鉄道ホビダス

RMライブラリーの最近の記事

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DD13形重連の牽引で夏の館山を目指す153系臨時準急「汐風2号」。 1963年夏 上総湊ー竹岡 P:臼井茂信 RMライブラリー215『国鉄DD13形ディーゼル機関車(下)』より

RML215_H1.jpg今月のRMライブラリーは3巻にわたってお届けしてきた岩成政和さんによる『国鉄DD13形ディーゼル機関車』の完結巻となる下巻です。1958(昭和33)年に誕生したDD13形でしたが、蒸気機関車全廃という国鉄の大目標のもと、昭和40年代に入っても増備が進められ、1967(昭和42)年度製造の19'次車でついに総数416輌に達しました。
本来、DD13形は9600形が使用されていたような操車場での重入換は不向きとされ、駅構内や客車区などの入換えや小運転をその使命としていましたが、実際にはそれに留まらず、羽越本線などでは比較的長距離の本線貨物列車を牽引したり、只見線では客車列車の無煙化に用いられたり、郡山では操車場の入換えにも用いられる等、幅広い活躍を見せました。ただ、それらは来るべき電化や気動車化、あるいはDE10形が増備されるまでの中継ぎとして役割でした。

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寒地型の解説。一般に複雑な手すりが特徴とされるが、実はこれがない寒地型も存在する。また、スノープラウや旋回窓を装備して北海道に配置された一般型もあった。 RMライブラリー215『国鉄DD13形ディーゼル機関車(下)』より

このDD13形の歩みのなかで、知られざる部分が多いのが「寒地型」です。寒地型は15次車より設定されたものの、番代区分がないため、寒地型か否かは個々に見分けるしかありません。形状の大きな差は、台車横の空気溜が小さくして1・4位の運転室横に別の空気溜を納めた箱ができ、そこの手すりが複雑な形状になっていることです。そもそもこれは降雪時の融雪のために暖かい排気をブレーキシューや砂箱に導く為の配管を配置することに起因しているのですが、この融雪排気管を装着した姿というのはほとんど記録されていません。つまり、寒地型の寒地型たる最大の特徴が実はほとんど知られていないということになってしまったのです。さらに19次車では融雪排気管なしの寒地型が設定されますが、これは空気溜が一般型と同様になったため当然手すりも一般型と同じ形状となり、パッと見には一般型に見えるという、なんとも難解な存在となったのです。

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DD13形の改造の例。香椎区や直方区ではタブレットキャッチャーの取付けが行われ、授受時の衝撃に対応するため手すりも特徴あるものに変更された。この仕様は19'次車の直方区配置車では新製時から反映された。 RMライブラリー215『国鉄DD13形ディーゼル機関車(下)』より

本書では17次車から最後の増備となった19'次車までの解説とともに、製作輌数と重連型についての考察や、一見同じように見えるDD15形との関係、寒地型について解説。さらに後天的な改造などについても紹介するなど、国鉄DD13形の知られざる側面に光を当てます。DD13形が国鉄線上から消えて今年で30年。気がつけばDD13形が活躍した期間より長い時間が流れたことになります。この機会にぜひ、DD13形について振り返ってみてください。

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都電7000形引退。

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▲「ありがとう7000形イベント」で展示された7022、7002、そして7001。 2017.6.11 荒川車庫 P:RM(取材協力:東京都交通局)

 都電7000形の稼働車最後の1輌であった7022号車が6月10日をもって運用を終了し、翌11日には荒川車庫で「ありがとう7000形イベント」が開催され、多くのファンが別れを惜しんだ。
 7000形は形式としては1954(昭和29)年から製造されたが、現在の7000形は都電の大部分が廃止された後、3次車(1955~56年製)のうち荒川線に残った31輌を1977(昭和52)年から翌年にかけてワンマン・ステップレスの新造車体に更新したものである。

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▲7022の車内と運転台。車体はアルナ工機で新造されたものだが、旧車体から受け継がれたマスコンには日本車輌の鋳出文字が見える。 2017.6.11 荒川車庫 P:RM(取材協力:東京都交通局)

■新7000形登場のころ
7082.jpg 1977(昭和52)年秋のある日のこと、東池袋四丁目で電車を待っていると、珍しく6000形がやってきた。当時の荒川線の昼間は赤帯の7000形と7500形がほぼすべてであって、荒川線しか都電を知らない私は6000形を実際に見るのも乗るのも初めてであった。実は7000形の「工事」のために、この時期、6000形が昼間も活躍をしていたというのはずいぶん後で知ったことである。
 車掌さんの案内も気になり、後部に陣取って過行く線路を眺めていると、巣鴨新田を過ぎたあたりだろうか、続行の電車が見え隠れしているのに気づいた。ただ、遠くに見えるそれは、見慣れた7000形でも7500形でも、ましてや6000形でもない、見たこともない電車だった。恐る恐る車掌さんに尋ねると、数日前から動いている「新しい電車」だというではないか。正確に言えば更新車とは言え、ネットもなく予備知識などない時代、何かの本で7500形を"都電最後の新車"と書いてあったように覚えていたし、そのように理解していたから、大変驚いた。
 王子で降りて待っていると、まだ新幹線の高架もなく明るかった停留場に、ピカピカの「新」7000形が入ってきた。ベースこそ同じ黄色系ながら、直線基調に前面1枚窓の全く新しいデザインは、ただただ大変衝撃的であったのを、今でもはっきりと覚えている。
▲早稲田で折り返しを待つ旧車体の7087。この年の秋には新車体となり、車号は7030となった。 1977年夏 早稲田 P:高橋一嘉

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▲冷房改造前、まだビューゲル時代の7000形が並ぶ荒川車庫。偶然にも今回のお別れイベントで展示された7022と7002の姿が見える。 1989.3.21 荒川車庫 P:高橋一嘉
 何を大げさに、と思われるかも知れないが、当時は全国的に見ても路面電車の新造車体など、嵐電を除けば、もう10年間も途絶えており、まもなく京都市電も廃止と言われていたころのことである。

都電7000形の台車 D-20A

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東新潟港駅構内に設えられた小さな機関区に留置された元DD13形。少し前までは陽が射していたものの、駅舎でご挨拶しているうちに雨模様に...。後には"味タム"とヨ8000がポツンと留置されている。 1996.10 P:高橋一嘉

DD13形と言えば個人的に思い出すのが、新潟臨海鉄道への譲渡車です。ご存知のとおり、国鉄DD13形は1987年の国鉄分割民営化時、新会社に承継されることなく全廃されました。私鉄や専用線用として払い下げられたものの一部は現在も活躍していますが、こと前灯1灯の弱馬力型、それもイコライザー台車(DT105)装備の1〜5次車に限ると譲渡車は限られ、いわゆる「私鉄」へのものは新潟臨海鉄道DD55形のみでした。

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DD55 2(元DD13 71)。2端側から見た公式側。旋回窓にスノープラウと、寒地装備に身を固めているので、北国で使用されたものかと思ったら、現役時代は終始品川区の配置。寒地装備は転入時か転入後の改造であろう。 1996.10 P:高橋一嘉

DD02.jpgとは言え、DD55形が活躍していたのは、"新潟臨海鉄道"と言っても白新線黒山駅から伸びる自社線ではなく、上沼垂から分岐した貨物線の終点である東新潟港駅の入換業務でした。DD55形は2輌あり、1号機が元DD13 61、2号機が元DD13 71で、共に運転室の高さが変更された4次車ですが、メーカーは61号機が汽車、71号機が日車と分かれていました。この日見学させていただいたのは2号機で、すでにナンバープレートや社紋は外されていたものの、いわゆる"くたびれた"感じではありませんでした。

1端側から見た非公式側。こちらは助士側で旋回窓はない。両端には国鉄時代には撤去された折りたたみ式の赤色円盤が付けられているが、これは1号機にはなかったようだ。 1996.10 P:高橋一嘉

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構内西側には半年前の電化で姿を消した元八高線のキハ30 18+97が留置されていた。当時は「なんでこんなところに?」と思ったが、今回車号を調べてみると、18の方はその後会津鉄道のトロッコ列車になったそうで、隣接する新潟鐵工への入場待ちだったのだろう。1996.10 P:高橋一嘉

改めて当時の鉄道誌の記事を見直すと、DD55形はこの年に元DE10のDE65 3が入線して引退したようです。果たしていつ頃まで姿を留めていたのか...。それにしても、せっかく見学させていただいたのに、雨模様だったせいもあってか、DD13の台車をはじめ細部の写真を撮影しておらず、今考えると後悔しきりです。

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豪雪の只見線、蒸気ロータリーのキ621をプッシュするDD13 514。 1968.2.4 魚沼田中ー越後須原 P:佐藤道博 RMライブラリー214『国鉄DD13形ディーゼル機関車(中)』より

RML214_H1s.jpg今月のRMライブラリーは先月に引き続き岩成政和さんによる『国鉄DD13形ディーゼル機関車』の中巻です。DD13形は1958(昭和33)年から1967(昭和42)年にかけて実に416輌が製造されましたが、1961(昭和36)年登場の111号機では大きな変化を遂げます。エンジンが従来のDMF31S(370PS)からDMF31SB(500PS)に進化、これに合わせ冷却方式も変更されてボンネット天板部に送風扇を設置、さらに前灯もシールドビーム2灯化されました。強馬力型DD13の誕生です。一般に後期型と言われることも多いこの形態ですが、輌数はこれ以降の方が全体の7割以上を占めることになります。ちなみに強馬力型第1号の111号機は試作的要素も強く、従来公式側1セットのみであった運転台が非公式側にも設置されましたが、これは112号機では再び公式側のみに戻され、111号機も量産化改造ののちに新幹線用の912形に改造され、DD13形としては短命に終わりました。

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重連型と寒地用が設定された15次車。この15次車以降のDD13形は198輌で、全体数の5割弱を占めることになるが、なかでも15次車は64輌で次数別で最多の輌数となった。 RMライブラリー214『国鉄DD13形ディーゼル機関車(中)』より

誕生から毎年増備が続けられたDD13形ですが、1965(昭和40)年登場の15次車で重連総括制御を本格的に取入れた500番代が誕生します。さらに融雪排気管の取付けに対応した寒地型も設定され、一般非重連型、一般重連型、寒地非重連型、寒地重連型と4種に分かれることになりました。しかし、寒地型は番代区分がなされなかったため、非重連型0番代、重連型500番代それぞれの中に一般(暖地)用と寒地用が混在することになりました。さらに16次車ではDD51の成果を反映して歯車関係が一新され、既存機との互換性がなくなったため、非重連型は300番代、重連型は600番代となりました。

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歯車関係が一新された16次車。新潟地区には冬季のDD14補機用として多くの寒地用重連型が配置された。 RMライブラリー214『国鉄DD13形ディーゼル機関車(中)』より

本書中巻では7次車(111号機)から16次車(339号機・611号機まで)、次数別の変更点について、多くの写真とともに紹介するものです。なお、続く下巻では残る17次、18次、19次、19'次車の解説とともに、知られざる寒地型の解説、後天的改造などについて収録する予定です。どうぞお楽しみに。

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くりはら田園鉄道のラッチが出迎える「しばうら鉄道工学ギャラリー」の入口。頭上の標示はギャラリー前を通るゆりかもめの駅名標デザインに合わせたもの。なお、ギャラリー見学には、校舎正面エントラス横にある守警室での受付が必要となっている。 2017.5.9 P:RM

5月21日にオープンする芝浦工業大学「しばうら鉄道工学ギャラリー」の内覧会が去る9日に開催されました。この「しばうら鉄道工学ギャラリー」は、東京都江東区の新豊洲に完成した芝浦工業大学附属中学高等学校の新校舎内に設けられるもの。この附属中高の起源は1922(大正11)年に当時の鉄道省が設置した東京鉄道中学であり、もともと鉄道との縁が深い学校です(ちなみに鉄道中学設置の発案者は当時、経理課長だった後の国鉄総裁・十河信二氏だったそうです)。

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ガラスケースに展示された岸由一郎さんのコレクションの一部(上2段)。下段は方向幕等のメーカーである羽深製作所のコレクション。なお、展示コレクションは定期的な入れ替えが予定されている。 2017.5.9 P:RM

芝浦工業大学では、2013(平成25)年10月頃に学内図書館へ学外から多数の貴重な鉄道資料の寄贈の打診があり、それをきっかけに「図書館鉄道技術資料調査委員会」が設けられ、寄贈資料の受け入れの検討と収集・整理を行ってきました。これらの資料の中には、読者の方々にもおなじみの星晃さんや三谷烈弌さん、岸由一郎さんのコレクションも含まれています。今回、これらのコレクションの一部もこのギャラリーで公開されることになりました。これまで、故人となられた方のコレクションの散逸が心配されることがありましたが、こうした受け入れ体制が構築されることは大変意義深いことと言えましょう。

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展示準備中の車掌車のダルマストーブ(左)と、模型運転用の201系運転台(右)。運転台は実物の廃部品をもとにコンパクトに組み立てられたもの。 2017.5.9 P:RM

ギャラリー内には485系と115系の実物の腰掛やくりはら田園鉄道で使用された改札や通票閉塞器、車掌車のダルマストーブなども展示されるほか、1400冊の雑誌・書籍が閲覧可能となっています。なお、附属中高では鉄道研究部が活発に活動されており、ギャラリーの運用にも大いに関わることになるそうです。

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ギャラリー中央に配置されるブックヤード(本の操車場)。鉄道車輌型の本棚で線路上を移動でき、転車台も設けられている。背後に見えるリクライニングシートはクロハ481-3037のもの。 2017.5.9 P:RM

ギャラリーオープン日の5月21日にはオープニングイベントとして、図書館鉄道技術資料調査委員会副委員長であり、RMライブラリーの著者としてもおなじみの藤田吾郎教授による講演と、鉄道研究部による5インチゲージの乗車体験などが予定されています。また、7月22日には公開講座として「鉄道三昧スペシャル」(講師:三宅俊彦さん)、「今日は一日鉄道三昧」も予定されています(詳しくは下記WEB参照のこと)。ちなみに、校舎の前はかつて東京都港湾局の貨物線が伸びていた場所で、その路線図もギャラリー内に掲示されています。初夏の一日、豊洲・晴海周辺の散策と合わせて、ギャラリーを訪ねてみてはいかがでしょうか。

■しばうら鉄道工学ギャラリー
所在地:〒135-8139 東京都江東区豊洲6-2-7(有楽町線豊洲駅から徒歩7分、ゆりかもめ新豊洲駅から徒歩1分)
開館時間:火曜日~土曜日 10:00~12:30、13:30~16:00(最終受付は15:30)
休館日:毎週日曜日・月曜日、祝日 ※そのほか、学校行事などの都合により臨時休館することがあります。
詳しくは、WEBの開館カレンダーで確認のこと。
入場料:無料
WEB:http://www.shibaura-rtg.com

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旧・紀和町の中心、板屋にある紀和鉱山資料館。テントの下は蓄電池式電気機関車230号と軌道自転車。車輌の展示は館内・前庭に分かれているが、線路は扉を通じてすべて繋がっているのが楽しい。 2017.3 P:高橋一嘉

itaya02.jpg紀州鉱山の拠点であり、専用軌道の起点でもあった板屋には、いまも巨大な選鉱場の跡がその姿を留めていますが、そのほど近くには紀和鉱山資料館があります。
この鉱山資料館には、前庭から館内1階にかけて線路が敷設されており、前庭には電気機関車610号とA型客車、鉱車、それに蓄電池式電気機関車230号が、また館内には蓄電池式電気機関車229号、415号、D型客車、鉱車などが展示されています。もちろん、軌道関係以外にも多数の貴重な資料も展示されており、訪問の際には必見の施設と言えましょう。

電気機関車610号の小さな運転室内をのぞくと、大きな直接制御のマスコンと、ブレーキハンドルが並ぶ。空制はなく、制動はブレーキハンドルだけが頼り。 2017.3 P:高橋一嘉

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鉱山資料館の前庭に展示された日立製作所製の電気機関車610号(左)と鉱車(右)。 2017.3 P:高橋一嘉

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8人乗りのB型客車。無双窓の引き違いは残念ながら固定されている。 2017.3 P:高橋一嘉

さて、この地を訪ねるにあたって一番気になっていたが、客車列車の終着駅であった惣房駅の跡です。実は今の時代は恐ろしいもので、惣房駅付近もgoogleストリートビューで見られるようになっているのですが、画面上ではどうも駅があった位置がよく判りません。とにかくここまで来たら見なければ...と山道を南へ向いました。

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惣房駅跡。高さは違うが、表紙写真に似た角度で撮影しているはずである。下に見えるコンクリ製の擁壁の奥に湯ノ口へ続く隧道が眠っている。 2017.3 P:高橋一嘉

sobo02.jpgはたしてたどり着いた惣房駅の跡は、面影を留めない変わりようでした。猫の額のような構内は県道の拡幅用地として埋め立て・嵩上げされたようで、隧道の坑口だけがコンクリートの擁壁に護られるように口を開けています。隧道は湯ノ口への6号と八光への8号の2つの坑口があったはずですが、入口は一つのみ。二つをまとめたのか、それとも片方は閉塞してしまったのか...。軌道が渡っていた吊り橋も消え、ケーブルのようなもののみが対岸に渡されてます。少し先の惣房の集落近くにあった吊り橋も通行禁止になっており、三和鉱山の施設があったという対岸に渡る術はないようでした。(おわり)
惣房の集落、21頁左中段の写真の場所の現在。この先にあった惣房会館の付近まで軌道は伸びていた。 2017.3 P:高橋一嘉

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威容を留める板屋選鉱場跡。左下に見えるのが1号隧道で、その手前に駅舎やホームがあった。隧道内には小口谷に続く線路が今も残っている。 2017.3 P:高橋一嘉

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山手線恵比寿のサッポロビール専用線で入換中のDD13 61〔品〕。現在、高層ビルが建ち並ぶ一角の約半世紀前。

1961.5.6 恵比寿 P:久保 敏 RMライブラリー213『国鉄DD13形ディーゼル機関車(上)』より

今月のRMライブラリーは岩成政和さんによる『国鉄DD13形ディーゼル機関車』の上巻をお届けします。
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DD13形は1958(昭和33)年に1号機が登場した液体式ディーゼル機関車です。国鉄では当時、すでに幹線用のディーゼル機関車としてDF50形の量産が始まっていましたが、これは海外製機関を国内でライセンス生産して発電用機関として搭載した電気式でした。国鉄では並行して純国産機関による液体式ディーゼル機関車の開発を各メーカーとともに進めており、その結果、まず入換・小運転を主目的に誕生したのがDD13形でした。

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DMF31S機関2基を搭載したDD13形。110号機までは1基370PSであったが、111号機以降では500PSのDMF31SBとなった。 RMライブラリー213『国鉄DD13形ディーゼル機関車(上)』より

国鉄は1954(昭和29)年に気動車用のDMH17系機関を搭載した液体式のDD11形を完成させていましたが、これは入換・小運転用としてもあまりに非力なもので、用途が限定されるものでした。DD13形は入換のみならずある程度の本線運用にも使用できるよう設計され、機関は戦前にキハ43000用として開発された機関をベースとした新系列機関DMF31Sを開発、海外ライセンスによる液体式変速機DS1.2/1.35を組み合わせました。こうして完成したDD13形は、無煙化という時代の要請と相まって、改良を重ねつつ約10年にわたって増備が続けられ、その総数は実に416輌に達したのです。

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1次車は都心での運用のため特に無煙化の要請が強かった品川機関区に集中配置された。 RMライブラリー213『国鉄DD13形ディーゼル機関車(上)』より

本書はこれらDD13形について3分冊で紹介するものです。上巻では誕生の時代背景とその概要から紐解き、続いて1〜6次車の弱馬力型の製作次数別の変化について、多くの資料と写真とともに解説します。
国鉄時代、それこそ日本全国に配置され、そこかしこに当たり前のようにいたDD13形ですが、国鉄消滅とともに国鉄線上からひっそりと姿を消して早30年。この機会に、知っているようで意外と知らなかったDD13形について振り返ってみてはいかがでしょうか。

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専用軌道の現役当時から活躍する日本輸送機製の4t蓄電池式電気機関車414号。 2017.3 P:高橋一嘉

bl4t002.jpg紀州鉱山専用軌道の現役当時はパンタグラフ集電の電気機関車が鉱石列車・客車列車とも牽引の主力でしたが、トロッコ電車となった現在は架空線が撤去され、蓄電池式電気機関車が牽引します。主に使用されるのは日本輸送機製の4t機(現役当時の414号)で、湯ノ口温泉行の場合が前向き(バッテリーが前)となります。
4t蓄電池式電気機関車を俯瞰する。瀞流荘行がバック運転になる。 2017.3 P:高橋一嘉

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客車。窓は現役当時のガラスを使用しない"無双窓"から引き違いのガラス窓となり、妻面にもガラス窓が設けられている。 2017.3 P:高橋一嘉

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客車のうち2輌は屋根が深いもので、こちらは妻の筋交いがない。コードは照明用のもので機関車と接続される。 2017.3 P:高橋一嘉

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客車の車内。左は屋根が浅いもので、車内は白塗り、現役当時と同じく妻側にも腰掛がある。右は屋根が深いもので、車内がニス塗りとなり、腰掛は両サイドのみ。 2017.3 P:高橋一嘉

客車は現役当時のB型客車に近いものですが、ガラスを一切使用しない"無双窓"ではなく、引き違いのガラス窓となり、妻部や扉にもガラス窓が設けられています。足回りは現役当時と同じくサスペンションの類はないようですが、今は軌道の状態も良いのか、「筆舌に尽くし難い」というほど悪い乗り心地ではないように思えます。現役当時にはなかった照明設備と、腰掛座面にフトンがあるのも気分的にはずいぶん違うのかも知れません。(つづく)

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車庫の中にいた予備の2t機(現役当時の231号)と全鋼製(?)客車。2t機は竪坑ケージに載せることを考慮した、運転席部分を折り畳める構造。 2017.3 P:高橋一嘉

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紀伊半島の懐深く、バッテリー機関車が牽かれて5号隧道を行く。紀州鉱山専用軌道は今も生きている。 2017.3 P:高橋一嘉

kishu03.jpgRMライブラリー212巻では名取紀之・元編集長による『紀州鉱山専用軌道』をお届けしました。その中でも紹介されている通り、紀州鉱山は1978(昭和53)年に閉山しましたが、閉山直後の調査で長らく途絶えていた温泉が湧出、その後、鉱山施設跡地に観光施設が整備され、残されていた軌道が「トロッコ電車」として活用されることになりました。そのため、一部区間とは言え、紀州鉱山専用軌道は今も体験することができるのです。閉山から39年目の春を迎える熊野市紀和町を訪ねてみました。
瀞流荘(旧・小口谷)駅で発車を待つ列車。先頭のバッテリー機関車は現役当時からの414号機。現役当時は主要区間は電化されていたが、現在は架空線は撤去されている。 2017.3 P:高橋一嘉

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湯ノ口温泉駅を俯瞰する。奥に口を開けるのは惣房まで約3kmという6号隧道。今は列車の運行はないが、隧道内へ線路が続いている。手前の分岐は機関車の付け替え用ですぐ右で行き止まりである。 2017.3 P:高橋一嘉

kishu05.jpg現在、トロッコ電車として軌道が運行されている区間は瀞流荘(旧・小口谷)〜湯ノ口温泉(旧・湯ノ口)間約1kmです。瀞流荘は旧・小口谷駅の構内にできた温泉ホテルで、熊野市からバスで約50分(1日5往復)、阿田和から約40分(1日4往復)と山間部ながら交通の便は悪くありません。瀞流荘駅はホテルの裏手にあり、事務所・出札口・待合室などがある木造駅舎と、立派な屋根付きのホームがあります。
瀞流荘駅からトロッコ電車の運行には使用されていない板屋への2号隧道を見る。こちらも線路は残されており、予備の客車と黄色いバッテリー機関車の姿が見える。2017.3 P:高橋一嘉

kishu04.jpg現役時代と同じ川の上に位置する湯ノ口温泉駅。現役当時、機関車の修理工場などが並んでいた手前の谷は湯ノ口温泉の入浴施設やバンガローが並ぶ保養地に変貌している。 2017.3 P:高橋一嘉

一方の湯ノ口温泉は旧・湯ノ口駅構内の跡にできた入浴施設で、湯治客のためのバンガローなども整備されています。近年になって改築されたきれいな施設で、鉱山時代の面影は感じられませんが、トロッコ電車のホームは5号隧道と6号隧道の間のわずかな橋梁の上という、現役時代と同じ場所にあります。ちなみにここにはバスの便はなく、山道を自動車で来なければトロッコ電車で来るしかないという場所です。(つづく)

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ぼんやりと白熱灯が灯る客車の車内。もっとも、現役当時にはこの白熱灯もなかったそうで、隧道内では真っ暗だったそうだ。 2017.3 P:高橋一嘉

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鉱石運搬とともに地域の交通手段でもあった紀州鉱山専用軌道。国鉄線との接続はなく、紀勢本線の阿田和駅からバスで1時間余という紀伊半島の山中に位置した。

 今月のRMライブラリーは名取紀之・元RMライブラリー編集長による『紀州鉱山専用軌道-その最後の日々-』です。鉱山専用軌道というと、採掘現場までの坑道の中を走るトロッコをイメージされる方がおられると思いますが、この軌道は地域の交通手段としての側面も持つものでした。

RML212H1s.jpg 紀州鉱山は紀伊半島の山中、奈良・和歌山との県境に近い三重県牟婁郡紀和町(現・熊野市紀和町)にあり、銅を産出していました。この鉱山は、町内にいくつかの拠点と鉱区があり、本部・選鉱場があった板屋を起点に、拠点や鉱区を結ぶ軌道網が整備されており、1968(昭和43)年時点での坑内外軌道総延長は73.8kmにもおよんでいたといわれます。この軌道の主目的は言うまでもなく鉱区から選鉱場まで鉱石を運ぶことでしたが、その合間を縫うように客車(人車)列車も運転されていました。

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機関庫や機関車の整備工場などがある軌道の拠点であった湯ノ口。閉山後、この付近は湯ノ口温泉の入浴施設となり様変わりしたが、ここから小口谷までの軌道は観光トロッコ列車として活用され、駅ホーム付近は面影を残している。

mapA3.jpgこの軌道のなかでも本線的な存在であったのが、板屋~小口谷~湯ノ口~惣房間の約5.5kmでした。惣房とは戦前の紀州鉱山の中核をなした三和鉱山の本拠地でしたが、山中のため現在の県道780号が整備されるまで効率的な輸送手段は軌道のみという地区でした。このため、この「本線」で運転される客車列車には惣房に住む関係者やその家族のみならず、来訪者も便乗が認められていました。1978(昭和53)年の閉山とともに軌道の運行も終了しましたが、その後、湯ノ口地区で温泉が湧出したことで、湯ノ口と小口谷が観光地として整備され、この区間の軌道が復活し、現在も現役当時からのバッテリー機関車によるトロッコ列車が運行されているのはご存知の方も多いのではないでしょうか。
1978年当時の紀州鉱山専用軌道の概念図。太線の区間が便乗可能な客車列車が運行されていた「本線」。破線区間はすでに閉鎖されていた。

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客車群は皆、ガラスをいっさい使用しない「無双窓」をもつ独特のもので、小口谷の工場で製造されたものであった。

 名取さんが現地を訪ねたのは閉山間際の1978(昭和53)年3月のこと。この時、3日間にわたって現地で調査・記録され、この記録をベースに、その沿革などを含めてまとめられたのが本書です。ちなみに、タイトルに「ついに」と書きましたが、実は本書はRMライブラリーのスタート当初に製作着手しながら、実現することなく今日まだ温められていたもので、企画自体はRMライブラリーのスタート以前からあったそうです。正に満を持しての刊行、ぜひご覧ください。

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新築の市役所をバックにゴロゴロと走る燕行きモハ16。AB型のスバルレオーネも懐かしい。場所は鐘淵小学校の入口付近。鐘淵小学校は1951年まで初代・白山駅があった場所である。 1989.9 P:高橋一嘉

日車標準型ばかりの新潟交通電車線の電動車にあって、唯一小田急HB車の車体で更新されたのがモハ16であった。

niigata03b.jpg元小田急1400形の武骨な車体に、華奢な印象のブリルのMCBがちょっとアンバランスだったが、併用軌道を走る姿は被写体としては実に魅力的だった。それにしても、他は電動車=新造車体、制御車=中古車体で統一されたのに、なぜこの車だけ例外だったのだろうか。

上の写真から27年後、青山行き快速の連節バスが走る。手前に見えるのは白山浦のバス停。 2016.9 P:高橋一嘉

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越後線白山駅(二代)入口の交差点付近を走る白山前行きのモハ16。 1989.9 P:高橋一嘉

niigata04b.jpgところで、80年代、何度かの新潟行でちょっと気になったは、一部のバスに正面に取り付けられた「銀太郎」という表示だった。新しめのバスに付いていたから愛称なのかな、とは思ったが...。今回、正面に赤い「BRT」の表示を付けて走る銀色のバスを見て、あの「銀太郎」の表示を思い出した。

27年後、左側(南側)の家並が消えたせいか、印象がずいぶん違う。このバスは各駅停車で、いったん白山駅に寄るが、快速便はかつての電車と同様に素通りする。2016.9 P:高橋一嘉

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菅原神社の入口付近を走る燕行きのモハ16。自転車屋さんとパン屋さんが実に良い雰囲気だった。 1987.5 P:高橋一嘉

niigata05b.jpg今回訪れる際に一番気になったのは、白山駅の先、菅原神社の入口にあった自転車店の場所だった。最初にこの電車線を訪れた際、ここで撮ろうと決めていたのだが、朝、白山前で止まっているモハ16をみかけ、ここまで駆け足で移動してきた。今回訪れてみると、白山前から案外距離があったことに驚かされた。

29年後、自転車屋さんもパン屋さんも消え、すっかり様変わりした。旧景にあった参道の案内も消えていたが、奥の神社は変わらず、秋まつりだろうか、お神輿が見えた。 2016.9 P:高橋一嘉

電車線はこの先で越後線のガードを潜っていたが、なぜかそこでは撮影していないので、軌道線の記録はここでおしまいである。モハ16とは巡り合わせが良かったが、今回、再訪のきっかけとなった電車色のバスは、結局見ることはできなかった。 

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白山前で発車を待つクハ45+モハ25の燕行き。駅舎と好一対だった県庁は姿を消し、完成したばかりの新潟市役所が見える。 1989.9 P:高橋一嘉

早いもので新潟交通白山前-東関屋間の廃止から今月で25年が経つことになる。あの駅舎と、併用軌道をゴロゴロと走る小田急HB車の車体を持った電車こそ、遠来のファンにとっては新潟交通を象徴する姿だったと思う。昨年、往年の電車色のバスが登場したと聞き、久方ぶりに白山浦界隈を訪ねてみた。
 
niigata00b.jpg白山前のあの駅舎のあった場所は、道路の形状が変わり、歩道橋もなくなってしまったため同じ場所に立つことはできなくなっていた。バスは電車がくぐっていた市役所(旧県庁)の渡り廊下の下にできた、立派なバスターミナルに発着しており、時折、真っ赤な連節バスが姿を現していた。

駅舎は姿を消し、道路の形状も変更された白山前駅跡。歩道橋もなくなったので、ほぼ同じ角度の地上から見る。 2016.9 P:高橋一嘉

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白山前を発車する白根行きのモハ19。この時は県庁跡はまだ更地だった。 1987.5 P:高橋一嘉

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モハ19とほぼ同じ場所を青山に向かうバス。ほぼ同じアングルのはずだが...。 2016.9 P:高橋一嘉

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県庁を過ぎ、道幅が狭くなった白山浦一丁目付近を東関屋方面に向うモハ24の後ろ姿。なぜか行き先板がない。 1987.5 P:高橋一嘉

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上の写真から29年を経た白山浦一丁目。旧景に見えるバス停がなくなっている。旧景と同じ建物が散見されるが、駐車車輌が目に見えて少なく、軒先の看板も少なくなったようだ。 2016.9 P:高橋一嘉

実は個人的には、朝夕のみ運転されていた元小田急の2220形が一番見たい電車だったのだが、数回の訪問時にはいつも検査中だったり、入場中だったりで、結局併用軌道を走る姿を見ることは叶わなかった。

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三滝-安芸長束間の旧線を行く可部線電車。横川~安芸長束間は太田川放水路建設のため、この年に新線に切り替えられた。 1962.9.30 P:長船友則

 今月のRMライブラリーは長船友則さんによる『可部線 波乱の軌跡』です。可部線と言えば、間もなく可部~あき亀山間がJRの廃止路線として初めて復活、電化延伸開業しますが、その開業からの100年以上にわたるあゆみは、実に波乱にとんだものでした。

RML211H1s.jpg 可部線の起源は、1906(明治39)年11月、広島軌道という軽便軌道の特許に始まります。この軌道特許申請は、かの雨宮敬次郎らによるもので、開業前の1908(明治41)年には雨宮が経営に関与していた他の7社と合同して大日本軌道株式会社が設立され、1909(明治42)年12月19日、大日本軌道広島支社として横川~祇園間が開業しました。開業時は762mm軌間、非電化で、雨宮鉄工所製の小型蒸気機関車(いわゆる"へっつい")が客車1輌のみを牽引するものでした。1911(明治44)年には可部まで開業しますが、その全通を見ることなく、同年のはじめには雨宮敬次郎が死去、さらに後を継いだ雨宮亘も1918(大正7)年に死去したこともあり、大日本軌道広島支社は1919(大正8)年、可部軌道として独立しました。

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可部線の原点は"へっつい"が牽く軽便軌道。左下写真は軽便時代の梅林駅で、電車が行きかうようになった今も道路沿いの位置関係やはるかに見える中国山地の山並みは変わりない。

 この頃になると小型の蒸気機関車が牽く軽便軌道は、地元新聞でも時代遅れと酷評されるようになり、1924(大正13)年には電力会社の広島電気が可部軌道に出資、その後1926(大正15)年1月には広島電気が可部軌道を吸収する形で合併。これにより改軌・電化が本格的に進められ、1928(昭和3)年から1930(昭和5)年にかけて軌間1067mm、600V電化の路線に改められ、横川付近など一部区間は経路も変更されました。そして1931(昭和6)年には広島電気の全額出資により広浜鉄道株式会社が設立されました。このように特許申請からの26年の間に、実に4回も事業者名が変わりました。しかし、これも長くは続かず、1936(昭和11)年9月、広浜鉄道は国有化され、鉄道省可部線となりました。これが現在も運転されている可部線横川~可部間です。

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1954年には加計までが開業。当初は旅客列車も蒸機牽引であったが、間もなく旅客列車にはキハ41000形も投入された。

 一方、鉄道省では明治期からすでに広島と浜田を結ぶ鉄道の計画を持っており、広島側からの工事線は本郷線の呼称で広浜鉄道買収前から準備が進められ、買収直後の1936(昭和11)年には可部~安芸飯室間が開業。1946(昭和21)年に布、1954(昭和29)年に加計と延伸し、1969(昭和44)年には三段峡までが開業しました。さらに残る浜田までの工事も着工し、隧道や橋梁など一部は実際に姿を現しはじめていましたが、1980(昭和55)年、国鉄再建法により工事は凍結され、陰陽連絡の夢は中国山地の半ばで途絶えてしまいました。そして、残された非電化区間の可部~三段峡間も2003(平成15)年に廃止されたのはご存知の通りです。

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1969年には三段峡までが開業。可部~三段峡間は本郷線として建設されたが、開業時には可部線に編入された。また、浜田~三段峡間の工事線名は今福線であった。

 本書は、広島軌道の特許から、改軌・電化、国有化、非電化区間の延伸から廃止、そして間もなく予定される延伸開業まで、110年余にわたる可部線のあゆみをまとめたものです。長船さんは本シリーズでもこれまで『呉市電の足跡』『宇品線 92年の軌跡』と地元広島の鉄道に関する研究を発表されていますが、今回は可部線が一部とはいえJRの廃止路線で初めて復活するのを機会に、これまでの実に波乱に富んだあゆみを振り返ってみたいとまとめられたものです。ぜひ、お手に取ってご覧ください。

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1970年の全廃までトロリーバスの営業所が併設されていた守口車庫。 P:宮武浩二

20170123182439-3dff5b384f8e8b36b04565edbe62bb977fbffbb4.jpg大阪のトロリーバスで2番目、1957(昭和32)年に開業したのは守口車庫前~今里間の3系統(第2・3号線)で、当初は最初の開業区間である大阪駅前~神崎橋間の1系統(第1号線)とは全く接続しない路線でしたが、3年後の1960(昭和35)年に森小路町一丁目~大阪駅前間(第2号線)が開業し、両線が結ばれて守口車庫前~神崎橋間の2系統の運行も開始されました。第3号線の起点であり、基地でもあった守口車庫には、今も市バスの営業所がありますが、トロリーバスゆかりの建物は残っていません。

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阿倍野北操車場横に残る架線柱(上)と天王寺駅前に残る架線柱の切株(下)。 P:宮武浩二

abeno2.jpg3番目に開業したのが新深江~今里~大池橋~阿倍野橋(天王寺駅前)の第4号線です。阿倍野橋には駅前に切り倒された架線柱の跡が、また市バス阿倍野北操車場横にも架線柱が1本残っています。その阿部野橋への入り口、ループ線の分岐点であった寺田町交差点は、輻輳していた架線も昔話で、現在は市電の跡もトロリーバスの跡もありません。

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上)今も市バス「杭全」(くまた)バス停として残る第3号線杭全町転回地。トロリーバス廃止から19年後に関西本線東部市場前駅が近くに開業した。 P:宮武浩二 下)架線柱が道路信号用として残る新喜多大橋。 P:宮武浩二(車中より撮影)

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市電の代替であった第8・9号線の開業を経て、大阪市営トロリーバス最後の開業区間となったのが第3号線の延長区間であった田島町四丁目~杭全町間です。1962(昭和37)年のこの開業は新喜多大橋の架け替えを待ったものでしたが、その新喜多大橋にも1本のみ架線柱が残っています。
終点であった杭全町はトロリーバス時代と同じく市バスの転回地として使用されており、ここが一番面影が残る場所と言えるかもしれません。
用地の形が残ることが多い新設軌道の鉄軌道と違って、その面影を辿るのが難しいトロリーバスですが、廃止後47年経たことを考えれば、大阪のトロリーバスの遺構はよく残っている方といえるのではないでしょうか。

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今も変わらぬ威容を誇る十三大橋。1932年完成からの85年間のうち、ここを無軌条電車が走ったのはわずか16年のみであった。 P:宮武浩二(車中より撮影)

20170123182439-3dff5b384f8e8b36b04565edbe62bb977fbffbb4.jpg47年前に廃止された大阪市営のトロリーバスについて解説したRMライブラリー第210巻『大阪市営無軌条電車のあゆみ』は、発売より大変ご好評いただいておりますが、著者の宮武浩二さんより、その遺構について写真をお寄せいただきましたので、ご紹介いたします。この遺構については3年前の2013年3月に「編集長敬白」でもご紹介しておりますので、合わせてご覧下さい(一部の写真は重複します)。

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新淀川手前の中津浜交差点。この付近では両側に架線柱が残っており、利用されている。 P:宮武浩二(車中より撮影)

大阪市営の無軌条電車で最初に開業した路線は、大阪駅前〜神崎橋間の第1号線でした。以前、編集長敬白でご紹介した際には、大阪駅前にドイツ・マンネスマン社製の架線柱が残っていることを紹介しましたが、残念ながらその後撤去されてしまいました。中津浜から十三にかけては道路両側に架線柱が残っており、十三大橋も無軌条電車があったころのままです。

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架線柱が両側に残る北方貨物線跨線橋。上を通る山陽新幹線は無軌条電車廃止時にはまだ工事中だった。 P:宮武浩二

田川通〜三津屋間の跨線橋も両側に架線柱が残っています。ここはJR線(北方貨物線)の上に道路、そしてさらにその上に新幹線の高架がある、交通の要所でもあります。

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面影を残さぬ終点・神崎橋。営業所内の架線が張り巡らされた光景を知る人ももういない。 P:宮武浩二

そして無軌条電車開業時に営業所が開設された神崎橋は、長らく市バスの転回地として残っていましたが、市バス路線の再編成により敷地は売却され、現在は医療関係のビルが建っています。残念ながら大阪におけるトロリーバスの発祥の地を示すものはなにもありません。(つづく)

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▲緑橋交差点を南へ、第3号線を今里方向へ進む237号。 1970.6.14 P:今井啓輔(RMライブラリー『大阪市営無軌条電車のあゆみ』より)

 今月のRMライブラリーは、荻野 基さん、宮武浩二さんによる『大阪市営無軌条電車のあゆみ』をお届けします。

20170123182439-3dff5b384f8e8b36b04565edbe62bb977fbffbb4.jpg 現在では立山黒部アルペンルートの2箇所のトンネルバスのみとなった無軌条電車(トロリーバス)ですが、日本におけるそのはじまりは1928(昭和3)年、阪急宝塚線(旧)花屋敷駅と新花屋敷の間に開設されたものです。都市交通としてのそれは、4年後の1932(昭和7)年に京都市で開業、戦後の一時期は路面電車に代わる交通手段として注目され、川崎、東京、大阪、そして横浜で相次いで開業しました。しかし、自動車の激増により交通渋滞が深刻化すると、路面電車と同様に運行に支障をきたすようなったのに加え、ディーゼルエンジンのバスが大型化したこともあり、昭和40年代には都市部から全て姿を消しました。

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▲開業時に用意された1形(のちの100形)は日野製の走行装置に川崎航空機製のモノコック車体、GE製の主電動機、制御装置を組み合わせたものであった。(RMライブラリー『大阪市営無軌条電車のあゆみ』より)

 大阪市の無軌条電車は戦前にも計画はあったものの、具体化したのは戦後で、1953(昭和28)年、まず大阪駅前から東淀川区の神崎橋までの第1号線が開業しました。その後、東は守口車庫前、南は阿倍野橋、西は玉船橋と路線を伸ばし、一部路面電車を置き換えも含め、1962(昭和37)年の杭全町開業時には路線長は37.9kmにおよびました。車輌も3形式134輌に成長し、路線長、車輌数ともに日本の無軌条電車としては最大規模のものとなりました。

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▲大阪市営無軌条電車の概念図。(RMライブラリー『大阪市営無軌条電車のあゆみ』より)

 しかし、最盛期は長くは続かず、1965(昭和40)年には地下鉄建設のため新深江〜今里間が休止となりました。そして市電の廃止が本格化すると、変電所を共用していた無軌条電車もその存廃が問われるようになり、1969(昭和44)年から1970(昭和45)年にかけて3段階に分け廃止され、大阪の街から無軌条電車は姿を消したのです。

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▲200形と300形は並行して計126輌が製造された。形式の区別は走行装置によるもので、200形が三菱製、300形が日野製であった。車体製造者は当初の川崎航空機、富士重工に加え、後に鉄道車輌メーカーであるナニワ工機、近畿車輌、東急車輌、帝国車輌、そして大阪車輌製造も加わり、計7社にも及んだ(RMライブラリー『大阪市営無軌条電車のあゆみ』より)

 本書は、これまで語られることの少なかった大阪市営の無軌条電車の消長と、そこを走った3形式134輌の車輌群について解説するものです。路面電車に比べ注目されることも少なく、静かに消えていった無軌条電車の姿を振り返る一冊、ぜひお手に取ってご覧下さい。

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右側半分以上を計画線(免許線)である坂出~高松間が占めた琴平参宮電鉄の線路図。 所蔵:国立公文書館

琴平参宮電鉄のいくつかの計画線のうち、戦後まで免許を持ち続けていたのが、坂出~下笠居~高松間の計画線です。この計画線はまず高松市中心部の五番町(五番丁)を起点とする高松~下笠居間4マイル60チェーン(約7.6㎞)が1926(昭和元)年5月に、続けて坂出~下笠居間7マイル36チェーン(約12㎞)が1927(昭和2)年9月に免許となりました。多度津線、坂出線と同様に、「鉄道」としての免許でした。

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琴平参宮電鉄株式会社線路図(計画線部分拡大) 所蔵:国立公文書館
多くの区間で国鉄線と並行した琴参電車ですが、この計画線の区間は国鉄線が大平山南側の讃岐府中を経由するのに対し、大平山の北側を経由する、現在の県道161号のようなルートが計画されていました。

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琴平参宮電鉄株式会社線路図(計画線部分拡大) 所蔵:国立公文書館
計画線は高松に近づくと現在の香西駅の北方で予讃線を越え、高松駅や築港ではなく、直接市内中心部へ乗り入れるルートが示されています。

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地方鉄道ヲ道路上二敷設ノ件 所蔵:国立公文書館
「鉄道」として免許を受けた延長線ですが、高松側の起点である高松市内五番丁付近は国道上の併用軌道として計画したようで、そのやりとりが残されています。上の地図でもわかる通り、「五番丁」で四国水力電気の軌道線(現在の高松琴平電鉄志度線が直通)に突き当たる形で終わっています。

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坂出白峯御陵口工事施工認可書類 所蔵:国立公文書館
高松延長線の免許から数年後に坂出から琴平を結ぶ琴平急行電鉄が開業します。琴急の坂出駅は国鉄線とは琴参の駅を挟んで南側に位置しましたが、琴参の坂出駅の東側を遮るように国鉄・琴急の連絡線ができ、琴参の高松延長線はこれを平面交差で越える予定だったようです。

この坂出~高松間の計画線は、一時は内燃動車の導入も計画され、戦後も鉄軌道廃止の話がでる昭和30年代まで免許が維持されていましたが、結局実現することなく終わりました。もしこの路線が戦前期に開業していたら、あるいは琴参電車のその後の運命は、変わっていたのでしょうか。

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星 晃さんが55年前に撮影された、RMライブラリー202巻『琴平参宮電鉄』の表紙写真の場所の現在。振り返ったところに多度津線の起点である多度津桟橋通駅があった。その先には昔も今も国鉄・JRの多度津工場がある。トンネルは道路に変わったが、電車が走っていたころの面影が今も残る。 2016.5.20 P:伊藤真悟

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RMライブラリー202巻では、香川県の坂出、丸亀、多度津、善通寺、そして琴平という、西讃の要所を結んだトロリーライン、琴平参宮電鉄について、宮武浩二さんがまとめられました。このなかでも触れられているように、琴平参宮電鉄にはいくつかの実現しなかった路線がありました。ここでは紙幅の都合で収録できなかった資料をご覧ください。

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讃岐電気軌道丸亀多度津間予測平面図 所蔵:国立公文書館
1922(大正11)年に申請されたこの路線は、琴平参宮電鉄開業時の起点であった丸亀・堀端付近を起点として、省線の山側を進み、多度津駅手前で省線を跨ぎ、浜多度津駅(旧多度津駅)への引き込み線(現在の多度津工場への引き込み線)に沿って後の多度津桟橋通駅付近に至る3マイル16チェーン(約5.1㎞)。社名は開業前の旧社名である「讃岐電気軌道」が書かれています。

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坂出琴平間線路予測縦断面図 所蔵:国立公文書館
琴参の路線全体をショートカットするようなこの路線は、1923(大正12)年に免許を得たものの失効、この図は1926(大正15)年の再度申請時のものです。ルートは異なるものの、後にこの区間を琴平急行電鉄が走り始めることになります。

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琴平鋼索鉄道予測平面図 所蔵:国立公文書館
こちらは参道沿いの土産物店からの猛反対に遭ったという、大正末期に計画された金刀比羅宮へのケーブルカーの平面図です。ちょうど参道を迂回するように曲線を描きながらの20チェーン(約402m)の路線が計画されていました。

つづく

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rainbowtower.jpg柳都・新潟のシンボル、レインボータワー。大榮車輌の受注実績では、昭和48年度に「新潟回転式展望台客室及び昇降フレーム一式製作据付」の記述が残る。 2014.11.28 P:伊藤真悟

 いささか前の話になるが、『大榮車輌ものがたり』を編集しているとき、気になったことがあった。大榮車輌が創業した場所のことである。
 大榮車輌は千葉県津田沼で長く操業し、後に宗吾参道に移転したことは広く知られているが、その創業は1946(昭和21)年、東京都城東区大島町3丁目245番地だという。城東区は現在の江東区の一部にあたるが、大島町3丁目245という地番は現在は存在しない。というわけで地元の図書館に出かけてみたのは、一昨年の暮れのことであった。
 明治以来の歴史があるという深川図書館に出かけてみると、館内の郷土資料室に1965(昭和40)年施行の住居表示の新旧対照案内図が保存されており、大島町3丁目245は、大島3丁目15番付近であることがわかった。そこは現在の都営新宿線西大島駅近く、あの竪川専用橋から続く都電29・38番の専用軌道沿い、かつての大島三丁目電停のすぐ近くだった。
 結構知られた場所じゃないか・・・と思いながら、資料を書棚に戻そうとすると、並びに昭和33年版の住宅案内図があった。大榮車輌は1952(昭和27)年には津田沼に本拠を移しているので関係ないか、と思いながら開いてみると・・・

「あっ・・・」

 そこには「志村」と書かれた、大きな区画が描かれていた。読まれた方ならご存知と思うが、大榮車輌の創業者は志村榮さんである。津田沼移転後も土地はそのままだったのか、あるいは地図の改訂が遅れていたのか、どちらにせよここが大榮車輌創業の地と考えてよいだろう。ちなみにあまり関係ないとは思うが、南側には国鉄千葉鉄道管理局大島寮と書かれている。oojima01.jpg新大橋通りから見た旧大島町三丁目方向。道路に挟まれた緑道が旧城東電車である都電29・38番の軌道跡。奥に見える城東郵便局が国鉄千葉鉄道管理局大島寮の場所で、大榮車輌はそのさらに奥に見えるマンションの向こう側あたりに位置していたはずだが・・・。 2014.12.6 P:高橋一嘉

 その足で現地に行ってみると、千鉄局大島寮があった場所は城東郵便局になっていたが、その北側の「旧245番地」付近は、完全に住宅街と化していた。jyoto2.jpg現地付近の案内図。 2014.12.6 P:高橋一嘉

 最後に、大榮車輌創業から1年余り後の1947(昭和22)年9月に撮影された大島町三丁目付近の空中写真を見てみよう。まだ焼け野原が広がるこの土地で、大榮車輌はスタートしたのである。20160927195425-f3ceb24a608196fd21dc1b21433d1d81944881e4.jpg米軍が1947(昭和22)年9月8日に撮影した東京都江東区大島町三丁目付近の空中写真。画面上東西に伸びるのが現在は暗渠となった竪川。左に南北に伸びるのが越中島貨物線。中央よりやや左下に見える交差点が現在の都営地下鉄西大島駅付近。そして、ほぼ中央を南北に伸びるのが、都電の軌道敷。まだ焼け野原が広がる荒涼とした土地に、小さな工場が建てられていることが判る。  国土地理院ウェブサイト(http://www.gsi.go.jp/)より

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