新生駒トンネル開通後、名車800形に代わり大阪(上本町)-奈良間の特急運用に進出して間もない頃900系。奈良線初の20m車である。鹿のマークも颯爽と平城宮跡の直線区間を快走する大阪行き特急。900系は2002年に全車廃車となっている。 ’65.2.14 奈良線 西大寺-油坂 P:柿浦和敏
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2007年4月アーカイブ
'63〜'67年に4輌編成48本192輌が製造。前灯2灯を窓下、字幕を額に掲げ、斬新性を強調するも、カルダン駆動車ながら制御車はイコライザー式TR10A、在来(吊掛)車併結可能のAE式ブレーキ方式等、高性能とは御世辞にも云えなかった。'75年以降冷改、HSCブレーキ方式、制御車エアサス(FS072)台車、SUS扉、レモンイイエロー一色(登場時ローズピンクとウオームベージュ)化。新宿線系で活躍も老朽化等により、'97年2月のさよなら運転を最後に形式消滅。 '88.8.13 拝島線 萩山 P:梶村昭仁
1950(昭和25)年に製造された、北陸鉄道金沢市内軌道線用路面電車。金沢での形式はモハ2000形で、総数10輌。1967(昭和42)年、金沢市内軌道線が廃止となり名鉄に売却された。名鉄ではモ550として岐阜市内線で活躍。’97年までに全車廃車となった。写真は名鉄市内線徹明町〜長良北町間( 3.9km)最後の日。 ’88.5.29 名鉄岐阜市内線 徹明町 P:田中一弘
1960(昭和35)年阪急は画期的な定速制御を装備した2000系シリーズを登場させた。デザインは今日に至る阪急スタイルを確立した極めて優れたもので、京都線には2300形が登場し、新型車ということで特急にも用いられた。しかし3扉ロングシートの通勤形車では並行する京阪特急のテレビカーに比べて明らかに見劣りがした。そこで2300形をベースとして2扉セミクロスシートの2800形が昭和39年に登場した。その後通勤車にも冷房車が登場するに当たり、2800形は真っ先に冷房化改造の対象となった。ところが対抗する京阪は冷房付、カラーテレビ付きの3000系を新造、国鉄も153系冷房車を用いての新快速の運行を始めるなどサービス合戦が繰り広げられ、阪急も6300系特急車を新造し巻き返した。このため、2800系は3扉ロングシートの通勤型に格下げされ、1995年までに主な車輌は引退した。写真は登場間もない5輌編成の特急電車で、先頭のいわゆる「クハ」(阪急は「モハ」とか「クハ」とは言わない)だがパンタグラフをつけている。その後、編成の長大化(最大は8連)により、後にパンタグラフは撤去、大阪寄りのいわゆる「クモハ」のみに装備するように改められた。 1965.7 中津 P:永野晴樹
東横線の旧5000系と共に路面電車だった旧玉川線(玉電)用に開発した低床式連接車。車輪直径を極めて小型とし、同時にモーターも超小型のものを開発した。その愛らしい顔つきから、”ペコちゃん”の愛称で親しまれた。今となっては、この思想を発展させれば現代の低床式電車につながるものとも思えるが、渋谷〜二子玉川間は地下の新玉川線建設のため、1969年初頭に廃止。現在の世田谷線が残されたが、ペコちゃん電車は特殊な構造のため、世田谷線には用いられず、廃車となった。現在1編成が、東急の電車とバスの博物館に保存されている。 ’69.2 用賀─玉電瀬田 P:永野晴樹
'73年4月開業の武蔵野線用で、中央線等で使用車両を、2000m超級トンネル区間の連続する条件等により、不燃化対策(A基準)、列車無線搭載、ATS-B・S形併設改造等を行った番代。改造は大井工、'72〜'73年府中本町〜新松戸間開業時6両×11本が登場。'77年新松戸〜西船橋間延伸時、4本が追改造。終始同線を離れず活躍。初期製造車が種車の為、老朽化が甚しく'85年以降山手線205系化で各線の103系冷房車玉突き転配を受け、非冷房のまま'85〜'88年掛けて廃車、番代消滅となった。 ’83.9 武蔵野線 北朝霞 P:梶村昭仁
1928(昭和3)年に製造された半鋼の単車で、総数は60輌。単車が多かった横浜市電の中でも多数派だった。屋根はすっきりとしたシングルルーフ。運転席後部のHポール上部の仕切りは曲線を描き、ダブルルーフを想わせる客室天井とともに優美な内装だった。全長91.44m。定員75人。台車形式ブリル79E。製造は東京瓦斯、蒲田車輌、雨宮製作所。横浜市電博物館の523号が保存されている。 ’63.3.30 横浜駅前 P:柿浦和敏
1966(昭和41)から67年にかけて多度津工場でキハ17を改造し荷物気動車としたもの。計5輌。1982(昭和57)年5輌とも廃車となり形式消滅するまで、一貫して高松に配属されていた。 ’80.8.8 予讃本線 宇和島 P:小森克禎
'54〜'56年に初の自社オリジナル車輌としてMcTTMcの4輌10本を新製。片側3扉前面は二枚窓の湘南スタイル。性能は吊掛駆動でMc車のみ17m車(Tは20m)。'57年の増備車からMc(モハ521以降)車も20m化、当初の10編成のMc車も'58年に20mMc車と代替、クモハ411形へ、さらに'64年にクモハ351形と流転。他形式のTc・T車を組込等全線で活躍。晩年は1311・1331形改造T車を組込McTMcで多摩湖線(萩山〜国分寺間)で活躍。国分寺駅ホーム有効長が短く、'90年6月に改良工事完成まで西武最後の旧性能・非冷車として活躍、'90年引退、形式消滅。 ’88.9.4 多摩湖線 萩山〜青梅街道 P:梶村昭仁
旧3244号を種車にして作られた事故救援車。撮影当時はまだツートン塗色で晩年のクリーム一色とは違った東武らしさを感じさせてくれた。1986(昭和61)年3月廃車。 ’71.10.13 北春日部検車区 P:照井孝司
527号とともに1977年台湾の台糖公司から譲り受けたもので、入れ替わりに、それまで活躍していた1号(井笠鉄道)、2号(頸城鉄道)はそれぞれの故郷に帰った。’84年、同鉄道は「新交通システム」に移行、同時に廃車となった。現在・北海道丸瀬布森林公園いこいの森に保存されている。 ’84.4 西武鉄道 山口線 P:田中一弘
1947(昭和22)年から製造された大型3扉車。車体は800形と同一で、中央の4枚折戸が特徴。2扉改造車もある。総数47輌。阪神国道線の「金魚鉢」とまではいかないが、エレガントなスタイル。 ’63.4 湊川交差点 P:柿浦和敏
高松琴平電鉄クハ610は元木造省電で、1953年に高松琴平電鉄に入線し、1960年に鋼体化されれて写真の姿になった、1983年に廃車になった。TR11台車が予定どおり広軌化された数少ない車輌になった。 ’82.8 仏生山車庫 P:深山剛志
京成電鉄AE車は1972年に成田空港の開港予定に合わせて登場し’73年のブルーリボン賞を受賞したが、空港の完成が遅れたために、’73年暮れから上野〜成田間のノンストップ特急として使用を開始した。’83年に塗装を変更し、1991年のターミナル駅の変更などにより需要増加に答え8輌編成に編成替をおこなったが、後継のAE100形が登場したためにスカイライナーの運用を離脱し、通勤型の3400形に生まれ変わった。 ’81.1.1 京成成田 P:深山剛志
東海道新幹線開業以前の国鉄を代表したもと151系は東海道を追われて都落ちしたが、地方の直流区間の特急電車として出力をアップ、181系となり特急網の拡大に貢献し、増備もなされた。信越本線の横川─軽井沢間を走行する「あまさ」用にはEF63と連結するため、正面に連結器を装備したいかめしい姿のクハ180形が東京側に連結されていた。いわゆる横─軽用としては長大編成が組めず、489系や189系の登場と共に「あさま」から181系は引退、すでに181系の淘汰が始まっていたが、その中継ぎとして中央本線の「あずさ」などに一時期用いられた。数年後には183系の増備と共に引退した。 ’75.6 中央本線 東中野─中野 P:永野晴樹
'67〜72年に53輌が製造。性能は7000系と同様ながら1M制御のMcTc編成を基本に支線区等で使易くした。特徴として側窓がバランサ付一段下降窓採用、前面がくの字状に張出した独特のスタイルとなり通称「ダイヤモンドカット」等と呼れた。電気機器搭載メーカ別に車号の下二桁00番代が日立製、50番代が東洋電機製と区分されていた。比較としてアルミ車体も試作(デハ7200+クハ7500)。登場時は田園都市(大井町)線を2〜6輌、目蒲・池上線を3〜4輌、東横線は8輌で急行にも運用。'86年以降に7600系改造車が登場。それ以外は'02年までに引退、他社譲渡されて東急線から姿を消した。 ’88.6.19 目蒲線 田園調布〜多摩川園 P:梶村昭仁
中学時代、通学に利用していた上町系統の電車。近鉄の大ターミナル上本町6丁目、大阪府庁舎と大阪城のお濠の間を抜けて天満橋までは上町台地を南北に貫いて走ります。霞町車庫のPCCカー3000形に混じって都島車庫のコイルばね付き2100形なども見られました。この坂を登ると右手に四天王寺の五重塔が見えます。2600形は大阪車輌工業で114輌が1955年より製造され、PCCカーと同様の車体を木造車の下回りに載せたもの。廃止後は広島電鉄、鹿児島市電に譲渡。 ’68.12.17 あべの-天王寺西門前 P:柿浦和敏
製造初年1955(昭和30)年。鋼製5トン積二軸有蓋緩急車。車軸発電機を装備、ストーブも設置、居住性を高めている。自重10.8トン、最高速度75㎞/h。約650輌製造された。 ’85.7 武蔵野操車場 P:照井孝司
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