昭和5年(1930)現在の阪急神戸線用に登場した特急用電車である。当時は600V電圧であったため、両運転台の900形は200馬力、2個モーター車として登場、詳述は省くが大阪・神戸間の特急25分運転の立役者となった。以後「阪急スタイル」として現在に至るデザインの基本となった事でも特筆すべき存在である。写真は900形が本来の姿で活躍していた末期のもので、後に昇圧対策により様々な改造が行なわれたが、現在もトップナンバーの900は阪急の技術遺産として保存されている。 '65.7 中津 P:永野晴樹
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2009年2月アーカイブ
'59〜'78年の19年間にわたり製造された京浜急行を代表する車輌1000形。このうち、'59〜'60年に掛けて48輌が製造されたのが1次車。デハ1001〜1048まで、初の4輌固定編成、全電動車方式採用。都営地下鉄1号(現・浅草)線と相互直通規格に基づき製造されるもこのグループ従前スタイルを踏襲した為、前面2枚窓非貫通でデビュー。編成はMc+M'+M'+Mcと中間M車にパンタ搭載車が集中しているのが特徴、この後、'61年以降製造の2次車までの特徴。性能としては当時標準であった、直並列制御、発電制動付。主電動機出力は75kwと小型ながら、オールMにより加速3.5km/h/s、減速4.0km/h/sと勾配の多い地下線区から平坦区間の高速走行まで柔軟にこなせる性能。'69〜'72年に前面貫通化、'79〜'84年に冷房改造実施。1000形冷房装置は、集中式が新製から搭載、分散式が改造車で容易に見分けがついた。また、非貫通の改造の1次車と貫通で新製された2次車以降の前面下端のアンチクライマー形状が異なっていいた。新製後一時期、東急TS313及川崎OK-22エアサス台車の試験装着を行っていた編成でもあった。新形式投入以降、'88〜'91年に順次引退、1次車グループは消滅。 '88.9.13 京浜急行本線 北品川─新馬場 P:梶村昭仁
649輌製造されたDD51形の初期53輌は重連総括制御装置を備えていなかったが、その後は装備されることとなり番号も500番台へと変更された。よって本機は重連総括制御可能となったDD51形のトップナンバーである。その中で501〜592号機はブレーキの引き通し管を持たない半重連タイプと呼ばれたもので、JRに引き継がれたDD51形はすべて593号機以降の完全重連タイプのみなので半重連タイプのDD51形は現存しない。DD51 501号機は狩勝新線の開業を間近に控えた1966年に連番の502、503号機とともに釧路機関区に新製配置され、最盛期には40輌以上配置された同区のDD51形の長兄として1986年の廃車まで釧路機関区を離れることなく活躍した。写真は小樽発釧路行のハネ付き夜行普通列車「からまつ」を牽引する姿で、この写真撮影3日後のダイヤ改正でこの列車も廃止されてしまった。 '80.9.28 根室本線常豊(信)-上厚内 P:大沢敏文
1955年〜60年の間に20輌製造されたモノコック車体構造、全電動車方式、17〜18m車体の旧5000系の機器、走り装置を使用(一部電動機出力増強)して、1972年〜1975年にかけてアルミ合金製20m車体に更新したもので、この時代は5100系と称された。旧5000系より車体長が伸び冷房装置も搭載したが、質量は同等となっていた。後年の9000系まで続いた油圧パワーウィンドウを装備したのは本形式からである。1988年〜89年にかけてVVVf制御化改造を行い、2M3T×4編成に仕立て直され(5輌+5輌の10輌編成で使用)再度5000系となった。2005年末で一旦運用を離脱し、1編成-10輌は廃車となったが、残った10輌は現役に復帰し、2009年2月11日の「さよなら運転」を最後に引退した。写真の5105を上り方先頭とする6連は、旧5000系から5100系への更新が進行中の、双方が営業に就いていた1973年のもので、期せずして「さよなら運転」と同日の2月11日の撮影である。 '73.2.11 天王町 P:長谷川武利
写真のクモハ202は元国鉄クモハ20054である。更に元を正せばかつては阪和間ノンストップ45分で走破した超特急にも活躍した阪和電鉄のモヨ106である。1966年に国鉄廃車後、200馬力の大出力モーターを買われてクモハ20052と共に松尾鉱業に引き取られ、勾配区間で国鉄乗り入れのキハ52や自社の客車牽引に活躍した。しかし1969年には旅客営業を廃止した為、弘南電鉄に引き取られ、モーターを低出力のものに取替え、さらにクハゃやサハにかく下げられながらも、末永く活躍、平成元年ごろに解体されたようである。 '67.8 大更 P:永野晴樹
1964年の開業時に登場し、1978年まで使用。された初期の車両である。現在の車両よりもかなり小型で車体長は先頭車でも10mそこそこで、走行装置はボギー台車ではなく2軸車であった。丸妻の先頭車が100形、流線型の先頭車が300形である。先頭車の運転室部分のないタイプの中間車が200形、運転室部分を客室としたタイプの中間車が350形である。これらを3両1ユニットとして1ユニットまたは2ユニットで運用されていた。 '66.4.29 大井競馬場前 P:長谷川武利
西鉄1形(2)は、西鉄宮地岳線の前身である博多湾鉄道汽船(湾鉄)が、1925年に導入した客車(ナハ1〜3、川崎造船所製)で、1929年の電化時に電車化され、デハ1〜3となった。西鉄となった後の1945年に「デハ」から「モ」に改められ(デハ1→モ1・デハ2→モ14・デハ3→モ2)、写真のモ2は、1961年に鋼体化。1979年3月廃車された。 '75.1.4 西鉄宮地岳線 宮地岳-福間 P:三津安永