期限切れが迫り、最終運用となった'81年8月1日、お別れのヘッドマークを掲出し、高崎操車場〜桐生間で1往復の貨物列車を牽引した。当日は台風通過に伴う大雨となったが、無事最終運用を追え、高崎第二機関区に帰還。当局の心遣いから、構内での撮影を許可していただき、撮影したのがこのショット。 '82.8.1 高崎第二機関区 P:松尾彦孝
雪深い大杉谷口を出る、尾小屋鉄道キハ3。前身の遠州時代の番号がはっきり見える、おおざっぱな車番標記が愛嬌だった。廃止間近い最後の冬。 '76.12.28 尾小屋鉄道 大杉谷口 P:神谷武志
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1948年製、自重45tの東芝戦時型電機で、全国に仲間が居たお馴染の凸型電機だ。東武では1984年に廃車になってしまったが、名鉄や伊豆箱根、三井三池等には今も同族の電機が残っている。
'77.8.30 東武鉄道佐野線 葛生 P:宮村昭男
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C57 53は昭和13年三菱で製造され、小郡機関区を振り出しに、戦後に九州に渡ってきた。それ以後九州内を移動して最後の配置区は若松機関区。昭和46年8月に、C57 52と交替した。若松区での活躍は2か月余りだった。九州に配置されたC57の中では門デフに改造される事もなく、どちらかと言えば地味な機関車だった。この機関車の動輪は天賞堂の銀座店に飾られている。 '7012.26 日豊本線 佐伯 P:松崎昌一
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1949(昭和24)年、日本車輌製。D51 1050を改造。鹿児島機関区のC61は〈はやぶさ〉をはじめとする優等列車を牽引するなど、南国・九州で華々しい運用についていた。一時期〈さくら〉を牽引し長崎まで足を伸ばすこともあった。DLの進出、鹿児島本線の電化の進展により、徐々に活躍の場が狭められ、'70年10月の電化直前には、運用のほとんどが普通列車牽引となってしまっていた。'70年8月、台風の直撃によるダイヤの乱れで急行、臨時急行に運用の関係でC60、C61が割り当てられ、数日間ではあるが久々に優等列車牽引に返り咲いた。それが文字通り最後の一花で、'71年1月廃車となった。 '70.1.3 熊本機関区 P:笹本健次
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川崎車輌で1953年に新製された気動車。エンジンはDMH17を装備した液体式で出力は150psだが、台車は機械式気動車のキハ07と同じTR29を履く。写真の反対側(横手側)の前面にはバスケット型の荷台を備える。箱型の電気連結器と、機関車タイプの開放てこが目立つ。’71年の横荘線廃止後は雄勝線に移って、同線の廃止まで活躍した。 '68.1.3 横手機関区 P:青柳 明
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1944(昭和19)年三菱重工製。鳥栖機関区に所属、長崎本線、鹿児島本線で活躍していたが、厚狭機関区に転属、美祢線の石灰石輸送に従事することとなった。同機の門デフは、デフの下半分ほどを切り取ったもので、前部のステーが垂直になっている。九州時代は美しく磨きこまれていたが、厚狭ではススまみれで錆が薄く浮いたうらぶれた姿となってしまった。 '72.12廃車。 '72.4.29 厚狭 P:山下修司
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1941(昭和16)年、三菱重工製造。撮影時は熊本機関区所属、後に吉松機関区配属となる。南九州では数少ない2次型。門デフの前のステーがフロントエプロンの傾斜面から立ち上がるタイプ。このタイプにはC55 34、C57 116などがある。'73.11廃車。鹿児島市平川動物公園に静態保存。 '70.1.3 熊本機関区 P:笹本健次
1959年に日本車輌で製造された入れ替え用ディーゼル機関車。1〜110までが1次形とされ、エンジンはDMF31(370PS)を2台搭載する。動力は車体中央の液体変速機からプロペラシャフトを介して各車軸の減速機へとつながる。1次形のうち84までは弓型イコライザーの付いたDT105台車を履くが、写真の37はダンパーが撤去されている。’75.1.18 隅田川 P:青柳 明
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1933(昭和8)年、汽車会社製。新製後すぐに南延岡機関区に配属され、日ノ影線の列車を中心に運用された。'74年に廃車となるまで生涯を南延岡機関区で送った。正面のナンバープレートが形式入り。同機の活躍した日ノ影線は'74年7月、日ノ影〜高千穂間(12.5㎞)を延長し、高千穂線と改称。'89年に第三セクター高千穂鉄道となったが、昨年、台風による橋梁流出で甚大な被害を受け廃止が決まった。 '70年頃 日ノ影 P:笹本健次
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762㎜ゲージの井笠鉄道の主力として活躍した1961(昭和36)年に登場した日本車輌製の気動車。’55年に登場したホジ1形の増備のため外観はほぼ同じだが、エンジンは日野DA40、出力は25psアップした150psとなっている。’71年の鉄道廃止まで主力であった。ホジ101は保存展示されており、今でもその姿を見ることができる。 ‘69.3.27 笠岡 P:青柳 明
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