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江若鉄道C11のこと。

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東武鉄道南栗橋車両管区に搬入された元江若鉄道→雄別鉄道→釧路開発埠頭C111。これから2020年冬の復活に向けて復元作業が開始されることになる。 2018.11.14 P:RM

 東武鉄道が復元を目指す2輌目のC11が、南栗橋車両管区に搬入された。このC11は、元を辿ると江若鉄道の所有機であったことはすでにご存知と思う。
 この個体について、公文書の記録を辿ってみると、江若鉄道では昭和22年1月21日付けで「蒸気機関車購入認可」を申請している。この申請書には「省C11形」として「帝国燃料工業」(宇部油化工業の後身である帝国燃料興業であろう)から購入する個体と、日本車輌で新製する個体が記されている。前者は日立製作所製番1648、後の江若鉄道「ひら」=C112であり、後者が日本車輌(本店)製番1473、後の江若鉄道「ひえい」=C111、つまり今回東武鉄道に搬入された個体である。
 追って2月4日受付の「蒸気機関車購入について」では、備考として「日本車輌株式会社から購入の1輌は運輸省所有として昭和21年度に新造計画されたものである」と記している。つまり、完成時から私鉄機ではあるものの、同じ日車製で昭和21年度完成の省C11 327~381と同じグループの1輌ということになろう。
 なお、申請の際の理由書には、近年客貨が増大していること、現有の機関車がいずれも小型で牽引力が弱くかつ老朽であること、そして進駐軍指令の輸送量が日毎に増加しているため省からの借用機で対応していることを示し、機関車購入の必要性を説いている。この2輌の「省C11形」の認可は昭和22年6月11日であった。
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サイドから見る。運転室や炭庫、煙突などは外されて搬入された。 2018.11.14 P:RM

 また、このC11入線に際して、江若鉄道では特別設計許可を受けているが、この申請書(昭和22年5月30日)の記号番号欄には、旧帝国燃料機が「C11、ひら」、新製機が「C11、ひえい」と記されおり、「1」「2」といった号機を示す数字は書かれていない。順番も認可書類と同じく、後の「2」である「ひら」が1行目、「1」である「ひえい」が2行目となっている。これら「ひらがな番号」の2輌は、どの時点からC112・111となったのだろうか。

 さて、1957(昭和32)年の渡道以来、61年ぶりに本州の線路に乗った元江若鉄道「ひえい」→C111、東武鉄道での記号番号はまだ未定とのことである。2020年冬に予定される復活の際、どのようなナンバープレートを付けて姿を現すのか、今から楽しみである。
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別に搬入された煙突やドーム、奥に運転室が見える。 2018.11.14 P:RM

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急電への80系の投入により阪和線に転じたモハ43040。こののち主電動機の交換によりモハ53008となり、飯田線の旧型国電終焉まで活躍した。 1952.8.13 東和歌山支区 P:長谷川明(RMライブラリー225『1950年代の戦前型国電(下)』より)

RML225H1.jpg ご好評いただいております長谷川明さんによる『1950年代の戦前型国電』の完結巻となる下巻が完成しました。本書はこの1953(昭和28)年6月の称号改正前後の時期に対象を絞り、まだ原形に近い姿で活躍していた戦前型の鋼製国電についてまとめるもので、上巻では鋼製国電初期の30・31・32系を、続く中巻では戦前型国電の中核をなす40系を収録しましたが、完結巻となる下巻では流電モハ52を含む42系と、近郊型電車のパイオニアである51系を収録しています。
 42系は1934(昭和9)年、鉄道省が吹田~明石間での電車運転開始に際して投入した電車です。関西地区の省線での電車運転は1932(昭和7)年の城東線・片町線での40系電車投入に始まりますが、多くの私鉄路線と競合している東海道・山陽本線への投入に際しては、新設計の2扉クロスシート車が製作されました。さらに翌年には急電と通称される急行運転(現在の新快速のルーツ)用として、全く新しい流線形車体を持つ専用の固定編成が製作されました。"流電"モハ52の誕生です。しかし、華やかな時代は長くは続かず、戦局の悪化とともに1942(昭和17)年には急電運転は休止。42系の一部は3扉・4扉への改造が進められました。戦後、急電の運転が復活したものの、1950(昭和50)年には急電への80系投入が行われ、一般型の42系や急行用の中間車の一部は遠く横須賀線へ、またモハ52は阪和線に転じることとなりました。

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戦後、京阪神間の急行運転に復活した"流電"モハ52を先頭にした急行用編成。しかし、80系が投入されると、先頭車は阪和線へ、また一部の中間車は遠く横須賀線へと転じることとなった。(RMライブラリー225『1950年代の戦前型国電(下)』より)

 一方、51系は1935(昭和10)年に登場した3扉セミクロスシート車で、戦後の近郊型電車のパイオニアといえるものでしょう。最初は中央線のサービス向上のため投入されました。ただし、投入されたのはモハ51形一形式のみで、まだ木製車などが連なる中央線電車の高尾方に連結されました。翌年には42系では混雑が目立ってきた京阪神間に投入が開始され、クハ・クロハも製作されました。その後、40系と同様に張り上げ屋根、ノーシル・ノーヘッダ、ノーリベットなど製造年度によって変化が生じます。ただし、その製造年度から平妻の車輌は他系列からの改造による編入車のみです。

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3扉セミクロスシートという近郊型のパイオニアであった51系。クロハは京阪神間で運用された。(RMライブラリー225『1950年代の戦前型国電(下)』より)
 
 本書では、42系は普通型と急行型にわけてその誕生と戦後1950年代までの動きを中心に紹介します。また、51系は製造年度毎の変化を中心に紹介しています。42系はご存知の通り、42001が今もJR西日本に在籍しているほか、52001がJR西日本吹田総合車両所、52004がJR東海のリニア・鉄道館に保存されています。一方、51系は1輌の現存車もないのは残念なことです。
 なお、木製車からの鋼体化による系列である50系に関しては、同じく長谷川明さんが本シリーズ112巻『鋼体化国電モハ50系とその仲間たち』でその詳細を解説されていますので、これを機会に合わせてぜひご覧ください。

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▲折からのSLブームのため客車が連結された小海線183列車。小海線からC56の姿が消えてもう45年の歳月が流れてしまった。 1972.5 小淵沢-甲斐小泉 P:浅原信彦 (『ガイドブック 最盛期の国鉄車輌』第13巻より)

 浅原信彦さんのライフワーク『ガイドブック 最盛期の国鉄車輌』は、戦後最大の白紙ダイヤ改正であった1968(昭和43)年10月ダイヤ改正、通称「よん・さん・とう」の時点を軸に、その当時に在籍した全ての車輌を解説するシリーズです。単行本は戦前型旧型国電を収録した第1巻を2004(平成16)年発売して以来、毎年巻を重ねてまいりましたが、いよいよ蒸気機関車編の幕開けとなる第13巻が完成しました。

B2_JNR13H1.jpg 今巻では各形式毎の各論の前に、まずは日本の鉄道創業期から終焉までを通観する国鉄蒸気機関車略史を収録しています。ここでは本書の収録範囲以前、つまり43年10月改正時点ではすでに在籍していなかった国鉄機を中心に、片野正巳さんによるイラストを収録し、日本の蒸気機関車の発展過程を解説しています。こうしてみると、明治・大正期には、実に様々な蒸気機関車が輸入され、そしてその技術を国産化していったことが分かります。
▲表紙写真は2輌の8620形。右は現在京都鉄道博物館で動態保存されている8630で、当時は五能線で運用されていた。 1972.4 東能代 P:林 嶢(『ガイドブック 最盛期の国鉄車輌』第13巻より)

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▲国鉄タンク機の代表形式たるC11形はそのベースとなったC10形から解説する。(『ガイドブック 最盛期の国鉄車輌』第13巻より)

 続く各論では、戦時中に製作された入換え用タンク機B20形を皮切りに、国鉄を代表するタンク機C11形とそのベースとなったC10形、簡易線用として開発されたC12形とC56形、大正期から蒸機末期まで活躍を続けた国産モーガル機8620形とその改良型たるC50形を収録しています。このうち、C10形はすでに43年10月改正時点では在籍していませんでしたが、C11形の解説には不可欠なことから、収録しています。また、C56形はC12形と密接に関係があることから、C12形とともに紹介しています。なお、C55形については今回は収録しておらず、次巻での収録を予定しております。

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▲現在はわたらせ渓谷鐵道となった足尾線では重連で活躍するC12形が見られた。 1969.3 神戸-草木 P:庄野鉄司(『ガイドブック 最盛期の国鉄車輌』第13巻より)

■『ガイドブック 最盛期の国鉄車輌』第13巻掲載内容
国鉄蒸気機関車略史

B20(B20 1~15)
C10(C10 1 ~23)
C11(C11 1~23/C11 24~140/C11 141~246/C11 247~381)
C12(C12 1~293 除く101 〜160・94・168)
C56(C56 1~160)
8620(8620~8671/8672~18627/18628~68660/68661~88651)
 コラム 8620形のキャブ裾の変化の謎
C50(1~154)

付:諸元表

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▲大正3年から実に732輌が誕生した8620形。キャブ裾変化の謎についてもコラム内で言及する。(『ガイドブック 最盛期の国鉄車輌』第13巻より)

 なお、『レイル・マガジン』本誌の連載は、蒸気機関車編も終盤に差し掛かっており、次号からはいよいよD51形がスタートします。日本の蒸気機関車として最大の1115輌を誇る同形式だけに、連載も半年以上をかけて各製造年次の差異やバリエーションを収録する予定です。どうぞお楽しみに。

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総武線を行き交うモハ41117(モハ40改造)とクハ79194。 1953.10.13 津田沼-船橋 P:長谷川明(RMライブラリー224『1950年代の戦前型国電(中)』より)

RML224H1ss.jpg 長谷川明さんによる『1950年代の戦前型国電』の中巻が完成しました。本書はこの1953(昭和28)年6月の称号改正前後の時期に対象を絞り、まだ原形に近い姿で活躍していた戦前型の鋼製国電についてまとめるもので、上巻では鋼製国電初期の30・31・32系を収録しましたが、続く中巻では戦前型国電の中核をなす40系を収録します。
 40系は1932(昭和7)年度から製造された3扉・ロングシートの通勤電車です。32系では制御車・付随車のみであった20m車体がついに電動車にも採用され、以後の省線電車の標準形態を確立しました。ただし、当初、20m車体は関西向け車のみで、関東向けは従来車に合わせて17m車体とされ、関西向けがモハ40・41だったのに対し、関東向けはモハ33・34とされました。まもなく関東向けも20m車となったため、モハ33・34は少数に終わり、称号改正によって30・31系や鋼体化系列の50系と同じモハ11・12形に統合されますが、この旧モハ34のうちの1輌が後に伊豆箱根鉄道に譲渡されて、最後は事業用車となったコデ66です。

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関東向けに投入された17m車体のモハ33・34。当初から片運転台のモハ33として製造されたものは2輌のみであったが、後の戦時改造でモハ34の一部も片運化されモハ33に編入された。(RMライブラリー224『1950年代の戦前型国電(中)』より)

 モハ40系の最大の特徴は、年度による形態の変化でしょう。運転台は半室から全室に、前妻は平妻から半流に、屋根は木製から鋼製の張り上げになり、さらにノーシル・ノーヘッダに、前灯も取り付け型のLP42から砲弾型、埋め込みへと、車輌技術の進化を次々と採り入れるように変化を遂げていきました。しかし、戦争の影響による資材不足・人員不足などにより、1940(昭和15)年度からはシル・ヘッダが復活し、屋根も木製の普通屋根に戻る逆行現象が生じます。1943(昭和18)年度をもって40系の製造は終了。その総数は実に453輌を数えます。そして翌年度から戦時設計の63形が登場するのです。

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制御車クハ55。初期は平妻・普通屋根だったものが、半流、そして張り上げ屋根と進化していった。(RMライブラリー224『1950年代の戦前型国電(中)』より)
 
 本書ではその全体像に続き、両運転台のモハ40、片運転台のモハ41、主電動機出力増強型のモハ60形、制御車クハ55形、登場時から全室3等代用として使用されたサロハ56形、付随車サハ57形、そして3等荷物合造車のクハニ67形の順で、1953(昭和28)年の称号改正前後を中心に、そのバリエーションや改造について収録しています。現在では鉄道博物館と青梅鉄道公園に残る2輌が見られるのみとなった40系ですが、ぜひ本書でその全盛期の姿をお楽しみください。
 さて、続く下巻では戦前製鋼製国電の華、「流電」モハ52を含む42系と、3扉セミクロスシートという「近郊型」の原型を作った51系の収録を予定しております。お楽しみに。

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RML223H1r.jpg有楽町駅を発車した、30系による山手線内回り電車。背後は旧東京都庁で、現在は東京国際フォーラムに変貌している。 1952.12.18 有楽町 P:長谷川明(RMライブラリー223『1950年代の戦前型国電(上)』表紙より)

 今月からRMライブラリーでは長谷川明さんによる『1950年代の戦前型国電』を上中下の3巻にわたってお届けします。
 鉄道省(国鉄)が初めて半鋼製車体の電車を導入したのは1926(大正15)年のことです。このとき導入されたデハ73200形(のちのモハ30形)は、それまでの木製車の側板などをリベット止めの鋼板に置き換えたもので、屋根は木製車と同じく木製の二重屋根でした。ちなみに現在、名古屋のリニア・鉄道館に保存されているクモハ12041は、丸屋根化・中間車化、事業用車化による両運転台化を経て再びの旅客車化という変遷を遂げているものの、元はこのモハ30形の1輌であるモハ30131です。

RML223_pp18-19.jpg 丸屋根を採用した31系。鶴見線で活躍したクモハ12形50番代もこのグループからの改造である。

RML223H1s.jpg その後、1929(昭和4)年には丸屋根化とともに窓寸法の変更などの改良を加えた31系が、さらに1930(昭和5)年には横須賀線用として2扉クロスシートの車体を持つ32系が誕生。そして1932(昭和7)年に登場の40系では初めて20m級車体の電動車が製作され、関西にも進出、以後の国電の標準形態となりました。これ以降は車体製作への溶接の多用や張上げ屋根化などの変化を重ねつつ様々な電車が増備されていきましたが、戦争の激化とともに次第に車輌の製作もままならなくなり、ついに1944(昭和19)年、極限まで製造工程と資材を節約した"戦時型"モハ63形が製作され、モハ30形以来の系譜は途絶えることになるのです。
 これらの戦前型鋼製国電は、その後も戦後生まれの電車とともに活躍を続けますが、1953(昭和28)年6月の称号改正では17m車を中心に多くの車輌が改番された一方、これに続いて1950年代中頃にはグローブ型ベンチレータ化をはじめとする更新修繕−Ⅱが進められ、戦前型国電は次第に姿を変えて行きました。そして、モハ90系などの新性能電車の増備が進むと、これらの電車は次第に「旧型国電」と呼ばれるようになっていったのです。

RML223-pp32-33.jpg 最初から横須賀線用として設計された32系は、制御車・付随車が20mとなったが、電動車は17mのままであった。晩年の富士急行での活躍をご記憶の方も多いだろう。

 本書はこの1953(昭和28)年6月の称号改正前後の時期に対象を絞り、まだ原形に近い姿で活躍していた戦前型の鋼製国電についてまとめるものです。著者の長谷川さんはこれまでに本シリーズで第60巻『美しき半流国電 40・51系電車』、第112巻『鋼体化国電モハ50系とその仲間たち』とこのグループについてまとめられておられますが、今回はその全体像を俯瞰するもので、上巻では30系、31系、そして32系を収録しています。ちなみに写真の多くは長谷川さんご自身の撮影によるもので、関東はもちろん、関西や飯田線・身延線まで、この時期にほとんどの形式を撮影されておられるのは圧巻です。
 なお、続く中巻では戦前製鋼製国電の中でもその中核をなす40系の収録を予定しております。お楽しみに。

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三江南線三次~式敷間開業初日、キハ41500形が馬洗川を渡って式敷に向かう。対岸の河原には河川工事用だろうか、機関車とナベトロが見える。 1955.3.31 三次-尾関山 P:窪田正實(RMライブラリー222『三江線 88年の軌跡』より)

今月のRMライブラリーは長船友則さんによる『三江線 88年の軌跡』です。ご存知の通り三江線は本年3月31日限り4月1日廃止が予定されていますが、本書は開業以来88年にわたるそのあゆみをまとめるものです。

RML222H1.jpg中国山地の三次と山陰側の江津は、古くから江の川を利用した水運で結ばれていましたが、明治に入り鉄道の時代になるとこの江の川沿いにも鉄道建設の運動が起きます。大正期には堰の建設により水運が断たれこともあって建設が強く望まれるようになりますが、なかなか実現せず、最初の区間である石見江津~川戸間が開業したのは1930(昭和5)年になってからでした。その後、江津側から少しずつ延伸が進み、1937(昭和12)年には浜原まで開業、これにより後に三江北線と呼ばれる50.1kmが完成しました。
一方、三次側からも1936(昭和11)年に工事が開始されますが、戦争の影響により工事は中断し、結局式敷までの14.8kmが三江南線として開業したのは1955(昭和30)年のことでした。この区間は当初から沿線人口が少なく、貨物列車は運転されず、開業後しばらくしてキハ10000形レールバス2輌が投入されます。国鉄時代、レールバスが新製投入されたのは、本州ではモデルケースであった木原線(現・いすみ鉄道)とこの三江南線だけで、このことからもこの路線が置かれた当時の状況が分かります。三江南線は1963(昭和38)年には口羽まで延伸され、この頃にはレールバスは引退し、キハ10形などが走るようになりました。

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戦後の三江北線。左下の列車最後尾には1輌のみだったキユニ01の姿も見える。(RMライブラリー222『三江線 88年の軌跡』より)

この三江南線と三江北線を結ぶ浜原~口羽間の工事は1966(昭和41)年に着工しました。最初の区間の開業から実に30年以上が経っており、この区間については踏切は3カ所のみ、築堤とトンネル、鉄橋が連続する、前後の区間とは異なる高規格路線となりました。それを象徴するような存在が、地上20mの高架線上にホームが設置された宇都井駅でしょう。この区間は約9年の歳月をかけて1975(昭和50)年に開業し、ついに江津~三次間108.1kmが結ばれました。ただし、既存区間のCTC工事が遅れたため、当初は上下列車とも口羽駅で折り返しとなっており、CTCの整備が完了して直通運転が実現したのは1978(昭和53)年になってからのことです。

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1975年にはついに浜原~口羽間が開業。最初の区間の開業から45年目のことであった。(RMライブラリー222『三江線 88年の軌跡』より)

本書は、三江線建設に至る経緯から、最初の区間の開業、三江南線の建設、全線開業、そして現在に至るまでの三江線のあゆみをまとめています。長船さんは本シリーズでもこれまで『呉市電の足跡』、『宇品線 92年の軌跡』、そして『可部線 波乱の軌跡』と、地元広島の鉄道に関する研究を発表されていますが、今回は三江線が廃止されるに際し、その記録を残したい、という思いからまとめられたものです。中でも1975(昭和50)年8月31日の「三江線全通一日の記録」は、喜びに沸く沿線の様子がひしひしと伝わってくる、臨場感あふれるものです。まもなく88年の歴史に幕を閉じる三江線の記録する一冊、ぜひご覧ください。

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大さん橋通を跨ぐ列車。高架は大さん橋のゲート代わりになっていた。 1989年6月 P:高橋一嘉

yes1731.jpg新港橋梁を過ぎたところから線路は高架に昇り、街並みの裏側を海岸沿いに進みます。県庁に近く、今は「象の鼻パーク」として整備されたあたりですが、当時はクラシカルなキッコーマンビルや倉庫などによって街並みと海岸線は隔てられていました。大さん橋の通りを跨ぐと、線路はいよいよ山下公園に入ります。
上の写真の場所の現在。税関横からここまでは旧臨港線の高架が歩道となって残っている。高架橋の文字が剥がされているのはなぜだろう。 2017年11月 P:高橋一嘉

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山下公園の噴水広場前を行く。左手奥がホテルニューグランド。山下公園を見下ろす車窓風景はなかなかなもので、期間限定で終わらすには惜しいものであった。 1989年6月 P:高橋一嘉

yes1732.jpg線路はホテルニューグランドを右手に、氷川丸を左手にと、横浜を代表する光景を見下ろしながらまっすぐ進み、マリンタワーの横あたりが終点の山下公園駅でした。線路は高架線上の1線のみでぷっつり途切れており、両側にホームがあって乗車・降車に分かれていたように思います。今ならばここから先、埠頭までの線路はどうなったのだろうと見に行くところですが、残念ながら私はここから先には行っていません。ただ、当時の記憶では、ここから先の高架はすでに撤去されていたように思います。
上の写真の場所の現在。この28年で高架橋はなくなったが、建築物は高層化が進みんで景観はすっかり変わってしまった。 2017年11月 P:高橋一嘉

yes8934.jpgyes1734.jpg終点、山下公園駅(左)とその跡地の現在(右)。高架は跡形もなく消え、木が植えられ育ったことで、そこに線路があったことはうかがい知れない。 左)1989年6月 右)2017年11月 P:高橋一嘉

yes8933.jpgこの、税関手前付近から山下埠頭までの通称"山下臨港線"は、戦後、米軍に接収された瑞穂埠頭の代替えとして整備された山下埠頭への連絡のために建設された路線ですが、当初地平で計画されたものが高架に変更されるなど、紆余曲折があったそうで、完成したのは1965(昭和40)年になってからでした。これが完成すると街並みと山下公園の間に"壁"ができてしまうとあって、建設当時は地元の文人を巻き込んだ景観論争が巻き起こったそうです。
開通しても限られた貨物列車が通るのみでしたから、もっとも列車が頻繁に運転されたのは、廃止後の、この横浜博での気動車運転だったのは、皮肉なことです。
結局、貨物線としての実働は20年余りで終わり、その後の横浜博での運転からも28年余が経っていますから、もう現役期間を上回る年月が経ったことになります。山下公園内の高架は撤去されてずいぶん経ち、今は痕跡もほとんどありませんから、もうあそこに線路があったこと自体、知らない人も多いかも知れません。
マリンタワー横にあった山下公園駅。当時は撮影しながら歩いて桜木町まで戻ったが、今となってはみなとみらい線の元町・中華街駅のすぐ近くとなっている。 1989年6月 P:高橋一嘉

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新港埠頭に渡る万国橋から見た桜木町方。横浜博での運転に際して設けられた車庫に気動車の姿が見える。 1989年6月 P:高橋一嘉

yes1711.jpg新港埠頭に入った線路は、貨物線時代には万国橋の前あたりから熊手状に分岐して横浜港駅を形成しており、右に分岐して新港橋梁を渡る線路がさらに横浜税関と山下埠頭へ伸びていました。横浜博での運転に際しては構内の分岐は一切取り払われ、山下公園(埠頭まで行かない)への一本道となっています。まるで併用軌道のように広かった踏切や軌道敷も両側にフェンスが立てられ、貨物線時代ののんびりとした雰囲気は失われていました。

上の写真の場所の現在。背後にはビル群がそびえ、89年には唯一目立つ建造物であった日本丸メモリアルパークの展望塔はすっかり存在感がなくなっている。 2017年11月 P:高橋一嘉

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左は赤レンガ倉庫を横目に山下公園に向かう。赤レンガ倉庫周辺の線路は高いフェンスに囲われ、本数が少なかったこともあってこんな写真しか撮影していない。踏切には障害物検知装置も設置されていた。右はその場所の現在だが...。 左)1989年6月 右)2017年11月 P:高橋一嘉

今では一大観光スポットとなり人通りが絶えることのない新港埠頭、赤レンガ倉庫界隈ですが、横浜博の頃はまだ本当の倉庫街であって、走っている車と言えばトラックか業務用のバンがほとんど、荒れ果てた感じだった赤レンガ倉庫の周辺は一応立ち入り禁止になっていたように思います。

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レパードの覆面車が走ってきそうな風景の中を行く。貨物線時代はこの新港橋梁の先で奥に見える税関側と山下埠頭側に分岐していたが、ここも分岐は撤去されていた。 1989年6月 P:高橋一嘉

yes1713.jpgただ、80年代中頃、この界隈は人気テレビドラマの「あぶない刑事」のロケ地となったこともあって有名になっており、自主映画を撮影する人などを見かけることもありました。今ならば「赤レンガパーク前」という停留場でもできそうなものですが、気動車は新港埠頭、赤レンガ倉庫前は完全に素通りし、新港橋梁を渡り、あの山下臨港線の高架へと入っていきます。
上の写真の場所の現在。新港橋梁は歩道橋となり、休日ともなれば人通りが絶えることはない。 2017年11月 P:高橋一嘉

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yes8901.jpg▲横浜博臨港線の起点であった桜木町側、日本丸駅に入線する「汐風号」。駅を出てすぐに交換設備があったが、この日は1編成のみの運行であった。 1989年6月 P:高橋一嘉

yes1701.jpg横浜博覧会があったのは1989(平成元)年のことですから、もう28年も前のことになります。あの博覧会ではリニアモーターカーのHSSTが期間限定ながら初めて鉄道事業法に基づく営業運転したりと、鉄道の話題も少なからずあり、桜木町~山下公園間での気動車の運転もその中の一つでした。
▲上の写真の現在。横浜港駅があった新港埠頭へ至る線路跡はそのまま「汽車道」として整備されている。背景の倉庫街は華やかな商業施設や結婚式場に生まれ変わり、過日の面影は一切ない。 2017年11月 P:高橋一嘉

桜木町駅の海側地平に広がっていた東横浜駅から赤レンガ倉庫で有名な新港埠頭を経て山下埠頭に至る貨物線は、国鉄末期に廃止されていましたが、横浜博覧会が桜木町海側の再開発地区で開催されるのに合わせて、残っていたこの線路を復活させて山下公園まで気動車が運行されることになりました。開業期間が3月25日から10月1日までという約半年のみの運転のために廃止された路線を整備、駅や信号設備を新設、そして気動車まで新造して運行するとは、当時の景気の良さがうかがい知れるような出来事です。当時の写真を頼りに、久しぶりに沿線を訪ねてみました。

yes1703.jpgyes1703.jpg▲左は会期中の臨港線の起点であった日本丸駅。右はその現在。帆船・日本丸の位置はそのままだが、背景にはランドマークタワーなどのビル群が立ち並んでいる。 左:1989年6月 右:2017年11月 P:高橋一嘉

起点の「日本丸」駅は、出来たばかりの「夢空間」が展示されていた駅前広場の海側にありました。この駅前広場の敷地がもとの東横浜駅でしたが、復活した臨港線の線路は高島線や根岸線とは分離されており、完全に独立した路線となっていました。ただ、広場の周辺には、まだ東横浜駅があったころの線路がそこかしこに残っていたように思います。

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▲日本丸駅を出てすぐの築堤上を行く「汐風号」。背後には小さく博覧会のパビリオンが見えている。撮影場所の背後には旧生糸検査所専用線の線路が残っていた。 1989年6月 P:高橋一嘉

yes1702.jpg海を埋め立てて造ったという新橋~横浜間の鉄道の姿を想像させるような新港埠頭に至る築堤は、今も汽車道として残っていますが、木々が育ったことと、背景にビル群ができたことで、印象は大きく変わりました。この築堤上の新港埠頭側には、貨物線時代には横浜港駅からスイッチバックするようなかっこうの荷役ホームがありましたが、横浜博の時にはそこに気動車用の車庫が設えてありました。周囲の運河には横浜博の頃はまだ艀が係留されていましたが、いまはそれもありません。
▲上の写真の現在。観覧車は博覧会後に移設されたため場所と向きが変わっていることが分かる。 2017年11月 P:高橋一嘉

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▲神戸港駅で8652とともに入換え中のヒ41。当時、この車輌は構内無線の供試車となっており、無線機や蓄電池が搭載されていた。 1955.12 神戸港 P:中谷一志

国鉄貨車の「控車」をご存知でしょうか。もちろん知っているという声が返ってきそうですが、その全体像となるとこれまでほとんど知られていなかったのではないでしょうか。今月のRMライブラリーはのべ9形式569輌におよぶ「控車」の実像に迫る『控車のすべて』。著者は本シリーズではお馴染みの吉岡心平さんです。

RML221_H1.jpgそもそも国鉄で『控車』という車種が設定されたのは1926(大正15)年のこと。控車は操車場や駅構内などで使用される「構内用」(主に控室あり)と、連絡船の桟橋で使用される「航送用」(主に控室なし)とに大別されますが、最初に設定されたヒ1000形(1928年の称号改正でヒ1形に変更)にも構内用と航送用の2種があったそうです。戦前期にはこのほかにヒ1050(→ヒ100)形、ヒ1100(→ヒ150)形、ヒ1150(→ヒ180)形、そしてヒ200形の5形式が登場したと記録されていますが、記録が少なく実態が分からないものもあり、特に塩釜に配置されていたヒ200形は2軸客車からの改造で、形式図によると客車そのままの車体を有する変わり種だったようです。

RML221_30-31p.jpg▲戦後、控車の最大勢力となったヒ600形。構内用の特徴である控室にも形態や大きさにバラエティがあり、中には中央部に配されるもの、さらに表紙写真のヒ725のように側板なし屋根のみというものもあった。

戦後は航送専用で上屋を持たないヒ300形、ヒ400形、ヒ500形が登場しますが、1954(昭和29)年にはヒ600形が登場します。当初、航送用のヒ500形に対してこちらは構内用として区別されていましたが、のちに航送用もヒ600形として製造されるようになり、1981年度までに253輌という膨大な数が誕生しました。

RML221_44-45p.jpg▲当初は航送用のヒ500形に対して構内用として区別されていたヒ600形だが、その後航送用もヒ600形となり、以後の控車はヒ600形に一本化された。

ヒ600形はこれまでの控車と同じく2軸貨車からの改造によるものですが、その種車は判明しているだけでも11形式に及びます。また改造工場は全国の14工場にも及び、構内用、航送用の別はもちろん、種車の違いによる差異、工場により控室の形態の差異や、用途に応じた推進運転設備やお立ち台の設置など、同一形式でも千差万別ともいうべき形態差が生じることとなりました。
本書は多くの写真により各種の形態差をまとめ、これまで「未開のフロンティア」とも言えた「控車」の世界に招待するものです。貨車ファンや模型ファン必読の一冊、ぜひ書架にお加えください。

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1985.6 豪徳寺ー経堂 P:高橋一嘉

今から32年前、豪徳寺ー経堂間、検車区の南側です。右の3000形SE車は連結器を出したままで、本線から留置線に入ろうとしています。重連(10連)で新宿に到着した列車の小田原方の編成が折り返し前に解放されて回送されてきたところだと思います。6本いたSE車は3001~が大井川鉄道に譲渡され、4本は更新工事が進められましたが、3011~の編成のみは更新されず、この頃は経堂検車区内に留置されていました。左がその3011~で、右の編成と比べると通風器のキセが異なり、3011~の方はパテが盛られたような歴史を感じさせるもののままでした。検車区南側の留置線が3011~の定位置でしたが、留めっぱなしというわけではなく、夕方に見に行くとパンタを上げて構内を移動していることがあり、予備車として手入れされているものと思いました。
この3011~の編成が、1957(昭和32)年に東海道本線で速度記録を出したその編成だと知ったのは後のことだったように思います。SE車のことを本で読むと、必ず「新宿~小田原間60分」という開発時の目標が言葉が出ていましたが、ダイヤの合間を縫うようにのんびりと走る当時のロマンスカーを見ると、そんなことは夢物語のように思えていました。(つづく)

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▲C60形蒸気機関車の牽引で特ロのみの団体列車が東北本線奥中山の急勾配を登る。 1967.4.29 御堂-奥中山 P:和田 洋 (RMライブラリー『特ロのすべて』より)

RML220H1.jpg今月のRMライブラリーは和田 洋さんによる『特ロのすべて-特別2等車の誕生と盛衰-』です。
戦後、1949(昭和24)年に国鉄は特急列車の運転をようやく再開しました。車輌不足のなか、苦心の末に車輌が揃えられましたが、走り出した特急列車に思わぬところから注文がつくことになります。それは、スタッフが2等車(現在のグリーン車)を利用する機会の多い占領軍からの、2等車に対する改良の要求でした。当時、特急「へいわ」に連結された2等車オロ40形は4人掛けのボックスシートでした。これはボックスシートと言ってもソファのような座席が広いピッチで配置されたものでしたが、大柄な体格の米国人スタッフが多い占領軍には理解されませんでした。そして、占領軍の要求は「2人掛けで回転するリクライニングシート」という日本では経験のないものでした。

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▲最初の特ロとなったスロ60形。「へいわ」改め「つばめ」に連結されることになった。(RMライブラリー『特ロのすべて』より)

国鉄はこれに応えるべく、車輌用の座席を製作していた小糸製作所の協力を仰ぎ、国鉄初のリクライニングシートであるR11形を開発します。当初、これをスハ42に搭載して「スイ32」とする予定でした。形式名からも判るように、国鉄は1等車扱いとするつもりだったものの、占領軍にこれを却下され、さらに車輌不足の折に真新しいスハ42を種車に改造することも問題となり、結局鋼体化改造扱いで2等車として製造されることになり、形式はスロ60形に落ち着くことになりました。しかし、従来の2等車とは設備の差が大きいため、料金に差をつけることになりました。「特ロ」「特2」と通称される「特別2等車」の誕生です。

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▲特急で好評を得た「特ロ」は急行にも連結されて全国展開されることになり、3形式目のスロ50形は60輌が量産されることになった。(RMライブラリー『特ロのすべて』より)

本書はスロ60形誕生までの経緯から、スロ60以降、ナロ10、ナロ20、オロ61までの客車による2等車各形式の解説をはじめ、各年代の連結列車やその編成、その後の改造などを様々エピソードとともに紹介し、歴史の彼方に消え去った「特ロ」という存在を解き明かします。今ではグリーン車はもちろん、ほとんど特急列車の普通車でも当たり前の装備となったリクライニングシート、その原点である特別2等車の時代を浮き彫りにする一冊、ぜひご覧下さい。

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tofu0.jpg1983年 経堂 P:高橋一嘉

日没後の撮影のためかなり見苦しい写真ですが、今から34年前の経堂駅構内です。場所は1406が置いてあった教習所横の、いつもは保守車輌が留めてあったあたりですが、よーく見ると凸型のトフがいます。60年代ならいざ知らず、80年代の小田急の貨物列車は相武台前以西だけでしたので、これを見たときは驚きました。おそらくレール輸送だったのでしょう、写真では判別できませんが、「高島駅常備」と書かれた国鉄のチキ2輌をサンドイッチする形でトフ2輌が連結された編成でした。ということは電機もいるのでは? と思って構内を見回したものの、電機は見当たらず、貨車をおいて帰ってしまったのか、あるいはどこかにいたのか、いやそもそも電機牽引で来たのか...。甲種輸送で90年代まで見られたトフでしたが、私が経堂でトフを見たのはこの時だけです。(つづく)

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1983年 経堂 P:高橋一嘉

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1983年 新百合ヶ丘 P:高橋一嘉

今から34年前の新百合ヶ丘駅に入線する多摩線折り返し列車です。この頃、駅北側には真新しい麻生区役所が威容を誇っていましたが、駅周辺にはまだ造成されただけの区画も多く、この写真も線路の両側に建物は写っていません。写真右側の区画にはこの後、時流にのって巨大迷路ができ、その後小学校ができました。当時の多摩線は朝ラッシュ時の数本を除けば全て線内折り返しの各駅停車ばかりで、だいたいは引退間近のABFMだったように思います。多摩線に乗ると空き地や野山が多く、大きな茅葺屋根の民家も見えました。そんな時代です。(つづく)

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1985.3 成城学園前 P:高橋一嘉

30数年前の成城学園前駅、停車中の電車は吊り掛け駆動時代の4000形(初代)です。この頃、原則他系列と併結しない4000形は、昼間は5連か6連(3+3)で各駅停車を中心に運用されていましたが、早朝や夕方などには急行運用で快走する姿を見かけました。特に朝6時台の急行大秦野行きは好んで乗車したものです。写真は夕方でしょうか、5+5の10連です。この年、4000形の冷房化・新性能化改造が始まり、数年後には小田急線から吊り掛け駆動車もパイオニア台車も消えることになりました。(つづく)

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1986.10 梅ヶ丘-豪徳寺 P:高橋一嘉

30数年前の豪徳寺界隈、後ろに見えるのが梅ヶ丘駅です。このあたりにはまだ緑が多く、線路沿いの道からスナップができたのも懐かしいです。当時はLSE車も登場していたものの主力はNSE車。当時、「はこね」は小田原までノンストップで、町田のみに停車する列車は「あしがら」、向ヶ丘遊園、本厚木、新松田停車が「さがみ」でした。線路沿いのところどころには「複々線化工事用地」の看板が立ててありましたが、完成は遠い未来の話のような感覚でした。

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▲「カイニョ」と呼ばれる屋敷林に囲まれた家が点在する散居村の風景の中を走るキハ125。 1972.5.29 柴田屋-福野 P:服部重敬

RML219_H1.jpg今月のRMライブラリーは服部重敬さんによる『加越能鉄道加越線』です。
北陸本線石動から城端線福野を経て庄川町(旧・青島町)までを結んだ加越能鉄道加越線は、もともとは砺波鉄道として1915(大正4)年に青島町~福野間が開業したもので、加越鉄道に社名を変えた後、1922(大正11)年に福野~石動間が開業しました。この鉄道は舟運で栄えながら鉄道のルートから外れた津沢町や青島町の有力者が中心となって敷かれたものでしたが、ほぼ時を同じくして青島町の庄川にダム・発電所の建設計画が立てられ、加越線にとって大きな影響を与えることになります。一時は地元業者とダム建設の紛争に巻き込まれたものの、輸送量が増加し電力資本も入ったことにより、1931(昭和6)年のガソリンカー導入を皮切りに次々と内燃動車の導入を進めました。ダムにより庄川峡という観光地が誕生したこともあり、1940(昭和15)年にはついに旅客列車の無煙化を達成しました。これは当時の地方鉄道としては異例のことでした。

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▲開業当時の砺波鉄道の様子。当初はコッペル製蒸機が旅客列車を牽引していた。

戦時中には富山地方鉄道に統合され、その加越線となりますが、戦後、1950(昭和25)年には富山県西部の交通を担う事業者として加越能鉄道が発足し、加越線は移管されました。ちなみに現在万葉線となっている高岡軌道線が加越能鉄道に移管されたのは1959(昭和34)年のことです。加越能鉄道はその壮大な社名の通り、加賀(金沢)、越中(富山・高岡)、そして能登(七尾)を結ぶ高速電気鉄道を建設する使命をも帯びた会社でしたが、加越線でも戦後には電化や、一時は観光用としても利用されていた庄川水力電気専用鉄道の復活などを計画し、実際に電車への改造を前提にした気動車も投入されました。それが今回の表紙にもなっているキハ15001です。

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▲砺波平野を淡々と走っていた加越線。小矢部川の鉄橋は大きなランドマークだった。

加越線の輸送人員は戦後、増加の一途をたどり、施設の近代化と運行本数の増加が図られます。昭和40年代に入るとやや減少傾向になりますが、それでもダイヤの全線30分ヘッド化や特殊自動閉塞の導入など、合理化とともに積極的な施策がとられました。しかし、人件費との兼ね合いで赤字額が膨らんだことから、加越能鉄道はバス転換を決断し、ついに1972(昭和47)年9月、加越線は廃止されました。 

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▲加越能鉄道による高速電気鉄道計画は、当初、富山~金沢間を結ぶ路線を軸に、途中で高岡への路線が分岐するものであったが、その後、富山~高岡間を直結するものに変更された。

今回は地元で加越線の資料収集活動を進められている「加越線資料保存会」のご協力もいただき、多くの写真・資料とともに、加越線の57年にわたるあゆみや路線、そして歴代の車輌群を解説しています。また、加越線と深い関りをもっていた庄川水力電気専用鉄道、さらに富山~金沢・高岡間の高速電気鉄道計画についても紹介するものです。現役当時は比較的地味な存在で訪れる方もあまり多くはなかった加越線ですが、その歩みは実に興味深いものでした。ローカル私鉄ファン必見の一冊、ぜひお手に取ってご覧ください。

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くりでんKD10のこと。

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▲若柳駅に入線するKD11。富士重製LE-Carの第一世代にあたる名鉄キハ10形の譲渡車であったが、この頃には定期運用は失われていた。 2006.5.21 若柳 P:高橋一嘉

 このブログを始めたころ、いくつかの「見ておきたい台車」がありました。熊本市電のOK-10、三岐鉄道のKBD-107、広島電鉄のNS-504などなど...。そのうちの一つがFU-30でした。「FU台車」とは聞きなれない方もいらっしゃるかと思いますが、富士重工の台車形式で、一連のLE-CarやLE-DCをはじめ富士重工業製の民鉄向け車輌を中心に使用されました。変わったところではかつて国鉄が試作したアンヒビアンバスの鉄道走行用台車も「FU」を冠した形式だったと聞きます。

kuriden6.jpg さて、FU-30は名鉄や樽見鉄道、近江鉄道などの2軸LE-Carに用いられた形式です。2軸車とは言え空気ばね付きの「1軸ボギー台車」という変わり種でしたが、間もなくLE-Carも2軸ボギーのFU-34系を装備するようになったので、少数に終わりました。そのFU-30を見るため、くりはら田園鉄道を訪ねたのは2006(平成18)年5月のことです。ご存知の通り、くりはら田園鉄道の主力はFU-34を履くKD95形で、FU-30を履くKD10形2輌はラッシュ時用として名鉄から移籍したものでしたが、この頃にはすでに定期運用がなくなっていました。そんなわけで、車庫のある若柳を目指したのですが、沿線で催しでもあったのか、石越駅から乗った列車はKD95形の2輌編成でした。若柳で許可いただいていざ構内へ...そこには使用されなくなった電気運転時代の車輌群とともに、お目当てのKD10形がいました。が、2輌連結で使用されていたはずがKD12の1輌のみです。「はて?」と思いながら撮影していると、なんと細倉方からもう1輌のKD11が本線を走ってきました。
▲FU-30の銘板。ちなみに「富士重工」のロゴの「重」の字は本来一画目の上部の横棒がない。 2006.5.21 P:高橋一嘉

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▲1輌で留守番のKD12。2軸車とは言えボギー台車を履いていたので軸距は7mと長いものであった。 2006.5.21 P:高橋一嘉

 幸いKD11が石越から戻ってくるまでは時間があり、駅に戻ると、細倉マインパーク行きのKD11に乗車することができました。よく「2軸車」=「乗り心地が悪い」と語られがちなようですが、少なくともこのとき乗った感想は、左右に振られる感覚はあるものの、どちらか言えばフンワリしていてそれほど悪くない、といったところでした。私の乗った列車は乗客は数名でしたから、ラッシュ時の満員での運行とはかなり異なったかも知れませんし、運転区間によっても違うかも知れません。ただ、印象は決して悪いものではありませんでした。

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▲意外にも好印象の乗り心地だったKD11の車内。廃止までに1年を切っていたが、細倉でも若柳でも同好の方に会った記憶がない。 2006.5.21 P:高橋一嘉

 後ろ髪をひかれつつ沢辺で下車し、せっかくなので国道から見下ろす有名撮影地で細倉から戻ってくるKD11を撮影しました。この日は買って間もない一眼デジタルカメラを持っていましたが、まだあまり画質などを信じることができず、この写真だけはフィルムカメラで撮影しています。そんな時期のことです。今年で廃止から10年。幸い、KD10形は2輌とも現在も保存されており、運転されることもあるそうですので、もう一度、あの乗り心地を確かめてみたいものです。

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▲のんびり一人旅のKD11。それにしてもなぜこの日KD10形が走っていたのか、残念ながら聞きそびれてしまった。 2006.5.21 沢辺-津久毛 P:高橋一嘉

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▲有蓋車を連ねた貨物列車を牽くED20形。栗原電鉄の貨物列車は鉱山関連のみならず、途中駅への農産物や肥料などの発着も少なくなかった。 P:高井薫平 (RMライブラリー『栗原電鉄』下巻より)

RML218H1.jpg今月のRMライブラリーは、先月に引き続き、寺田裕一さんによる『栗原電鉄』の下巻をお届します。上巻では1980(昭和55)年までの沿革を紐解きましたが、下巻ではそれ以降、廃止までの沿革とともに、各駅の紹介、そして歴代の車輌群を解説します。

1984(昭和59)年に行われた国鉄の貨物輸送改革は連絡する私鉄路線にも大きな影響を与えましたが、細倉鉱山を擁する栗原電鉄はなんとか貨物輸送を継続しました。しかし、それもつかの間、急激な円高から細倉鉱山は1987(昭和62)年に閉山し、ついに貨物輸送が消滅しました。それでも地域の足として栗原電鉄の存続が図られ、1993(平成5)年に経営が第3セクター化されたのに続き、1995(平成7)年には動力を内燃動力化し、社名も「くりはら田園鉄道」として再出発を果しました。しかし、2007(平成19)年にはついに全線が廃止されたのはご存知の通りです。

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▲1955(昭和30)年の電化以来、主力は3輌のM15形であったが、1991(平成3)年には福島交通からモハ5300形2輌が転入し、M18形となった。 (RMライブラリー『栗原電鉄』下巻より)

電鉄時代の栗原と言えば、正面2枚窓の電車と、凸型のED20形電気機関車を思いうかべる方が多いかと思いますが、上巻でもご紹介した通り、電化されたのは戦後の1950(昭和25)年、そして1067mmに改軌されたのは1955(昭和30)年のことで、電化までは2輌のガソリンカーの除けば蒸気機関車が牽引する列車がすべてでした。創業から電化までに入線した蒸機は延べ11輌に及びます。電化時に電気機関車3輌と電車2輌が導入され、さらに電車は1輌が増備されました。しかし改軌時にはまだ車齢数年の電車は全て下津井電鉄に譲渡されてしまいました。

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▲改軌後は新造のM15形3輌が主力となったが、それらを補完するため木製車3輌が入線した。しかし、これらはまもなく鋼体化された。(RMライブラリー『栗原電鉄』下巻より)

本書後半では762mm非電化の時代から、電化、改軌、そして晩年の内燃動力の時代まで、創業から廃止までの車輌群について通観しています。ご存知の通り、若柳駅跡のくりはら田園鉄道公園では多数の車輌が保存されており、さらに廃止から10年の節目となる本年4月1日には資料館である「くりでんミュージアム」もオープンしました。指定日にはKD95形などの動態保存車輌による「くりでん乗車会」も実施されており、いまも「くりでん」に乗ることができるのはうれしい限りです。秋の一日、本書を片手に懐かしの「くりでん」訪ねてみてはいかがでしょうか。

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松電モハ10のころ

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▲森口での対向。今になって見直すと、前方左手の建物に積み込み用のシュートのようなものがあるのに気づく。もともとには建物に沿った側線があったのだろう。 1984年夏 P:高橋一嘉

1984(昭和59)年の夏だったと思う。信州から北陸に向かう旅行の途中、自分だけ車から降りて松本電鉄に乗った。おそらく車庫を見たかったからだろう、乗車は新村で、新島々までだった。

198408_1.jpg当時の松電はモハ10形という日車標準型ばかりだった。新潟交通やすでにカエルに代わっていた岳南鉄道は日車標準型が「多数派」だったが、松電では機関車を除いて「全て」だったから、置き換えまで雑誌などで取り上げられることも少なかったように思う。唯一の変化と言えば、ただ一輌だけクハがいたことで、モハは全車奇数番号で揃えられたこの線で、この車輌だけはなぜか偶数番号(102)だった。
▲唯一の制御車だった102はこの日はお休み。クハとは言え両運である。モハが奇数ばかりだったのは市内電車の浅間線を偶数番号にしたためというが、どうしてそのような附番だったのだろう。 1984年夏 P:高橋一嘉

198408_3.jpg車庫でハニフが収めてある車庫の窓を覗いたり、ピンク色の電気機関車を見学した後、あの堂々とした新村駅の改札を通って島式ホームに立つと、松本方面から、ちょっとくすんだオレンジとグレーに塗り分けられた電車がやってきた。時刻表では「島々行き」のはずであった。
▲今も昔も新村の主であるED301。この頃はかすれたようなピンク色だった。 1984年夏 P:高橋一嘉

198408_14.jpg車内のことはあまり覚えていない。新島々に着き、写真を1枚撮って改札を出たあと、電車が島々に向かって出て行くのを見送ろうと思って見ていた。ところが、待てど暮らせど、島々行きのはずの電車は一向に発車しない。仕方なく追っかけて来たレオーネに乗って安房峠方面にしばらく走ると、島々への線路敷きは土砂に塞がれていた。時刻表上では島々行きの電車は、この時、新島々止まりになっていたのである。おそらく新村駅では掲示してあっただろうし、車内放送でも言っていたのだろうが、不思議なことに全く気づかなかった。もともと上高地方面のバスとは新島々接続だったためもあってか、結局、新島々~島々間は復旧することなくそのまま廃止された。
▲上高地の入口、新島々に到着した電車。この電車は島々行のはずだったが...。 1984年夏 P:高橋一嘉

モハ10形がカエルに置き換わったのはこの2年後のことである。

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▲今年、モハ10形を模した塗装になった3000系。新村付近には33年前のあの頃のイメージと変わらぬ風景が残っている。 2017年夏 P:高橋一嘉

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▲雪解け近い田園を行く。蒸機から電車へ、軌間2ft6inから3ft6inへ、近代化を進めた「くりでん」だが、この田園風景は最後までほとんど変わることはなかった。 1980.2 津久毛−沢辺 P:寺田裕一(RMライブラリー『栗原電鉄(上)』より)

今月のRMライブラリーは寺田裕一さんによる『栗原電鉄』の上巻をお届けします。栗原電鉄が内燃動力化してくりはら田園鉄道となったのはつい先日のような気がしますが、内燃動力化が1995(平成7)年、そして廃止されたのが2007(平成15)年ですから、廃止から今年でちょうど10年、内燃動力化からはもう22年も経ってしまったことになります。

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▲開業29年にして行われた電化。わずか5年後には改軌が実施された。(RMライブラリー『栗原電鉄(上)』より)

RML217_H1.jpg栗原電鉄というと、細倉鉱山を背景にした鉱山鉄道のイメージが強いと思いますが、ルーツである栗原軌道の当初の目的は、宮城県北部の都邑であった岩ケ崎町(後の栗駒町)と東北本線を結ぶ目的で、その点では東北地方の多くの私鉄路線と似たものでした。ただ、それ以前から、細倉鉱山による馬力軌道が通っており、これを一部利用する計画でした。そのため、当初は馬力による軌間762ミリの「軌道」として計画され、これを本線に築館や一迫、金成など一帯に路線を拡げる目論見でした。その後、蒸気動力に変更され、1921(大正10)年に沢辺まで、翌年に岩ケ崎(後の栗駒)まで開業しました。結局、細倉鉱山による馬力軌道を利用したのは石越付近の併用軌道のみで、この部分は馬曳きによるトロッコと蒸機牽引の列車が共用することになりました。

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▲1964年にはバス会社との合併により宮城中央交通となり、貨車にはその標記もなされたが、5年後の1969年にはバス部門が分離して栗原電鉄に戻った(RMライブラリー『栗原電鉄(上)』より)


しかし、時代の変化とともに軍需物資の運搬の重要性が増してくると、細倉鉱山への延伸が計画されました。それと相前後して軌道から地方鉄道への変更が計画されました。1941(昭和16)年には会社名を栗原鉄道に変更、1942(昭和17)年8月には地方鉄道へ変更され、同時に石越付近の併用軌道は専用敷の新線に変更、同年12月には細倉鉱山まで開業しました。その後、戦後復興とともに鉱山鉄道としての近代化が進められ、1950(昭和25)年には電化、そして1955(昭和30)年には軌間1067ミリへの改軌が実施され、同年会社名も栗原電鉄へ変更されました。

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▲1980年当時の栗原電鉄。右頁は細倉の先にあった細倉鉱山駅。鉱業所の一部のような貨物専業の駅であった。(RMライブラリー『栗原電鉄(上)』より)

本書は上下巻の2巻に分けて、この栗原電鉄の歴史、施設、車輌などを解説します。上巻では、その計画から激動の戦中・戦後を経て1980(昭和55)年頃までの動きを解説します。また、下巻では廃止までの沿革とともに、駅・施設、車輌を紹介する予定です。今年は若柳駅跡の「くりはら田園鉄道公園」もグランドオープンしました。現地を訪れられる際には、ぜひ本書をお供にお持ちください。

912形と935形

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東京第一運転所の公開時に展示された912-12。当時の「東一運」は品川駅の東側にあった。 1987.10 P:高橋一嘉

912-12B.jpg 国鉄DD13形はご存知の通り、国鉄の分割民営化までに全車除籍されましたが、その改造車である912形は新幹線用の事業用車という特異性からかJRに承継され、比較的永く在籍していたのはご存知の通りです。
 写真は東京第一運転所にいた912-12。DD13 44からの改造です。44号機は3次車ですので、キャブ屋根の低いグループです。DD13ですと5次車までは台車はイコライザ−式のDT105を履いていますが、912形では標準軌改機時にウィングバネのDT8000に履き替えています。
銀色に輝く「汽車会社 1959 No.2828」の銘板。 1987.10 P:高橋一嘉
 
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同じく東京第一運転所にいた935-20。こちらはワキ1000形からの改造車であった。 1987.10 P:高橋一嘉 

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▲日本海に沿って遠く離れた大阪を目指す4002D「白鳥」。 1972.6.1 吹浦-小砂川 P:久保田久雄

20170724152323-3e8036a3212accaaa8cebac3b8715c6ca3826f1a.jpg 今月のRMライブラリーは三宅俊彦さんによる『特急「白鳥」-運転史で振り返る55年の軌跡-』お届けします。
 今では、旅客に関しては航空機利用が主流になった関西~北海道間の交通ですが、それまでは北陸本線・羽越本線・奥羽本線のいわゆる「日本海縦貫線」の鉄道利用がその主役でした。その日本海縦貫線を走る初の特急として1961(昭和36)年10月ダイヤ改正で誕生したのが、「白鳥」です。それまで、大阪~札幌間は到達時間は、急行「日本海」~連絡船11・12便~急行「大雪」の連絡による35時間52分が最速でしたが、「白鳥」は連絡船1・2便を介して同時にデビューした特急「おおぞら」との連絡により25時間20分とし、実に10時間32分という驚異的なスピードアップを実現したのです。また、当初の「白鳥」は大阪~上野間でも運転され、大阪~直江津間では両編成を併結して運転するという、珍しい運転形態が採られました。もちろん大阪~上野間を北陸経由で直通する乗客が多いわけはなく、関東~北陸間と北陸~関西間の2つの旅客需要を1本にまとめた、という性格のものでしたが、これはその後上野~金沢間の「はくたか」として分離されました。

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▲キハ80系で運転開始された特急「白鳥」。最長時は大阪~新潟間で14輌という堂々たる編成であった。

 車輌はこの改正でデビューしたキハ82形を先頭車としてキハ80系の量産車でした。この改正では「白鳥」のほかに「おおぞら」「つばさ」「まつかぜ」「かもめ」「みどり」「へいわ」など関東・関西と各地を結ぶ特急列車がキハ80系により運転開始され、全国での特急運転が本格化した改正でもありました。
 運転開始から11年後の1972(昭和47)年には羽越本線の全線電化完成により「白鳥」も485系電車化。当初はグリーン車2輌を連結した専用の編成とされました。ちなみに直流、交流50ヘルツ、交流60ヘルツのいずれの電源にも対応した3電源方式が485系の485系たる理由でもありますが、1本の特急列車でこの3電源すべてを生かしたのは、この「白鳥」が唯一でした。

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▲485系電車化後も約14時間の行程におけるオアシス的存在であった食堂車。しかし1985年3月改正で他の在来線昼行特急列車と同様に外されてしまった。 

 本書は、大阪~青森間の「白鳥」が終焉を迎えつつあった2001(平成13)年に、『レイル・マガジン』209号で発表された「「白鳥」40年の軌跡」をベースに、加筆・修正とともに新たな写真を加えて再構成し、大阪~青森間での運転時代を中心に、運転史の側面からその軌跡を振り返るものです。日本の在来線昼行特急における最長距離ランナーとして記憶にも記録にも残る「白鳥」。ぜひお手に取ってご覧ください。

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▲夕暮れの商店街の向こうをゴトゴトと、ポールを掲げた単車が行く。そんな光景が再現された愛媛県立歴史文化博物館の館内。 P:宮武浩二

iyotetsu03.jpg 伊予鉄道の復元車と言えば、大半の方が市内を走る「坊ちゃん列車」を思い浮かべそうですが、市内線用木製単車12号の復元車があることをご存知でしょうか。場所は愛媛県立歴史文化博物館。残念ながら「坊ちゃん列車」のように実際に線路を上を走るものではありませんが、その再現度は思わず目を見張るほどです。RMライブラリー202『琴平参宮電鉄』の著者である宮武浩二さんが現地を訪ねられたのでご紹介しましょう。
▲復元された伊予鉄12号の全景。カットモデルのような部分的なものではなく、車体全長、ポールから台車まで全体が再現されている。 P:宮武浩二

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▲白熱電球による照明が美しい車内(左)とシーメンスの銘が輝く制御器(右)。 P:宮武浩二

 まず、実物の伊予鉄道12号について簡単に説明しますと、伊予鉄道が1923(大正12)年に自社工場で製造した7~16号のうちの1輌で、台車はブリル、電機品はシーメンス製です。松山市内線にボギー車が入ったのは遅く1951(昭和26)年になってからで、それが現在も活躍している50形です。その増備とともに単車は順次引退していき、12号も1962(昭和37)年に廃車となりました。

iyotetsu04.jpg それから約半世紀の時を隔てて復元された12号ですが、一見「これは実物?」と思ってしまうほどの再現度です。全体のプロポーションや白熱電球による照明が美しい車内はもちろん、よくよく覗き込まないと気づかないような台車もちゃんと21Eが再現されていますし、軸箱にはブリルの銘まであります。この復元車が展示されているのは博物館内の歴史展示室4「愛媛県の誕生と歩み」と題するゾーンで、昭和初期の松山市内、大街道付近を実物大で再現した一角。商店越しに見える電車の姿は実によい雰囲気です。
▲二段屋根の窓にはイの字が四つの伊予鉄の社章が。 P:宮武浩二

 さて、この愛媛県立歴史文化博物館ですが、松山市内ではなく、宇和島市の北隣に位置する西予市宇和町卯之町にあります。最寄り駅の予讃線卯之町駅は松山から特急でも約1時間かかる場所ですから、ちょっと松山観光のついでに...というわけにはいきませんが、路面電車ファンには一見の価値があるものと思いますので、四国周遊の際に訪れてみてはいかがでしょうか。

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▲見えにくい足回りもこの通り、ブリル21Eである。軸箱のBrill社の社紋も見事。 P:宮武浩二

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▲この日初めて見た未更新の7500形。なぜかこちら側だけ広告枠の「週刊文春」は外されており、蛍光灯が見えている。 1985.6 荒川車庫前ー梶原 P:高橋一嘉

kajiwara-1_2017.jpg 青帯の7500形はもう更新工事が進んでいたためかなかなか出会わず、都電最中でおなじみの梶原まで来てようやく未更新の7505をみた。梶原のあたりは今もあまり変わっていないように思うが、新旧の写真を見比べると、郊外電車のような高いトラス組の架線柱が低く改造されている。すでに1985年当時で高い部分は使用されていないようだ。
▲32年後の梶原付近。軌道敷の両側には植栽が整備されている。 2017.6 宮ノ前ー熊ノ前 P:高橋一嘉

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▲梶原電停。左は1985年、右は2017年。郊外電車のような高い架線柱の上部のみがカットされている。 左)1985.6 右)2017.6 梶原 P:高橋一嘉

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▲32年前の宮ノ前付近。 1985.6 宮ノ前ー熊ノ前 P:高橋一嘉

kumanomae-1_2017.jpg 変貌著しいのが小台から熊ノ前にかけての併用軌道である。1985年には線路敷き+α程度の道幅しかなく、宮ノ前では電停に電車が止まると車も後で待っていたりした。今は線路が中央部に分離され、その両側に車道+歩道が整備されており、おそらくこの32年間で一番印象が変わった場所であろう。もっとも、ワンマン化前から比べれば面影橋のあたりなどはまったく面影などないし、鬼子母神前や向原のあたりなどは今も大規模な工事中なので、変貌はまだまだ続くのだろう。

▲32年後。道路は広がり交差点名も変わって、背景に見えるマンションくらいしか同じものがない。 2017.6 宮ノ前ー熊ノ前 P:高橋一嘉

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▲全く面影のない宮ノ前ー熊ノ前間。左は1985年、右は2017年。 左)1985.6 右)2017.6 宮ノ前ー熊ノ前 P:高橋一嘉

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▲熊ノ前商店街の入口付近。1985年の訪問当時、熊ノ前商店街はテレビの人気バラエティ番組の企画で採り上げられてちょっとした話題の場所だった。 左)1985.6 右)2017.6 熊ノ前ー宮ノ前 P:高橋一嘉

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▲大塚駅前に残る僅かばかりの併用軌道を行く7002。 1985.6 巣鴨新田ー大塚駅前 P:高橋一嘉

ootsuka2017.jpg 今でこそ営業用の車輌は5形式、車体は色とりどりの荒川線だが、1978(昭和53)年のワンマン化からしばらくは新7000形と7500形ワンマン改造車の2種類だけで、全て黄色に青帯で走っていた。初めての大きな変化は1984(昭和59)年、7500形の車体更新・冷房化であった。ちょうどその頃の、梅雨時のスナップである。
▲32年後の大塚駅前を行く8802。背後にそびえていたタワー式の駐車場が消えている。 2017.6 巣鴨新田ー大塚駅前 P:高橋一嘉

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▲飛鳥山を行き交う三ノ輪橋行の7009と早稲田行の7031と、池袋行の都バス。7009は冷改されることなく豊橋鉄道に譲渡され、3501となっている。 1985.6 飛鳥山ー王子駅前 P:高橋一嘉
asukayama2017.jpg 飛鳥山の歩道橋は当時も今も定番撮影地だが、明治通りへの高速道路建設と拡幅により、当時とは位置が変わっており、当時と同じ角度では撮影できない。また横断歩道も出来て電車の停車位置も変わっていることに気づく。この交差点と言えば土蔵のような飛鳥山郵便局がランドマークだったように思う。たしか、移転してからも建物はしばらく残っていたように記憶しているが、いまはそれもない。
▲32年後の飛鳥山を行く7707と池袋行の都バス。 2017.6 飛鳥山ー王子駅前 P:高橋一嘉

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▲更新されたばかりの7512。当初は集電装置はビューゲルのままだった。80年代の爆発的なヒット作となった"赤いファミリア"も懐かしい。 1985.6 飛鳥山ー王子駅前 P:高橋一嘉

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DD13形重連の牽引で夏の館山を目指す153系臨時準急「汐風2号」。 1963年夏 上総湊ー竹岡 P:臼井茂信 RMライブラリー215『国鉄DD13形ディーゼル機関車(下)』より

RML215_H1.jpg今月のRMライブラリーは3巻にわたってお届けしてきた岩成政和さんによる『国鉄DD13形ディーゼル機関車』の完結巻となる下巻です。1958(昭和33)年に誕生したDD13形でしたが、蒸気機関車全廃という国鉄の大目標のもと、昭和40年代に入っても増備が進められ、1967(昭和42)年度製造の19'次車でついに総数416輌に達しました。
本来、DD13形は9600形が使用されていたような操車場での重入換は不向きとされ、駅構内や客車区などの入換えや小運転をその使命としていましたが、実際にはそれに留まらず、羽越本線などでは比較的長距離の本線貨物列車を牽引したり、只見線では客車列車の無煙化に用いられたり、郡山では操車場の入換えにも用いられる等、幅広い活躍を見せました。ただ、それらは来るべき電化や気動車化、あるいはDE10形が増備されるまでの中継ぎとして役割でした。

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寒地型の解説。一般に複雑な手すりが特徴とされるが、実はこれがない寒地型も存在する。また、スノープラウや旋回窓を装備して北海道に配置された一般型もあった。 RMライブラリー215『国鉄DD13形ディーゼル機関車(下)』より

このDD13形の歩みのなかで、知られざる部分が多いのが「寒地型」です。寒地型は15次車より設定されたものの、番代区分がないため、寒地型か否かは個々に見分けるしかありません。形状の大きな差は、台車横の空気溜が小さくして1・4位の運転室横に別の空気溜を納めた箱ができ、そこの手すりが複雑な形状になっていることです。そもそもこれは降雪時の融雪のために暖かい排気をブレーキシューや砂箱に導く為の配管を配置することに起因しているのですが、この融雪排気管を装着した姿というのはほとんど記録されていません。つまり、寒地型の寒地型たる最大の特徴が実はほとんど知られていないということになってしまったのです。さらに19次車では融雪排気管なしの寒地型が設定されますが、これは空気溜が一般型と同様になったため当然手すりも一般型と同じ形状となり、パッと見には一般型に見えるという、なんとも難解な存在となったのです。

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DD13形の改造の例。香椎区や直方区ではタブレットキャッチャーの取付けが行われ、授受時の衝撃に対応するため手すりも特徴あるものに変更された。この仕様は19'次車の直方区配置車では新製時から反映された。 RMライブラリー215『国鉄DD13形ディーゼル機関車(下)』より

本書では17次車から最後の増備となった19'次車までの解説とともに、製作輌数と重連型についての考察や、一見同じように見えるDD15形との関係、寒地型について解説。さらに後天的な改造などについても紹介するなど、国鉄DD13形の知られざる側面に光を当てます。DD13形が国鉄線上から消えて今年で30年。気がつけばDD13形が活躍した期間より長い時間が流れたことになります。この機会にぜひ、DD13形について振り返ってみてください。

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都電7000形引退。

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▲「ありがとう7000形イベント」で展示された7022、7002、そして7001。 2017.6.11 荒川車庫 P:RM(取材協力:東京都交通局)

 都電7000形の稼働車最後の1輌であった7022号車が6月10日をもって運用を終了し、翌11日には荒川車庫で「ありがとう7000形イベント」が開催され、多くのファンが別れを惜しんだ。
 7000形は形式としては1954(昭和29)年から製造されたが、現在の7000形は都電の大部分が廃止された後、3次車(1955~56年製)のうち荒川線に残った31輌を1977(昭和52)年から翌年にかけてワンマン・ステップレスの新造車体に更新したものである。

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▲7022の車内と運転台。車体はアルナ工機で新造されたものだが、旧車体から受け継がれたマスコンには日本車輌の鋳出文字が見える。 2017.6.11 荒川車庫 P:RM(取材協力:東京都交通局)

■新7000形登場のころ
7082.jpg 1977(昭和52)年秋のある日のこと、東池袋四丁目で電車を待っていると、珍しく6000形がやってきた。当時の荒川線の昼間は赤帯の7000形と7500形がほぼすべてであって、荒川線しか都電を知らない私は6000形を実際に見るのも乗るのも初めてであった。実は7000形の「工事」のために、この時期、6000形が昼間も活躍をしていたというのはずいぶん後で知ったことである。
 車掌さんの案内も気になり、後部に陣取って過行く線路を眺めていると、巣鴨新田を過ぎたあたりだろうか、続行の電車が見え隠れしているのに気づいた。ただ、遠くに見えるそれは、見慣れた7000形でも7500形でも、ましてや6000形でもない、見たこともない電車だった。恐る恐る車掌さんに尋ねると、数日前から動いている「新しい電車」だというではないか。正確に言えば更新車とは言え、ネットもなく予備知識などない時代、何かの本で7500形を"都電最後の新車"と書いてあったように覚えていたし、そのように理解していたから、大変驚いた。
 王子で降りて待っていると、まだ新幹線の高架もなく明るかった停留場に、ピカピカの「新」7000形が入ってきた。ベースこそ同じ黄色系ながら、直線基調に前面1枚窓の全く新しいデザインは、ただただ大変衝撃的であったのを、今でもはっきりと覚えている。
▲早稲田で折り返しを待つ旧車体の7087。この年の秋には新車体となり、車号は7030となった。 1977年夏 早稲田 P:高橋一嘉

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▲冷房改造前、まだビューゲル時代の7000形が並ぶ荒川車庫。偶然にも今回のお別れイベントで展示された7022と7002の姿が見える。 1989.3.21 荒川車庫 P:高橋一嘉
 何を大げさに、と思われるかも知れないが、当時は全国的に見ても路面電車の新造車体など、嵐電を除けば、もう10年間も途絶えており、まもなく京都市電も廃止と言われていたころのことである。

都電7000形の台車 D-20A

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東新潟港駅構内に設えられた小さな機関区に留置された元DD13形。少し前までは陽が射していたものの、駅舎でご挨拶しているうちに雨模様に...。後には"味タム"とヨ8000がポツンと留置されている。 1996.10 P:高橋一嘉

DD13形と言えば個人的に思い出すのが、新潟臨海鉄道への譲渡車です。ご存知のとおり、国鉄DD13形は1987年の国鉄分割民営化時、新会社に承継されることなく全廃されました。私鉄や専用線用として払い下げられたものの一部は現在も活躍していますが、こと前灯1灯の弱馬力型、それもイコライザー台車(DT105)装備の1〜5次車に限ると譲渡車は限られ、いわゆる「私鉄」へのものは新潟臨海鉄道DD55形のみでした。

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DD55 2(元DD13 71)。2端側から見た公式側。旋回窓にスノープラウと、寒地装備に身を固めているので、北国で使用されたものかと思ったら、現役時代は終始品川区の配置。寒地装備は転入時か転入後の改造であろう。 1996.10 P:高橋一嘉

DD02.jpgとは言え、DD55形が活躍していたのは、"新潟臨海鉄道"と言っても白新線黒山駅から伸びる自社線ではなく、上沼垂から分岐した貨物線の終点である東新潟港駅の入換業務でした。DD55形は2輌あり、1号機が元DD13 61、2号機が元DD13 71で、共に運転室の高さが変更された4次車ですが、メーカーは61号機が汽車、71号機が日車と分かれていました。この日見学させていただいたのは2号機で、すでにナンバープレートや社紋は外されていたものの、いわゆる"くたびれた"感じではありませんでした。

1端側から見た非公式側。こちらは助士側で旋回窓はない。両端には国鉄時代には撤去された折りたたみ式の赤色円盤が付けられているが、これは1号機にはなかったようだ。 1996.10 P:高橋一嘉

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構内西側には半年前の電化で姿を消した元八高線のキハ30 18+97が留置されていた。当時は「なんでこんなところに?」と思ったが、今回車号を調べてみると、18の方はその後会津鉄道のトロッコ列車になったそうで、隣接する新潟鐵工への入場待ちだったのだろう。1996.10 P:高橋一嘉

改めて当時の鉄道誌の記事を見直すと、DD55形はこの年に元DE10のDE65 3が入線して引退したようです。果たしていつ頃まで姿を留めていたのか...。それにしても、せっかく見学させていただいたのに、雨模様だったせいもあってか、DD13の台車をはじめ細部の写真を撮影しておらず、今考えると後悔しきりです。

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豪雪の只見線、蒸気ロータリーのキ621をプッシュするDD13 514。 1968.2.4 魚沼田中ー越後須原 P:佐藤道博 RMライブラリー214『国鉄DD13形ディーゼル機関車(中)』より

RML214_H1s.jpg今月のRMライブラリーは先月に引き続き岩成政和さんによる『国鉄DD13形ディーゼル機関車』の中巻です。DD13形は1958(昭和33)年から1967(昭和42)年にかけて実に416輌が製造されましたが、1961(昭和36)年登場の111号機では大きな変化を遂げます。エンジンが従来のDMF31S(370PS)からDMF31SB(500PS)に進化、これに合わせ冷却方式も変更されてボンネット天板部に送風扇を設置、さらに前灯もシールドビーム2灯化されました。強馬力型DD13の誕生です。一般に後期型と言われることも多いこの形態ですが、輌数はこれ以降の方が全体の7割以上を占めることになります。ちなみに強馬力型第1号の111号機は試作的要素も強く、従来公式側1セットのみであった運転台が非公式側にも設置されましたが、これは112号機では再び公式側のみに戻され、111号機も量産化改造ののちに新幹線用の912形に改造され、DD13形としては短命に終わりました。

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重連型と寒地用が設定された15次車。この15次車以降のDD13形は198輌で、全体数の5割弱を占めることになるが、なかでも15次車は64輌で次数別で最多の輌数となった。 RMライブラリー214『国鉄DD13形ディーゼル機関車(中)』より

誕生から毎年増備が続けられたDD13形ですが、1965(昭和40)年登場の15次車で重連総括制御を本格的に取入れた500番代が誕生します。さらに融雪排気管の取付けに対応した寒地型も設定され、一般非重連型、一般重連型、寒地非重連型、寒地重連型と4種に分かれることになりました。しかし、寒地型は番代区分がなされなかったため、非重連型0番代、重連型500番代それぞれの中に一般(暖地)用と寒地用が混在することになりました。さらに16次車ではDD51の成果を反映して歯車関係が一新され、既存機との互換性がなくなったため、非重連型は300番代、重連型は600番代となりました。

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歯車関係が一新された16次車。新潟地区には冬季のDD14補機用として多くの寒地用重連型が配置された。 RMライブラリー214『国鉄DD13形ディーゼル機関車(中)』より

本書中巻では7次車(111号機)から16次車(339号機・611号機まで)、次数別の変更点について、多くの写真とともに紹介するものです。なお、続く下巻では残る17次、18次、19次、19'次車の解説とともに、知られざる寒地型の解説、後天的改造などについて収録する予定です。どうぞお楽しみに。

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くりはら田園鉄道のラッチが出迎える「しばうら鉄道工学ギャラリー」の入口。頭上の標示はギャラリー前を通るゆりかもめの駅名標デザインに合わせたもの。なお、ギャラリー見学には、校舎正面エントラス横にある守警室での受付が必要となっている。 2017.5.9 P:RM

5月21日にオープンする芝浦工業大学「しばうら鉄道工学ギャラリー」の内覧会が去る9日に開催されました。この「しばうら鉄道工学ギャラリー」は、東京都江東区の新豊洲に完成した芝浦工業大学附属中学高等学校の新校舎内に設けられるもの。この附属中高の起源は1922(大正11)年に当時の鉄道省が設置した東京鉄道中学であり、もともと鉄道との縁が深い学校です(ちなみに鉄道中学設置の発案者は当時、経理課長だった後の国鉄総裁・十河信二氏だったそうです)。

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ガラスケースに展示された岸由一郎さんのコレクションの一部(上2段)。下段は方向幕等のメーカーである羽深製作所のコレクション。なお、展示コレクションは定期的な入れ替えが予定されている。 2017.5.9 P:RM

芝浦工業大学では、2013(平成25)年10月頃に学内図書館へ学外から多数の貴重な鉄道資料の寄贈の打診があり、それをきっかけに「図書館鉄道技術資料調査委員会」が設けられ、寄贈資料の受け入れの検討と収集・整理を行ってきました。これらの資料の中には、読者の方々にもおなじみの星晃さんや三谷烈弌さん、岸由一郎さんのコレクションも含まれています。今回、これらのコレクションの一部もこのギャラリーで公開されることになりました。これまで、故人となられた方のコレクションの散逸が心配されることがありましたが、こうした受け入れ体制が構築されることは大変意義深いことと言えましょう。

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展示準備中の車掌車のダルマストーブ(左)と、模型運転用の201系運転台(右)。運転台は実物の廃部品をもとにコンパクトに組み立てられたもの。 2017.5.9 P:RM

ギャラリー内には485系と115系の実物の腰掛やくりはら田園鉄道で使用された改札や通票閉塞器、車掌車のダルマストーブなども展示されるほか、1400冊の雑誌・書籍が閲覧可能となっています。なお、附属中高では鉄道研究部が活発に活動されており、ギャラリーの運用にも大いに関わることになるそうです。

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ギャラリー中央に配置されるブックヤード(本の操車場)。鉄道車輌型の本棚で線路上を移動でき、転車台も設けられている。背後に見えるリクライニングシートはクロハ481-3037のもの。 2017.5.9 P:RM

ギャラリーオープン日の5月21日にはオープニングイベントとして、図書館鉄道技術資料調査委員会副委員長であり、RMライブラリーの著者としてもおなじみの藤田吾郎教授による講演と、鉄道研究部による5インチゲージの乗車体験などが予定されています。また、7月22日には公開講座として「鉄道三昧スペシャル」(講師:三宅俊彦さん)、「今日は一日鉄道三昧」も予定されています(詳しくは下記WEB参照のこと)。ちなみに、校舎の前はかつて東京都港湾局の貨物線が伸びていた場所で、その路線図もギャラリー内に掲示されています。初夏の一日、豊洲・晴海周辺の散策と合わせて、ギャラリーを訪ねてみてはいかがでしょうか。

■しばうら鉄道工学ギャラリー
所在地:〒135-8139 東京都江東区豊洲6-2-7(有楽町線豊洲駅から徒歩7分、ゆりかもめ新豊洲駅から徒歩1分)
開館時間:火曜日~土曜日 10:00~12:30、13:30~16:00(最終受付は15:30)
休館日:毎週日曜日・月曜日、祝日 ※そのほか、学校行事などの都合により臨時休館することがあります。
詳しくは、WEBの開館カレンダーで確認のこと。
入場料:無料
WEB:http://www.shibaura-rtg.com

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旧・紀和町の中心、板屋にある紀和鉱山資料館。テントの下は蓄電池式電気機関車230号と軌道自転車。車輌の展示は館内・前庭に分かれているが、線路は扉を通じてすべて繋がっているのが楽しい。 2017.3 P:高橋一嘉

itaya02.jpg紀州鉱山の拠点であり、専用軌道の起点でもあった板屋には、いまも巨大な選鉱場の跡がその姿を留めていますが、そのほど近くには紀和鉱山資料館があります。
この鉱山資料館には、前庭から館内1階にかけて線路が敷設されており、前庭には電気機関車610号とA型客車、鉱車、それに蓄電池式電気機関車230号が、また館内には蓄電池式電気機関車229号、415号、D型客車、鉱車などが展示されています。もちろん、軌道関係以外にも多数の貴重な資料も展示されており、訪問の際には必見の施設と言えましょう。

電気機関車610号の小さな運転室内をのぞくと、大きな直接制御のマスコンと、ブレーキハンドルが並ぶ。空制はなく、制動はブレーキハンドルだけが頼り。 2017.3 P:高橋一嘉

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鉱山資料館の前庭に展示された日立製作所製の電気機関車610号(左)と鉱車(右)。 2017.3 P:高橋一嘉

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8人乗りのB型客車。無双窓の引き違いは残念ながら固定されている。 2017.3 P:高橋一嘉

さて、この地を訪ねるにあたって一番気になっていたが、客車列車の終着駅であった惣房駅の跡です。実は今の時代は恐ろしいもので、惣房駅付近もgoogleストリートビューで見られるようになっているのですが、画面上ではどうも駅があった位置がよく判りません。とにかくここまで来たら見なければ...と山道を南へ向いました。

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惣房駅跡。高さは違うが、表紙写真に似た角度で撮影しているはずである。下に見えるコンクリ製の擁壁の奥に湯ノ口へ続く隧道が眠っている。 2017.3 P:高橋一嘉

sobo02.jpgはたしてたどり着いた惣房駅の跡は、面影を留めない変わりようでした。猫の額のような構内は県道の拡幅用地として埋め立て・嵩上げされたようで、隧道の坑口だけがコンクリートの擁壁に護られるように口を開けています。隧道は湯ノ口への6号と八光への8号の2つの坑口があったはずですが、入口は一つのみ。二つをまとめたのか、それとも片方は閉塞してしまったのか...。軌道が渡っていた吊り橋も消え、ケーブルのようなもののみが対岸に渡されてます。少し先の惣房の集落近くにあった吊り橋も通行禁止になっており、三和鉱山の施設があったという対岸に渡る術はないようでした。(おわり)
惣房の集落、21頁左中段の写真の場所の現在。この先にあった惣房会館の付近まで軌道は伸びていた。 2017.3 P:高橋一嘉

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威容を留める板屋選鉱場跡。左下に見えるのが1号隧道で、その手前に駅舎やホームがあった。隧道内には小口谷に続く線路が今も残っている。 2017.3 P:高橋一嘉

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山手線恵比寿のサッポロビール専用線で入換中のDD13 61〔品〕。現在、高層ビルが建ち並ぶ一角の約半世紀前。

1961.5.6 恵比寿 P:久保 敏 RMライブラリー213『国鉄DD13形ディーゼル機関車(上)』より

今月のRMライブラリーは岩成政和さんによる『国鉄DD13形ディーゼル機関車』の上巻をお届けします。
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DD13形は1958(昭和33)年に1号機が登場した液体式ディーゼル機関車です。国鉄では当時、すでに幹線用のディーゼル機関車としてDF50形の量産が始まっていましたが、これは海外製機関を国内でライセンス生産して発電用機関として搭載した電気式でした。国鉄では並行して純国産機関による液体式ディーゼル機関車の開発を各メーカーとともに進めており、その結果、まず入換・小運転を主目的に誕生したのがDD13形でした。

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DMF31S機関2基を搭載したDD13形。110号機までは1基370PSであったが、111号機以降では500PSのDMF31SBとなった。 RMライブラリー213『国鉄DD13形ディーゼル機関車(上)』より

国鉄は1954(昭和29)年に気動車用のDMH17系機関を搭載した液体式のDD11形を完成させていましたが、これは入換・小運転用としてもあまりに非力なもので、用途が限定されるものでした。DD13形は入換のみならずある程度の本線運用にも使用できるよう設計され、機関は戦前にキハ43000用として開発された機関をベースとした新系列機関DMF31Sを開発、海外ライセンスによる液体式変速機DS1.2/1.35を組み合わせました。こうして完成したDD13形は、無煙化という時代の要請と相まって、改良を重ねつつ約10年にわたって増備が続けられ、その総数は実に416輌に達したのです。

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1次車は都心での運用のため特に無煙化の要請が強かった品川機関区に集中配置された。 RMライブラリー213『国鉄DD13形ディーゼル機関車(上)』より

本書はこれらDD13形について3分冊で紹介するものです。上巻では誕生の時代背景とその概要から紐解き、続いて1〜6次車の弱馬力型の製作次数別の変化について、多くの資料と写真とともに解説します。
国鉄時代、それこそ日本全国に配置され、そこかしこに当たり前のようにいたDD13形ですが、国鉄消滅とともに国鉄線上からひっそりと姿を消して早30年。この機会に、知っているようで意外と知らなかったDD13形について振り返ってみてはいかがでしょうか。

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専用軌道の現役当時から活躍する日本輸送機製の4t蓄電池式電気機関車414号。 2017.3 P:高橋一嘉

bl4t002.jpg紀州鉱山専用軌道の現役当時はパンタグラフ集電の電気機関車が鉱石列車・客車列車とも牽引の主力でしたが、トロッコ電車となった現在は架空線が撤去され、蓄電池式電気機関車が牽引します。主に使用されるのは日本輸送機製の4t機(現役当時の414号)で、湯ノ口温泉行の場合が前向き(バッテリーが前)となります。
4t蓄電池式電気機関車を俯瞰する。瀞流荘行がバック運転になる。 2017.3 P:高橋一嘉

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客車。窓は現役当時のガラスを使用しない"無双窓"から引き違いのガラス窓となり、妻面にもガラス窓が設けられている。 2017.3 P:高橋一嘉

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客車のうち2輌は屋根が深いもので、こちらは妻の筋交いがない。コードは照明用のもので機関車と接続される。 2017.3 P:高橋一嘉

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客車の車内。左は屋根が浅いもので、車内は白塗り、現役当時と同じく妻側にも腰掛がある。右は屋根が深いもので、車内がニス塗りとなり、腰掛は両サイドのみ。 2017.3 P:高橋一嘉

客車は現役当時のB型客車に近いものですが、ガラスを一切使用しない"無双窓"ではなく、引き違いのガラス窓となり、妻部や扉にもガラス窓が設けられています。足回りは現役当時と同じくサスペンションの類はないようですが、今は軌道の状態も良いのか、「筆舌に尽くし難い」というほど悪い乗り心地ではないように思えます。現役当時にはなかった照明設備と、腰掛座面にフトンがあるのも気分的にはずいぶん違うのかも知れません。(つづく)

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車庫の中にいた予備の2t機(現役当時の231号)と全鋼製(?)客車。2t機は竪坑ケージに載せることを考慮した、運転席部分を折り畳める構造。 2017.3 P:高橋一嘉

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紀伊半島の懐深く、バッテリー機関車が牽かれて5号隧道を行く。紀州鉱山専用軌道は今も生きている。 2017.3 P:高橋一嘉

kishu03.jpgRMライブラリー212巻では名取紀之・元編集長による『紀州鉱山専用軌道』をお届けしました。その中でも紹介されている通り、紀州鉱山は1978(昭和53)年に閉山しましたが、閉山直後の調査で長らく途絶えていた温泉が湧出、その後、鉱山施設跡地に観光施設が整備され、残されていた軌道が「トロッコ電車」として活用されることになりました。そのため、一部区間とは言え、紀州鉱山専用軌道は今も体験することができるのです。閉山から39年目の春を迎える熊野市紀和町を訪ねてみました。
瀞流荘(旧・小口谷)駅で発車を待つ列車。先頭のバッテリー機関車は現役当時からの414号機。現役当時は主要区間は電化されていたが、現在は架空線は撤去されている。 2017.3 P:高橋一嘉

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湯ノ口温泉駅を俯瞰する。奥に口を開けるのは惣房まで約3kmという6号隧道。今は列車の運行はないが、隧道内へ線路が続いている。手前の分岐は機関車の付け替え用ですぐ右で行き止まりである。 2017.3 P:高橋一嘉

kishu05.jpg現在、トロッコ電車として軌道が運行されている区間は瀞流荘(旧・小口谷)〜湯ノ口温泉(旧・湯ノ口)間約1kmです。瀞流荘は旧・小口谷駅の構内にできた温泉ホテルで、熊野市からバスで約50分(1日5往復)、阿田和から約40分(1日4往復)と山間部ながら交通の便は悪くありません。瀞流荘駅はホテルの裏手にあり、事務所・出札口・待合室などがある木造駅舎と、立派な屋根付きのホームがあります。
瀞流荘駅からトロッコ電車の運行には使用されていない板屋への2号隧道を見る。こちらも線路は残されており、予備の客車と黄色いバッテリー機関車の姿が見える。2017.3 P:高橋一嘉

kishu04.jpg現役時代と同じ川の上に位置する湯ノ口温泉駅。現役当時、機関車の修理工場などが並んでいた手前の谷は湯ノ口温泉の入浴施設やバンガローが並ぶ保養地に変貌している。 2017.3 P:高橋一嘉

一方の湯ノ口温泉は旧・湯ノ口駅構内の跡にできた入浴施設で、湯治客のためのバンガローなども整備されています。近年になって改築されたきれいな施設で、鉱山時代の面影は感じられませんが、トロッコ電車のホームは5号隧道と6号隧道の間のわずかな橋梁の上という、現役時代と同じ場所にあります。ちなみにここにはバスの便はなく、山道を自動車で来なければトロッコ電車で来るしかないという場所です。(つづく)

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ぼんやりと白熱灯が灯る客車の車内。もっとも、現役当時にはこの白熱灯もなかったそうで、隧道内では真っ暗だったそうだ。 2017.3 P:高橋一嘉

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鉱石運搬とともに地域の交通手段でもあった紀州鉱山専用軌道。国鉄線との接続はなく、紀勢本線の阿田和駅からバスで1時間余という紀伊半島の山中に位置した。

 今月のRMライブラリーは名取紀之・元RMライブラリー編集長による『紀州鉱山専用軌道-その最後の日々-』です。鉱山専用軌道というと、採掘現場までの坑道の中を走るトロッコをイメージされる方がおられると思いますが、この軌道は地域の交通手段としての側面も持つものでした。

RML212H1s.jpg 紀州鉱山は紀伊半島の山中、奈良・和歌山との県境に近い三重県牟婁郡紀和町(現・熊野市紀和町)にあり、銅を産出していました。この鉱山は、町内にいくつかの拠点と鉱区があり、本部・選鉱場があった板屋を起点に、拠点や鉱区を結ぶ軌道網が整備されており、1968(昭和43)年時点での坑内外軌道総延長は73.8kmにもおよんでいたといわれます。この軌道の主目的は言うまでもなく鉱区から選鉱場まで鉱石を運ぶことでしたが、その合間を縫うように客車(人車)列車も運転されていました。

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機関庫や機関車の整備工場などがある軌道の拠点であった湯ノ口。閉山後、この付近は湯ノ口温泉の入浴施設となり様変わりしたが、ここから小口谷までの軌道は観光トロッコ列車として活用され、駅ホーム付近は面影を残している。

mapA3.jpgこの軌道のなかでも本線的な存在であったのが、板屋~小口谷~湯ノ口~惣房間の約5.5kmでした。惣房とは戦前の紀州鉱山の中核をなした三和鉱山の本拠地でしたが、山中のため現在の県道780号が整備されるまで効率的な輸送手段は軌道のみという地区でした。このため、この「本線」で運転される客車列車には惣房に住む関係者やその家族のみならず、来訪者も便乗が認められていました。1978(昭和53)年の閉山とともに軌道の運行も終了しましたが、その後、湯ノ口地区で温泉が湧出したことで、湯ノ口と小口谷が観光地として整備され、この区間の軌道が復活し、現在も現役当時からのバッテリー機関車によるトロッコ列車が運行されているのはご存知の方も多いのではないでしょうか。
1978年当時の紀州鉱山専用軌道の概念図。太線の区間が便乗可能な客車列車が運行されていた「本線」。破線区間はすでに閉鎖されていた。

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客車群は皆、ガラスをいっさい使用しない「無双窓」をもつ独特のもので、小口谷の工場で製造されたものであった。

 名取さんが現地を訪ねたのは閉山間際の1978(昭和53)年3月のこと。この時、3日間にわたって現地で調査・記録され、この記録をベースに、その沿革などを含めてまとめられたのが本書です。ちなみに、タイトルに「ついに」と書きましたが、実は本書はRMライブラリーのスタート当初に製作着手しながら、実現することなく今日まだ温められていたもので、企画自体はRMライブラリーのスタート以前からあったそうです。正に満を持しての刊行、ぜひご覧ください。

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新築の市役所をバックにゴロゴロと走る燕行きモハ16。AB型のスバルレオーネも懐かしい。場所は鐘淵小学校の入口付近。鐘淵小学校は1951年まで初代・白山駅があった場所である。 1989.9 P:高橋一嘉

日車標準型ばかりの新潟交通電車線の電動車にあって、唯一小田急HB車の車体で更新されたのがモハ16であった。

niigata03b.jpg元小田急1400形の武骨な車体に、華奢な印象のブリルのMCBがちょっとアンバランスだったが、併用軌道を走る姿は被写体としては実に魅力的だった。それにしても、他は電動車=新造車体、制御車=中古車体で統一されたのに、なぜこの車だけ例外だったのだろうか。

上の写真から27年後、青山行き快速の連節バスが走る。手前に見えるのは白山浦のバス停。 2016.9 P:高橋一嘉

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越後線白山駅(二代)入口の交差点付近を走る白山前行きのモハ16。 1989.9 P:高橋一嘉

niigata04b.jpgところで、80年代、何度かの新潟行でちょっと気になったは、一部のバスに正面に取り付けられた「銀太郎」という表示だった。新しめのバスに付いていたから愛称なのかな、とは思ったが...。今回、正面に赤い「BRT」の表示を付けて走る銀色のバスを見て、あの「銀太郎」の表示を思い出した。

27年後、左側(南側)の家並が消えたせいか、印象がずいぶん違う。このバスは各駅停車で、いったん白山駅に寄るが、快速便はかつての電車と同様に素通りする。2016.9 P:高橋一嘉

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菅原神社の入口付近を走る燕行きのモハ16。自転車屋さんとパン屋さんが実に良い雰囲気だった。 1987.5 P:高橋一嘉

niigata05b.jpg今回訪れる際に一番気になったのは、白山駅の先、菅原神社の入口にあった自転車店の場所だった。最初にこの電車線を訪れた際、ここで撮ろうと決めていたのだが、朝、白山前で止まっているモハ16をみかけ、ここまで駆け足で移動してきた。今回訪れてみると、白山前から案外距離があったことに驚かされた。

29年後、自転車屋さんもパン屋さんも消え、すっかり様変わりした。旧景にあった参道の案内も消えていたが、奥の神社は変わらず、秋まつりだろうか、お神輿が見えた。 2016.9 P:高橋一嘉

電車線はこの先で越後線のガードを潜っていたが、なぜかそこでは撮影していないので、軌道線の記録はここでおしまいである。モハ16とは巡り合わせが良かったが、今回、再訪のきっかけとなった電車色のバスは、結局見ることはできなかった。 

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白山前で発車を待つクハ45+モハ25の燕行き。駅舎と好一対だった県庁は姿を消し、完成したばかりの新潟市役所が見える。 1989.9 P:高橋一嘉

早いもので新潟交通白山前-東関屋間の廃止から今月で25年が経つことになる。あの駅舎と、併用軌道をゴロゴロと走る小田急HB車の車体を持った電車こそ、遠来のファンにとっては新潟交通を象徴する姿だったと思う。昨年、往年の電車色のバスが登場したと聞き、久方ぶりに白山浦界隈を訪ねてみた。
 
niigata00b.jpg白山前のあの駅舎のあった場所は、道路の形状が変わり、歩道橋もなくなってしまったため同じ場所に立つことはできなくなっていた。バスは電車がくぐっていた市役所(旧県庁)の渡り廊下の下にできた、立派なバスターミナルに発着しており、時折、真っ赤な連節バスが姿を現していた。

駅舎は姿を消し、道路の形状も変更された白山前駅跡。歩道橋もなくなったので、ほぼ同じ角度の地上から見る。 2016.9 P:高橋一嘉

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白山前を発車する白根行きのモハ19。この時は県庁跡はまだ更地だった。 1987.5 P:高橋一嘉

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モハ19とほぼ同じ場所を青山に向かうバス。ほぼ同じアングルのはずだが...。 2016.9 P:高橋一嘉

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県庁を過ぎ、道幅が狭くなった白山浦一丁目付近を東関屋方面に向うモハ24の後ろ姿。なぜか行き先板がない。 1987.5 P:高橋一嘉

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上の写真から29年を経た白山浦一丁目。旧景に見えるバス停がなくなっている。旧景と同じ建物が散見されるが、駐車車輌が目に見えて少なく、軒先の看板も少なくなったようだ。 2016.9 P:高橋一嘉

実は個人的には、朝夕のみ運転されていた元小田急の2220形が一番見たい電車だったのだが、数回の訪問時にはいつも検査中だったり、入場中だったりで、結局併用軌道を走る姿を見ることは叶わなかった。

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三滝-安芸長束間の旧線を行く可部線電車。横川~安芸長束間は太田川放水路建設のため、この年に新線に切り替えられた。 1962.9.30 P:長船友則

 今月のRMライブラリーは長船友則さんによる『可部線 波乱の軌跡』です。可部線と言えば、間もなく可部~あき亀山間がJRの廃止路線として初めて復活、電化延伸開業しますが、その開業からの100年以上にわたるあゆみは、実に波乱にとんだものでした。

RML211H1s.jpg 可部線の起源は、1906(明治39)年11月、広島軌道という軽便軌道の特許に始まります。この軌道特許申請は、かの雨宮敬次郎らによるもので、開業前の1908(明治41)年には雨宮が経営に関与していた他の7社と合同して大日本軌道株式会社が設立され、1909(明治42)年12月19日、大日本軌道広島支社として横川~祇園間が開業しました。開業時は762mm軌間、非電化で、雨宮鉄工所製の小型蒸気機関車(いわゆる"へっつい")が客車1輌のみを牽引するものでした。1911(明治44)年には可部まで開業しますが、その全通を見ることなく、同年のはじめには雨宮敬次郎が死去、さらに後を継いだ雨宮亘も1918(大正7)年に死去したこともあり、大日本軌道広島支社は1919(大正8)年、可部軌道として独立しました。

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可部線の原点は"へっつい"が牽く軽便軌道。左下写真は軽便時代の梅林駅で、電車が行きかうようになった今も道路沿いの位置関係やはるかに見える中国山地の山並みは変わりない。

 この頃になると小型の蒸気機関車が牽く軽便軌道は、地元新聞でも時代遅れと酷評されるようになり、1924(大正13)年には電力会社の広島電気が可部軌道に出資、その後1926(大正15)年1月には広島電気が可部軌道を吸収する形で合併。これにより改軌・電化が本格的に進められ、1928(昭和3)年から1930(昭和5)年にかけて軌間1067mm、600V電化の路線に改められ、横川付近など一部区間は経路も変更されました。そして1931(昭和6)年には広島電気の全額出資により広浜鉄道株式会社が設立されました。このように特許申請からの26年の間に、実に4回も事業者名が変わりました。しかし、これも長くは続かず、1936(昭和11)年9月、広浜鉄道は国有化され、鉄道省可部線となりました。これが現在も運転されている可部線横川~可部間です。

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1954年には加計までが開業。当初は旅客列車も蒸機牽引であったが、間もなく旅客列車にはキハ41000形も投入された。

 一方、鉄道省では明治期からすでに広島と浜田を結ぶ鉄道の計画を持っており、広島側からの工事線は本郷線の呼称で広浜鉄道買収前から準備が進められ、買収直後の1936(昭和11)年には可部~安芸飯室間が開業。1946(昭和21)年に布、1954(昭和29)年に加計と延伸し、1969(昭和44)年には三段峡までが開業しました。さらに残る浜田までの工事も着工し、隧道や橋梁など一部は実際に姿を現しはじめていましたが、1980(昭和55)年、国鉄再建法により工事は凍結され、陰陽連絡の夢は中国山地の半ばで途絶えてしまいました。そして、残された非電化区間の可部~三段峡間も2003(平成15)年に廃止されたのはご存知の通りです。

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1969年には三段峡までが開業。可部~三段峡間は本郷線として建設されたが、開業時には可部線に編入された。また、浜田~三段峡間の工事線名は今福線であった。

 本書は、広島軌道の特許から、改軌・電化、国有化、非電化区間の延伸から廃止、そして間もなく予定される延伸開業まで、110年余にわたる可部線のあゆみをまとめたものです。長船さんは本シリーズでもこれまで『呉市電の足跡』『宇品線 92年の軌跡』と地元広島の鉄道に関する研究を発表されていますが、今回は可部線が一部とはいえJRの廃止路線で初めて復活するのを機会に、これまでの実に波乱に富んだあゆみを振り返ってみたいとまとめられたものです。ぜひ、お手に取ってご覧ください。

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1970年の全廃までトロリーバスの営業所が併設されていた守口車庫。 P:宮武浩二

20170123182439-3dff5b384f8e8b36b04565edbe62bb977fbffbb4.jpg大阪のトロリーバスで2番目、1957(昭和32)年に開業したのは守口車庫前~今里間の3系統(第2・3号線)で、当初は最初の開業区間である大阪駅前~神崎橋間の1系統(第1号線)とは全く接続しない路線でしたが、3年後の1960(昭和35)年に森小路町一丁目~大阪駅前間(第2号線)が開業し、両線が結ばれて守口車庫前~神崎橋間の2系統の運行も開始されました。第3号線の起点であり、基地でもあった守口車庫には、今も市バスの営業所がありますが、トロリーバスゆかりの建物は残っていません。

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阿倍野北操車場横に残る架線柱(上)と天王寺駅前に残る架線柱の切株(下)。 P:宮武浩二

abeno2.jpg3番目に開業したのが新深江~今里~大池橋~阿倍野橋(天王寺駅前)の第4号線です。阿倍野橋には駅前に切り倒された架線柱の跡が、また市バス阿倍野北操車場横にも架線柱が1本残っています。その阿部野橋への入り口、ループ線の分岐点であった寺田町交差点は、輻輳していた架線も昔話で、現在は市電の跡もトロリーバスの跡もありません。

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上)今も市バス「杭全」(くまた)バス停として残る第3号線杭全町転回地。トロリーバス廃止から19年後に関西本線東部市場前駅が近くに開業した。 P:宮武浩二 下)架線柱が道路信号用として残る新喜多大橋。 P:宮武浩二(車中より撮影)

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市電の代替であった第8・9号線の開業を経て、大阪市営トロリーバス最後の開業区間となったのが第3号線の延長区間であった田島町四丁目~杭全町間です。1962(昭和37)年のこの開業は新喜多大橋の架け替えを待ったものでしたが、その新喜多大橋にも1本のみ架線柱が残っています。
終点であった杭全町はトロリーバス時代と同じく市バスの転回地として使用されており、ここが一番面影が残る場所と言えるかもしれません。
用地の形が残ることが多い新設軌道の鉄軌道と違って、その面影を辿るのが難しいトロリーバスですが、廃止後47年経たことを考えれば、大阪のトロリーバスの遺構はよく残っている方といえるのではないでしょうか。

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今も変わらぬ威容を誇る十三大橋。1932年完成からの85年間のうち、ここを無軌条電車が走ったのはわずか16年のみであった。 P:宮武浩二(車中より撮影)

20170123182439-3dff5b384f8e8b36b04565edbe62bb977fbffbb4.jpg47年前に廃止された大阪市営のトロリーバスについて解説したRMライブラリー第210巻『大阪市営無軌条電車のあゆみ』は、発売より大変ご好評いただいておりますが、著者の宮武浩二さんより、その遺構について写真をお寄せいただきましたので、ご紹介いたします。この遺構については3年前の2013年3月に「編集長敬白」でもご紹介しておりますので、合わせてご覧下さい(一部の写真は重複します)。

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新淀川手前の中津浜交差点。この付近では両側に架線柱が残っており、利用されている。 P:宮武浩二(車中より撮影)

大阪市営の無軌条電車で最初に開業した路線は、大阪駅前〜神崎橋間の第1号線でした。以前、編集長敬白でご紹介した際には、大阪駅前にドイツ・マンネスマン社製の架線柱が残っていることを紹介しましたが、残念ながらその後撤去されてしまいました。中津浜から十三にかけては道路両側に架線柱が残っており、十三大橋も無軌条電車があったころのままです。

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架線柱が両側に残る北方貨物線跨線橋。上を通る山陽新幹線は無軌条電車廃止時にはまだ工事中だった。 P:宮武浩二

田川通〜三津屋間の跨線橋も両側に架線柱が残っています。ここはJR線(北方貨物線)の上に道路、そしてさらにその上に新幹線の高架がある、交通の要所でもあります。

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面影を残さぬ終点・神崎橋。営業所内の架線が張り巡らされた光景を知る人ももういない。 P:宮武浩二

そして無軌条電車開業時に営業所が開設された神崎橋は、長らく市バスの転回地として残っていましたが、市バス路線の再編成により敷地は売却され、現在は医療関係のビルが建っています。残念ながら大阪におけるトロリーバスの発祥の地を示すものはなにもありません。(つづく)

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▲緑橋交差点を南へ、第3号線を今里方向へ進む237号。 1970.6.14 P:今井啓輔(RMライブラリー『大阪市営無軌条電車のあゆみ』より)

 今月のRMライブラリーは、荻野 基さん、宮武浩二さんによる『大阪市営無軌条電車のあゆみ』をお届けします。

20170123182439-3dff5b384f8e8b36b04565edbe62bb977fbffbb4.jpg 現在では立山黒部アルペンルートの2箇所のトンネルバスのみとなった無軌条電車(トロリーバス)ですが、日本におけるそのはじまりは1928(昭和3)年、阪急宝塚線(旧)花屋敷駅と新花屋敷の間に開設されたものです。都市交通としてのそれは、4年後の1932(昭和7)年に京都市で開業、戦後の一時期は路面電車に代わる交通手段として注目され、川崎、東京、大阪、そして横浜で相次いで開業しました。しかし、自動車の激増により交通渋滞が深刻化すると、路面電車と同様に運行に支障をきたすようなったのに加え、ディーゼルエンジンのバスが大型化したこともあり、昭和40年代には都市部から全て姿を消しました。

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▲開業時に用意された1形(のちの100形)は日野製の走行装置に川崎航空機製のモノコック車体、GE製の主電動機、制御装置を組み合わせたものであった。(RMライブラリー『大阪市営無軌条電車のあゆみ』より)

 大阪市の無軌条電車は戦前にも計画はあったものの、具体化したのは戦後で、1953(昭和28)年、まず大阪駅前から東淀川区の神崎橋までの第1号線が開業しました。その後、東は守口車庫前、南は阿倍野橋、西は玉船橋と路線を伸ばし、一部路面電車を置き換えも含め、1962(昭和37)年の杭全町開業時には路線長は37.9kmにおよびました。車輌も3形式134輌に成長し、路線長、車輌数ともに日本の無軌条電車としては最大規模のものとなりました。

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▲大阪市営無軌条電車の概念図。(RMライブラリー『大阪市営無軌条電車のあゆみ』より)

 しかし、最盛期は長くは続かず、1965(昭和40)年には地下鉄建設のため新深江〜今里間が休止となりました。そして市電の廃止が本格化すると、変電所を共用していた無軌条電車もその存廃が問われるようになり、1969(昭和44)年から1970(昭和45)年にかけて3段階に分け廃止され、大阪の街から無軌条電車は姿を消したのです。

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▲200形と300形は並行して計126輌が製造された。形式の区別は走行装置によるもので、200形が三菱製、300形が日野製であった。車体製造者は当初の川崎航空機、富士重工に加え、後に鉄道車輌メーカーであるナニワ工機、近畿車輌、東急車輌、帝国車輌、そして大阪車輌製造も加わり、計7社にも及んだ(RMライブラリー『大阪市営無軌条電車のあゆみ』より)

 本書は、これまで語られることの少なかった大阪市営の無軌条電車の消長と、そこを走った3形式134輌の車輌群について解説するものです。路面電車に比べ注目されることも少なく、静かに消えていった無軌条電車の姿を振り返る一冊、ぜひお手に取ってご覧下さい。

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右側半分以上を計画線(免許線)である坂出~高松間が占めた琴平参宮電鉄の線路図。 所蔵:国立公文書館

琴平参宮電鉄のいくつかの計画線のうち、戦後まで免許を持ち続けていたのが、坂出~下笠居~高松間の計画線です。この計画線はまず高松市中心部の五番町(五番丁)を起点とする高松~下笠居間4マイル60チェーン(約7.6㎞)が1926(昭和元)年5月に、続けて坂出~下笠居間7マイル36チェーン(約12㎞)が1927(昭和2)年9月に免許となりました。多度津線、坂出線と同様に、「鉄道」としての免許でした。

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琴平参宮電鉄株式会社線路図(計画線部分拡大) 所蔵:国立公文書館
多くの区間で国鉄線と並行した琴参電車ですが、この計画線の区間は国鉄線が大平山南側の讃岐府中を経由するのに対し、大平山の北側を経由する、現在の県道161号のようなルートが計画されていました。

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琴平参宮電鉄株式会社線路図(計画線部分拡大) 所蔵:国立公文書館
計画線は高松に近づくと現在の香西駅の北方で予讃線を越え、高松駅や築港ではなく、直接市内中心部へ乗り入れるルートが示されています。

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地方鉄道ヲ道路上二敷設ノ件 所蔵:国立公文書館
「鉄道」として免許を受けた延長線ですが、高松側の起点である高松市内五番丁付近は国道上の併用軌道として計画したようで、そのやりとりが残されています。上の地図でもわかる通り、「五番丁」で四国水力電気の軌道線(現在の高松琴平電鉄志度線が直通)に突き当たる形で終わっています。

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坂出白峯御陵口工事施工認可書類 所蔵:国立公文書館
高松延長線の免許から数年後に坂出から琴平を結ぶ琴平急行電鉄が開業します。琴急の坂出駅は国鉄線とは琴参の駅を挟んで南側に位置しましたが、琴参の坂出駅の東側を遮るように国鉄・琴急の連絡線ができ、琴参の高松延長線はこれを平面交差で越える予定だったようです。

この坂出~高松間の計画線は、一時は内燃動車の導入も計画され、戦後も鉄軌道廃止の話がでる昭和30年代まで免許が維持されていましたが、結局実現することなく終わりました。もしこの路線が戦前期に開業していたら、あるいは琴参電車のその後の運命は、変わっていたのでしょうか。

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星 晃さんが55年前に撮影された、RMライブラリー202巻『琴平参宮電鉄』の表紙写真の場所の現在。振り返ったところに多度津線の起点である多度津桟橋通駅があった。その先には昔も今も国鉄・JRの多度津工場がある。トンネルは道路に変わったが、電車が走っていたころの面影が今も残る。 2016.5.20 P:伊藤真悟

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RMライブラリー202巻では、香川県の坂出、丸亀、多度津、善通寺、そして琴平という、西讃の要所を結んだトロリーライン、琴平参宮電鉄について、宮武浩二さんがまとめられました。このなかでも触れられているように、琴平参宮電鉄にはいくつかの実現しなかった路線がありました。ここでは紙幅の都合で収録できなかった資料をご覧ください。

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讃岐電気軌道丸亀多度津間予測平面図 所蔵:国立公文書館
1922(大正11)年に申請されたこの路線は、琴平参宮電鉄開業時の起点であった丸亀・堀端付近を起点として、省線の山側を進み、多度津駅手前で省線を跨ぎ、浜多度津駅(旧多度津駅)への引き込み線(現在の多度津工場への引き込み線)に沿って後の多度津桟橋通駅付近に至る3マイル16チェーン(約5.1㎞)。社名は開業前の旧社名である「讃岐電気軌道」が書かれています。

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坂出琴平間線路予測縦断面図 所蔵:国立公文書館
琴参の路線全体をショートカットするようなこの路線は、1923(大正12)年に免許を得たものの失効、この図は1926(大正15)年の再度申請時のものです。ルートは異なるものの、後にこの区間を琴平急行電鉄が走り始めることになります。

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琴平鋼索鉄道予測平面図 所蔵:国立公文書館
こちらは参道沿いの土産物店からの猛反対に遭ったという、大正末期に計画された金刀比羅宮へのケーブルカーの平面図です。ちょうど参道を迂回するように曲線を描きながらの20チェーン(約402m)の路線が計画されていました。

つづく

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rainbowtower.jpg柳都・新潟のシンボル、レインボータワー。大榮車輌の受注実績では、昭和48年度に「新潟回転式展望台客室及び昇降フレーム一式製作据付」の記述が残る。 2014.11.28 P:伊藤真悟

 いささか前の話になるが、『大榮車輌ものがたり』を編集しているとき、気になったことがあった。大榮車輌が創業した場所のことである。
 大榮車輌は千葉県津田沼で長く操業し、後に宗吾参道に移転したことは広く知られているが、その創業は1946(昭和21)年、東京都城東区大島町3丁目245番地だという。城東区は現在の江東区の一部にあたるが、大島町3丁目245という地番は現在は存在しない。というわけで地元の図書館に出かけてみたのは、一昨年の暮れのことであった。
 明治以来の歴史があるという深川図書館に出かけてみると、館内の郷土資料室に1965(昭和40)年施行の住居表示の新旧対照案内図が保存されており、大島町3丁目245は、大島3丁目15番付近であることがわかった。そこは現在の都営新宿線西大島駅近く、あの竪川専用橋から続く都電29・38番の専用軌道沿い、かつての大島三丁目電停のすぐ近くだった。
 結構知られた場所じゃないか・・・と思いながら、資料を書棚に戻そうとすると、並びに昭和33年版の住宅案内図があった。大榮車輌は1952(昭和27)年には津田沼に本拠を移しているので関係ないか、と思いながら開いてみると・・・

「あっ・・・」

 そこには「志村」と書かれた、大きな区画が描かれていた。読まれた方ならご存知と思うが、大榮車輌の創業者は志村榮さんである。津田沼移転後も土地はそのままだったのか、あるいは地図の改訂が遅れていたのか、どちらにせよここが大榮車輌創業の地と考えてよいだろう。ちなみにあまり関係ないとは思うが、南側には国鉄千葉鉄道管理局大島寮と書かれている。oojima01.jpg新大橋通りから見た旧大島町三丁目方向。道路に挟まれた緑道が旧城東電車である都電29・38番の軌道跡。奥に見える城東郵便局が国鉄千葉鉄道管理局大島寮の場所で、大榮車輌はそのさらに奥に見えるマンションの向こう側あたりに位置していたはずだが・・・。 2014.12.6 P:高橋一嘉

 その足で現地に行ってみると、千鉄局大島寮があった場所は城東郵便局になっていたが、その北側の「旧245番地」付近は、完全に住宅街と化していた。jyoto2.jpg現地付近の案内図。 2014.12.6 P:高橋一嘉

 最後に、大榮車輌創業から1年余り後の1947(昭和22)年9月に撮影された大島町三丁目付近の空中写真を見てみよう。まだ焼け野原が広がるこの土地で、大榮車輌はスタートしたのである。20160927195425-f3ceb24a608196fd21dc1b21433d1d81944881e4.jpg米軍が1947(昭和22)年9月8日に撮影した東京都江東区大島町三丁目付近の空中写真。画面上東西に伸びるのが現在は暗渠となった竪川。左に南北に伸びるのが越中島貨物線。中央よりやや左下に見える交差点が現在の都営地下鉄西大島駅付近。そして、ほぼ中央を南北に伸びるのが、都電の軌道敷。まだ焼け野原が広がる荒涼とした土地に、小さな工場が建てられていることが判る。  国土地理院ウェブサイト(http://www.gsi.go.jp/)より

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