
▲C60形蒸気機関車の牽引で特ロのみの団体列車が東北本線奥中山の急勾配を登る。 1967.4.29 御堂-奥中山 P:和田 洋 (RMライブラリー『特ロのすべて』より)
今月のRMライブラリーは和田 洋さんによる『特ロのすべて-特別2等車の誕生と盛衰-』です。
戦後、1949(昭和24)年に国鉄は特急列車の運転をようやく再開しました。車輌不足のなか、苦心の末に車輌が揃えられましたが、走り出した特急列車に思わぬところから注文がつくことになります。それは、スタッフが2等車(現在のグリーン車)を利用する機会の多い占領軍からの、2等車に対する改良の要求でした。当時、特急「へいわ」に連結された2等車オロ40形は4人掛けのボックスシートでした。これはボックスシートと言ってもソファのような座席が広いピッチで配置されたものでしたが、大柄な体格の米国人スタッフが多い占領軍には理解されませんでした。そして、占領軍の要求は「2人掛けで回転するリクライニングシート」という日本では経験のないものでした。

▲最初の特ロとなったスロ60形。「へいわ」改め「つばめ」に連結されることになった。(RMライブラリー『特ロのすべて』より)
国鉄はこれに応えるべく、車輌用の座席を製作していた小糸製作所の協力を仰ぎ、国鉄初のリクライニングシートであるR11形を開発します。当初、これをスハ42に搭載して「スイ32」とする予定でした。形式名からも判るように、国鉄は1等車扱いとするつもりだったものの、占領軍にこれを却下され、さらに車輌不足の折に真新しいスハ42を種車に改造することも問題となり、結局鋼体化改造扱いで2等車として製造されることになり、形式はスロ60形に落ち着くことになりました。しかし、従来の2等車とは設備の差が大きいため、料金に差をつけることになりました。「特ロ」「特2」と通称される「特別2等車」の誕生です。

▲特急で好評を得た「特ロ」は急行にも連結されて全国展開されることになり、3形式目のスロ50形は60輌が量産されることになった。(RMライブラリー『特ロのすべて』より)
本書はスロ60形誕生までの経緯から、スロ60以降、ナロ10、ナロ20、オロ61までの客車による2等車各形式の解説をはじめ、各年代の連結列車やその編成、その後の改造などを様々エピソードとともに紹介し、歴史の彼方に消え去った「特ロ」という存在を解き明かします。今ではグリーン車はもちろん、ほとんど特急列車の普通車でも当たり前の装備となったリクライニングシート、その原点である特別2等車の時代を浮き彫りにする一冊、ぜひご覧下さい。



今月のRMライブラリーは服部重敬さんによる『加越能鉄道加越線』です。





今月のRMライブラリーは、先月に引き続き、寺田裕一さんによる『栗原電鉄』の下巻をお届します。上巻では1980(昭和55)年までの沿革を紐解きましたが、下巻ではそれ以降、廃止までの沿革とともに、各駅の紹介、そして歴代の車輌群を解説します。







今月のRMライブラリーは三宅俊彦さんによる『特急「白鳥」-運転史で振り返る55年の軌跡-』お届けします。


今月のRMライブラリーは3巻にわたってお届けしてきた岩成政和さんによる『国鉄DD13形ディーゼル機関車』の完結巻となる下巻です。1958(昭和33)年に誕生したDD13形でしたが、蒸気機関車全廃という国鉄の大目標のもと、昭和40年代に入っても増備が進められ、1967(昭和42)年度製造の19'次車でついに総数416輌に達しました。



今月のRMライブラリーは先月に引き続き岩成政和さんによる『国鉄DD13形ディーゼル機関車』の中巻です。DD13形は1958(昭和33)年から1967(昭和42)年にかけて実に416輌が製造されましたが、1961(昭和36)年登場の111号機では大きな変化を遂げます。エンジンが従来のDMF31S(370PS)からDMF31SB(500PS)に進化、これに合わせ冷却方式も変更されてボンネット天板部に送風扇を設置、さらに前灯もシールドビーム2灯化されました。強馬力型DD13の誕生です。一般に後期型と言われることも多いこの形態ですが、輌数はこれ以降の方が全体の7割以上を占めることになります。ちなみに強馬力型第1号の111号機は試作的要素も強く、従来公式側1セットのみであった運転台が非公式側にも設置されましたが、これは112号機では再び公式側のみに戻され、111号機も量産化改造ののちに新幹線用の912形に改造され、DD13形としては短命に終わりました。










可部線の起源は、1906(明治39)年11月、広島軌道という軽便軌道の特許に始まります。この軌道特許申請は、かの雨宮敬次郎らによるもので、開業前の1908(明治41)年には雨宮が経営に関与していた他の7社と合同して大日本軌道株式会社が設立され、1909(明治42)年12月19日、大日本軌道広島支社として横川〜祇園間が開業しました。開業時は762mm軌間、非電化で、雨宮鉄工所製の小型蒸気機関車(いわゆる"へっつい")が客車1輌のみを牽引するものでした。1911(明治44)年には可部まで開業しますが、その全通を見ることなく、同年のはじめには雨宮敬次郎が死去、さらに後を継いだ雨宮亘も1918(大正7)年に死去したこともあり、大日本軌道広島支社は1919(大正8)年、可部軌道として独立しました。



大阪のトロリーバスで2番目、1957(昭和32)年に開業したのは守口車庫前〜今里間の3系統(第2・3号線)で、当初は最初の開業区間である大阪駅前〜神崎橋間の1系統(第1号線)とは全く接続しない路線でしたが、3年後の1960(昭和35)年に森小路町一丁目〜大阪駅前間(第2号線)が開業し、両線が結ばれて守口車庫前〜神崎橋間の2系統の運行も開始されました。第3号線の起点であり、基地でもあった守口車庫には、今も市バスの営業所がありますが、トロリーバスゆかりの建物は残っていません。

柳都・新潟のシンボル、レインボータワー。大榮車輌の受注実績では、昭和48年度に「新潟回転式展望台客室及び昇降フレーム一式製作据付」の記述が残る。 2014.11.28 P:伊藤真悟