オハ35系の緩急車。1939〜1948(昭和14〜23)年にかけて606両製造された。その後、など他形式(オハ35、スハ43など)から122両が改造され編入。オハフ33 1は’39年製造。戦前に製作された1〜346までのグループは丸屋根が特徴。台車はTR23。 ’78.8 紀勢本線 新宮 P:松尾彦孝
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2006年3月アーカイブ
1950(昭和25)年、電化の際に導入された電気機関車。登場時の形式はED18.その後、1955(昭和30)年、栗原電鉄は762㎜から1067㎜に改軌、ED18は台車を改造、自重が重くなりED20と形式を変えた。ED20 1は工事用として1995(平成7)年4月の内燃化直前まで使用された。現在、若柳駅構内に保存されている。 '76.8 栗原電鉄 若柳車庫 P:近藤和磨
C55は2シリンダー国産パシフィック機の改良型として誕生し、1935(昭和10)〜1937(昭和12)年にかけて62輌が製造された。57号機は1937年3月6日の川崎車輌製で、キャブが小型化された3次型である。デフ上部中央に穴が一つ開いた小倉工場式門デフを装備、20年以上の間大分機関区所属し日豊本線を中心に活躍し、若松に転属。煙突、給水温メ器のバンドなどに磨きだしの装飾があり、門デフ装備のC55の中でも特に美しくファンに人気があった。'72年3月、僚機52号機とともに吉松へ。日豊本線宮崎〜西鹿児島、吉都線、肥薩線吉松〜隼人が最後の活躍の場となる。'75年3月31日に鹿児島で廃車。その1週間前には、C57 175と重連で西鹿児島〜宮崎間で、九州最後の「SLさよなら列車」を牽引した。 ’73.8.11 宮崎機関区 P:矢野登志樹
砂利輸送が盛んだった小田急には5形式6輌の本線用ED級デキが在籍し、ED1031は日本車輌で1930(昭和5)年に製造された50t機。最後はもっぱらJT足柄工場との連絡貨物線で使われ、1984年1月末の最終出荷時には、本機の前でお別れ式典が行われた。ただし廃車はのちの1997(平成9年)で、本線用デキは終焉を迎えた。 '63.2.16 小田急東北沢 P:内藤健作
1960年代半ばまでは木造客車改造の救援車が各地で使用されていたが、老朽化が著しく、その置き換え用として20m旧戦災復旧車70系を改造したのがスエ71形。改造は1960〜67(昭和35〜42)年に行われ、103輌が製造された。70系は客車の他、電車の復旧車もあり、それらを種車としているため、スエ71形も丸屋根、切妻、半切妻、半流線形などさまざまなタイプが見られる。1987(昭和62)年までに全車廃車となった。スエ71 84は100ともに高崎に配置されていた。 ’75.5.5 横川機関区 P:原 将人
1949(昭和24)年にD52 380のボイラーを使用して汽車会社で誕生した。竣工後、尾久機関区に配置され東北・常磐線で使用されたが、電化の延伸で平機関区に転属となり、平〜仙台間の優等列車を中心に活躍した。蒸機牽引特急「ゆうづる」の仕業にも就いたりして最後の花道を飾った。'67年の常磐線電化後は廃車をまぬがれて、状態の良かった4輌の仲間たちと糸崎機関区に転属した。そこで呉線の急行「安芸」をはじめとする旅客列車を牽いて急客機の面目を保ったものの、'69年の同線電化後は新たな転属もなく、廃車解体されてしまった。 '69.3.27 糸崎機関区 P:青柳 明
閑散線区用にバスのエンジンと変速機を流用して1954(昭和29)年に生まれた国鉄のレールバスは、翌年後半の増備分キハ10200(改称後キハ02)形から正面2枚窓で中央扉になり、機関も75PSに向上した。全長11m弱で定員60名はかなりの詰め込みだ。 '67.8.10 松浦線 肥前吉井 P:内藤健作
木造客車鋼体化の60系客車。オハフ61 686の種車はオユニ26 302。昭和30年、宇都宮車輌(のち富士重工に吸収)改造。廃車は昭和61年だから、一族の中ではかなりの長生きであった。高松で発車待ちの土讃線列車。蒸気暖房の漏れるスチームが暖かそうだ。 '80.4.13 高松駅 P:宮村昭男
昭和40年代初頭は、D50はまだ石炭輸送の上で大きな比重を占めていた。昭和40年の配置表によれば滝川6輌、岩見沢10輌、追分8輌、鷲別5輌と、29輌が健在で、この4機関区のD51の配置総数が55輌だから、主力機の34%はD50だったことになる。359号機は1931(昭和6)年川崎車輌製。'67年8月、廃車となっている。'67年頃 岩見沢 P:笹本健次
1961〈昭和36)年から1965(昭和40)年の間に計81輌が日立製作所、三菱電機、三菱重工業で製造された。大容量シリコン整流器に高圧タップ切換器を組み合わせ、モーターを定電圧制御する。交流機では数少ないF形機関車だが、これは1100t牽引で多湿で勾配のある北陸トンネルに対応するため出力に余裕を持たせたもの。当初はED74が本務、EF70が補機という計画だったが、結局形式を統一したほうが都合がいいため、大量に増備されたのはEF70のほうだった。湖西線の開業までは北陸本線の主力機として活躍したが、以後はEF81に押され次第に凋落、1987年に形式消滅した。50号機は1964(昭和39)年三菱重工製で、1986年3月に廃車となっている。写真は田村駅。まだ、DD50の姿もあって、EF70も50号機のほか、75号機、29号機など5輌ほど駐機していた。 1976年頃 北本陸線 田村駅 P:河合溪雄
日立製作所で1969(昭和44)年に2輌作られたディーゼル機関車で、形式はDD1000。ベースは国鉄DD13 111以降の500PS車だが、出力が600PSにアップされているほか、ボンネットの形状もDD13とは異なる。写真のようにボンネット上に設置されたツララ切りが特徴的だ。9600に混じって石炭列車を牽引したが、'75年の夕鉄廃止後は真谷地専用鉄道に移る。しかし、ここも'87年には廃線となり、1002号機も運命を共にした。 ‘75.3.10 鹿ノ谷機関区 P:青柳 明
201輌中たった5輌しか製造されなかった汽車会社製。南九州のC57では4号機とともに一桁の若番で人気があった。ちなみに4号機は長工デフ、この9号機は門デフだ。1937(昭和12)年製。戦後は一貫して九州に配属。門司港、長崎、早岐を経て1968(昭和43)年人吉区へ。肥薩線「川線」で活躍。1973(昭和48)年、宮崎に転属。活躍の場を日豊本線に移し、蒸機牽引最後の急行、1121レ「日南3号」も牽引、有終の美を飾った。やや甲高い独特の音色をした気笛だった。1974(昭和49)年6月、廃車。 ’73.8.11 日豊本線 宮崎 P:矢野登志樹
C60107はC59165を種車として昭和36年2月13日に浜松工場で改造、落成した。生涯のほとんどを鹿児島区ですごし、鹿児島本線の急行牽引に活躍して、昭和45年10月の鹿児島電化で引退。翌46年1月29日付で廃車になった。余談になるが九州のC60の100番台は鳥栖区の配置はなく、特急「さくら」「あかつき」を牽くことはなかった。 '69.11.3 熊本機関区 P:松崎昌一
おもにバラスト輸送に使う自重5tの電動無蓋貨車で、古い乙10の台車を流用して1941(昭和16)年に製造されたが、台車はのちにブリル21Eに換わっている。荒川車庫に配置されていたが1971年に廃車になり、神明都電車庫跡公園に保存されている。 '67.12.3 荒川車庫 P:内藤健作
仙台も、本来ならば市電が一番活性化できやすい市街規模であったと思うのだが、我が国は欧米で功している「プレメトロ」化の道を選ばず、廃止→バス・地下鉄化を選択した。今もなおその方向が惰性のように続いている気がして、残念でならない。都電8000に似たデザインの405が、仙台駅前を行く。'76.3 仙台駅前 P:神谷武志
面白い車が揃っていたが老朽化の激しい10系気動車改造の郵便・荷物車の代替として、1978年から余剰になったキロ28の下回りを使用、車体を新製した郵便・荷物合造車である。製作の時期からキハ40と同じタイプの車体、前面になった。だが本家キハ40が朱色1色で登場しているのに、なぜか1978年改造の1〜6号車までは朱色とクリーム色の旧塗り分けで登場してきた。結果としてキハ40顔で2色塗りされた唯一の車輌となる。 '78.7.30 高山本線 美濃太田 P:宮村昭男
C55 46は昭和12年2月に川崎車両で製造され、梅小路区に新製配置。その後九州に転属。昭和37年に大分区から若松区に転出して以後筑豊本線で活躍した。昭和46年9月にD51と交替して廃車となった。この機関車の特色は、k7タイプと称される門デフを装備しているが、デフが大きめである。大分に静態保存されているC55 53はこの46にプレートを差し替えて展示しているものである。 '70.5.7 筑豊本線 筑前埴生 P:松崎昌一
153系のサロとして1958年汽車会社で試作されたセミステンレス車である(登場時はサロ95901)。のちに113系に組み込まれる事になり改造され、1968年サロ110-901に改番された。撮影時は大阪地区の東海道線普通列車からグリーン車の連結が廃止される直前で、この年廃車となる。 '80.8.26 東海道本線 安土 P:宮村昭男
C6133は、昭和24年3月に日本車両で製造された。種車はD511148。生涯のほとんどを鹿児島区で過ごし、特急「はやぶさ」「さくら」等を牽いて活躍した。C61のラストナンバーでもある。昭和45年10月の鹿児島電化前日の「お別れ列車」を出水まで牽いた。同46年1月29日付で廃車。 '70.7.26 鹿児島本線 上田ノ浦 P:松崎昌一
1930年日車・東洋電機製造、元阪和電鉄ロコ1001である。国鉄機として過ごした後、秩父鉄道には1960年にやって来た。この頃は凸形のデキ1形等と小型機限定の運用で働いていた。現在も保存されているのは嬉しいことだ。 1978.7.22 秩父鉄道 上長瀞ー親鼻 P:宮村昭男