関西地区最後の蒸機の牙城・奈良機関区所属のD51は鷹取式集煙装置、重油併燃装置装備の山伏姿の機がほとんどだった。そのなかに、デフに装飾を施した機が数輌いた。882が月と鹿、906がタバコのピースの月桂樹の枝をくわえた鳩、この944号機にはC62 2と似たツバメがついていた。C62のものに比べるとやや太り気味のツバメだったが…。'73.6.10 関西本線 柘植 P:山下修司
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2005年11月アーカイブ
老朽化したEF59を置き換えるためEF60の(1次型)クイル駆動車から改造されたのが、EF61 200番代。206号機はEF60 6からの改造。重連での後補機運用に付いた際、連結器に不具合が生じることが判明、短命に終わった。老骨に鞭打って後押しをするEF59を横目に庫で寝ていることが多く、EF59全廃後も主役はEF67に取って代わられ、地味な存在だった。1991(平成3)年3月廃車。'78.3.24 山陽本線 瀬野 P:山下修司
阪急700系は京都線用として1948(昭和23)年に登場。同時に誕生した宝塚線用の550形とともに戦後混乱期の資材割当てによる、いわゆる運輸省規格型電車の一員である。写真は最晩年、千里線普通列車として梅田駅に停車中の701号。廃車はこの約2ヶ月後であった。'76.3.26 梅田 P:山下修司
サハ48001〜028は横須賀線用の2扉クロスシート車モハ32系の付随車として1930(昭和5)年から製造されたが、戦後は70系電車の登場によって支線区に転出、短編成化のためクハ47に改造されたものが多かった。このサハ48018は最後まで付随車だった数少ない内の1輌。晩年は岡山運転区に配置され、この写真を撮影した1976(昭和51)年に廃車となっている。 '76.5.2 宇野線 宇野 P:山下修司
※サハ48について詳しくは『ガイドブック最盛期の国鉄車輌1』をご覧ください。
長岡から悠久山、見附、栃尾を結んだ越後交通栃尾線(旧栃尾鉄道)の木造客車で、1914(大正3)年製。1964(昭和39)年に自社で簡易鋼体化、つまり外板に鋼板を貼り付けるという近代化が施された。しかし、屋根はダブルルーフのままで扉はHゴムと、新旧織り交ぜた不思議な姿であった。
'69.5.18 P:笹本健次
1972(昭和47)年4月26日に島根県植樹祭に際して運転されたお召列車の牽引機。上部が折れ曲がらず、周囲を帯材で補強した一種の変型デフを装備。正面から見るとデフは分厚い板に見える。お召列車は当時D51三重連で有名な布原信号場を昼過ぎに通過する。この機関車の晴れ姿に2000人近いカメラマンたちがカメラを向けた。「SLブーム」のまさにピークだった。'71.11.13 伯備線清音 P:山下修司
形式入りナンバープレートに門デフの組み合わせ、鹿児島機関区のスターだった。九州の蒸気機関車はいずれも手入れがよく磨きこまれていたが、形式入りプレートの貫禄は絶大で、ひときわ美しい印象を受けた。21号機のデフを譲り受け、最後の門デフ改造機といわれる。1974(昭和49)年6月廃車。 '73.1.1 鹿児島機関区 P:山下修司
機関車のない富士急で貨車牽引にも活躍した荷物電車。もとは1931(昭和6)年製のモハ7・8で、モハ507・508への改番を経て1969(昭和44)年に荷物電車に改造。窓を埋めた扉間を広告スペースとしたこともあった。1982(昭和57)年廃車。 '69.6.15 P:笹本健次
1962(昭和37)年10月、岡山国体の際の津山線内でのお召列車牽引機。1971(昭和46)年3月24日に運転された津山線の蒸気機関車さよなら運転の牽引機でもある。さよなら運転に際しては、デフに鶴が舞う姿の装飾がつけられた。その後、会津若松運転区に転属、只見線、会津線、日中線で活躍した。日中線のさよなら列車も牽引。生涯で2度、さよなら列車を牽引した例は珍しい。現在は古巣の岡山県津山市に静態保存されている。'71.2.10 岡山機関区 P:山下修司
11形は夕張鉄道の自社発注機で、日立製作所で4輌製作された。8620の上回りと9600の下回りを組み合わせたようなプロポーション。晩年はもっぱら若菜、鹿ノ谷の入換えに従事していた。11、13、14は円形のナンバープレートが取り付けられており、異色を放っていた。14が夕張石炭の歴史村に保存されている。'74.8.15 鹿ノ谷 P:山下修司
国鉄のキハ41000を改造した客車。種車は1949(昭和24)年に廃車となったキハ41085で、新潟鐵工所で運転台撤去、車掌室の設置、ロングシート化などの改造を受け1951(昭和26)年ごろから使われた。電車を使わずに、最後まで電機や電動貨車が客車を牽いていたのがユニークだった。'68.1.3 八郎潟 P:青柳 明
ED26 11は僚機12とともに1929(昭和4)年に伊那電気鉄道のデキ20、デキ21として芝浦製作所で、鉄道省ED11,ED14(GM製)を手本にして製造された。伊那電気鉄道が戦時買収により国有化、飯田線となった。当初は改番されずに使用されたが、1952(昭和27)年に改番されED33 1になり、1961(昭和31)年再び改番、ED26 11となった。'69.9.1 辰野 P:笹本健次
1949(昭和24)年に、木造無蓋電動貨車デト形の改造名目で製造された無蓋電動貨車。同時にデト31も作られている。1964年(昭和39)年にも2輌(デト33,34)が増備された。主電動機は93.3kWX4、ATSの設置時に前照灯がシールドビーム化された。1988年に1000系を改造して誕生したデト10形とデチ15形に役目を譲って引退した。'76.6.27 新町検車区 P:青柳 明
流線形で登場した20輌のC55のうちの1輌。戦後改造されて標準型となったが、標準型として製作されたものとはキャブやドームの形状などが違う。旭川機関区に所属し流線形改造のC55の中で最後まで活躍した。保存される予定だったが、C55 50と間違えられ、解体。保存された50号機には当初「C55 30」のナンバープレートが取り付けられていた。'74.8.9 旭川 P:山下修司
1950(昭和25)年に登場した形式で、Mc-T-Mcの3連が5編成製作された。戦後初めての新造車である2600系は16m級の車体となり、自動進段式の制御器、MGが採用され、それまでの路面電車然とした京王帝都の体質改善の第一弾となった。弱め界磁が無い分足が遅く、優等列車などでの華々しい活躍は少なかった。晩年は支線区で使われ、1977(昭和52)年に全車廃車された。写真はデハ2610を先頭にする3連だが、新宿方の先頭には2701が増結された姿で長いこと使われた。'77.11.23 高幡不動 P :青柳 明
北海道初の液体式気動車のキハ250形の増備として1956(昭和31)年に登場した。増備車の252〜254の3輌はキハ251とは窓配置が異なるため、別形式のキハ252形とされた。その後キハ252と253は向きの異なる片運転台改造が施され、各車がそれぞれ別形式となった。エンジンはDMH17C、製造は新潟鐵工所である。旅客営業廃止後は僚友キハ251ともども関東鉄道に譲渡され、キハ715となって鉾田線で活躍したが、1993に廃車された。キハ251はキハ714と改番されて鹿島鉄道で今も健在である。'73.8.22 栗山 P:青柳 明
1928(昭和3)年製。亜幹線用で重に使用された17m級、3等座席、荷物室の合造車。31系に属しリベット接合、ダブルルーフの鋼製車。64輌製造され、当初の形式はオハニ47200。'64.11.13 亀山 P:笹本健次
1966(昭和41)年に近郊型として横型エンジンのDMH17Hを搭載して誕生したキハ23系列の北海道バージョンのうち、片運転台の車輌がキハ46である。出入り口をデッキ化したり、側窓も一段上昇の二重窓にするなど、酷寒地向けの仕様となっていた。製造はわずか6輌で1992年には姿を消している。 '82.10.6 札幌 P:青柳 明
カハ5を電化に際して制御電車に改造したもの。カハ5は下津井鉄道初のボギー気動車で、昭和6年製。製造当初はボディ前後の「鮮魚台」が取り付けられていなかった。改造に際し茶屋町側の運転台は撤去されている。廃車後、長い間下津井駅構内に放置されていたが、現在は化粧直しされ木造有蓋貨車ホワ6とともに保存されている。'80.3.15 下津井 P:山下修司
ジョルダン式と呼ばれる、広幅除雪車。除雪幅は5.5mにもおよび、操車場や駅構内の除雪に使われた。翼の開き方で雪を右、左どちらにも流すことができる。翼を動かすための車体後部に搭載されたエアータンクが目立つ。'78.9.16 岩見沢客貨車区 P:青柳 明