平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震で罹災された皆様に、謹んでお見舞い申し上げます。
17系気動車改造の荷物車の置換用として、余剰となったキロ28形の足回りを流用して、キハ40系と同じタイプの新製車体を組み合わせた改造車である。改造は旧国鉄工場で行われ北海道を除く全国で活躍したが、荷物輸送の廃止に伴いJR移行前に全車廃車となった。 '88.8.13 福知山運転所 P:長岡行夫
平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震で罹災された皆様に、謹んでお見舞い申し上げます。
17系気動車改造の荷物車の置換用として、余剰となったキロ28形の足回りを流用して、キハ40系と同じタイプの新製車体を組み合わせた改造車である。改造は旧国鉄工場で行われ北海道を除く全国で活躍したが、荷物輸送の廃止に伴いJR移行前に全車廃車となった。 '88.8.13 福知山運転所 P:長岡行夫
485系車輌の制御付随車。従来通りのボンネット型を踏襲したが、若干のマイナーチェンジを実施したのが-100番代。前部標識灯(前照灯)をシールドビーム化、先頭ボンネット内部に高圧補器類(MG・CP)が搭載されていたうち、MGを床下架装に変更、併せて出力向上(150kvA→210kvA)を実施。全26輌が製造されたが、この内、-107は、'72年7月の日本車輛で製造、向日町運転所(当時)に配属。その後'86年11月に金沢運転所(当時)に転属後は同区を離れず、北陸線系統の特急列車に運用。旧151系からのこだま型形態のボンネットスタイルの最終形となった。JR化後も主力で活躍も、新形式車投入とボンネット型のため、定員が他の先頭車両よりも少なくなることから置換えの優先対象となり、'04年までに全廃。番代廃止となった。なお、-107は'02年03月廃車。 '89.3.24 名古屋 P:梶村昭仁
1969年から1979年の間に製造されたEF65形1000番代(PF型)の6次車として登場しました。1987年に貨物試験塗装機となり、主に貨物列車の牽引をしました。2009年3月27日に大宮車両所へ廃車回送されるまでこの塗装は変更されることがなく、人気の高い機関車でした。 '09.1.18 東海道本線 辻堂-茅ヶ崎 P:賀来正博
'62〜'66年に掛け、新潟地区の非電化区間における通期輸送改善を目的に、増備中の一般型に加え、耐寒耐雪設備(床下スノープラウ・前面窓に熱線式デフロスタ等)を装備して31輌が登場。車内・外観上で一般型との差異は無いが、屋上通風器形状が、煙突型(グローブ型)から箱型の押込み式に変更となった点。主に、越後・弥彦線系統で使用されるも、'84年に各線が電化の上、115系電車と置換わり、一部が余剰・老朽廃車となったほかは、首都圏の一般型が活躍する各線区へ転配となり、これらとの混運用となった。JR化後も継続使用されるも、その後の各線の事情(電化等)に加え、車輌の老朽化も相まって置換えが始まり、'97年までに全廃、番代消滅となった。写真の-522は'66年の富士重製。'84年に木更津区へ転配、'88年に高崎区へ。'96年の八高南線電化およびキハ110系列車輌への置換えまで活躍。 '89.8.1 八高線 高麗川 P:梶村昭仁
京王線初の20m4ドア車として1972年に登場し、京王線の発展に貢献した。1991年に混雑緩和を目的として製造された5ドア車は、全国唯一の20m5ドア車であり、またのちには5ドアから4ドアに改造された車両も存在し、異彩を放っていた。都営新宿線直通運転は本形式を利用して始められ、9000系10輌編成の登場するまでは唯一の都営新宿線直通車両として活躍した。しかし、5ドア車など一部車輌は製造後20年もたたなかったが2011年3月13日、引退した。最後まで残ったのはTama Zoo Trainのラッピングが施された動物園線専用の5ドア車だった。 '10.5.13 代田橋〜明大前 P:髙杉直彰
旧国鉄型特急用車輌の代表的なスタイル。定員の増強と、分割併合を意識した貫通型スタイルとなった-200番代からさらにマイナーチェンジとなり、前面が非貫通式になったのが-300番代として、'74年から登場。見た目の特徴として前面愛称表示幕部が大型化されたこと、車内アコモとして従来の回転式クロスシート(非リクライニング)から、後の標準となる簡易リクライニングシートに変更されたのが眼についた変更点。写真の-337は、'75年05月、東急車輛で製造後、青森運転所(当時)に配属。'85年03月に金沢運転所(当時)に転属後は、北陸線系統の優等列車を中心に活躍。681・683系列の導入もあり、'05年12月、廃車となった。 '89.8.24 名古屋 P:梶村昭仁