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RMライブラリー新刊は『大阪市営無軌条電車のあゆみ』

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▲緑橋交差点を南へ、第3号線を今里方向へ進む237号。 1970.6.14 P:今井啓輔(RMライブラリー『大阪市営無軌条電車のあゆみ』より)

 今月のRMライブラリーは、荻野 基さん、宮武浩二さんによる『大阪市営無軌条電車のあゆみ』をお届けします。

20170123182439-3dff5b384f8e8b36b04565edbe62bb977fbffbb4.jpg 現在では立山黒部アルペンルートの2箇所のトンネルバスのみとなった無軌条電車(トロリーバス)ですが、日本におけるそのはじまりは1928(昭和3)年、阪急宝塚線(旧)花屋敷駅と新花屋敷の間に開設されたものです。都市交通としてのそれは、4年後の1932(昭和7)年に京都市で開業、戦後の一時期は路面電車に代わる交通手段として注目され、川崎、東京、大阪、そして横浜で相次いで開業しました。しかし、自動車の激増により交通渋滞が深刻化すると、路面電車と同様に運行に支障をきたすようなったのに加え、ディーゼルエンジンのバスが大型化したこともあり、昭和40年代には都市部から全て姿を消しました。

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▲開業時に用意された1形(のちの100形)は日野製の走行装置に川崎航空機製のモノコック車体、GE製の主電動機、制御装置を組み合わせたものであった。(RMライブラリー『大阪市営無軌条電車のあゆみ』より)

 大阪市の無軌条電車は戦前にも計画はあったものの、具体化したのは戦後で、1953(昭和28)年、まず大阪駅前から東淀川区の神崎橋までの第1号線が開業しました。その後、東は守口車庫前、南は阿倍野橋、西は玉船橋と路線を伸ばし、一部路面電車を置き換えも含め、1962(昭和37)年の杭全町開業時には路線長は37.9kmにおよびました。車輌も3形式134輌に成長し、路線長、車輌数ともに日本の無軌条電車としては最大規模のものとなりました。

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▲大阪市営無軌条電車の概念図。(RMライブラリー『大阪市営無軌条電車のあゆみ』より)

 しかし、最盛期は長くは続かず、1965(昭和40)年には地下鉄建設のため新深江〜今里間が休止となりました。そして市電の廃止が本格化すると、変電所を共用していた無軌条電車もその存廃が問われるようになり、1969(昭和44)年から1970(昭和45)年にかけて3段階に分け廃止され、大阪の街から無軌条電車は姿を消したのです。

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▲200形と300形は並行して計126輌が製造された。形式の区別は走行装置によるもので、200形が三菱製、300形が日野製であった。車体製造者は当初の川崎航空機、富士重工に加え、後に鉄道車輌メーカーであるナニワ工機、近畿車輌、東急車輌、帝国車輌、そして大阪車輌製造も加わり、計7社にも及んだ(RMライブラリー『大阪市営無軌条電車のあゆみ』より)

 本書は、これまで語られることの少なかった大阪市営の無軌条電車の消長と、そこを走った3形式134輌の車輌群について解説するものです。路面電車に比べ注目されることも少なく、静かに消えていった無軌条電車の姿を振り返る一冊、ぜひお手に取ってご覧下さい。

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