鉄道ホビダス

2006年8月アーカイブ

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JR発足直後1988(昭和63)年に登場した「リゾートライナー」はキハ80系気動車改造の3輌編成。ハイデッキタイプの展望席や、カフェも設けられていた。各種団体列車、多客臨時列車に活躍した。しかし、種車が古くエンジンが老朽化、キハ58などを併結、力を借りる場面もあった。’95年3月に廃車。 ’89.12.31  名古屋 P:木全 啓

モハ500形759号

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旧営団丸ノ内線用モハ500形759号。昭和37年10月23日、汽車會社製。モハ500形シリーズの最終グループに属する。台車はレジン制輪子のFS349。昭和32年〜39年に234輌製造された主力車で、同400形を片運転台構造にしたもの。 ’94.6 旧営団地下鉄(現・東京メトロ)丸ノ内線四ツ谷 P:川崎雅道

東武鉄道3000系

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いわゆる東武型電車と称する旧3200系列を種車に当時新鋭の8000系の前面、2000系18m車のスタイルを採入れ1964年以降に製造された更新改造車輌。登場当初は一部が東上線で活躍した車輌もあったが70年代以降は野田線に集結。当初は4輌と2輌の編成が存在したが、後に4輌編成の中間車2輌を別の4両に組込んだ6輌固定編成も登場。写真は現行塗色になる前のセイジクリーム一色時代。終始野田線を離れることなく活躍。1992年までに全車廃車となった。 ’83. 1.6  東武野田線 岩槻 P:梶村昭仁

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国見山鉱山専用線は、三重県南島町(当時・現南伊勢町)にあった貨物専用線で、1934年(昭和9年)開通。他の鉄道とは接続しておらず、大阪セメント(のちに大阪住友セメント)の採石場からの伊勢地川に沿って吉津港まで石灰石を輸送していた。1990年代初頭まで電化されていたが、後にDL化された後、ベルトコンベアーにとって代わられた。元南海のED5105形はオレンジ色に塗色変更され活躍していたが、この専用線での形式・機番はないようだった。 ’86.9.23 国見鉱山専用線 P:田中一弘

ED75 305

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ED73の後継機として、11輌だけ作られた60kHz の300番台だが、軸重の関係から九州北部に運用が限定された。引退が近くなった頃に、ブルトレのヘッドマークが復活し、最後の花道となった。門司を発車する特急9レ「あさかぜ1号」を牽く305号機。 ’84.3.10 鹿児島本線 門司 P:宮村昭男

京福福井ホクハ32

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もと阪神の861形。撮影時は廃車を前提とした休車となりさびしく留置されていた。両方の運転台では自動加速用と手動加速用のマスコンを装備していろいろな電車のお供ができるようになっていた。明かり窓をつけ、喫茶店電車と呼ばれ阪神本線を激走した名車の最後の姿である。 ’74.8.8 福井口車庫 P:永野晴樹

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1987年までに廃車となった、元名鉄5200系の車体関係を譲受、旧国鉄101・111系の機器類を搭載の上、路面電車用軽量冷房機を搭載してデビュー。旧性能吊掛駆動車郡にあって転換座席を装備して、名鉄時代さながらに花形車両として活躍。しかしデビュー10年余で架線電圧昇圧(600V→1,500V)に伴い、1997年7月に元名鉄の7300系に道を譲って引退、消滅した。 ’89.8.22 渥美線 大清水 P:梶村昭仁

阪急 710系

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1950(昭和25)年に登場した京都線用の車輌で、初の阪急全線共通規格。神戸線用の810系と車体寸法は同じ。特急用として活躍したが、2800系の登場で特急運用からはずれ、その後、3ドア化。京都線から引退後、千里線・嵐山線で余生を送る。1983(昭和58)年までに全車廃車となった。 ’82.1.2 阪急京都線 桂 P:深山剛志

DD54 40

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DD91の量産機として1966(昭和41)年6月に従来のDLにはない独特なスタイルで登場した。形式番号が54になったのはDD53の次に造られた形式であるため。’68年山陰本線湖山駅で下り急行[「おき」を牽引中2号機が推進軸折損のため脱線転覆事故を起こし、続いて翌年の’69年11月に11号機、14号機が続けざまに同様の重大事故を起こした。その後推進軸の強化などの対策がとられ、’74年の山陰本線完全無煙化により活気を取り戻すかのように思われたが、この頃から液体変速機故障が多発し’78年6月、全機運用から離脱した。写真はは’71年12月24日に落成し‘77年11月14日付けで廃車された同形式中もっとも短命だったラストナンバー機。 ’72.11 山陽本線 尼崎─大阪 P:高橋 明

サロ113 1000番代

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横須賀・総武快速線用に1973(昭和48)年〜1974(昭和49)年に17輌製造された地下対応のグリーン車。リクライニングシートをピッチを広げゆったりと配置、定員は48名と少ない。’76年に京阪神地区に転属、しかし4年後同地区の快速のグリーン車連結廃止にともない幕張区に転属。横須賀・総武線の直通快速に使用された。1998年までに全車廃車となった。 ’80.7 山陽本線 土山─東加古川 P:芝地 寛

小田急9000形

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1972(昭和47)年に登場した小田急9000系は、斬新なデザインで一世を風靡した。翌年のローレル賞を受賞。4輌編成9本、6輌編成9本の計90輌が製造された。同時代に登場した東急8000系・京王6000系と共に、新時代の通勤電車として界磁チョッパ、一段下降窓を採用、国鉄の103系などに比べ近代的な趣だった。2006年(平成18)年3月、全車引退。 ’04.8 和泉多摩川 P:深山剛志

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常磐線馬橋駅から発車していた総武流山鉄道は元西武の車輌で統一され編成ごとにカラフルなカラーとなって活躍していた。写真は最後の吊掛駆動の譲渡車で元クモハ551形(クモハ558)と元クハ1651形(クハ1659)で、1987年暮から活躍。愛称名「あかぎ」として閑散時のフリークエンシー向上用に同形態の別編成「なのはな」と共に2輌編成で活躍。しかし冷房が当り前の時代に勝てず元西武の後輩701・801系と順次交替しこの編成が吊掛車最後の編成として花道を飾ることとなり、2001年初夏に引退、形式消滅した。’88.11 3 鰭ヶ崎─平和台 P:梶村昭仁

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西鉄北九州市内線用の1001系接続車。昭和28年から増備され合計64輌が製造された。メーカーは川崎、近畿、帝国、日立、日車、九州車両と多岐にわたる。この1001はそのトップナンバー。 ’71.3.1 黒崎 P:松崎昌一

DD54 1

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1966年6月24日落成したDD54形式のトップナンバー機。1号機から3号機が先行試作機として登場し福知山機関区に配属され 山陰本線京都〜福知山間および福知山線の運用に就いた。その成績が良好であったため2次車として4号機〜8号機が量産体制のもと落成し同じく福知山機関区に配属された。1号機は3号機とともに1968年10月に重連でお召列車を牽くという栄誉にも浴している。1次型最大の外見上の特徴はヘッドライトの位置が前窓上部にあったこと。2次車以降はテールライトと一体化され窓下に移されている。同形式は推進軸の折損事故が相次ぎ、同部の強化工事が行われたが、今度はその強化工事のため走行中の振動が強まり液体変速機にトラブルが頻発し、全機短命に終わった。それ故 この赤い箱型機関車は薄幸の機関車として世に知られている。この日も機関車乗務員が停車中、しきりに下回り附近を気にかけて点検していた。 ’72.8.25 播但線 生野 P:高橋 明

西武鉄道  571系

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西武に最後まで残った吊掛け車の一つ。晩年の多摩川線でのスナップ。1957(昭和32)年登場の旧501系(オール20m湘南スタイルタイプ車輌)の2M2T編成の中間増結T車として1962年からサハ1571形とした。後に半数をM車化し同形態の551系中間車として3M3Tで活躍するも、411系→401系高性能化による、2輌増結吊掛車不足により1977〜1978年にかけてMc+Tc2輌化され前面スタイルも401系と似通っていた。このローズピンクにウオームレッドカラーを纏う最後の車輌として551系とちもに1988(昭和63)年に引退、形式消滅した。 ’87.5.3 多摩川線 是政〜競艇場前 P:梶村昭仁

南海1321+1251系

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高野線の高野下から極楽橋にかけては最急勾配50‰、半径100mという登山区間であり、大阪難波近郊では通勤輸送と言う世界的にも珍しい鉄道である。戦前から高野山直通の電車は電力回生制動を常用し、わが国では稀なる技術水準と言われている。この写真のモハ1321は昭和初期に南海最初の電壱形を置き換えるために製造した15m車である。複雑な変遷を経て戦後回生制動付きのモハ1321(先代のモハ1321は戦災で廃車)となった経緯がある。高野線の登山電車では同じく15mのモハ1251形(昭和12年製)が有名であるが、製造年の違いからか形式が異なる。これらの登山用電車は堺東から千代田あたりまでの、連続10‰上り勾配では急行電車でも50km/hそこそこのスピードであった。しかし昭和32年高性能のズームカーの登場により、旧型電車も弱め界磁率52%という吊掛けモーターでは異例の高速化改造を実施、昭和40年ごろより上り10‰で 認可速度の85km/h運転が可能となり、下り10‰(難波行き )では99km/hという高速だった。しかし1500Vの昇圧を控え、22000系の増備に伴い昭和46年には廃車となった。なお写真の3輌目のクハ1861形及びクハ1891形はモハ1321形(当時は2輌のみ)の同系車であるが、高野山直通電車に多用された。 ’65.8 南海高野線 萩原天神-北野田 P:永野晴樹

近鉄6800系

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昭和32年に登場した南大阪線初の高性能通勤車6800系。愛称を「ラビットカー」と名付けられモ6850形を含め40輌製造されました。養老線へ改造、改番され移籍したモ6850形の一部を除き、平成3年までに全廃されました。写真は6800系運転開始30周年記念イベント列車で、モ6851号の1輌のみデビュー当時のオレンジに白帯のラビットカラーに塗り替えられ、同車のシンボルでもあるラビットマークも見事に復元されました。編成は6800系で仕立てられた4輌編成で、先頭がラビットカラー、中間2両が現在の近鉄標準色のマルーン&ホワイト、最後尾がマルーン色というユニークなものでした。 ’87.10.18 近鉄南大阪線 矢田〜河内天美 P:山田 優

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