C57形4次型は190〜201の12輌で、193、194、197、200、201が北海道に配属された。200号機は僚機201とともに小樽築港機関区に所属、函館本線小樽〜旭川間と根室本線を中心に活躍。根室本線では難所・狩勝峠を越え釧路まで片道400㎞を超すロングラン運用をこなした。重油併燃装置はそのときに装備されたもの。その後苗穂区に転属、1969年10月28日付けで廃車となった。 '68 茶志内 P:笹本健次
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2005年9月アーカイブ
東武鉄道ヨ201形201。秩父鉄道と並び、関東地区の民鉄では最大級の貨物輸送量を誇った東武。古い時代より数多くの緩急車を保有していたが、いずれも老朽化著しく、1960年代に入るとそれらの緩急車を種車とした新しい緩急車が自社の杉戸工場で作られた。本形式は、最後まで残ったヨ101形を若干簡素化した形態が特徴で、ヨ101形よりも早い時期に姿を消している。’86.2. 業平橋 P:滝澤隆久
1957年に登場した中空軸並行カルダン、MMユニット式の国鉄で言うところの新性能電車で、8編成16輌が誕生。1500V昇圧を見こんだ複電圧対応車。モハ90系と同じオールM車で設計されたが、昇圧前後の車輌不足に対処するためサハ化した14mのHL車を間に挟んだ3連を強いられた時もあった。1966年には2連に戻され、主に2010系の付属車として活躍。1981〜83にかけて廃車。’68.1.28. 高幡不動
P:青柳 明
九州時代は「波にかもめ」の装飾をデフに付け、特急〈かもめ〉の専用機として颯爽と鹿児島本線を走ったこの機関車も、晩年は豊岡に転じ、集煙装置を装備。貨物列車を牽き、すっかりうらぶれてしまった。 '71.4.23 播但線 溝口〜福崎 P:山下修司
小田急電鉄ワフ1形2。小田急の緩急車と言えばトフが有名だが、その影に隠れたワフも地味ながら忘れられない存在。1929(昭和4)年に日車で3輌が製造された木造車ワフ1200形を前身とし、大東急時代にワフ1形に形式変更。1958(昭和33)年に東急車輛で鋼体化改造が実施されて国鉄直通車となった経緯がある。廃車は1970(昭和45)年。'69 相武台前 P:滝澤隆久
1959年に登場した2000系の後継車。昇圧対策として中間に付随車を挟む設計のため、主電動機は110_にアップした。14mのHL車を改造したサハ(2500系)を2輌挟んだ4連で22Fまで落成したが、23〜26Fは2010系とそろった大型のサハを新製している。その後、5070系に電装品を供出したデハ2700を改造したサハなどに順次置き替えられ、最後まで14mのサハで残った11〜13FもHSC化を機に大型のサハとなった。1984年に廃車されるも、一部は伊予鉄道で現在も活躍中である。
'67.10.8. 高幡不動 P:青柳 明
C61は D51のボイラを利用して製造されたハドソン機で、33輌が三菱重工業と日本車輌に分けて製造された。本機は日本車輌の担当で、ボイラはD51 1135のものを利用、1948(昭和23)年9月の竣功。奥羽本線電化まで青森区で活躍したが、電化とともに宮崎区に転じて日豊本線で使用された。1972(昭和47)年11月7日付けで廃車。'69.8.1 川部 P:笹本健次
ホキ8000形は1967(昭和42)年に16輌、1970(昭和45)年に2輌が製造された35トン積石灰石専用ホッパ貨車。当初の所有車は日鉄鉱業㈱で、九州地区での石灰石輸送に充当された後、葛生のお膝元である東武鉄道・上白石に常備駅を移動。しかし短期間で日本石油輸送㈱に売却されて北海道へ渡り、東鹿越から北見への石灰石輸送に使用された。廃車は1987(昭和62)年。'84.8.25 滝川 P:滝澤信久
49輌誕生したC62のうち、汽車会社製のラスト5輌(45〜49号機)は新製時から“軽軸重”で生まれ、いずれも尾久区に投入、長らく常磐線で活躍した。この48号機も尾久から平区に転じたものの、電化まで常磐線で活躍を続け、特急「ゆうづる」の先頭に立つ機会も多かった。1967(昭和42)年に糸崎区に転じ、僚機46・47号とともに呉線で働いたが、同線の電化を前に、1969(昭和44)年9月付で廃車された。広島工場施工機が砂撒管をケーシング上に露出させる改造を施しているのに対して、本機は郡山工場施工のまま原形を保っていた。'69.3.1 広島 P:笹本健次
西武鉄道E21形は1927(昭和2)年に武蔵野鉄道が川崎造船所で2輌製造した凸型機。当初はデキカ20形の21、22を名乗っていたが、西武鉄道となってから21形→E21形に形式変更されている。同形機には小田急のデキ1010形、上田温泉電軌→名鉄→岳南鉄道のED50形があるが、西武の2輌は右側運転台であり、細部も他社機とは若干異なる。写真のE21は、1978(昭和53)年に廃車されたE22に先んじること5年前の1973(昭和48)年に廃車となった。’73 石神井公園 P:滝澤隆久
1954(昭和29)年新三菱重工製の35tBB型ディーゼル機関車。三菱製DE21形機関(225ps/1400rpm)を2基備える当時としては画期的高出力機。当初は常総線(常総筑波鉄道)所属で、筑波線(のちの筑波鉄道)に転じてからは写真のように国鉄からの乗り入れ列車「筑波号」の牽引などにも活躍した。半年遅れで製造された同形機に日本軽金属蒲原工場のDD102(のち西濃鉄道に譲渡)がある。'79.5.5 筑波 P:名取紀之
花巻を起点に西鉛温泉までの軌道線と、花巻温泉までの鉄道線の2本を擁していた花巻電鉄では、それぞれの所属車輌を分けていたため、同じデハ1形が鉄道線、軌道線双方に存在する珍妙な事態となっていた。写真のデハ4は鉄道線用で、1926(大正15)年雨宮製作所製が母体。戦前に車庫火災で車体を消失し、鋼体化して再起、1969(昭和44)年の軌道線廃止後も、残された鉄道線の廃止(1972年)まで活躍を続けた。'69.7.3 花巻 P:笹本健次
1932(昭和7)年に藤永田造船で製造された20m級鋼製郵便車で、台車はTR23を履く。車体ほぼ中央に休息室と便所が備わり、郵袋室と区分棚は前後に分かれてレイアウトされている。前位側の両開き扉が1200㎜幅なのに対し、後位側が1900㎜と異なる点も特徴。本形式以後の郵便車はすべてシングルルーフとなった。'66年 水戸 P;笹本健次
国鉄から払い下げを受けた木製除雪車キ1形を夕張鉄道が鋼体化したもので、鋼体化にあたってハーフトラックのように後部を無蓋化してしまったのが最大の特徴。車輌竣功図表によれば種車は苗穂工場1926(大正15)年の製造。自重19.5t、最大寸法(長×幅×高)=11252×2383×3600mm。夕張鉄道廃止後、同じ北炭系の真谷地専用鉄道に転じたが、ほとんど活躍の機会もないまま同線も廃止。在籍期間が短かっただけに、北炭の社紋を付けた真谷地時代の写真は貴重である。'84.9 真谷地 P:滝沢信久
5000系は1963年の京王線昇圧に備えて新造された1500V専用車で、1970まで製造された。18m3扉車で、Tc-M-M-Tcの4連だが、付属の5100系と6〜7連を組んで特急として活躍した。製造年次による形態差が大きく、1972年製の7次車、16・17Fからは車体帯のひげ無し、ATS装備で落成。その中の17Fだけはスカート付きでデビューした。17Fは1995年に廃車、先頭車のみ電装化の上、一畑電鉄に譲渡。5000系自体も1996年には全廃された。 ’67.9.24. 高幡不動 P:青柳 明
日本鋼管は川崎工場内に延長50キロ余り、鶴見工場内に延長200キロ余りの専用鉄道を擁し、歴代100輌近い蒸気機関車を使用してきた。しかし、1960年代は工場内はもとより、構外でカメラを向けても守衛が飛んでくる状態で、多くの古典機を呑み込んだいわば「宝石箱」は、その中を垣間見ることさえ許されなかった。そんな中で鶴見線浅野の構内はホームから鋼管の機関車を観察できる数少ないポイントであった。写真の115号は川崎工場所属機で、1941(昭和16)年川崎車輌製の25tCタンク機。
'66.11.6 浅野 P:笹本健次
明けやらぬ岡山駅に〈あさかぜ3号〉がやってきた。東海道・山陽筋のブルートレインは下り〈あさかぜ3号〉上り〈あさかぜ1号〉、上下〈瀬戸〉が共通運用の20系で、他は大阪発着も含めすべて14系、24系化されていた。撮影後、日を置かずして24系になり、これで置き換えが完了した。牽引機EF65 540は昭和43年に東京機関区に新製配置され、53年8月31日に新鶴見に転属、平成10年12月2日に高崎で廃車になっている。'77.9.28 山陽本線 岡山 P:山下修司
新見機関区の入換専用機。鷹取式の集煙装置を装備する同区のC58の中にあって、集煙装置なし、トラ塗、緑十字の入換機は異色だった。控え車とコンビで一日中入換に精を出していた。 '71.8.8 新見機関区 P:山下修司
昭和5年から製造された側開き式石炭車セキ1000形をベースに、昭和26年から2700輌あまりが製造されたのがセキ3000形。台車は鋳鋼製のTR41で、炭箱(車体)は溶接による構造である。'84.7.29 三井芦別 P:滝澤信久