元木造国電モニ13012。1949年に戦災国電に混じって入線。修理してそのまま荷電として使用していた。しかし1964年、デハ1366をデハ3554に更新する際にあまった車体を貰い受け、半鋼製車に作り変えられた。今では想像も出来ないが、この頃は東急だけではなく、あちこちの大手私鉄でも荷電が走っていた。 ’79.1.14 東急東横線 田園調布 P:宮村昭男
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2006年6月アーカイブ
もと木造の簡易鋼体化17m車モハ1301形+戦後の標準型15m車クハ1831形+戦前の標準型18m車モハ1201形×2と言う珍編成。南海電車は難解であると言われる最たる編成。先頭の簡易鋼体車はもと電4形と呼ばれた正面5枚窓の卵型木造車を戦前簡易鋼体化したものだが、同じ形態でもウェスチングハウス100馬力の電車は1031形、ジェネラルエレクトリック105馬力は1061形、そして後部のモハ1201形と同じ国産の100馬力モーターを装備しブリル27MCB 台車を履いていたがモハ1301形と称した。車長や形態は全く異なるが、制御回路を含めて性能は同一なのでこのような編成が高野線の三日市町までの近郊区間では日常的に用いられた。列車ごとに色々な編成が走るので、整列乗車などはとても考えられず、南海の乗客はマナーが悪いといわれても当然であった。2輌目の15m車も変遷は極めて複雑で、高野山直通用の回生制動の回路を装備したものはクハ1871 形などとなり、モハ1201型を除き昭和42年頃から昭和46年ごろまでに廃車となった。 ’65.8 南海高野線 萩原天神〜北野田 P:永野晴樹
東武初の高性能車、日比谷線相直対応車輌として登場。当初は4輌編成であったが晩年は中間車増備が行われ、最大8輌編成で活躍。90年代初頭に新形式(20000系)にバトンを渡したが、同線で活躍した相直各社の車輌で唯一、他社への譲渡も無く消滅した。 ’88.4.30 営団日比谷線 南千住 P:梶村昭仁
独特の二折式貫通ドアから喫茶店電車などと呼ばれた戦前の阪神を代表する名車。全長14m,車幅2360mmという小柄ながら阪急神戸線や国鉄に対抗し急カーブの連続する阪神本線を疾走した。851形は正面の水切りを下方にカーブを描いたいかめしくも精悍な顔つき、サイドには明かり窓も設ける独特のデザイン、車内隅々に乗客サービスに対する心配りが印象的であった。増備の861形は正面の水切りが直線状となり、さらに881形からは側面の明かり窓を廃止して、おとなしいスタイルとなった。撮影当時は朝のラッシュ時のみの運転で、高校時代の私は夏休みに入るや否や早起きをして撮影にはせ参じた。運転台は曲面ガラスで仕切られた片隅式で、編成の中間に入るときはその仕切りで運転機器を覆い、運転士席を客席にするという、一人でもお客に座席を提供しようとする涙ぐましい設計がなされていた。昭和40年夏には本線運用を離脱。881型の多くは高松琴平電鉄にほぼ原型のまま活躍。861型は野上電鉄と京福福井に一部が売却された。特に京福福井ではクハやサハとなったが昭和48年ごろまでもと京王の小型車と連結し、活躍した。’65.7 福島 P:永野晴樹
元東横電鉄のモハ1000形。1939(昭和14)年より川崎車輌で22輌が製造された。東急となりデハ3500形に改称。晩年は張り上げ屋根となり、ヘッドライト・テールライトがユニット化され前面窓下部に。原型とは大きく異なった外観となった。サハ3250、3360、3370を中間に挟んだ3輌編成で、目蒲線を中心に使用され、1989年引退した。 ’87. 9.23 目蒲線 田園調布〜多摩川園間(多摩川園駅) P:梶村昭仁
1941(昭和16)年2月23日、日立製作所、製番No1434。この写真を撮った3か月後、現役蒸気最後の検査入場機として苗穂工場を出場。本線蒸気最終日の1975(昭和50)年12月24日は、変A6仕業5797レ〜5794レで夕張1往復。追分18:35着でその生涯を終えた。 ’75.7.29 滝川機関区 P:宮村昭男
1923(大正13)年京阪線で初の連結運転用に製造されたシングルルーフの木造電車。この時代、南海ではすでに4〜5連の長大編成を走らせていて、京阪が関西の大手私鉄では最も遅い連結運転の開始であった。当初は二本ポール付きで1000形と称したが昭和4年の改番で、300形となった。昭和30年代後期には京都三条〜宇治間の普通電車などに活躍していたが、1963(昭和38)年に4輌が石坂線に転属、ポール付きの姿となった。電気ブレーキがないのと木造車のため京津線では用いられなかった。後に310形に改番されて昭和42年まで活躍。京阪最後の木造車であった。 ’66.7 石坂線錦織車庫 P:永野晴樹
昭和13年、日立製作所製。水戸や平区所属で常磐線を長く走り、常磐線電化進展で北海道へ。早くから北海道入りしたカマと違い、重油併燃装置取付けや密閉キャブ化はされなかった。最後まで走ったC57五人娘の1輌である。 ’75.7.28 室蘭本線 苫小牧 P:宮村昭男
昭和4年阪和電鉄の開業に対抗して製造した南海本線特急用電車。晩年まで、高性能車に伍して本線の優等列車に活躍した。日本で2番目の20m車。狭軌、600Vで200馬力の大型モーターを用いた唯一の例でもある。和歌山市発上り難波行き準急が猛スピードで駆け抜けた。 ’68.2 南海本線 石津川〜諏訪ノ森 P:永野晴樹
東武が戦後の混乱期に受け入れた国鉄の63系をモデルに、昭和27(1952)年から製造した車輌が7800系である。逐次改良されつつ昭和36(1961)年までに164輌が作られた。モハ7806は昭和28(1953)年、ナニワ工機製。この頃はオレンジとベージュの旧塗装から、クリーム一色の新塗装に塗り替えが進んでいる時期だった。列車は準急・東武宇都宮行き。 '75.9.14 東武伊勢崎線 鐘ヶ淵〜堀切 P:宮村昭男
モユニ1041形は私鉄では珍しい郵便電車。白帯の部分が郵便室でポストもあった本格的なもの。この車両は木造の17m車を戦前簡易鋼体化したもので窓配置にその面影を残している。背後のモニ1045形は直前まで木造車であったがクハ2851形の車体を流用したもの。方向版に〒マークが無いので荷扱いのみの運用と思われる。昇圧前に荷物営業を廃止したので、同時にこれらは廃車となった。 ’71.3 南海本線 羽衣-高石 P:永野晴樹
昭和16年、汽車会社製造。もと胆振縦貫鉄道D5104である。5輌居た胆振縦貫鉄道出身機のうち、一番長生きをして蒸気廃止の最終期まで活躍した。胆振鉄道出身の同僚952,954号機と3輌揃って旭川区配置時代が長く、その時代は遠軽まで急行大雪等も牽引した。ギースルエジェクターの取り付けは昭和41年、苗穂工場改造である。 ’75.7.29 岩見沢 P:宮村昭男
釣り掛けの260形を置き換えるために1979(昭和54)年に登場した500形だが、当時は大津線にも冷房化の要望は高まっており、非冷房であるために700形に車体を譲り、早々と形式消滅した。 ’80.8 京阪三条付近 P:深山剛志
南海のモハ1201形は100馬力と出力は低いが南海本線や高野線のローカル運用に適した電車で昇圧直前まで41輌が活躍した。この1234は貴志川線に転属して1995年まで活躍したことは記憶に新しいところ。2輌目はサハ1900で元特急こうや号の展望車のなれの果ての姿である。ドア間の柱が太いのはその名残である。この時代昇圧を控えて新型車を続々と増備。1201形も通称汐見橋線などの支線に細々と活躍を続けていた。ローカル線には適した性能なので大半の車輌は貴志川線のほか、水間鉄道と京福福井に引き取られ活躍した。 1971.3 高野線(通称・汐見橋線) 岸里 P:永野晴樹
桜木町事故を起こした63系を改修した72系(クハ79・モハ72)は増備車で改良を重ね、1956(昭和31)年に登場した最後のグループ920番台車は、ついに全金属車になった。旧来のブドウ色2号のため派手さはないが、正面の傾斜した3枚窓と方向幕、雨樋のないのっぺりした側面は、101系の到来を予感させるデザインである。都落ちしてからは、関西では朱色1号、富山港線では青22号、仙石線では黄緑6号、御殿場線と中央東西線ではスカ色(クリーム1号・青15号)となったが、それらも1980年代なかばまでに最後を迎えた。 '63.4.6 山手線高田馬場付近 P:内藤健作
近鉄養老線で活躍したデ11形(11〜12)は、デ21形とともに、元伊勢電機鉄道の所属。1928(昭和3)年製。当時の形式はデキ511。このデ11形は西武鉄道のE41同様イギリスのイングリッシュ・エレクトリック社製の正統派デッカーで、左右非対称の顔が異色。名古屋線で活躍したが、同線が改軌となり養老線に活躍の場を移した。1983(昭和58)年に廃車。 ’82.1.2 桑名 P:深山剛志