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ヘルメット姿の自転車の主が小屋に入ってしばらくすると、踏切のような警報音が鳴り始めた。時計を見ると12:30を少し回ったところ。いよいよだ。
素晴らしい。これを見ただけで四日市まで来た甲斐があるというものだ。せっかくの可動橋なので写真をつないでみたが、三脚を使っていないうえ、つなぐことなど考えずに画角を途中で変えているものだから綺麗につながらなかった。こういう時は動画機能付きのカメラが欲しくなる。
橋が下りて20数分、DD51の牽く貨物列車がやってきた。鉄道用の可動橋というと芝浦や清水港線のDD13の印象が強いせいか、DD51がやたら大きく見え、どうもイメージしていたものと違い戸惑う。
それにしても長い。数えたら16輌もあった。のどかな風景の路線だが、藤原岳と海路を結ぶ産業の大動脈だということを思い知らされる。DD51はしばらくいったところの機回し線で空車を牽いてきた太平洋セメントの私有機と交代、DD51は空車を牽いて再び橋を渡って四日市へ戻っていく。これで一連の作業は終了のようで、しばらくすると橋が開かれる。下がってから開くまで約35分であった。
翌日曜日、再び四日市まで来たついでに臨港橋へ行ってみた。開閉を期待したのだが、日曜日は船は通らないらしく、操作室は無人。末広橋梁も下りたままとなっていた。
臨港橋の上から千歳町側を見ると、臨港橋の警報機と遮断機の向うに臨港線の踏切が見える。踏切名は臨港橋東踏切というそうだ。日曜日でも列車はあった。末広橋梁を渡って機回し線に進入する列車。
工場から空車を牽いて来た太平洋セメントのDD452。富士重工製。
線路沿いに歩いていくとこんな札があった。この間は通行ができない場合があるということだろう。列車の運行が始まると上部のスピーカーから甲高い警報音が流れていた。 (つづく)