秋晴れの日、はじめてこの地に立ちました。樽前山を背景に、牧場の中をD51貨物が通過していきました。 '75.10.3 室蘭本線 白老−社台 P:葛巻郁夫
北海道各線の最近の記事
C62重連急行103レ「ニセコ3号」が暮れ行く山間部の勾配を駆け上ります。豪快なドラフト音が山にコダマして響いていました。線路脇のふきのとうが春の到来を告げていました。 '70.5 函館本線 熱郛ー上目名 P:中川弘一
宿泊地の留辺蘂を出て、予備知識もなく女満別で発車シーンを撮り、引き返して緋牛内へ。たいした坂でもないのに33号機は歩くような速さだった。以降、緋牛内はお気に入りの撮影地になった。 '74.7 下旬 石北本線 端野ー緋牛内 P:西條洋一
凍てつく北海道、キハ22普通列車とD51牽引貨物列車の列車交換風景。 '74.12.21 夕張線 川端 P:後藤 篤
「車掌さんはいつも、一番後から...♪」と童謡にあり、最後尾に連結されていた車掌車は国鉄最後のダイヤ改正で貨物運用から消えたのは惜しい限りだ。 '82.10.3 函館本線 桂川ー森 P:熊谷孝志
初乗りを兼ねて厳寒期の池北線に入り、峠越えのある置戸で下車した。白樺混じりの林の脇で貨物を待ったが、今冬一番の厳しい寒さに持参していた−20℃までの寒暖計も役に立たなかった。 '75.1.29 池北線 置戸−小利別 P:中島正樹
最後の日まであと1年目。最後の牙城・追分機関区。この時でもまだ機関区は、煙にかすみ、石炭燃えるにおいが一面を覆っていた。入換仕業のため、庫から出て転車台に乗る79616。 '75.2.15 追分機関区 P:山口龍次
この夏はキハ183系特急「ニセコ号」が山線経由で運転されました。48年前、墨絵調の雪景色の中を、C62重連急行「ニセコ1号」が稲穂峠の急勾配に挑みます。 '69.3 函館本線 銀山−然別 P:中川弘一
常紋への勾配をを69644の補機が登って行きます。テンダーでは助手が石炭を搔き寄せており、助手は二人乗務です。D51に負けないドラフトを響かせ峠を目指しています。 '72.2.26 石北本線 金華ー常紋信号場 P:小野木定一
テンダ--車に石炭を満載して出番を待つ北辺の蒸気機関車たち。見学を許可していただいた岩見沢第一機関区では、この機関車たちがあと一年も待たずして現役を退くとは到底考えられない活気に満ち溢れていた。'74.12 室蘭本線 岩見沢第一機関区 P:後藤 篤
夜行の急行「大雪6号」を遠軽で降り普通列車で常紋を越えて金華へ。降りたのは私一人。朝の上り貨物列車は9600の補機を付け素晴らしいドラフトを周囲に響かせ登って来ました。 '72.3.26 石北本線 金華ー常紋(信) P:小野木定一
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『国鉄時代』はvol.1〜vol.31・vol.38〜39が絶版となりました。他の巻も早めのご購入をお勧めいたします。電話でのご注文はブックサービス0120-29-9625(フリーダイヤル)まで。
函館から1D「北斗1号」で朝の長万部駅に到着。隣のホームにはこれから乗る室蘭行き客車列車241レが白い蒸気を上げて待っていた。 '86.2.22 函館本線 長万部 P:藤村巌雄
美幸線の乗車を終えて美深駅で待っていると、下り「天北」到着。14系寝台車を連結した編成は3年足らずで気動車に置き換わってしまった。美深駅木造駅舎も懐かしい。 '85.6.30 宗谷本線 美深 P:藤村巌雄
4月からの就職を控え最後の北海道撮影旅行の一枚。夜行「利尻」を幌延で降り、兜沼へ移動して撮ったものです。この322レを撮った後は、音威子府へ移動し321レを狙いました。 '72.3.19 宗谷本線 兜沼ー芦川 P:小野木定一
2輌のD51の入換え作業を録音しているファンが二人。かく言う私も写真を撮りながら録音していた。 '75.3.23 室蘭本線 岩見沢 P:高橋洋二
釧網本線で撮影を終えて、網走から普通列車に乗車。この列車は北見から急行「大雪6号」になります。美幌駅で長時間停車中に先頭のC58が夜景に浮かび上がっていました。 '70.3 石北本線 美幌 P:中川弘一
五稜郭機関区でこの時初めてD52を見た。素直に「大きい」と思ったが、大きさ以上に機関車の持つ迫力に圧倒された事を思い出す。 '73.3.29 五稜郭機関区 P:田中一弘
蒸機現役当時は線路際の草木が刈られて整備され、撮影時に気になるようなことはほとんどなかった。D52牽引の長大貨物列車でも容易に編成の足回りを撮影することができた。 '69.9.14 室蘭本線 礼文−小幌 P:高野孝二
普通列車で長万部へ向かう途中、にせこ駅に停車。国鉄の官舎越に秀麗な羊蹄山が目に入った。最後尾の客車の連結デッキから撮った。長いつらら、除雪されたホーム、それに駅名標が、冬の景色に映えている。 '69.1 函館本線 ニセコ P:小西明
D61はD51の軸重軽減改造によって6輌が世に出た。二軸従台車以外はD51と同じなので、撮影の際はナンバープレートが見えるように心掛けたものである。 '70.8.21 羽幌線 古丹別ー力昼 P:高野孝二
北海道に渡って最初に訪れた函館本線の張碓駅。断崖が海岸に迫り、海水浴シーズン以外はほとんど乗降のない駅だが通過する列車は多かった。今は廃駅になり跡形もないと聞く。 '67.4.30 函館本線 張碓 P:中島正樹
C62急行「ニセコ」を撮影した翌朝、大沼駅に向かった。C62が函館行きの126レを牽引して白煙とドレインを吐き出して出発。左横には秀麗な駒ヶ岳の山峰が聳えています。 '71.3 函館本線 大沼 P:中川弘一
釧網本線ではC11が「SL冬の湿原号」で使用されているが、1975年春までは標津線で定期の貨物列車を牽引していた。雪晴れのしばれる朝、標茶を出発した下り貨物列車C11は、ブラスト高く25‰のSカーブの急坂に挑む。 '75.1.31 標津線 標茶ー泉川 P:中川弘一
厳寒の北海道での撮影旅行は、想像以上の厳しさだった。客車を従えたD51が、凄まじい迫力で栗山駅を出発する姿に、ただ圧倒され、夢中でシャッターを切った。 '74.12 室蘭本線 栗山 P:後藤 篤
春の湿った雪に足を取られながらなんとか三脚を立てられました。沼尻の駅長さんに「CL?を撮りに来たのかい」、と言われて仲間同士で笑いに包まれた日でした。 '73.3.27 函館本線 渡島沼尻ー鹿部 P:川瀬 剛
現役蒸機末期の北海道各線の情報はファン同士の口コミがほとんどでした。宗谷本線でも「客車列車は隔日で蒸機が牽引している」「9600が客車列車を牽引している」と怪しい情報が行きかっていました。私も騙されたつもりで、三脚を立てましたが遠くから甲高い汽笛が聞こえDD51牽引の321列車がやって来ました。「マジかよ!」と一枚しかシャッターを切りませんでしたが、今となっては貴重な一枚です。 宗谷本線 上雄信内―糠南 '75.3 P:吉葉富雄
しばらく大沼駅で停車していたD52 235牽引の長い貨物列車がようやく発車した。冷えた空気に長い白煙をなびかせ、白銀の駒ヶ岳山麓を左回りに登っていった。 '73.1.16 函館本線 大沼−大沼公園 P:中島正樹
スイッチバック式の常紋信号場。9600+D51重連の上り貨物列車が発着線で待避、交換の下り貨物列車が折返線へバックしたのち、金華方面に下って行った。背後に常紋トンネルが見える。原生林に囲まれた山間の信号場がひとときの賑わいをみせた。 石北本線 常紋信号場 P:中川弘一
冬の抜海。悪天候で例の利尻富士が見える地点まで行くことができず、駅撮りに専念しました。 '73.1 宗谷本線 抜海 P:川瀬 剛
風雪の厳しい日、名寄本線に入るのをあきらめ名寄駅での撮影となった。対向ホームには予想通り背後に雪をべったり付けたキハ22が入線してきた。 '73.1.3 名寄本線 名寄 P:中島正樹
夕日を浴びてうっすらと茜色を帯びた蒸気をたなびかせ、ワム編成の貨車を従えた9600が、凍り付いた網走川を静かに渡っていきました。 '74.12 勇網線 二見ケ岡-網走 P:後藤 篤
蒸気機関車が活躍していた頃、主要駅のホーム端には給水施設が設置されていた。発車前のひととき、何の変哲もない風景でもこの給水施設がしゃれたアクセントになったものだ。
'75.10.27 221レ D51 855 P:高野孝二
石北本線のC58が朝の北見機関区に戻り、一時の休息をとっていた。背後でキハ22や休車中の96がそれを静かに見守る。 '74.1.16 北見機関区 P:中島正樹
江差線にはC58プッシュプル運転の貨物列車があった。この場所は本務機と後補機の様子を容易にファインダーに収めることができる撮影スポットであった。793レ '71.2.22 江差線 上磯−茂辺地 P:高野孝二
岩内線の分岐点から少し歩いたところで待ち構えていると、大雪の中現れました。風がほとんどなく煙が高く上がっていたのが印象的でした。 '73.3.27 函館本線 小沢−銀山 P:川瀬 剛
冬の倶知安駅のでC62重連はバルブ撮影でしたが、5月は残雪の羊蹄山の威容が夕景に浮かび上がります。急行「ニセコ3号」が到着、2輌のC62が慌ただしく給水、石炭掻き寄せ作業中。 函館本線 倶知安 '70.5 P:中川弘一
1976年3月2日に、追分機関区構内の入換作業に使われていた蒸気機関車が終了となり、日本からすべての蒸機が消えた。その2日前の2月29日、いつものように追分機関区で入換作業をしていた39679が作業を中断して、さよならプレートを付けていた。このプレート、前年12月14日にC57135が付けていたのとそっくりだった。プレートの下端には、「1976.3.2 おいわけ」と書かれていた。3月2日のセレモニーのリハーサルと思われる。 '76.2.29 追分機関区 P:鶴見直樹
背丈を越えるほどの積雪では列車が近づく音が聞こえない。25パーミル下り勾配の雪よけシェルターから音もなく近づく貨物列車にとっさにカメラを向けシャッターを押した。 '70.1.15 函館本線 上目名ー目名 173レ P:高野孝二
余市駅での137レ牽引のC62 3。後ろ姿に急客機としての風格が感じられました。 '73.7.16 函館本線 余市 P:齋藤孝行
紅葉山駅付近での撮影の前に、夕張駅に行ってみました。駅から歩いてすぐの夕張駐泊所。ターンテーブルに載っているのは、D51 241。後に最後の本線貨物牽引機となり、そしてその後の運命はみなさんご存じのとおり。その日はそんなことは夢にも思わず。2016年、昔の道を辿って夕張を訪れました。あの時の街の面影は全くなく、航空写真などで場所を探してみると、「花畑〜」の工場があるあたりのようでした。 '75.12.10 夕張線 夕張駐泊所 P:山口龍次
蒸気機関車無き後の扇形庫では、新しい主となったディーゼル機関車たちが、ターンテーブル上の京都からの遠来の客を眺めていた。 '80.11.22 小樽築港機関区 P:田中一弘
早朝に長万部を発つ小樽行131レの後補機(C11)は黒松内で切り離され、折り返しの132レとして長万部に戻る。初秋の朝、軽やかなドラフトを響かせて通り過ぎた171号機は、復活機関車として現在も活躍している。 '70.10.10 函館本線 黒松内-蕨岱 P: 高野孝二
5月連休中は、函館本線の沿線はまだ残雪がありましたが、線路脇には黄色い蕗のとうが顔を出し始めています。その線路上をC62重連が疾走して行きました。 '70.5 函館本線 目名--上目名 P:中川弘一
倶知安峠で急行「ニセコ」を待っていると、ラッセル車が先導役のようにやってきました。 '70.3 函館本線 小沢--倶知安 P:中川弘一
利尻富士とサロベツ原野を絡めた写真を撮影しようと思い早朝の抜海駅で下車したものの、朝霧であたり一面真っ白。風の音と鳥のさえずり以外何もない状況に、急にたまらない寂寥感を覚えて歩き出すことが出来ず、結局駅発車を狙うことになってしまった。324レがやってくる直前に、幸運にも視界が良好になってくれた。 '74.7.22 宗谷本線 抜海 P:古澤成博
初めての北海道、撮影旅行のスタートは今までに経験のない寒さでした。氷点下20度、なにもかも凍りつく幻想的な景色の中で、よりいっそう、D51の力強さが引き立ちました。 '74.12.24 函館本線 岩見沢 P:後藤 篤
前日までの暴風雪が収まった快晴の朝、放射冷却で凍てつく名寄駅構内の除雪作業が始まりました。重たい除雪車を懸命に押す9600の姿が今でも目に焼き付いています。幸運なチャンスに居合わせた数名のファンと撮影後、皆で駅そば注文するも、凍えた手を温めるために、そばを食べずにいつまでも丼を持ったままの姿にお互い笑いあったことを思い出します。 '74.12.26 宗谷本線 名寄駅構内 P:後藤 篤
急行「ていね」が小樽駅に到着すると、慌ただしく機関車の交換が行われる。札幌から牽引してきたD51が切り離された後に、C62重連が誘導されて連結されようとしている。その様子をカレチが見守る。奥には小樽までの牽引機D51が確認できる。 '68.5 函館本線 小樽 P:中川弘一
追分から乗ってきたC57牽引228レを苫小牧で降りた。ホーム端で列車を見送ると製紙工場から吐き出される煙と競い合うに白煙を残して室蘭へ向けて発車して行った。 '73.1.5 室蘭本線 苫小牧 P:中島正樹
今年3月26日に新幹線が北海道(新函館北斗駅)に延伸しましたが、の夜の函館駅、3輌の蒸機が北へ向かいます。真ん中は、C62 3牽引の急行「すずらん6号」です。 '69.3.22 函館 P:中川弘一
ワイン城から池田駅を眺めていたら、「狩勝1号」が出発して行きました。 '86.7.28 根室本線 池田 P:小林慎治
1972年春の小樽築港機関区、3号機に火は入っていましたがナンバープレートはなく、キャブに「ボイラー代用」の小さな札が掛かっていました。当時はこの状況から運用に復帰するとは思ってもみませんでした。 '72.3.5 函館本線 小樽築港機関区 P:幾代 裕
北海道旅行の初日は、函館からの夜行「すずらん4号」を苫小牧で降りて、室蘭本線の下り始発列車に乗るのが恒例。この列車は追分から夕張線に入る。早々と吹雪の洗礼を受け、震え上がりながら1791レを撮影した。 '74.12.19 夕張線 川端-滝ノ上 P:高野賢一
稚内からバスで坂の下に向かった。ここは利尻富士を背景にした写真の撮れる名所。しかし、この日は海岸線すら霞むほどの横殴りの吹雪。心細くなったころ遅れていた気動車がやってきた。 1984.2.24 宗谷本線 抜海-南稚内 P:佐々木宗一
昭和50年12月14日にC57、24日にD51が旅客と貨物の最終列車を牽きましたが、 入換用の9600形は翌年3月まで我が国最後の現役蒸機として働き続けました。 '76.1.16 室蘭本線 追分 P:宮城浩志
倶知安峠を登る列車を斜面から俯瞰で捉えた。C62重連がスターならD51は脇役。普通列車、貨物列車を牽引し地道に働いていた。'71.3 函館本線 倶知安ー小沢 中川弘一
忘れもしない昭和50年3月31日。暴風雪により上り夜行急行「利尻」は運休となり、幌延駅で一夜を明かすことになってしまいました。夜中の何時頃だったでしょうか。ラッセルが突然やって来て止まりました。もうびっくり! 寒さを忘れて、高校鉄研の仲間たちと夢中に撮影した時の一枚です。 '75.3.31 宗谷本線 幌延 P:竹村信雄
雄大なニセコ連峰を背景に、稲穂峠に向かうD51が墨絵のように浮かび上がった。 '72.3 函館本線 小沢―銀山 P:中川弘一
サロマ湖の沿岸で、近くの農場で買った"ジャガバター"を食べながら、925D網走行きを待ちました。 湧網線 芭露-計呂地 P:小林慎治
夏は北海道で車輌が足りなくなるので本州の車輌が出稼ぎに来ていました。DD51牽引臨時急行「すずらん」の中に金トヤのナハ10がいて夢中でシャッターを切りました。 '75.8 函館本線 札幌 P:山下祐二
追分での乗り換え時間を利用して撮影したD51。停車中の下り貨物列車の隣を、もう一本の貨物列車追い越し、ナメクジD51同士の並びが実現した。 '67.5.3 室蘭本線 追分 P:中島正樹
常紋や宗谷C55等、他の撮影候補地もまだまだありましたが、ひっそりとした深名線に一日をつぶして行きました。帰りの気動車が豪雪で来なかったらどうしよう、と不安と期待の中で撮影しました。 '74.3 深名線 湖畔 P:須田 剛
常紋越えの午後は、金華からの貨物列車が2本続く。金華側は生田原側に比べ谷が狭く、殷々たるブラストがこだまして勇壮だった。 '75.3.27 石北本線 金華ー常紋(信) P:佐々木仁志
生田原を始発の普通列車の前に発車して、常紋越えに向かう1553レ。生田原で夜行「大雪」から下りて、コンテナを列ねたこの急行貨物列車の発車を撮るのが、常紋越え撮影のウォーミングアップだった。 '75.3.29 石北本線 生田原 P:八木敏也
紅葉山構内を見下ろす斜面。しかし、石炭を満載した専用貨物は大半が絶気で通過。停車するのは14時半の5792レだけだった。 '75.3.22 夕張線 紅葉山 P:高橋岳人
盛夏、草に覆われた築堤をナメクジが行く。 '74.8.5 室蘭本線 栗丘―栗山 P:三宅昭和
大夕張鉄道を撮りにこの線を乗ったはずだが思いだせない。友人から管理を任されたネガを見ていると、気に入った一枚があった。滝ノ上で列車交換後、セキを牽いたD51の発車を撮ったものだった。 '75.3.5 夕張線 滝ノ上 P:小西 明(伊藤氏撮影)
3月半ばとはいえ常紋はまだ冬だった。96の後部補機が付いていたが、雪のためよく見えなかった。信号場直前まで25‰が続くため、信号場に進入してもまだ咆哮が聞こえていた。 '72.3.14 石北本線 金華-常紋信号場 P:高橋洋二
炭住の並ぶ中を滝川機関区の「ナメクジ型」D51 38号機が、上砂川に向かって石炭車を牽引して行きます。この場所からは、歌志内線も掛け持ちで撮影できました。 '75.3 函館本線 東鶉-上砂川 P:吉葉富雄
711系急行「かむい7号」の 乗り継ぎ客を受けて旭川駅を出発する名寄行き323レ。C55はもちろん、馴染み深い「かむい」の名も、711系も消え、旭川駅は高架となり姿を変えた。今、当時の状況を懐かしく思い出す。 '73.3.31 宗谷本線 旭川 P:田中一弘
石北本線の運用から帰ってきたD51、常紋越えに備え山盛りの給炭を受け、転車台で方向転換するとゆっくり扇形車庫に入って来た。入口には雪国特有の防雪用扉が設けられている。 '74.1.16 石北本線 北見機関区 P:中島正樹
最後に残った追分機関区のキューロクを撮影するため、高2の冬休みに渡道した。初めての夜景でカメラも自分も震えながら撮影したが、今思うとなんてすばらしい時間を過ごせたのかと感謝している自分がいる。 室蘭本線 追分駅構内 '75.12.29 P:伊藤文昭
夜行急行「利尻」で着いて利尻富士が見える場所まで歩くが、この日は残念ながらとらえることはできず。南稚内寄りの場所で322列車を撮影。 '74.2.27 宗谷本線 南稚内-抜海 P:宮山幸雄
大晦日の午後機関区を訪れた。機関区のご厚意で庫から出てきた2号機を撮影。私以外にもテープレコーダー片手に録音する人、近撮する人、各人の至福が詰まった瞬間だった。'69.12.31 小樽築港機関区 P:小西 明
東の果てのこの街では、夏だというのに、夜はストーブに当たっていました。 '86.7.25 根室本線 根室 P:小林慎治
小石-曲淵のサミット近くに良い撮影地があると聞いていましたが停車場間距離が日本一長いので、さすがに歩く気がせず曲淵発車で「お茶を濁した一枚」とも言える写真です。 '75.3 天北線 曲淵 P:吉葉富雄
宗谷本線、北行客321レ。私に北に向かう憧れを、強く抱かせた列車だった。 '74.4.1 宗谷本線 天塩中川-下中川 P:田中一弘
鉄研の先輩に同行して渡道。早朝の厳寒のなか追分駅始発の820列車を狙う。札幌行きのこの列車は岩見沢に向け発車するが、列車番号は偶数である。 '74.2.25 室蘭本線 追分 P:宮山幸雄
9D特急「北斗9号」の先頭に立つ異端車キハ183形100番代。往路の激闘を物語る付着した雪が凄まじい。函館発19時、札幌まで4時間10分の旅。1号車に乗り込み噂の大馬力エンジンの咆哮を堪能した。110カメラで撮影。 '86.1.27 函館本線 函館 P:新井宏明
真岡鉄道への移籍が決まったD51 146。蒸気終焉の年の春三月、栗山駅発車の雄姿です。 '75.3.20 室蘭本線 栗山 P:伊藤文昭
遠矢駅を下車し、細岡寄りに少し歩いた。遠くに一軒家が見えた。曇り空の下、C58牽く列車が寂しく見えた。 625レ '71.5.2 釧網本線 遠矢付近 P:小西 明
渡道しての初日、DCに乗って雪の礼文を訪れた。乗務員が「今日は暖かい」と言っていた。礼文駅前の店で牛乳(30円)とパン(50円)を買って、朝食とした。礼文駅の函館方向の右カーブでD51 1120牽引の上り普通列車を撮影。煙がいい具合に横に流れてくれた。 '71.3.3 室蘭本線 礼文-静狩 P:高橋洋二
9月、能取湖はサンゴ草の鮮やかな赤が映える時期です。生憎の曇り空ですが、タラコ色のキハ22との取り合わせも乙なもの。 1980.9.13 卯原内〜北見平和 P:今井博茂
幌内線の三笠-幌内間では、大正生まれの9600形が貨物列車を牽引して最後の活躍をしていました。この時点でも、追分の9600が日本最後の蒸気機関車になるとは思ってもいませんでした。 '75.7.13 幌内線 三笠-幌内 P:宮城浩志
当てもなく勇知駅で降り撮影地を探したが、下回りが雑草で隠れるところばかり。列車が来る直前に、やっと小さな鉄橋を見つけてスタンバイ。やって来たのは薄くなった「団結」の文字と、警戒色が目立つ29613号機だった。 '74.7.22 宗谷本線 勇知〜兜沼 P:古澤成博
まだ2月ですが、この地では、春闘が始まっていました。「日共糾弾」「春闘勝利」デフには、「檄」がかかれ、折角のC55がご覧のありさまでがっかりした記憶があります。今となっては、懐かしい思い出です。 '74.2 宗谷本線 名寄 P:野中英一
白銀の石狩平野を見下ろす丘陵。栗山トンネルを抜け、夕張川沿いの築堤をC57牽引の岩見沢行き普通列車が滑るように駆け抜ける。 '75.1.31 室蘭本線 栗山-栗丘 '75.1.31 P:中川弘一
2月の北海道はどこへ行っても真っ白だった。三笠へ到着した下りDCも雪で厚化粧をしていた。 '75.2.8 幌内線 三笠 P:高橋洋二
夕刻の豊富駅に、C55の321列車の直前にやってくる上り貨物372列車。停車時間が長くキューロクの前で記念撮影をしていると、機関士さんがニコニコしながら「どこから来た? あそこで撮るんか?」などと訊いてきた。しばし談笑。長い汽笛の後、発車すると煙はご覧の通り。忘れられない思い出となった。 '74.7.21 宗谷本線 豊富 P:古澤成博
出発に向け、蒸気作りの投炭が始まったようだ。雄大な駒ケ岳をバックに豪快な煙が立ちのぼる。大沼公園発函館行 8144列車 D52 140 函館本線 大沼公園 '72.5.5 P:青木一郎
「おおぞら」とともに北海道を代表する長距離特急だった「おおとり」ですが、なぜか地味な存在で人気も今ひとつでした。それが理由ではないのでしょうが、長くキハ82系で運転されていました。 '84.8.17 石北本線 金華-常紋(信) P:宮城浩志
三笠駅を発車する長大編成の石炭列車。ゆっくりとD51一台で引き出す石炭列車の姿に感動したのを思い出します。 '75.3.20 幌内線 三笠 P:伊藤文昭
函館本線の雄大な景色の倶知安峠に挑むC62重連急行「ていね」が眼下を通過する。豪快なドラフト音が峠にこだましていた。 '68.5 函館本線 小沢-倶知安 P:中川弘一
滝川-旭川間電化を半年後に控え本線での蒸機列車も終焉を迎えようとしていた。D51貨物を退避させC55 49牽引普通列車がドレインを吐きながら発車していった。 '69.3.29 函館本線 滝川 P: 内田博行
夕闇迫る函館駅、1番線はC58 407が牽く17時49分発江差線1729レ木古内行きが、隣の2番線にはD51 346牽引の17時43分発函館本線127レ森行がそれぞれ蒸気を上げていました。この後2本の蒸気列車が相次いで発車して行き、今想うと夢のような光景でした。 '70.3.1 函館本線 函館 P:幾代 裕
「北斗星」の運転を控え、急行「天北」を利用したDD51の慣らし運転が始まっていた。厳寒の北国の夕暮れ、サブカメラの方はカメラの油が凍り、シャッターが切れなかった。 '88.2 宗谷本線 剣淵 P:齋藤孝行
真冬の北海道、凍れる冷気の中をD51が白い噴煙と蒸気を車体にまとわりつかせて豪快に驀進してきました。 '75.1.31 室蘭本線 栗山-栗丘 P:中川弘一
青函連絡船を降りて、最初に北海道を感じるのがここ大沼公園。背景の駒ヶ岳と小沼の脇を通過するD51牽引の貨物。いろいろな構図を考えたら、ベストのものがこれだった。 '68.4.3 函館本線 大沼-仁山 P:高橋孝一
カマ替え中のC62重連牽引の105レ。今日は、羊蹄山が顔を出してくれた。このあと、壮絶な発車シーンが繰り広げられたのだった。 '68.7.14 函館本線 倶知安 P:高橋孝一
北海道の幹線を走るディーゼル特急。札幌で3輌を切り離したあと釧路までの長丁場が待っている。ファインダーから眺めるキハ82の長編成は見ごたえがあった。
'69.6.21 室蘭本線 小幌-礼文 P:小西 明
小樽からC62 3牽引の普通列車に乗り込んで熱郛まで来た。発車を撮って、翌朝、C62 3を迎え討つべく熱郛駅に寝ることにしたが、上目名に挑むD51貨物の咆哮でとても寝るどころではなかった。 '73.7.20 函館本線 熱郛 P:齋藤孝行
1971年当時国鉄にはB20は小樽築港機関区(B20 1)と鹿児島機関区(B20 10)に1輌ずつあったが、そのうちの1輌をたまたま撮影することができた。機関庫から小型DLに牽かれ屋外に出されたところだった。 '71.3 小樽築港機関区 P:高橋洋二
北見で普通列車に変わる急行「大雪」くずれ。これを撮るため呼人駅で下車、女満別方面に歩き出す。沿線の新雪に思わぬ苦戦を強いられ、やっとトンネル上でカメラを構えた。 '75.1.28 石北本線 呼人-女満別 P:中島正樹
キハ56系の北海道観光号「エルム」が、上目名の急坂を通過。本来はC62重連の「ていね」をねらっての上目名通いだったが、夏はこのような臨時も運転され撮影を楽しむことができた。 '67.7.18 函館本線 上目名-目名 P: 高橋孝一
貨物の運休で補機運用のトラ塗りの9600が単機で登って来た。25パーミル勾配を一生懸命駆け抜けて行きました。 '71.8.11
石北本線 金華-常紋(信) P:千葉武男
大晦日の午後機関区を訪れた。機関区のご厚意で庫から出てきた2号機を撮影。私以外にもテープレコーダー片手に録音する人、近撮する人、各人の至福が詰まった瞬間だった。'69.12.31 小樽築港機関区 P:小西 明
網走に着くと、駅外れの機関区に33号機が休んでいた。順光になる公式側がすっきりと撮影できず残念だったが、貴重品との邂逅に暫し幸福の時間を過ごすことができた。 '75.3.18 石北本線 網走機関支区 P:古澤成博
天気もよく、由仁のスキー場から俯瞰写真を気持ちよく撮影できた。由仁を通過した貨物列車が国鉄のコンテナ車を牽いてやってきた。 '75.8.9 室蘭本線 由仁-古山 P:高橋洋二
三笠に到着した広幅除雪車キ713は29622に押されて駅構内の除雪を始めた。蒸機に推進される広幅除雪車の除雪作業を実際に見るのは最初で最後だった。 '75.2.8 幌内線 三笠 P:高橋洋二
北海道最北端に近い豊富は3月とはいえ、真冬だった。大雪のため下り貨物列車を牽く79642の前部や下回りは雪まみれであった。乗車する列車が来るまで何時間も待つことになった。 '73.3.24 宗谷本線 豊富 P:高橋洋二
上り貨物の運休で旭川行き客522レは重連で登って来たが軽量のためか本務機はぶら下がり状態。もう少し煙のサービスをしてくれたらと思いながらシャッターを切った。 '71.8.9 石北本線 金華-常紋 P: 武者秀男
名所のお立ち台は同業者でいっぱいだった。寒風吹く中、D51 467号機が千両役者のような顔をして力走して来た。この1枚のシャッターを切った後、寒さのせいかカメラが突然動かなくなってしまった。 '75.3.24 室蘭本線 栗丘-栗山 P:古澤成博
しばれる朝だった。目的の1527列車の前に、早朝の通勤列車522列車を女満別駅で待った。やって来たのはC58418号機。素晴らしい汽笛とブラスト音を残して発車して行った。 石北本線 女満別 P:古澤成博
国鉄最後の夏は、学生生活最後の夏でもありました。幸福駅で、土産の入場券を買ったあと、近くの踏切で、愛機XJの"記念撮影"。 '86.7.25 広尾線 幸福〜中札内 P:小林慎治
中学生の頃、D51見たさに親戚を訪ねて行った北見。北見駅発車後、いつくもの踏切がある石北本線の直線を、ゆっくりと貨物が通過して行きました。 '75.2.23 北見-東相ノ内 P:真砂 淳
DL化を数日後に控えた標津線中標津駅を力強く発車するC11 224号機。本機は大湊線で惜別列車「さよなら下北号」を牽いたカマで、とても綺麗に磨かれていた。 '75.3.17 中標津 P:古澤成博
美幌駅にて列車交換のため停車中、対向列車を撮影しようと待ち構えていたところ、522列車の牽引機はなんとC58のトップナンバーでした。無我夢中でシャッターをきったのを覚えています。 '72.3.29 石北本線 美幌 P:小林 剛
国鉄時代の末期、新旧のタラコ色キハが手を携えて雪晴れの湿原をゆっくりと走り抜けていきました。 '86.1 釧網本線 細岡-遠矢 P:橋本安史
高校2年の時に初めて訪れた北海道。あちこち寄り道してやっと着いた函館では憧れのキハ82と見慣れぬスノープラウを付けたDD13が迎えてくれました。 '79.7.26 函館 P:稲毛信夫
ギースル装備に興味はあっても、じっくりと見る機会には恵まれなかった。この日は交換待ちのD51を堪能するまで眺められて満足だった。 '74.4.6 宗谷本線 士別 P:田中一弘
倶知安に宿を取り、「ニセコ」撮影の前に機関区を訪問した。本州の96を見慣れていたので、胆振線の二つ目のいかつい96は印象的だった。 '71.3.5 倶知安機関区 P:高橋洋二
道東の酪農地帯を行く標津線。意外にアップダウンが多く、25‰の急勾配も何か所かある。標茶を出た下り列車はいきなり、25‰の急坂に挑む。雪晴れのしばれる朝、C11はブラスト高く上ってきた。 '75.1.31 標茶-泉川 P:中川弘一
長万部から山越えでやってきたC62重連が倶知安駅で罐替え・給水で一息ついた後、白煙と安全弁を吹かしながら倶知安峠へ向けて出発して行きました。 '71.3 倶知安 P:中川弘一
上り急行「ニセコ」を長万部で下車、二股駅へ戻った。薄暮の雪原に猛烈なブラスト音を轟かせて、103レを牽くC62 32とC62 3の重連が15‰を懸命に駆け上がって行った。 '70.4.11 二股--蕨岱 P:森瀬壽三
厳冬の1月末、日中は標津線沿線で白銀のC11を撮影。駅前旅館で投宿して夜間に機関区を訪れると昼間に見た雪まみれのC11が静かに一時の休息を取り、明日への活力を養っているようでした。 '75.1.28 標茶機関区 P:中川弘一
湧網線廃止は国鉄末期の昭和62年3月19日。キハ40も進出していました。北海道の顔キハ22が来ると喜びを感じました。コンテナ「戸口から戸口へ」も懐かしい表示です。単行気動車は925D。 '86.12.31 常呂 P:山岡 保
急行「大雪5号」編成の普通列車の発車を撮ろうと踏切で待っていたら、誰が付けたのか紙でできた特製ヘッドマークがC58 33に取り付けられていました。珍しいシーンだと思います。 '74.8 美幌 P:佐藤直幸
稚内に向かう途中で下車。雪晴れで比較的暖かいところに稚内行き普通列車が到着。十数分の停車時間で給水、北海道旅行中の若者がC55をバックに記念撮影していたことが記憶に残っている。 '74.2.26 音威子府 P:宮山幸雄
ラッセル車が来ると聞いたので小さな踏切で待っていると、49699に押され姿を現した。蹴散らす雪は少なかったけれど、撮影できて大満足。 '73.3.25 中名寄-名寄 P: 高橋洋二
運炭列車が夕方の斜光線を受けヤマから下りて来ました。線路の北側には勇払原野からの季節風を避ける丸太とムシロで組んだ防風壁が延々と設置されていました。 '74.12 遠浅-沼ノ端 P:髙橋 明
急行「石狩」に3軸台車の食堂車が組まれていることを知り、撮影行の移動の途中に乗車することにした。駅進入を撮った後、この車両で伊達紋別までの約1時間、リズミカルな音を楽しんだ。石炭レンジの煙がわずかに見える。 函館発札幌行3201列車 スハシ38 '66.12.26 長万部 P:青木一郎
常紋信号場の仮ホームに降りてまもなく3573レが入線。後補機69644を解放後、D51 734がコンテナ満載のコキをプッシュして側線に入り、やがて金華方面へ下って行った。 '70.4.10 常紋信号場 P: 森瀬壽三
迎えを待つ少女。煙突からストーブの煙。小さな駅にも人の息づかいが感じられます。 '84.2.23 上武佐 P: 船江 晋
キハ82の「北斗」が到着したと見間違えて近づけばキハ183-100でした。 '87.3 札幌 P:加藤昭夫
黒いセキに黄色の帯と「道外禁止」文字。当時、その意味は判らなかったが、その言葉の持つ響きになぜか私は魅せられた。 '74.3.28 栗丘-栗山 P:田中一弘
1日に蒸機が1往復しかないため、多くのファンから敬遠されがちでした。深名線や興浜北線よりずっと長い編成で、一生懸命力行する96をじっくり見ることが出来ました。 北見滝ノ上 '75.3 P:須田 剛
塩狩峠の防雪林に囲まれたカーブを力走するD51牽引の下り貨物列車。蒸機も終焉に近い頃の撮影です。宗谷本線では旭川〜音威子府間で、1974年暮れまでD51が活躍していました。 '74.1.15 蘭留〜塩狩 P:田中翔貴
11輌もの長大編成を牽引して来たC58は、あと300mで緋牛内駅なのに、力行走行を続け、絶気にはなりません。遠景ですが、オロハネ10とスロ54も識別できます。このあと、緋牛内駅の迫力十分の発車も堪能しました。 '74.3 端野-緋牛内 P:須田 剛
歌志内線では北炭空知炭礦で産する石炭を輸送するために、専用列車が2数往復走っていました。ペンケ歌志内川に沿った雄大な風景の場所もありましたが訪れるファンも少なかったようです。廃線は時代とは言え残念です。 '74.3 文殊 P:須田 剛
金華から上って来た9600+D51重連は常紋信号場で小休止。その後、全長507mの常紋トンネルへ突入するところトンネル上から貨物列車をとらえました。右横の建物が小さな常紋信号場本屋で、駅員さんにお世話になりました。 '71.3 常紋信号場 P:中川弘一
55.10改正を翌日に控え、1D「おおぞら1号」の札幌回転車は、本日が最後の運用であった。待機中のホームを食堂車のクルーが通り過ぎていく。 '80.9.30 札幌 P:赤田雅昭
蒸機の現役時代でも蒸機同士の走行中のすれ違いを撮影する機会はめったになかった。D52 138牽引の下り貨物列車とD51 1017牽引の上り旅客列車が噴火湾沿いですれ違った。 '72.3.8 野田生-落部 P:高橋洋二
峠下で待つと、D61が登場、でも単機でした。ただ、すでに4号機だけになっていたので、みんな振り返って追っていました。 峠下 '73.12 P:須田 剛
函館からD51 234牽引の普通列車に乗り大沼で下車、ホームの端で自分が乗ってきた列車を撮影した。駒ヶ岳がくっきりと見え格好の撮影日和であった。 '73.3.26 大沼 P:高橋洋二
構内の入換えを終えた49604が給水中。給水塔は北海道各地で見られる下部に冬季の凍結防止用暖房室が設けられているタイプだった。 '75.1.29 帯広機関区 P:中島正樹
宗谷本線のC55といえば、旭川〜稚内間の321・324列車だったが、客車が4輌編成と短かったため、どうしても長編成を撮りたくて、早朝の名寄発旭川行き322列車の蘭留発車を狙った。やって来たのは流改の30号機! しかし、梅雨空を思わせる曇天にブラストは勇ましいものの煙はご覧の通り。「せっかく30号機だったのに!」と、気持ちも晴れないままシャッターを押した思い出の一枚。 '74.7.22 蘭留 P:古澤成博
雪深い正月の塩狩峠を行く客車急行「宗谷」。撮影後、近くの塩狩温泉で冷えきった身体をしっかり温めてから帰路に着きました。 '86.1 塩狩〜蘭留 P:橋本安史
本務機D51 70に前補機D51 63が連結され、ナメクジの重連貨物が発車直前だった。遮るものがないすっきりした空に、珍しく煙突と安全弁から煙と蒸気が4本まっすぐ昇っていた。 '73.3.28 千歳 P:高橋洋二
常紋のSカーブを俯瞰。雪の中登りきった時に汗だくだったのを覚えてます。 '75.3.14 金華-常紋(信) P:中村 肇
函館本線の大沼を右に見て、急行105レ「ていね」が、一路札幌を目指し驀進します。 '68.5 大沼 P:中川弘一
オホーツク海の流氷は接岸し始めていた。69644は強い西からの寒風を受けながら、常呂川を渡った。撮影後、体の芯まで冷えきって常呂駅へ戻った。 '75.2.7 常呂-能取 P:高橋洋二
石北本線の生田原駅では、気温は−10度以下の冷れる朝に出発準備中のD51ですが、機関車から漏れ出る白い蒸気に包まれる中を機関士が氷ついた給水ポンプの点検中のようです。 '75.1.27 生田原 P: 中川弘一
夕刻の塩谷を下るD51943牽引の貨物列車、次位には無動の79616が付いていました。 '72.7.30 塩谷 P:齋藤隆行
根室標津は標津線の終着駅で、手動式の転車台があった。入口に鳥居のようなものがあり、珍しかった。これからC11 93が転車台に乗ろうとしている。余裕のある構内には短い夏を楽しむように夏草が繁茂していた。 '72.8.24 根室標津 P:高橋洋二
名寄以南でもC55を撮影しようと、光線状態の良い風連駅の近くで324列車を待った。しかしやって来たのはC57 87。がっかりしていると、何と発車直後から存在をアピールするかのような見事な爆煙!今ではお気に入りの一枚となった。 '74.7.25 P:古澤成博
宿泊目的だけで下車した夕張駅はあまり印象に残っていない。フイルムの一端に写っていた数少ない写真に改めて炭砿施設に囲まれた構内の様子を知った。 '75.1.31 夕張 P:中島正樹
夕刻の豊富駅で321列車を待った。やがて丸いキャブの屋根が遠くに見えた。30号機だ! 今で言う"バリ順"の光線状態で30号機を撮影でき、大満足。サロベツ原野の風がとても心地良かった思い出の一枚。 '74.7.21 豊富 P:古澤成博
北海道のメインラインを駆けるコンテナ列車、DD51全盛時代のひとこまです。 静狩-礼文 '84.8.12 P:宮城浩志
D51 600の牽く海水浴臨時列車が塩谷を発車して行きます。目的地は蘭島、あと一駅です。 '72.7.30 塩谷 P:齋藤隆行
すべてが凍てつく静寂の中で、機関車を包むスチームが、動への鼓動を伝えていた。 '74.12.27 川端 P:田中一弘
真冬の中標津駅、厳冬の中をC11牽引の貨物列車が夕日を浴びて、白い煙とドレインを吐き出して出発して行きました。駅員さんが凍てついたホームで列車を見送る冬景色です。その後、標津線は廃線になってしまい、今となっては心に残る想い出の鉄道風景です。 '75.1.30 中標津 P:中川弘一
当時士幌線の終点まで行く貨物は月に1回くらいで、情報収集が大変でした。高い所にあるコンクリート橋を力走します。 '75.3.20 電力所前ー糠平 P:中村 肇
雪の生田原。常紋越えに備えて足回りの点検、テンダーでは石炭の掻き寄せ作業と大忙し。 '75.1.27 生田原 P:中川弘一
D51 1116 雪夜のキャブ内には、蒸気も入り込んでいます。機関士用時刻表には、上川まで▲■●▲■●▲■が並んでいるのが見えます。この先1116号機は北見峠/白滝越えに向かって奮闘して行きました。 '75.3 瀬戸瀬-丸瀬布 P:須田 剛
蒸機最後の年の17歳の誕生日でした。原野を走るD51の長い石炭列車は自分へのプレゼントです。 '75.3.19 沼ノ端ー遠浅 P:中村 肇
D61を期待して寒い中、峠で待つものの、前はD51、後補機D61は煙で全く見えず、寒さが急に身にしみた。 '73.3 峠下 P:齋藤孝行
幸福駅で有名だった今はなき広尾線です。蒸機最後の年、北海道らしい風景に出会えました。 '75.3.5 忠類ー上更別 P:中村 肇
朝早い列車で釧路から細岡へ。風のない冷えきった空気のため、釧路行きの旅客列車の煙は美しい弧を描いて、棚引いていた。こんな煙を見たのは初めてだった。 '72.3.10 細岡-遠矢 P:高橋洋二
ドラフトが次第に大きくなり、ようやく横平トンネル手前の切通しに姿を現した845レ。大畑のループを登り大野のSカーブに消えるまでの長いドラマの第一章である。 '70.5.1
人吉ー大畑 P:鈴木博之
石北本線の常紋と並ぶ難所の北見峠越え。当時撮影可能なのが早朝の混合列車だけで、執念で歩きました。 '75.3.15 中越ー上越 P:中村 肇
1973年当時たった1輌のD61。この角度ではD51と区別がつきませんが、中学最後の春休みで峠越えが撮れたのはラッキーでした。 '73.3.29 峠下ー恵比島 P:中村 肇
生田原を発車した直後の重連貨物列車。これから雪の急勾配に立ち向かう。通過後、振り返ったが、排出された蒸気のために、一面真っ白で何も見えなかった。 '72.3.14 生田原 P:高橋洋二
雪をかき分けて撮影した一枚。常紋信号場は仮乗降場で待合室もなくここでの撮影には極寒に対する装備が必要だった。 '72.3.14 生田原-常紋(信) P:高橋洋二
留萌本線にはD61が走っていたが、D51との共通運用だった。この列車はD61 4が本務機、D51 62ナメクジが補機だった。平坦な駅構内に入る前から猛然と加速して勾配に臨んできた。 '72.3.12 恵比島-峠下 P:高橋洋二
札沼線のC11を撮りたくて、桑園駅から歩いた。今はこの近くに住んでいるが、40年経ってあたりはすっかり変わってしまい、当時の面影は何も残っていない。 '73.2.4 札沼線 新琴似-桑園 P:佐々木裕治
岩見沢から苫小牧までは石炭輸送のため、貨物の列車本数が多く、ここ栗沢-栗山間はせり出した丘を国道と絡みながら回り込む、沿線では数少ない変化のある撮影区間だった。 '74.1.19 栗丘-栗山 P:中島正樹
■国鉄時代バックナンバーのご案内
現在『国鉄時代』はvol.1、vol.9〜21、vol.23〜25が品切れとなりました。他の巻も早めのご購入をお勧めいたします。電話でのご注文はブックサービス(株)0120-29-9625(フリーダイヤル)まで。
噂に聞いていた長大石炭列車の引き出しを、ひと目見ようと三笠を訪れた。D51 566号機は長い長い発車の汽笛の後、何度も空転しながら強烈なブラスト音を残して見事に引き出して行った。 '75.3.22 三笠 P:古澤成博
北海道における蒸機撮影の最終日。青函連絡船深夜便に乗るまでの間に、C62牽引の夜行急行「すずらん6号」の発車を見送って北海道の撮影を終えました。 '69.3 函館 P:中川弘一
墨絵調の雪景色の中を、C62重連上り急行「二セコ1号」が怒濤のような走りで稲穂峠への急勾配に立ち向かっていった。 '69.3 銀山ー然別 P:中川弘一
1971年当時、D52は五稜郭機関区の10輌を残すのみとなっていた。北海道に渡り太いボイラーの逞しい姿をじっくりと眺めることができた。D52はこのあと長万部方面に長い貨物を牽いてゆっくりと発車していった。 '71.3.12 大沼 P:高橋洋二
勾配を登り切って西の里信号場に進入したD51 764+D51 896牽引の貨物列車。千歳線は重連の貨物列車の本数が意外に多く、しかも補機もC58、C57、D51と多彩で能率的に撮影できたはずだが、腕が未熟だったのでよいカットが少ない。 '72.8.26 西の里信号場 P:高橋洋二
スポーク動輪が透けて見える写真が撮りたくて、天塩川の支流・名寄川の鉄橋を見下ろせる高台に登りました。遠景ですが、何とかスポーク動輪の隙間が分かります。 '74.3 名寄-日進 P:須田 剛
山間を縫い、D51は今145kpの二つ目のカーブに差し掛かりました。行く手の右斜面には鉄ちゃんが10人程並んでいる黒い影が見えます。その先の146kpにも右に人列が。 '75.3 生田原-常紋信号場 P:須田 剛
塩狩のカーブを行く321レのC55 50。テンダーには"団結"の落書きが。よく見ると、キャブにファンが添乗して写真を撮っているように見える。 '74.3 蘭留-塩狩 P:須田 剛
煙を期待して早朝の小沢駅から歩いて稲穂峠で待ったものの、期待に反してC62 3は羊蹄山を横目に軽快な足取りでやってきた。 '73.7.16 小沢-銀山 P:齋藤孝行
上り急行「二セコ1号」を撮影後、長万部駅でかに飯を買ってホームで下り急行「二セコ3号」の到着を待ちます。"銀箱"のファンが待つ中をC62 15が姿を見せました。やがて前補機を連結して急勾配に挑むドラマの幕開けです! '71.3 長万部 P:中川弘一
鉄橋を渡るC58牽引の貨物列車。車掌車や材木満載の貨車などコンテナ時代となった現在では懐かしい光景。 '74.3 釧路-東釧路 P:中川 稔
千歳線には15‰程度の勾配が存在していたので、多くの貨物列車にはC57、C58、D51の補機がついていた。このコンテナ専用貨物列車の補機はC57 147、本務機はD51ナメクジだった。手前の新線への移設約1年前であった。 '72.8.26 北広島-西の里信号場 P:高橋洋二
下り急行ニセコを待つまでの時間を使って長万部機関区を訪問、初めてD52を間近に見た。車輌限界いっぱいに設計された大きな躯体、横綱の土俵入りのような姿に圧倒された。'70.4.11 長万部機関区 P:森瀬壽三
オホーツク海に沿って走る釧網本線。1月下旬から春先にかけては押し寄せる流氷が間近に迫る。早春の明るい陽射しを受けC58の混合列車が輝いていた。 '71.3 北浜〜浜小清水 P:中川弘一
流氷と一緒に撮影しようと雪の中列車を待った。絶気状態だったので強風で煙が舞うことはなかったが...。 '73.3.14 北浜 P:宮山幸雄
長万部発16時43分の103レ「ニセコ3号」は、春になると夕日を浴びて疾走する姿を捉えることができる。原野が広がる二股周辺は絶好の撮影地。二股を通過してすぐの長万部川橋梁はその先の国道5号とのオーバークロス周辺と並んで人気のポイントである。この付近は上目名越えに備えての助走区間、キャブ内は緊張が漲っているだろう。 '71.3 函館本線 二股-蕨岱 P:中川弘一
稲穂峠目指して駆け登る3輌のC62の咆哮が山々に轟く。北海道撮影旅行中、上目名の待合室の掲示板でC62三重連の運行を知った。運転区間は「ニセコ1号」の小樽〜倶知安間で、前々補機の2号機は倶知安で切り離され、121レのD51の前補機となって小樽へ戻った。 機:C62 2+C62 15+C62 16 '71.8.22 然別-銀山 P:俵 裕実
「ニセコ」は雲を呼ぶとファンの間で言われる。「ニセコ1号」が通過する昼過ぎになると、たいてい雲が湧き風が起こる。この1日1本の列車に賭けて何度泣いたことか。今日の「ニセコ1号」通過は眩いばかりに晴れてニセコ連山も美しい。まさに花道を行く名優の姿だ。 '71.3 函館本線 目名-上目名 P:中川弘一
上り「ニセコ1号」の本務機が2号機だったので、後を追うように夜行でやってきた。103レの仕業までに、長万部〜函館間を夜行急行「すずらん6号」を牽引する仕業がある。寝台車をロネ・ハネ・ロザを連結した長編成は魅力的だ。朝の冷気の中、5時40分に大沼を発車した列車は白煙をたなびかせて通り過ぎて行った。 1218レ '69.5.8 大沼-仁山(信) P:小西 明
大沼から望む空を切り裂くような鋭い山容とはうってかわった、穏やかな表情を見せる駒ヶ岳。噴火湾沿いの複線区間を長大編成の貨物列車を牽引して走るD52は本線蒸機の貫禄十分である。 D52 468 '71.3 森 P:中川弘一
日本海側の風景が見たくてやってきたがいい場所が見つからない。すると突然ラッセルが短いトンネルから飛び出してきた。押しているのは9600です。 '74.2.20 力昼 P:平林寛信
2度目の冬の北海道。石北本線は常紋だけでなく網走方面にも足をのばし、網走川沿いのカーブででC58 33をとらえることができた。 '73.3.3 網走-呼人 P:宮山幸雄
昭和49年春、9600の補機が常紋越えに復活。峠のプッシャー9600の咆哮が聞こえてくる一枚に大満足でした。 '74.3 生田原-常紋(信) '74.3 P:吉葉富雄
無煙化直前の11月。最後のチャンスと思い、北海道まで撮影にやってきました。早朝薄暗いモノトーンの世界で、運良く蒸機の牽引する列車同士のすれ違い場面を撮影することが出来ました。 '75.11.7 白老-社台 P:水野秀昭
帰途、小樽から急行「ニセコ」の旅を味わった。残雪の構内に汽笛がふたつ響き、C62 44が前補機C62 32とともにゆっくりと近づいて来た。いつものように山道との格闘が始まる。'70.4.11 小樽 P:森瀬壽三
旭川発17:28。宗谷本線の名寄行き323列車だったと思います。この時期ではもうまわりは真っ暗でした。 '71.12.27 旭川 P:平林寛信
幌内駅は、貨物ヤードがあり冬期は除雪との戦いです。人海戦術による除雪作業中に9600貨物が通過して行きました。 幌内線 幌内 P:中川弘一
D52 414は長大貨物を牽引し、ゆっくりと加速しながら大沼駅を発車して行きました。雄大で美しい駒ヶ岳とD52を一緒に撮影でき、感動!。 '71.3.12 大沼-大沼公園 P:高橋洋二
苗穂機関区はC57、C58、C11が所属していたが小樽築港区、岩見沢区所属のD51も函館本線の貨物を牽引し機関区で給水、給炭。常に多くの機関車で賑わっていた。 '72.12.24 苗穂機関区 P:千葉武男
C57牽引の旅客列車はこの日が最後日でしたが、貨物列車を牽くD51はあと10日間残りました。追分を発車する603号機です。 '75.12.14 追分 P:宮城浩志
長万部機関区を訪れて事務所で挨拶をすると、「内地」から汽車を撮りに来たのかと当時は珍しがられました。構内には急行「ていね」の前補機であるC62 30が待機しており本線では兄弟機の大型蒸気D52が発車を待っていました。 '66.8 長万部機関区 P:中川弘一
セキ専貨5290レ、栗丘通過17時49分。曇天、日没、露出との戦いだった。カラーはすでに露出が得られず、トライXパンであっても絞り開放、1/60でかろうじて撮れた三重連だった。 '74.3.29 P:田中一弘
DD51牽引の急行「天北」が、雪を飛ばしながら砂川駅を通過して行きました。 '86.3.10 P:平井ヨシフミ
早朝、五稜郭機関区を訪れたときの写真。水銀灯が照らし出す構内に道産子機関車D51 237がたたずんでいた。 '72.12.23 五稜郭機関区 P:葛巻郁夫
キハ82系「おおとり」は食堂車付きの堂々10輌編成で函館を後にして遥か網走を目指す、693kmにおよぶロングラン運用である。札幌と遠軽で2度進行方向を変える '83.7.10 函館-五稜郭 P: 熊谷孝志
稚内での撮影を終え、帰りは天北線経由で音威子府へ戻った。ここで宗谷本線321レを牽引してきた貴重なC55 50を撮影。この時点で旭川区のC55はもう3輌しか残っていなかった。 '73.1.2 音威子府 P:中島正樹
常紋や宗谷C55等、他の撮影候補地もまだまだありましたが、ひっそりとした深名線に1日をつぶして行きました。帰りの気動車が豪雪で来なかったらどうしよう、と不安と期待の中で撮影しました。 '74.3 湖畔 P:須田 剛
道南の名峰「駒ヶ岳」を背景にD51 29が最後の活躍をしていました。 '73.3.23 森〜桂川(信) P:葛巻郁夫
中学生当時に自ら撮影しましたキハ183系特急「北海」。山線こと小樽経由は海線こと室蘭・千歳線よりも距離は短いのにもかかわらず時間を要した「苦労列車」だけに味がある。 '83.2 大沼公園-赤井川 P:熊谷孝志
D61を求めて訪れた峠下を。本務機D51 4・後補機D61 4のコンビに遭遇。後補機のD61もしっかり力行していました。 '73.12 峠下-恵比島 P: 須田 剛
秋の午後、初めてシルエットに挑戦してみました。翌月に蒸機最後の旅客列車を牽引することになるC57 135号機が築堤を軽やかに駆けていきました。 '75.11.3 栗山-栗丘 P: 宮城浩志
保存機以外の本線上の蒸気機関車はすでに廃止され、9600形が入換えで最後のご奉公をするのみだった。追分を訪れると、火の入った49648が元気に入換作業に励んでいた。 '75.12.30 追分 P:高橋洋二
急勾配の難所区間ながら、DE10の補機が場合によっては前部に付くため、ファンから敬遠されることが多かった区間でしたが、満を持してロケハンして小俯瞰地を探しました。C58は後ろから強く押され、軽やかに上って行きました。 '74.3 緑-川湯 P:須田 剛
前から気になっていた、「常紋三山」の一つ、旧生田原町八重の林道・沢の近くの山から俯瞰しました。生田原発車直後から146KPまで見晴らせた絶景地でした。「八重沢山」と名付けました。 '75.3.5 生田原-常紋(信) P:須田 剛
「上興部-一ノ橋に三重連が走るらしい」。インターネットのない当時は口コミがすべてでした。日暮れ直前、真偽のわからぬままカメラを構えた前を9600三重連は走って行きました。 '74.8.21 上興部-一ノ橋 P:古村 誠
C62 27が3輌の客車を牽引して上目名を発車していった。撮影はC62重連が本命であったので、この137レの撮影は数コマしかない。 '67.7.18 上目名 P:高橋孝一
北炭幌内坑のヤードで9600がセキに石炭を満杯にしてヤマから出発する光景。北海道の炭砿が次々閉鎖される中で、幌内坑は最後まで残った炭砿の一つだった。 '75.2.1 幌内 P:中川弘一
内浦湾側から見た駒ヶ岳とD52。駒ヶ岳は大沼側から見る特徴ある姿とは大きく異なっていた。大沼方面に緩い勾配を登るD52炭水車には大きい文字がペイントされ、まさに国鉄時代を物語っていた。 73.3.30 渡島砂原-渡島沼尻 P:高橋洋二
快晴、無風、条件が揃った。汽笛が鳴り出発、ファインダーに集中する。しかし飛び込んで来たのは短編成。それもセキではなくトラ2輌。拍子抜けしたが今では貴重なカットとして思い出に残る。 '74.12 三笠 P:都築雅人
春まだ遠い小沼湖畔をマンモス機D52 202がボギー車を含めて約40輌の長大貨物を牽引して函館を目指します。鉄道が長距離陸送の中心を担っていた頃の一コマ。 '73.3.26 大沼-仁山 P: 高橋洋二
大雪のため豊富駅で数時間足止めを食っていたら、ラッセル車(キ127)+9600が入線してきました。動いているラッセル車を見るのは初めてだったので、とても興奮したのを覚えています。 豊富 '73.3.24 P:高橋洋二
士幌線は牧場、大雪連山、湖と北海道らしい風景満載の最高のローカル線でした。今でも忘れられない情景です。 '76.8.26 糠平 P: 蒲生 洋
利尻富士を遠望できる有名撮影地です。ただこの日は曇天のため、山を入れた構図ではなく、別な角度から撮ってみました。望遠レンズでの圧縮効果とクマザサだけが生い茂る丘陵地帯ということで、どこか日本ではない異国の風景が醸し出されたような一枚になりました。 '74.8 南稚内-抜海 P: 鈴木康一
大型蒸気D52が、雪化粧した函館本線の風光明媚な噴火湾沿いを長編成貨物で行く良き時代の光景です。 '71.3 石倉 P:中川弘一
千歳と苗穂間には多くの重連貨物運用が設定されていた。C57とD51の重連が北広島のコンクリート橋を驀進する。 '72.12.28 北広島 P:武者秀男
ファインダーを覗いていると最後尾にも煙が見えた。近づくにつれ、なんとD51重連。通過後トンネルに吸い込まれる直前を興奮しながら撮影した。 '72.12.25 栗丘 P;武者秀男
じっと耳を澄ませる中でようやく聞こえ始めたD51のブラスト音。カーブの影から姿を現した一瞬、最初のシャッターを切った。 '75.5.1 滝上-川端 P:永井修二
小沢駅を発車するとすぐに20‰の上り勾配が待ち構えている。駅構内の平坦線で出来る限りのスピードを出すため全力を振り絞っているようだ。 '71.8.8 小沢 P:武者秀男
1975年当時はまだまだ炭砿に活気があった。三笠から幌内炭砿へと何度も黙々と往復するキューロクを順光で狙うべく、小高い丘で待った。やがてプレートの位置のずれた39696号機が、ブラストも高らかにやって来た。 '75.3.22 三笠-幌内 P:古澤成博
沼ノ端を出ると千歳線は室蘭本線と並走し、やがて下り線は大築堤を登って行く。室蘭本線側からは勇払の大自然をバックにD51が築堤を登っていく姿をサイドから撮影でき、圧巻であった。 '71.3.21 沼ノ端-植苗 P: 内田博行
キューロクは遅い蒸機というイメージがあった。ところが、峠を下る528レの前補機49634は、絶気ながら本務機のD51に押されて特急列車なみの猛スピードで駆けおりていった。 '70.4.10 金華--生田原 P: 森瀬壽三
お小遣いを貯めて、「終煙」の年にやっと北海道に来ることができた。傑作なんて二の次、あの時は夢にまで見た汽車を撮れるだけで楽しかった。 '75.7.24 沼ノ端-遠浅 P:蒲生 洋
真冬に訪れた興浜南線。オホーツクの浜辺に沿って列車は進む。この日は運よく流氷が接岸、タラコ化が進むキハ22もオレンジツートンで二重のラッキーとなった。 '81.2.22 興浜南線 興部-沢木 P:寺沢秀樹
真夏の笹川流れ。透きとおる海の色がきれいです。岩場と砂浜を歩いて撮影場所に行きましたが、迂闊にも歩いてきた足跡が砂浜に残ってしました。 '72.8.12 羽越本線 桑川-今川 P:武者秀男
厳冬の道東の駅にて、特急「オホーツク」が列車交換のため停車中です。タブレットを交換する駅員さんは運転士さんに「今朝は凍れるねー」と話しているようです。 '77.2 呼人 P: 中川 弘一
特急「おおとり」とのタブレット交換のつもりが、中途半端になってしまった。この後D51の機関助士が黒い半覆面でタブレットを受け取り出発していった。 '74.2.28 生田原 P:宮山幸雄
北見機関区も当時随分と活気はあったが、古参の96には言い知れぬ哀感が漂っていた。この39667の黒光りする横顔は、どことなく古武士の風格を感じさせる。 '70.4.9 北見機関区 P: 森瀬壽三
D51は室蘭本線においては石炭列車を牽引するイメージが強いが、時折客車を牽く姿があり、このときは回送で重連となっていた。 '1974.3.4 栗山-栗丘 P:宮山幸雄
生田原を発車したD51牽引貨物には9600の後部補機が付いていた。先頭を撮った後、後部補機のサイドをアップで撮ると機関士の頼もしい姿が写っていた。。 '67.5.2 生田原-常紋信号場 P: 中島正樹
寂寥感漂う景色を行く9600の牽く貨物列車の写真。横に見える道路も、隘路といった感じで、まさに北辺の最果てを行く鉄路です。この岬は通称「斜内山道」。この線もかなり前に廃線になり、記憶の彼方へ行ってしまった。 '74.8 斜内-目梨泊 P:鈴木康一
「ニセコ1号」を撮影し122レで長万部に移動すると、上目名で急行「宗谷」と交換する。カメラを向けると「宗谷」がタブレット受にタブレットを入れる瞬間であった。 '69.3.28 上目名 P: 内田博行
残雪の熱郛-上目名の大カーブ。C62重連の急行「ていね」が急勾配を驀進する姿は怒濤のような迫力だ。 '68.5 熱郛ー上目名 P: 中川弘一
峠に向かう麓の上興部駅の片隅で、次の補機仕業まで待機中の老兵9600です。北海道の山奥ののどかな昼下がりのひと時、自分も次の名寄行き気動車が来るまでのんびりした時間でした。 '74.8 上興部 P:鈴木康一
駅に到着して貨物列車の通過を待つ。恵比島への勾配が始まるのでD61は構内を加速を付けて通過。後部ではD51の補機が後押ししていた。 '72.3.26 峠下 P: 武者秀男
初めての北海道撮影旅行は人気のあった急行「ていね」に初乗車。函館で乗車する前に先頭のカマを見に行くと、早くも熱心なファンがC62の足回りを撮影する姿があった。 '67.4.29 函館 P:中島正樹
昨年夜景を撮影し、その美しさに魅了されたため今年も訪れた。昨年同様にC58とC62の並びが撮影できた。C62は広島からきた15号機で広島以来の再会であった。 '71.3.23 五稜郭機関区 P: 内田博行
特急機の面目躍如といった走りでやって来たが、残念ながらベストポイント直前で加減弁が閉じられてしまった。それでも満足の一枚。 大沼 '70.3.21 P:中野伸俊
網走湖をバックに蒸機を撮ろうと、何も知らずに登った山は天都山。観光地らしく土産店もあるのですが誰もいません。店の屋上から能取湖をバックに9600を撮影しました。 '75.3.29 湧網線 二見ヶ丘-網走 P:安田 隆
渡道して初めて見たC62重連「ニセコ3号」。先頭客車に陣取って上目名では重連の咆哮を堪能し、客車通路から本務機3号機のテンダーの揺れるナンバーを見ながら到着した黄昏の倶知安駅。2号機見たさに思わずホームに駈け出した。 '71.7.31 倶知安 P:齋藤孝行
屋外に駐機中のD51足回りからもうもうとスチームが上がっていた。寒さによる凍結防止のためで、これこそ生きてるカマを実感する瞬間だった。 '73.1.5 追分機関区 P:中島正樹
終着北見のホームでキハの運転士に機関区を尋ねると、「これに乗れば直行だよ」との仰せ。便乗させていただき訪れた北見機関区では出区のD51 511が転車台にのって夕陽を浴びていた。'70.4.9 北見機関区 P: 森瀬壽三
網走湖が入る場所を探して歩いたが、結局良い場所が見つからず、平凡な線路端で33号機を待った。こうして今改めて見ると、デフのステーが直線的で正面から見ても格好良かった。 '75.3.18 呼人-女満別 P:古澤成博
首まで雪に埋もれながら、やっとの思いで登ってみると、眼下に鉄道模型のレイアウトのような信号場の全容が広がっていた。 '70.3.24 常紋信号場 P:中野伸俊
男と汽車は後姿で何かを語る。齢を重ね、この時のC55の車齢以上となった私だが、C55程には絵にならない。 '74.4.6 士別 P:田中一弘
函館本線の山間の駅にてD51旅客列車同士の列車交換です。下り列車の機関士、助手が歓談中で、SLの運転技術などについて指導しているようです。 '70.5 熱郛 P:中川弘一
長いセキの貨物列車が紅葉山駅を通過、1/1000秒で切ってみた。機関士さんと駅員さんの白いシャツが、短い北海道の夏の暑さを物語っている。カマは蒸機本線運転最終列車6788レ牽引機となるD51 241であった。 '75.8.13 紅葉山 P:中路信哉
吹雪の抜海駅に現れたキュウロク。ぽっかりと穴の開いたように見える旋回窓がこの日の吹雪の凄さを物語る。 '74.12.25 抜海 P:田中一弘
釧路からの夜行を乗り継ぎ、三笠には5時半頃着いた。ここでは黄色の警戒色の9600が牽引のセキの撮影を行った。合間に通勤客を乗せて622レが出発していった。 '71.5.4 三笠 P:小西 明
札幌から急行「利尻」に乗る前に室蘭本線のD51重連貨物を撮る。夕方で薄暗かったためピントが少々甘かったことが残念。 '74.2.25 岩見沢 P:宮山幸雄
留萌本線では編成が長過ぎたり、煙に巻かれたりして後部補機をうまく写せていなかった。なんとしても撮るんだと選んだ場所は開けた平野部。確かに編成は全部入ったものの、後部補機はとても小さくしか写らなかった。やはり、後悔の残る一枚。 '74.3.30 深川-北一己 P:田中一弘
熊笹を掻き分け線路が見渡せる丘に登った。サロベツの荒涼地を短編成客車を牽引したC55 50は軽快に通過して行った。 '74.7.10 P:武者秀男
夜のC62重連は倶知安と決めていた。近くのユースホステルに連泊し、天気の回復を待っての一枚。今、振り返って見ると甘い写真になっているところがフィルム写真の味が出ているような気がする。103レ C62 44+C62 3 '69.1.3 倶知安 P:小西 明
多くのファンが待ち構える中、やってきたのはスローガン入りの「団結」機関車。ファンのため息が聞こえてきそうです。 '75.3 沼ノ端ー遠浅 P:水野秀昭
朝日に照らされゆっくりと発車するギースル煙突のD51に感動! '75.3 追分 P: 林田知親
C62重連の「ていね」と「ニセコ」を追いかけて過ごした青春時代だった。何度も渡道し、そして夜行列車を旅館がわりとし、午前一本の上り、午後一本の下りの重連を撮るために...。ここ、長万部駅でのカマ替えや補機の連結はハイライトのひとつ。今、2号機と3号機のゴールデンコンビが、小樽をめざして発車して行った。 '68.4.4 長万部 P:高橋孝一
105レ急行「ていね」を牽引するC62 32+C62 3。給水を受ける間、慌ただしく火床整理、石炭の掻き寄せ、下回り各部の点検が行われている。 '68.5.17 P:小西 明
103レ急行「ニセコ」の車窓から初めて見る北海道は残雪も深く、第一白井川隧道にさしかかる頃、2輌のC62は老練な登山家のようにスリップを警戒して一歩一歩慎重に進んだ。'70.4.8 熱郛-上目名 P: 森瀬壽三
夜行の急行「大雪6号」で早朝に生田原で下車し、普通列車に乗って常紋信号場の短いホームに下車しました。金華側からSカーブの急勾配を9600とD51の重連貨物が上ってきました。動輪直径が異なるためにドラフト隔が異なって聞こえてきてリズミカルな交響曲を効いているようでした。 '71.3 金華-常紋(信) P:中川弘一
大学の鉄研の合宿が北海道であり、一泊目はここ大沼公園だった。朝、貸し自転車で小沼湖畔の高台へ。曇りながらも駒ケ岳は顔を出していた。函館への通勤通学列車を牽引していたのは、なんとC62 2号機。数コマ連写した最終のコマがこれで、林の中を軽快に駆け抜けていった。 '70.8.19 大沼-仁山 P:高橋孝一
北炭真谷地専用線を撮影の折、すぐ隣を走る夕張線の貨物を撮った。D51が多い中、この時期D50は貴重な存在で、中でもこの25番は最若年番号だった。その後、北見市の公園で保存された。 '67.5.3 沼ノ沢 P:中島正樹
朝日が昇ったばかりで駅にあった温度計は氷点下20度をさしていた。1527列車撮影後、緋牛内駅に戻ったら522列車が蒸気に包まれて停車中だった。 '75.2.26 緋牛内 P:宮山幸雄
機関区見学のとき、1000番代のナンバープレートをつけたD51の並びを撮った一枚。そういえばこの時、庫の中にいたC55やキューロクのナンバープレートの拓本を採らせていただいたはずだが、残念なことに実家のどこかで行方不明となったままである。 '72.8.13 旭川機関区 P:小林哲哉
夕張線最終日の翌日、追分機関区を訪ねた。昨日の最終列車を牽いたD51 241ほかD51が4輌、9600が3輌、火が入っていた。この日はすべて前向きに庫に収まっているのが印象的だった。 '75.12.25 追分機関区 P:宮山幸雄
旧新琴似駅 高架化、複線化、電化、そのどれもが想像もつかなかった時代の札沼線。吹雪の日には、列車を待つのが大変でした。 '85.12.27 新琴似 P:名尾 優
長いセキの貨物列車が紅葉山駅を通過、1/1000秒で切ってみた。機関士さんと駅員さんの白いシャツが、短い北海道の夏の暑さを物語っている。カマは貨物最終牽引機となるD51241であった。 '75.8.13 紅葉山 P:中路信哉
冬の北海道訪問は函館本線の石倉からスタート。噴火湾に沿った海岸線は風光明媚で五稜郭所属のD52牽引貨物も見られる。しかし暮れも押し詰まった大晦日では貨物も少なく寒さの中でやっと撮ったD52であった。 '72.12.31 石倉-落部 P:中島正樹
釧路に泊まった朝、釧路市内で宿から歩いて行ける根室本線の釧路川橋梁をねらった。手軽なポイントであるが、朝靄の晴れ上がる川面に投影された列車の影が印象的だった。 '74.1.15根室本線 釧路-東釧路 P:中島正樹
山間の駅、銀山駅の待合室で待っていると、駅員さんがホームに出ていったので一緒の出てみると、上りD51がホームに進入してきました。吹雪にめげず、駅員さんが待機していました。 '71.3 銀山 P:中川弘一
夜の静けさ漂う美深駅の前で発車を待つのは、日本一の赤字ローカル線で有名となった美幸線の代行バス。廃止されて半年近く経った頃に訪れた時のカットです。 '86.2.12 美深 P:鵜飼功一
早朝だがD52スジのため撮りたい一心。幸い好天で朝日が昇り始めた。真横からの朝日を受け足取りも軽く大沼への勾配を駆け上がって行った。 函館発札幌行 41列車 機:D52 138 '72.5.6 七飯─大沼 P:青木一郎
九州への修学旅行から寝台列車で戻り、即寝台特急「日本海」と連絡船を乗り継ぎ北海道へ。白老のYHに拠点を置き、自転車を借りて、2日間最後の現役蒸気機関車を撮影をしました。帰路生まれて初めて飛行機に乗ったのも良い思い出です。 '75.11 白老 P:水野秀昭
マイナス25度はあっただろうか。ひとり雪原で1527レ「大雪くずれ」を待った。身体は腰まで雪に埋もれ、指先は寒さで固まりフィルムレバーを回すのに苦労した。露出不足でほとんどブレていたがこの1枚だけ旅情溢れたカットに満足していた高校生の私だった。 '74.12 端野-緋牛内 P:都築雅人
遠軽から乗ってきたC58牽引混合列車を生田原で降りた。常紋越えのため、後部に9600の補機が付き充分時間があったので、その発車を撮った。次の列車用補機が待機する脇を期待通り猛然とダッシュして峠に向かった。 '67.5.2 生田原 P:中島正樹
午前中は常紋信号場から生田原寄りがお決まりのスポット。生田原から上ってくる貨物列車の間に入る特急「おおとり」は比較的気楽に撮影できた。 '75.2.23 生田原-常紋(信) P:宮山幸雄
駅からトンネルまでさほどの勾配はないが、D51牽引のほとんどの貨物列車は猛烈な煙を出してトンネルに吸い込まれて行った。 '72.12.24 栗丘 P:千葉武男
高1の夏休みに訪れた北海道。名寄本線に向かう途中、乗車していた列車が和寒駅でC55と交換。爽やかな朝日にスポーク動輪が美しく、思わずロッドの位置を見てシャッターを切った。 '74.7.23 和寒 P:古澤成博
移動は宿代わりの「大雪6号」。午前4時、遠軽でのスイッチバック停車に長時間露光。右は517レ「大雪6号」、左は始発622Dのキハ22。夜汽車の風情が懐かしい。'70.4.9 遠軽 P: 森瀬壽三
一ノ橋〜上興部間で重連を撮った後、上興部駅発車を狙った。雪晴れの日ではあったが風が思いのほか強かった。 '74.3.6 上興部 P:宮山幸雄
生田原駅の到着したDD51の機関士と乗客専務が駅員さんとタブレットの確認、交換を行っている、いつも見られた懐かしい駅の原風景です。 '75.1.28 生田原 P:中川弘一
従兄弟と一緒に小・中学生だけで札幌の親戚を訪ねた折、伯父に連れられ石狩湾へ海水浴に。水が冷たく泳ぐより岩場で遊んだ記憶がある。帰りの列車は札幌から急行「かむい」となる711系で、国鉄に勤めていた伯父からこれは試作編成だと聞いた。 '79.8.5 張碓 879M P:平蔵伸洋
過去のネガをデジタル化したなかで、自分としてはお気に入りの写真です。ところが、撮影年月は記録してあるものの、どこで撮影したのか全く記憶がないのです。ネットで調べて紅葉山駅と判明しました。 '75.11 紅葉山 P:中川 稔
大小の島々が点在する静かな湖面。遠くに山並みを望み、絵に描いたような景色の中をデゴ二が通過する。4489列車 機:D52 '72.5.5 大沼公園 P:青木一郎
氷点下の朝、白煙を長く残していく光景が印象的でした。 '75.3 端野-緋牛内 P:中川 稔
連絡船への積み込み風景
札幌での法事の帰路をキハ183系「北海4号」と青函2便、「はつかり2号」、「やまびこ12号」と乗り継ぎ。夜半にキハ80系「北斗8号」、未明に485系1500番代「白鳥」も眺めた。函館では雪降る中、控車を挟んでDD13が「八甲田丸」に貨車を押し込む。 '84.1.29 函館 P:平蔵伸洋
大学の鉄研の合宿が北海道であり、一泊目はここ大沼公園だった。朝、貸し自転車で小沼湖畔の高台へ。曇りながらも駒ケ岳は顔を出していた。函館への通勤通学列車を牽引していたのは、なんとC62 2号機。数コマ連写した最終のコマがこれで、林の中を軽快に駆け抜けていった。 '70.8.19 大沼-仁山 P:高橋孝一
女満別寄りで1527列車を狙い、呼人方面に移動。トンネルの上から遠くに網走湖が見える場所からC58 33貨物列車を撮ってみた。 '74.3.1 女満別-呼人 P:宮山幸雄
北海道旅行の途中、名寄機関区です。9600の運用から帰還して、清掃、片づけを行い一息ついたところで休憩に入ろうとしているところの写真を何気なく撮ったところです。いまではお気に入りの写真の一つです。 '75.3.17 名寄 P:松本卓彦
旧千歳線の下りの後補機です。今では自転車道だけがなごりとなっています。 '72.8 大谷地-上野幌 P:吉清 淳
3月でも真冬のような寒さの中を、ものすごいドラフト音を響かせながらD51がやってきました。やっぱり常紋信号場はすごいと改めて感じたことを思い出します。 '75.3 生田原-常紋(信) P:中川 稔
勇払原野の外れで夕日に照らされD51の貨物列車が離合します。線路の北側にはウトナイ湖からの季節風を遮るため丸太とムシロで組まれた防風雪壁が線路に沿って延々と続いていました。 '74.12 沼ノ端-遠浅 P:髙橋 明
千歳線、千歳-苗穂間にはC58、D51、C57の補機が活躍していた。北広島付近でも撮影したが、千歳駅17時34分発の貨2161レは日没前に撮影できるC57が補機に付く重連であった。 '72.3.28 千歳 P:武者秀男
午後の北見へ向かう、574レは回送の機関車と重連。いつもは回送は9600でしたが今日はC58重連。現役蒸気末期の石北本線の重連貨物は回送補機とはいえ貴重な存在でした。 '75.3 美幌-緋牛内 P:吉葉富雄
タンク車返送の1274列車が本輪西構内に絶気で滑るように入って来ました。間もなくD51は引退、ディーゼル機関車に置き換わります。 '75.11.2 本輪西 P:中川富士明
この地方では珍しく暑い日。運転台ドアを解放にして,700号機〔築〕が通り過ぎました。 '77.7 本輪西 P:中川富士明
木々に囲まれ、広くダイナミックなスイッチバックの仁山駅。引上げ線が見える位置でもまだ力行するデゴニ。8141列車。機:D52 140。 '72.5.5 仁山 P:青木一郎
超大型機が当たり前のようにいた長万部機関区。D52は五稜郭から長大な貨物列車を牽いてやって来ていた。機関区の函館寄りで、左からD52 202・D52 468・C62 2・DD51 660の面々。 '70.3.22 函館本線 長万部機関区 P:中野伸俊
激しい雨の中、合羽も羽織らずにタブレット交換に立つ助役さん。鉄道員の心意気を感じた瞬間。轟音と共にD61が通過。こちらは軟弱にも改札口からパチリ。 '69.7.28 力昼 P:中野伸俊
時ならぬ大雪がオホーツクの鉄路を埋め尽くした2日後。戻った早春の陽射しの中、複線ラッセル車キ553と29694のコンビが構内側線の除雪のため何度も往復していた。 '75.4.3 北見 P:小林哲哉
美唄を発車するC57牽引の下り貨物列車。この区間は平坦なのでC57は貨物用にも使用されていた。腕木シグナルの奥には三菱美唄鉄道の車庫が見え、Eタンクの存在が確認出来る。 '67.4.30 美唄 P:中島正樹
宗谷本線の撮影後に訪れた旭川機関区でC55の1号機と初対面。ふとターンテーブル方に目を向けると磨き込まれた1750㎜スポーク大動輪のコントラストが素晴らしかった。 '69.7.27 旭川機関区 P:中野伸俊
列車から見えた山腹の林道から俯瞰撮影しようと夕方山に入るも、霧に巻かれ列車は撮れないばかりか日が暮れて遭難しかけた。翌週、好天の日にリベンジを果たした思い出の一枚。 '74.8 上興部-一ノ橋 P:小林哲哉
緋牛内駅に進入する貨物列車。厳寒の時期だからこそ、懸命な煙が絵になった。 '75.2.26 緋牛内 P:宮山幸雄
ザザーという水音に驚いて振り返ると、9658のテンダーから滝のように水が溢れているところでした。庫内手さんが目測を誤ったのでしょうか。蒸気機関庫ならではの光景です。 '69.7.23 長万部機関区 P:中野伸俊
キハ82特急「北海」です。C62急行「ニセコ」を撮りに行った時は、小樽駅でもフィルムを消化しておりました。蒸機ばかりを狙っておりましたので、唯一の一枚です。 '70.12 小樽 P:佐藤 弘
蒸機列車ばかり写っているネガの中、旭川行と釧路行(食堂車つき)が併結された特急「おおぞら」、キハ82系13輌の編成写真を見つけた。撮っておいてよかった、と今思う。 '73.8.5 北広島-西の里(信) P:小林哲哉
地平時代の札幌駅を出発するED76 500番代牽引の夜行急行の回送。投宿した線路近くのユースホステルから札幌駅に向かう途中で撮影しました。 '79.8.8 札幌-桑園 P:中司純一
美幌-緋牛内間にある峠の直線区間でC58を待った。夕刻が迫り小雪が舞い、寒くて手がかじかんできた頃、その寒さを吹き飛ばすような煙でC58が現れた。 '75.3.18 美幌〜緋牛内 P:古澤成博
オーバーに言えば、C62重連の「ていね」と「ニセコ」を追いかけて過ごした青春時代だった。何度も渡道し、そして夜行列車を旅館がわりとし、午前一本の上り、午後一本の下りの重連を撮るために...。ここ、長万部駅でのカマ替えや補機の連結はハイライトのひとつ。今、2号機と3号機のゴールデンコンビが、小樽をめざして発車して行った。 '68.4.4 長万部 P:高橋孝一
C62重連がなくなった翌年、塩谷駅に降り立ち風光明媚な海岸を行く上りD51の客車を見ることができました。 '72.3.19 塩谷-蘭島 P:中川弘一
急行「大雪5号」を北見で下車し、相乗りタクシーで緋牛内まで先回りしましたが、機関士さんのサービスドレインで、肝心の寝台車、グリーン車が隠れてしまい痛し痒しの一枚になってしまいました。 '75.3 美幌-緋牛内 P:吉葉富雄
朝方の豪雪でラッセル車を押して十日町までやって来た。午後から越後川口まで貨物の運用が待っている。十日町機関支区でしばしの休憩。 '71.12 十日町 P:都築雅人
当時函館本線小沼湖畔で、DD51牽引の貨物列車と旅客列車の並走シーンを見ることが出来ました。まず、ゆっくりと視野に現れる貨物列車。そして、後方からローカル客車列車が追い抜いていくシーンは、さながらショーを観ているよう。しかし、これが日常の光景でした。 '79.8.2 七飯・仁山(信)-大沼 P:中司純一
石北本線の常紋信号場へD51貨物を撮影のために、生田原駅で普通列車を待つている時の駅風景です。大半の旅客列車は既にDL化していました。 '75.3 生田原 P:中川弘一
吹雪により不通となった宗谷本線に現れたのは複線型ラッセルヘッドのDD15だった。希望を言えばキ100が来て欲しいところなのだが、抜海駅で身動きが取れない状態では贅沢は言えなかった。 '74.12.25 抜海 P:田中一弘
夜のC62重連は倶知安と決めていた。近くのYHに連泊し、天気の回復を待っての一枚。今、振り返って見ると甘い写真になっているところがフィルム写真の味が出ているような気がする。 103レ 機:C62 44+C62 3 '69.1.3 P:小西 明
連日の雨。早朝96、D51が牽く2本の貨物が続けてやって来る。空知川の鉄橋が見えそうな丘へとヤブこぎ。朝から大汗かいた。 '75.7 赤平-東滝川 P:都築雅人
C62重連「ていね」の着発を撮影後、天気も良かったので構内を移動して、後続の列車を待つことにした。その合間をぬって、キューロクに押されたキ700形、通称「ジョルダン」がやってきた。 '68.2.21 倶知安 P:小西 明
ついに実現"C62三重連"。3度運行されたうちの最初の三重連です。私が中学1年の時でした。望遠レンズもなく、連写機能のないカメラで精一杯の一枚です。 '71.7.18 小樽-塩谷 P:佐藤 弘
1983年夏、青函航路下り函館行き八甲田丸船上から、青森行き羊蹄丸、背景は函館山です。 '83.8.12 P:杉山孝士
生田原駅の待合室で待っていると夕方の1529レを常紋で撮らないかと誘われた。タクシーを相乗りして峠近くまで行った。貨物列車と違って軽快に駆け上がって来るD51に拍子抜け。 '75.3 生田原-常紋(信) P:都築雅人
この冬最後を迎える夕張線の蒸機を早めに撮り納めるため北海道に渡ったが、天候に恵まれず走りを諦め駅撮りにした。駅構内では5797レを牽くD51 320が盛んに煙を上げていた。 '75.7.20 紅葉山 P:鈴木博之
高校1年の夏休み、初めての北海道へ観光と蒸気機関車撮影を兼ねた旅行に一人で行った時の一こま。朝、塩狩ユースホステルを出て、上興部へ向かう際、朝一番下り普通が上り蒸機通勤列車と下り急行「礼文」を待合せ退避中の写真です。 '73.7.28 和寒 P:鈴木康一
この日は南稚内-抜海で9600貨物撮影の後、天北線曲淵へ入る。初めて見る働いているラッセルと黒煙を吐いて推す雪まみれの9600に感激した。 '75.1.3 曲淵-沼川 P:坂井康祐
この区間は旅客輸送が廃止され貨物支線に改められたが、この時期はまだ蒸機によるセキの牽引が続いていた。三笠駅から岩見沢駅方面に一旦バックした後、分岐点から右へカーブし炭住街をすり抜けて、山へ向かって猛然とダッシュして行った。 '75.1.30 三笠-幌内 P:中島正樹
C62 2号機+C62 3号機「ニセコ1号」。小沢駅から倶知安峠まで行きも帰りもヒッチハイクでした。 '71.8.8 小沢-倶知安 P:千葉武男
5月だが木々はまだ冬模様。風は冷たく静かな大地に響くドラフト。ワムに交じった冷蔵車が色を添える。6277列車 機:D52 '72.5.5 七飯-大沼 P:青木一郎
朝、「ニセコ」仕業前に機関区を訪問。C62が庫の中に並んで収まっていた。2号機と32号機。2号機は、テンダーに付いているライトの整備を受けていた。このような訪問が出来た時代に感謝。 '70.2.9 小樽築港機関区 P:高橋孝一
一仕事を終え網走で次の仕業に備え待機するC58。凍結予防の蒸気に満ちた庫内は、この地の仕業の厳しさを物語っていた。 '75.1.2 田中一弘
倶知安付近は羊蹄山の麓にあり雪深い地域であり、峠越えの上りD51は噴煙を高く上げて急勾配を登る姿は迫力満点でした。 '70.3 倶知安─小沢 P:中川弘一
5月というのに、停車するC58の背後の林は葉を落とした立木のままで、北国の春の遅さを実感したものです。 '75.5.2 網走 P:永井修二
オホーツクの冬。流氷が押し寄せて一面の氷原となった。寒風を突いてC58牽引の混合列車が行く。 '70.3.26 北浜─浜小清水 P:中川 弘一
小樽-札幌間は通勤・通学等で列車本数が多い幹線。当時は総て蒸機列車で運転され、C62を始めC55、C57、D50、D51と車種も豊富だった。断崖が海岸まで迫る厳しい地形で下車した張碓駅もすでに廃止になっている。 '67.4.30 張碓-銭函 P:中島正樹
最初で最後になってしまった夕張線行で初めて広角28mmを使った一枚。さわやかな夏の一日、ギースル煙突のD51が炭砿へ向けて通り過ぎていきました。 '75.8 川端─滝ノ上 P:高橋弘喜
天候に恵まれたこの日の締めくくりの撮影は、西に傾く太陽に赤く染まり始めた混合列車だった。 '74.3.27 北浜-浜小清水 P:田中一弘
キハ183系ディーゼル特急の全盛となっていたが、地平ホーム時代の煤まみれの跨線橋が懐かしい。「おおぞら」と「北斗」。 '85.7.8 札幌 P:迫尾 肇
折からの北海道ブームに「SLブーム」。急行「しれとこ」も混成長編成で活躍。ただし小さい駅ではホーム乗降はグリーンと指定席車だけ、あとはホーム外乗降。普通列車から降りてくる地元の皆さんは、急行が発車するまで改札に行けません。 '71.7.30 茅沼 P:江川智和
夜行急行「利尻」で着いて利尻富士が見える場所まで歩くが、この日は残念ながらとらえることはできず。南稚内寄りの場所で322列車を撮影。 '74.2.27 南稚内─抜海 P:宮山幸雄
C58 139牽引"大雪くずれ"1521レ。当時中学生の私の蒸機撮影によく同行してくれた今は亡き母が、「SL列車の去り行く姿が好きだわ」と言っていたのを思い出す。 '75.4.4 呼人-網走 P:小林哲哉
前日天北線で初めてラッセルを見たが、今朝は室蘭本線追分でまたラッセルの出動を見る。D51に推されて夕張線に入るのか。 '75.1.4 P:坂井康祐
かつてこのポジションでC62の「ニセコ3号」を撮っている。キハ183系、13輌の長編成が懐かしい3D[おおぞら3号」の姿だ。途中、滝川で別れ7両が釧路まで運転。当時、鉄塔の傍に運転指令建屋があったが、この時すでに撤去されておりそのため、連絡船が見えるようになっていた。 '82.5.28 函館駅 P:小西 明
名寄駅でC55同士の交換と発車シーンを撮影後、急行「天北」で追いかけ音威子府で撮影。駅構内を出ると上り勾配になるのでC55は力を振り絞り進んで行きました。 '72.12.26 音威子府 P:千葉武男
蒸気機関車の撮影においての心残りは数々あれど、ここ留萌本線での後部補機付2台運転はアングルが悪かったり、編成が長かったり、煙に巻かれたりで、結局最後までうまく2台を入れて撮れなかった。これは私にとって、とても大きな後悔だ。 '73.3.31 峠下-恵比島 P:田中一弘
山線を往く急行「ニセコ」。C62重連の迫力には敵いませんが、DD51重連で峠越えに挑みます。 '85.8 小樽-塩谷 P:新井良紀
函館本線山線沿線は豪雪地帯です。その中を急勾配の倶知安峠に挑むC62重連急行「ニセコ1号」104レが豪快に走行する姿に魅せられてたびたび訪れました。 '71.3 小沢-倶知安 P:中川弘一
札幌行き急行「たるまえ」を牽引するC62の発車前のひと時。23時台には、3本の蒸機牽引列車がホームに停車していた。他には、釧路行きと札幌行きの荷物列車だった。連絡船到着前なので、まだホームは静まっていた。 '68.4.3 函館 P:高橋孝一
3月下旬になると、ここ倶知安のC62重連の発車は撮りやすくなる。だからといって、いい写真が撮れる、というわけでもない。何度通いつめても、傑作はなかなかモノにできなかった...。 '67.3.29 P:高橋孝一
倶知安駅から各駅停車に乗って銀山駅におりたった。駅は綿帽子を冠ったような雪景色の中を、上りD51牽引客車列車が発車して行きました。 '69.3 P:中川弘一
音威子府21時44分発、名寄行き378レが水銀灯に照らしだされながら、ゆっくりと発車して行きました。撮影を終え見送っていると、投炭するたびに線路際の雪の壁がオレンジ色に光っていました。 '75年 音威子府 P:吉葉富雄
デゴイチの貨物列車を待っていると、後方からC57 104〔岩一〕がたった4輛の客車を牽いて軽快なジョイント音も軽やかにやって来た。 '74.7.17 追分-三川 P:古澤成博
道東での活動を終えて帰りに広尾線に立ち寄り。1日に1本の貨物列車、9600+ワフ+トラ+ワフと季節波動だと思うが少々寂しい編成だった。 '75.3.5 忠類 P:宮山幸雄
春休みも終わりに近づく4月5日、明日は帰路につく予定。折から降り始めたボタン雪は、北海道への思いを残す、名残雪であった。 '74.4.5 西女満別-女満別 P:田中一弘
長万部機関区訪問の際、もう一足延ばして下り方向の室蘭本線を探索してみた。函館本線は大きく山側にカーブして分かれるが室蘭本線は直進し、川を渡る。ちょうどD51牽引の下り貨物が発車して来た。 '67.5.4 長万部 P:中島正樹
待機するD52と進入するキハ82系「北斗」。この構図が気に入って、たびたび同傾向の写真を撮っている。 '70.8.17 大沼公園 P:高橋孝一
北海道周遊で立ち寄った釧路駅。日が暮れた根室本線下りホームで停車中の鋼体化客車改造の気動車キハ08を初めて見た。時間が許せばその乗り心地を試してみたかった。 '67.5.2 釧路 P:中島正樹
千歳線には重連貨物の設定がかなりあり、補機はC58とC57共用であったがC57定期補機の貨物も見られた。新線が完成し(左手に見えます)切り替え前の旧線を驀進するC57 6号機。 '72.12.28 北広島-西の里(信) P:千葉武男
当時の札幌駅地表ホームが見える構内で翌日の鉄道100年記念運転に備え停車中のC62 2・3号機初めて撮った一枚。 '72.8.26 札幌 P:新井晃司
始発準備の転線と共に蒸気作りの投炭が始まったようだ。雄大な駒ケ岳をバックに豪快な煙が立ちのぼる。大沼公園駅発8144列車。機:D52 140。 '72.5.5 大沼公園 P:青木一郎
日本一長いの直線区間。撮影場所を探して延々と歩き、やっと見つけた踏切で列車を待った。遠くの陽炎にその姿を見つけてから15分位経っただろうか。なめくじがのんびりとやって来た。 '74.7.16 社台-錦岡 P:古澤成博
この日の生田原から登って来る貨物はタンク車の重さのせいか、いつもよりゆっくりで止まるのではないかと思うくらいでしたが、奮闘するD51は線路に砂を撒きながら確実に登って行きました。 '75.3 生田原-常紋信号場 P:吉葉富雄
真夏の暑い日。上目名の峠を登るD51貨物を待つ。眩しい空を暗くするほどの黒煙に驚いたが、できた写真を見てダブルルーフの客車が写っていたのにまた驚いた。D51 804。 '73.8.4 上目名 P:小林哲哉
最果ての路線にあこがれ、2度目の北海道は真冬の宗谷本線に行った。札幌からの夜行列車で南稚内に降りた同好の士は約30人、それぞれ好み場所へ散った。初めての場所で失敗を恐れ、手堅くカーブでC55をねらった。 '73.1.2 抜海-南稚内 P:中島正樹
静狩駅を出ると右に大きくカーブを描き、トンネルに入るまでに10/1000の勾配を上ります。静狩を午前5時59分に通過する貨物列車を狙いましたが、光量不足でネオパンSSの感度では軟調になってしまいました。当時トライXフィルムは高価で高校生には手が出ませんでした。 '71.8.10 静狩 P:武者秀男
一日一往復の9600牽引貨物列車を撮るため神威岬で過ごした日の昼下がり。岬を越えていく自転車ツーリングの一団をキハ22単行列車が追い越していった。 '74.8 斜内-目梨泊 P:小林哲哉
雪の倶知安駅にて上りD51重連客車が雪煙を上げて発車して行った。(本命はC62重連ニセコですが!) '69.3 倶知安 P:中川弘一
大動脈の輸送を担うマンモス機。気温は低い北海道の5月、発電機の白煙までもが冷たい風に乗る。 4181列車 機:D52 '72.5.5 七飯-大沼 P:青木一郎
高1の夏休みに出かけた留萌本線。本数も少なくのんびりと1日を過ごした。運良くD61 4が運用についていたが、暑い日で発車の煙はスカスカだった。 '74.7.23 恵比島 P:古澤成博
D51の牽引するDD53の補機付貨物列車が塩狩峠に消えるのをいつまでもファインダーで追っていた。警報機が鳴り止み、凍てつく踏切を子供たちと渡る母親。氷点下、D51の排出した水蒸気が凍り、ダイヤモンドダストのように輝き落ちる北国の夕暮れ。ふと、心が和む一瞬だった。 '74.3.22 和寒 P:齋藤孝行
D52の迫力は圧倒的だった。北海道ならではの長大編成の貨物だから、なおさらだ。ここ長万部では、C62とD52に行きあえた。 '67.7.18 長万部 P:高橋孝一
雪もやみ薄日が差してきた。そして風もなく今までにない絶好のコンディションとなった。まもなくして「ニセコ1号」が轟音を響かせてものすごい迫力で通り過ぎて行った。客車も煙で被っていなかった。 '70.3.14 小沢-倶知安 P:内田博行
午後の常紋越えで撮影後、美幌に戻ってきたところ。夕方近くの貨物列車だったが終日晴天のため比較的明るく、発車シーンをとらえることができた。 '75.2.27 美幌 P:宮山幸雄
20泊の貧乏学生旅行の途中、狩勝信号場で403D「阿寒」を退避させて堂々と通過する2002D「おおぞら」に遭遇。今になってみると狩勝旧線最後の夏をカラーで撮った貴重な記録となった。 '66.8.30 狩勝信号場 P:鈴木博之
札幌に朝着いたときは嵐のような天気だった。特に行くところも決めてなく、こんなときでないと行けないかな、と考えC11の貨物が走っている札沼線へ。どこまで行っても同じような景色のため、交換駅の石狩太美で降りる。横殴りの雨の中、撮影地を探す気力もなく駅で撮影したことを覚えている。 '71.5 石狩太見 P:志井純一
幌内-三笠間で石炭のピストン輸送をしていたキューロク。山積のセキの横で小休止。 '73.8.6 三笠 P:小林哲哉
朝一の栗丘周辺。新雪が朝日に照らされ輝いていた。 '74.1 栗丘 P:川瀬 剛
この年の2月、卒業旅行として、函館本線山線を中心に撮影行。当日の銀山周辺は猛吹雪。お目当てのC62重連「ニセコ」も俯瞰は無理で、線路際での撮影になった。今となってはぜいたくと思えるが、「D51の牽く普通列車」も撮影した。数コマの連写のうち、もっとも迫力のあるカットがこれで、貴重な一枚となった。 '70.2.12 銀山-小沢 P:高橋孝一
信号扱い所と連携をとりつつ広い構内を行き来する入れ替え機のキューロク。建屋の大きなツララを見ると雪国の厳しい冬の冷気が今でもよみがえる。 機:49617 '66.12.27 岩見沢 P:青木一郎
高校1年の夏に丸瀬布森林公園の雨宮21号を見に行ったときの帰りに丸瀬布駅での待ち合わせの合間に撮影したものです。朝、札幌を出発して丸瀬布まで列車での往復と、駅から公園まで片道は徒歩だったのでヘトヘトになった思い出があります。 '82.8 丸瀬布 P:鈴木岳人
下り「ニセコ3号」の撮影は逆光となった。白黒フィルムは上り「ニセコ1号」のために残したので、二眼レフ(アルペンフレックス)のカラーでの撮影となった。レンズの性能上線路脇まで行った。列車の通過前あたりから、薄雲がうまく午後の日差しを和らげてくれた。機:C62 3〔築〕 '71.1.5 大沼付近 P:小西 明
日本海のほかにはこれといった見どころもなく地味な印象が強かった。日本海からの冷たい風が吹き荒む高台に立つと海に面した寒村が眼下に広がっていた。 '81.2.19 鬼鹿-力昼 P:寺沢秀樹
天候が安定していた日に初めての夜間撮影にチャレンジ。北見から「大雪」になる1528列車と交換シーンを想定。停車時間の関係でC5833が牽く1595列車をじっくり撮影することができた。 '75.3.1 呼人 P:宮山幸雄
憧れのC62 の2号機が前補機で、本務機は32号機。まさに「ジェット機」のような走行音で通過していった。ここ数日は比較的暖かかったのだろうか、線路の真ん中の雪は消えていた。 '68.4.4 目名-上目名 P:高橋孝一
昭和46年9月15日、ついにC62急行「ニセコ」最後の日がやってきました。C62 2号機を先頭にした三重連のお別れ列車です。当日、「ニセコ1号」は目名-上目名で撮影し、最後の「ニセコ3号」は長万部で撮影しました。多くのファンが見守る中、二度と帰らぬ旅路に出発して行きました。 '71.9.15 長万部 P:武者秀男
厳しい常紋越えの仕事を終えましたが、休む間もなく次の仕事に備えて区員の整備を受け、折り返し峠越えに挑みます。 '73.3 北見機関区 P:吉葉富雄
流氷のオホーツクを行くキハ27+キハ40。当時は普通に見られた冬の光景だった。今は国鉄急行色キハは引退し、流氷がここまで海を覆い尽くすのも稀なことになってしまった。 '83.3.2 北浜-原生花園 P:小林哲哉
1527列車を網走湖バックに撮るはずが白煙で隠れてしまった。オロハネが入った編成は何度みてもいい。 '74.3.1 女満別-呼人 P:宮山幸雄
雪まみれのキハ22が到着。悪天候でも黙々と業務を行う係員によって列車運行は確保されている。撮影後、この列車の乗客となったが、途中で吹き溜まりに突っ込み立ち往生、真冬の北海道の厳しさを実感することとなった。 '83.2.16 京極 P:寺沢秀樹
遅い夏休みを取ってやってきた9月の北海道。観光旅行に徹するつもりで来たものの、車窓から見えるカマの姿に心が動き、北海道最後の2日間は室蘭本線での撮影に予定変更。終焉へのカウントダウンの始まったD51の姿を追った。 '74.9.6
栗丘-栗山 P:鈴木博之
中学最後の春休み、友人と一緒に北海道撮影旅行へ。初めて間近に見る蒸機の迫力に圧倒されました。 '74.3.22 栗丘 P:吉川 明
無ダイヤ状態の猛吹雪の中、発車して行く9600。 74.1 抜海 P:川瀬 剛
北海道撮影に行くなら、母の実家にもよって行けといわれ、稚内に来たのは1969年9月。朝のC55を撮影すると、特に行く所もない。ダイヤを見ると、貨物は稚内まであるので、すべて9600だと思って待っていたら、来たのはDD14 5だった。なじみのない機関車だけに、最初見たとき何が来たのかと思ったほどだった。多分9600は南稚内までで、その先は稚内の先に、貨物扱いの操車場があり、入換えをかねて、牽引機が変わったのだろう。今見ると2軸貨物ともども、懐かしい編成である。 '69.9.30 稚内 P:志井純一
写真を撮ったとき、手前のD51の機関助士さんに、生田原までキャブに乗せてやると言われました。しかし荷物を離れた場所に置いてあったので諦めました。残念でした。中学1年、夏休みの思い出です。 '73.8 常紋信号場 P:佐藤圭樹
夜間撮影の経験はほとんどなかったが、ホームから手軽に撮れる岩見沢で実施。照明で明るく照らされた構内には日中室蘭本線で活躍していたC57が静かに憩っていた。漆黒の空に白煙が西風になびく。 '75.1.26 岩見沢 P:中島正樹
北海道の玄関として、青函連絡と歩んだ函館。連絡船が消えて23年。今こうして写真を眺めていると、寒風の吹くデッキで出港時の録音していた当時の姿が思い出される。17時00分出港 4便 大雪丸 函館港 '82.5.27 P:小西 明
スタンプ帳の中から、懐かしいものが出てきました。すっかり忘れていました。 P:吉村昌則
蒸気機関車の撮影に明け暮れた時には、連絡船を撮ることなどあまりなかった。この度は連絡船の撮影に絞り、北海道を訪れた。函館山山頂より函館駅を望むと丁度、二岸に石狩丸が入港する所だった。赤と白の船体は夕陽を浴びて輝いていた。 1982.5.28 函館桟橋 P:小西 明
あこがれのC62の2号機と整備している機関区の職員の方々。庫内には蒸気があふれていた。 '70.2.9 小樽築港機関区 P:高橋孝一
気温が氷点下20℃近く、日の出直後ということもあり、全体的に暗い。ナンバープレートが朝日に照らされたことが救い、編成は見えないが1527列車(大雪くずれ)。 '75.2.27 緋牛内 P:宮山幸雄
旭川発稚内行の列車は285キロの道のりを8時間かけ走破するが、まだ行路の3分の1に過ぎないこの駅でカマ替えと給水を行う。多くの諸兄がその光景にカメラを向けられたことだろう。 '74.8.26 名寄 P:井芝七路
長大な貨物列車の先頭に単身で挑む1118号機。発車時の大きなドラフト音は数秒で消え、ほとんど無音でゆっくりと眼前を通過、その直後激しい勢いで蒸気を排出しながら少しずつ速度を上げ始めました。力を溜め、何度も挑戦しながら貨車を引っ張るようなその姿に、当時少年だった私は感動すら覚えたものです。 '74.7.23 追分 P:森 潤宏
降り続いていた雪も止み日が射してきた。辺り一面雪化粧のなか新雪を踏みしめながら134レがやってきた。普段D51はついでに撮影していたが、あまりの美しい光景に今日は真面目に構えた。 '70.3.11 小沢─倶知安 P:内田博行
二度目の冬の北海道、本数が稼げる栗丘〜栗山間でほぼ1日滞在。栗丘駅の発車を狙ったが逆風で煙はご覧のとおり。 '74.2.25 栗丘 P:宮山幸雄