国産タンク機関車のC11、C12に先立って製造されたC10、五日市線や会津若松、品川で見かけたことはあったが、米沢機関区訪問の折り偶然遭遇する機会があった。除煙板は追加されていたが希少価値のあるカマである。 '61.12.29 米沢 P:中島正樹
2012年2月アーカイブ
知り合いの車内販売員さんが今日は乗っているとのこと。区の若い衆が手を休めて構内からお見送り。彼女たちもデッキから笑顔を返してくれていた。伊東発日光行、準急「湘南日光」。 '68.9.5 国府津機関区 P:青木一郎
雪が舞う生野駅でC57 11の貨物列車が待避しています。生野駅は構内外れから直ぐに始まる勾配のために駅本屋の東側に行き止りの待避線が別に設けられ、この691レはC57牽引の客レ631レが生野駅を出発するとシズシズとバックして本線へ出て行きます。 '72.2.20 生野 P:髙橋 明
画面右はC11 261牽引で到着した622列車。画面左はゾロ目のC11 11牽引で発車する623列車。DE10による無煙化を1週間後に控えて最期の活躍を見せる。 '71.4.18 米子 P:石原裕紀
昼下がりの南延岡駅構内に、旭化成所有のスイッチャーが現れた。外観からすると蓄電池式機関車だと思われる。化成品製造工場内は火気使用が厳しく制限されているのだろう。調査を怠り、今も?のままの機関車である。 '73.9.15 南延岡 P:藤田高士
永らく宮原で活躍したゴハチ139号機も、晩年は竜華区。ブタバナながら、原型小窓の好ましいスタイルで、阪和貨物を牽いていました。 '79.10.22 浅香-杉本町 P:中司純一
荷物電車にはあまり興味を示さなかった頃、地元を走るクモニ83が新性能化されることを聞き、それから短い期間ではあったが、都合がつけばカメラを向けて荷物電車の晩年を記録した。旅客電車の最後部や最前部に連結され、吊掛けモーターを唸らせながら113系らと手を組んで疾走する姿に、老いてなお現役であることを感じていた。 '85.5.8 熱田-名古屋 P:鵜飼功一
名古屋駅を見下ろすビルの屋上は絶好の俯瞰ポイント、土曜の午後の楽しみは58重連の急行「ちくま」とEF61の荷物列車、合間にもEF65FとEH10の重連貨物が来るなど飽きることはなかった。 '75.7.19 名古屋 P:服部基寛
渓谷に轍の音が響きわたり列車が近づいて来る気配。これが福知山線最後の蒸機になるかもしれない!と思うと、いつも以上に緊張感が高まります。そんな中、篠山川第一橋梁上にツンと澄ましたC57が姿を現わしました。 '72.8.22 丹波大山-下滝 P:高橋 明
一夜の宿を鈴虫の音色に包まれた特牛駅待合室で過ごした朝、白々と夜が明ける峠道をD51牽引の客車列車が、朝露を踏みしめ颯爽と走って行きました。何年経っても鈴虫の音色を聞くと思い出す場面です。 '74.9.30 特牛-滝部 P:衛藤哲也
夏休みに東北地方へ旅行の途中に、スイッチバックで有名な中山宿駅で途中下車。D51牽引の上り旅客列車が下ってきました。この列車はい一旦引き上げ線に入って、バックで構内に進入してきます。 '66.8 中山宿 P:中川弘一
初の渡道直前、前日から揺られ続けた急行「きたぐに」の自由席でしたが、終着の一歩手前で途中下車。「日本海」と「津軽」を撮ってから、青森に向かったのでした。 '79.7.30 石川-大鰐 P:中司純一
沼津駅の入換え用にC58、C50が活躍していた。ちょうど入換え間合いの給水、給炭か。薄い煙は一休みの様相。手前の人たちは別の車輌の到着待ちの様で、こちらも小休止。C58 365、C58 116ほか。 '67.10.10 沼津機関区 P:青木一郎
急行「大雪5号」を北見で下車し、相乗りタクシーで緋牛内まで先回りしましたが、機関士さんのサービスドレインで、肝心の寝台車、グリーン車が隠れてしまい痛し痒しの一枚になってしまいました。 '75.3 美幌-緋牛内 P:吉葉富雄
前日22時10分に大阪を出発した急行「きたぐに」は、新潟で寝台列車を5輌を切り離し羽越、奥羽本線は12系とグリーン車の連結で運行されていた。青森着は17時09分。まもなく1052kmの走破する。 '77.9.8 陣場-津軽湯の沢 P:武者秀男
半日走り続けて秋田駅に到着した4001レ特急「日本海2号」。ここからはED75にバトンタッチして青森を目指す。終末期の喧騒とは無縁のごくありふれた光景が広がっていた頃です。 '78.9.26 秋田 P:鈴木博之
ローカル線乗りつぶしにもってこいの列車に乗りました。矢部線で一往復の後、そのまま佐賀線を経て佐賀に向かう車輌運用となっており、そのとおりに表示されたサボが面白く、ついカメラを向けました。今では2線とも廃止されて過去のものに。 '85.3.8 黒木 P:鵜飼功一
越後金丸で下車、玉川口寄りに撮影場所を探していた時、雪中を静かに忍び寄って来た下りラッセル車に遭遇。後追いであわててシャッターを切ったが、幸い背景には荒川のダム湖や雪山がうまく取り込めていた。 '64.2.19 越後金丸-玉川口 P:中島正樹
朝方の豪雪でラッセル車を押して十日町までやって来た。午後から越後川口まで貨物の運用が待っている。十日町機関支区でしばしの休憩。 '71.12 十日町 P:都築雅人
当時函館本線小沼湖畔で、DD51牽引の貨物列車と旅客列車の並走シーンを見ることが出来ました。まず、ゆっくりと視野に現れる貨物列車。そして、後方からローカル客車列車が追い抜いていくシーンは、さながらショーを観ているよう。しかし、これが日常の光景でした。 '79.8.2 七飯・仁山(信)-大沼 P:中司純一
下りブルトレを牽引するため、上り仕業後に回送されてきた、関門トンネルの水先案内人EF81+EF30×2です。この3輌は、「みずほ」「富士」「あさかぜ1号」の順で、九州に向かって、下関駅4番線を出発して行きました。 '78.11.5 下関 P:小林慎治
嵯峨駅から花園寄りの踏切沿いで待機していると、お母さんと子供さんが最後の雄姿を見にこられた。明日の朝からはこの汽車は赤いディーゼルに牽かれてやって来る。 '71.4.25 嵯峨-花園 P:石地康司
EF58の牽く臨時特急「金星」目当ての撮影行、美しい雪晴れのカーブに現れたのはEF65F機、単機だったのが悔やまれる。 '75.1.12 柏原-近江長岡 P:服部基寛
石北本線の常紋信号場へD51貨物を撮影のために、生田原駅で普通列車を待つている時の駅風景です。大半の旅客列車は既にDL化していました。 '75.3 生田原 P:中川弘一
中学生の頃、父のオリンパスペン(ハーフ)を借りて撮影しました。連結器まわりのにぎやかさが印象に残っています。日付はわかりませんが、ノートに「あかつき7」と書かれています。 '72春 三宮 P:坂下考伸
吹雪により不通となった宗谷本線に現れたのは複線型ラッセルヘッドのDD15だった。希望を言えばキ100が来て欲しいところなのだが、抜海駅で身動きが取れない状態では贅沢は言えなかった。 '74.12.25 抜海 P:田中一弘
青森から流れて来たC61を撮りに宮崎へ、やって来たのは12系を牽くC61 20だった。この姿が再び見られるとは! '73.8.18 宮崎 P:木部智司
加太の築堤で貨物列車を撮影後、中在家信号場の発車シーンを撮るために約1000mのトンネルを小走りに駆け抜けました。交換列車通過後、荷物列車はスイッチバックの信号所を猛烈にダッシュして峠のトンネルに吸い込まれて行きました。 '73.4.2 中在家信号場 P:武者秀男
まだ腕式信号機が活躍していた頃、上りDCが到着すると、それを待って静かな山々に突然ガシャンと大きな音が響きと共に腕式信号機が下がった。汽笛、ドレインを吐いて走ってきた。カメラマンもいない、今で考えられないような、出発風景であった。 '72.8.4 会津宮下 P:渡部 司
新改駅は静かな山の中。駅前の店でおやつにミカンを買った。一袋100円だったかな? スイッチバックの駅は私一人の撮影場だった。 '78.12.25 新改 P:野々村康久
東山三条で京津線と市電東山線が平面交差していて、ゴトゴト大きな音を立てながら通過する風景は見飽きませんでしたが、車の往来が多く撮影は困難でした。 '78.9.10 東山三条 P:鈴木博之
鶴見線の支線海芝浦行きホームにいる時、安善方面からC11牽引の貨物列車が走ってきた。線路を引き込む工場が多く、この先どこまで行くのであろうか。ホームに電車を待つ乗客は目の前を通るこの列車には全く無関心。 '64.4.11 浅野 P:中島正樹
列車が到着すると駅員さんが構内の外れまで来て転轍機を起こしポイントを切り替えると腕木の信号機がガシャリと下ります。近郊電車が行き交う今の福知山線にもノンビリとした時間が流れていたものです。上り列車の牽引機はDD51 18号機、下りはDD51 1178号機です。 '78.11 藍本 P:髙橋 明
夜のC62重連は倶知安と決めていた。近くのYHに連泊し、天気の回復を待っての一枚。今、振り返って見ると甘い写真になっているところがフィルム写真の味が出ているような気がする。 103レ 機:C62 44+C62 3 '69.1.3 P:小西 明
C58の牽く上り豊後竹田行746レは勾配に沿って6輌の客車を上下させながら小高い丘を登って来た。当時、はえたたきと藁小積みは当たり前の風景であった。 '70.3 中判田-滝尾 P:小野和俊
山陰本線を益田〜下関間というロングランの蒸気機関車牽引の客車があった時代。長門市駅で機関車交換のためになんと30分の停車。家族連れが、男の子をキャブに乗せてもらっていたところを撮影。自慢げな男の子の顔が印象的だった。 '74.4.4 長門市 P:衛藤哲也
1972年10月1日の羽越本線電化開業前には「日本海」はDD51牽引からEF81牽引に変わり運用開始されていた。この3月のダイヤ改正で「日本海」は不定期寝台列車になってしまう。 '72.9.24 砂越-北余目 P:武者秀男
日光への家族旅行。乗車前に鉄道が好きだった亡き父が撮ってくれた、想い出の一枚です。 '60.10.1 新宿 P:浦上幸彦
88623は撮影した3年前に飯山線で旅客列車を牽いていた。こんなところで出会うとは思いもよらなかった。 '73.5 計石 P:平林寛信
連日の雨。早朝96、D51が牽く2本の貨物が続けてやって来る。空知川の鉄橋が見えそうな丘へとヤブこぎ。朝から大汗かいた。 '75.7 赤平-東滝川 P:都築雅人
東京発呉線経由広島行きの夜行寝台急行「安芸」が呉駅に到着。小休止の後、終着駅広島駅に向けて発車して行きました。 '70.2.15 呉 P:中川弘一
小郡駅で折り返し運転のため停車中の宇部線宇部新川行きです。右側は6年前に開通した山陽新幹線のホームです。 '81.2.8 小郡 P:小林慎治
生野付近を頂点とする勾配もこの付近ではまだ緩く、やや開けた谷間を姫路行きのC55が軽やかに走っている。山間部にはまだ雪が残るもののここでは春も間近い。 '64.3.12 竹田-青倉 P:中島正樹
C57 195が牽く門司港発大分行1521列車。この各停は特急待避、交換のため別府駅で20分も停車する。上り特急「いそかぜ」がやって来た。まだ単線時代の別府駅の昼過ぎ。 '65.10.24 別府 P:青木一郎
気動車の"バス窓"越しに見える、木枠の駅名板。本州最西端のこの駅の周囲では、まだ"ハエタタキ"を見ることができました。 '79.4.29 梅ヶ峠 P:小林慎治
C62重連「ていね」の着発を撮影後、天気も良かったので構内を移動して、後続の列車を待つことにした。その合間をぬって、キューロクに押されたキ700形、通称「ジョルダン」がやってきた。 '68.2.21 倶知安 P:小西 明
ついに実現"C62三重連"。3度運行されたうちの最初の三重連です。私が中学1年の時でした。望遠レンズもなく、連写機能のないカメラで精一杯の一枚です。 '71.7.18 小樽-塩谷 P:佐藤 弘
青い空に碧い海に甍の上を行く「だいせん4号」はいかにも山陰らしい風景です。夏季の間は東浜にも臨時停車するこの列車は豊岡から8輌編成となり福知山線経由で大阪を目指します。 '85.8.5 東浜-居組 P:髙橋 明
夕張鉄道旅客営業最終列車の出発を開放で撮影。当日はセレモニーもなくこれが最終列車とは知られずに何気なく発車していく姿が心に残っています。 '74.3.31 野幌 P:千葉一郎
まだ暑さが残る初秋の一日、松島湾ではヨットの帆が多く見られ東北の最後の夏を楽しんでいるようだ。72系ゲタ電4連が松島海岸駅にまもなく到着する。 '77.9.3 松島海岸 P:武者秀男
堂々とした木造二階建の釜石機関区事務所棟。屋根には鴎が羽を休めている。釜石線列車内から撮影した。 '77.8 釜石機関区 P:藤田高士
ク5000で編成された自動車輸送専用列車を牽引するEH10+EF65F(521)重連。 '75.10.25 木曽川-岐阜 P:服部基寛
1985年3月14日、東海道新幹線にてダイヤ改正を記念した「横浜市民号」が運転された。せっかく列車名が付けられているのだからヘッドマークでも描かれていれば面白いな、と淡い期待をしつつ、あいにくの雨にもかかわらず足を運んでみたら、まさか本当に付けられて来るとは驚きであった。 '85.3.14 名古屋 P:鵜飼功一
三見駅でのD51貨物との列車交換を8㎜で狙う前に新大阪行きキハ82系「まつかぜ2号」を撮ったもの。この当時は7輌編成にグリーン車、食堂車がついていた。 '74.9.15 三見-飯井 P:宮山幸雄
1983年夏、青函航路下り函館行き八甲田丸船上から、青森行き羊蹄丸、背景は函館山です。 '83.8.12 P:杉山孝士
当時から線路に接近してのお召列車の撮影はまず無理でした。土砂降りの中、撮影場所に困り、ダメ元でこの地を選びました。巡回中の年輩の警察官が優しく、無事撮影できました。 '86.10.11 高尾-相模湖 P:鈴木敏行
生田原駅の待合室で待っていると夕方の1529レを常紋で撮らないかと誘われた。タクシーを相乗りして峠近くまで行った。貨物列車と違って軽快に駆け上がって来るD51に拍子抜け。 '75.3 生田原-常紋(信) P:都築雅人
デッキ付き旧型電機+欧風客車の夢のような組合せが実現した。仲間たちと撮った感激は、27年経った今でも忘れない。 '85.2.11 群馬原町-郷原 '85.2.11 P:采女 誠
この年のダイヤ改正で14系化されると聞き、20系最後の姿を撮るために大阪駅へ。ところが多くのカメラ小僧がホームに溢れ、やむなく人垣の間からの撮影となった。 '85.3.13 大阪 P:鈴木博之
中二の夏休み、初めて四国に行った帰り、急行券で乗船できる「ホーバークラフト」を初体験しました。波の上を滑るように走る感覚は、今でも鮮明に記憶しています。 '78.7.22 宇高連絡船(ホーバー) 宇野桟橋 P:小林慎治
ものすごい排煙を上げながらトンネルを飛び出し篠山川第一橋梁を渡るDD54牽引の上り普通列車です。この川代渓谷は架線を張られたくらいで今も変わらない風景が展開しています。みぞれ混じりの寒い一日でした。 '75.1 下滝-丹波大山 P:高橋 明
暑い夏の日、DD54の客レに乗って和田山へ来た。和田山機関支区にいたのはDD51。DD54の終焉が近いと感じた瞬間だった。 '77.7 和田山機関支区 P:野々村康久
118レで越後金丸から米沢へ乗車中、小国駅で先行していた貨物列車の隣に停車。貨物列車の陰には9600が待機していて3輌並びが実現した。このカマはやがて118レの前補機となり、宇津峠の勾配に挑んだ。 '65.1.31 小国 P:中島正樹
昭和49年12月22日の筑豊本線「さようならSL」に先立つこと5日、田川線「さようならSL」が定期貨物列車で運転された。平日だったが学校をサボって撮影に出かけた! '74.12.17 崎山-油須原 P:木部智司
午前は根府川で過ごし、この貨物列車撮影のために午後の伊豆多賀へ。タキとヨだけの短編成にガッカリ、なかばヤケ気味にシャッターを押した。 '79.2 来宮-伊豆多賀 P:藤田高士
駅正面には小さな三角屋根を持つ、モダンな感じの駅舎だった。 近くには私が生まれた官舎があった。 駅舎全体を入れよう思ったが、上りの貨物がやってきたので、慌ててシャッタ-を切ってしまった。 明治37年建築の木造駅舎は、新駅ができるまではJR西日本管内の最古の駅舎として存在感があった。 '69.7.16 嵯峨 P:小西 明
呉線電化前日、惜別の装飾を施したC59 161に牽引された下り寝台急行「安芸」は、黒瀬川橋梁を渡り一路終着駅の広島駅に向かいました。 '70.9.30 安芸阿賀 P:中川弘一
ホームは今の青梅駅と同じ位置にありますが駅の売店はまだ健在。当時は駅の山側に青梅電車区があり、その建屋が立川行き40系の後にみえています。 '72.2.9 青梅 P:中安 輝
四国の玄関口高松駅でDMH17のアイドリング音を奏でながら発車待ちの急行「あしずり」。先頭に立つのは信越用に製造されたキハ5716で四国が最後の活躍の舞台でした。 '81.7 高松 P:鈴木博之
うぐいす色の73系、木の床の匂い、よじ登って叱られた車内中央のポール、子供の頃、よく乗った茶色い国電の記憶が車内にはありました。201系がデビューした1979年の一コマ。 '79.8 仙台 P:寶柳仁志
ヨン・サン・トオのダイヤ改正前の沼宮内は、いつも煙でいっぱいだった。ナメクジドームのD51の牽く下り貨物の発車に、ポイント掛が監視をしている。 '67.3 沼宮内 P:高橋孝一
沼津から国府津まで牽引し、機関区に戻ったカマからはシンダー出しが行われていた。スコップから捨てられるたびごとに舞い上がる砂埃状のススに日々のお守りの大変さを思った。924列車牽引機:D52 403。 '67.7.3 国府津機関区 P:青木一郎
岩手山をバックにD51・C60・C61などの重連や三重連をたっぷり撮影したその合間、上りDC特急「はつかり」を撮影。当時は、蒸機の撮影しか頭になく、これらDCやDD51などは、ついでの撮影だった。でも、今考えると「なんということをしてたんだ」と悔やまれます。 '67.8.6 厨川-滝沢 P:高橋孝一
小雪が舞う青森駅で北海道旅行で写し残した増感用フイルムを使い、帰阪のため乗車する14系「日本海」をスナップした時の写真です。背景には「青函連絡船のりば」の案内板や20系客車列車も写っていました。いろいろと思い出が残るこの「日本海」も今年の春の改正で臨時列車となってしまいます。 '74.12 青森 P:髙橋 明
松田駅ホーム脇の連絡線を登ってきた御殿場線直通運転の小田急キハ5102快速準急「長尾」。御殿場線の電化後は3000系や20000系、JR371系と車輌が代わり、また変化の時期を迎えている。 '65.1.10 松田 P:中島正樹