1937(昭和12)年9月、汽車会社にて新製、小郡機関区に配置。1946(昭和21)年、門司機関区に転属。門司配属時代は特急「かもめ」の専用機となるなど華々しく活躍。門デフにステンレス製の波頭にかもめの装飾をほどこされていた。1956(昭和31)年、米子機関区に転属、翌’57年、豊岡機関区へ。播但線、山陰本線、福知山線で活躍。晩年は鷹取式集煙装置が取り付けられ、美観を大きく損なった。写真は、まだ集煙装置を装備する以前の美しい姿。大阪発18:30頃の福知山線篠山口行きの普通列車。1972(昭和47)年11月、福知山機関区で廃車後、豊岡市立野町中央公園に保存された。 ’66.6 大阪 P:永野晴樹
- TOP
- 随時アップ:消えた車輌写真館
- 2006年9月
2006年9月アーカイブ
常磐線国電区間の終端、取手から水戸線下館を結ぶ非電化鉄道線。写真のキハ610形(キハ612)は、元々は半円形を描いた独特の流線形スタイルの旧国鉄キハ07系が始祖だが晩年は種車の面影を追い難いほどの大改造が行われ、写真のようになっていた。直接旧国鉄から以外に他私鉄で使用の後に再就職して来た仲間を加え、全5輌が在籍。旧国鉄キハ35系列の増備で、1985年〜1988年にかけて全車廃車された。 '85.8.26 関東鉄道 水海道機関区 P:梶村昭仁
6010系電車は1963(昭和38)年に北陸鉄道加南線に導入されたアルミカー。「しらさぎ」というニックネームで親しまれ、アルミボディーは保守の容易さから歓迎された。しかし1971(昭和46)年7月に加南線は全線廃止となり、同年10月大井川鐵道に譲渡された。加南線は600Vだが、大井川鉄道は1200V、当初はトレーラーとして使用されたが、電装品を交換し自走可能になった。大井川で20年近くにわたり活躍。2001年に廃車となった。現在は北陸の山中温泉に保存されている。 ’94.4.10 大井川鐵道 地名─笹間渡 P:田中一弘
1926(大正15)年に製造、80年近く名鉄で使用された。正面5枚窓の流線型のスタイルは、当時流行の米国流儀。ドアの袋窓も楕円系の優雅なもので、「丸窓電車」として親しまれた。1997年定期運用から退き、予備車となったが、団体専用列車、臨時列車などで元気な姿を見せていた。しかし、2005年名鉄600V線区の廃止に伴い廃車となった。 ’01.9.24 名鉄谷汲線 長瀬-谷汲 P:田中一弘
113系用特別車輌(グリーン車)。元は急行型153系サロ153形からの改造車。オリジナリルのサロと比較して1位側に車掌室を持ちその分定員が少い。車内は回転式クロスシート。写真の-45は1961年汽車会社製で1968年大船工場で113系化改造。その後冷房改造等を得る等はあったが国府津区に所属し終始東海道線東京口で活躍。JR化後も活躍していたが後継の2階建て車輌の投入と老朽化により1991年4月、廃車となった。 '87.12.20 東京 P:梶村昭仁
ヤード構内入換や小運転を目的として生まれた凸型ディーゼル機関車。2基のDMF31S形エンジンの間に運転室を設け変速機は液体式である。それまで入替え機として適切な出力を備えたディーゼル機関車がなく、その出力強化を目的として1958年から1967年までの間に398輌製造された。110号機までは前照灯が1灯で連続定格出力370PS/1300rpmのDMF31Sエンジンを搭載、111号機からは前照投をシールドビーム2灯としエンジンも連続定格出力500PS/1300rpmのDMF31SBに変更された。ローカル線には軸重が重すぎる上に、列車暖房装置を持っていなかったのでDE10が登場してからは入替と貨物支線専用となった。ヤードや貨物支線が廃止された為に余剰となりJRに継承されることなく1987年に全機廃車されてしまったがDD51形のベースになった事など鉄道車輌開発史上重要な機関車である。 ’71.11 福知山線 尼崎-塚口 P:高橋 明
1959(昭和34)年に登場した長距離直流電車。一般旅客用の31輌と皇室貴賓車クロ157が1輌製造された。「日光」「ひびき」「白根」「あまぎ」などに使用。比較的短命で1976(昭和51)年2月、全車営業列車から引退。4輌のみ貴賓車クロ157と編成を組むため残されたが、1980(昭和55)年には183系に役目を譲っている。写真は回9873M列車、クモハ157-2+モハ156-2+サロ165-50+サロ165-12+モハ156-1+クモハ157-1。最後に残った一般型の4輌も、この日、大船工場へ最後の旅路についた。 ’82.11.27 品川 P:吉村元志
165系急行形電車の特別車輌(グリーン車)。車内はエンジ色モケットに白布カバー付回転式フルリクライニングシートがずらりと並ぶ。幅2m近いシューリレン式2連1組の一段下降窓が並び、近郊形の狭窓が並ぶスタイルとは一線を画す、明瞭で優雅さのあるスタイルが魅力の一つであった。写真の-132は1969年日本車輌製で当初からAU13E冷房装置付で登場。新製時は千葉局・津田沼区で有為転変の後、JR東海・静岡転所属、急行「東海」で活躍中の姿。晩年とはいえ大窓の魅力に衰えは感じられない美しさが印象に残っていた。1996年6月廃車。 ’89.4.5 東海道本線 東京 P:梶村昭仁
1963(昭和38)年に汽車会社で製造された。DD51形と同じDML61S形エンジン1基と液体式変速機1基を搭載。田端に配置されハンプの押し上げなどに使用されたが、後に、新潟地区に移り、ロータリー式除雪車DD53の補機として用いられた。試作的要素が色濃く2号機とは大きく形態が違う。’86年3月廃車。 ’84.11.29 新津機関区 P:宮村昭男
埼玉県北部の東武伊勢崎線羽生駅から高崎線熊谷駅を介し秩父山脈のどん詰りの三峰口間約72km余りの中小民鉄。写真の100形はオリジナル車両として1950年から新製及旧型車両更新も含めて13両が在籍。18.8m級2扉ながら車内はオールロング座席。当初は両運転台であったが、同時に製造されたクハ60形(車体は3扉)、クハニ20形、クハユ30形等も在籍していた。旧国鉄・JRから旧101系車両と順次代替が行われて1988年6月までに引退した。 ’83.1.6 羽生 P:梶村昭仁
1948(昭和23)年12月30日、日立製作所で落成。ボイラーはD52 269のものを使用。落成後岡山機関区に配属、’50年に名古屋機関区へ。東海道本線で「つばめ」「はと」を始めとする優等列車を牽引。1954(昭和29)年12月15日、木曽川橋梁の強度試験時129㎞/hを出し、狭軌における蒸気機関車の世界最高速度を樹立。下関、広島と移り、晩年は糸崎機関区に配属。呉線での活躍は多くのファンを魅了した。1970年(昭和45)年8月、岡山〜糸崎間でC59 164と重連で臨時列車「さようならC62」号を牽引。同年10月の呉線電化後、運用を離脱、翌’71年3月廃車。名古屋市の東山動物園に静態保存されている。 ’66.12 広島 P:永野晴樹
かつての都電の代表形式である6000形。1947〜1953年の間に290輌余が製造されたが写真の車輌は1949年製造。1978年全線ワンマンカー化後は事業用車輌として荒川車庫に留置、1986年以降貸切用として旅客扱い開始、その後1988年9月以降毎月第1・3日曜日の限定で定期運用となりそれを機に窓下濃いグリーン窓周りがアイボリーに再塗装した登場当初の姿。2001年廃車。後に沿線の「あらかわ遊園」内で静態保存された。 ’88.10.1 荒川線 王子駅前─飛鳥山 P:梶村昭仁
1937(昭和12)年川崎製。D51一次型の切り取りデフは同機と95号機だけで、いずれも長工デフ。すっきりと長く伸びた長工デフを道内の他の蒸機と同様に前部を切り詰めてしまったので、いささか不恰好である。晩年は深川機関区に所属し、留萌本線・羽幌線で活躍した。’74年7月廃車。 ’74.3.30 深川機関区 P:田中一弘
’71年4月、伯備線でお召列車を牽いた838号機と一番違いの兄弟機。どちらも昭和18年3月10日生まれの鷹取工場製である。一見普通の標準形だが、写真の側のデフだけがアングルの枠で補強した厚みのあるものになっている。公式側は普通のデフである。 ’74.4.3 山陰本線 長門機関区 P:宮村昭男
キハ35系はJRでは久留里線のキハ30形を除き絶滅した。そもそもキハ35系は非電化で取り残されていた関西本線の大阪口の通勤輸送緩和のため、昭和35年12月より投入されたものである。通勤型のため、101系電車よりひどい内装であったが、天王寺〜奈良間を近鉄奈良線に対抗して快速は30分で走破した。登場時は朝のラッシュ時に蒸機牽引のオハ31系の長大編成をキハ35系6連に置き換えたため、混乱が生じた。後にトイレなしのキハ36も増備してやっと落ち着いたかに見えたが、沿線の通勤客を捌くのには四苦八苦の状態であった。関西本線は、河内堅上付近に10‰の勾配があるものの、近鉄奈良線より線形が良いので、キハ35系の快速は目一杯の速度で走った。後にキハ35系は全国に登場したが、このような速度で運転したのは、湊町〜天王寺〜奈良間が唯一であろう。ちなみに停車駅は王寺と大和郡山のみで、現在の大和路快速より早かった。 関西本線 加美─久宝寺 P:永野晴樹
吊掛け+高性能車+気動車と言う世にも奇怪なる珍編成。もちろん総括制御は不可。営業列車でもない。天下茶屋工場で整備を終えた車輌が各地の車庫に回送する風景はよく見られたが、こんな編成に出くわしたのは唯一であった。200馬力のモハ2003が力任せに住江の車庫まで牽引したもの。中間のモハ7001のみが冷房化され現在も活躍している。キハ5501形は南紀直通の優等列車に活躍した。 '65.5 南海本線 天下茶屋 P:永野晴樹
111・113系用の特別車輌(グリーン車)。1962年に登場、東海道・横須賀線用として活躍する。台車はコイルサス、デイスクブレーキ装備のTR62形、車内はエンジ色モケットの回転式クロスシートがズラリと並ぶ。3-4位側車端部に便洗面所を持つが車掌室がなく、増備は旧サロ153形改造のサロ110形が主流となる。写真の-29は1962年川崎車両製、大船区、国府津区と終始東海道線東京口で活躍、冷房改造等を行いJR化を乗切りながらも老朽化により1991年4月廃車となった。 ’87.12.20 東海道本線 東京駅 P:梶村昭仁
1922(大正12)年汽車会社製。パイプ煙突で、入換の際の後方視界を確保するためC56のような凸型テンダーを付けていた。鹿児島区より転属、湯ノ前線の貨物列車を牽引し余生を送る。動態保存機となった58654とともに日本最後の8620となった。九州内で最も活躍期間の長い機関車。1975(昭和50)年5月に廃車。実際には2輌の8620は同年の3月9日に運用を離脱している。 ’73.3.27 人吉機関区 P:山手 修