美幸線の乗車を終えて美深駅で待っていると、下り「天北」到着。14系寝台車を連結した編成は3年足らずで気動車に置き換わってしまった。美深駅木造駅舎も懐かしい。 '85.6.30 宗谷本線 美深 P:藤村巌雄
宗谷本線の最近の記事
4月からの就職を控え最後の北海道撮影旅行の一枚。夜行「利尻」を幌延で降り、兜沼へ移動して撮ったものです。この322レを撮った後は、音威子府へ移動し321レを狙いました。 '72.3.19 宗谷本線 兜沼ー芦川 P:小野木定一
現役蒸機末期の北海道各線の情報はファン同士の口コミがほとんどでした。宗谷本線でも「客車列車は隔日で蒸機が牽引している」「9600が客車列車を牽引している」と怪しい情報が行きかっていました。私も騙されたつもりで、三脚を立てましたが遠くから甲高い汽笛が聞こえDD51牽引の321列車がやって来ました。「マジかよ!」と一枚しかシャッターを切りませんでしたが、今となっては貴重な一枚です。 宗谷本線 上雄信内―糠南 '75.3 P:吉葉富雄
馬面電車で人気のあった軌道線。大沢温泉に泊まった翌朝、偶然工事用車輌として生き残っていた木造のデハ5形と遭遇。資材の準備をした後、終点の西鉛温泉に向けて動き出した。 '64.2.17 花巻電鉄軌道線 大沢温泉 P:中島正樹
雪の北海道は、暖地の高校生には厳しかったです。写真の多くが駅かその周辺でした。宗谷本線のC55も1輌はC57に置き換わっていて、なぜかC57の方がよく出会いました。 '74.3.16 宗谷本線 士別 324レ C55 50〔旭〕 P:山口龍次
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冬の抜海。悪天候で例の利尻富士が見える地点まで行くことができず、駅撮りに専念しました。 '73.1 宗谷本線 抜海 P:川瀬 剛
風雪の厳しい日、名寄本線に入るのをあきらめ名寄駅での撮影となった。対向ホームには予想通り背後に雪をべったり付けたキハ22が入線してきた。 '73.1.3 名寄本線 名寄 P:中島正樹
利尻富士とサロベツ原野を絡めた写真を撮影しようと思い早朝の抜海駅で下車したものの、朝霧であたり一面真っ白。風の音と鳥のさえずり以外何もない状況に、急にたまらない寂寥感を覚えて歩き出すことが出来ず、結局駅発車を狙うことになってしまった。324レがやってくる直前に、幸運にも視界が良好になってくれた。 '74.7.22 宗谷本線 抜海 P:古澤成博
前日までの暴風雪が収まった快晴の朝、放射冷却で凍てつく名寄駅構内の除雪作業が始まりました。重たい除雪車を懸命に押す9600の姿が今でも目に焼き付いています。幸運なチャンスに居合わせた数名のファンと撮影後、皆で駅そば注文するも、凍えた手を温めるために、そばを食べずにいつまでも丼を持ったままの姿にお互い笑いあったことを思い出します。 '74.12.26 宗谷本線 名寄駅構内 P:後藤 篤
稚内からバスで坂の下に向かった。ここは利尻富士を背景にした写真の撮れる名所。しかし、この日は海岸線すら霞むほどの横殴りの吹雪。心細くなったころ遅れていた気動車がやってきた。 1984.2.24 宗谷本線 抜海-南稚内 P:佐々木宗一
忘れもしない昭和50年3月31日。暴風雪により上り夜行急行「利尻」は運休となり、幌延駅で一夜を明かすことになってしまいました。夜中の何時頃だったでしょうか。ラッセルが突然やって来て止まりました。もうびっくり! 寒さを忘れて、高校鉄研の仲間たちと夢中に撮影した時の一枚です。 '75.3.31 宗谷本線 幌延 P:竹村信雄
711系急行「かむい7号」の 乗り継ぎ客を受けて旭川駅を出発する名寄行き323レ。C55はもちろん、馴染み深い「かむい」の名も、711系も消え、旭川駅は高架となり姿を変えた。今、当時の状況を懐かしく思い出す。 '73.3.31 宗谷本線 旭川 P:田中一弘
夜行急行「利尻」で着いて利尻富士が見える場所まで歩くが、この日は残念ながらとらえることはできず。南稚内寄りの場所で322列車を撮影。 '74.2.27 宗谷本線 南稚内-抜海 P:宮山幸雄
宗谷本線、北行客321レ。私に北に向かう憧れを、強く抱かせた列車だった。 '74.4.1 宗谷本線 天塩中川-下中川 P:田中一弘
当てもなく勇知駅で降り撮影地を探したが、下回りが雑草で隠れるところばかり。列車が来る直前に、やっと小さな鉄橋を見つけてスタンバイ。やって来たのは薄くなった「団結」の文字と、警戒色が目立つ29613号機だった。 '74.7.22 宗谷本線 勇知〜兜沼 P:古澤成博
まだ2月ですが、この地では、春闘が始まっていました。「日共糾弾」「春闘勝利」デフには、「檄」がかかれ、折角のC55がご覧のありさまでがっかりした記憶があります。今となっては、懐かしい思い出です。 '74.2 宗谷本線 名寄 P:野中英一
夕刻の豊富駅に、C55の321列車の直前にやってくる上り貨物372列車。停車時間が長くキューロクの前で記念撮影をしていると、機関士さんがニコニコしながら「どこから来た? あそこで撮るんか?」などと訊いてきた。しばし談笑。長い汽笛の後、発車すると煙はご覧の通り。忘れられない思い出となった。 '74.7.21 宗谷本線 豊富 P:古澤成博
「北斗星」の運転を控え、急行「天北」を利用したDD51の慣らし運転が始まっていた。厳寒の北国の夕暮れ、サブカメラの方はカメラの油が凍り、シャッターが切れなかった。 '88.2 宗谷本線 剣淵 P:齋藤孝行
北海道最北端に近い豊富は3月とはいえ、真冬だった。大雪のため下り貨物列車を牽く79642の前部や下回りは雪まみれであった。乗車する列車が来るまで何時間も待つことになった。 '73.3.24 宗谷本線 豊富 P:高橋洋二
ギースル装備に興味はあっても、じっくりと見る機会には恵まれなかった。この日は交換待ちのD51を堪能するまで眺められて満足だった。 '74.4.6 宗谷本線 士別 P:田中一弘
稚内に向かう途中で下車。雪晴れで比較的暖かいところに稚内行き普通列車が到着。十数分の停車時間で給水、北海道旅行中の若者がC55をバックに記念撮影していたことが記憶に残っている。 '74.2.26 音威子府 P:宮山幸雄
塩狩峠の防雪林に囲まれたカーブを力走するD51牽引の下り貨物列車。蒸機も終焉に近い頃の撮影です。宗谷本線では旭川〜音威子府間で、1974年暮れまでD51が活躍していました。 '74.1.15 蘭留〜塩狩 P:田中翔貴
宗谷本線のC55といえば、旭川〜稚内間の321・324列車だったが、客車が4輌編成と短かったため、どうしても長編成を撮りたくて、早朝の名寄発旭川行き322列車の蘭留発車を狙った。やって来たのは流改の30号機! しかし、梅雨空を思わせる曇天にブラストは勇ましいものの煙はご覧の通り。「せっかく30号機だったのに!」と、気持ちも晴れないままシャッターを押した思い出の一枚。 '74.7.22 蘭留 P:古澤成博
雪深い正月の塩狩峠を行く客車急行「宗谷」。撮影後、近くの塩狩温泉で冷えきった身体をしっかり温めてから帰路に着きました。 '86.1 塩狩〜蘭留 P:橋本安史
名寄以南でもC55を撮影しようと、光線状態の良い風連駅の近くで324列車を待った。しかしやって来たのはC57 87。がっかりしていると、何と発車直後から存在をアピールするかのような見事な爆煙!今ではお気に入りの一枚となった。 '74.7.25 P:古澤成博
夕刻の豊富駅で321列車を待った。やがて丸いキャブの屋根が遠くに見えた。30号機だ! 今で言う"バリ順"の光線状態で30号機を撮影でき、大満足。サロベツ原野の風がとても心地良かった思い出の一枚。 '74.7.21 豊富 P:古澤成博
スポーク動輪が透けて見える写真が撮りたくて、天塩川の支流・名寄川の鉄橋を見下ろせる高台に登りました。遠景ですが、何とかスポーク動輪の隙間が分かります。 '74.3 名寄-日進 P:須田 剛
塩狩のカーブを行く321レのC55 50。テンダーには"団結"の落書きが。よく見ると、キャブにファンが添乗して写真を撮っているように見える。 '74.3 蘭留-塩狩 P:須田 剛
旭川発17:28。宗谷本線の名寄行き323列車だったと思います。この時期ではもうまわりは真っ暗でした。 '71.12.27 旭川 P:平林寛信
稚内での撮影を終え、帰りは天北線経由で音威子府へ戻った。ここで宗谷本線321レを牽引してきた貴重なC55 50を撮影。この時点で旭川区のC55はもう3輌しか残っていなかった。 '73.1.2 音威子府 P:中島正樹
大雪のため豊富駅で数時間足止めを食っていたら、ラッセル車(キ127)+9600が入線してきました。動いているラッセル車を見るのは初めてだったので、とても興奮したのを覚えています。 豊富 '73.3.24 P:高橋洋二
利尻富士を遠望できる有名撮影地です。ただこの日は曇天のため、山を入れた構図ではなく、別な角度から撮ってみました。望遠レンズでの圧縮効果とクマザサだけが生い茂る丘陵地帯ということで、どこか日本ではない異国の風景が醸し出されたような一枚になりました。 '74.8 南稚内-抜海 P: 鈴木康一
男と汽車は後姿で何かを語る。齢を重ね、この時のC55の車齢以上となった私だが、C55程には絵にならない。 '74.4.6 士別 P:田中一弘
吹雪の抜海駅に現れたキュウロク。ぽっかりと穴の開いたように見える旋回窓がこの日の吹雪の凄さを物語る。 '74.12.25 抜海 P:田中一弘
熊笹を掻き分け線路が見渡せる丘に登った。サロベツの荒涼地を短編成客車を牽引したC55 50は軽快に通過して行った。 '74.7.10 P:武者秀男
高1の夏休みに訪れた北海道。名寄本線に向かう途中、乗車していた列車が和寒駅でC55と交換。爽やかな朝日にスポーク動輪が美しく、思わずロッドの位置を見てシャッターを切った。 '74.7.23 和寒 P:古澤成博
北海道旅行の途中、名寄機関区です。9600の運用から帰還して、清掃、片づけを行い一息ついたところで休憩に入ろうとしているところの写真を何気なく撮ったところです。いまではお気に入りの写真の一つです。 '75.3.17 名寄 P:松本卓彦
宗谷本線の撮影後に訪れた旭川機関区でC55の1号機と初対面。ふとターンテーブル方に目を向けると磨き込まれた1750㎜スポーク大動輪のコントラストが素晴らしかった。 '69.7.27 旭川機関区 P:中野伸俊
吹雪により不通となった宗谷本線に現れたのは複線型ラッセルヘッドのDD15だった。希望を言えばキ100が来て欲しいところなのだが、抜海駅で身動きが取れない状態では贅沢は言えなかった。 '74.12.25 抜海 P:田中一弘
高校1年の夏休み、初めての北海道へ観光と蒸気機関車撮影を兼ねた旅行に一人で行った時の一こま。朝、塩狩ユースホステルを出て、上興部へ向かう際、朝一番下り普通が上り蒸機通勤列車と下り急行「礼文」を待合せ退避中の写真です。 '73.7.28 和寒 P:鈴木康一
夜行急行「利尻」で着いて利尻富士が見える場所まで歩くが、この日は残念ながらとらえることはできず。南稚内寄りの場所で322列車を撮影。 '74.2.27 南稚内─抜海 P:宮山幸雄
名寄駅でC55同士の交換と発車シーンを撮影後、急行「天北」で追いかけ音威子府で撮影。駅構内を出ると上り勾配になるのでC55は力を振り絞り進んで行きました。 '72.12.26 音威子府 P:千葉武男
音威子府21時44分発、名寄行き378レが水銀灯に照らしだされながら、ゆっくりと発車して行きました。撮影を終え見送っていると、投炭するたびに線路際の雪の壁がオレンジ色に光っていました。 '75年 音威子府 P:吉葉富雄
最果ての路線にあこがれ、2度目の北海道は真冬の宗谷本線に行った。札幌からの夜行列車で南稚内に降りた同好の士は約30人、それぞれ好み場所へ散った。初めての場所で失敗を恐れ、手堅くカーブでC55をねらった。 '73.1.2 抜海-南稚内 P:中島正樹
D51の牽引するDD53の補機付貨物列車が塩狩峠に消えるのをいつまでもファインダーで追っていた。警報機が鳴り止み、凍てつく踏切を子供たちと渡る母親。氷点下、D51の排出した水蒸気が凍り、ダイヤモンドダストのように輝き落ちる北国の夕暮れ。ふと、心が和む一瞬だった。 '74.3.22 和寒 P:齋藤孝行
無ダイヤ状態の猛吹雪の中、発車して行く9600。 74.1 抜海 P:川瀬 剛
北海道撮影に行くなら、母の実家にもよって行けといわれ、稚内に来たのは1969年9月。朝のC55を撮影すると、特に行く所もない。ダイヤを見ると、貨物は稚内まであるので、すべて9600だと思って待っていたら、来たのはDD14 5だった。なじみのない機関車だけに、最初見たとき何が来たのかと思ったほどだった。多分9600は南稚内までで、その先は稚内の先に、貨物扱いの操車場があり、入換えをかねて、牽引機が変わったのだろう。今見ると2軸貨物ともども、懐かしい編成である。 '69.9.30 稚内 P:志井純一
旭川発稚内行の列車は285キロの道のりを8時間かけ走破するが、まだ行路の3分の1に過ぎないこの駅でカマ替えと給水を行う。多くの諸兄がその光景にカメラを向けられたことだろう。 '74.8.26 名寄 P:井芝七路