▲森口での対向。今になって見直すと、前方左手の建物に積み込み用のシュートのようなものがあるのに気づく。もともとには建物に沿った側線があったのだろう。 1984年夏 P:高橋一嘉
1984(昭和59)年の夏だったと思う。信州から北陸に向かう旅行の途中、自分だけ車から降りて松本電鉄に乗った。おそらく車庫を見たかったからだろう、乗車は新村で、新島々までだった。
当時の松電はモハ10形という日車標準型ばかりだった。新潟交通やすでにカエルに代わっていた岳南鉄道は日車標準型が「多数派」だったが、松電では機関車を除いて「全て」だったから、置き換えまで雑誌などで取り上げられることも少なかったように思う。唯一の変化と言えば、ただ一輌だけクハがいたことで、モハは全車奇数番号で揃えられたこの線で、この車輌だけはなぜか偶数番号(102)だった。
▲唯一の制御車だった102はこの日はお休み。クハとは言え両運である。モハが奇数ばかりだったのは市内電車の浅間線を偶数番号にしたためというが、どうしてそのような附番だったのだろう。 1984年夏 P:高橋一嘉
車庫でハニフが収めてある車庫の窓を覗いたり、ピンク色の電気機関車を見学した後、あの堂々とした新村駅の改札を通って島式ホームに立つと、松本方面から、ちょっとくすんだオレンジとグレーに塗り分けられた電車がやってきた。時刻表では「島々行き」のはずであった。
▲今も昔も新村の主であるED301。この頃はかすれたようなピンク色だった。 1984年夏 P:高橋一嘉
車内のことはあまり覚えていない。新島々に着き、写真を1枚撮って改札を出たあと、電車が島々に向かって出て行くのを見送ろうと思って見ていた。ところが、待てど暮らせど、島々行きのはずの電車は一向に発車しない。仕方なく追っかけて来たレオーネに乗って安房峠方面にしばらく走ると、島々への線路敷きは土砂に塞がれていた。時刻表上では島々行きの電車は、この時、新島々止まりになっていたのである。おそらく新村駅では掲示してあっただろうし、車内放送でも言っていたのだろうが、不思議なことに全く気づかなかった。もともと上高地方面のバスとは新島々接続だったためもあってか、結局、新島々〜島々間は復旧することなくそのまま廃止された。
▲上高地の入口、新島々に到着した電車。この電車は島々行のはずだったが...。 1984年夏 P:高橋一嘉
モハ10形がカエルに置き換わったのはこの2年後のことである。
▲今年、モハ10形を模した塗装になった3000系。新村付近には33年前のあの頃のイメージと変わらぬ風景が残っている。 2017年夏 P:高橋一嘉