京阪大津線の高床車(京津線路面区間の駅を通過する急行・準急用車輌、石山坂本線用車輌)の1960〜1970年代の主力であった260形(最終増備車)と300形が、ともにこの直後に廃止された三条-石山寺間の直通準急として、今はなき三条通の路面区間を行き交う姿。1960〜70年代のほとんどの期間、京津線急行・準急に運用される車輌は、すべて赤とオレンジの「京阪線特急色」をまとっていたが、1979年に登場した500形を皮切りに、緑の濃淡の「京阪線通勤車色」に変更されていった。写真はその過渡期の光景。 なお、写真左側の260形後期車はその後500形を経て現在も700形として、右側の300形は現在も600形として、ともに車体は現役を続けている(車体を流用したうえでの、代替新造扱)。 ’81.1 三条 P:清水祥史
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2007年7月アーカイブ
三條から急行できて、旧・浜大津駅でスイッチバックして石山寺に向かうブリルを履いた262+263。260形は1957(昭和32)年から1968(昭和43)年にかけて26輌が製造された。1次車から4次車の4タイプに分かれ、写真の1次車は’57年のナニワ工機製で、両運転台、片開2扉。’70年にパンタ化され、’71〜’73年にかけて片運転台化された。’97年の大津線昇圧の際にこの1次車はすべて廃車されている。 ’63.4 浜大津 P:柿浦和敏
都営10系試作車は1971(昭和46)年に誕生し、新宿線の開通前だったために三田線に登場した、当初は黄色の帯を巻き、冷房付きでATOを搭載していた、一般の人にとっては車庫にある謎の車輌だったが、'78年に新宿線が開通し、量産化改造され、1次車を組み込み6輌編成で活躍を開始した。その後8連化や冷房化が行われたが、新宿線の信号装置リニューアルに伴い、2005年に10-300に後を譲り引退した。 '04.10 大島 P:深山剛志
'70〜'78年かけ、営団(現:東京地下鉄)東西線と中央総武緩行線相直用に301系の増備車として登場。性能、スタイルは同時に登場の常磐1000番代と同様。製造時は地下鉄乗入用のため、非冷房。編成は6M1Tの7輌で301系に続き103系でも偶数向制御電動車(M'c:クモハ102形)が登場。外観上、パンタのないスタイルで車側のMM風導があるのが識別点。増備が103系のマイナーチェンジ時期と重り、Tc103・M'c1021202-〜、M103-1204〜、M'102-1203〜の側窓が外付ユニトサッシに。また保安装置が1000番代と異るため運転台背後の戸袋窓がある。登場時、パールグレイ+カナリヤ帯塗装だったが、JR化後に帯色のみスカイブルーに。冷改、10輌化等の変遷で一般形T車組込の反面、余剰のM'c102形等が常磐快速線に転用も。'05年以降後継車投入で引退、'06年中に番代消滅。 ’87.5 中央線 中野 P:梶村昭仁
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1959(昭和34)〜1962(昭和37)年にかけて木造車置換えのために登場した南海が設計・した製作初の20m4扉車。2051系も1521系と同様の目的で登場した。主に南海線の普通列車に使用されたが、'73年、南海線の1500V昇圧が行なわれたさいに、1500V対応に改造したが、結局、高師浜線、天王寺支線などの支線で運用されることになった。高野線汐見橋-岸里玉出で最後に運用されていたが、'95年に運転終了、和歌山港線でお別れ運転が行なわれた。 '84.11.11 天王寺支線 天下茶屋 P:小森克禎
元阪神電鉄の831形。10輌が京福電鉄に譲渡されデナ500形として叡山線で運用された。集電装置はシングルポールに戻され、叡山本線・鞍馬線(二軒茶屋まで)で運用された。末期は再びパンタグラフに乗せ替えられている。八瀬遊園発出町柳ゆき。 ’74.6.15 元田中付近 P:柿浦和敏
1966(昭和41)年車体更新HL車2輌10本が登場。いわゆる間接非自動制御車で主に旧愛電3300形等の戦前の半鋼製車の機器流用車。車体は5500系を高運化したパノラミックウインドウ、シールドビーム2灯、側窓2連1組二段窓、車内1・2人掛交互配置の転換クロス、その上クーラ搭載とHL更新車としては豪華な内容。当初、新色ライトパープルと称する薄いすみれ色で登場、他車にも波及し掛けたが、体色が激しく、郊外で保護色になって視認性に問題があって暫してストロークリーム+赤帯の後スカーレット化。'77年以降瀬戸線1,500V地下線用としてA-A基準化。同時に転出した3770系等共に活躍。なお、特徴ある車内は'85年までにロング化。HL、吊掛け駆動の機器老朽化等により本線転用6000系等と順次交替、'96年6月までに全車引退、形式消滅。 '88.8.25 瀬戸線 尾張瀬戸─瀬戸市役所 P:梶村昭仁
阪神電鉄の車輌大型化により1958年に4輌が増備された。初の上半分クリーム下半分赤色の赤胴車カラーを採用し、本線急行系列車の増結にしようされた。その後1975年に冷房化されたが、武庫川線等の単行使用での際はMGの関係で冷房が使用できなかった(現在のように大容量SIVがなかった)。1986年に阪神電鉄から引退し、一部はえちぜん鉄道に譲渡された。
まるでタイムスリップしたかのような魅力的な鉄道が1984(昭和59)年1月末まで走っていました。別府鉄道…「別府」で「べふ」、九州の別府温泉とは関係なく兵庫県加古川市にありました。元々、肥料などを製造する「多木化学」が製品輸送を目的に敷設した鉄道で、訪れたこの日も、貨物列車の最後尾におまけのように小さな客車ハフ7が連結されていました。ハフ7は1926(昭和2)年、汽車会社製。神中鉄道ハ24で、三岐鉄道を経て、’59年に別府鉄道へ。’84年の廃線まで2軸・ダブルルーフ・オープンデッキの木造という形態のまま生き残り、現在、相模鉄道かしわ台車両センターに保存されています。キハ2は1931(昭和6)年、日本車輌製。三岐鉄道キハ5で、’65年に別府鉄道へ。現在、元野口線円長寺駅付近に保存されています。 ’82.4 別府港 P:倉田秀夫
1948(昭和23)年、D52 226を改造して誕生。川崎車輌製。名古屋機関区から東海道本線米原電化を機に宮原に転属、その後は梅小路、下関と移りながら、東海道・山陽本線の優等列車牽引機として君臨。山陽本線前線電化後は広島に転属。以後、呉線で活躍する。1956(昭和31)年、東海道本線全線電化直前、お召列車の先導列車となった「つばめ」を牽引するにあたり、お召機同様に整備された。 ’65.12 広島 P:永野晴樹
1970(昭和45)年登場の大阪線急行及び団体兼用の4扉オールクロスシート車。扉付近に収納式補助席設置、これを使用時側引扉開幅700mmにする機能を有した。当時急行系に旧参急の名車2200形等の旧型車の老朽・陳腐化による置換えの意味合いも。4・2輌各2本12輌登場。当初非冷房だが後、'84〜'85年までに冷改。三菱製1C4M抵抗制御、抑速発電制動でWCはク2700とサ2750に持つ。'89〜'90年に更新するも座席はしのまま、晩年は各編成2本ずつが大阪・名古屋に配置、細々と活躍、老朽化等により'00〜'03年までに全廃となった。 ’02.10.14 名古屋線 箕田─伊勢若松 P:梶村昭仁
近鉄モ二221形は北勢鉄道モハニ50形として昭和6年に登場した。その後三重交通になった際に、モニ211系に改番され昭和40年に近鉄に合併された。ほとんどが北勢線で使用されたが、北勢線近代化後は4輌が残り、1992年に廃車になったが、内部線に転属した車輌は大改造されて260系のサハになり、現在も活躍している。 ’80.1 近鉄北勢線 西桑名付近 P:深山剛志
1960年に浅草線(1号線)用として製造された5000系は、車体は営団500系・電装は国鉄101系に似た構成を持ち、浅草線の顔として152輌が製作された。1981年から車体意更新が始まり、塗装が2色塗りに変更された。しかし、冷化が困難なこと、高速域の性能が新型車輌にかなわないなどの 理由により1995年に引退した。 ’80.10 京成小岩 P:深山剛志
1933(昭和8)年、三菱製。C50のラストナンバー。新製配置は田端。以後、尾久、成田、大宮、桐生と移動し、’50年小山へ。両毛線での活躍はファンに馴染み。同線無煙化後、’70年に糸崎に転属し、わずか3ヶ月で亀山に移動する。その際にデフは撤去されている。1973年4月廃車。 ’72.8 亀山機関区 P:安東大介
阪神電鉄青胴車のグループで、5201形の後を受け昭和36年から24輌が増備された。主な変更点は昇圧対応を本格的に盛り込んだり駆動方式が平行カルダンになった。その後、1980年代に冷房化が問題になり、台車等を2代目5001形に譲り1983年までに廃車になった。残った車体は2扉化されて、えちぜん鉄道や高松琴平電鉄に譲渡された。 ’80.1 阪神本線 今津 P:深山剛志