東葉高速1000系ですが元たどれば営団地下鉄(現東京メトロ)5000系(5810)で、譲渡車の中でも元ファンデリア付き車はこの1051編成の両端と中間の僅かで、外見的には客窓の淵にRが付いていること、車内では天井高さが低い(2〜3cm位)ので、吊り広告の高さが若干低く、リコ付き吊革の跡が残る車輌もあった、また台車は勝田台寄り先頭(写真)の一部にはオリジナルのFS358を履いているのもあったが、廃車発生品を流用し末期には総てFS502Aになっていた。 '00年 東西線 浦安─南行徳 P:田中健吉
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2008年7月アーカイブ
3000輌余が製造された旧国鉄通勤形車輌の代表形式103系。モハ102形の初期一般型車輌で、同車は'67年近畿車輌製、新製は蒲田区。'86年3月浦和区、民営化後'88年2月松戸区へ転配。この時期の首都圏車輌としては珍しく原形に近いスタイル。写真は通称、山側と称す2-4位側。床下にC2000形CPを、この反位側に20kVA-MGをレール方向に搭載する高圧補助機器関係を搭載した電動車。なお、103系はモハ・クモハ103形にパンタを搭載するため、屋根上は煙突(グローブ)形通風器だけがズラリ並ぶ。屋根鋼板上に屋根布(イボツキビニールと称す)、妻車端部の屋根布押え板も健在。後、冷改、アコモ改なども終始常磐線で活躍。'03年4月廃車。 '88.5.20 常磐線 上野 P:梶村昭仁
北総7050形は、1995年に京成3150形をリースして登場した車両。元京急1000形の7150形を置き換えた。京成3150形は2001年に消滅し、最後の京成3150形グループが北総7050形だった。最後まで残った7081編成も2003年12月のさよなら運転を最後に消滅。京成3150形グループは完全に消滅した。 '03.12.23 北総開発鉄道 印西車両基地 P:福田智志
木造車モ101形の置換えのため、1967(昭和42)年に、元大阪市電1601形を譲り受け導入した半鋼車で、総数は10輌。阪堺線の主力となったが、'00年に最後に残った130号が廃車となり、形式消滅。125号は大阪市電の1614号。 '87.7.23 住吉大社前 P:田中一弘
1961年12月、伊東・伊豆急下田間に伊豆急が華々しく開業した。このとき新製されたのが100系で両運、片運のクモハを始め、クハやサロハなどが「ハワイアン・ブルー」と銘打った斬新な明るい塗装でデビューし、国鉄伊東線とも相互乗り入れを開始した。観光路線にふさわしく、車内もセミクロスシートを装備し、従来から国鉄伊東線のローカル電車には旧形国電ながら一等車(現在のグリーン車)を連結していたため、伊豆急でも一等車を用意した。開業当初は新造の100系のみでは車輌が不足するので、親会社の東急から旧形のデハ3600系を借用して伊豆急色に塗り替えて走らせたリしたが、後にはサシやサロ、モハ等も増備し、国鉄伊東線内では最大10輌編成となった事もあったが、老朽化により2002年4月までに全車廃車となった。現在なおクモハ103が伊豆高原の車庫内の入替え用に活躍し、その美しい姿を見ることが出来る。写真は開業直後の2輌編成の伊東行きであるが、かなり混雑していた。晩年とはヘッドライト付近の塗装が異なっている。 '62.3 伊豆急下田 P:永野晴樹
今や’小田急の3000’といえば、2002年に初頭にデビューした「通勤車の3000形」を想起する向きも少なくないと思うが、一方で「3000といえばロマンスカーSE車・SSE車」という印象も強い。「ロマンスカーの3000形」は、1957年に'SE車'(Super Express)として8連x4本が登場、1968年には国鉄御殿場線乗り入れのための改造が施され'SSE車'(Short SE)5連x6本となり、1991年まで小田急線で活躍した。SSE車となって以降は主に連絡急行「あさぎり」として活躍したが、小田急線内の特急に運用されることも多かった。
低床・連接という特殊な構造を持ち、大型通勤車と並ぶと車体の低さ・小ささ、編成の短さが非常に目立っていた。写真は現役末期に線内特急「あしがら」に運用された時の姿。 '90.6 成城学園前─祖師ヶ谷大蔵 P:清水祥史
1964〜'81年に掛け、都市計画第5号(東西)線、中央線中野から江東区東陽町へ至る路線及び中央緩行線との相互直通運転を行う前提の路線として計画。'64年12月に高田馬場〜九段下間で開業以来、'69年3月までに中野〜西船橋間30.8km全線が開業。投入車輌が5000系。当初2M1Tで登場、車体は骨組・台枠等の主要部分が鋼製で車体外板のみステンレス鋼板採用。20m・2800mm幅と国鉄車輌規格となり、性能も100kw主電動機、制御制動装置は電空単位スイッチ式バーニヤ抵抗制御、電磁直通ブレーキ(発電併用)+自動空気ブレーキ方式。台車は車体直結式ダイヤフラム式エアサス式。設計思想は経済性を重視。三面折妻ながら切妻に近いさっぱりスタイル。路線識別帯を初採用。煙草のハイライトブルーとして設定。路線延伸と輸送力増強で最終的に8M2Tまで増強。当初は非冷房であったが、'89年以降一部編成に冷改、制御を界磁添加励磁化。'88年以降新形式車投入で順次撤退となり、最終的に'07年3月まで活躍。引退。 ’88.5.3 中央線 中野 P:梶村昭仁
1953(昭和28)年、近鉄大阪線用特急用電車として、昭和30年までにモ2250形10輌とサ3020形9輌が登場、在来の2200系を特別整備した特急車ともども特急車の増発ならびにグレードアップに貢献した。さらに吊掛け車ながら昭和32年すべてを冷房化改造、同時に車内電話やシートラジオのサービスも開始した。しかしいわゆる新旧ビスタカー、さらには11400系エースカーなどの高性能特急車の充実により2250系は徐々に一般車に格下げされ、3扉セミクロスシート車となった。冷房車は格下げ後も3扉セミクロス車ながら、主に急行電車に活躍し冷房機器の保守が困難となった昭和40年夏までは特別料金不要の一般列車に用いられた。なお冷房方式は、TcまたはTに冷房機器を搭載し、Mcにはヘッドライト部分から幌により冷気を送風する方式で、戦前、昭和12年に南海鉄道が2001系に用いた方式の流れを汲むものである。写真は上本町行き特急であるが、冷房の季節ではないので、ヘッドライト部分の冷房用ダクトの幌は装備してなかった。2250系は後にロングシート化され、さらには鮮魚列車などにも用いられ、一部は牽引車として1998年まで残存した。 '62.5 近鉄大阪線 高安 P:永野晴樹
郵政省所有の郵便車で、製造初年は1957(昭和32)年。車内には区分け室がある。1972年頃から順次冷房化され低屋根となった。写真の2582は一般型から電暖の取り付けと耐寒改造を行なったもので2550番代に属す。写真は急行「きたぐに」に組み込まれているところ。 '81.7.27 青森 P:大河原 健
大井川鐵道300系の一員として昭和52年に312・313編成は西武351系譲受した、2扉化され先代レッドアローの転換式クロスシートを設置し、312編成はサハ1426を2扉化した中間車を入れた、1M2Tのスマートな姿で運行されたが、蒸機人気のために後に中間車は引き抜かれナロ801に改造された。ヘッドライトの2灯化等が行われた外は大きな変更も無く、平成15年頃から休車になり使用されなくなった。 ’03.5.2 大井川鐵道本線 新金谷 P:深山剛志
元阪急の81形84号。両運転台で神戸線で活躍したが900形の登場で宝塚線に移る。後に運転台、電装品を撤去し付随車となる。1953(昭和28)年、車体は和歌山鉄道(後の南海貴志川線)に売却、同鉄道手持ちの台車、機器を載せ「モハ603」となって1969(昭和44)年まで生き延びた。1964(昭和39)年、トロリーポールからパンタグラフに載せ換えられている。 1965.1.24 伊太祁曽 P:柿浦和敏
1955(昭和30)年、大阪線用試作高性能車モ1451形に引き続き、近鉄奈良線特急用高性能車800系が2M1Tの3連でデビュー。当時の奈良線は旧生駒トンネルをはじめとする限界狭隘なトンネルが数か所あり、車幅2500mmに制限され、パンタグラフもシューの幅が短い独特のものを装備していた。在来車は15mの小形車だったが800系は18mとし、スイスの技術を導入したシュリーレン式台車や一枚ガラスによる下降式窓など、側面はあたかもスイスの電車そのものと言えるスタイルであった。特急は大阪の上本町〜近畿日本奈良間を鶴橋、大和西大寺の2駅停車で30分で走破。後にTを増備して2M2Tの4連となり活躍した。この時代でも35‰の生駒越えの急勾配を70㎞/h以上で軽快に駆け上った。1964(昭和39)年8月の新生駒トンネルの開通と、数か月後の奈良線の限界拡幅工事の完成と共に20m級の900系や新製の8000系が全線に亘って進出するに及び、800系は特急運用から引退。しかし8000系の増備がままならず、吊掛けの旧形車ともどもラッシュ時の天理線直通準急や昼間の急行に活躍した。写真は800系が旧奈良市内の古都の面影を残す併用区間を走行する姿。市電とは異なり軌道内クルマ進入禁止だったので、制限速度は40㎞/hで、万が一軌道内に乱入するクルマがあると、猛烈なタイフォンを鳴らし、蹴散らしながら走行して定時ダイヤを確保した。 ’65.8 油坂─近畿日本奈良 P:永野晴樹
1963年登場の特急用車両、俗にNSE(ニュー・スーパー・ロマンスカー)と呼称された関東私鉄車輌の雄。'57年登場のSE車(3000形)の軽量・低重心・高速車輌のイメージに加え、当時、伊国鉄特急用車輌セッテベロ号で採用の運転台を屋根上に、客室を編成端一杯まで延長した「展望室」とし、後々の小田急ロマンスカーのデラックスイメージを特徴付けた端緒となる。'64年鉄道友の会からブルーリボン賞をSE車に続き受賞。車体・編成構成は8車体から11車体連接構造となり定員で約3割増と大幅な輸送力アップに貢献。折しも'60年完成の箱根ゴールデンコース完成による箱根観光客増大に対応。2編成が登場後、'67年までに7編成まで増備。箱根特急のオールNSE化されるまでに。好評理に運用されるも'77〜'78年に冷房装置容量アップ化、'83〜'88年に日本車輛にて車体更新を実施。前面愛称表示が小型電動幕化。'96年新特急車両登場以降廃車が始まり、'99年までに一般特急運用から離脱、'97年に開業70年記念イベント車輌改造編成(3161F)が'00年に引退、消滅。 '89.7.24 小田急小田原線 和泉多摩川─登戸 P:梶村昭仁
東北線の交流電化用に開発された50Hz用の交流電気機関車で、全部で55両が製造され、主に黒磯〜仙台間で活躍したが、ED75700の南下により昭和59年に全廃された。写真の37号機は船岡に保存されていると聞いている。就職を間じかに、ED71の記録を残そうと運用表を調べ、記録した1枚。 '81.1 東北本線 藤田 P:佐々木裕治