鉄道ホビダス

2011年5月アーカイブ

朝の岩出山

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大河ドラマ「樅の木は残った」で知られる岩出山、陸羽東線初めての下車駅はここと決めた。朝は活気があり上り貨物が側線に待機、そこへ小牛田行きの旅客が到着し、一足先に出発して行った。 722レ・7762レ '71.2.11 岩出山 P:中島正樹

C61 28発車

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構内でカメラを構えていると、突然、目の前でドレインが切られ迫力のある一枚となった。次の日、勤務する機関区から戻った親父(機関士)に「気を付けて撮れよ」と言われた。親父に生前、C61 28はその後、青森と宮崎に移動したと教えたら懐かしそうに「ほお―」と言っていた。家の床の間には実物大のダミーC61 28のナンバープレートがに飾ってある。 '67.5 原ノ町 P:渡部 司

帰省列車入線

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名古屋発北陸線経由青森行き、という今では信じられないロングランの帰省列車、臨時急行「あおもり」が乗客の待つ10番線に入線。臨時列車とはいえ、名古屋近郊から東北方面へ乗り換えなしで行ける貴重な列車でした。 '83.8 名古屋 P:鵜飼功一

名残りのメッセージ

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スタイリッシュな彼女のサイドボディはいつも煤で汚れていた。ポケットティッシュで少し拭いてあげたが、よけいに醜くなくなった。明り採りのガラスに最後のメッセージを残した。私の右ひとさし指は真っ黒だった。1週間後、彼女は定期運用から外れた。 '78.6 姫路 P:野々村康久

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中学2年の夏休み、キャノンAE-1購入の直前にリコーオートハーフで撮った一枚。早朝から賑わいを見せる当時の上野駅がなつかしい。 '76.8.11 上野 P:菅沼理也

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複々線区間で、9600同士のすれ違いに巡り会った。手前は若松から直方方面へ、向こうは鹿児島本線に入り、門司港方面へ向かう。 '71.4 折尾-中間 P:藤田高士

寒い朝

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信号扱い所と連携をとりつつ広い構内を行き来する入れ替え機のキューロク。建屋の大きなツララを見ると雪国の厳しい冬の冷気が今でもよみがえる。 機:49617 '66.12.27 岩見沢 P:青木一郎

C58 112

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今は線路すらなくなってしまった総延長40㎞ほどの志布志線。超ローカル線でもC58が最後の活躍をしていた、粋な門デフを備えた112号が峠のサミット目指し勢いよくやってきた。 '74.3.22 大隅松山-岩川 P:服部基寛

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蒸し暑い夏の一日の始まり、開け放った窓からの風はなく、発車が待ち遠しい様子。日中に撮ることが難しく、この日は早起きしてやっと撮影できた。 '78.8.28 岡南福田 P:鈴木博之

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短いが、美しい編成で坂道を駆け下りてくる急行列車。最盛期には10輌以上もの編成で、ホームからはみ出て停まることもあった急行「みささ・みまさか」。この頃は、まさに最後の輝きを放っていたと思う。 '82.6 播磨徳久-三日月 P:芝地寛之

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東京オリンピック開催時、東京〜熱海間で運転された、臨時特急「オリンピア」の晴れ姿です。 '64.10.15 田町電車区 P:阿久津 浩

千葉のC57 1

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鉄道100年記念特別列車を車に同乗させていただき1日で4回撮影。この頃は総武本線は未電化で電化柱は立っているが、架線がじゃまにならずとらえることができた。 '72.9.30 八日市場-干潟 P:宮山幸雄

DD51進入

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高校1年の夏に丸瀬布森林公園の雨宮21号を見に行ったときの帰りに丸瀬布駅での待ち合わせの合間に撮影したものです。朝、札幌を出発して丸瀬布まで列車での往復と、駅から公園まで片道は徒歩だったのでヘトヘトになった思い出があります。 '82.8 丸瀬布 P:鈴木岳人

夏井渓谷を行く

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沿線の夏井渓谷が美しい江田-川前を撮り歩いた。ここは江田から川前に向かって登り勾配が続き、渓谷をバックに入れることができる。やって来たD60牽引の郡山行き旅客列車は回送客車を含め8輌の長い編成であった。 '65.10.24 江田-川前 P:中島正樹

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陸中松川駅に戻って入れ替えに働くD50 346を撮る。このカマはテンダーがバック運転に適するように切り取られているので有名だった。 陸中松川には東北開発のセメント工場があって駅構内は広い。 '67.10.11 陸中松川-岩の下 P:米本健一

冬の晴間

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下り「ニセコ3号」の撮影は逆光となった。白黒フィルムは上り「ニセコ1号」のために残したので、二眼レフ(アルペンフレックス)のカラーでの撮影となった。レンズの性能上線路脇まで行った。列車の通過前あたりから、薄雲がうまく午後の日差しを和らげてくれた。機:C62 3〔築〕 '71.1.5 大沼付近 P:小西 明

雪の生野越え

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C57が来る直前に見えないくらいの大雪になり、慌てて線路際まで行って撮りました。 '71.1 生野-長谷 P:川瀬 剛

冬の羽幌線

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日本海のほかにはこれといった見どころもなく地味な印象が強かった。日本海からの冷たい風が吹き荒む高台に立つと海に面した寒村が眼下に広がっていた。 '81.2.19 鬼鹿-力昼 P:寺沢秀樹

父の思い出

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「第1みちのく」を牽引して原ノ町駅に到着。乗務員の交代を行って出発を告げるブザーの音とともに汽笛。乗務員の交代を行って機関区に戻る機関士は、偶然にも私の親父であった。なつかしい想い出であった。 '67.8 原ノ町 P:渡部 司

庫のC51

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奈良機関区へ蒸気機関車を写しに行きました。助役室へ行って話をすると「住所と名前を書いといて」だけだあとは自由に見学できました。 '61.12.3 奈良機関区 P:青山春樹

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セノハチの勾配区間を行く1016M「つばめ4号」。直前まで瀬野西トンネル上から撮影していたが、線路の下の家を画面に入れないように下りて撮影した。 '74.10.5 瀬野-八本松 P:鈴木博之

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小田急からやってきたSSEは短い間でしたが、奥大井の谷間にミュージックホーンを響かせて活躍していました。 '84.9 大井川鐵道 P:幾代 裕

冬の風物詩

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ゴハチの冬の風物詩といえばSG。特に雨の日は濛々と白煙を上げていました。知らない人はSLが居るの?と言う声も聞こえました。隣の181系はまかぜもよく今日まで頑張ったと思います。その181系も引退し、新しい駅ビルが建った大阪駅。この風景も過去のものとなりました。 '84.2.26 
大阪 P:川村一信

三重連再び

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東北本線全線開通80周年記念で運転されたD51 1号機を先頭にした三重連運転。あいにくの雨降りの中、待つこと5時間あまり。勢いよく煙を出して現れた三重連はカーブにさしかかった直後、先頭機はドレーンを勢いよく吐き出し、三重連の姿が見えなくなり、がっかりしたファンが多かったのではないかと思います。ドレーンを吐く直前に何とか撮影できたシーンです。 '71.9.26 御堂-奥中山 P:武者秀男

列車交換

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保津峡駅からの山陰本線での帰り、丹波口駅で下りのC57 152の牽く列車との交換風景を客車内から写しました。 '62.6.24 丹波口 P:青山春樹

初夏の混合列車

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定期貨物列車に客車を併結させた臨時の混合列車。雄大な景色の中、木々は着実に夏模様への兆し。南アルプスの山々を後方に望み西川鉄橋を渡る。183列車 機:C56 149。 清里-野辺山 P:青木一郎

ゴハチ颯爽

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13輌の長編成、ゴハチ牽引は迫力満点。中学生時代ブルトレに憧れていた一人でした。自宅は近くで早朝撮影になんどか挑戦していました。思い出のある寝台列車「日本海」は今なお現役です。 '73.7 膳所-大津 P:原田敬司

中国山地の山ふところで

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終日沿線を撮り歩いて備後落合駅へ戻る途中、山の斜面に架かるコンクリート橋で貨物列車を迎え打った。本務機C58、後部補機8620でローカル線とは思えぬ長い編成、傾きかけた西日にぎらりと輝く車体が印象的だった。 '64.3.7 備後落合-道後山 P:中島正樹

夜のC58 33

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天候が安定していた日に初めての夜間撮影にチャレンジ。北見から「大雪」になる1528列車と交換シーンを想定。停車時間の関係でC5833が牽く1595列車をじっくり撮影することができた。  '75.3.1 呼人 P:宮山幸雄

「あさかぜ」西へ

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「あさかぜ」の最盛期は、上り下りとも、1号から3号までありました。下関発着の"東京ブルートレイン"は、関っ子の私にとって、あこがれの夢列車でした。 '78.4.23 新下関-幡生 P:小林慎治

雪晴れの上目名

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憧れのC62 の2号機が前補機で、本務機は32号機。まさに「ジェット機」のような走行音で通過していった。ここ数日は比較的暖かかったのだろうか、線路の真ん中の雪は消えていた。 '68.4.4 目名-上目名 P:高橋孝一

C57三重連

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臨客用の回送機を併結したため思いがけずの三重連が実現した。同好の士が多く集まる中、列車が近づくにつれ周りからの高まりつつあるシャッター音に急かされてしまい、見込んだ位置より早く押してしまった思い出。636列車 機:C57 156+C57+C57。 '72.2.29 新井-生野 P:青木一郎

南紀のゴハチ

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紀勢本線ではEF58+旧客の普通列車が運転されておりました。狭い前端バリが特徴の39号機が来るので、つらら切り・正面窓下の手すり無しを強調するため、広角レンズで撮影をしました。 '84.3 田並-田子 P:采女 誠

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甲子園口駅前の商店街を通り抜けて阪神国道に出ると上甲子園の停留所があり、31形が止まっていた。土曜日のせいか国道を走る車も少なく、まだまだ活躍できそうな気がしたが、1975年5月に全線廃止された。 '74.3.2  上甲子園 P:鈴木博之

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炭砿地帯の鉄道ゆえに最後まで蒸機が残っていた。夕張から国鉄線とほぼ併走していた路線は、若菜から大きく分かれ平和で後補機を付けて山越えに入る。本務がDLに変わっても蒸機NO.21は補機としてここで待機、その脇を夕張へ向けて下りNO.26が発車して行く。 '75.1.31 平和 P:中島正樹

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川越線が非電化の頃の大宮機関区は96のねぐらでした。彼らに交じって、入換え等にせっせと働くディーゼル機関車も異色の存在でした。 '69.6 大宮機関区 '69.6頃 P:大沢 彰

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東海道線の膳所から浜大津まで大津支線、京阪電車の石山坂本線の石山寺方面行きの線路が3線区間になっていてハチロクの牽く貨物、それに江若鉄道のDCが走っていました。 '62.8.13 大津支線 P:青山春樹

雨の生野越え

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雨の生野峠をC57が単機で登って来た。何度も何度も空転を繰り返し、空転する度ドラフト音が消え、再びゆっくりと動き出す様は見ているこちら側まで力が入りました。 '72.6.12 新井-生野 P:高橋 明

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夏休み友人と2人で行った足尾線。原向駅から国道をしばらく歩き、線路を見渡すお立ち台へ。沢に沿って谷間をゆっくりと走るC12はまるで模型のようでした。 '70.8.27 沢入-原向 P:鈴木一平

マンモス機奮闘

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周りは背丈ほどの林が密集していて仕方なく線路際でD52を待ちました。 D51貨物列車がよい煙で露払い、ほどなくすると期待通りの爆煙で目の前を通り過ぎて行きました。 '73.3 渡島沼尻-鹿部 P:川瀬 剛

2輌のC57

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中学3年の夏休み、一人で九州の蒸気機関車を撮影に行った。太陽が傾き始めた頃、ようやく到着した宮崎で表情の異なる2輌のC57が出迎えてくれた。  '71.8.21 宮崎 P:石田哲彦

「北星」は北へ

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日の長い夏場でないと撮影できない、小牛田発4時20分の石巻線C11重連の発車を撮影後、寝台急行「北星」の発車を待ちました。小牛田発は4時28分。ED75重連に牽かれた寝台11輌+荷物車1輌の12輌編成の寝台列車は北へ向けて徐々に速度を上げて行きました。 '73.7.8 小牛田 P:武者秀男

夕暮れの畝傍駅

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自宅から最寄だった桜井線畝傍駅。当時、すでにこの駅での貨物扱いはなくなっていたように思いますが、夕方、DE10牽引の下り貨物列車が今は轍となっている3番線で20分程度退避しました。撮影場所は、貨物全盛期に入換えでの踏切長時間閉鎖の対策で設けられていた駅東側の跨線橋。 '77.12.2 畝傍 P:武田知之

「有明」との出会い

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九州内の特急として誕生した「有明」は一般公募で命名された。公募のパンフレットは今も大切に持っている。1往復の設定のためなかなか撮れなかったがやっと駅交換で撮ることが出来た。 '70.3.27 上伊集院 P:内田博行