久大本線から分れ日田彦山線に入ったC11牽引のローカル貨物列車。背景には植林された名産日田杉の美林も見られる。 '70.8.8 日田彦山線 夜明−今山 P:中島正樹
九州各線の最近の記事
中学1年生の冬休みに、貨物列車は走っていないことを覚悟の上、北九州に撮影に出かけました。僕はD50には間に合いませんでしたが、当時数輌残っていたD60をなんとか撮影できました。豪快に煙をなびかせて走り去る姿に感動し、煙が見えなくなるまで寒さを忘れて見送りました。 '73.1.5 筑豊本線 直方−勝野 P:綿崎真澄
安楽川橋梁(131m)を渡る C58 112牽引下り貨物列車。16.7‰の上り勾配のためC58のブラストは高い。1974年当時、C58牽引の列車は単機回送、臨貨を含み4往復設定されていた。C58 112は志布志駅跡に保存されている。 '74.9 志布志線 安楽ー中安楽 P:中川弘一
僕は布原三重連は間に合わなかった世代です。中学生でしたが、田川線で蒸機の3台運転があると聞いて訪問した時の写真です。夏の午後に黒煙を上げて走る3台の96は大迫力でした。その後冬にも訪問しましたが、その時はもう三重連は走ってなかったと記憶しています。後ろの機関車が辛うじて写っている程度なのがちょっと残念でした。 7494レ '73.8.24 田川線 勾金ー油須原 P:綿崎真澄
肥薩線の大畑はスイッチバックとループ線の山岳配路線。敦賀式集煙装置と重油併燃装置装備のD51が後補機を従えて最大30.3‰の急勾配に挑む。 '70.11 肥薩線 大畑ー矢岳 P:中川弘一
1972年当時、長崎本線を走る撮影可能な蒸機牽引旅客列車は朝夕に限られ、撮影可能な列車は朝7時台の2本のみ。九州西端の日の出は遅く、夜明け前で暗くてぶれてしまったが、門鉄デフの美しいC57のシルエットをなんとか記録でき、いい思い出になった。 '72.1.12 長崎本線 喜々津ー東園 P:高橋洋二
ED76が牽引する9輌編成の2524レ。普通列車の主役はまだまだ客車列車だった。 '77.4 日豊本線 高城−鶴崎 P:藤田高士
久大本線では臨時列車牽引や検査出場車などの機関車は638レで回送されるので重連となる。当日午前には大分運転所ラウンドハウス横に留め置かれるため車種が判り、撮影時の大きな楽しみだった。この日はD60重連で運転された。 '70.3久大本線 大分−南大分 P:芝田英征
重油併燃装置付のC57 41が黒い煙を真上に噴き上げながらゆっくりと勾配を登ってきた。この路線では旅客用のC57が貨物も牽引して急勾配に奮闘していた。 '74.2.19 日豊本線 日向沓掛−田野 P:高橋洋二
L特急「にちりん」仕業もすっかり板についたボンネット485系。クハ481のおヒゲは元60サイクル481系の証し。堂々の11輌編成でR400のカーブを通過していった。 '77.3 日豊本線 熊崎−上臼杵 P:藤田高士
C57 117号機牽引のお召列車が、歓声に包まれて一ツ瀬川橋梁に差し掛かった。 '73.4.12 日豊本線 佐土原−日向新富 P:芝田英征
乙津川橋梁を通過する上り貨物列車。牽引機はドームの形状からD51 1032号機と推定できる。 '72.11 日豊本線 鶴崎−高城 P:芝田英征
C57牽引急行「日南3号」蒸機牽引最終日はどんよりとした曇り空だった。先頭に立ったC57 41号機を確認。待ち構えた多くの同好者が思わず発した落胆の声の中を通過していった。 日豊本線 田野〜門石(信) '74.3.31 P:藤田 高士
野矢駅近くで6691レを撮影した。野矢駅に長時間停車のため出発抵抗も大きいのだろう。サミットの水分トンネル目指して25‰の上り勾配を這うように登り始めた。 '70.1 久大本線 野矢―由布院 P:芝田英征
優等列車が発着する長いホームに、ポツンとディーゼルカーが一輌。鹿児島交通の乗り入れ車輌でした。 '83.3.28 鹿児島本線 西鹿児島 P:倉田秀夫
風の噂で博多行きの「あさかぜ」がなくなると聞いて撮影に行きました。国道端から撮影できる数少ない絶好ポイントでしたが、一人でのんびりと撮影できました。後年再訪した際は条件が合わなくなってしまったように思います。 '85.1.5 鹿児島本線 門司ー小倉 P:綿崎真澄
南九州の撮影旅行で、肥薩線 栗野の駅前旅館で宿泊して、翌朝の列車を待っていると何と、門デフ同士のC57とC55の重連が迫力満点で通過して行きました。朝一番のプレゼントをもらったような心地でした。 '70.11.23 肥薩線 栗野 P:中川弘一
熊本区の機関庫内で休息を取る79602と69616。撮影の約1年後には69616号機は廃車に、79602号機は遠く北海道の倶知安へ渡りさらに鷲別、滝川、追分と各地を転々とした後1976年3月の構内入れ換え仕業で国鉄蒸機の最後を飾った。 '72.6.14 熊本機関区 P:吉岡勝行
鹿児島電化はまだ少し先になる頃、鹿児島本線の熊本以南旅客を受け持っていたのはC60、C61。出発準備が整ったC60が誘導員によって給炭場を後にした。 '63.12.23 鹿児島機関区 P:中島正樹
油津駅で待機していると、C11 261牽引の貨392レは油津に長時間停車します。対向貨391レのC11 41が駅に入線してきました。ホームでは、荷物を受けとるために駅員さんがリヤカーを用意しています。C11 41は倉吉線のさよなら列車を牽引した際の"お化けツバメ"がまだデフに残っていました。 '74.9 日南線 油津 P:中川弘一
高森駅を出発するC12。道床のバラストには客貨に活躍するC12の痕跡がくっきりと残されていた。 124レ '73.8.27 高森線 高森 P:田中一弘
C55 57牽引の上り若松行き740レがブロアーを利かせて出発合図待ちです。 '69.8.8 筑豊本線 原田 P:柿浦和敏
喜々津一東園間の美しい海岸線を行く通勤列車です。当時はキハ35系主体の7輌編成が満員になるくらい乗客が多かったです。 長崎本線 喜々津―東園 '83.8.4 P:宮城浩志
湯前線貨物列車牽引のため残っていた8620形が、人吉機関区で佇むところを狙ってみました。雨が降っていて寒い日だったことが思い出されます。 '72.12.30 人吉機関区 P:植田 馨
九州北部を横断する久大本線は撮影場所に事欠かない。久留米から乗って周囲の山が狭まった夜明で下車、朝方に残っていた数少ないD60牽引鳥栖行きを撮った。 '70.8.8 久大本線 夜明 P:中島正樹
クハ181から改造されたクハ481-501による「有明」。廃車解体と思われていたクハ181がクハ481に改造され、九州に広域転配という前代未聞のトピックスは、当時のファンを大いに驚かせました。 '84.8 鹿児島本線 西鹿児島 P:矢島和明
人吉機関区で休んでいた肥薩線(川線)のC57 48を機関区の外から柵越しに撮影させてもらった。九州の機関車の例に漏れず、ナンバープレートや動輪がピカピカに磨かれていて美しかった。 '71.9.24 人吉機関区 P:高橋洋二
昭和40年代のレンガ造の熊本機関区に休む特急「はやぶさ」運用のC61 33。 '65.8 熊本機関区 P:中川弘一
鳥栖駅のホームから眺めた夕方の鳥栖機関区、給炭設備を中心に多くのカマが憩っていた。カマは主に久大本線用の8620やD60、鹿児島本線の交流電化はすでに完成していた。 '69.2.10 鹿児島本線 鳥栖機関区 P:中島正樹
朝の柔らかい光の中、駅を通過してきたD50 90の牽くセラ・セムの貨物列車が目の前を通過して行きました。 '69.3.23 筑豊本線 筑前垣生 P:村木勝義
初めて巡ってきた南九州、有名な開聞岳をバックに撮りたいと思い日本最南端駅の西大山で下車。生憎の雨模様に夕闇が迫り、厳しい条件だったが何とかキハ16を入れて撮影を試みた。 '63.12.24 指宿枕崎線 西大山-大山 P:中島正樹
京都からはるばるやってきた「日南3号」。終点都城まではあと20㎞余り。B寝台、グリーン車2輌を連結した優等列車を引くC57は凛々しかった。 '74.2.4 日豊本線 田野-青井岳 P:高橋洋二
都城駅の夜、蒸気機関車の撮影や録音に精を出していた。昼も夜もという感じだったが若かったせいか、あまり疲れたという覚えはない。C55 52は珍しい変形門鉄デフを装備していた。 '74.2.4 日豊本線 都城駅 P:高橋洋二
九州撮影旅行で移動中、乗っている列車の404レの急行「青島」の車窓から、交換駅浅海井駅に先に止まっていた20系、7レ特急「富士」をタイミングよく捉えることができました。 '69.3.27 日豊本線 浅海井 P:村木勝義
スハ32のWルーフの明り窓から漏れる柔らかい光に誘われて思わず車内へ。当時でもWルーフは滅多に見られない貴重品でした。 1969.1.6 熊本駅 P:末近義治
1211列車、急行「日南3号」。間もなく宮崎電化でC57が消えようとしている時、蒸機ファンにプレゼントのように現われたC57牽引急行、今日の牽引機はC57 117号機で最高のコンビを撮影できました。 '73.12.20 日豊本線 清武―日向沓掛 P:吉葉富雄
間もなく唐津線から9600が消えると聞いて、予定を変更して撮影に臨みました。北九州にあって比較的きれいな9600が客車や貨物牽引にがんばっていました。 '73.8 唐津線 多久―厳木 P:吉葉富雄
スイッチバックを終え、外輪山の斜面にへばりつきながら赤水へ向かう。貨車は2輌だが老機のキューロクは奮闘する。 59670 1975レ '72.3.27 豊肥本線 立野-赤水 P:青木一郎
門司港を23:30に発車してから、ようやく大畑に到着した1121レ。固い座席で一晩すごしたが今思えば懐かしい思い出である。重装備のD51 1058は8:03の発車に備え、もうもうと黒煙を上げていた。これから30‰の急勾配に挑戦する。 '72.1.8 肥薩線 大畑 P:高橋洋二
タブレットキャッチャー装着のため、ナンバープレートがキャブから少しはみ出したC57。宮崎からの出張で誇り高き宮崎区の砲金製区名札が見られます。 '72.8.6 鹿児島機関区 P:石地康司
夜行急行「雲仙」で初めての筑豊入り。最初の撮影は折尾〜中間の非電化・複線区間に決めていました。やってきたのは期間限定で車籍復活したデゴマル。この時の感激は今も忘れられません。 '72.8.3 筑豊本線 折尾ー中間 P:石地康司
筑豊のキューロクを有名撮影地で撮りたいという思いで目指した中元寺川橋梁。後藤寺駅から道を尋ねながらやっと到着し念願の逆行重連を撮影しました。 '72.8.4 後藤寺線 船尾-起行 P:石地康司
元お召機であるC56 91多少汚れてはいましたが貫禄は全く衰えていませんでした。 '73.12.26 吉松機関区 P:田中翔貴
昭和59年に九州ブルトレにヘッドマークが復活したので、翌60年3月に九州撮影行を決行。その際、門司機関区の見学許可を頂き構内を撮影したあと、検修庫にずらりと並べられたヘッドマークに感動。今やブルトレも過去帳入り。 '85.3.18 門司機関区 P:今井博茂
反対列車と行き違いのため小休止するC57 151牽引の629レ。のんびりした雰囲気が漂うホームには第24回全国植樹祭の横断幕も見える。 '73.3.31 吉都線 小林 P:鈴木博之
阿蘇カルデラへ向けて三段スイッチバックを折り返して登るC58牽引大分行き列車。33.3‰の急勾配に今登って来た線路との高度差がどんどん開いてくる。 '63.12.21 豊肥本線 立野-赤水 P:中島正樹
大分以南では滅多に見ることがなかったED76重連。事前に分かっていれば構図を変えるのにと、大いに悔やんだ一枚。 '77.3 日豊本線 熊崎-上臼杵 P:藤田高士
筑豊本線の直方近くで、D60の登場を待っていると、後方から賑やかなジョイント音が聞こえてきた。長大なセキを連ねた、伊田線のヘビのような貨物列車だった。 39601 '72.8.4 伊田線 赤地-直方 P:古澤成博
直方でD60の登場を待っていると、伊田線の貨物列車がやって来た。ファインダーを覗いていて、顔の汚い79635号機にガックリ。当時は順法闘争で機関士さんは赤い腕章を付け、カマには様々な文字が書かれては消されていた。 '72.8.4 伊田線 直方-赤地 P:古澤成博
電化開業により宮崎まで延長運転された特急「みどり」であったが、新幹線博多開業までの1年に満たない短命に終わった。 '74.11 日豊本線 下ノ江-熊崎 P:藤田高士
北九州地区にはデフレクターが装着されていない9600形がたくさん活躍していた。その美しい96のシルエットを伊田線の鉄橋で撮影することができた。 '72.1.7 伊田線 金田-赤池 P:高橋洋一
いい夢、見ることができたかなぁ? '81.5.3 鹿児島本線 小倉 P:小林慎治
現在は高架の宮崎駅。当時の宮崎は、構内が巨大で機関区も隣接し今とは全然違います。蒸気機関車も終焉が迫っていることを思わせないほど活躍していました。都城方面への発車を待つ、C57 155牽引の貨物列車です。同機は門デフ取り付け第1号。 日豊本線 宮崎 '73.8.10 P:野中英一
濃霧の中に姿を現したED76+C61の電蒸列車。鹿児島本線の電化工事もすでに最終段階で訓練運転が行われていた。この列車は山野線に入る回送C56を尻尾に付けている。 鹿児島本線 木場茶屋-隈之城 P:中島正樹
1980年10月から84年2月までの3年と少しの間583系が「にちりん」に充当された。485系と較べると明らかにグラマラスなプロポーションが私好みで、よく撮影した。時は過ぎ、現在「連れ合い」が同様の体形となっているが、残念ながら写欲が湧くことはない。 '82.5 日豊本線 熊崎-上臼杵 P:藤田高士
一般公開中の庫内で、突然、機関車の信号炎管が作動し、辺りは騒然となりました。 '78.5.5 門司機関区 P:小林慎治
後補機を従えて急勾配を登る混合列車。大畑のループを通過して最大の見せ場である大野の大築堤にさしかる。天を焦がす煙と轟くブラストに圧倒されるばかりだ。 '71.9.28 肥薩線 大畑-矢岳 P:高橋洋二
日本最長距離走行列車、特急「富士」牽引の下り列車の最終ランナーDF50。終点西鹿児島まで332.9kmのロングラン仕業。大分運転所所属DF50のもっとも華やかな運用である。 '72.1 日豊本線 臼杵〜徳浦(信) P:藤田高士
鹿児島区の旅客用大型蒸機が次々とやってくるこの伊集院付近は、一日ずっと粘っていても全く退屈しませんでした。 '69.3.26 鹿児島本線 伊集院 P:村木勝義
朝日を浴びて南下する20系特急「彗星」。現在この撮影ポイント付近は住宅地となって見通しが利かなくなってしまった。 '69.9 日豊本線 熊崎-上臼杵 P:藤田高士
ヨン・サン・トウ以降、大分運転所のC57は17号機と53号機のわずかに2輌配置で、佐伯往復の1仕業のみとなってしまった。臼杵湾に浮かぶ津久見島を眺めながら入りくんだリアス式海岸を走る。 '70.12 日豊本線 臼杵-徳浦(信) '70.12 P:藤田高士
蒸気機関車の活躍も終盤に差し掛かってきた1973年8月。ここ宮崎はまだまだ蒸機が主役で活気に満ちていました。そんな中、次の仕事に向け暫し休息するC61 20です。この機関車がその後、動態復帰するとは、思いもよりませんでした。 '73.8.10 日豊本線 宮崎 P:野中英一
九州の鉄道の、重要な拠点だった「門司港」。駅舎の右隣は、門司鉄道管理局のビルです。 '78.5.5 鹿児島本線 門司港 P:小林慎治
空のセキを牽引して飯塚方面に向かうバック運転の9600。この区間は伊田線も並走していて列車の密度は高い。 '63.12.25 筑豊本線 直方-勝野 P:中島正樹
宮崎機関区の機関車はいつもナンバープレート・区名札・動輪などがきれいに磨かれていた。機関車を大切にする心を感じることができた。 '74.2.19 宮崎機関区 P:高橋洋二
サイドに陽を受け客車を牽いて大淀川の鉄橋上に現れたC57は千両役者の風情であった。 '73.8.21 日豊本線 宮崎-南宮崎 P:田中一弘
筑豊炭田の中心にあって四方に線路を延ばしていた後藤寺。何線からの列車かは不明だが、半逆光の日差しに磨き上げられた9600の車体が印象的だった。 '69.2.8 後藤寺線 後藤寺 P:中島正樹
"ぽっかぽか"の春の昼下がり。停車中の車内に、ヒバリのさえずりが届いていました。 '78.3.26 久大本線 豊後森 P:小林慎治
夕日は大きく傾き、列車の側面を照らす。師走の16時40分頃だがまだ撮れる。さすが南国。宮崎神宮駅を発車した列車は軽快に速度を上げてやって来た。 C61 24 544レ宮崎発南延岡行き '71.12.28 P:青木一郎
吉松区にはC55の流線形改造機26・27・33・34号機が配属されていた。訪れた時には26号機は留置されていた。深い屋根や出入台などに流線形の面影が残っている。 '69.8.18 吉松機関区 P:内田博行
この列車は交換、退避のため40分程停車した後、ようやくの発車。長々と貨車を連ね、盛大なシリンダ排気と共に出て行った。 C57 109 597レ '71.12.29 日豊本線 田野 P:青木一郎
最後の蒸機急行として突如C57が「日南3号」を牽引すると知りやってきたが、年末年始の多客臨時列車「高千穂51号」もC57牽引で運転されていた。牽引機はC57 39で3か月後に廃車された。 '74.1.3 日豊本線 田野-日向沓掛 P:内田博行
先日亡くなりました義父・山本信雄の若き日です。乗務直前の撮影。発足したばかりの大分運転所蒸気機関車乗務員の一人でした。 所蔵:藤田高士
磨きこまれた車体。門デフに砲金製の区名札。宮崎機関区はまさにパシフィックの里でした。 '72.8.4 宮崎機関区 P:石地康司
枯山水を思わせる真幸駅で長大編成の急行「えびの」が交換しました。 '84.1.31 肥薩線 真幸 P:石毛英一
C55には3度出逢った。C55 1と旭川機関区の扇形車庫で、C55 27と吉都線で、そして筑豊本線では1734レを牽く美しいC55 51が夏の閑散期をのんびり走っていた。 '70.7.14 筑豊本線 中間 P: 森瀬壽三
石炭産業が栄えた九州北部では多くのボタ山が存在していた。高くそびえるボタ山を背景にして69615+69610がゆっくりと移動していた。 '74.2.3 日田彦山線 後藤寺 P:高橋洋二
構内で入換え作業をしていた48679号機は形式入りナンバープレートと切欠きテンダが印象的でした。 '69.3.26 西鹿児島 P:村木勝義
雨天なので撮影は諦め、飯塚から急行「天草」の客車最後尾に乗車して、力行するD60の音を堪能した。真後ろからプッシュするD60 34の咆哮は怖いくらいだった。 '72.10 筑豊本線 筑前内野-筑前山家 P:高橋洋二
C57が牽引する「日南3号」の前にやってきたDF50 534牽引の普通列車。DF50は私にとっては珍しい機関車だったのに熱を入れて撮影せず、後悔している。 日豊本線 日向沓掛-田野 '74.2.4 P:高橋洋二
1527レはC55とC57の共用運用。田野の築堤でシゴゴが撮りたいの一心で3日目にようやく撮れました。 '72.8.5 日豊本線 田野-門石(信) '72.8.5 P:石地康司
鹿児島機関区もまだこの頃は蒸機王国でした。C60、C61の旅客用大型蒸機やD51、C57、C55、C12など、また、入れ替え用の86やB20もいて圧巻でした。この日は、DD51 621が特急あかつきのヘッドマークをつけ、1輌だけ佇んでいるのを見かけました。 '69.3.26 鹿児島機関区 P:村木勝義
D60が冷水トンネルを飛び出してきた。トンネル上の構造物は筑前山家側だけに作られた排煙設備で、当時はもう使用されていなかったが異様な外観は興味深かった。 '72.1.10 筑前内野-筑前山家 P:高橋洋二
クハ181からの改造車クハ481-501。赤帯はカッコイイですが、車高の低さにとても違和感を感じた想い出があります。 '84.8.12 熊本 P:浅川卓也
36年前の、正月を迎えた小倉駅。何の特徴もない駅ビルも、今となっては、懐かしい思い出です。 '79.1.5 小倉 P:小林慎治
佐世保-平戸口間に8620重連のお召列車が走った。下車駅の平戸口に到着後、回送準備も終えて機関車の傍らでホット一息つく国鉄関係者の姿があった。 '69.10.29 平戸口 P:中島正樹
デフレクターのない9600形や8620形が頻繁に行き来している様はまるで一昔前に戻ったようであった。 '71.10.1 折尾-中間 P:高橋洋二
凍える朝、サミットの佐志生トンネルへ向けて猛烈にスパートするD51牽引の1592レ。電化開業まであと2か月。 '74.2 佐志生〜幸崎 P:藤田高士
門司港発都城行きの夜行列車1121レ。この列車を駅から離れた場所で撮影するため、人吉で宿をとり一番列車で大畑に来た。九州の冬の朝は夜明けが遅かったが、1121レが来るころには明るくなった。急勾配に孤軍奮闘する姿に感動。 '72.1.7 大畑-矢岳 P:高橋洋二
冷水トンネル手前の築堤の急勾配に挑む738レ。ダイヤ上はD60牽引のはずがこの日はD51が代走。期待が大きかっただけにガッカリしながら撮った一枚。 '69.5.2 筑前山家-筑前内野 P:鈴木博之
午前の混合列車843レが冬らしい白煙を吐きながらループを登ってきた。視界を遮るものがなくとてもすっきりした風景だった。 '72.1.8 大畑-矢岳 P:高橋洋二
筑前内野駅を降りて周辺を歩き、撮影ポイントを探しました。田園風景が広がる中、駅方面に進入する下り723レがD50 90に牽かれてやってきました。朝の光を浴びてバックの山に白煙を浮かび上がらせた情景は、付近の民家ともマッチしていました。 '69.3.24 筑前内野 P:村木勝義
大野の大カーブは無風だった。甲冑武者のような重装備D51が前後を固めた混合列車が峠に挑む。何度も訪問した大畑越えだが、いつも豪快な煙を見ることができた。 '71.9.28 大畑-矢岳 P:高橋洋二
国鉄最後のC12を撮影しに、高森線へ出かけた。当日は天気が凄く良かった。この日のC12 208は数輌の貨車で編成された691列車を懸命牽引して、高森までの25‰の勾配をゆっくり登って行った。そして高森に到着して、1時間ほどして692列車を牽引して熊本へ帰る。高森線のℂ12 208と人吉の58654が九州最後の定期蒸機列車として、1か月後の3月9日まで活躍した。 '75.2.11 高森-阿蘇白川 P:長友克行
DF50置換えのED76が大淀川を渡る。ボート遊びの父子が印象的だった。 '79.8.23 宮崎-南宮崎 P:野々村康久
複線での蒸機列車同士のすれ違いは往時、東海道本線で見慣れていたが、久しぶりに筑豊で見るC55 46牽引733レと2764レD51 361の走行離合には、新たな感動があった。'70.7.15 中間 P: 森瀬壽三
就職した、その年。幸運にも夏休み前の九州出張があり乗りつぶしで訪れた高千穂駅。民営化の声がちらほらと言った頃で、その後の廃線の運命など知る由もありませんでした。 '85.7.27 高千穂 P:稲毛信夫
後藤寺線の有名撮影地を9600重連がドラフト音も軽やかに走り去る。 '73.11.21 船尾ー起行 P:田中翔貴
■国鉄時代バックナンバーのご案内
現在『国鉄時代』はvol.1、vol.9〜21、vol.23〜25が品切れとなりました。他の巻も早めのご購入をお勧めいたします。電話でのご注文はブックサービス(株)0120-29-9625(フリーダイヤル)まで。
午前中は川線と人吉機関区で撮影した後、いよいよ待望の大畑のループに向かう。貴重な補機付き混合列車843レの旅がもうすぐ始まる。 '70.5.1 人吉 P:鈴木博之
C59牽引旅客列車の発車間際。カレチ氏が機関士に列車編成(車輌数)、換算重量等を通告中している懐かしい光景。 '65.8 熊本 P:中川弘一
D60が来るものと期待して待っていると、やって来たのは戦時型D51 1062号機。落胆してシャッターーを切ったが、折良くバス窓のキハと離合してくれた。 '72.8.4 直方-勝野 P:古澤成博
とにかく暑い日だった。後補機の29608を従えて、ブラスト音高くやって来たのはパイプ煙突の29612号機。撮影後、熱くて素手でカメラを触ることが出来なかった。 '73.8.4 勾金-油須原 P:古澤成博
南宮崎電化開業もいよいよ明日。佐伯以南はD51重連となり南下する蒸気機関車さよなら運転列車。春の西日を浴びて最後の宗太郎越に挑む。 '74.4.24 上岡〜直見 P:藤田高士
蒸機のみの路線として注目されていた室木線。とりたてて撮影する場所もなく、1往復乗車して遠賀川に戻ると、午前中の運用が終わったハチロクが若松に引き上げて行った。 '72.8.5 遠賀川 P:古澤成博
元国鉄職員の友人から、貴重な写真のネガの管理を任され投稿に使っても構わないと言われた。いい写真があったので今回投稿させえていただいた。撮影場所については、記録がないので曖昧なところはご容赦願いたい。 '72.10 加地木付近 P 所蔵:小西 明
ホームの立ち食いうどん・そばって、なんであんなに美味しいのでしょうか。 '81.5.3 小倉 P:小林慎治
九州撮影旅行筑豊本線2日目は筑前内野駅付近に来ました。駅ホームへ進入してきた下り733列車はC55 57の牽引でした。停車中、スポーク動輪のその美しさにずっと見とれていました。 '69.3.24 筑前内野 P:村木勝義
機関区で整備を終えた門鉄デフのC58 122が豊肥本線熊本行き列車を牽引、大分駅を発車した。この後、阿蘇山麓の勾配区間を越えて九州を横断する。 '63.12.22 大分 P:中島正樹
山野線のC56もすでになく、遠く小樽から来たC12 225号機がローカル線の貨物を牽いていました。有名な栗野の大築堤もこれではと、ガッカリした記憶があります。 '74.8 栗野-吉松 P:吉葉富雄
DL化直前ということで、唐津線を訪ねた。午前中1本の客車列車発車をまず撮影、この後山越え区間で貨物列車を狙った。 '73.8.27 多久 P:宮山幸雄
ポツポツと雨が降りだし、急いで海老津駅まで戻る途中で撮った、梅雨の思い出です。 '78.6.4 赤間-海老津 P:小林慎治
638レは機関車回送の指定列車になっている。この日は豊後森区の78625が大分(運)での検査を終え、前補機で有火回送された。 '70.6 久大本線 庄内-湯平 P:藤田高士
GW明けの日曜日の夕方、C58 112号機が牽引する潮干狩り団臨。多くの乗客とアサリを乗せて、25‰の上り勾配を力闘する。 '71.5 中判田〜竹中 P:藤田高士
東シナ海を望む美しい海岸線に沿って、ED76が牽引するローカル列車がやって来ました。沿線の風光は今も変りません。 '83.8.6 西方ー薩摩大川 P:宮城浩志
高校時代の短い試験休み。日豊本線にC57を追いかけて、寝台特急の交換という今思えば思わぬ収穫があった。 '73.9.29 門石信号場 P:中村 肇
お召列車牽引の大任を果たしてすぐ、宮崎へ回送される一号編成の先頭に立つC57 117号機。軽快に大築堤を駆け上がってきた。 '73.4.12 日豊本線 日向市〜南日向 P:藤田高士
冬枯れの風景の中を長大な石灰石輸送列車が10‰の勾配を喘ぎながら登ってきた。しばらくして補機は切り離され単機でゆっくりと勾金方面に帰っていった。のんびり過ごした冬の一日だった。 '74.2.18 田川線 内田(信)-油須原 P:高橋洋二
九州最後の、いや西日本最後の蒸機列車が1975年3月23日西鹿児島・宮崎間で運転された。友人達と張りきって霧島越えを狙ったが、散々な出来だった。その車輛の鹿児島への返却回送。これが本当に最後の蒸機牽引列車だった。カマはこの日の本務機C55 57。この日のパートナーのC57 175は宮崎に残った。発車は夕刻の18時30分頃。C55 57は単機で12系6輌を牽引して西鹿児島へ向かった。しかしこの歴史的な蒸機が解体されてしまうとは。さらに最期のお召列車牽引機C57 117も解体されてしまった。 '75.3.23 宮崎 P:長友克行
本来ならC57重連の列車だが今日は最後まで残ったC61 18が先頭に付いた。あとから聞くとファンサービスで走らせたらしいとのこと。ラッキー。 '74.3 美々 P:松崎昌一
黄色いヘルメットの保線係の職員さんが、ホームに上がって、ちょっと「一服」。 '78.6.4 小倉 P:小林慎治
北九州の炭砿地帯を乗り歩き、複雑な路線の要となる後藤寺駅で撮った日田彦山線の日田行729レ。背後にはシンボルとなるボタ山が聳え、構内には石炭や石灰石のセキで賑わっていた。 '69.2.8 後藤寺 P:中島正樹
D51が牽引する臨時急行「高千穂51号」。南宮崎電化直前に複数のDF50が事故や故障で脱落。機関車の需給が逼迫し、年末年始の多客臨などはC57やD51も総動員で運転された。 '74.1 坂ノ市-幸崎 P:藤田高士
筑豊の看板機関車だったC55 57と宮崎で2年振りの再会。すっかり南九州の風土に馴染んだその姿を見て一抹の寂しさを感じたことを覚えている。 '74.3 宮崎 P:松崎昌一
全身に煙を纏い、目明トンネルを飛び出してきたD51牽引の上り貨物列車。サミットの佐志生トンネルまであとわずか。 '74.2 幸崎-佐志生 P:藤田高士
大型機活躍拠点の直方。多くの蒸機が行き交い、憩い、構内は煙の中。まずはD50が撮れて一安心。 '70.4.29 直方機関区 P:青木一郎
肥薩線人吉〜吉松間は日本有数の山岳線。敦賀式集煙装置と重油タンクで身を固めたD51がて急勾配に挑んでいた。奮闘する後補機の姿が夕日に映える。 '70.11 大畑ー矢岳 P:中川弘一
急行「ニセコ」「大雪」が蒸機牽引ではなくなったあと、突如復活した最後の蒸機牽引急行「日南3号」。門鉄デフの美しいC57 9が結構な勾配をドレーンを吐きながら登ってきました。サングラスをかけた機関士さんがかっこよかったです。 '74.2.4 日向沓掛-田野 P:高橋洋二
飯塚駅に進入するC55 57牽引の733レ。地方の駅でも列車進入時は複数の駅員がホームに立ち列車の安全運行を担っていた。 '69.2.10 飯塚 P:鈴木博之
炭砿地区は9600ばかりで少々辟易。それでもご後藤寺線は街中を抜けたところから20‰超の勾配があって、迫力あるシーンが見られた。 '73.8.27 船尾-筑前庄内 P:宮山幸雄
初の九州旅行の日にすれ違った乗車中の寝台特急「はやぶさ」の車内から撮影した向日町運転所所属のL特急下り「有明3号」。月光型と呼ばれたこの583系は昼夜不眠不休で頑張る「鉄人」である。 '83.7.29 博多-竹下 P:熊谷孝志
中間-折尾間は非電化複々線で8620、9600、C55、C57、D51、D60といった多種多様な機関車が見られ、効率よく撮影できました。中でもデフなしの86や96牽引の列車はまるで大正時代の雰囲気で魅力的でした。 '72.1.6 中間-折尾 P:高橋洋二
太陽が山の端にかかり始めたちょうどその時「にちりん」26号がやってきた。 '80.12. 熊崎〜上臼杵 P:藤田高士
なぜか右側のデフにだけ首を少し上げたハトのマークがついていたC11 194。貨車を従え交換列車の到着を待つ。ホームの上には荷物を満載したリヤカー。ローカル線が地域物流の動脈だった時代。 '74.12 油津 P:小林哲哉
どこからか志布志線494列車のお別れ運転の情報を聞きつけて、志布志線へ出かけた。この日の2両のC58は綺麗に化粧をされ、懸命に494列車を牽引した。この2輌C58 277とC58 275はどちらも保存されたけど、肝心の志布志線は廃止されてなくなってしまった。 '75.1.19 岩北〜岩川 P:長友克行
初冬の曇り空がますます暗くなる頃8レが臼杵川を通過。昔はどの工場の煙突からも、ケムリが勢いよく吐き出されていましたよね。 '70.12 熊崎-上臼杵 P:藤田高士
1979年のお正月DF50を撮影するために南九州へ。その時の西鹿児島駅でのスナップ。左は17時07分発は博多行1022M「有明」、右は16時50分発新大阪行24M「なは」。「なは」が新大阪に到着するのは明朝7時35分である。現在、鹿児島中央発16時11分の「さくら」に乗れば博多で「のぞみ」に接続しその日のうちに東京に着いてしまう。まして新大阪なら19時55分の「みずほ」が23時37分着。夜行列車は廃れるはずだ。 '79.1.3 西鹿児島(現鹿児島中央)駅 P:長友克行
大畑は今でもあらゆる列車がスイッチバックする駅だ。D51 1058牽引1121レがスイッチバックしたあと、猛ダッシュしてループを登り始めたところである。ループを登り切り、左手の山の上に現れてくる列車を再び眺めることもできた。 '72.1.8 大畑 P:高橋洋二
この操車係のおじさんには何度も叱られた。年少の機関車ファンがケガしないようと敢えての厳しい言葉だったのではと今になって思う。蒸機全廃より早く数年後には退職されていた。 '68.6 大分運転所 P:藤田高士
3線の矩形庫、木製の電柱。煙の香漂うのどかな時間が流れていました。 '74.3.23 吉松機関区 P:佐藤元則
熊本駅の奥にあっレンガ造りの機関庫。クラシックな姿は大正生まれの機関車と一緒だと一段と風格があるように見えました。 '72.8.7 熊本機関区 P:石地康司
秋晴れの磯庭園から桜島を望む。肥薩線から乗り入れるDD51牽引の普通列車が横切っていった。絶景なり。 '76.9 竜ヶ水-鹿児島 P:藤田高士
直方駅構内を見渡す跨線橋でC55 3牽引の737レを撮影。このあと吹き上げるシンダーを浴びて服がススだらけになった思い出のショット。 '69.2.10 直方 P: 鈴木博之
初めての長崎本線は大村湾の見える風光明媚な区間を選んだ。しかし、意外に山地で撮影ポイントが分からず、みかん畑の中をうろうろ探し回っているうちに本命のC60牽引「さくら」が来てしまった。 '63.12.29 喜々津-大草 P:中島正樹
あいにくの大雨だったので撮影は切り上げ、急行「天草」の最後尾に乗車して後部補機D62 34の走行音を録音しました。ガラス窓を通しても25‰を登る咆哮は迫力十分でした。 '72.1.10 筑前内野-筑前山家 P:高橋洋二
当時吉松区のC55はC57との共通運用で、なかなか巡り会うことができなかった。しかし、撮影行の最終日に宮崎駅に戻ると、美しく磨かれた私の大好きな57号機が真横に佇んでいて大感激だった。 '72.8.9 宮崎機関区 P:古澤成博
初めての九州旅行で、念願だった特急「おおよど」を撮影しました。 '77.8.10 博多 P:采女 誠
今となっては調べる術もないが、たいそう時代がついたこの庫は明治期のものだろうか。大正の機関車を追いかけた昭和の青春。平成の今、しみじみと感慨に浸る。 '73.8 :西唐津機関区 P: 井芝七路
大雪の峠道をD50140号がゆっくり登る。ヤッケは羽織っているが軍手の指先、足元の布製のズック靴!のつま先から融けた雪が滲みこみ、凍える寒さに耐えながらの撮影。高校2年生の冬の無謀な思い出。 '71.1 筑前内野〜筑前山家 P:藤田高士
当時、筑豊本線は旅客貨物とも大半のスジを蒸機が担っていた。デゴマル牽引の723レで中間駅に向かい、C55・D60などの活躍を見た。下り線を行く1765レ牽引のD60 31。'70.7.14 中間 P:森瀬壽三
下り寝台特急の牽引を終えた"銀のEF81"は、次の仕業に向かいました。 '79.1.5 門司 P: 小林慎治
冷んやりとした朝の空気。安全弁から噴き上がる蒸気。耳をつんざく汽笛が山峡に響き、1526列車発車。 '73.8 青井岳 P:井芝七路
この列車はC11がバック運転で客車を牽引していたので、客車の先頭でこのような写真を撮ることができた。また煙突に近いので、ブラスト音を味わうにも申し分ない場所だった。 '71.10.1 直方-伊田 P:高橋洋二
宗太郎越のサミット、重岡駅での寝台特急富士7レ8レの出会い。山間の駅が一瞬華やいだ空気に包まれた。 '70.10 重岡 P:藤田高士
都城駅に着くと、絶好の光線状態で吉都線普通列車の先頭にC55 52号機が佇んでいた。C55を撮影に行ったもののなかなか巡り会えず、結局52号機とはたった1回だけの出会いとなった思い出の1枚。 '73.8.8 都城 P:古澤成博
首尾よくC61 13を撮りおえてホッとしていると突然走行音。なんとDD51 571が両パンタのED76と車輛限界測定車オヤ31等を従えての「おいらん列車」。電化は秒読み段階だった。 '70.7.16 伊集院 P:森瀬壽三
「早起きは三本の得」と言う言葉が流行った。筑豊本線の折尾〜中間間も早朝は香月線からの乗り入れがあり、確かに3本位多く撮れた。 '71.8.1 折尾-中間 '71.8.1 P:松崎昌一
昭和40年当時、151系ボンネット特急電車は直流用のため交流区間の九州は乗り入れで出来なかった。そこで、九州の区間をED73形電気機関車で牽引し、電車用のサービス電源供給のためサヤ420を間に連結して運行された。8時45分博多駅発特急「4Mつばめ号」が新大阪に向かって発車しいった。 '65.8 博多 P:中川弘一
宮崎機関区時代のC61 20が庫内で多くの職員に整備されていた。他に僚機のC61 18、C61 24も同機関区で休んでいた。当時機関区を見学したいときは事務室で許可を得て記帳するケースが多かった。 '72.1.11 宮崎機関区 P:高橋洋二
初めて見るC55に感動。カメラを持つ手が震えた。 '74.3.28 吉松 P: 大森光祥
無煙化を翌月に控え、矢も楯もたまらず出かけた撮影行。58654の雄姿を同好の士らと。 '75.2.25 川村ー肥後西村 P: 大森光祥
河原に降りようと道を探しているうち偶然見つけた橋を間近に見渡せる撮影スポット。見たことのない迫力構図の白川橋梁に興奮しました。 '73.8 立野−長陽 P:本荘裕二
高鍋駅を発車するハドソンC61。亜熱帯植物が南国宮崎の雰囲気を伝えてくれます。 '72.8.5 高鍋 '72.8.5 P:石地康司
夏休みに乗ったあこがれの蒸機列車。地元では本当に生活の一部としてとけ込んでいました。 '71.8 P:本荘裕二
室木線は典型的な盲腸線だった。遠賀川から821レに揺られて古月駅で下車。雨の中、823レをバックで牽引する88627を近くの陸橋から雨滴を気にしつつとらえた。'70.7.14 室木線 古月 P:森瀬壽三
汗だくになりながら、C57四次型唯一の門デフ装備機196号機が境川橋梁を渡る光景をカメラに収めた懐かしい思い出。 '73.8 青井岳 P:中川弘一
海とミカンと門鉄デフのシゴナナ。夢のような景色が目の前に広がっていた。今では海が埋め立てられ、電化され、風景は一変している。 '72.1 喜々津-東園 P:高橋洋二
鹿児島駅で入換え業務をこなすC55 52。屋根の向うに桜島の勇姿が見えます。 '72.8.6 鹿児島 P:石地康司
五月晴れの空の下、初節句を祝う見事な鯉のぼりが泳ぐ。583系「にちりん」が横切っていった。 '82.5 佐志生-下ノ江 P:藤田高士
本来重連の貨物列車1765レは正月明けのせいか荷がなかったが、D60 23+D60 22は共に迫力ある噴煙を上げて、冷水トンネルまでの25‰勾配を勢いよく登って行きました。 '72.1.10 筑前内野-筑前山家 P: 高橋洋二
エンジン音を響かせて青井岳に向かう4012D特急「にちりん」。キハ80系特急は非電化区間のクイーンに相応しく光り輝いていた。 '74.2.16 田野-青井岳 P:鈴木博之
誰もいないビーチを横切る小柄な彼女。遠くから見つめていた40年前の夏の朝。 '73.8 油津-大堂津 P:藤田高士
大野の大築堤を行く混合列車843レ。30‰の急勾配であることがよく分かった。長く棚引く煙と前後の機関車の時々乱れるドラフト音が印象的だった。 '71.9.30 大畑-矢岳 P:高橋洋二
1121レで大畑を訪れ一日中過ごした。急勾配に臨む2輌のD51は煙、音ともに迫力満点であった。日陰で黒く潰れていた部分もデジタル技術のお蔭で蘇った。 '71.10.3 大畑-矢岳 P:高橋洋二
炭砿地帯の象徴であったボタ山が間近に見えていた筑豊の飯塚。ピラミッドのように聳えるその前を上りD51貨物が通過して行った。 '63.12.25 飯塚 P:中島正樹
門司港行きの到着です。あれから30年以上経ち、ホームの様相もすっかり変わりました。 '81.5.3 小倉 P:小林慎治
春の昼下がり、臼杵湾沿いの段々畑は大根の花や菜の花がちょうど見頃。戦時型D51が15‰を軽快に駆け上がってきた。 '71.4 臼杵〜徳浦(信) P:藤田高士
菜の花を眺めて走る感じの、48695の牽く貨物列車。長閑な春の日だった。 '69.3.8 真申-小浦 P:岸 芳夫
お盆の頃に門司港から夜行急行で満員の乗客のため立ったまま田野に着きました。田野の赤い橋梁を門デフC57が轟音を立てながら通過して行きました。 '73.8 田野 P:中川弘一
東京からやってきた寝台特急「さくら」は九州管内を博多駅までED73でやってきました。博多から先は、非電化区間になるのでED73を切り離して蒸機に機関車交換する直前です。 '65.8 博多 P:中川弘一
門司から夜行で南宮崎を経由、宿も決めずたどり着いた西鹿児島駅。振返ると夕映えに「西鹿児島」の文字が、ひときわ旅情を誘った高校2年の夏休み...。 70.8 西鹿児島 P:中浦秀和
8月の盛夏、山間の駅にて子供、赤ん坊連れの乗客が日傘をさしながら上り列車を待っています。列車交換のため蒸機牽引の下りが待機中。懐かしい駅風景。 青井岳 '73.8 P:中川弘一
清武からの上り勾配は長く続き、駅構内に入ってもまだ力行が続く。夕方5時だがまだ明るい。傾き始めた南国の陽差しを受けながらきれいなC57がやってきた。 宮崎発都城行1547列車 機:C57 65 '70.4.30 日向沓掛 P:青木一郎
八代付近を快走するC60・D51重連の140レ。珍しくC60 が前補機。手前の線路は肥薩線だが、蒸機とともに消えた「踏切注意」交通標識の1号機関車風イラストが懐かしい。 '70.7.17 八代 P:森瀬壽三
この長崎駅から団体臨時列車で関西へ帰る高校の修学旅行の最終日、出発までの自由時間に運よくブルートレィン「さくら」を写すことができました。 '64.3.27 長崎 P:青山春樹
この日、重富駅でB20 10撮影会が開催され、B20+C55+C12+8620が旧型客車3輌を牽引し、30㎞/hの超スローペースで鹿児島を目指した。 '69.7.27 重富 P:中浦秀和
やって来た真っ赤な機関車に女の子も興味深々でした。 '82.8.23 諫早 P:須崎雅宏
C55のバック運転で人気のあった735列車が複々線の築堤をテンダーを揺らしながら登って来た。この人気列車も1週間後のダイヤ改正で消えてしまった。 '68.3.15 折尾ー中間 P:松崎昌一
秋の陽は釣瓶落とし。近くの醸造会社の終業時間を告げるミュージックサイレンが、ドボルザークの「新世界」を奏でる。列車を待つ川岸で聴いていると早く帰りたくなってきた。 '70.10 熊崎-上臼杵 P:藤田高士
昔から子供たちは機関車と大の仲良しだった。校外で写生の授業だったのか、若松機関区で見かけた1コマ。C55 52健在だった頃。 '68.12.2 若松機関区 P: 岸 芳夫
放射冷却で冷え込んだ寒い朝。D51の煙までが、固まったような軌跡を残して走り去っていきました。 '73.11 坂ノ市-幸崎 P:藤田高士
電化直前、C60・C61最後の活躍を求めて伊集院で下車。運良く127レ牽引のC61 13 を撮ることができた。この角度から見る門デフC61には独特のスピード感がある。 '70.7.16 伊集院 P:森瀬壽三
「国鉄時代」もあと10日ほどで終焉を迎える肌寒い雨の日、ピカピカのジョイフルトレイン「サザンクロス」のお披露目が大分駅で催された。 '87.3 大分 P: 藤田高士
いつもは切り通しの上から撮影するの4589レだが、後補機が煙で隠れたりいまひとつスッキリ撮れなかった。思い切ってサイドから狙ってみたが、編成が長かったため後補機が入らず悔いが残った一枚。 '70.10.31 大畑-矢岳 P: 鈴木博之
雪景色になった冷水峠をD60が本務機のC55を歩調を合わせながら登ってきた。この後D60は飯塚まで行って今度は「天草」の補機となって再び冷水峠を登って来る。 '71.1.3 筑前内野-筑前山家 P: 松崎昌一
当時の吉松駅構内には貨車も多く見られ鉄道輸送の中継地として賑わっていた。そんな構内の静寂を破り482レが矢岳を目指して発車して行った。 '70.11.2 吉松 P:鈴木博之
古いネガを整理していたら、"流し撮り"の練習をしていたときのコマを見つけました。 '79.1.28 門司-小倉 P:小林慎治
踏切警手が白旗を振る中を発車してゆくC60牽引の普通列車。当時は全国どこでも見られたごく日常の風景だった。 '69.12.20 伊集院 P:鈴木博之
40年前の冬の朝。ミニスカ旅ガールとC57の共通点は? 答えはどちらも足回りが魅力的...。お後がよろしいようで。 '72.1 青井岳 P:藤田高士
中学2年の春休み、初の九州旅行で東京から急行「桜島」で降り立った最初の駅は早朝の折尾駅だった。4線区間で朝のD60、8620の客レ撮影後駅前に戻ってきた。 '73.3.27 折尾 P:高橋卓郎
D51 485号機の牽引する上り貨物列車。同機は南延岡区の指定整備機で、給水温メ器や煙突には真鍮の鉢巻も凛々しく、砲金製の煙室扉レバーは美しく磨かれていた。ナンバープレートには青の塗料が注され、この機関車に出会うととても得した気持になるのだった。 '70.11 日豊本線 上臼杵-臼杵 P:藤田高士
人吉駅で発車を待つ混843レを牽引するD51 1151。重油併燃・集煙装置付きの勇壮な姿を見ると、これから向かう大畑のループへの期待感が高まります。 '70.5.1 人吉 P:鈴木博之
川岸の木陰の下、川風で涼みながら汽車を待つ至福の一時。やがて長い鉄橋を足取りも軽く、客車をひいて渡ってきたのは私の好きな4次型のC57 199だった。 '73.8.19 川南-高鍋 P:田中一弘
特急の着発があり、少し前まで賑やかだったホームも今はローカル列車が静かに発車待ち。C59に似ているシゴナナ四次型が佇む別府駅の昼下がり。門司発大分行 1521列車 機:C57195 '65.10.24 別府 P:青木一郎
山間にこだまするドラフト音。8542列車は集団就職用の臨時列車だった記憶があります。牽引機のC57 72とはこの日「日南3号」の牽引機として田野の築堤で再会しました。 '74.3 青井岳 P:光野 博
真夏の強い日差しの中、門デフD51 375〔門〕が13輌のホキ3500を連ねてやって来た。日田彦山線の機関車の向きは石原町往復は下り逆行であったが、香春往復は香春に転車台があったので常に正位であった。 志井─石原町 '71.8.10 P:小野和俊
「今日は『高千穂51号』が来るよ」との情報。急遽南宮崎で下車したが、猛暑で大淀川まで歩く気力はなかった。やって来たのは何と117号機! 赤ナンバー赤ロッドで青客編成を、しょうもない場所で撮ってしまった痛恨事。 '73.8.7 南宮崎 P:古澤成博
「日南3号」の魅力は2輌のオロによるところが大きかったと思う。このスマートな優等車が早々と消えていったことは何とも残念だ。 '74.3.29 日向沓掛 P:井芝七路
桜島とC57のツーショット狙いで国道を歩き始めた。しかし朝から強烈な日差しを浴びて竜ヶ水駅へ引き返してしまった。湧き水で一息つき、再チャレンジをと考えたが結局線路際のお手軽ポイントへ。すぐ妥協する撮影姿勢は今も変わらない。 '71.7 竜ヶ水-鹿児島 P:藤田高士
都城駅で発車を待つ629レのオハフ33からは牽引機C57 151のテンダーが見えた。今になってみると青色モケット張りの座席や板張り床の油の匂いが懐かしい。 '73.3.31 都城 P:鈴木博之
細島港には小さな運河があって、細島駅を出た上り列車はすぐに此の運河を渡ります。鉄路はこの橋梁部分だけしか見えずシャッターチャンスを逃さないか心配しましたが、ハチロクの動き出す音で細島駅を発車した様子が手に取るように判りました。 '73.8.17 細島-伊勢ケ浜 P:高橋 明
この日は田川線油須原へ後補機つきの貨物列車を撮りに行った帰り行橋機関区へ行った。機関区では前角後丸門デフ変形機の横で49688が煙室扉を明けて掃除中であった。 '74.5.26 行橋機関区 P:木部智司
夏の日差しが照りつけ、強烈な蒸し暑さの由布院盆地。やってきた貨物列車の機関車は前年郡山から転属してきたD60 71号。大分(運)の門デフ機が大好きな高校生は不満たらたら一枚だけシャッターをきった。 '69.8 由布院〜南由布 P:藤田高士
爽やかな南国の夏の朝、一気に堤を駆け上がって来た日南線のC11が、大淀川の川風にポッツ!と短い汽笛。 '70.8.3 南宮崎-宮崎 P:中浦秀和
初めての長崎本線は大村湾の見える風光明媚な区間を選んだ。しかし、意外に山地で撮影ポイントが分からず、みかん畑の中をうろうろ探し回っているうちに本命のC60牽引「さくら」が来てしまった。 '63.12.29 喜々津-大草 P:中島正樹
「C55 52」と「C57 52」を揃って写すことができました。どちらも私にとって好きな「カマ」でしたが、2台が揃って若松にいた期間は短かったと思います。 '71.12.31 若松機関区 P:衛藤哲也
前日の快晴が一転してこの日は冷たい雨に見舞われた田野。急行「日南3号」を牽引するC57のナンバープレートも確認できない程の靄の中だった。 '74.2.17 田野-青井岳 P:鈴木博之
横浜の会社の独身時代に寮祭で付き合うようになり、結婚の承諾を受けに高原の実家を訪ねた。夜、親戚の方々に紹介を頂き、焼酎をガッチリ飲んだ翌日、義兄に連れられて、実家の近くで写した。一晩中、蒸機の汽笛、ブラストが聞こえ素晴らしい、夜だった。 '74.1.24 吉都線 高原-広原 P:渡部 司
細島の大通りを港のハチロクが通ります。この踏切は比較的大きな道路を横切っているにも係らず遮断機のない警報機だけの踏切でした。この頃には旅客営業は廃止され1日1往復の貨物列車だけが通っていました。 '73.8 細島-伊勢ケ浜 P:高橋 明
B20 10を先頭にC55+C12+8620+一般客車3輌のイベント列車が、25㎞/hほどの超ロースピードで、鹿児島を目指した。併走する国道には、懐かしい車のギャラリーが。「SLブーム」が始まった頃のひとこま。 '69.7 重富-竜ヶ水 P:中浦秀和
今は昔の筑豊本線複々線区間で無煙化間近の撮影。やって来たのは最後まで残ったD60の内、唯一の門デフ機D60 61。同機は芦屋町に保存されているが最近リニューアルされたのが嬉しい! '74.4.27 折尾-中間 P:木部智司
子供の日に、門司機関区が一般に公開されることを新聞記事で知り、友人と出かけました。「EF10 35」や「EF81 301」の内部が公開されていて、列ぶことなく見学できました。薄暗い工場内でのピンボケ写真も、良い思い出です。 '78.5.5 門司機関区 P:小林慎治
昭和40年の夏、熊本電化を控えて最後の活躍をするC59が「みずほ」を牽引して博多駅を発車する。C59は終着駅熊本までの旅。撮影時期はお盆で、その他蒸機牽引の多くの臨時列車が走り活気で満ちていた。 '65.8 博多 P:中川弘一
陽が西に傾きかけた頃、大淀川に行ってみた。ほぼ無風で残暑ではあったが川面の風が気持ちよかった記憶がある。 '73.8.29 宮崎-南宮崎 P:宮山幸雄
川原から見上げる写真が撮りたくて、温泉旅館の庭を通してもらいました。一発勝負なので立野駅発車の汽笛が聞こえてから緊張しっぱなしでした。 '71.4.17 立野-長陽 P:鈴木博之
学生時代にアルバイトで稼いだ旅費で九州へ旅行しました。熊本駅から西鹿児島駅へ向かう途中に、列車交換でC61牽引上り特急はやぶさが佐敷駅を通過しました。側線にはD51が待機しており、駅には荷物用のリヤカーが見受けられる懐かしい駅風景です。 '65.8 佐敷 P:中川弘一
電化1年前で電化工事が各地で進められていた。架線柱がない場所を探してこの場所に来た。夏でもあり煙は期待出来なかったが、撮りたかったC60は撮影できた。初めて見るC60に満足した。 '69.8.20 伊集院-東市来 P:内田博行
高森線は、混合列車が気動車化されても細々と1往復の貨物が残っていた。それも、新幹線博多開業で廃止となり最後の定期運用に、かわいらしいヘッドマークがつけられたさよなら列車が運転された。 '75.3.9 高森 P:木部智司
日本中が蒸機ブームこの日、8620+C12+C55+B20に、旧型客車3輌を連結したイベント列車が、重富駅で編成され、鹿児島まで運転された。1時間以上かけた機関車の編成が終わり、いよいよ客車に連結される。 '69.7.27 重富-竜ヶ水 P:中浦秀和
南宮崎電化開業前日、蒸気最終列車を牽引するD51 485号機。いつも美しく整備されており、南延岡機関区を代表する機関車であった。この後、佐伯から505号機と重連となり最後の宗太郎越に挑んだ。 '74.4.24 臼杵 P:藤田高士
有名撮影地の大淀川橋梁。逆光のシルエットを狙っていたのですが、かなりずれてしまいました。 '74.8 宮崎-南宮崎 P:中川 稔
4月も中旬の清武川沿いの田圃には、レンゲの花が咲き揃っていた。高曇りの午後、C57196牽引の貨物列車が青井岳越えに挑んでいく。列車が去っても、ドラフトの響きは遠い春雷のようにいつまでも聞こえていた。 '74.4 田野-門石(信) P:藤田高士
ガントリークレーンで給炭中のC58 277号機。青く彩られたナンバープレートや砲金製の煙室ハンドルがお召牽引機としての面影を伝える。荒れ始めた地肌は大過なく働き続けた年月の証明。72年志布志線に転じ天寿を全う、宮崎県内で保存されている幸運な機関車である。 '71.5 大分運転所 P:藤田高士
キューロク後補機付き専用貨物列車。この日は休日だったせいか荷が軽く、デフなしの29670と49654が急行貨物列車のようなスピードでやって来た。春まだ浅い赤峠に、せわしないブラスト2重奏が響き渡っていた。 '74.3.23 田川線 勾金-油須原 P:古澤成博
陽春の午前11時すぎ、快走するC57 117号機牽引のお召列車。耳川河口の天候は晴れ無風。この後カーフェリーによるお召船が細島港から川崎港まで運航された。 '73.4.12 南日向-美々津 P:藤田高士
門鉄局無煙化達成後の門司機関庫は、主にDLの「ねぐら」として使用されていました。現在、扇形庫は解体され、「北九州貨物ターミナル駅」となっています。ただ、扇形の跡は、今でも確認できます。 '78.5.5 鹿児島本線 門司機関区 P:小林慎治
学生時代の夏休みに九州旅行に出かけました。前日は熊本駅で一泊した後、各駅停車で鹿児島に向かう途中の停車中に下りC61「はやぶさ」がやって来て停車中にテンダーでは、石炭をスコップで掻き寄せる作業を行っていました。 '65.8.20 出水 P:中川弘一
立野駅に到着した124レは熊本行きの列車に連絡していました。小さく写っているこの列車に乗る夏のセーラー服の女学生が坂を下ってき、ドキドキしたことが思い出されます。 '72.8.8 立野 P:石地康司
久大本線の中で風光明媚な由布岳を背景に下りD60旅客列車が快調に走り去りました。 '69.11 湯布院 P:中川弘一
ここは立野駅近くの峡谷に架かる鉄橋で南郷谷からの白川を望む雄大な景色が展開する。高森からの混合列車はC12 222〔熊〕の牽引でゆっくりと山影から姿を現した。ボギー貨車が2輌組まれていたので最後の客車まで画面に収めきれなかった。 混126レ 1972.3.29 高森線 立野-長陽 P:小野和俊
大阪から乗った急行「日南1号」を日向市で降り、真っ先に向かったのは本線のC61でも門デフのC57でもなく細島港のハチロクでした。倉庫群に横付けされた貨車と貨車移動車に挟まれ、そこには期待通りの「港のハチロク」の姿がありました。 '71.12.31 細島 P:髙橋 明
峠越えを前に原田行き普通客レを熊本行き寝台特急「明星」が追い越す日常の風景。 '76.7 桂川 P:服部基寛
唐津線の蒸機牽引客レは朝の1往復のみ。多久を発車したキューロクは夏の朝にもかかわらず黒煙を出してダッシュして行った。 '72.8.7 多久-中多久 P:石地康司
機関区内は黒煙がもうもうと漂っていたがC57一桁台ということで思わず撮ってしまったもの。後ろ宮崎駅には京都行き急行「日南1号」が停車していた。 '73.8.29 宮崎機関区 P:宮山幸雄
昼下がりの南延岡駅構内に、旭化成所有のスイッチャーが現れた。外観からすると蓄電池式機関車だと思われる。化成品製造工場内は火気使用が厳しく制限されているのだろう。調査を怠り、今も?のままの機関車である。 '73.9.15 南延岡 P:藤田高士
ローカル線乗りつぶしにもってこいの列車に乗りました。矢部線で一往復の後、そのまま佐賀線を経て佐賀に向かう車輌運用となっており、そのとおりに表示されたサボが面白く、ついカメラを向けました。今では2線とも廃止されて過去のものに。 '85.3.8 黒木 P:鵜飼功一
青森から流れて来たC61を撮りに宮崎へ、やって来たのは12系を牽くC61 20だった。この姿が再び見られるとは! '73.8.18 宮崎 P:木部智司
C58の牽く上り豊後竹田行746レは勾配に沿って6輌の客車を上下させながら小高い丘を登って来た。当時、はえたたきと藁小積みは当たり前の風景であった。 '70.3 中判田-滝尾 P:小野和俊
C57 195が牽く門司港発大分行1521列車。この各停は特急待避、交換のため別府駅で20分も停車する。上り特急「いそかぜ」がやって来た。まだ単線時代の別府駅の昼過ぎ。 '65.10.24 別府 P:青木一郎
昭和49年12月22日の筑豊本線「さようならSL」に先立つこと5日、田川線「さようならSL」が定期貨物列車で運転された。平日だったが学校をサボって撮影に出かけた! '74.12.17 崎山-油須原 P:木部智司
米子から宮崎に転属したばかりのDF50 506号機がいきなり3005レ「彗星」の牽引に充当された。山陰本線では「出雲」を牽引したことがあったのだろうか。 '76.9 門石(信)-青井岳 P:藤田高士
今は温泉、観光で賑わう湯布院駅ですが、昭和44年当時は、D60牽引の普通列車が到着してカバンを持った旅行客の姿が見える程度です! '69.11 P:中川弘一
大分を出発したC57は大小の峠を征服して、佐伯から先最後の難関宗太郎峠に挑む。佐伯の手前海崎からのわずかな平坦区間で火床を整えて蒸気を作り宗太郎峠に挑んで行く。 '68.3.28 海崎-佐伯 P:松崎昌一
ボンネットのおヒゲは60Hz用元481系編成の証。乙津川鉄橋を通過する485系11輌編成の「にちりん」。 '77.3 高城-鶴崎 P:藤田高士
大分(運)配置のC58は門鉄デフ機が多いが、この日は肩こりしそうなオーバーサイズの変型デフを装備した124号機がやってきた。 '71.5 上臼杵-臼杵 P:藤田高士
臼杵湾まで望む大景観を従え、力闘するD51牽引上り貨物列車。サミットの佐志生トンネルはすぐそこ。電化開業まであと1か月、ようやく撮影できた納得の一枚。 '74.3 幸崎-佐志生 P:藤田高士
あな悔しや、霧島越えの傑作を見るにつれ、悔しさが甦る。明日の早朝550レはC55の前補機。夜明け前には峠に向かって歩き出すこととし、国分駅に泊まり込んで準備は万端。唯一の誤算は翌朝、重連の駅進入の轟音まで目覚めなかったことだった。 '73.8.26 国分 P:田中一弘
霧島越え定番の撮影地、松永小学校うらのお立ち台。蒸気牽引列車の撮影効率が悪く一度だけの撮影でしたが、25‰を登るC57は迫力満点でした。 '73.12 国分─南霧島(信) P:吉葉富雄
夏休みが終盤にかかって撮影で訪れている人は少なかった。この付近は蒸機列車の本数が多く、特にこのC55 52は今日は旅客、昨日は貨物と表情を変えて楽しむことができた。 '73.8.30 日向沓掛─田野 P:宮山幸雄
シラス台地の絶壁を見上げながら霧島神宮へと登るC57。秋の日差しに白煙がまばゆく光る。 '73.11.3 国分-霧島神宮 P:木村信夫
博多〜別府間2往復の急行「由布」は豊後森と筑後吉井で上下列車が交換するダイヤに組まれている。朝の下り「由布1号」はここ豊後森で上り「由布2号」と顔を揃える。「由布1号」は日田で、直方から黒崎・小倉回り日田彦山線経由由布院行快速「日田」を併結してやって来る。7・8輌めがそれで直方気動車区自慢のキハ66・67の運用である。この日はこの列車に朝の宮原線仕業を終えた回送のキハ40が頭に付いて8編成となり、各車のエンジンが唸りをあげて迫力ある出足で豊後森を後にした。 '84.11 豊後森 P:小野和俊
直方機関区の見学は毎週金曜日14:00〜15:00の1時間。拓本取りや撮影に大忙しの鉄友。元気にしてるかなー。 '72.8.4 直方機関区 P:石地康司
1日の仕業を終え、機関区で火床整理をするD51。その横では一足先に帰ったC55が休む。時折響くコンプレッサの音を聞きながら、蒸気機関車の息吹を感じた。 '73.1.5 吉松機関区 P:木村信夫
低温快晴無風、絶好の撮影条件。D60が猛り狂う形相で這い上がってきた。が、しかし...なんと、盛大な煙が背景の由布岳を覆い隠して...、オーマイガッド! '70.1 野矢─由布院 P:藤田高士
新雪の冷水峠の大舞台。この日の主役D60三重連の登場まであと20分。先導役としてC55牽引の露払い列車が颯爽と現れた。 '71.1 筑前内野─筑前山家 P:藤田高士
朝日を半逆光に浴びて発車するC57は、凛とした気品が漂うようで好きである。この日も晩秋の朝日を浴び、排気した蒸気を足回りにたなびかせ、一気に加速していった。 '1971.10.23 日向山 P:木村信夫
夕方の吉松行き普通列車はC55、C57の共通運用でどちらが来るかわかりませんでしたが、この日は運良くC55 52号機でした。 '73.8 青井岳─田野 P:吉葉富雄
蝉しぐれの中、夕刻迫る青井岳の山々に門デフC57 65〔宮〕のブラスト音が響き渡る。かつての特急牽引機最晩年の威風堂々たる姿は感動的だった。 '73.8.7 青井岳 P:古澤成博
朝日が昇る大村湾を背景に撮ろうと、駅に着くと同時に撮影ポイントまで走りに走り、ギリギリのタイミングで撮影に間に合った思い出の一枚です。 '71.3.28 大草─東園 P:木村信夫
国鉄最西端の駅平戸口駅。8620とC11の列車交換です。共に客車というところが豪華です。最近平戸口に行ってきました。ホームの雰囲気は変わっていませんでした。 '71.8.4 平戸口 P:平林寛信
シラス台地の絶壁を見上げながら霧島神宮へと登るC57。秋の日差しに白煙が光り、C57を浮かび上がらせる。 '71.10.23 国分-霧島神宮 P:木村信夫
短い休みだったのでよそ見をすることなく、一目散にやってきた。天気が悪いのも承知の上。あまりいい出来ではなかったが、また来ればいいと割り切った。がその後もう来ることはなかった。残念。 混861レ D51572〔人〕 '67.2.21 P:小西 明
西鉄北九州線(路面電車)の、手向山トンネルから赤坂電停までの間に、鹿児島本線下り線と併走する「絶景ポイント」がありました。 '79.1.28 門司-小倉 P:小林慎治
梅小路入り前に期間限定で復活したこの機関車がお目当ての一つだったが、結局駅の構内でチラッと見かけたのみ。あの頃は運用を調べて追いかけるなんて、考えもつかなかった。 '72.7 直方 P:井芝七路
晩秋の冷え込んだ朝、昇ったばかりの朝日を全身に浴び、C57は峠を登っていく。もくもくと出る白煙は眩いくらいに輝いていました。 '73.11.3 日当山-表木山 P:木村信夫
珍しく九州で大雪となる。雪の降りしきる中を、ゆっくりと喘ぎながら登ってくる蒸気機関車は幻想的でした。 '71.1.5 筑前山家-筑前内野 P:木村信夫
線路に沿って白川が流れており、真冬で無風の朝に、屏風のような霧が時おり発生する。この霧を背景に撮ろうと何度か通い、ようやくものにできた。 '74.1.3 長陽-立野 P:木村信夫
吉都線と肥薩線が交わる吉松近くで効率よく撮影を、と思ったものの徒歩の移動は範囲が限られ場所選定がイマイチであった。 都城発吉松行631列車 機:D51 18+D51 '70.5.1 鶴丸-吉松 P:青木一郎
当時の筑豊のシンボル、ボタ山を絡めて撮ろうと飯塚駅に行った。やって来たのはラッキーなことにD60 61〔直〕+D51 807〔直〕の重連。発車の際、D60の歯切れのよいブラスト音が印象的だった。 '72.8.4 飯塚 P:古澤成博
宿泊先のユースホステルに向かう前に臨時貨物列車を撮影。夏草で足場確保に苦労した。 '73.8.29 霧島神宮 P:宮山幸雄
D51とD60の重連貨物が冷水峠を煙を噴き上げながらドラフト高く登って来た。サミットの冷水トンネルはもうすぐ。 '70.3.20 筑前内野-筑前山家 P:松崎昌一
編成の後半分を下関で切り離し、西鹿児島への旅はまだ続く。往年の行灯サインに比べると簡素でチト寂しいが機能優先。「走るホテル」の寝台特急、7列車。 '65.10.24 別府 P:青木一郎
雲ひとつない西空に夕日が沈むとき、大築堤にやってきた596レを牽引するC57 9のシルエットが美しく浮かび上がった。 '74.2.16 青井岳-田野 P:鈴木博之
ホームにあった、水飲場や洗面台、吸殻入れなど、いつの間にか、見かけなくなりました...。 '81.5.3 小倉 P:小林慎治
凄まじいドレインを吐きながら発車する9600重連。この前後のコマは、カメラの蓋を開けたため、見るも無残に...。今ならば、酒に酔っても100%ありえない行為だが、あの頃のネガにはなぜかこの手の行為が散見される。 '73.4.29 行橋機関区 P:山縣 博
先行投入されたC61 2号機。今日はC57 196とペアを組んでの運用。日向灘沿いの松林を飛び出し、平田川鉄橋を轟音をたてて通過。 '71.7 都農-川南 P:藤田高士
八代付近の築堤を全速力で駆け上るC61。終着の西鹿児島まではまだまだ遠い。 '70.3.28 八代-肥後高田 P:松崎昌一
せっかくのハドソン+パシフィックをこんなアングルで撮った拙さを嘆きたくなるが、これもまた「私の国鉄時代」の一頁。受験態勢に入った級友を尻目に、九州旅行を断行した中3の夏の思い出。 '73.8.10 高鍋 P:井芝七路
当時の筑豊本線は主力のD60が急速に淘汰され、D51に置き換わっていった時期であった。この32号機も今日が運用最終日で、翌日には休車扱となり、数日後に直方を再訪した際には、ナンバープレートがはずされた状態となっていた。 '72.7.28 折尾―中間 P:遊川 清
14時10分すぎ、7レ・8レの出会い。高校野球決勝、三沢対松山商戦再試合のテレビ放送が、開け放した駅前食堂の窓から聞こえていた。 '69.8 重岡 P:藤田高士
霧島のユースホステルに宿泊した朝、撮影場所に向かう前に通勤列車を撮影。朝日にナンバープレートが若干ギラリとなっている。 '73.8.30 日向沓掛 P:宮山幸雄
貨物輸送をまだまだ鉄道に頼っていた頃の小単位輸送の姿。ニ軸貨車に続くボギーの響きが懐かしい。この機はバック運転時の見通し用に炭水部に小窓が開けられていた。立野発高森行 混126列車 機:C12 222。 '72.3.27 立野-長陽 P:青木一郎
時間どおりに終了するのだろうか。真夏の昼下がりのポール建植をハラハラしながら見守った。 '71.8 上臼杵-臼杵 P:藤田高士
南国の強烈な日差しが注ぐ中、乗客たちは皆屋根付きの場所に集まっていた。やがて到着した上り列車を引く蒸気機関車を見て一様にウンザリとした顔をしていた。 '70.7.25 上田浦 P:松崎昌一
厳しい峠越えを終えたC55 52牽引の1735レが冷水トンネルから飛び出してきた。トンネル上部には換気装置と思われる機械室があったが、実際に使われていたかは確認できなかった。 '69.5.2 筑前内野-筑前山家 P:鈴木博之
勾配区間の力強さに比べるとたなびく煙はカマが昼寝をしているかのような情景。入出区の慌ただしさが一段落し、のどかな感じの吉松区の午後。手前からD51 1058、D51 890、奥にC56 99。 '70.5.1 吉松機関区 P:青木一郎
翌月に交流電化を控えた鹿児島本線南部、最後の蒸機を求めて暑さにもめげずにやって来た。ただ土地勘に乏しく、やっと見つけたシュロの木を取り込んで南国らしさを表現してみた。 '70.8.6 木場茶屋-隈之城 P:中島正樹
回送機が付いたのか重連でやって来た。思いがけずの幸運に小雨模様の気の重さが吹き飛んだ。緑の山に白煙が映える。 834列車 機:C57 169+C57 '70.5.3 P:青木一郎
待機中のC61 19号と20号機。冬の朝日を浴びて、ボディが鈍く輝く。 '72.1 南延岡機関区 P:藤田高士
霜が降りた朝、真っ白な蒸気を残して、D51の牽く貨物列車がダッシュして来た。 '73.11.24 高崎新田-東高崎 P:齋藤隆行
電化工事が始まりハドソンC60最後の活躍の舞台となった鹿児島本線。同じハドソンのC61に比べてテンダーが長い分バランスがよかった。夕方の222レを牽いてやってきたのは鹿児島機関区のC60 18。 '69.2.9 湯之元-市来 P:鈴木博之
青井岳を出発する1526レは元お召予備機C57 192の牽引、赤くて大きなナンバープレートが印象的だった。 '74.1.2 青井岳 P:齋藤隆行
連結終了。左は2016M「かもめ4号」、右は4016M「みどり3号」。 '76.9 肥前山口 P:藤田高士
冷え込んだ冬の朝、C57 192号機が猛烈なドラフトを響かせてやってきた。C57の壮絶な走りには悲壮感が漂ようほどで、感動さえ覚えた。 '72.1 楠ヶ丘(信)〜青井岳 P:藤田高士
田野を発車した列車の煙が太陽光を遮ってくれて、逆光でしたが冷気に残る煙の印象的なシーンが撮れました。 '73.11.23 田野 P:齋藤隆行
盛夏の8月に九州へ、そして肥薩線大畑ループの一角に立った。やがて待ちに待った混合列車が高原の大カーブに姿を現し、ゆっくり時間をかけて眼前に迫った。他に撮る人もなく、暑くて気の遠くなるような一日だった。 '70.8.5 大畑-矢岳 P:中島正樹
電化はまだ6か月先であったが鹿児島近辺ではすでに架線まで張られていた。夕方の22レはC60 28号機牽引でやって来た。私にとってこの列車が鹿児島本線最後の蒸機列車撮影となった。 '70.4.3 西鹿児島-上伊集院 P:内田博行
草生した線路、短尺のレール、少ない本数の枕木、角がとれた薄いバラス。ローカル線を絵に描いた様な大隈線だったが、貨物列車は地域輸送を担っていた。 '73.8.22 大隈川西-鹿屋 P:田中一弘
黄昏時、松浦湾の波打ち際でC11を撮影。今夜の宿は有田駅待合室の予定。なんだか急に少しだけセンチメンタルな気分に襲われてしまった。 '71.4 調川-今福 P:藤田高士
補機の務めを終えて、機関庫にバック運転で戻るキュウロク。バックは筑豊の白いダイヤといわれた石灰石でできた、筑豊のシンボル「香春岳」。 '74.11.14 勾金-油須原 P:衛藤哲也
蒸気機関車が引退して数年後、懐かしい田野を訪問してみた。電化を翌年に控えて、ポールが建った日豊本線をDF50の牽く客レが上って行く。 '78.11 青井岳-田野 P:齋藤隆行
高鍋駅南方の入り江に架かる古港川鉄橋。快晴無風の冬の朝、四次型のC57が軽快に横切っていった。 '72.1 高鍋〜日向新富 P:藤田高士
鹿児島区のC57が牽く集団就職の臨時列車が走ると聞いてポイントで待った、美しい門デフ付きのC57が飛び立つ鳥のように見えた。 '74.3.22 楠ヶ丘信号場-青井岳 P:服部基寛
複々線区間で、9600同士のすれ違いに巡り会った。手前は若松から直方方面へ、向こうは鹿児島本線に入り、門司港方面へ向かう。 '71.4 折尾-中間 P:藤田高士
今は線路すらなくなってしまった総延長40㎞ほどの志布志線。超ローカル線でもC58が最後の活躍をしていた、粋な門デフを備えた112号が峠のサミット目指し勢いよくやってきた。 '74.3.22 大隅松山-岩川 P:服部基寛
昨日、東京を16時40に発車した特急「さくら」1レが小雨降るなか12時15分、DD51に牽引されて到着した。42年前の長崎駅の光景である。 '68.8.25 長崎 P:内田博行
南宮崎電化直前の半年間を駆け抜けたC57牽引急行「日南3号」。ふさわしい舞台で見届けようと田野の築堤で待つ。予期せぬ重連が轟音とともに迫り来る。最高の晴れ姿に言葉も出なかった。C57 187+C57 175。 '73.12.26 田野-門石(信) P:小林哲哉
現役時代のC61 20号機です。東北から来て間がない時期に撮影したものなので、補助灯がついたままです。 '72.3.30 宮崎機関区 P:山本順一
筑豊本線最大の難所である冷水トンネル手前の大築堤を喘ぐように登る740レ。西日に輝くC55 19のスポーク動輪が美しい。 '69.5.2 筑前山家─筑前内野 P:鈴木博之
いきなり私の前に車が停車。中から男が降りてカメラを向けている。私は「どいてぇ〜」とも言えずただぼう然とするだけだった。とりあえずシャッターを押したのがこの一枚。あの時はムカついたが、時が経ち改めて見返すと日産チェリークーペと短パン男が懐かしい。 '73.8 後藤寺─船尾 P:都築雅人
通過するD51のキャブからタブレットを手にした乗務員が身を乗り出して、線路脇に立つタブレット受けとの間合いを図りながら見事に投入。熟練の技です。 '72.5.6 呼野 P:永井修二
朝霧が周囲の山々を隠す静けさの中、腕木シグナルが下がりD60牽引大分行き列車が出発した。見れば後方からも8620の貨物が出発、今日の一日が始まった。 '69.2.11 日田 P:中島正樹
大畑のループを越えた845レは、いったん姿を消し、大野のSカーブに差し掛かった時再び姿を現す。矢岳までの険しい道のりはまだまだ続く。 '71.11.2 大畑─矢岳 P:鈴木博之
梅小路保存機のC61 2と先月火入れ式の終わったC61 20の宮崎機関区でのツーショット。高鍋、佐土原などでの撮影のあと、雨模様のなか、駅ホームから撮ったと記憶している。 '71.12.18 宮崎 P:吉村昌則
鹿児島本線の洞海湾沿いには、岸壁から直接船に石炭を恥込む施設がありました。D60の後方に見える一段高い線路に石炭専用貨物車セラを引いていき、セラの下部ハッチを開け、石炭を船に積み込んでいました。若戸大橋も見えます。 '74.7.20 西戸畑 P:衛藤哲也
博多方面への篠栗線全通で冷水越えの旅客は減ってしまったが、この時期貨物はまだ健在だった。午後から筑前内野側で撮り始めたが、重連はD60+D51の1本のみ。現地で知り合った人から手作りダイヤを頂戴し、今でも記念に持っている。 1765レ D60+D51 筑前内野-筑前山家 P:中島正樹
九州横断の夢を乗せて昭和47年に日ノ影から高千穂まで延伸。その後、立野に向かう工事が一部進んだものの遂に念願叶わず。未舗装部分と綺麗な駅舎が開通早々の様子。小荷物類も懐かしい。 '73.3.28 高千穂 P:青木一郎
1965年頃発行された「気動車ガイドブック」という本に、珍しいキワ90が載っていたことを覚えていた。ただ配置が宮崎のため、住んでいる東京からはあまりにも遠かった。それから4年後、蒸機を撮影しながら九州、宮崎機関区を訪ねたとき、まさか会えるは思わなかっただけに、隅に置かれているのを見たときは嬉しかった。想像したよりも小さく、地味な色合いだった。 '76.8 宮崎機関区 P:長津 徹
学生時代の思い出として九州ぐるっと一周の旅に出た。宮崎駅〜小倉まで夜行座席車、急行「日南4号」に乗車。指定はとったものの満員の約7時間の長旅。ほとんど寝ることができなかった。 '75.3.20 宮崎 P:迫尾 肇