▲雪解け近い田園を行く。蒸機から電車へ、軌間2ft6inから3ft6inへ、近代化を進めた「くりでん」だが、この田園風景は最後までほとんど変わることはなかった。 1980.2 津久毛−沢辺 P:寺田裕一(RMライブラリー『栗原電鉄(上)』より)
今月のRMライブラリーは寺田裕一さんによる『栗原電鉄』の上巻をお届けします。栗原電鉄が内燃動力化してくりはら田園鉄道となったのはつい先日のような気がしますが、内燃動力化が1995(平成7)年、そして廃止されたのが2007(平成15)年ですから、廃止から今年でちょうど10年、内燃動力化からはもう22年も経ってしまったことになります。
▲開業29年にして行われた電化。わずか5年後には改軌が実施された。(RMライブラリー『栗原電鉄(上)』より)
栗原電鉄というと、細倉鉱山を背景にした鉱山鉄道のイメージが強いと思いますが、ルーツである栗原軌道の当初の目的は、宮城県北部の都邑であった岩ケ崎町(後の栗駒町)と東北本線を結ぶ目的で、その点では東北地方の多くの私鉄路線と似たものでした。ただ、それ以前から、細倉鉱山による馬力軌道が通っており、これを一部利用する計画でした。そのため、当初は馬力による軌間762ミリの「軌道」として計画され、これを本線に築館や一迫、金成など一帯に路線を拡げる目論見でした。その後、蒸気動力に変更され、1921(大正10)年に沢辺まで、翌年に岩ケ崎(後の栗駒)まで開業しました。結局、細倉鉱山による馬力軌道を利用したのは石越付近の併用軌道のみで、この部分は馬曳きによるトロッコと蒸機牽引の列車が共用することになりました。
▲1964年にはバス会社との合併により宮城中央交通となり、貨車にはその標記もなされたが、5年後の1969年にはバス部門が分離して栗原電鉄に戻った(RMライブラリー『栗原電鉄(上)』より)
しかし、時代の変化とともに軍需物資の運搬の重要性が増してくると、細倉鉱山への延伸が計画されました。それと相前後して軌道から地方鉄道への変更が計画されました。1941(昭和16)年には会社名を栗原鉄道に変更、1942(昭和17)年8月には地方鉄道へ変更され、同時に石越付近の併用軌道は専用敷の新線に変更、同年12月には細倉鉱山まで開業しました。その後、戦後復興とともに鉱山鉄道としての近代化が進められ、1950(昭和25)年には電化、そして1955(昭和30)年には軌間1067ミリへの改軌が実施され、同年会社名も栗原電鉄へ変更されました。
▲1980年当時の栗原電鉄。右頁は細倉の先にあった細倉鉱山駅。鉱業所の一部のような貨物専業の駅であった。(RMライブラリー『栗原電鉄(上)』より)
本書は上下巻の2巻に分けて、この栗原電鉄の歴史、施設、車輌などを解説します。上巻では、その計画から激動の戦中・戦後を経て1980(昭和55)年頃までの動きを解説します。また、下巻では廃止までの沿革とともに、駅・施設、車輌を紹介する予定です。今年は若柳駅跡の「くりはら田園鉄道公園」もグランドオープンしました。現地を訪れられる際には、ぜひ本書をお供にお持ちください。